映画を見ていて、映画内のできごとにしか目が向かわないような映画がある。僕にとって、例えば「オーバー・フェンス」とか「キャロル」はそんな映画だった。もちろん、映画をめぐるさまざまの話題を見聞きしているから、見に行くわけである。外部情報の確認的要素がゼロということはない。また、人間は社会的存在だから、どんな人間を描いても社会的な問題は見え隠れする。でも、先のような映画を見ているときは、基本的には主人公がどうなるか以外に目が向かない。
一方、見ているときに、観客の気持ちが映画内世界を超えて、「世界はどうなるんだろうか」と言った思いにとらわれるような映画がある。僕にとって、「シン・ゴジラ」や「君の名は。」や「怒り」はそんな映画だった。別にどっちがいいとか悪いという問題ではない。よく出来ていれば、それはいい映画。では、そういう映画にはどんな特徴があり、どんな問題があるのかを考えてみたいのである。
「僕ら」というのは、娯楽的要素がある映画を映画館で見ていることを前提にしているので、「映画を一緒に見ている観客」と考えていい。だから、後は「世界」と「救う」という問題になる。ところで、世界の全部を描くことは原理的にできない。「シン・ゴジラ」だって、東京と神奈川県を破壊しているだけだから、世界全部を描いていない。だけど、見ている側はどこまで破壊されているんだろうと、ドキドキしながら見ることになる。そこでは観客にとって「世界の問題」なのである。
もっとも、そこには問題がある。「ミッション・インポッシブル」という映画シリーズがある。「不可能な使命」という意味だから、本来なら達成できずに映画終了である。でも、なぜか毎回「ポッシブル」なのである。シリーズ最終作とうたってないから、最新作もやはり「ポッシブル」なんだろうと、観客は事前に判って見る。そうなると、だんだん観客の満足度も下がってしまう。
「男はつらいよ」シリーズもそうだった。寅さんは必ず失恋して、また放浪の旅に出る。本来だったら、初代「おいちゃん」の森川信が亡くなった時に、団子屋を継いでテキヤからは足を洗うというのが、世間一般的にはありそうなことなんだけど、それではシリーズが終わってしまう。だから、年を取り続けながら「失恋」を繰り返した。その繰り返しの中で、映画的エネルギーも少しづつ枯渇した。
「シン・ゴジラ」だって、まさか東京を破壊しつくし、日本全土を破壊し、核兵器攻撃も効果なく、やがて次の国を襲うぞという終わり方になるだろうと思って見ている人はいないだろう。東京なんかに来ないで、尖閣諸島にでも現れて島そのものをぶっ壊すなんて展開になるはずがない。ゴジラがどこで誕生したのかは不明だけど、東京湾に来る前に沖ノ鳥島あたりはぶっ壊していてもいいと思うけど、なぜか東京湾に突如出現する。東京湾はかなり狭まった湾だから、その設定には無理があるんだけど。
つまり、「シン・ゴジラ」におけるゴジラの「活躍」(暴虐)は「いつか止まる」と思ってみている。そこらへんの感覚は人によりそれぞれだろうが、僕なんかは全然緊迫感を感じない。それでも映画の中で、登場人物たちが「世界を救う」ために身を挺しているということは了解する。ゴジラはたかだか「害獣」にすぎないから、人間社会の悪そのものではない。だけど、ゴジラは見る者にとって「人間社会の悪」から生み出されたものとして理解される。だから、ゴジラは「世界」を描いている。
「君の名は。」は詳述を避けるが、これも小さな「世界」である。だけど、見る者にとっては、一番身近な「ミッション・インポッシブル」に立ち向かう。一方、「怒り」は現実社会を舞台にした映画だから、一つ一つのエピソードは「小さな世界」である。だけど、三つ重なることにより、具体的には貧困や差別、沖縄の問題などに直面せざるを得ない。世界にはもっとたくさんの大問題がある。シリア内戦も、南スーダンも、ISの自爆テロも、「北朝鮮」の核開発も出てこない。だけど、「ひとりで苦しんでいる人の悲しみも、全人類の悲しみに通じている」わけだから、やはり「世界に通じている」のである。
ところで、先ほど「世界の全部は原理的に描けない」と書いた。それどういうことだろうか。僕たちは自分自身が「世界の中」にいる。あるいは「歴史の中」にいる。映像を映しているカメラは、カメラ自身を映し出せない。「世界を描く」というときに、「世界を描いている人」それ自身は映せないのである。いや、映画だったら「メイキング映像」があるだろうというかもしれない。よくDVDの特典に付いてるけど、時々メイキングそのものが公開されたりもする。でも、その場合、「メイキング映像を撮ってる人」の方は描かれない。「メイキングのメイキング」と果てしなく作り続けることもできないだろう。
金と時間をいくらかけても、メイキング映像の問題ではなく、「世界を描く自分自身」は見ることができないということなのである。もちろん、そのことを意識した「自分自身の悩みを描く映画」もある。フェリーニの「8 1/2」とか。でも、それは「アート映画の極北」のようなものとして、映画史上に何本かあるというものである。大ヒットをめざすエンタメ系ではできない。今回取り上げる3本の中では、元が「純文学」である「怒り」が一番、そういう問題を意識していると思う。そこがこの映画を「図式的」にしている。
「世界」は、その一部を描くことに成功すれば、見る者はそれを「世界」と感得できる感度を有している。だけど、どうしようもなく、「世界のすべてをわれわれは見ることができない」という限界から、すべての表現芸術は逃れなれない。「シン・ゴジラ」も、「君の名は。」も、見ているときは夢中で見られるが(内容に理解できない、あるいは納得できない部分があったとしても)、やはり終わってみれば、やはり「彼ら」の物語だったのかという思いを感じてしまう。それは何故なんだろうか。「救う」という方を考えないと、それは自分でもよく判らない問題だ。
一方、見ているときに、観客の気持ちが映画内世界を超えて、「世界はどうなるんだろうか」と言った思いにとらわれるような映画がある。僕にとって、「シン・ゴジラ」や「君の名は。」や「怒り」はそんな映画だった。別にどっちがいいとか悪いという問題ではない。よく出来ていれば、それはいい映画。では、そういう映画にはどんな特徴があり、どんな問題があるのかを考えてみたいのである。
「僕ら」というのは、娯楽的要素がある映画を映画館で見ていることを前提にしているので、「映画を一緒に見ている観客」と考えていい。だから、後は「世界」と「救う」という問題になる。ところで、世界の全部を描くことは原理的にできない。「シン・ゴジラ」だって、東京と神奈川県を破壊しているだけだから、世界全部を描いていない。だけど、見ている側はどこまで破壊されているんだろうと、ドキドキしながら見ることになる。そこでは観客にとって「世界の問題」なのである。
もっとも、そこには問題がある。「ミッション・インポッシブル」という映画シリーズがある。「不可能な使命」という意味だから、本来なら達成できずに映画終了である。でも、なぜか毎回「ポッシブル」なのである。シリーズ最終作とうたってないから、最新作もやはり「ポッシブル」なんだろうと、観客は事前に判って見る。そうなると、だんだん観客の満足度も下がってしまう。
「男はつらいよ」シリーズもそうだった。寅さんは必ず失恋して、また放浪の旅に出る。本来だったら、初代「おいちゃん」の森川信が亡くなった時に、団子屋を継いでテキヤからは足を洗うというのが、世間一般的にはありそうなことなんだけど、それではシリーズが終わってしまう。だから、年を取り続けながら「失恋」を繰り返した。その繰り返しの中で、映画的エネルギーも少しづつ枯渇した。
「シン・ゴジラ」だって、まさか東京を破壊しつくし、日本全土を破壊し、核兵器攻撃も効果なく、やがて次の国を襲うぞという終わり方になるだろうと思って見ている人はいないだろう。東京なんかに来ないで、尖閣諸島にでも現れて島そのものをぶっ壊すなんて展開になるはずがない。ゴジラがどこで誕生したのかは不明だけど、東京湾に来る前に沖ノ鳥島あたりはぶっ壊していてもいいと思うけど、なぜか東京湾に突如出現する。東京湾はかなり狭まった湾だから、その設定には無理があるんだけど。
つまり、「シン・ゴジラ」におけるゴジラの「活躍」(暴虐)は「いつか止まる」と思ってみている。そこらへんの感覚は人によりそれぞれだろうが、僕なんかは全然緊迫感を感じない。それでも映画の中で、登場人物たちが「世界を救う」ために身を挺しているということは了解する。ゴジラはたかだか「害獣」にすぎないから、人間社会の悪そのものではない。だけど、ゴジラは見る者にとって「人間社会の悪」から生み出されたものとして理解される。だから、ゴジラは「世界」を描いている。
「君の名は。」は詳述を避けるが、これも小さな「世界」である。だけど、見る者にとっては、一番身近な「ミッション・インポッシブル」に立ち向かう。一方、「怒り」は現実社会を舞台にした映画だから、一つ一つのエピソードは「小さな世界」である。だけど、三つ重なることにより、具体的には貧困や差別、沖縄の問題などに直面せざるを得ない。世界にはもっとたくさんの大問題がある。シリア内戦も、南スーダンも、ISの自爆テロも、「北朝鮮」の核開発も出てこない。だけど、「ひとりで苦しんでいる人の悲しみも、全人類の悲しみに通じている」わけだから、やはり「世界に通じている」のである。
ところで、先ほど「世界の全部は原理的に描けない」と書いた。それどういうことだろうか。僕たちは自分自身が「世界の中」にいる。あるいは「歴史の中」にいる。映像を映しているカメラは、カメラ自身を映し出せない。「世界を描く」というときに、「世界を描いている人」それ自身は映せないのである。いや、映画だったら「メイキング映像」があるだろうというかもしれない。よくDVDの特典に付いてるけど、時々メイキングそのものが公開されたりもする。でも、その場合、「メイキング映像を撮ってる人」の方は描かれない。「メイキングのメイキング」と果てしなく作り続けることもできないだろう。
金と時間をいくらかけても、メイキング映像の問題ではなく、「世界を描く自分自身」は見ることができないということなのである。もちろん、そのことを意識した「自分自身の悩みを描く映画」もある。フェリーニの「8 1/2」とか。でも、それは「アート映画の極北」のようなものとして、映画史上に何本かあるというものである。大ヒットをめざすエンタメ系ではできない。今回取り上げる3本の中では、元が「純文学」である「怒り」が一番、そういう問題を意識していると思う。そこがこの映画を「図式的」にしている。
「世界」は、その一部を描くことに成功すれば、見る者はそれを「世界」と感得できる感度を有している。だけど、どうしようもなく、「世界のすべてをわれわれは見ることができない」という限界から、すべての表現芸術は逃れなれない。「シン・ゴジラ」も、「君の名は。」も、見ているときは夢中で見られるが(内容に理解できない、あるいは納得できない部分があったとしても)、やはり終わってみれば、やはり「彼ら」の物語だったのかという思いを感じてしまう。それは何故なんだろうか。「救う」という方を考えないと、それは自分でもよく判らない問題だ。
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