尾形修一の紫陽花(あじさい)通信

教員免許更新制に反対して2011年3月、都立高教員を退職。教育や政治、映画や本を中心に思うことを発信していきます。

復興「まだら模様」の時代-震災3年目①

2014年03月14日 23時46分09秒 |  〃 (震災)
 3月11日に、政府主催の「東日本大震災三周年追悼式」が国立劇場で開かれた。式典における天皇の言葉には「永きにわたって国民皆が心をひとつにして寄り添っていくことが大切と思います」という一節がある。さて、安倍首相は午後2時13分に国立劇場に到着、式典に参列し、式辞を述べ献花した。「首相動静」を見ると、3時38分に官邸に戻って、その後4時41分から国家安全保障会議が開催された。そこで「武器輸出三原則」に代わる新原則の素案が報告された。つまり、もはや安倍内閣において、東日本大震災追悼式は日常業務の一つに過ぎず、直後に「国民が心をひとつに」できない政策を推進するスケジュールがあらかじめ組まれていたわけである。

 僕は震災直後にボランティアとして被災地に行って、1年目、2年目の「3・11」にはブログに記事を書いている。しかし、今年はあえて当日には書かなかった。(前日にレイトショーで見た「東京難民」の終映が近いから先に書いたという事情もあったけど。)震災当日に書くと、その日のマスコミ報道に影響されてしまうのを避けられないと自分でも思う。「復興に向け出来ることを協力して行きたい」とか「原発問題を忘れてはならないと改めて痛感する」とか、別に自分でウソを書くわけではないし、実際そう思っているけれども、まあそういう(はっきり言ってしまえば)「タテマエ」だけ書いて終わってしまいそうである。今年あたりからは、「3・11に思うこと」だけではなく、「3・11当日がどう迎えられたか」も考える材料になっていくんだろうと思う。だから、あえて当日をはずし、追悼式典の「日常化」の話から書き始めたのである。

 確かに3年がたって、少し変わってきたかなと思う。自分の気持ちもそうだし、世の中のムードもそうだろう。東京の話で言えば、めっきり「余震が減った」と思う。余震と思われる福島や茨城の沖合を震源とする地震は、去年あたりまで結構あった。地震が多いと、やはり原発事故や津波を思い出し、ちょっと恐怖感が甦るのである。では忘れたかと言えば、別に忘れたわけではない。東京では関東大震災や東京大空襲があったわけだが、それは日常的にはほとんど思い出さない。地下鉄の霞ヶ関駅はよく通るけれど、もう地下鉄サリン事件をいちいち思い出すことはない。それに比べれば、東日本大震災はまだずっと生々しい記憶である。

 だけど、ある程度時間がたったという事実も否定できない。3年間というのは、震災当時小学6年生だった子どもが中学を卒業してしまうという時間である。時間がたてば、当時は生々しかった記憶も何だか遠くなる。その間も日々、時間は進行していたのだから当然だろう。実際、東日本大震災の直前に起こったニュージーランド南島地震のことは、もうほとんど振り返られない。多くの日本人がクライストチャーチの語学学校に研修に行っていて犠牲となったのだが。(調べてみると、日本人28人を含む185人の死者、行方不明が出た。)

 この「忘れる」ということは、我々が日常生活を送って行ける基礎的条件なんだから、あまり倫理的な批判をしてはいけないと思う。(そうでなかったらすべての人が失敗体験が一度でもあれば人生が終わってしまう。)でも、現に原発事故で家を突然追われたまま帰還できない人が何万人もいる。だから「原発事故を風化させてはいけない」というのも判る。実際に大きな被害を受けた当事者は、もちろん軽々に忘れられるわけがない。家族を失い、家を失ったら、「その日から時間は止まっている」というのが実際のところだろう。だから、ここ数年間が一番、「直接大きな被害を受けた人々」と「それほど被害を受けなかった人々」との様々な差が大きくなるときだろう。だからどうすればいいと簡単には言えないけれど、「そういう段階に入ってきた」と認識していることは大切だと思う。

 大津波の被害は青森から千葉に至る地域に及んだ。原発事故の放射能拡散は、ほとんど東日本一帯に及んだ。(静岡県のお茶が出荷停止になったりしたはずだ。)これほど大規模な災害は日本史上でも珍しい。とにかく戦災以来であることは間違いない。だから1年や2年で「復興」するはずがない。それは判っているので、一年目や二年目の段階では、「復興が遅れている」という批判もあったけれども、なかなか難しいというのも皆が承知していたと思う。でもこの一年の間に、気仙沼市で津波で乗り上げてしまった共徳丸の解体工事など、「震災遺構」の風景もかなり変わって行った。そこで見えてくるものは何だろうか。

 僕はこれから「復興のまだら模様」などと呼ばれる段階が始まると予想している。もともと東北の太平洋側一帯は県庁所在地からも遠く、過疎化が進行していた。震災が起きなかったら、仙台などの一部例外は別にして、大体の地域はゆっくりと過疎が進行し続けただろう。震災が起き、「復興」が叫ばれ、地盤沈下した土地のかさ上げ、高台への移住、防潮堤の再建などがスケジュール化された。どの町はもう放っておくとは言えないから、一応全部元に戻せるようなことを政府は言う。原発からの避難地区も、除染を進めながら少しづつでも帰還を進めるという話になっていた。今の段階ではっきり書いてしまえば、そういう「復興幻想」はもう崩れつつあるのではないかということである。

 もちろん一部の都市地区では、それなりに「復興」が進んで行くんだろう。でも思った以上に人口流出が激しく、なかなか元に戻れないという地区も出てくる。「復興は不可能」とは言えないので、マスコミなどでは「一部は復興しつつあるものの、厳しい地区もあり、復興はまだら模様の様相」などと表現するのではないかと思う。その直接の原因は(まだ東京五輪の直接影響は少ないと思うから)、「国土強靭化」とか「アベノミクス」などで、建設事業がスケジュール通り進行できないことだと思う。土木工事の人員や原料などが不足しているうえ、予算が思った以上に高騰していくのではないか。待っていられない人はどんどん都市に流出していく。子どもが町に住んでる人は一杯いるはずだから。だから住宅再建をしない人も多くなる。実際震災以後2割以上人口が減少している町も出てきているということである。だから、かつてオイルショックの後で開発がとん挫して荒れ野と化した苫東やむつ小川原などのミニ版が広がるのではないか。

 もっと深刻なのは原発避難地域で、家はあっても帰還できない生活が3年も続けば、もはや帰って農業や漁業に戻るというのは難しくなる一方だ。それでも「除染の遅れ」と言われる地域は帰還の可能性はあるが、原発そのものに近い双葉町、大熊町などは帰還できるメドが立たない。というか今の表現はまだ「配慮した言説」であって、はっきり言えば遠い未来はともかく、当面は「帰還不能地区」と言うしかないのだろうと思う。政府もどこかの時点で、「もう帰れないと思って、他の地区で生活再建を考えて欲しい」という時期が来るだろう。それはまだもう少し先なのではないかと思う。それを待っていられず、若い世代から他の地域に定住していく動きがはっきりするだろう。僕は自分に対策があるわけではないので、書いていいのかどうかとも思うけれど、認識のレベルではそのように考えているという話である。原発問題や安倍内閣の問題については、また別に書きたい。
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