朝井リョウ原作の『少女は卒業しない』という映画を見たのは、もう一月ぐらい前になる。かつて『カランコエの花』を作った中川駿監督の初の長編映画。どうも学校に関して不思議な設定が幾つもあって、原作を読んで確かめてみようと思った。案外手強い本で時間が掛かり、その間に卒業シーズンもロードショー上映も終わってしまった。まあ、今後も各地で上映はあるし、書きたいのは「学校映画」という理由だから書いてみたい。
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映画は4人の女子高生を描いている。それぞれのエピソードを時間的にバラバラにして、そのピースを並行して配置する。だから最初はよく判らないけど、最後になってピースがはまって「なるほど、そうだったのか」となる。ちょっとミステリー的な作りでもあるので、あまり筋を書かないことにする。4人の中でも、生徒会長でもないのに答辞を読むことになる「山城まなみ」のエピソードが長く、河井優美初主演とうたっている。2022年も『PLAN75』『ある男』など好調が続いていたが、これを主演というのは無理があるだろう。原作を読んだら、まなみが答辞を読むという話は全然出て来なかった。
(料理部長だったまなみ)
そもそも原作は7話まであって、全然出て来ないエピソードに驚くようなものが多かった。この高校は進学校で、生徒会長の田所君なんか現役で東大に合格した。答辞は当然田所君がやるんだろう。映画にあるのは、男女バスケ部の「禁断の部長同士の交際」の行方、図書館の先生に憧れる作田さん、ヴィジュアル系バンドの森崎に密かに憧れている軽音部長、そして料理部のまなみと交際相手の駿の4つのエピソードである。それぞれのエピソードを若手男女俳優が演じて、卒業式間近の感傷的なムードを盛り上げる。演出や編集、音楽も巧みで、なかなかの佳作だった。
ところで原作を読んだら、4つの話全部が原作とかなり違っていてビックリした。別に映画が原作通りである必要はなく、もちろんそれは全然構わない。しかし、僕には「どうして」と思うシーンが幾つもあった。例えば、バスケ部の部長同士が久しぶりに会って屋上で花火をする。今どき生徒だけで屋上に出られる学校なんてあるのか。原作を読むと、屋上に行くのは別の二人。退学してダンスで芸能活動をしている男子がいて、卒業式当日に幼なじみを誘って東棟の屋上へ行く。この学校は四角形(ロの字型)になっているが、東棟はボロでもう使われてない。誰も行かなくなっていて、強く蹴ると屋上の鍵が外れて出られるという設定だった。
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学校を舞台にした映画は、主にロケすることになる。教室や職員室だけセットを組むこともあるが、校庭の向こうに数階建て(高校は5階まで、中学は4階まで、小学校は3階までが原則)のセットを作る予算などないだろう。だから大体は夏休みなどを使ってロケすることになる。この映画のロケ地を調べると、山梨県上野原市立旧島田中学校で撮ったと出ていた。旧というのは、すでに閉校になって他の施設になっているからである。作田さんのエピソードで、図書室がやけに小さいなと思ったが、それは中学校でロケしたからだった。原作も映画も「廃校」と呼んでいるが、学校の場合「閉校」と呼ぶ。それもおかしいなと思った。
時々芸能人が何年も経ってから大学受験して話題になることがある。大学の出願資格は「高校卒業または卒業見込み」だから、「卒業証明書」を出身高校で発行してもらったはずだ。時間が経ってもそういうことがあるから、高校を「廃校」にするわけにはいかない。どこか別の高校に書類を移管して、そこで発行を続けるわけである。もっとおかしいのは、その高校が「廃校」になって「卒業式翌日から解体作業が始まる」というのである。無くなる学校に下級生がいて、最後の軽音部の公演に詰めかけるというのも不可解。閉校になるということは、新入生が募集停止になるということで、最後の卒業生は下級生がいないはずである。
(原作本=集英社文庫)
これは原作を読まなくちゃと思ったのである。そうしたら、「翌日から解体」は原作にある設定で、だからこそ生徒会がアンケートして「3月25日」に卒業式を動かしたというのである。では在校生の終業式は前日だったのか。翌日から解体という設定で、皆が特別に感傷的な雰囲気になっている。だが、教師はどこに出勤すれば良いのだろうか。教師は3月26日も(土日じゃなければ)勤務日である。次の学校に異動の辞令が出るのは、4月1日だろう。冒頭に「山梨県立」と出るんだから。それに卒業式後に軽音部の公演をしてるから、放送や照明の設備が体育館に残っている。それはいつ搬出するんだろう?
まあ、別にどうでも良い話である。僕も別にこだわって書いているわけじゃない。ただ、NHKの大河ドラマなんかだと歴史家がアドバイザーになる。単なる時代劇じゃなく、歴史上の事実に基づくドラマである以上、基本的な史実に基づく必要があると思われている。一方、学校を舞台にする小説、ドラマ、映画などの場合、そういう人がいないからだろうか、どうも変な設定が多いのである。もちろんあり得ないような設定を楽しむ恋愛、アクションドラマの場合はどうでも良い。学校で殺人があろうが、教師がゾンビであろうが構わない。でもある程度リアルな学校映画の場合、誰かアドバイザーを付けるべきではないか。
僕は一番驚いたのは、とても好きで優れた映画なんだけど、岩井俊二監督の『Love Letter』である。これは小樽の中学校の2年4組に、全く同姓同名の生徒がいたという設定だった。それも「藤井樹」という名前の男子と女子である。おかしいでしょ。いくら何でも、クラス分けで別にするよ。4組まであるんだから。それがクラス分けというものである。学校というか、教師をバカにしてるんだろうか。まあ、そういうことを気にせずに見られる傑作ではある。だけど、北海道なんだから、ちょっと山の方かなんかで学年一クラスしかなかったという設定にすれば、先の問題は解消するじゃないか。学校映画にはそういうことが多いのである。
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映画は4人の女子高生を描いている。それぞれのエピソードを時間的にバラバラにして、そのピースを並行して配置する。だから最初はよく判らないけど、最後になってピースがはまって「なるほど、そうだったのか」となる。ちょっとミステリー的な作りでもあるので、あまり筋を書かないことにする。4人の中でも、生徒会長でもないのに答辞を読むことになる「山城まなみ」のエピソードが長く、河井優美初主演とうたっている。2022年も『PLAN75』『ある男』など好調が続いていたが、これを主演というのは無理があるだろう。原作を読んだら、まなみが答辞を読むという話は全然出て来なかった。
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そもそも原作は7話まであって、全然出て来ないエピソードに驚くようなものが多かった。この高校は進学校で、生徒会長の田所君なんか現役で東大に合格した。答辞は当然田所君がやるんだろう。映画にあるのは、男女バスケ部の「禁断の部長同士の交際」の行方、図書館の先生に憧れる作田さん、ヴィジュアル系バンドの森崎に密かに憧れている軽音部長、そして料理部のまなみと交際相手の駿の4つのエピソードである。それぞれのエピソードを若手男女俳優が演じて、卒業式間近の感傷的なムードを盛り上げる。演出や編集、音楽も巧みで、なかなかの佳作だった。
ところで原作を読んだら、4つの話全部が原作とかなり違っていてビックリした。別に映画が原作通りである必要はなく、もちろんそれは全然構わない。しかし、僕には「どうして」と思うシーンが幾つもあった。例えば、バスケ部の部長同士が久しぶりに会って屋上で花火をする。今どき生徒だけで屋上に出られる学校なんてあるのか。原作を読むと、屋上に行くのは別の二人。退学してダンスで芸能活動をしている男子がいて、卒業式当日に幼なじみを誘って東棟の屋上へ行く。この学校は四角形(ロの字型)になっているが、東棟はボロでもう使われてない。誰も行かなくなっていて、強く蹴ると屋上の鍵が外れて出られるという設定だった。
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学校を舞台にした映画は、主にロケすることになる。教室や職員室だけセットを組むこともあるが、校庭の向こうに数階建て(高校は5階まで、中学は4階まで、小学校は3階までが原則)のセットを作る予算などないだろう。だから大体は夏休みなどを使ってロケすることになる。この映画のロケ地を調べると、山梨県上野原市立旧島田中学校で撮ったと出ていた。旧というのは、すでに閉校になって他の施設になっているからである。作田さんのエピソードで、図書室がやけに小さいなと思ったが、それは中学校でロケしたからだった。原作も映画も「廃校」と呼んでいるが、学校の場合「閉校」と呼ぶ。それもおかしいなと思った。
時々芸能人が何年も経ってから大学受験して話題になることがある。大学の出願資格は「高校卒業または卒業見込み」だから、「卒業証明書」を出身高校で発行してもらったはずだ。時間が経ってもそういうことがあるから、高校を「廃校」にするわけにはいかない。どこか別の高校に書類を移管して、そこで発行を続けるわけである。もっとおかしいのは、その高校が「廃校」になって「卒業式翌日から解体作業が始まる」というのである。無くなる学校に下級生がいて、最後の軽音部の公演に詰めかけるというのも不可解。閉校になるということは、新入生が募集停止になるということで、最後の卒業生は下級生がいないはずである。
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これは原作を読まなくちゃと思ったのである。そうしたら、「翌日から解体」は原作にある設定で、だからこそ生徒会がアンケートして「3月25日」に卒業式を動かしたというのである。では在校生の終業式は前日だったのか。翌日から解体という設定で、皆が特別に感傷的な雰囲気になっている。だが、教師はどこに出勤すれば良いのだろうか。教師は3月26日も(土日じゃなければ)勤務日である。次の学校に異動の辞令が出るのは、4月1日だろう。冒頭に「山梨県立」と出るんだから。それに卒業式後に軽音部の公演をしてるから、放送や照明の設備が体育館に残っている。それはいつ搬出するんだろう?
まあ、別にどうでも良い話である。僕も別にこだわって書いているわけじゃない。ただ、NHKの大河ドラマなんかだと歴史家がアドバイザーになる。単なる時代劇じゃなく、歴史上の事実に基づくドラマである以上、基本的な史実に基づく必要があると思われている。一方、学校を舞台にする小説、ドラマ、映画などの場合、そういう人がいないからだろうか、どうも変な設定が多いのである。もちろんあり得ないような設定を楽しむ恋愛、アクションドラマの場合はどうでも良い。学校で殺人があろうが、教師がゾンビであろうが構わない。でもある程度リアルな学校映画の場合、誰かアドバイザーを付けるべきではないか。
僕は一番驚いたのは、とても好きで優れた映画なんだけど、岩井俊二監督の『Love Letter』である。これは小樽の中学校の2年4組に、全く同姓同名の生徒がいたという設定だった。それも「藤井樹」という名前の男子と女子である。おかしいでしょ。いくら何でも、クラス分けで別にするよ。4組まであるんだから。それがクラス分けというものである。学校というか、教師をバカにしてるんだろうか。まあ、そういうことを気にせずに見られる傑作ではある。だけど、北海道なんだから、ちょっと山の方かなんかで学年一クラスしかなかったという設定にすれば、先の問題は解消するじゃないか。学校映画にはそういうことが多いのである。
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