6月15日に母親の一周忌を行った。命日は7月だが、都合で6月になった。個人的な事柄なのでここでは書かないが、これで一応「喪明け」になる。暑くなって疲れたし、昨日は早めに寝てしまった。書きたいことが溜まったので、頑張って書きたい。まずはちょっと前に読んだ「発掘本」の紹介。発掘本と書くのは、珍しいものを見つけたという意味だけじゃなく、ホントに「発掘」したのである。別の本を探してたら、下の方から出て来た。そもそもこんな本を買ってたのを忘れていたのである。
マイケル・ライドン『ロック・デイズ 1964‣1974』(バジリコ、2007、秦隆司訳)という本で、出版社のサイトを見ると今でも注文できるようである。著者マイケル・ライドン(Michael Lydon)は、「ローリング・ストーン」誌の創刊編集者という。60年代初期に大学時代を送り、イギリスで大ヒットしていた「ザ・ビートルズ」に批判的な記事を書いていた。でも卒業してニューズウィーク」の記者に採用されロンドン支局に配属されると、ジョン・レノンやポール・マッカートニーにインタビューして、すっかりファンになってしまった。そして「ロック」専門記者みたいになっていったのである。
(マイケル・ライドン)
次にサンフランシスコに配属され、すぐに1967年の伝説的なモンタレー・ポップ・フェスティバルを目撃した。(この音楽祭の記録映画『モンタレー・ポップ』は最近初公開され、記事を書いた。)つまり、ジャニス・ジョプリンの大熱唱やジミ・ヘンドリックスのアメリカ登場(ギターを破壊して燃やした)、ラヴィ・シャンカールのシタール演奏など「伝説」を目撃したわけである。そして、ジャニス、ジミヘン、ジム・モリソンなどを取材した。前の二人は1970年に亡くなり、ジム・モリソンは1971年に亡くなった。皆「27歳」だったのはよく知られている。(これを「27クラブ」と呼ぶらしい。)その3人を身近に取材できたのである。ジャニス・ジョプリンは「成功の全部が奇妙な感じだわ」と語り、生育歴にも触れている。こんな貴重な本はない。
(ジミ・ヘンドリックス、ジャニス・ジョプリン、ジム・モリソン)
その他、B・B・キングのディープ・サウス巡業公演に同行したり、アレサ・フランクリンをレポートしたりしている。が、なんと言っても一番貴重なのが、1969年のローリング・ストーンズ全米ツァーに同行取材を許された時の記録だ。当時はビートルズ、ボブ・ディラン、ローリング・ストーンズがコンサートを休止中だったが、69年になってストーンズが公演を再開した。そして全米を同行取材することが許された。ライドンの記者人生にとって、最高の日々だろう。そして裏のドタバタ、混乱が記されている。生身のミック・ジャガーやキース・リチャーズを身近に見ることが出来る。当時はブライアン・ジョーンズが急死して、代わりにミック・テイラーが加入したばかりだった。ファンには見えない部分が記録されている。
(1969年のローリング・ストーンズ全米ツァー)
そして、この全米公演の最後に「オルタモントの悲劇」が起こった。著者はその時も一緒にいたのである。それは1969年12月6日、最後に無料コンサートが企画され、暴走族ヘルズ・エンジェルスが、武器を所持していたとして観客の黒人青年メレディス・ハンターを刺殺した。実は大混乱を恐れたストーンズ側がヘルズ・エンジェルスを「警備」担当で雇っていた。ヘルズ・エンジェルスは裁判で「正当防衛」を認められている。しかし、ロック・コンサートで殺人事件が起きたという衝撃は大きかった。著者は事件を目撃した頃を最後に、今度は自分でもステージに立ちたくなっていき、音楽活動を始めたという。
一番最後に「ボブ・ディラン・オン・ツァー」があるが、これは取材ではない。1974年に行われたボブ・ディランの公演は、そもそも記者の取材を認めなかった。著者は自分でチケットを確保して、全部の公演を見たのである。それは記事にはならず、原著で初めて公になったという。このように、マイケル・ライドンは本当に「ロックのその日」を目撃したことになる。出て来ないのは、1969年8月に開かれたウッドストック・フェスティバルぐらいだろう。なぜかは不明だが、著者は基本的に太平洋側で活動することが多かったからだろうか。ディープサウスの様子などを読むと、まだまだ南部は差別に満ちていたことが判る。それにしても、一人でこれほど多くの伝説的ロックミュージシャンに会って取材した人は他にいないと思う。とても貴重な本だ。
マイケル・ライドン『ロック・デイズ 1964‣1974』(バジリコ、2007、秦隆司訳)という本で、出版社のサイトを見ると今でも注文できるようである。著者マイケル・ライドン(Michael Lydon)は、「ローリング・ストーン」誌の創刊編集者という。60年代初期に大学時代を送り、イギリスで大ヒットしていた「ザ・ビートルズ」に批判的な記事を書いていた。でも卒業してニューズウィーク」の記者に採用されロンドン支局に配属されると、ジョン・レノンやポール・マッカートニーにインタビューして、すっかりファンになってしまった。そして「ロック」専門記者みたいになっていったのである。
(マイケル・ライドン)
次にサンフランシスコに配属され、すぐに1967年の伝説的なモンタレー・ポップ・フェスティバルを目撃した。(この音楽祭の記録映画『モンタレー・ポップ』は最近初公開され、記事を書いた。)つまり、ジャニス・ジョプリンの大熱唱やジミ・ヘンドリックスのアメリカ登場(ギターを破壊して燃やした)、ラヴィ・シャンカールのシタール演奏など「伝説」を目撃したわけである。そして、ジャニス、ジミヘン、ジム・モリソンなどを取材した。前の二人は1970年に亡くなり、ジム・モリソンは1971年に亡くなった。皆「27歳」だったのはよく知られている。(これを「27クラブ」と呼ぶらしい。)その3人を身近に取材できたのである。ジャニス・ジョプリンは「成功の全部が奇妙な感じだわ」と語り、生育歴にも触れている。こんな貴重な本はない。
(ジミ・ヘンドリックス、ジャニス・ジョプリン、ジム・モリソン)
その他、B・B・キングのディープ・サウス巡業公演に同行したり、アレサ・フランクリンをレポートしたりしている。が、なんと言っても一番貴重なのが、1969年のローリング・ストーンズ全米ツァーに同行取材を許された時の記録だ。当時はビートルズ、ボブ・ディラン、ローリング・ストーンズがコンサートを休止中だったが、69年になってストーンズが公演を再開した。そして全米を同行取材することが許された。ライドンの記者人生にとって、最高の日々だろう。そして裏のドタバタ、混乱が記されている。生身のミック・ジャガーやキース・リチャーズを身近に見ることが出来る。当時はブライアン・ジョーンズが急死して、代わりにミック・テイラーが加入したばかりだった。ファンには見えない部分が記録されている。
(1969年のローリング・ストーンズ全米ツァー)
そして、この全米公演の最後に「オルタモントの悲劇」が起こった。著者はその時も一緒にいたのである。それは1969年12月6日、最後に無料コンサートが企画され、暴走族ヘルズ・エンジェルスが、武器を所持していたとして観客の黒人青年メレディス・ハンターを刺殺した。実は大混乱を恐れたストーンズ側がヘルズ・エンジェルスを「警備」担当で雇っていた。ヘルズ・エンジェルスは裁判で「正当防衛」を認められている。しかし、ロック・コンサートで殺人事件が起きたという衝撃は大きかった。著者は事件を目撃した頃を最後に、今度は自分でもステージに立ちたくなっていき、音楽活動を始めたという。
一番最後に「ボブ・ディラン・オン・ツァー」があるが、これは取材ではない。1974年に行われたボブ・ディランの公演は、そもそも記者の取材を認めなかった。著者は自分でチケットを確保して、全部の公演を見たのである。それは記事にはならず、原著で初めて公になったという。このように、マイケル・ライドンは本当に「ロックのその日」を目撃したことになる。出て来ないのは、1969年8月に開かれたウッドストック・フェスティバルぐらいだろう。なぜかは不明だが、著者は基本的に太平洋側で活動することが多かったからだろうか。ディープサウスの様子などを読むと、まだまだ南部は差別に満ちていたことが判る。それにしても、一人でこれほど多くの伝説的ロックミュージシャンに会って取材した人は他にいないと思う。とても貴重な本だ。
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