ヴィム・ヴェンダース監督の『PERFECT DAYS』。冒頭で男が目覚め、歯を磨き、缶コーヒーを買ってから車に乗る。背景にスカイツリーが見えているから東京東部である。首都高に乗って都心部に向い、降りると男は公園にあるトイレを掃除する。その間セリフはなく、タイトルも出てこない。一体これはドキュメンタリー映画なのだろうか。いや、もちろんこれは劇映画である。男を演じる役所広司がカンヌ映画祭男優賞を受けたというニュースを知らずにこの映画を見る観客は一人もいないだろう。
ヴィム・ヴェンダースは最近も多くの劇映画を作っているが、近年はドキュメンタリーの方が出来が良いかもしれない。『ブエナ・ビスタ・ソシアル・クラブ』(1999)、『Pina/ピナ・バウシュ 踊り続けるいのち』(2011)、 『セバスチャン・サルガド/地球へのラブレター』(2014)などで、日本未公開ながら前作も『Pope Francis: A Man of His Word』(2018)というフランシスコ教皇の映画である。そんなヴェンダースが日本のトイレをテーマにドキュメンタリーを撮っても全然おかしくない。
(カンヌ映画祭の役所広司)
この映画は『パリ、テキサス』(1984)や『ベルリン 天使の詩』(1987)など最高傑作には及ばないが、なかなかよく出来ていて流れるように見られる。役所広司演じる男は「平山」と言うが、これは映画ファンならすぐ思い当たるように小津映画の主人公の多くに付けられた名前である。だから、この映画はヴェンダース版『東京物語』みたいなものだと思う。小津映画が表面上気持ち良く見られる裏側に多くの隠された事情があったように、この映画も「何が隠されているか」を探りたくなってくる。
日本人から見ると不自然な点にこだわってもヤボというもんだろうが、一応いくつか書いておく。この映画は2023年5月のカンヌ映画祭に出品されているんだから、当然それ以前に撮影されている。しかし、日本で新型コロナが5類に移行したのは2023年5月の連休明けで、それまではほとんどの日本人がマスクをしていたはずだ。ところがこの映画では道行く人が誰もマスクはせず、それどころかトイレ清掃員の平山もマスクなしである。これは最近のトイレ清掃を見ていても考えられない描写だ。時には素手で掃除しているのもおかしい。ヴェンダース流の「もう一つの東京」を描いた映画なんだろう。
(渋谷区のトイレ)
墨田区辺りから毎日のように高速で渋谷区のトイレ掃除に行くというのも、非常に不自然な設定だ。しかもトイレが素晴らしくキレイ。というか、そういうトイレ(有名建築家が設計している)を設置しているという事実が先にあり、その「宣伝」というか広報がもともと企画の始まりだという。ああいうトイレだと皆ちゃんと使うのか、どれもわざわざ掃除するまでもないぐらい。普通は何か「事件」があって、そこに「試練」がある。学園映画なら全員優等生みたいな設定じゃ詰まらないから、誰か問題を起こす生徒がいる。でもこの映画のトイレは誰も汚してないのである。
もちろん現実の日本では、そんなにキレイなトイレだけではない。特に男性用なら、便座を立てたままで使用して汚れていることは多い。まるで「日本人はトイレを清潔に使い、そんなキレイなトイレも毎日精魂込めて掃除している」と言わんばかりだ。平山の生活も不可思議。昼にサンドイッチを食べて、夜に飲みに行く以外の食事はどうなっているんだろう。この平山の住む家のトイレはどうなんだろう? 夜間頻尿はないのか。浅草まで行くのに吾妻橋じゃなく桜橋(X字型の橋)を使うのも不自然だが、まあ「絵になる」んだろう。自転車の鍵は掛けるがそのまま置いて(何故か持っていかれない)、地下鉄浅草駅地下街の店の常連という設定は、余りに定番すぎて笑ってしまうぐらい。
(夜読書する平山)
この平山の決まり切った日常を描いて少し退屈する頃合いに、平山をかき回す人物が現れる。そこで彼の人物像が少し明らかになるが、ケータイも持ってないのかと思ってたら、会社との連絡用に持っていたじゃないか。読んでいる本は古本屋で買うが、出て来るのはフォークナー『野生の棕櫚』、幸田文『木』、パトリシア・ハイスミス『11の物語』である。この選書センスは驚くほどで、要するに彼の過去は結構な学歴があるか、まあ学校は別にしても「文学青年」的だったのだろう。そして姪が家出してきて、妹がいることが判明する。父親との確執があったようだが、「平山の過去」はこの映画で「隠された」一番大きなものだ。
この平山の暮らし方は、ある種の「隠者」というものだ。鴨長明や吉田兼好が林間に庵を結んだのと違い、現代では都会の「ボロ」家屋に隠れ住む。そして日々オリンパスのフィルムカメラ(僕も昔持っていた)を使って、「木漏れ日」を撮る。それが彼の「ゼン」(禅)であり、「サトリ」である、みたいな描き方だろうか。「足るを知る」シンプルライフは美しいとも言えるから、映画のキャッチコピーは「こんなふうに生きていけたなら」。だけど、僕はこういう風に生きていきたくはないのである。
(姪のニコと)
役所広司は実は僕と同じ学年になる年齢で、会社員や公務員だったらもう定年である。政治家や会社経営者ならまだまだ現役かもしれないが、恐らく「自ら下りた人生」を送ってきた平山は、大した年金もないだろう。働かざるをえない経済事情があるから働いているのである。妹はお抱え運転手を伴って現れたから、生れつき貧困家庭に育ったのではなく、彼にも「経済的に恵まれた人生」はあり得た。そして、家族との関係もほぼ断っている。そういう人生も世の中にはあるわけだが、施設に入っている老いた父にも会いたくない人生というのは、僕が生きていきたい人生とは違う。
この映画の魅力は使われている音楽である。それもカセットテープなのである。僕も知らなかった曲が多いが、調べればすぐに判るのでここでは書かない。また脇役というか、チョイ役みたいなところで、思わぬ人が出ている。クレジットを見るまで気付かなかった人(研ナオコ)などもいるが、これも自分で調べて欲しい。冒頭でアニマルズ「朝日のあたる家」が流れるが、平山行きつけの店のママがそれを日本語の歌詞で歌うシーンがある。この歌詞は浅川マキのもので、歌っているママは石川さゆり。
いろいろと調べていくとなかなか面白いし、ロケ地を訪ねた記事も一杯出て来る。まあ、一見の価値ある映画に違いないが、ただ感心して見ちゃマズいだろう。なお、役所広司はこういう「いい人」じゃなく、『シャブ極道』『うなぎ』『すばらしき世界』など犯罪者を演じる方がずっと凄い役者である。
ヴィム・ヴェンダースは最近も多くの劇映画を作っているが、近年はドキュメンタリーの方が出来が良いかもしれない。『ブエナ・ビスタ・ソシアル・クラブ』(1999)、『Pina/ピナ・バウシュ 踊り続けるいのち』(2011)、 『セバスチャン・サルガド/地球へのラブレター』(2014)などで、日本未公開ながら前作も『Pope Francis: A Man of His Word』(2018)というフランシスコ教皇の映画である。そんなヴェンダースが日本のトイレをテーマにドキュメンタリーを撮っても全然おかしくない。
(カンヌ映画祭の役所広司)
この映画は『パリ、テキサス』(1984)や『ベルリン 天使の詩』(1987)など最高傑作には及ばないが、なかなかよく出来ていて流れるように見られる。役所広司演じる男は「平山」と言うが、これは映画ファンならすぐ思い当たるように小津映画の主人公の多くに付けられた名前である。だから、この映画はヴェンダース版『東京物語』みたいなものだと思う。小津映画が表面上気持ち良く見られる裏側に多くの隠された事情があったように、この映画も「何が隠されているか」を探りたくなってくる。
日本人から見ると不自然な点にこだわってもヤボというもんだろうが、一応いくつか書いておく。この映画は2023年5月のカンヌ映画祭に出品されているんだから、当然それ以前に撮影されている。しかし、日本で新型コロナが5類に移行したのは2023年5月の連休明けで、それまではほとんどの日本人がマスクをしていたはずだ。ところがこの映画では道行く人が誰もマスクはせず、それどころかトイレ清掃員の平山もマスクなしである。これは最近のトイレ清掃を見ていても考えられない描写だ。時には素手で掃除しているのもおかしい。ヴェンダース流の「もう一つの東京」を描いた映画なんだろう。
(渋谷区のトイレ)
墨田区辺りから毎日のように高速で渋谷区のトイレ掃除に行くというのも、非常に不自然な設定だ。しかもトイレが素晴らしくキレイ。というか、そういうトイレ(有名建築家が設計している)を設置しているという事実が先にあり、その「宣伝」というか広報がもともと企画の始まりだという。ああいうトイレだと皆ちゃんと使うのか、どれもわざわざ掃除するまでもないぐらい。普通は何か「事件」があって、そこに「試練」がある。学園映画なら全員優等生みたいな設定じゃ詰まらないから、誰か問題を起こす生徒がいる。でもこの映画のトイレは誰も汚してないのである。
もちろん現実の日本では、そんなにキレイなトイレだけではない。特に男性用なら、便座を立てたままで使用して汚れていることは多い。まるで「日本人はトイレを清潔に使い、そんなキレイなトイレも毎日精魂込めて掃除している」と言わんばかりだ。平山の生活も不可思議。昼にサンドイッチを食べて、夜に飲みに行く以外の食事はどうなっているんだろう。この平山の住む家のトイレはどうなんだろう? 夜間頻尿はないのか。浅草まで行くのに吾妻橋じゃなく桜橋(X字型の橋)を使うのも不自然だが、まあ「絵になる」んだろう。自転車の鍵は掛けるがそのまま置いて(何故か持っていかれない)、地下鉄浅草駅地下街の店の常連という設定は、余りに定番すぎて笑ってしまうぐらい。
(夜読書する平山)
この平山の決まり切った日常を描いて少し退屈する頃合いに、平山をかき回す人物が現れる。そこで彼の人物像が少し明らかになるが、ケータイも持ってないのかと思ってたら、会社との連絡用に持っていたじゃないか。読んでいる本は古本屋で買うが、出て来るのはフォークナー『野生の棕櫚』、幸田文『木』、パトリシア・ハイスミス『11の物語』である。この選書センスは驚くほどで、要するに彼の過去は結構な学歴があるか、まあ学校は別にしても「文学青年」的だったのだろう。そして姪が家出してきて、妹がいることが判明する。父親との確執があったようだが、「平山の過去」はこの映画で「隠された」一番大きなものだ。
この平山の暮らし方は、ある種の「隠者」というものだ。鴨長明や吉田兼好が林間に庵を結んだのと違い、現代では都会の「ボロ」家屋に隠れ住む。そして日々オリンパスのフィルムカメラ(僕も昔持っていた)を使って、「木漏れ日」を撮る。それが彼の「ゼン」(禅)であり、「サトリ」である、みたいな描き方だろうか。「足るを知る」シンプルライフは美しいとも言えるから、映画のキャッチコピーは「こんなふうに生きていけたなら」。だけど、僕はこういう風に生きていきたくはないのである。
(姪のニコと)
役所広司は実は僕と同じ学年になる年齢で、会社員や公務員だったらもう定年である。政治家や会社経営者ならまだまだ現役かもしれないが、恐らく「自ら下りた人生」を送ってきた平山は、大した年金もないだろう。働かざるをえない経済事情があるから働いているのである。妹はお抱え運転手を伴って現れたから、生れつき貧困家庭に育ったのではなく、彼にも「経済的に恵まれた人生」はあり得た。そして、家族との関係もほぼ断っている。そういう人生も世の中にはあるわけだが、施設に入っている老いた父にも会いたくない人生というのは、僕が生きていきたい人生とは違う。
この映画の魅力は使われている音楽である。それもカセットテープなのである。僕も知らなかった曲が多いが、調べればすぐに判るのでここでは書かない。また脇役というか、チョイ役みたいなところで、思わぬ人が出ている。クレジットを見るまで気付かなかった人(研ナオコ)などもいるが、これも自分で調べて欲しい。冒頭でアニマルズ「朝日のあたる家」が流れるが、平山行きつけの店のママがそれを日本語の歌詞で歌うシーンがある。この歌詞は浅川マキのもので、歌っているママは石川さゆり。
いろいろと調べていくとなかなか面白いし、ロケ地を訪ねた記事も一杯出て来る。まあ、一見の価値ある映画に違いないが、ただ感心して見ちゃマズいだろう。なお、役所広司はこういう「いい人」じゃなく、『シャブ極道』『うなぎ』『すばらしき世界』など犯罪者を演じる方がずっと凄い役者である。
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