スポーツ関係や1回目に書かなかった人を内外まとめて。まずは第64代横綱の曙太郎(旧名チャド・ローエン)が4月上旬に亡くなり、11日に公表された。54歳。(死亡日は未公表。)ハワイのマウイ島出身で、ハワイ初の関取高見山の東関部屋に入門して、1988年3月に初土俵を踏んだ。昭和63年入門の貴ノ花、若乃花、魁皇など「花の六三組」と競い合って昇進、1990年3月に新十両、9月に新入幕した。92年5月場所で初優勝して大関に昇進、92年11月、93年1月に連続優勝して横綱に昇進した。外国人力士として初の横綱である。当時は92年3月で北勝海が引退して横綱不在で、95年1月に貴乃花が昇進するまで一人横綱だった。
(曙)
として相撲界を支えた。204㎝の身長、223㎏の体重を生かした豪快な相撲で人気があり、貴乃花との白熱した優勝争いが記憶に残る。(曙貴時代と呼ばれた。貴乃花とは21勝21敗だった。)後半は膝のケガに悩まされながら、長期休場が多かったが、2000年に2度優勝した。優勝11回で、2001年1月に引退。引退後は東関部屋に残ったが、2003年11月に相撲協会を退職。格闘技K-1参戦を発表した。しかし大みそかに行われたボブ・サップ戦では1回ノックアウトされた。格闘技は1勝9敗、総合格闘技は4敗で、その後はプロレスラーとして活動した。まだ亡くなる年齢ではないが、心不全だったという。忘れられない相撲取りの一人である。
(貴乃花を圧倒した曙)
1972年札幌冬季五輪で、スキージャンプ70メートル級金メダルを獲得した笠谷幸生(かさや・ゆきお)が23日死去、80歳。この人の名前は、当時を生きていた人には忘れられない。70メートル級(現在のノーマルヒル)は、笠谷が金、金野昭次(こんの・しょうじ、2019年没)が銀、青地清二(2008年没)が銅と日本勢が独占し「日の丸飛行隊」と呼ばれた。90メートル級は7位とメダルを逃した。五輪には4回出場したが、その中で10位位内に入ったのは札幌だけ。まさに札幌五輪のために輝いたのである。北海道の余市高から明治大を経て、ニッカウヰスキーに入社。ニッカでは東京本社広報部長や北海道支社副支社長を務めて1999年に退社。その間に国際審判員の資格を取り、IOC理事、2010年のバンクーバー五輪選手団副団長を務めた。2018年に文化功労者。
(笠谷幸生)
アメリカンフットボールの元スター選手O・J・シンプソンが10日死去、76歳。南カリフォルニア大学で活躍し、1969年にドラフト1位でバッファロー・ビルズに入団してプロ選手となった。プロとしても素晴らしい成績を挙げたが、僕はルールもよく知らず何も言うことはない。この人に関しては、もちろん94年に起こった元妻とその知人を殺害した容疑で起訴されたことで知ったのである。刑事事件としては翌95年に陪審員が無罪の評決を出した。(民事では責任が認定され多額の賠償金を命じられた。)その後、2007年にラスベガスのホテルの部屋に銃を持って押し入り、記念品などを奪ったとして逮捕された。有罪となり不定期刑で収監されたが、2017年10月に仮釈放されていた。あれ、そんな事件があったっけ。
(O・J・シンプソン)
物理学者のピーター・ヒッグスが8日死去、94歳。2013年にノーベル物理学賞を受賞した。エディンバラ大学名誉教授。1964年に南部陽一郎の理論を発展させ「ヒッグス粒子」の存在を予言した。様々な素粒子が発見されたが、長くヒッグス粒子だけ未発見だったが、2012年にスイスのCERN(欧州合同原子核研究所)の巨大加速器を使った実験で発見された。ではヒッグス粒子とは何か、どのような理論から導かれたものかは、手に余るので自分で調べてください。
(ヒッグス)
元カネボウ会長、日本航空会長の伊藤淳二が2021年12月19日に死去していたことが明らかになった。99歳。20年前なら一面に載った訃報だろうが、長命すぎて忘れられただろう。1968年に45歳でカネボウ(当時は鐘淵紡績)社長に就任し、経営多角化、労使協調の経営路線で注目された。1985年に中曽根首相の要請で日航副会長、翌86年に会長となった。しかし、労使対立が深刻化して87年に道半ばで退任した。山崎豊子『沈まぬ太陽』、城山三郎『役員室午後三時』のモデルとされ、ある時期まで日本で最も知られた会社経営者だった。しかし、カネボウは2007年に粉飾決算が発覚して破綻した。(現在も残る化粧品会社はは花王の子会社として残ったのである。)日航も後に破綻し、結果的に伊藤淳二は失敗した経営者となってしまった感がある。
(伊藤淳二)
歌手、俳優の佐川満男が12日死去、84歳。当初はロカビリー歌手として成功し紅白歌合戦にも2回出場。その後病気で低迷した後、1968年に「今は幸せかい」が大ヒットして、紅白に返り咲いた。1971年には歌手の伊東ゆかりと結婚し、子どもも生まれたが1975年に離婚。一端芸能界を引退したが、80年代から関西を中心に俳優活動を中心にカムバックした。以後大阪制作の朝ドラや旅番組などに出演した。現在公開中の映画『あまろっく』にも出演していた。
(佐川満男)
ルドルフ・シュタイナー研究の第一人者として知られる高橋巖が3月30日に死去した。95歳。慶応大学で学び、西ドイツに留学した。帰国後慶大教授となったが、1973年に退職。「異端」であるシュタイナー研究と普及に全力を捧げるため、アカデミズムを離れたのである。以後、ルドルフ・シュタイナーの著作を翻訳するとともに、神秘学やシュタイナー教育に関する著作を数多く発表した。1985年に日本人智学協会を設立し、一生をシュタイナー紹介に努めた人だった。
(高橋巖)
・日本史研究者の訃報が二人。中世史の元木泰雄が9日死去、69歳。京大名誉教授。院政期から鎌倉時代が専門で、『保元・平治の乱を読みなおす』(NHKブックス、2004)や『河内源氏 - 頼朝を生んだ武士本流』(中公新書、2011)はとても面白かった。また古代史の笹山晴生が12日死去、91歳。東大名誉教授。律令制下の兵制が専門だが、平安京に関する一般書や教科書も執筆した。小泉政権の「皇室典範に関する有識者会議」のメンバーだった。僕は単著は読んでないと思う。
・外国の映画監督の訃報が二人。エレノア・コッポラが12日死去、87歳。フランシス・フォード・コッポラの妻で、娘のソフィアは映画監督、息子のロマン、ジャン=カルロも俳優や製作者など映画一家で知られている。『地獄の黙示録』のメイキング『ハート・オブ・ダークネス/コッポラの黙示録』と劇映画『ボンジュール・アン』を監督している。フランスのローラン・カンテが26日死去、63歳。『パリ20区、僕たちのクラス』が2008年にカンヌ映画祭パルムドールを受賞した。日本でも公開され評判になったが、他の作品は正式公開がなく全然知らない。
・ヴェトナムの現代美術家、ディン・Q・レが6日死去、55歳。ボートピープルとして子ども時代に渡米したが、後に帰国。戦争の記憶を扱う作品で世界的に評価された。3月に訪日して作品を製作したという。イタリアのファッションデザイナー、ロベルト・カバリが12日死去、83歳。ヒョウ柄など動物柄で人気を得て、服だけでなく時計、アクセサリーなどのブランドを展開した。
・海岸工学の創始者、堀川清司が18日死去、96歳。津波や海岸浸食などを研究した。文化功労者。東大名誉教授。東大退官後の埼玉大学で学長を務め、誘拐未遂事件にあったことがある。政治評論家屋山太郎が9日死去、91歳。
(曙)
として相撲界を支えた。204㎝の身長、223㎏の体重を生かした豪快な相撲で人気があり、貴乃花との白熱した優勝争いが記憶に残る。(曙貴時代と呼ばれた。貴乃花とは21勝21敗だった。)後半は膝のケガに悩まされながら、長期休場が多かったが、2000年に2度優勝した。優勝11回で、2001年1月に引退。引退後は東関部屋に残ったが、2003年11月に相撲協会を退職。格闘技K-1参戦を発表した。しかし大みそかに行われたボブ・サップ戦では1回ノックアウトされた。格闘技は1勝9敗、総合格闘技は4敗で、その後はプロレスラーとして活動した。まだ亡くなる年齢ではないが、心不全だったという。忘れられない相撲取りの一人である。
(貴乃花を圧倒した曙)
1972年札幌冬季五輪で、スキージャンプ70メートル級金メダルを獲得した笠谷幸生(かさや・ゆきお)が23日死去、80歳。この人の名前は、当時を生きていた人には忘れられない。70メートル級(現在のノーマルヒル)は、笠谷が金、金野昭次(こんの・しょうじ、2019年没)が銀、青地清二(2008年没)が銅と日本勢が独占し「日の丸飛行隊」と呼ばれた。90メートル級は7位とメダルを逃した。五輪には4回出場したが、その中で10位位内に入ったのは札幌だけ。まさに札幌五輪のために輝いたのである。北海道の余市高から明治大を経て、ニッカウヰスキーに入社。ニッカでは東京本社広報部長や北海道支社副支社長を務めて1999年に退社。その間に国際審判員の資格を取り、IOC理事、2010年のバンクーバー五輪選手団副団長を務めた。2018年に文化功労者。
(笠谷幸生)
アメリカンフットボールの元スター選手O・J・シンプソンが10日死去、76歳。南カリフォルニア大学で活躍し、1969年にドラフト1位でバッファロー・ビルズに入団してプロ選手となった。プロとしても素晴らしい成績を挙げたが、僕はルールもよく知らず何も言うことはない。この人に関しては、もちろん94年に起こった元妻とその知人を殺害した容疑で起訴されたことで知ったのである。刑事事件としては翌95年に陪審員が無罪の評決を出した。(民事では責任が認定され多額の賠償金を命じられた。)その後、2007年にラスベガスのホテルの部屋に銃を持って押し入り、記念品などを奪ったとして逮捕された。有罪となり不定期刑で収監されたが、2017年10月に仮釈放されていた。あれ、そんな事件があったっけ。
(O・J・シンプソン)
物理学者のピーター・ヒッグスが8日死去、94歳。2013年にノーベル物理学賞を受賞した。エディンバラ大学名誉教授。1964年に南部陽一郎の理論を発展させ「ヒッグス粒子」の存在を予言した。様々な素粒子が発見されたが、長くヒッグス粒子だけ未発見だったが、2012年にスイスのCERN(欧州合同原子核研究所)の巨大加速器を使った実験で発見された。ではヒッグス粒子とは何か、どのような理論から導かれたものかは、手に余るので自分で調べてください。
(ヒッグス)
元カネボウ会長、日本航空会長の伊藤淳二が2021年12月19日に死去していたことが明らかになった。99歳。20年前なら一面に載った訃報だろうが、長命すぎて忘れられただろう。1968年に45歳でカネボウ(当時は鐘淵紡績)社長に就任し、経営多角化、労使協調の経営路線で注目された。1985年に中曽根首相の要請で日航副会長、翌86年に会長となった。しかし、労使対立が深刻化して87年に道半ばで退任した。山崎豊子『沈まぬ太陽』、城山三郎『役員室午後三時』のモデルとされ、ある時期まで日本で最も知られた会社経営者だった。しかし、カネボウは2007年に粉飾決算が発覚して破綻した。(現在も残る化粧品会社はは花王の子会社として残ったのである。)日航も後に破綻し、結果的に伊藤淳二は失敗した経営者となってしまった感がある。
(伊藤淳二)
歌手、俳優の佐川満男が12日死去、84歳。当初はロカビリー歌手として成功し紅白歌合戦にも2回出場。その後病気で低迷した後、1968年に「今は幸せかい」が大ヒットして、紅白に返り咲いた。1971年には歌手の伊東ゆかりと結婚し、子どもも生まれたが1975年に離婚。一端芸能界を引退したが、80年代から関西を中心に俳優活動を中心にカムバックした。以後大阪制作の朝ドラや旅番組などに出演した。現在公開中の映画『あまろっく』にも出演していた。
(佐川満男)
ルドルフ・シュタイナー研究の第一人者として知られる高橋巖が3月30日に死去した。95歳。慶応大学で学び、西ドイツに留学した。帰国後慶大教授となったが、1973年に退職。「異端」であるシュタイナー研究と普及に全力を捧げるため、アカデミズムを離れたのである。以後、ルドルフ・シュタイナーの著作を翻訳するとともに、神秘学やシュタイナー教育に関する著作を数多く発表した。1985年に日本人智学協会を設立し、一生をシュタイナー紹介に努めた人だった。
(高橋巖)
・日本史研究者の訃報が二人。中世史の元木泰雄が9日死去、69歳。京大名誉教授。院政期から鎌倉時代が専門で、『保元・平治の乱を読みなおす』(NHKブックス、2004)や『河内源氏 - 頼朝を生んだ武士本流』(中公新書、2011)はとても面白かった。また古代史の笹山晴生が12日死去、91歳。東大名誉教授。律令制下の兵制が専門だが、平安京に関する一般書や教科書も執筆した。小泉政権の「皇室典範に関する有識者会議」のメンバーだった。僕は単著は読んでないと思う。
・外国の映画監督の訃報が二人。エレノア・コッポラが12日死去、87歳。フランシス・フォード・コッポラの妻で、娘のソフィアは映画監督、息子のロマン、ジャン=カルロも俳優や製作者など映画一家で知られている。『地獄の黙示録』のメイキング『ハート・オブ・ダークネス/コッポラの黙示録』と劇映画『ボンジュール・アン』を監督している。フランスのローラン・カンテが26日死去、63歳。『パリ20区、僕たちのクラス』が2008年にカンヌ映画祭パルムドールを受賞した。日本でも公開され評判になったが、他の作品は正式公開がなく全然知らない。
・ヴェトナムの現代美術家、ディン・Q・レが6日死去、55歳。ボートピープルとして子ども時代に渡米したが、後に帰国。戦争の記憶を扱う作品で世界的に評価された。3月に訪日して作品を製作したという。イタリアのファッションデザイナー、ロベルト・カバリが12日死去、83歳。ヒョウ柄など動物柄で人気を得て、服だけでなく時計、アクセサリーなどのブランドを展開した。
・海岸工学の創始者、堀川清司が18日死去、96歳。津波や海岸浸食などを研究した。文化功労者。東大名誉教授。東大退官後の埼玉大学で学長を務め、誘拐未遂事件にあったことがある。政治評論家屋山太郎が9日死去、91歳。
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