尾形修一の紫陽花(あじさい)通信

教員免許更新制に反対して2011年3月、都立高教員を退職。教育や政治、映画や本を中心に思うことを発信していきます。

佐伯祐三展(東京ステーションギャラリー)を見る

2023年02月25日 20時47分58秒 | アート
 東京ステーションギャラリーで開催中の佐伯祐三展を見に行った。(4月2日まで。)佐伯祐三(さえき・ゆうぞう、1898~1928)はパリの街角を描き、30歳で客死した画家だ。そのドラマティックな人生、パリへの憧れなどが気になって、若い頃は展覧会に行ったこともあったと思う。東京では久方ぶりに生涯を通観する展覧会だが、思えば没後100年も近いではないか。
 
 今回は「自画像としての風景」と題されて、一番最初に自画像がまとめられている。それを見ると、若い頃からの透徹した自己省察がうかがえる。佐伯は大阪に生まれ、17歳で東京に出て来た。東京美術学校(現・東京芸大)に学び、卒業後の1924年に2年間パリへ行った。一度帰国した後、1927年に再びパリへ戻り、翌年同地で死んだ。画家としてのわずかな人生の中で、印象的な絵を残したのである。東京に戻った時は、新宿区下落合にアトリエを構え、現在「佐伯祐三アトリエ記念館」が再建されている。近くには中村彝(つね)のアトリエも再現されていて、散歩で訪れたことは「佐伯祐三と中村彝-落合散歩①」(2016.5.16)に書いた。
(自画像)(下落合風景)
 パリではフォーヴィズムの大家ヴラマンクを訪ね絵を見せたところ、「このアカデミックめ!」と罵倒されたと伝えられる。その後、作風に独自性が出て来たのは間違いないけど、佐伯の描くパリ風景はどうしてこんなに暗いんだろう。最初は「壁の町」とまとめられ、確かに家の壁ばかりを描いている。2度目のパリになると「線の町」になる。また町の中にある「文字」が絵に取り込まれているのも特徴だ。それは最初に見た時は実に魅惑的だった。
(「ガス灯と広告」1927年)
 2度目にパリ行ったときに街角を描いた風景画はとても魅力的なものが多い。佐伯も影響を受けたユトリロも思わせるが、佐伯の暗色が多いパリ風景は確かに独自である。20年代のパリはこんなに暗かったのか。というか、夕方や夜を描いているものが多いから暗くなるだろうけど、やはり心象風景なのかと思う。
(レストラン(オテル・デュ・マルシェ)1928年)
 1928年3月頃に結核が悪化し、精神状態も不安定になったという。もう外で絵を描くのも大変になってきた頃、偶然訪れた郵便配達夫をモデルにして油絵2点、グワッシュ1点を描いた。またモデルに使って欲しいと言ってきたロシア人の少女も描いている。それが絶筆になったが、今回チラシにも使われている「郵便配達夫」を実際に見ると、印刷以上に印象的で奇跡的な作品だった。鬼気迫る感じもする絵で、郵便夫は二度と現れなかったことから、佐伯の妻(画家の佐伯米子)は「神様だったのではないか」と言ってるという。その後自殺未遂を経て、精神病院に入院し、そこで妻が子どもの世話をしている間に一人で亡くなった。 
(「郵便配達夫」1928年)
 平日の午後だが、かなり混んでいた。日時予約も可能だが、並んでいれば入れた。3階から2階へ下りる階段は、昔のレンガ壁が残されている。重要文化財だから触るな書いてあるけど。見終わった後の回廊から見下ろす東京駅も魅力。
 (壁)(2階から)
 出れば東京駅が見える。曇っていてあまり見映えしない。今回は地下鉄大手町駅から歩いたので、東京駅には入ってない。中央郵便局に寄って、70円切手を買う。これは「国際郵便のハガキ」に適用される料金である。海外へのハガキというのは、アムネスティの運動として、世界各国の政府に要請を送るのである。毎年秋に出る「国際文通週間」用の記念切手を貼っている。意味ないだろうけど、抗議される側だって記念切手の方がいいだろう。そこから国立映画アーカイブまで歩いて、石田民三監督『花つみ日記』を見た。前に見てるけど、改めて日本映画史上屈指のガーリー・ムーヴィーだなと思った。
 (東京駅)
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