カフカの長編3作を読んだので、次は『変身』である。これは短いし、有名だから、読んでる人も多いだろう。僕も若い頃に読んだ。「若い頃」というのは、中学とか高校時代である。「文学」に関心を持ったら、まず読むべきいくつかの作品という感じだった。読んでみたら面白かったし、小説というのはこういうことも書けるんだと深い印象を受けた。まあ知っている人が多いだろうけど、ある朝目覚めてみるとグレーゴル・ザムザは自分が虫になっていることに気付いたのである。(主人公をグレゴール・ザムザと覚えている人が多いと思うが、池内紀訳ではグレーゴルと表記されている。)
ほぼ半世紀ぶりに読んでみて、やはり傑作だと思った。最近谷崎潤一郎の『春琴抄』を読み直したが、あれも傑作だった。正直言って、どっちも古くなった気がしたが、「今読んでも傑作」という評価は間違いないと思う。この小説は生前に出版されている。1912年に書かれて、1915年に雑誌に掲載、同年に刊行された。この年は第一次大戦のさなかである。オーストリアと戦争していたイギリスやフランスで読まれるわけがない。それでもカフカは生前には全く知られなかったという訳ではなく、ちょっとは読んでた人もいたのである。ただカフカは表紙に「虫」を描くことを認めず、扉を前にした家族を描いている。
この「虫」とはどんなものだろうか。そこは詳しく書かれていないのである。だからカフカは表紙に虫の絵を描くことを認めなかった。第二次大戦後は各国で翻訳され虫の絵もあるが、大体カブトムシみたいなものだろう。体が硬い殻に覆われたらしいから、トンボや蝶ではなく甲虫類なのだろう。人間が虫になったというと、人間大の大きな虫かと思うと、箱で持ち運べると書かれているから小さいらしい。その割に人間の言葉は理解出来ているし、どう理解するべきか。まあ「奇想」を書いてるだけで、合理的な理由があって虫になったわけじゃないからやむを得ないんだろう。
『変身』は三人称で書かれている。よってすべてはグレーゴル・ザムザの妄想、思い込みだという解釈は成立しない。「虫になったと思い込んだ主人公」じゃなくて、「虫になった主人公」と解するのが小説読解のルールだろう。実際に小説内では主人公以外の家族がヌメヌメとした動いた跡などを見ている。そうなると、部屋に入って小さな虫しかいないのを見て「グレーゴルが虫になった」と思った理由が今ひとつ判らない。まあ、そんなことを気にする必要もないだろうが。
今回この小説を再読してみて、これは家族の側から読み直す必要があると思った。今までは「虫になった主人公」という視点で読まれることが多かったが、ホントは「生計維持者が働けなくなってしまった家族」の話なのではないか。父はいろいろあって仕事を引退して家でブラブラしていた。母は病弱で、妹はまだ学生。将来は音楽学校に行きたいと思っているが、経済的に難しい。主人公の兄は何とか行かせてやりたいと思っている。主人公はセールスマンとして認められ、安定した職場にいる。そんな家族の中で生計を維持していた主人公が突然働けなくなってしまったのである。
それも「虫」になったという理由で。これは比喩的に言えば「統合失調症」や「ハンセン病」のような、単に難病である以上に「人々に忌避された病」になったというのと似ている。そこまでではなくても、突然「引きこもり」になって家から出られないとか、あるいはさらに悪いことを想像すれば「子どもが犯罪者になってしまった」とか。小説内で家族の苦しみは単に家族が「虫」になったというに止まらず、それを誰にも言えず隠し通さなければならない「恥ずかしい出来事」だということにある。
家族は生計を担当していたグレーゴルが働けなくなって、否応なく新しい事態に対応せざるを得ない。妹は店員として働き始め、父も警備の仕事を見つける。一家は新しい事態に適応して出発していくのである。そうして家族が新しい段階に入ると、グレーゴルのことは後景に退いていって終わりが来る。ちょうど『どうしたらよかったか?』という映画を見たばかりということもあるが、家族に起こった出来事しては、ほぼ同じだと思った。もちろん違う点はいっぱいあるが、家族に突然「何か」が起こって家から出られなくなるという点では同じだった。つまり、本当は『変身』は家族の苦しみと変容を描く小説だったのではないか。