佐藤忠男さんが亡くなった。3月17日没、91歳。マスコミ報道では大体「映画評論家」「日本映画大学名誉学長」と書かれている。それに間違いないけれど、「評論」の内容は映画に止まらず、漫画、大衆文学、教育等々幅広い分野にわたっていた。新潟市に生まれ、中学に落第した後、予科練や鉄道教習所などを経験した。その後定時制高校に通いながら、映画をたくさん見て雑誌「映画評論」に映画評を投稿した。また「思想の科学」に投稿した「任侠について」が鶴見俊輔に認められた。
こういう経歴から想像出来るように、映画をベースにしながらも独自の視点から日本の大衆文化全般に強い関心を持った。また教育にも一家言あるわけで、教育評論の著書も多い。1930年生まれで、子ども時代に戦争を経験した世代だから、反戦平和の思いが強かった。後にアジアやアフリカなどの映画を積極的に日本に紹介したのも、映画を通して世界を知り国際的な友好関係を広げたいという強い思いがあった。「思想の科学」は多くの新しい書き手を送り出したが、佐藤忠男は最も有意義な活躍をした人だろう。
今では当たり前の映画研究だが、ある時期まで映画や漫画などはマジメな研究の対象にならなかった。DVDもビデオもなかった時代には、映画は見たらそれっきりである。テレビが出来てからは、時々テレビで放映されるようになったが、それでも昔の映画を後から見るのは難しい。だから古くから映画を見てきた世代が、あの俳優は素晴らしい、あの監督はすごかったなどと「印象批評」するのが大方の映画評論だった。そこに「黒澤明の世界」(1969、三一書房)や「小津安二郎の芸術」(1971、朝日新聞社)が登場した。映画を技術的に分析するとともに、監督の世界を思想的に検討する。ようやくそういう映画批評が登場したのである。
僕は中公新書の「ヌーベルバーグ以後 自由をめざす映画」(1971)に読んで、非常に大きな影響を受けた。アートの見方を完全に揺さぶられた。そのことは「「同化」と「異化」ーアートのとらえ方①」(2019.8.13)で書いた。「大島渚の世界」(1973、筑摩書房)も出たときに読んだと思う。僕は佐藤忠男さんの本を高校生の時から読んできて、本当に大きな影響を受けたのである。同じ時期に「不良少年物語」「教育の変革」(以上1972年)「学習権の論理」「日本の漫画」(以上1973年)「戦争はなぜおこるか」「世界映画100選」(以上1974年)などの本が続々と出されている。その幅広さに驚嘆するしかない。
(「大島渚の世界」)
「大島渚の世界」の目次をちょっと紹介する。「閉ざされた青春の暗い情熱」(「青春残酷物語」「太陽の墓場」)、「ラジカルなスターリン主義批判」(「日本の夜と霧」)、「戦後民主主義を越えて」(「日本春歌考」)、「想像力の自由はどこにあるか」(「絞死刑」)、「戦後への愛惜をこめた全否定」(「儀式」)…。一見何だか判らないようなATG映画の見方を教えてもらうとともに、章名を見て判るように「戦後思想史」の勉強でもあった。こういう映画や本で僕は自分の世界観を作っていったのである。
先に挙げた「世界映画100選」という本は、とても独特な本だった。もちろん世界映画史に残る名作傑作も選ばれているのだが、特に60年代以後は世界各地の様々な映画を積極的に紹介していたのである。その中には当時ほとんど日本での紹介がなかった韓国の「義士安重根」という映画もあった。後に僕も見る機会があったが、確かに立派な堂々たる歴史映画だった。しかし、まあ作品的に言えば「世界映画100選」に入る映画ではないだろう。その後の韓国では世界各地の映画祭で受賞した映画が山のように作られている。だけど佐藤氏は日本では伊藤博文を暗殺したテロリストと記憶されている安重根が見方を変えれば民族の英雄だという映画の存在を日本人が知っておくべきだと考えたのだろう。74年の段階ですでにそういう本を書いていた。
しかし、佐藤さんはイデオロギー的に映画を評価する人ではない。もともと「思想の科学」出身なのだから、むしろプラグマティストである。映画には娯楽作品もあれば、社会派問題作もある。そして、その中に「世界各地の人々の心を知る」という意味も認めていた。だからこそ80年代に入ると、世界各地を訪れ新しい映画を日本の紹介したのである。それは国際交流基金による国家的要請でもあったが、東南アジア、南アジア、ブラックアフリカ、西アジア・北アフリカなどに及んだ。僕も忙しい時期だけど、休日を利用してよく見た。そして韓国の林権澤(イム・グォンテク)監督を中心にした「韓国映画の精神 林権澤監督とその時代」(2000,岩波書店)という本もまとめた。
(「韓国映画の精神」)
60年代のキネマ旬報ベストテンの投票を見ていると、佐藤忠男さんの慧眼に驚く。1966年から投票に参加しているが、いきなり大島渚「白昼の通り魔」が1位、鈴木清順「けんかえれじい」が2位という投票である。「けんかえれじい」は他に誰も入れていないから、佐藤氏がいなければあの傑作が0点だった。1968年には小川紳介の三里塚第1作「日本解放戦線・三里塚の夏」を4位に選んでいる。1969年だけ紹介すると、「①少年②私が棄てた女③パルチザン前史④心中天網島⑤緋牡丹博徒・花札賭博⑥長靴をはいた猫⑦男はつらいよ⑧新宿泥棒日記⑨続・男はつらいよ⑩喜劇・女は度胸」となっている。監督名は省略するので知らない人には判らないだろうが、東映動画や森崎東(デビュー作)が入っているのが凄い。
大衆文化を通して日本人の心情を探る仕事は、「長谷川伸論」「庶民心情のありか」(以上1975年)「忠臣蔵ー意地の系譜」「日本人の心情」(以上1976年)などで頂点に達する。特に「瞼の母」「一本刀土俵入り」など「股旅物」で知られた長谷川伸を本格的に論じた「長谷川伸論」にはとても刺激を受けた。自分が近代日本の民衆文化史に関心を持っていたので、特に深い感銘を受けた。その後、日本映画の歴史を追究し、総決算として「日本映画史」全4巻(1995、岩波書店)をまとめた。「決定版日本映画史、4000枚」とある分厚い4巻本を買って、僕はちゃんと読んだものだ。
(「日本映画史」第1巻)
その後、今村昌平が作った日本映画学校校長を石堂淑郎から引き継ぎ(1996~2011)、日本映画大学になってからは初代学長を務めた(20011~2017)。それは大きな業績なのだろうが、僕にはよく判らない。ちょっと前まで、映画祭などで珍しい映画が上映されると、佐藤忠男、久子夫妻が見に来ているのを僕は何度も見た。僕はひょんな用事で話をしたことが一度あるが、ちゃんと話を聞いたことがなかった。でも本を通して非常に多くのことを学んだ人だった。追悼するとともに、感謝したいと思う。
こういう経歴から想像出来るように、映画をベースにしながらも独自の視点から日本の大衆文化全般に強い関心を持った。また教育にも一家言あるわけで、教育評論の著書も多い。1930年生まれで、子ども時代に戦争を経験した世代だから、反戦平和の思いが強かった。後にアジアやアフリカなどの映画を積極的に日本に紹介したのも、映画を通して世界を知り国際的な友好関係を広げたいという強い思いがあった。「思想の科学」は多くの新しい書き手を送り出したが、佐藤忠男は最も有意義な活躍をした人だろう。
今では当たり前の映画研究だが、ある時期まで映画や漫画などはマジメな研究の対象にならなかった。DVDもビデオもなかった時代には、映画は見たらそれっきりである。テレビが出来てからは、時々テレビで放映されるようになったが、それでも昔の映画を後から見るのは難しい。だから古くから映画を見てきた世代が、あの俳優は素晴らしい、あの監督はすごかったなどと「印象批評」するのが大方の映画評論だった。そこに「黒澤明の世界」(1969、三一書房)や「小津安二郎の芸術」(1971、朝日新聞社)が登場した。映画を技術的に分析するとともに、監督の世界を思想的に検討する。ようやくそういう映画批評が登場したのである。
僕は中公新書の「ヌーベルバーグ以後 自由をめざす映画」(1971)に読んで、非常に大きな影響を受けた。アートの見方を完全に揺さぶられた。そのことは「「同化」と「異化」ーアートのとらえ方①」(2019.8.13)で書いた。「大島渚の世界」(1973、筑摩書房)も出たときに読んだと思う。僕は佐藤忠男さんの本を高校生の時から読んできて、本当に大きな影響を受けたのである。同じ時期に「不良少年物語」「教育の変革」(以上1972年)「学習権の論理」「日本の漫画」(以上1973年)「戦争はなぜおこるか」「世界映画100選」(以上1974年)などの本が続々と出されている。その幅広さに驚嘆するしかない。
(「大島渚の世界」)
「大島渚の世界」の目次をちょっと紹介する。「閉ざされた青春の暗い情熱」(「青春残酷物語」「太陽の墓場」)、「ラジカルなスターリン主義批判」(「日本の夜と霧」)、「戦後民主主義を越えて」(「日本春歌考」)、「想像力の自由はどこにあるか」(「絞死刑」)、「戦後への愛惜をこめた全否定」(「儀式」)…。一見何だか判らないようなATG映画の見方を教えてもらうとともに、章名を見て判るように「戦後思想史」の勉強でもあった。こういう映画や本で僕は自分の世界観を作っていったのである。
先に挙げた「世界映画100選」という本は、とても独特な本だった。もちろん世界映画史に残る名作傑作も選ばれているのだが、特に60年代以後は世界各地の様々な映画を積極的に紹介していたのである。その中には当時ほとんど日本での紹介がなかった韓国の「義士安重根」という映画もあった。後に僕も見る機会があったが、確かに立派な堂々たる歴史映画だった。しかし、まあ作品的に言えば「世界映画100選」に入る映画ではないだろう。その後の韓国では世界各地の映画祭で受賞した映画が山のように作られている。だけど佐藤氏は日本では伊藤博文を暗殺したテロリストと記憶されている安重根が見方を変えれば民族の英雄だという映画の存在を日本人が知っておくべきだと考えたのだろう。74年の段階ですでにそういう本を書いていた。
しかし、佐藤さんはイデオロギー的に映画を評価する人ではない。もともと「思想の科学」出身なのだから、むしろプラグマティストである。映画には娯楽作品もあれば、社会派問題作もある。そして、その中に「世界各地の人々の心を知る」という意味も認めていた。だからこそ80年代に入ると、世界各地を訪れ新しい映画を日本の紹介したのである。それは国際交流基金による国家的要請でもあったが、東南アジア、南アジア、ブラックアフリカ、西アジア・北アフリカなどに及んだ。僕も忙しい時期だけど、休日を利用してよく見た。そして韓国の林権澤(イム・グォンテク)監督を中心にした「韓国映画の精神 林権澤監督とその時代」(2000,岩波書店)という本もまとめた。
(「韓国映画の精神」)
60年代のキネマ旬報ベストテンの投票を見ていると、佐藤忠男さんの慧眼に驚く。1966年から投票に参加しているが、いきなり大島渚「白昼の通り魔」が1位、鈴木清順「けんかえれじい」が2位という投票である。「けんかえれじい」は他に誰も入れていないから、佐藤氏がいなければあの傑作が0点だった。1968年には小川紳介の三里塚第1作「日本解放戦線・三里塚の夏」を4位に選んでいる。1969年だけ紹介すると、「①少年②私が棄てた女③パルチザン前史④心中天網島⑤緋牡丹博徒・花札賭博⑥長靴をはいた猫⑦男はつらいよ⑧新宿泥棒日記⑨続・男はつらいよ⑩喜劇・女は度胸」となっている。監督名は省略するので知らない人には判らないだろうが、東映動画や森崎東(デビュー作)が入っているのが凄い。
大衆文化を通して日本人の心情を探る仕事は、「長谷川伸論」「庶民心情のありか」(以上1975年)「忠臣蔵ー意地の系譜」「日本人の心情」(以上1976年)などで頂点に達する。特に「瞼の母」「一本刀土俵入り」など「股旅物」で知られた長谷川伸を本格的に論じた「長谷川伸論」にはとても刺激を受けた。自分が近代日本の民衆文化史に関心を持っていたので、特に深い感銘を受けた。その後、日本映画の歴史を追究し、総決算として「日本映画史」全4巻(1995、岩波書店)をまとめた。「決定版日本映画史、4000枚」とある分厚い4巻本を買って、僕はちゃんと読んだものだ。
(「日本映画史」第1巻)
その後、今村昌平が作った日本映画学校校長を石堂淑郎から引き継ぎ(1996~2011)、日本映画大学になってからは初代学長を務めた(20011~2017)。それは大きな業績なのだろうが、僕にはよく判らない。ちょっと前まで、映画祭などで珍しい映画が上映されると、佐藤忠男、久子夫妻が見に来ているのを僕は何度も見た。僕はひょんな用事で話をしたことが一度あるが、ちゃんと話を聞いたことがなかった。でも本を通して非常に多くのことを学んだ人だった。追悼するとともに、感謝したいと思う。
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