2023年12月の訃報。2回目は日本関係者。まず直木賞作家の西木正明が12月5日に死去、83歳。誰もが知る人気作家じゃなかったろうが、僕はずいぶん読んできた。現代史に材を取った「ノンフィクション・ノベル」が持ち味だった。「レポ船」(ソ連に情報を流すスパイ船)を扱う『オホーツク諜報船』(1980)で日本ノンフィクション賞新人賞を受けて注目され、1988年に「凍(しば)れる瞳」「端島の女」で直木賞を受賞した。心に残っているのは1994年の『夢幻の山旅』(新田次郎文学賞)と1999年の『夢顔さんによろしく 最後の貴公子・近衛文隆の生涯』(柴田錬三郎賞)である。前者は辻潤と伊藤野枝の長男辻まことの生涯を描いて感動的。後者は近衛文麿の長男でシベリア抑留で亡くなった近衛文隆を描き、劇団四季のミュージカル『異国の丘』の原作となった。他に『蛇頭(スネークヘッド)』『ルーズベルトの刺客』『其の逝く処を知らず 阿片王・里見甫の生涯』などがある。
(西木正明)
元大相撲の元関脇寺尾の錣山(しころやま)親方が12月17日死去、60歳。元関脇鶴ヶ嶺(元井筒親方)の三男で、長男鶴嶺山(十両)、逆鉾(関脇)と並ぶ「井筒三兄弟」と呼ばれた。小柄な体ながら闘志あふれる突っ張りで湧かせ、イケメン力士として人気があった。寺尾は母の旧姓である。1979年名古屋場所で初土俵、2002年秋場所まで長く土俵を務めた。85年春場所で新入幕、幕内出場1378回は歴代5位。殊勲賞3回、敢闘賞3回、技能賞1回受賞。弟子の阿炎(あび)は新型コロナ対策違反で出場停止になり、処分後の2022年九州場所で優勝した。その頃から不整脈で入退院を繰り返し、その場所も休場していた。
(寺尾=錣山親方)
元公明党委員長の竹入義勝が12月23日に死去、97歳。正直まだ存命だったのかと驚いた人も多いだろう。僕はこの人のことはよく覚えている。自分が住んでいた旧東京10区(足立、葛飾、江戸川)が選挙区だったのである。1967年に初当選以来、1986年まで連続8回当選。1回を除き、すべてトップ当選だった。1967年2月に委員長となり、1986年12月まで約20年間務めた。1970年に政治評論家藤原弘達『創価学会を斬る』をめぐる出版妨害事件で田中角栄(当時自民党幹事長)に藤原との交渉を依頼した。そこから田中との交友が深くなり、1972年には田中訪中に先立ち周恩来と日中国交正常化をめぐる調整を行った。80年代には社会党、民社党との社公民路線を推進した。ところが政界引退後の1998年に、朝日新聞に政界回顧録を連載し、党と創価学会の政教分離の実情をあけすけに語り、党、創価学会から除名されるに至ったのは気の毒で皮肉なことだった。
(竹入義勝)
在日コリアンの作家、元東京経済大学教授の徐京植(ソ・キョンシク)が12月18日死去、72歳。70年~80年代に大きな社会問題になった「在日韓国人政治犯」問題の中でも一番最初に起こったのが、徐勝、徐俊植兄弟の事件だった。徐京植は二人の末弟で、救援運動においても中心的役割を担った。その中で思索を深め、『長くきびしい道のり 徐兄弟・獄中の生』(1988)以来、多くの著作を発表した。『子どもの涙 - ある在日朝鮮人の読書遍歴』(1995)で日本エッセイストクラブ賞、『プリーモ・レーヴィへの旅』(1999)でマルコポーロ賞。僕はきちんと読んで来なかったので、ちゃんとした評価が出来ないが、上の二人が存命なのに一番若い人が亡くなったのを残念に思う。
(徐京植)
元NHK記者で「ニュースセンター9時」初代キャスターを務めた磯村尚徳(ひさのり)が12月6日死去、94歳。この人もまだ存命だったのかと思ったが、ほとんど報道されなかったのにも驚いた。いま考えると74年~77年と3年間しかやっていないのだが、「NC9」のインパクトは大きかった。キャスターがまとめる報道番組は今では民放各社にあるが、当時は初めてで新鮮だったのである。それ以前からワシントン特派員などで知名度があったが、これ以後磯村は全国民が知るような人物となった。そのため、1991年に自民党から都知事選に担ぎ出されたが、4選を目指す鈴木俊一に敗れてしまった。その後、97年から2005年にパリ日本文化会館初代館長を務めたが、国内では忘れられた感があった。
(磯村尚徳)
「アホの坂田」として親しまれたコメディアン坂田利夫が29日に死去、82歳。吉本新喜劇に入門した後、前田五郎と「コメディ№1」(2009年解散)を結成して漫才に転向した。2015年の安藤桃子監督『0.5ミリ』に出演していたのが思い出される。お笑いタレントでは、「ヒップアップ」で活躍した島崎俊郎が6日死去、68歳。「オレたちひょうきん族」で「アダモちゃん」を演じて人気になった。また俳優でスーツアクターの薩摩剣八郎が16日死去、76歳。84年から95年まで『ゴジラ』シリーズで着ぐるみに入って演じた。85年には北朝鮮の怪獣映画『プルガサリ』にも出演している。着ぐるみ以外でも多くの映画、テレビに出ている。
(坂田利夫)
女性陶芸家の草分けといわれる神山(こうやま)清子が22日死去、87歳。信楽焼で、釉薬を使わずの昔の自然釉を再現した。長男が白血病で死去し、骨髄バンク設立運動に尽力した。映画『火火』、朝ドラ『スカーレット』のモデルになった。演出家の藤原新平が17日死去、95歳。文学座で別役実作品の演出を50年にわたって担当した。僕もずいぶん見て来たが、こんな年齢になっていたとは驚いた。農民詩人として知られた星寬治が7日死去、88歳。山形県高畠町の有機農業の草分けで、農民詩人としても知られた。『かがやけ、野のいのち―農に生きる』『自分史 いのちの磁場に生きる―北の農民自伝』など多くの著書を残している。
(神山清子)(藤原新平)(星寬治)
広島商業野球部で選手、監督として優勝した迫田穆成(さこだ・よしあき)が1日死去、84歳。6歳で広島で被爆した。1957年に夏の甲子園で優勝、67年に監督となって73年に優勝した。93年に如水館高校監督となり、同校を8回甲子園に出場させた。
(迫田穆成)
学者ではイスラム教研究者の中村廣治郎が5日死去、87歳。『イスラム教入門』など。東洋史の池田温(あつし)が11日死去、92歳。農業経済学の暉峻衆三(てるおか・しゅうぞう)が22日死去、99歳。妻は経済学者暉峻淑子。
(西木正明)
元大相撲の元関脇寺尾の錣山(しころやま)親方が12月17日死去、60歳。元関脇鶴ヶ嶺(元井筒親方)の三男で、長男鶴嶺山(十両)、逆鉾(関脇)と並ぶ「井筒三兄弟」と呼ばれた。小柄な体ながら闘志あふれる突っ張りで湧かせ、イケメン力士として人気があった。寺尾は母の旧姓である。1979年名古屋場所で初土俵、2002年秋場所まで長く土俵を務めた。85年春場所で新入幕、幕内出場1378回は歴代5位。殊勲賞3回、敢闘賞3回、技能賞1回受賞。弟子の阿炎(あび)は新型コロナ対策違反で出場停止になり、処分後の2022年九州場所で優勝した。その頃から不整脈で入退院を繰り返し、その場所も休場していた。
(寺尾=錣山親方)
元公明党委員長の竹入義勝が12月23日に死去、97歳。正直まだ存命だったのかと驚いた人も多いだろう。僕はこの人のことはよく覚えている。自分が住んでいた旧東京10区(足立、葛飾、江戸川)が選挙区だったのである。1967年に初当選以来、1986年まで連続8回当選。1回を除き、すべてトップ当選だった。1967年2月に委員長となり、1986年12月まで約20年間務めた。1970年に政治評論家藤原弘達『創価学会を斬る』をめぐる出版妨害事件で田中角栄(当時自民党幹事長)に藤原との交渉を依頼した。そこから田中との交友が深くなり、1972年には田中訪中に先立ち周恩来と日中国交正常化をめぐる調整を行った。80年代には社会党、民社党との社公民路線を推進した。ところが政界引退後の1998年に、朝日新聞に政界回顧録を連載し、党と創価学会の政教分離の実情をあけすけに語り、党、創価学会から除名されるに至ったのは気の毒で皮肉なことだった。
(竹入義勝)
在日コリアンの作家、元東京経済大学教授の徐京植(ソ・キョンシク)が12月18日死去、72歳。70年~80年代に大きな社会問題になった「在日韓国人政治犯」問題の中でも一番最初に起こったのが、徐勝、徐俊植兄弟の事件だった。徐京植は二人の末弟で、救援運動においても中心的役割を担った。その中で思索を深め、『長くきびしい道のり 徐兄弟・獄中の生』(1988)以来、多くの著作を発表した。『子どもの涙 - ある在日朝鮮人の読書遍歴』(1995)で日本エッセイストクラブ賞、『プリーモ・レーヴィへの旅』(1999)でマルコポーロ賞。僕はきちんと読んで来なかったので、ちゃんとした評価が出来ないが、上の二人が存命なのに一番若い人が亡くなったのを残念に思う。
(徐京植)
元NHK記者で「ニュースセンター9時」初代キャスターを務めた磯村尚徳(ひさのり)が12月6日死去、94歳。この人もまだ存命だったのかと思ったが、ほとんど報道されなかったのにも驚いた。いま考えると74年~77年と3年間しかやっていないのだが、「NC9」のインパクトは大きかった。キャスターがまとめる報道番組は今では民放各社にあるが、当時は初めてで新鮮だったのである。それ以前からワシントン特派員などで知名度があったが、これ以後磯村は全国民が知るような人物となった。そのため、1991年に自民党から都知事選に担ぎ出されたが、4選を目指す鈴木俊一に敗れてしまった。その後、97年から2005年にパリ日本文化会館初代館長を務めたが、国内では忘れられた感があった。
(磯村尚徳)
「アホの坂田」として親しまれたコメディアン坂田利夫が29日に死去、82歳。吉本新喜劇に入門した後、前田五郎と「コメディ№1」(2009年解散)を結成して漫才に転向した。2015年の安藤桃子監督『0.5ミリ』に出演していたのが思い出される。お笑いタレントでは、「ヒップアップ」で活躍した島崎俊郎が6日死去、68歳。「オレたちひょうきん族」で「アダモちゃん」を演じて人気になった。また俳優でスーツアクターの薩摩剣八郎が16日死去、76歳。84年から95年まで『ゴジラ』シリーズで着ぐるみに入って演じた。85年には北朝鮮の怪獣映画『プルガサリ』にも出演している。着ぐるみ以外でも多くの映画、テレビに出ている。
(坂田利夫)
女性陶芸家の草分けといわれる神山(こうやま)清子が22日死去、87歳。信楽焼で、釉薬を使わずの昔の自然釉を再現した。長男が白血病で死去し、骨髄バンク設立運動に尽力した。映画『火火』、朝ドラ『スカーレット』のモデルになった。演出家の藤原新平が17日死去、95歳。文学座で別役実作品の演出を50年にわたって担当した。僕もずいぶん見て来たが、こんな年齢になっていたとは驚いた。農民詩人として知られた星寬治が7日死去、88歳。山形県高畠町の有機農業の草分けで、農民詩人としても知られた。『かがやけ、野のいのち―農に生きる』『自分史 いのちの磁場に生きる―北の農民自伝』など多くの著書を残している。
(神山清子)(藤原新平)(星寬治)
広島商業野球部で選手、監督として優勝した迫田穆成(さこだ・よしあき)が1日死去、84歳。6歳で広島で被爆した。1957年に夏の甲子園で優勝、67年に監督となって73年に優勝した。93年に如水館高校監督となり、同校を8回甲子園に出場させた。
(迫田穆成)
学者ではイスラム教研究者の中村廣治郎が5日死去、87歳。『イスラム教入門』など。東洋史の池田温(あつし)が11日死去、92歳。農業経済学の暉峻衆三(てるおか・しゅうぞう)が22日死去、99歳。妻は経済学者暉峻淑子。
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