尾形修一の紫陽花(あじさい)通信

教員免許更新制に反対して2011年3月、都立高教員を退職。教育や政治、映画や本を中心に思うことを発信していきます。

沖縄の異議申立て「封殺」の30年ー「現在史」の起点1995年⑤

2025年01月06日 22時18分34秒 | 社会(世の中の出来事)

 阪神・淡路大震災が発生し、地下鉄サリン事件が起きた1995年。青島幸男が都知事に当選し、アメリカ大リーグで野茂英雄が活躍した。すべて前年暮れに「来年こんなことが起きる」などと言っても誰も信じなかっただろう。というか、そもそも誰にも予想さえ出来ないことだった。そんな1995年に、もう一つ重大な出来事が起こったのだが、これは「そういうことが起きてもおかしくない」と思われたか、当初は中央のマスコミでは大きな報道ではなかったと思う。それが1995年9月4日に起きた「沖縄米兵少女暴行事件」である。この事件名はWikipediaにあるもので、一応そう書くことにする。

(米兵少女暴行事件抗議デモ))

 もちろん似たような事件はそれまでも起こり、その後も起きてきた。沖縄の歴史は長い苦難の連続で、何もこの30年に限ったことではないとも言える。薩摩藩の琉球侵攻(1609年)以来約400年、明治政府による「琉球処分」(1879年)以来約150年。米軍による「沖縄戦」(1945年)以来、80年。沖縄民衆の「異議」はすべて「ヤマト」によって「封殺」されてきた歴史だろう。沖縄民衆の抵抗運動も「島ぐるみ闘争」(1956年)など長く続いてきた。しかし、「現在史」として今に続く「沖縄問題」は、1995年に始まったと言って良いのではないかと思う。

 事件はあまりにも残忍なものだった。買い物をしていた12歳の少女(小学生)が米兵3人に粘着テープで顔を覆われ拉致され、基地内で借りたレンタカーで海辺に連行され暴行されたのである。沖縄県警は強姦致傷、逮捕監禁罪で逮捕状を請求したが、日米地位協定の取り決めによって、日本の捜査当局は被疑者米兵の身柄を確保して取り調べを行うことが出来なかった。県民の怒りは沸騰し、県議会初め各自治体で抗議決議が採択された。10月21日には宜野湾市で県民総決起大会が開会され、大田昌秀知事初め8万5千人が結集した。これは「本土復帰」(1972年)後の最大規模の抗議集会だったのである。

(1995年の県民大会)

 さすがにこの頃には本土マスコミも大きく報道し、地位協定改定を求める声が高まった。当時の大田昌秀知事は、沖縄戦研究で知られた学者で、「革新統一候補」として1990年に知事に当選した。沖縄の米軍基地は土地提供に応じない「反戦地主」が多くいて、その場合は「駐留軍用地特別措置法」によって市町村長が代理で署名し、市町村長が拒否した場合は県知事が代理署名することになっていた。しかし、大田知事は県民の激しい反基地感情を背景に、11月27日に「代理署名拒否」を明らかにした。国の職務執行命令も拒否したため、国は行政訴訟に訴え福岡高裁那覇支部は国の訴えを認めた。そして1996年8月に最高裁大法廷は全員一致で、国側勝訴の判決を言い渡した。「国の条約履行義務を果たせなくなり公益性を著しく害する」という理由である。

(代理署名をめぐる動き)

 この時は社会党委員長の村山富市が首相を務めていた。沖縄県を訴えたのも村山首相である。社会党左派だった村山が首相になった結果、当時の社会党は党内議論をほとんど行わずにそれまでの「日米安保」「自衛隊」を認めない政策をあっという間に変えてしまった。当時の社会党支持者は、(新進党を結成した)小沢一郎より自民党総裁の河野洋平の方が「まだマシ」という理屈で自社連立を納得させていたと思う。しかし、その結果として村山首相も「国家の論理」に囚われたのである。そして社会党首相を出していた本土の政治状況では、沖縄に連帯する抗議運動はあまり大きくならなかったと記憶する。

 その後、沖縄県の基地負担軽減が大きな課題となり、1997年に橋本龍太郎首相とクリントン大統領の間で「普天間基地移転を含む基地移転案」がまとめられた。普天間基地は沖縄内でも最も危険と言われる基地だが、この時の案ではただの返還ではなく「移転」とされ、移転先は名護市辺野古に決められた。しかし、この問題は沖縄県民の反対を招き、27年経っても解決していない。沖縄県と国に間では何度も裁判となったが、すべて沖縄県が敗訴している。詳しい経過を書くと長くなるのでここでは省略するが、地元名護市長選では直近2回とも自民党支持の市長が当選している。

(辺野古)(沖縄の世論調査=2024年)

 その後も2004年の沖縄国際大学キャンパスへの米軍ヘリ墜落事故など、大問題が起き続けた。8月13日と夏休み中だったので、奇跡的に人的被害が起こらなかったが、普天間基地の危険性をまざまざと実感させる出来事だった。少女暴行事件の経過を見ておくと、起訴後に日本側に身柄が引き渡され懲役6年6ヶ月から7年の実刑判決が確定した。アメリカの記録映画監督ジャン・ユンカーマンによる『うりずんの雨』は刑期終了後の3人を追っている。一人は再び暴行・殺害事件を起こし自殺していた。一人は取材を拒否したが、一人の元被告が取材に応じた。全員黒人兵で、来日した家族は人種差別を訴えた。当時の太平洋軍司令官は「レンタカーを借りる金で女が買えた」と発言したことも記録しておかなくてはならない。

(沖縄国際大学米軍ヘリ墜落事故=2004年)

 その後、「台湾危機」が取り沙汰され、米軍だけでなく自衛隊の「南西諸島シフト」が進んでいる。それらの情勢から、沖縄県の米軍基地は「地政学的必要性」があると思っている人も多いかも知れない。しかし、そういう理解は間違っていると考える。米軍は戦争の結果として沖縄を占領し、多大な基地を確保した。その戦争は大日本帝国が国策として始めたもので、その敗北による結果は法的に継続している日本国が引き継いでいる。アメリカは「血であがなった軍事基地」と考えているのだ。米軍基地が沖縄県に集中しているのは、日本が始めた戦争の結末であって日本国に責任がある。


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