尾形修一の紫陽花(あじさい)通信

教員免許更新制に反対して2011年3月、都立高教員を退職。教育や政治、映画や本を中心に思うことを発信していきます。

「冤罪弁護士」今村核氏の逝去を悼むー2020年8月の訃報④

2022年11月09日 21時57分04秒 | 追悼
 10月になって公表された8月の訃報が2件あった。それぞれ書くべきことがあるので、2回に分けて書くことにする。その一つが今村核弁護士の訃報で、まだ59歳だったから、本当に驚いた。掲載されてない新聞が多く、知らない人も多いのではないか。非常に大きな損失というしかなく、何と言っていいのか言葉を失う思いだ。

 事情はよく判らないながら、10月27日に旬報法律事務所のホームページに以下のような訃報が掲載された。「この間、都合により公表を控えておりましたが、当事務所の今村核弁護士が2022年8月20日頃死去いたしました(享年59歳)。謹んでお知らせいたします。なお、通夜ならびに葬儀につきましては、ご家族のご希望により、ご家族とご親族のみで執り行われる予定です。」
(今村核弁護士)
 僕は今村弁護士を個人的に知っているわけではない。ただ2冊の本で知っているだけである。そして、その一冊に関して、ここに書いた。「「冤罪弁護士」今村核を見よ!ー佐々木健一「雪ぐ人」を読む」(2021.7.31)である。新潮文庫から出た、佐々木健一雪(そそ)ぐ人 「冤罪弁護士」今村核の挑戦」という本の紹介である。僕はその本を読む前に、今村核冤罪と裁判 冤罪弁護士が語る真実』(講談社現代新書)を読んでいたので、この人がとてつもない人だと知っていた。

 日本の数多くの著名冤罪事件では、無罪を獲得するまで長年の苦労をする著名弁護士が存在する。しかし、今村核氏はそういう弁護士ではなかった。死刑・無期などの重刑事件では、ある程度大きな「支援会」が作られることも多い。そういう事件で無罪判決が出ると、新聞やテレビで大きく報道される。だが今村弁護士が担当したのは、新聞にも載らないような「小さな事件」ばかりだった。そのため、僕は今村核弁護士の名前を先の講談社現代新書を読むまで知らなかったのである。
(『雪ぐ人』新潮文庫)
 以下、基本的に先の記事をもとに書くことにするが、改めて読んで貰いたいことが多いのである。先の新潮文庫を読むと、「冤罪弁護士は儲からない」ことを痛感する。所属する弁護士事務所の経費を負担するのも大変なぐらいに。今村核という人は当然ながら冤罪事件だけを担当する弁護士ではない。そういう弁護士になりたかったわけでもない。ただ弁護士の使命感として、冤罪事件に本気で取り組んできたうちに、他の事件が手に付かないぐらいになってしまった。「疑わしきは被告人の利益に」の原則が貫かれていれば、今村弁護士はここまで苦労しない。

 しかし、「有罪率99.9%」を法務大臣自らが誇る国である。(ゴーン逃亡事件の後に森雅子法相がそう述べた。)常識があれば無罪だと思う裁判でも、日本では有罪となる。そういう判決を今村弁護士も経験してきたから、「そこまでやるか」的な弁護活動を行わないと日本の裁判では無罪を勝ち取れないと今村弁護士は覚悟したのである。そんな日本の裁判で今村弁護士は14件の無罪判決を得た。それもほとんど新聞にも報道されないような小さな冤罪事件ばかりでだ。多くの弁護士は刑事事件はあまり担当しないし、担当しても無罪判決の事件は生涯で一回あるかどうかである。
(「冤罪と裁判」)
 そういう事件が持ち込まれても、大体は貧しい庶民が巻き込まれたケースばかりである。全然「成功報酬」につながらないだけでなく、トコトンやるから精神的にも物質的にも負担が多い。そのことは『雪ぐ人』で紹介される「放火冤罪」や「痴漢冤罪」を読めばよく判る。「放火」事件では現場を再現して実際に燃やしてみる実験を行う。「痴漢」事件ではバスの車載映像を一コマごとに解析して、痴漢行為がなかったことを証明する。それでも一審は有罪判決だった。

 被害者は右手で触られたと証言し、被告人は携帯電話でメールしていたと反論した。だから右手の映像を分析したところ、裁判長は「左手で痴漢をした可能性もある」というのである。左手はずっとつり革をつかんでいたのだが、バスが揺れて一瞬映像が判りにくいところがある。映像を何百回も見ているうちに判ってくることがある。今度は左手も解析した鑑定を提出し、控訴審では無罪判決を得られた。心理学鑑定なども行ったのだが、それは裁判長に却下された。

 今村弁護士のモットーは、科学的な真実を求めることである。無罪判決を得るというより、事件の真相(例えば火事がどのように起こったのか)を明らかにすれば、それが無罪を明らかにするのである。もっともいかに科学的な真実を証明しても、それを受け入れない裁判官もいるのである。何でだろうかというのが、次の問題になる。先の痴漢事件で一審有罪判決を出した裁判官は、若い時は青法協や裁判官懇話会(どちらも最高裁からにらまれている団体)に関わっていたという。それが「変節」していったのは何故だろうか。それは判らないけれど、最高裁の人事のあり方にあると今村弁護士は指摘する。

 今村核という人の人生には考えさせられることが多い。この本から見えてくる日本のあり方はなんとも怖い。今村氏は怒っているが、それを佐々木氏を通して読むから、より深く怒りと絶望が伝わってくる。さすがに何度も取材を重ねた佐々木氏の文章は判りやすい。改めて多くの人に日本の冤罪問題を考えて欲しいから、特に入手しやすい新潮文庫の『雪ぐ人』は是非読んで見て欲しい。しかし、今村弁護士のように生きることはなかなか出来ないと思う。人生を振り返って思い返すことの多い本でもある。そのような今村核弁護士の訃報には非常に残念な思いが募る。
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一柳慧、津原泰水、清水信次他ー2022年10月の訃報②

2022年11月08日 23時06分00秒 | 追悼
 2022年10月の訃報、続き。作曲家の一柳慧(いちやなぎ・とし)が10月7日に死去、89歳。1954年、19歳で渡米してジュリアード音楽院で学ぶとともに、作曲家ジョン・ケージに大きな影響を受け、前衛芸術運動に参加した。1956年にオノ・ヨーコと結婚したことでも知られる(62年離婚)。61年に帰国して様々な芸術分野のアーティストと親交を深め、ジャンルを超えた活動を続けた。数多くの交響曲、協奏曲、オペラ、合唱曲などを作曲したが、現代音楽には詳しくないから聞いてはいない。2008年文化功労者、2018年文化勲章。僕は吉田喜重監督の傑作映画『エロス+虐殺』で名前を覚えた。朝日新聞の追悼文で片山杜秀がそのことに触れていて、さすが。素晴らしく美しい旋律に心が震えた。昔渋谷ジァン・ジァンで行われたエリック・サティの「ヴェクサシオン」演奏会で、ピアノを弾いていたのを聞いている。
(一柳慧)(ジョン・ケージと)
 作家の津原泰水(つはら・やすみ)が10月2日に死去、58歳。かねて闘病中だったというが、とても残念。ミステリー、SF、ファンタジー的な傾向の作家だが、広い意味で青春小説と言える作品が多い。『ヒッキーヒッキーシェイク』を版元の幻冬舎が文庫せず、ハヤカワ文庫から出た時に読んで、実に面白かった。そして幾つも読んで「津原泰水を発見せよ」と題して5回記事を書いた。「『ルピナス探偵団』の誘惑」「『ブラバン!』、ビターな青春小説」「凄いな『ヒッキーヒッキーシェイク』」「奇書『瑠璃玉の耳輪』」「津原泰水を発見せよファイナル」である。読み始めたら止められなくなった。『歌うエスカルゴ』のドラマ化希望。
(津原泰水)
 スーパーマーケット「ライフ」創業者、日本スーパーマーケット協会の創設者、清水信次が10月25日に死去、96歳。大阪で両親が経営していた清水商店を母体に、パイナップルやバナナの輸入から店を大きくし、61年に大阪府豊中市に「ライフ」1号店を開店。そこから一代で全国に270店舗を有する巨大スーパーに育てた。中内功(ダイエー)、鈴木敏文(イトーヨーカドー)、岡田卓也(ジャスコ)とともに、戦後流通業界の代表者である。1986年に中曽根内閣の売上税構想に反対したり、テレビの討論番組に出るなどして一般的知名度も高かった。参院選に2回出て落選。『闘魂人生必勝の道』というアントニオ猪木みたいな本も出している。
(清水信次)
 分子生物学者の古市泰宏(ふるいち・やすひろ)が10月8日死去、81歳。1975年、米留学中にmRNAに「キャップ」という構造を発見した。mRNAワクチンで使われていて、ノーベル生理学・医学賞、化学賞候補と言われた。新潟薬科大学客員教授。
(古市泰宏)
 アジア文化史研究者の前田耕作が10月11日死去、89歳。64年に第1次名大アフガニスタン学術調査団に参加、それ以来アフガニスタンのバーミヤン遺跡などを研究した。バーミヤン遺跡の保存、復元のために国際的に活動した。文化人類学者、考古学者の小山修三が10月26日に死去、83歳。オーストラリアの先住民研究を専門としながら、考古学者として三内丸山遺跡の研究も行った。民俗学博物館を経て、大阪府の吹田市立博物館長を務めた。
(前田耕作)(小山修三)
 撮影監督の金宇満司(かなう・みつじ)が10月27日死去、89歳。岩波映画撮影所に入社して、多くの作品で活躍した。熊井啓監督の『サンダカン八番娼館 望郷』の撮影をした人だが、『黒部の太陽』『栄光への5000キロ』の後、71年に石原プロに移籍した。テレビで「大都会」「西部警察」などを担当し、2005年に定年で辞めるまで常務として石原プロを支えたことで知られる。石原裕次郎の看病をした日々の回想記も残している。
(金宇満司)
 俳優、声優、ラジオパーソナリティの近石真介が10月5日死去、91歳。「サザエさん」の初代マスオ、洋画のジェームズ・キャグニー、ジェリー・ルイスなどの声で知られた。ラジオ番組「こんちワ近石真介です」のコーナーから始まった「はがきでこんにちは」は1971年から2020年まで続いた。テレビ「はじめてのおつかい」のナレーションでも知られた。
(近石真介)
 1951年のボストンマラソンで優勝した田中茂樹が10月4日死去、91歳。広島県出身で「原爆ボーイ」の活躍として注目された。柔道界最後の10段だった大沢慶己(よしみ)が10月21日死去、90歳。67キロの小兵で「昭和の牛若丸」と呼ばれた。
(田中茂樹)(大沢慶己)
 アメリカの歌手ジェリー・リー・ルイスが10月28日死去、87歳。エルビス・プレスリーやチャック・ベリーらとロックンロールの黄金時代を築いた。「火の玉ロック」などのヒット曲がある。88年「ロックの殿堂」入り。
(ジェリー・リー・ルイス)
 フランスの抽象画家ピエール・スーラージュが10月25日死去、102歳。墨だけで表現した作品で知られる。世界各地で展覧会が開かれ、特に存命中にルーブル美術館で回顧展が開かれたことで知られる。
(スーラージュ)

上村好男、5日死去、88歳。水俣病互助会長。長女の故・上村智子さんはユージーン・スミスの写真で知られる。
山本豊三、11日死去、82歳。俳優。50年代に松竹の青春映画で活躍。小坂一也、三上真一郎とともに「3代目三羽烏」と言われた。
松永光、11日死去、93歳。政治家。埼玉1区から10回当選し、文部大臣、通産大臣、大蔵大臣などを歴任した。
万波誠、14日死去、81歳。医師。宇和島徳洲会病院で「病気腎移植」を実施したことで知られる。
柴英三郎、18日死去、95歳。脚本家。内田吐夢監督『大菩薩峠』でデビュー。テレビの「三匹の侍」「傷だらけの天使」などを手掛けた。
三戸公(みと・ただし)、18日死去、100歳。経営学者。『ドラッカー』『公と私』などで知られた。立教大学名誉教授。
桃山邑(ももやま・ゆう)、18日死去、64歳。水族館劇場座長。
永田竹丸、19日死去、88歳。漫画家。トキワ荘に出入りし、漫画家として活躍した。第1回講談社児童まんが賞受賞。
矢吹申彦(やぶき・のぶひこ)、28日死去、78歳。イラストレーター。「ニュー・ミュージック・マガジン」「スイング・ジャーナル」などの表紙を手掛けた。また多くのレコードジャケットを手掛けている。東京散歩の本や絵本なども沢山書いている。

エデル・ジョフレ、2日死去、86歳。ブラジルのボクシング選手。バンタム級王者としてファイティング原田と闘い、判定で敗れた。再選でも敗れた後、フェザー級に階級を上げてチャンピオンになった。通算78戦72勝2敗4分けで、2敗が原田戦。
ロレッタ・リン、4日死去、90歳。アメリカのカントリーミュージックの歌手。社会的なテーマも歌ったため、ラジオ局から放送禁止にされた曲もあった。自伝が『歌え!ロレッタ愛のために』として映画化され、シシー・シペイシクがアカデミー賞主演女優賞。
ブリュノ・ラトゥール、9日死去、75歳。フランスの哲学者、人類学者。アクター・ネットワーク理論で知られた。2021年京都賞受賞。
アンジェラ・ラズベリー、11日死去、96歳。アメリカの俳優。英国で生まれたが、渡米して『ガス燈』などで活躍した。テレビドラマ「ジェシカおばさんの事件簿」で知られる。また舞台ではミュージカル「メイム」「スウィーニー・トッド」などでトニー賞を4回受賞。
ロビー・コルトレーン、14日死去、72歳。イギリスの俳優。「ハリー・ポッター」シリーズのハグリット役で知られた。
ハンナ・ホースラル、28日死去、93歳。「アンネの日記」で親友のハンネリとして登場した。戦後はイスラエルに移住した。
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アントニオ猪木と仲本工事ー2022年10月の訃報①

2022年11月07日 22時33分18秒 | 追悼
 2022年10月の訃報は2回に分けることにする。他に8月の訃報が10月に公表されたケースがあり、それを別に書きたい。10月は何と言っても、アントニオ猪木仲本工事の訃報ということになる。大きく報じられたというか、名前を多くの人が知っていたという意味だけど。9月30日に三遊亭円楽(6代目)が亡くなり、翌日にアントニオ猪木が亡くなった。実感的には二人続けて有名人が亡くなったと感じたわけだが、月ごとに分けて書く時には、ちょうど分かれてしまう。それも不思議な気がする。
(アントニオ猪木)
 アントニオ猪木の基本的なデータを書いておくと、1943年2月20日に横浜で生まれ、2022年10月1日に死去。79歳。本名は猪木寛至(いのき・かんじ)。13歳の時に家族とともにブラジルに移住し、サンパウロ近郊で暮らした。1960年にプロレス興行でブラジルを訪れていた力道山にスカウトされ、同年9月30日にプロレスラーとしてデビューした。(その日はジャイアント馬場のデビュー日でもあった。)当初は本名で登場したが、1962年11月にリングネームをアントニオ猪木に改名した。何となく、ブラジルでアントニオを名乗っていた日系ブラジル人のようなイメージがあるが、それは間違い。
(葬儀)
 僕はプロレスのことは詳しくない。当時の子どもたち多くと同じく、力道山はよくテレビで見ていた。幼いながら力道山が殺されたニュースも覚えている。だからアントニオ猪木もジャイアント馬場ももちろん知っていた。しかし、テレビ中継が少なくなり、自分も成長して他のことに関心が出て来ると見なくなった。それはプロ野球や大相撲も同じで、ラジオの深夜放送を聞きながら受験勉強していたのである。そういう僕でも「アントニオ猪木対モハメド・アリ戦」は見た。1976年6月26日である。この「世紀の凡戦」には、途中で「何だこれ」と思った記憶がある。今ではよく知られているように「異種間格闘技」の始まりで、真剣勝負だったとされる。猪木とアリの関係はその後も続き、入場曲「イノキボンバイエ」はアリから贈られたものだった。
(猪木・アリ戦)
 1989年の参議院選挙に、突然「スポーツ平和党」を結成して立候補したのには驚いた。この時の参院選は消費税やリクルート事件をめぐって、社会党が躍進した選挙だった。普段政治に関心がなさそうな体育教師が猪木に入れると燃えていた。しかし、与野党激突のさなかに新党を結成するやり方は、どうも与党を手助けする気がした。結局、1989年から95年まで務めて、次は落選。92年に当選していた江本孟も離党した。しかし、2013年になって、日本維新の会から立候補して2期目の参議院議員に当選した。この時の「維新」は「大阪維新の会」と「立ちあがれ日本」が合同した政党で、代表は石原慎太郎である。翌年に分裂した時は石原系の「次世代の党」に所属した。(以後、日本を元気にする会、無所属)。湾岸戦争前のイラク訪問や独自の「北朝鮮」外交を評価する声もあるが、僕にはどうもずいぶん右寄りの政治家だったという気がする。
(病床のアントニオ猪木)
 政治家としてはともかく、やはり「燃える闘魂」と呼ばれた猪木の技の数々、「卍固め」「コブラツイスト」「バック・ドロップ」などを聞くと、幼い頃のプロレスごっこを思い出して懐かしくなる。そういう人が多かったのだろう、朝日新聞の俳壇、歌壇に惜別の投稿が相次いだという記事は興味深かった。「闘魂の猪木が遺したこの言葉元気があれば何でもできる」(静岡・半田豊)、「カラーテレビがついにわが家に来た夜に出たぞ猪木のコブラツイスト」(愛媛・村上敏之)、「猪木馬場茶の間にプロレス流れてた昭和は二つ前の元号」(広島・森浩希)、「死ぬるまで燃ゆる闘魂星流る」(長野・懸展子)、「闘病の燃える闘魂一葉落つ」(福島・佐藤茂)…。やがて10月1日は「闘魂忌」という季語になるのだろう。

 ザ・ドリフターズで活躍した仲本工事が10月19日に死去、81歳。本名は仲本興喜。前日の18日午前に横浜市で交通事故にあって重体というニュースが流れていた。僕はザ・ドリフターズもあまりよく知らない。何と言っても「8時だヨ!全員集合」ということになるが、僕はこのテレビ番組を見ていないのである。テレビは一家に一台の時代で、親が見ない番組は子どもは見られない。だけど、メンバーの名前は知っていた。5人というか、6人の名前は言えるのである。
(仲本工事)
 今回調べて、都立青山高校から学習院大学へ進んだという経歴を知った。ずっと体操を続けていて、都大会でも2位になったとウィキペディアに出ていた。しかし、大学に体操部がなく、音楽に進んだという。だから、後々器械体操のギャグで知られるようになったわけである。ザ・ドリフターズと言えば、ザ・ビートルズの公演の前座を務めたグループである。後にはコメディアンというイメージが強くなったが、もともとは音楽グループだった。
(ザ・ドリフターズ)
 いかりや長介が2004年に亡くなり、そして2020年に志村けんが亡くなったわけである。仲本工事の最後の公式行事は「志村けんの大爆笑展」を訪れたことで、その時の写真をツイッターに投稿したという。最後は加藤茶と高木ブーの二人となった。
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ネタニヤフ政権の復活ーイスラエル総選挙2022

2022年11月05日 22時55分21秒 |  〃  (国際問題)
 イスラエル第25回総選挙が11月1日に行われ、ネタニヤフ政権の復活が確定的になった。この4年間で5回目の総選挙である。長く続いた右派リクードのネタニヤフ首相は、2021年6月についに退陣して8党派連立のベネット政権が発足した。その時に「イスラエルの政権交代をどう考えるか」を書いて、「明日にも崩壊してもおかしくない」と書いたのだが、案の定1年半持たなかった。連立政権は最初の2年はベネット首相、後半2年をラピド首相と約束して始まったが、連立を離脱する議員が出て過半数を割り込んでしまった。そのため、ベネットは6月末で辞任し、7月からラピド首相に交代して選挙に臨んでいた。
(選挙勝利を喜ぶネタニヤフ元首相)
 イスラエルの選挙は重大な割りに日本の報道が少ない。そこで書いているわけだが、やはり一番重大なのは「中東和平への影響」になる。というか、これで中東和平がしばらく頓挫することが決定的になったと言えよう。それとともに、「完全比例代表制」という世界でも珍しい選挙制度がどのように機能するかという問題もある。だが、それ以上に重大なのは、スキャンダルを抱えた右派政治家が復権できるのかという問題である。すでにイタリアのベルルスコーニはメローニ新政権の与党に復権した。イタリア、イスラエルで起きたことは、次はアメリカでトランプが復権することを予告するものなのか。

 イスラエルはユダヤ人国家であるとともに、民主主義制度を取る国である。従って、人数的には少数である「超正統派ユダヤ教徒」の政党や、イスラエルに残ったアラブ人の政党が議席を取れるシステムを取らざるを得ない。だから、比例代表制しかないのである。そのため、日本の参議院比例代表区が多党化するように、非常に多くの政党から立候補する。一党で過半数を握ることは不可能で、建国以来一度もない。連立政権しかないのである。しかも、この数年は「ネタニヤフか否か」が争点になって、何か事あれば数人が連立を離脱して政権が崩壊する。何回選挙をやっても、宗教保守派やアラブ系は自分たちの政党以外には投票しないから、結果は大きく変わらない。だから、同じことの繰り返しである。
(新勢力)
 今回はネタニヤフ氏が率いるリクードが32議席(2議席増)、ラピド首相が率いるイェシュ・アティドが24議席(7議席増)、極右の「宗教シオニズム」連合が14議席(8議席増)、中道右派の「国民連合」(「青と白」など)が12議席(2議席減)、ユダヤ教超正統派の「シャス」が11議席(2議席増)、同じく超正統派の「トーラー・ユダヤ連合」が7議席(同数)、右派の「イスラエルわが家」が6議席(1議席減)、アラブ系諸政党が合計10議席(1議席増)、労働党が4議席(3議席減)という結果になった。
(今回の選挙結果詳細)
 ちょっと細かくなったが、リクード、宗教シオニズム、シャス、トーラー・ユダヤ連合の合計で64議席となる。かつては右派のリクード、左派の労働党が2大政党だったが、労働党の凋落は著しく、今回は最少党派となった。日本やフランスの社会党と同じ道をたどったのである。また長年議席を獲得してきた左派政党メレツが前回の6議席から一挙にゼロと壊滅してしまった。一方で極右政党が第3党に躍進しているのを見ても、イスラエルの世論が右派を支持したのは明らかだ。反ネタニヤフ連合のベネット、ラピド政権にはアラブ人政党も参加した。参加しないと過半数に達しないからである。このイスラエル政治の「禁じ手」が右派系ユダヤ人に全く受け入れられなかったのは明らかだ。

 かくして、中東和平など夢のまた夢となった。それどころではなく、「ヨルダン川西岸地区」(1967年の第3次中東戦争でイスラエルが占領したままになっている地域。国連安保理決議で認められていないが、イスラエルは事実上自国の領土と見なして入植を進めてきた)を正式に領土にしてしまうなどの「暴挙」もありうる。ただ、それではウクライナを侵攻して自国領にしたロシアと同じになるので、アメリカが認めるはずがない。いくらネタニヤフ政権でもそこまでは踏み込めないはずだが、何が起こるか判らない。アラブ諸国の中でもイスラエルと国交を結ぶ国が続いている。見通しが立たない、暗くなる話題はあまり書きたくないが、現実は直視しないといけない。司法訴追されたネタニヤフでも有権者が拒否しないというのも驚きである。
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カレル・チャペックの家を見るー平塚花菜ガーデン

2022年11月04日 22時28分52秒 | 東京関東散歩
 カレル・チャペックの家を見に行こうと思った。ちょっとプラハまでひとっ飛び、というわけじゃない。日本に作られているのである。チャペックの本を数年前にまとめて読んだとき、いろいろ検索していたら見つけた。場所は神奈川県平塚市。平塚駅からバスで約20分の「神奈川県立花と緑のふれあいセンター 花菜(かな)ガーデン」というところである。平塚ってどこだ? いや、湘南の町だということは知っている。この前行った開高健記念館がある茅ヶ崎の次で、家から乗り換え一回で行ける。行きは上野始発の熱海行き、帰りは平塚始発の宇都宮行きとどっちも始発電車が待っていたのに驚いた。
   
 何でチャペックの家があるかというと、『園芸家12ヶ月』の著者だからである。園芸家としてのチャペックを評価して、その家と庭を再現しようということである。ガーデンはかなり広くて、入ると子どもたちが大きな芝生で遊び回っていた。チャペックの家は地図で見ると、ずいぶん奥の方にある。近場のバラガーデンなどから順に歩いて行くと、突如という感じで出て来た。庭がチャペックの家と同じように設計されているのかは判らない。気候が違うから、多分庭も違っているだろう。中も再現されているのかなと思ったら、そうではなかった。休憩室に利用されていて、机と椅子が並んでる。壁にはチャペックの説明。一応並べてみる。
   
 庭を中心に、こんな感じ。なお、下の最後にホンモノのチャペックの家を載せておく。
   (チャペックの家) 
 平塚は相模湾に面した町だが、駅は海から少し離れている。バスは内陸の秦野駅行きだから、市街地を抜けると次第に畑地が増えてくる。遠くには丹沢山地が見えているが、案外平坦な地域にある。広いように思ったが、案外小さいとも言える。ここしばらく毎週金曜日に出掛けているが、珍しいぐらい気持ちよい小春日和。今日は暑いぐらいだった。
    
 駅から離れていてバスを利用するしかないから、案外歩かない。すぐに駅に戻ってしまったので、もう少し歩こうと思う。駅から少しで平塚八幡宮八幡山公園の洋館がある。八幡宮は大きくて立派な神社で、七五三で賑わっていた。
(歩道橋から)  (神馬)
 神社の裏の方に八幡山の洋館がある。旧横浜ゴム平塚製造所記念館で、国の登録有形文化財になっている。もともとは1905年に海軍がイギリスの会社と合弁で火薬工場を建設し、その時に食堂、ホールとして建てられたという。それは火事で焼失したが、1912年に再建された。そして海軍火薬廠に引き渡され、関東大震災でも倒壊しなかった。1950年に横浜ゴムに払い下げられ、2004年に平塚市が譲り受け、2009年から一般公開されている。庭にバラが整備され、美しい。中も見ることが出来る。
   
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渡辺努『世界インフレの謎』(講談社現代新書)を読む

2022年11月03日 22時22分36秒 | 〃 (さまざまな本)
 講談社現代新書10月新刊の『世界インフレの謎』が売れているらしい。著者の渡辺努氏(1959~)は知らなかったけれど、東京大学大学院経済学研究科教授。『物価とは何か』(講談社選書メチエ)も2022年1月に出したばかりである。

 今世界各国で物価高が進んでいる。日本でも何十年ぶりかで物価高が大問題になっているが、アメリカは日本どころではない。10月に発表された9月の消費者物価指数は8.2%上昇と、ここしばらく記録的なインフレが続いている。そのためアメリカではどんどん金利を上昇させていて、日米の金利差が記録的な円安につながっている。この世界的なインフレはなぜ起こり、今後どうなるのだろうか。誰もが知りたいことを考えている本である。そして、叙述はとても判りやすい。
(渡辺努氏)
 豊富なデータで論旨が明確になっているが、内容が内容だけにかなり難しいのも確か。書いてあることは理解出来るんだけど、それが本当に正しいのかの判断が難しいのである。社会科教員免許で政治経済という科目を教えられるけれど、僕は経済は苦手だ。数学が入って来ることもあるけど、全体的によく判らないのである。自然科学はもちろん、社会科学、人文科学だって、史料・データをもとに論じるんだから、そうそう食い違いは出ないものだ。歴史では時々変なことを言う人がいるが、学界では相手にされない。しかし、経済学では現状理解も対策も、経済学者同士が全然違うことを言う。そんな学問があるだろうか。

 ま、それはともかく、今回の世界的インフレは「ウクライナ戦争」が原因だと思っている人が多いのではないか。特に日本は食料やエネルギーを輸入に頼る度合いが大きい。だから、戦争にともなう経済制裁などをきっかけに物価高になるという考え方は多くの人が納得しやすい。しかし、著者が言うには、戦争がきっかけとは言えないのである。何故ならアメリカの消費者物価は戦争以前の2021年から上昇していたからである。それはデータ的に明らかであるが、ではその理由は何なのだろうか。それを様々なデータによって検証していくと、「パンデミックの後遺症」という原因が浮かび上がってくる。

 アメリカではコロナで離れた労働者がまだ戻りきっていない。コロナに関する対策は各国で少しずつ違っていたが、国民の対応は先進国ではおおむね同じだった。「スマホがどこにあるか」をデータ的に検証してみると、未だ職場に戻っていない。離職したままや早期に退職した人がいると思われる。そのため、今までのインフレは「需要が過熱する」ことで起こってきたが、今回は「供給が不足する」ことで起こっている可能性が高いという。今までのインフレは金利を上げ下げすることで対応出来たけれど、供給の不足は金利では対応出来ない。経済学の常識が崩れたのである。

 さらに問題なのは、日本でも物価は上がっているけれど、世界各国で起こっているインフレ率とは比較にならない低率である。インフレ率は低い方が良いという気がするが、日本だけがインフレ率が低ければ、その理由は何かという問題が出て来る。それが「賃金と物価のデフレ・スパイラル」である。日本では30年近く賃金はほとんど上がらなかったが、それでも生活できたのは物価もほとんど上がらなかったからである。それに国民が慣れてしまって、企業が価格を上げる理由があっても消費者離れが怖くて上げられない。そのため労働者の賃金を上げる原資もないから賃金を上げられない。そのため家計に余裕がなくなり、値段が高いと買わなくなる…というスパイラルである。
(世界各国のインフレ率)(主要国の賃金の動向)
 日本がそういう経済学的におかしな状態になっているのは間違いない。ただし、その脱却のためには、経済学だけではだめだと思う。少子化や外国人移民などの問題は、複雑な社会的、歴史的要因が絡まっている。国民の心理的問題が納得しない限り解決しないだろう。この本はそのような社会的、政治的な側面には踏み込まない。だから僕には少し不満なのである。とは言っても豊富なデータで分析される「世界インフレの謎」は、多くの人が考えてみるべきだ。パンデミックの3年間、そしてウクライナ戦争という災厄の中で、今後世界はどうなるのか。誰もが不安を持っているだろう。著者は「新しい価格体系への移行期」ではないかと考えている。それが正しいかどうかはまだ誰にも判らない。取りあえず、関心がある人は読んでおくべき。
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ポール・ニューマンの映画を見るー今も面白い傑作揃い

2022年11月01日 22時47分21秒 |  〃  (旧作外国映画)
 アメリカの映画俳優ポール・ニューマン(Paul Newman、1925~2008)の主演した映画4本が「テアトル・クラシックス ACT.2 名優ポール・ニューマン特集」として上映されている。昔の映画が大きなスクリーンで見られる機会があれば、ついつい出掛けてしまう。4本全部見て、ものすごく面白かった。宣伝コピーは「映画史上最も愛された “碧い瞳”の反逆児。タフで繊細、クールでチャーミング、世界が憧れたハリウッド伝説のスターに、この秋、魅了される!
(画像は『暴力脱獄』)
 ポール・ニューマンは、ほぼ20世紀に活躍した俳優だった。21世紀初めに『ロード・トゥ・パーディション』(2002)でアカデミー賞助演男優賞にノミネートされたが、それ以後は声優などが少しあるだけである。やはり思い出すのは、60年代の「反抗する若者」像だろう。1982年には趣味を生かした食品会社「ニューマンズ・オウン」を設立、自分の名を冠したドレッシングやパスタソースを販売、収益は全部恵まれない子どもたちのために寄付している。民主党支持のリベラル派としても知られていた。妻は女優、映画監督のジョアン・ウッドワードで、おしどり夫婦として有名。まるでスキがない見事な人生で、没後10年以上経ったが生前のスキャンダルなど報じられていない。それでも成功までには時間が必要だった。

 アクションで売り出したがベースは演技派。沖縄戦に参加したギリギリ戦中派で、戦後になって大学に通い演劇に力を入れた。舞台やテレビで認められ、1952年にジェームズ・ディーンマーロン・ブランドとともにアクターズ・スタジオに入所した。しかし、二人が売れた後でもポール・ニューマンはなかなか認められなかった。何となく判る気がする。二人にあるような「クセ」がないのである。美男子過ぎて、影のある役柄に向かないと思われたんだろう。ディーンが事故死したため、ボクシング映画『傷だらけの栄光』の主役が回ってきて初めて大役をつかんだ。それ以後は順調に出演を続け、アカデミー賞主演男優賞に8回ノミネートされたが、受賞したのはノミネート7回目の『ハスラー2』(1987)だった。

 以下、4本の感想を簡単に。まず『明日に向かって撃て!』(Butch Cassidy and the Sundance Kid、1969)で、僕はこれを1970年の公開時に見ている。当時は中学生で映画ファンになったばかり。「アメリカン・ニュー・シネマ」の代表作と言われ、とても大きな影響を受けた。その後、一回リバイバルされたときに見ていて、今回3回目。1890年代西部のギャング団「壁の穴」を描く。ポール・ニューマンがリーダー格のブッチ・キャシディで、相棒のサンダンス・キッドは当初予定のスティーヴ・マックイーンが出られず、ロバート・レッドフォードが選ばれ出世作となったのは有名。ジョージ・ロイ・ヒル監督。
 (明日に向かって撃て!)
 僕はただひたすら好きな映画で、見ていると思い出が蘇る。サンダンスの恋人役のキャサリン・ロスも良かった。ポール・ニューマンがキャサリン・ロスを自転車に載せるシーン、有名なテーマソング「雨に濡れても」が流れる。案外すぐ出て来るのに驚いた。非情冷酷なギャングの話だけど、時代に追い抜かされてボリビアに流れていくところが心に沁みるのである。もっともこの前読んだブルース・チャトウィンパタゴニア』には、まずアルゼンチンに行ったという話が書かれていた。作品がどうのという以前に、懐かしくてまた見たい映画。

 1961年のロバート・ロッセン監督『ハスラー』(The Hustler)は実は初めて見た。ビリヤードをする人を日本で間違ってハスラーと呼ぶぐらい有名な映画だ。(「ハッスル」は「頑張る」という意味で使われることが多いが、俗語でばくちで稼ぐという意味がある。)エディはハスラーとして王者ミネソタ・ファッツに挑戦するために出て来て、負ける。サラ(パイパー・ローリー)と出会って一緒に住むようになるが、それでも賭けることを止められない。その破綻ぶりがすさまじく、悲劇につながる様を見つめていく。場を仕切っているバートを演じるジョージ・C・スコット成田三樹夫みたいだった。サラ役のパイパー・ローリーが「彼が美しいから、撮影中に気が散った」と語ったという。そんな美形なのに破滅するのである。
(ハスラー)
 『熱いトタン屋根の猫』(Cat on a Hot Tin Roof、リチャード・ブルックス監督、1958)は実に面白かった。テネシー・ウィリアムズの有名な戯曲の映画化。ポール・ニューマンは、南部の金持ちの一家の次男ブリックを演じて初めてアカデミー賞にノミネートされた。妻のエリザベス・テイラーとうまく行かず、兄とも揉めている。一家の父が病院から戻ってきて誕生日パーティを開く一日の話。セリフの応酬による緊迫感がものすごく、ポール・ニューマンの演技力にしびれる。テネシー・ウィリアムズは同性愛者で知られ、この美男美女カップルがうまく行かない背景にもそれが暗示されているという。ただ50年代の映画なので、ほのめかしに止まりラストも安直。ここでも酒浸りの役で、こういう虚偽に敏感なため破綻する役が似合う。
(熱いトタン屋根の猫)
 『暴力脱獄』(Cool Hand Luke、スチュアート・ローゼンバーグ監督、1967)こそ面白さだけなら随一。ここでも泥酔した破綻者ルークを演じている。器物破損で刑務所に送られ、刑務所では先輩囚人にいじめられる。やがて周囲に認められるが、今度は徹底して看守にいじめられる。これぞ60年代末の反逆映画。昔テレビで見たと思うが、大画面で見ると面白さも倍増。卵を50個食べられるかどうかの賭けの場面など名シーンが多い。それにしても、ここまでやるか的な反抗のあげく、破滅に向かっていくのはヴェトナム戦争時代のアメリカという感じ。刑務所の顔役を演じたジョージ・ケネディがアカデミー助演賞を受けた。
(暴力脱獄)
 ポール・ニューマンは、僕にはアメリカの「ある時代」を象徴する俳優として忘れられない人だ。パスタソースは今も日本で売っているが、僕も昔何回か買った思い出がある。70年代以後しか同年代の記憶がないわけだが、他にはジョージ・ロイ・ヒル監督の『スティング』『スラップ・ショット』、あるいは西部の伝説を描くジョン・ヒューストン監督『ロイ・ビーン』などを思い出す。監督作に『レーチェル、レーチェル』『ガラスの動物園』などがあり、後者は僕も見た。一般1200円、学生500円という価格設定は若い人に見て欲しいということだろうか。どんな感想を持つのか、是非見て欲しい気がする。
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