東日本大震災は、首都圏に住んでいる多くの人にとって、人生で経験した一番大きな揺れだったと思う。僕は新潟地震(64年)、宮城県沖地震(78年)など相当大きかった記憶があるが、今回は全くレベルが違う長い長い揺れだった。大津波と原発事故があり、まずそのことを思い浮かべる2011年暮れだと思うが、その前に地震そのもの、大地の震えがあった。
95年の阪神大震災では多くの家屋が倒壊し多数の死者が出た。阪神高速も倒壊するという驚くべき映像を目の当たりにした。中国四川省では学校が倒壊し、ハイチでは大統領府が倒壊した。直前にあったニュージーランド南島の地震でもクライストチャーチのビルが崩壊し、語学校に通っていた日本人28人が亡くなるという被害があった。今回の地震ではどうだったろうか。確かに大きな津波が襲ったわけだが、その前の揺れそのもので学校やビルが倒れるということはなかった。95年の経験を生かした耐震基準の見直しが生きたのだと思うし、公共工事の手抜きなどはなかったのだと思う。このことはとても大事だと思う。確かに大きな津波が大被害をもたらし、未曽有の原発事故が起きた。でも95年の経験を生かしたように、11年の悲しみも今後に生かしていかなくてはならない。
しかし、地震そのものの被害がなかったわけではない。原発事故も、本体の格納容器などはともかく、地下の配管などは地震で損傷している可能性が高いという説もある。あと何十年もしないと現場に近づけず、当否の検証ができないのだが。そして、多くの人が忘れているだろう、大きな被害もその時起こった。
福島県須賀川市の藤沼ダム崩壊である。河北新報の記事を参照。1949年建設のダムで、死者・行方不明8名、家屋全壊・流出19戸の大被害を出した。このようなダム崩壊事故は世界でも1930年以来だと記事にある。今、この出来事の検証が大変重要であると思う。八ッ場ダム建設の前に、地震と噴火の大災害を免れない日本で、ダム崩壊事故の教訓を生かさなくてはならない。次の地震のことを考えるとき、東海、西日本の大津波対策や原発事故の危険性を考えるのは当然だが、内陸部でもダム崩壊というようなことがありうるのである。
また、明治に起こった日本最初の公害事件と言われる足尾鉱毒事件が、今回の震災でまた被害をもたらした。足尾銅山で使用された土砂が、地震によって堆積場からあふれて渡良瀬川に流れだし、環境基準の2倍の鉛を検出したのである。このこともあまり知られていないだろう。(僕も最近知った。)このように、環境破壊と言う出来事は100年単位では収まらないのである。原発の放射性廃棄物だけの問題ではない。このような現実をきちんと知っておかなければならない。
震災からしばらくの間は、津波の恐ろしい映像、原発の水素爆発、計画停電、いつまでも来ない電車のダイヤの乱れなど、緊張と恐怖と衝撃が社会を覆っていた。しかし、同時に、この苦難をともに乗り越えようという強い連帯の願いも社会全体に満ちていた。非日常の時期がいつまでも続くものではなく、非日常も日常になってしまう。どんな理不尽な出来事も慣れていってしまう。また、そうではなくては困る。でも、だからと言って、忘れてしまっていいわけではないし、あの恐怖や緊張の日々をそう簡単に忘れられるものではない。年末になってもまだ3千人以上の行方不明者がいる。2万人近い人々の命が一度に奪われた。日本で一日で多くの命が失われた日としては、1945年8月9日以来なのではないか。そして、原発事故により数万の人々が自宅を追われ避難生活で越年する。これも戦争以来のことだろう。これを、東京大空襲の国家賠償を求める裁判で政府側が主張するように、「不運なこと」「国民それぞれが負うべきもの」としてはならないだろうと思う。
95年の阪神大震災では多くの家屋が倒壊し多数の死者が出た。阪神高速も倒壊するという驚くべき映像を目の当たりにした。中国四川省では学校が倒壊し、ハイチでは大統領府が倒壊した。直前にあったニュージーランド南島の地震でもクライストチャーチのビルが崩壊し、語学校に通っていた日本人28人が亡くなるという被害があった。今回の地震ではどうだったろうか。確かに大きな津波が襲ったわけだが、その前の揺れそのもので学校やビルが倒れるということはなかった。95年の経験を生かした耐震基準の見直しが生きたのだと思うし、公共工事の手抜きなどはなかったのだと思う。このことはとても大事だと思う。確かに大きな津波が大被害をもたらし、未曽有の原発事故が起きた。でも95年の経験を生かしたように、11年の悲しみも今後に生かしていかなくてはならない。
しかし、地震そのものの被害がなかったわけではない。原発事故も、本体の格納容器などはともかく、地下の配管などは地震で損傷している可能性が高いという説もある。あと何十年もしないと現場に近づけず、当否の検証ができないのだが。そして、多くの人が忘れているだろう、大きな被害もその時起こった。
福島県須賀川市の藤沼ダム崩壊である。河北新報の記事を参照。1949年建設のダムで、死者・行方不明8名、家屋全壊・流出19戸の大被害を出した。このようなダム崩壊事故は世界でも1930年以来だと記事にある。今、この出来事の検証が大変重要であると思う。八ッ場ダム建設の前に、地震と噴火の大災害を免れない日本で、ダム崩壊事故の教訓を生かさなくてはならない。次の地震のことを考えるとき、東海、西日本の大津波対策や原発事故の危険性を考えるのは当然だが、内陸部でもダム崩壊というようなことがありうるのである。
また、明治に起こった日本最初の公害事件と言われる足尾鉱毒事件が、今回の震災でまた被害をもたらした。足尾銅山で使用された土砂が、地震によって堆積場からあふれて渡良瀬川に流れだし、環境基準の2倍の鉛を検出したのである。このこともあまり知られていないだろう。(僕も最近知った。)このように、環境破壊と言う出来事は100年単位では収まらないのである。原発の放射性廃棄物だけの問題ではない。このような現実をきちんと知っておかなければならない。
震災からしばらくの間は、津波の恐ろしい映像、原発の水素爆発、計画停電、いつまでも来ない電車のダイヤの乱れなど、緊張と恐怖と衝撃が社会を覆っていた。しかし、同時に、この苦難をともに乗り越えようという強い連帯の願いも社会全体に満ちていた。非日常の時期がいつまでも続くものではなく、非日常も日常になってしまう。どんな理不尽な出来事も慣れていってしまう。また、そうではなくては困る。でも、だからと言って、忘れてしまっていいわけではないし、あの恐怖や緊張の日々をそう簡単に忘れられるものではない。年末になってもまだ3千人以上の行方不明者がいる。2万人近い人々の命が一度に奪われた。日本で一日で多くの命が失われた日としては、1945年8月9日以来なのではないか。そして、原発事故により数万の人々が自宅を追われ避難生活で越年する。これも戦争以来のことだろう。これを、東京大空襲の国家賠償を求める裁判で政府側が主張するように、「不運なこと」「国民それぞれが負うべきもの」としてはならないだろうと思う。
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