俳優の宍戸錠(ししど・じょう)が亡くなった。1933.12.6~2020.1.21 86歳だった。1月21日に死亡しているのが発見された。「エースのジョー」と言われても、実人生で不死身じゃないのは当然だが、かつての日本映画黄金時代を支えた男優たちがどんどんいなくなっている。やはり女優のほうが長命だ。
(若い頃と最近の画像)
宍戸錠はずいぶんいろんなテレビに出ていた。ウィキペディアを見ると、大河ドラマに6回も出ている。ヴァラエティ番組にもけっこう出ていたが、僕にとっては「日活アクション」を体現したような俳優だった。俳優ランクでは石原裕次郎や小林旭が上だったが、彼らはもっと違った俳優イメージをまとっている。だから作家矢作俊彦が作った日活アクションの名場面集映画「アゲイン」(1984)でガイド役を務められるのは、宍戸錠だったのである。「アゲイン」という映画はもう一回見てみたいもんだ。
宍戸錠は軽やかな銃さばきと孤独な殺し屋が性に合う。そのような身体性を獲得していた希有なアクションスターだった。自ら豊頬手術を受けて、ハンサム俳優から悪役の出来る顔に変えたのは有名な話。その結果、日活アクションの「思想性」を体現する俳優となった。50年代から60年代末にかけて営々と作られた日活アクションは、「人は何のために戦うのか」に関して独自の思想を獲得した。東映の時代劇や任侠映画、あるいは東宝の社長シリーズやゴジラシリーズ、はたまた独立プロで作られていた「良心的左翼映画」の数々。いろいろな映画が作られていたけれど…。
50年代半ばに製作を再開した日活映画だが、当初はヒットに恵まれず苦労した。日活を救ったのは芥川賞受賞作の石原慎太郎「太陽の季節」の映画化(1956)だった。その映画で石原裕次郎が見出された。その結果、当時「太陽族」と呼ばれた「不良少年もの」が識者の非難を浴びながら量産されてゆく。その中で独特の設定が確立され、登場人物のイメージが作られていった。いつまで「不良」でもいられないから、例えば船員となって港町をさすらう。悪いボスが麻薬の密輸などを企み、藤村有弘や小沢昭一がおかしな中国語をあやつり香港の組織を代表する。
横浜や神戸、あるいは時には函館や長崎などで、さすらうヒーローがどこかへ消えて会えない運命の女を捜す。どこにあるともしれない無国籍空間のクラブへ行くと、女は悪いボスに囚われている。そこで大乱闘になるが、卑怯にも主人公を闇討ちするような悪漢に対しては、悪役側であるはずの宍戸錠が銃弾をお見舞いする。なぜなら「プロフェッショナルな殺し屋」の誇りに掛けて、主人公と一騎打ちをするために敢えて主人公を救うのである。もちろん「お約束」により最終的に宍戸錠が破れるとしても、印象深い「不敵な敵役」を演じていたのである。
このように「組織」に雇われていたとしても、宍戸錠は自分自身のために戦う。正義の側に立つ主人公であっても、正義の組織のために戦うのではなく、自分の誇り、自分で決めた生き方を貫くために戦い続ける。そのような「個人主義」的なヒーローを日活アクションは描き続けた。70年代初期に日活が従来の映画作りから「ロマンポルノ」路線に転換した後で、日活アクションの再評価が進んだ。渡辺武信の「日活アクションの華麗な世界」がキネマ旬報に長期連載され、池袋の文芸坐がオールナイト上映を連続して行った。大学生になっていた僕もずいぶん見たが、その結果「日活アクション」の論理と倫理が身についてしまうことになった。「組織」に身を捧げても必ず裏切られるというように。
映画という大衆文化は、作り続けているうちに独自の思想的純化を遂げていく。例えば東映任侠映画だったら「総長賭博」、同じく実録映画だったら「仁義の墓場」のような映画である。日活アクションだったら、「拳銃(コルト)は俺のパスポート」や「殺しの烙印」が思い浮かぶ。「拳銃は俺のパスポート」は、組織に雇われ対立組織のボスをまさにプロの技で消した主人公が、今度は組織に裏切られて追われる姿をモノクロのシャープな映像で描いた。あくまで「個」の才覚で生き抜く主人公は、もちろん宍戸錠。
一方、鈴木清順監督の「殺しの烙印」はパロディが極まりすぎて、社長から「判らない」と宣告されて監督が解雇された。世界映画史上、お蔵入りしたり無断で切り刻まれた映画は無数にあるけど、映画会社から映画内容だけでクビになったのは鈴木清順だけではないか。「殺し屋」など、日本の現実世界では現実性がない。(暴力団が対立組織のボスを殺すのにカネで殺し屋を雇ったら、非難を浴びるに違いない。)だから日活アクションは時間と共に、単なるお約束映画が多くなる。そこで逆手に取ったパロディ化も起こる。そんなときの「自意識過剰気味」の殺し屋こそ、エースのジョーの出番である。殺し屋ランキングをめぐって殺戮が繰り広げられる「殺しの烙印」こそ、宍戸錠にしか出来ない「米を炊く匂いが大好きな殺し屋」だった。
(「殺しの烙印」)
もう一つ、この間書いたばかりの芦川いづみ主演作品、「硝子のジョニー 野獣のように見えて」も忘れられない。この映画は芦川いづみの映画であり、男優としてはアイ・ジョージと宍戸錠のダブル主演になる。もともと「硝子のジョニー」はアイ・ジョージのヒット曲である。ただそれを借りただけで、北海道を転々としながら堕ちてゆく男を演じた宍戸錠も忘れがたい。やはり宍戸錠は他に比べることの出来ない独自の存在だったと思う。
(若い頃と最近の画像)
宍戸錠はずいぶんいろんなテレビに出ていた。ウィキペディアを見ると、大河ドラマに6回も出ている。ヴァラエティ番組にもけっこう出ていたが、僕にとっては「日活アクション」を体現したような俳優だった。俳優ランクでは石原裕次郎や小林旭が上だったが、彼らはもっと違った俳優イメージをまとっている。だから作家矢作俊彦が作った日活アクションの名場面集映画「アゲイン」(1984)でガイド役を務められるのは、宍戸錠だったのである。「アゲイン」という映画はもう一回見てみたいもんだ。
宍戸錠は軽やかな銃さばきと孤独な殺し屋が性に合う。そのような身体性を獲得していた希有なアクションスターだった。自ら豊頬手術を受けて、ハンサム俳優から悪役の出来る顔に変えたのは有名な話。その結果、日活アクションの「思想性」を体現する俳優となった。50年代から60年代末にかけて営々と作られた日活アクションは、「人は何のために戦うのか」に関して独自の思想を獲得した。東映の時代劇や任侠映画、あるいは東宝の社長シリーズやゴジラシリーズ、はたまた独立プロで作られていた「良心的左翼映画」の数々。いろいろな映画が作られていたけれど…。
50年代半ばに製作を再開した日活映画だが、当初はヒットに恵まれず苦労した。日活を救ったのは芥川賞受賞作の石原慎太郎「太陽の季節」の映画化(1956)だった。その映画で石原裕次郎が見出された。その結果、当時「太陽族」と呼ばれた「不良少年もの」が識者の非難を浴びながら量産されてゆく。その中で独特の設定が確立され、登場人物のイメージが作られていった。いつまで「不良」でもいられないから、例えば船員となって港町をさすらう。悪いボスが麻薬の密輸などを企み、藤村有弘や小沢昭一がおかしな中国語をあやつり香港の組織を代表する。
横浜や神戸、あるいは時には函館や長崎などで、さすらうヒーローがどこかへ消えて会えない運命の女を捜す。どこにあるともしれない無国籍空間のクラブへ行くと、女は悪いボスに囚われている。そこで大乱闘になるが、卑怯にも主人公を闇討ちするような悪漢に対しては、悪役側であるはずの宍戸錠が銃弾をお見舞いする。なぜなら「プロフェッショナルな殺し屋」の誇りに掛けて、主人公と一騎打ちをするために敢えて主人公を救うのである。もちろん「お約束」により最終的に宍戸錠が破れるとしても、印象深い「不敵な敵役」を演じていたのである。
このように「組織」に雇われていたとしても、宍戸錠は自分自身のために戦う。正義の側に立つ主人公であっても、正義の組織のために戦うのではなく、自分の誇り、自分で決めた生き方を貫くために戦い続ける。そのような「個人主義」的なヒーローを日活アクションは描き続けた。70年代初期に日活が従来の映画作りから「ロマンポルノ」路線に転換した後で、日活アクションの再評価が進んだ。渡辺武信の「日活アクションの華麗な世界」がキネマ旬報に長期連載され、池袋の文芸坐がオールナイト上映を連続して行った。大学生になっていた僕もずいぶん見たが、その結果「日活アクション」の論理と倫理が身についてしまうことになった。「組織」に身を捧げても必ず裏切られるというように。
映画という大衆文化は、作り続けているうちに独自の思想的純化を遂げていく。例えば東映任侠映画だったら「総長賭博」、同じく実録映画だったら「仁義の墓場」のような映画である。日活アクションだったら、「拳銃(コルト)は俺のパスポート」や「殺しの烙印」が思い浮かぶ。「拳銃は俺のパスポート」は、組織に雇われ対立組織のボスをまさにプロの技で消した主人公が、今度は組織に裏切られて追われる姿をモノクロのシャープな映像で描いた。あくまで「個」の才覚で生き抜く主人公は、もちろん宍戸錠。
一方、鈴木清順監督の「殺しの烙印」はパロディが極まりすぎて、社長から「判らない」と宣告されて監督が解雇された。世界映画史上、お蔵入りしたり無断で切り刻まれた映画は無数にあるけど、映画会社から映画内容だけでクビになったのは鈴木清順だけではないか。「殺し屋」など、日本の現実世界では現実性がない。(暴力団が対立組織のボスを殺すのにカネで殺し屋を雇ったら、非難を浴びるに違いない。)だから日活アクションは時間と共に、単なるお約束映画が多くなる。そこで逆手に取ったパロディ化も起こる。そんなときの「自意識過剰気味」の殺し屋こそ、エースのジョーの出番である。殺し屋ランキングをめぐって殺戮が繰り広げられる「殺しの烙印」こそ、宍戸錠にしか出来ない「米を炊く匂いが大好きな殺し屋」だった。
(「殺しの烙印」)
もう一つ、この間書いたばかりの芦川いづみ主演作品、「硝子のジョニー 野獣のように見えて」も忘れられない。この映画は芦川いづみの映画であり、男優としてはアイ・ジョージと宍戸錠のダブル主演になる。もともと「硝子のジョニー」はアイ・ジョージのヒット曲である。ただそれを借りただけで、北海道を転々としながら堕ちてゆく男を演じた宍戸錠も忘れがたい。やはり宍戸錠は他に比べることの出来ない独自の存在だったと思う。
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