続きが気になって、いっきに読んでしまう本もあれば、
いったいいつから読み始め、最初の方はどうなっていたのか
ほとんど思い出せない本もあって。
面白くないから読み進められないのかといえば、そんなこともなく、
終わりが来るのがもったいないから?と思ってもみたり。
この本も文庫になった時に嬉しくてすぐに買って、すぐに読み始めた
のですが、まだ最後まで辿り着いていません。
毎晩寝る前に、ふとんの中で、1ページか多くて2ページ。
何についてお二方が話していたのか思い出しているうちに眠って
しまうことたびたび‥。
語られているクラシックの曲は知らないものばかりだし、小澤さんが
指揮されているところはテレビでしか見たことがないし。
でも、その語り口というか、会話を読んでいるととても気持ちがなごむのです。
***
一昨日だったでしょうかー
詩人の長田弘さんの訃報にふれて、手持ちの絵本を見返したりしてました。
そして、過去に読んだ本の中で特に好きだった『アメリカの61の風景』について
自分が書いたことを読み返してみようと思い立ち、このブログ内を探していたら、
「本のある日々」というタイトルで、朝日新聞夕刊に載っていた長田弘さんの
読書にまつわる記事を受けて書いたものがありました。
拙文ながら、一部載せてみますと‥。
読書というのは、本を全部読み切ることではない、と冒頭で長田さんは書いてます。
じゃあ、どうするのが「読書」なんでしょう?
読みとおすのでなく、読みさす。読み切るのでなく、読み余す。
読みぬくのでなく、読み継ぐ。読み解くのでなく、読みとどめる。
そうして、開いたまま本を伏せて、あるいは閉じて積んで、
自分の日々の時間のかたわらに置く。
こうやって、「読みさしを繰り返すうちに、いつか気づくこともなく、その本の
言葉が自分のなかに畳まれていて、一度も通読した覚えがないのに、
いつのまにか全体を読んでいる」ことになり、「中断を楽しむことのできる本は
間違いなくいい本だということだった。」
そして、
読書というのは、本を読むというだけのことではないのだ。
本を自分の日々のなかに置いて、自分にとって必要な本の
置き場所をつくる、そういう日々のあり方をすすんでもちこたえてゆく
というのが読書なのだ。
私がなかなか『小澤征爾さんと~』を読み終えることができないのは、
こういうことだったのか、と思ってしまいました。
長田弘さん。
一度だけ直接お話しする機会があり、『森の絵本』にサインしてもらったこと
とてもよい思い出です。
『アメリカの61の風景』、また読み直したくなりました。(過去ログ★☆★☆★)
心よりご冥福お祈りいたします。