尾形修一の紫陽花(あじさい)通信

教員免許更新制に反対して2011年3月、都立高教員を退職。教育や政治、映画や本を中心に思うことを発信していきます。

水戸・偕楽園「梅まつり」を見に行く

2025年03月14日 21時53分40秒 | 東京関東散歩

 世に言う「日本三名園」。岡山・後楽園金沢・兼六園は行ってるのに、一番近い水戸・偕楽園に入ったことがなかった。「入ったことがない」というのは変だけど、真ん前を車で通ったことはあるのだ。雨だったので、入るのを止めたのである。「車窓見学」だけじゃ何なので、一度「梅まつり」に行かなくちゃと思っていた。水戸藩の藩校だった弘道館は2回行ってるので、今回はパス。今年は3月に入っても寒く、梅が咲いてなければ意味がない。ようやく暖かく(ちょっと暑いぐらいに)なった。関東は快晴の予報の日に行って来ようかな。まだ満開というより7分咲き、8分咲きぐらいだったけど、門を入ると梅の香でいっぱい。

   

 水戸駅で下りて北口へ。真ん前でバスの「一日フリーきっぷ」を売ってる。40円お得になるだけだが、交通系ICカードが使えないので、買わないと不便。そして真ん前のバス停で待つようにと言われて、来たバスに乗った。(車は混んでるから公共交通機関を使えとパンフに出ている。レンタサイクルもあるらしいが、偕楽園に行くだけならバスの方が便利だろう。)そして20分ぐらいで「偕楽園・常磐神社前」バス停に着いた。門はいろいろあるが、バスが満員なので皆が下りる場所でしか下りられない。

   

 神社はパスして、縁日みたいなお祭り空間を抜けて、入口へ。混んでると思って、事前にデジタルチケットを買っていった。それで正解だったが、結構面倒だった。写真はいくら載せても同じで、要するに偕楽園の北半分は梅林なのである。他に広場や竹林もあるが、普通「名園」というと「日本庭園」で、池の周りに築山という「池泉回遊式」である。兼六園もそうだし、岡山の後楽園もそう。だけど、偕楽園は違う。趣という点では同じく水戸藩ゆかりの「小石川後楽園」の方が良いかも。

(①烈公梅)(②白難波)(③虎の尾)

 園内の梅の品種を研究し、1934年に「水戸の六名木」というのが選ばれた。白梅が多いが、紅梅「江南所無」もある。園内各所にあって、垣に囲われて説明が出ている。まあ、一応それは見ていこうかと思って、6つ写真に撮ったのがこの6品種。

(月影)(⑤江南所無)(⑥柳川枝垂)

 偕楽園は読んで字のごとし、「民と偕(とも)に楽しむ」という意味で「孟子」の言葉だという。幕末の有名な水戸藩主、徳川斉昭 (烈公)により構想されて、1842年に開設された。元は藩士の休養の場として作られたが、3と8が付く日には領民にも開放されていたという。幕末の水戸藩は不毛のイデオロギー対立で有為の士をほとんど失ってしまった。「尊皇」思想の発祥地みたいなとこなのに、明治政府で活躍した有名人がいない。(その対立のすさまじさは、水戸出身の山川菊栄覚書 幕末の水戸藩』に詳しい。)それでも偕楽園が今に残っているのは不思議だし、まあ良かったんじゃないかと思う。

 (吐玉泉)

 東門から梅を見ながら表門まで行き、竹林を通り過ぎて下りていくと「吐玉泉」(とぎょくせん)がある。斉昭が作らせた湧水所で、大きな大理石から湧いている。今の石は4代目だそうで、1980年代に作られたものだという。そこから「好文亭」をめざす。斉昭が作った休息所で、各種の催しに利用されたという。空襲で焼けたが、1958年に再建された。さらに1969年に落雷で奥御殿が焼けたという。市街地とは離れているが、空襲でここまで焼けたのは驚き。全景が撮りにくいのが難だけど。

   

 部屋を見て回った後で、最後に3階まで登れる。すごい急階段で危ない感じだけど、自分もそうだけどこういう場所で落ちてる人はいないもんだ。上は風が強かったが、南方面が見渡せる。まあ梅林には向いてないけど、常磐線を越えて千波湖、そして市中心部が見えている。日本最古の食器用昇降機が珍しかった。

  

 他にもいろんな碑があるようだし、もっと見て回るべきなんだろうが、かなり暑い日だった。線路の南側にも梅林があるのは知ってたが、まあいいだろうと思った。むしろ弘道館や水戸城の遺構を見たい気があったけど、一度に両方見るのは大変だからパス。要するにさっさと帰ってきたわけ。これで「偕楽園」に「済」マークを押したというわけ。


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