音楽の喜び フルートとともに

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ブラームスの子守唄

2021-12-20 23:36:58 | ロマン派
今日は母の検診の日。
血液検査のすべてが良いらしい。血圧が高いので降圧剤がプラスされました。
塩分控え目と言われました。

けれど、帰りにイオンに寄ったら王将で焼きそば定食と小海老の天ぷら半分、餃子三個食べて「塩辛かったね。」

確信犯だと私はみています。

ヨハネス ブラームス(1833-1897年)



自由ハンザ都市ハンブルグ生まれ、オーストリア=ハンガリー帝国ウィーン生まれ

の子守唄は1868年
友人のベルタ ファーバーに次男が生まれたことを祝って作られました。
ベルタはブラームスが指導していた合唱団のメンバーだったらしいです。

5つの歌曲作品49として
1869年 ルイーズ ドゥストマンとクララ シューマンによって初演されました。

詩は第1連は「少年の魔法の角笛」


からとられました。
第2連はゲオルグ シェーラーの詩を追加しました。

楽譜はジムロック社から出版されました。

シンプルな歌のせいか、民謡のような扱いで出版された当初からたくさんの編曲が出されています。

ブラームスの時代は、乳児死亡率はまだ高く、教育も限られた人のもので、児童労働も多く、多くの子どもが安心して幸せでいられたわけではありません。それでもこの曲を聴いているとブラームスが子どもたちにどんな幸せを願っていたかわかるような気がします。
時代は進み、ずいぶん子どもたちの安全は進みました。

それでも世界中の子どもが幸せな社会を作らないと、またそれを基準に考えれば間違いない。そんな気がします。




マンドリンの歴史

2021-12-19 19:46:00 | 楽器
今日は樟蔭女子大学マンドリンクラブ、打ち上げ。
長瀬川から見た校舎です。
同窓会館を使っています。
打ち上げと言ってもコロナで飲食禁止。

CDと写真を頂いて、みんなで本番の動画を見ました。

5年後、みんな元気に会いましょうとエールを交わしました。

マンドリンはリュートから派生した「マンドーラ」が起源と言われています。
マンドーラ

その後、バロックマンドリンは

マンドリンを持つ女 ジョバンニ ティエボロ バロックマンドリン

6コースのガット弦があり、テレマンや、ヴィヴァルディはこのマンドリンのために曲を書いています。

19世紀パスクアーレ・ヴィナッチャがナポリ型マンドリンを作ります。

同じ音を2弦ずつもつ8弦のマンドリンが出来ました。

イタリアで人気となり、クルティ、ムニエル、カラーチェ、ラニエリが作曲者、奏者として活躍しました。
これは第二次世界大戦まで続きました。

日本では、1901年末比留間賢八がマンドリンを持ち帰り、萩原朔太郎、藤田嗣治、里見弴が学びました。

1924年、ラファエレ カラーチェが来日すると大流行しました。
鈴木静一、中野二郎、服部正がこの影響を受けてマンドリンを始めました。


幸せな曲

2021-12-18 21:21:16 | 古典
今日は梅田で、巨匠I先生のマスタークラスでした。
…まだまだ勉強、勉強。








梅田はクリスマスイルミネーションでいっぱいでした。

「幸せな子どもは問題を起こさない。
問題の子どもはいない、不幸せな子どもがいるだけだ。」というアレクサンダー S ニイルの言葉を思い出しました。

幸せは 仏教によると
貪欲(どんよく)
瞋恚(しんに 怒り、妬み)
愚痴(ぐち 無知)
の無い状態。

私が幸せな気分になる曲の1つにウォルフガング モーツァルト(1756-1791年)

の「フルートとハープのための協奏曲K299」
1778年27歳の作品です。

家庭教師をしていた娘が結婚することになり、その式でハープの娘と、フルートの父親が合奏するための曲を依頼されました。

父親、ギーヌ公アドリアン=ルイ・ド・ボニエールにフルート協奏曲を二曲頼まれています。

ところが恋に夢中ですべての仕事を完成する事が出来ず、報酬をすべて払ってもらえませんでした。

しかしこの曲は若いモーツァルトの幸福感が溢れていて、聴いていると幸せな気持ちになります。

皆さんの幸せの曲は何ですか?





エルザの大聖堂への入場

2021-12-17 22:35:11 | ロマン派
ノゲシは冬枯れの土手にも元気に咲いています。

「エルザの大聖堂への入場」は、
リヒャルト ワーグナー(1813-1883年)

ザクセン王国ライプツィヒ生まれ、イタリア王国ヴェネチア没
によって1848年に歌劇「ローエングリン」の一部として
作曲されました。

ブラバント公国の公女エルザは、その地位を狙うテルンハルト伯爵とオートルートによって、弟ゴットフリート殺しの疑いをかけられます。

裁判の時、白鳥の曳く小舟に乗って現れた騎士が、エルザのために戦い、疑いを晴らします。


戦いに破れたテルンハルトとオートルートは復讐を誓います。

騎士はエルザと結婚してブラバントの守護者になることに。

エルザは騎士と結婚するために大聖堂に向かいます。
その時に演奏されるのが「エルザの大聖堂への入場」です。

オートルートが途中エルザを罵り、騎士を非難します。

王も名前を明かすよう言いますが、その要求を出来るのはエルザだけと答え、二人で大聖堂へ向かいます。

このあと、有名な結婚行進曲が歌われます。

しかしエルザはオートルートに疑念を吹き込まれ、ついに騎士に名前を問います。

名前を明かすと一緒にはいられない、なぜなら自分は聖杯を守るパルシファルの息子ローエングリンだからと告げると、白鳥の曳く小舟がやって来ます。

白鳥は人間に戻るとエルザの弟ゴットフリートになります。

ローエングリンは去り、エルザは倒れて息絶えます。

ブラスバンドでよく演奏されるのは、弦楽群の他、管楽器が3管編成といって、それぞれ三本ずつあるので、3和音を同じ楽器で演奏できるという大きな編成で、それはワーグナーが音楽史上、初めて行ったことでした。

ブラスバンドで





ハチャトリアン統制された作曲家

2021-12-16 22:18:47 | 国民楽派
火曜日は子どもの送迎をしました。
いつもの川、いつもの土手。
学校から塾までの道、今日は冬休みに子どもキャンプに参加できることになったことを嬉しそうに話してくれました。
イベントが全部中止になりせめてとお母さんが企画したそうです。
楽しみにしています。行けますように。強く思いました。

アラム イリイチ ハチャトリアン(1903-1973年)

ロシア帝国グルジア ティフリス(現ジョージア トリビシ)生まれ、ソビエト連邦社会主義共和国モスクワ没。
アルメニア人で製本工の息子として生まれます。

1922年チェロ科で音楽専門学校に入学。

グネーシン音楽専門学校
モスクワ音楽大学に進学。

在学中にニーナ マカロワと結婚。
1936年ピアノ協奏曲で名声を博すも、1948年にはスターリンの政策によりジダーノフ

アンドレイ ジダーノフ
により、「形式主義的退廃音楽家」と決めつけられ、

プロコフィエフ、ショスタコーヴィチとともに統制の対象とされました。
1953年スターリンが

死ぬまで続きました。
1965年には来日、京都交響楽団、読売交響楽団と共演しています。
日本ではハチャトリアンの曲と言えばガイーヌの「剣の舞」でしたが、フィギュアスケートのお陰で「仮面舞踏会」の「ワルツ」が有名になりました。

フルートでは、1938年作曲された「ヴァイオリン協奏曲」です。
1968年、ランパルがフルートの作曲を依頼したらヴァイオリン協奏曲のフルートへの編曲をハチャトリアンから提案され、大成功。
ゴールウェイ、パユなど、多くのフルーティストによって現在も演奏されています。
大好きな石橋尚子さんの伴奏、ブリアコフのフルート協奏曲1楽章です。





疫病を治めた祈り

2021-12-15 22:25:26 | 音楽
京都百万遍 知恩寺の手作り市に行って来ました。

Gさん、mさんと一緒。
お店も人ももどって来ました。

10時から廻って、いろいろ買い込んで、叡山電鉄

の写真を撮って、

四条大橋を渡ったら
限定10食ステーキ重1000円の文字にひかれて入ったら

まだありました。
お味噌汁とサラダ、おつけものついて、これ!
私にはちょっと多過ぎだったけど…めっちゃおいしかった👍
知恩寺は1212年法然上人の弟子によって知恩寺と名付けられました。
1331年地震によって疫病が蔓延しました。
心を傷めた後醍醐天皇の命で、7日7晩百万遍の念仏を唱えて念珠操りをしたところ、疫病が治まり「百万遍」の号が下賜されたそうです。

その頃、聴かれたものは雅楽で、この動画は壱越調 主音がDの調子で演奏されています。

他にも平調子、双調子などの調子の曲がありました。
祈るしかなかった時代の音楽には、今とは違う大きな意味がありました。

音楽用語調子を整えるという言葉には、病いを退け、健康になるという意味がありました。
その頃生まれたいろいろな調子には人々の祈りが込められているように思います。











子どもと魔法

2021-12-14 22:59:00 | 名曲
今日は子育てサロンのクリスマスでした。

メロディベルのきよしこの夜で、サンタさんをお迎え。

サンタさんからはクリスマスの鈴のプレゼント。

サンタさんとシールを貼って鈴を完成させたら、

あわてんぼうのサンタクロースを鈴を振りながらみんなで歌いました。

久しぶりに子育てサロンに子どもたちの声が響きました。

例年はフルートを吹いたり、絵本を音楽入りで演奏したりしていますが、今年は断念。

できることで、楽しみました。

オペラ「子どもと魔法」は1924年

モーリス ラヴェル(1875-1935年)

によって作曲されました。
脚本は
シドニー=ガブリエル クロディン コレット(1873-1954年)

パリオペラ座


のジャック ルーシェ
の依頼で「わが子のためのディベルティスマン」を書き、ラヴェルに音楽を依頼したところ、ラヴェルにオペラに膨らませることを提案され実行しました。

幻想的オペラとラヴェルは名付けています。

あらすじは
フランスノルマンディーの田舎の6歳のぼうや
母親に「宿題をしなさい。」
と言われましたが、さぼっています。
再びやってきた母親に「罰として、紅茶は砂糖抜き、パンはバター無しですよ。反省しなさい。」と言われてしまいます。

腹をたてたぼうやは、カップを叩き割り、籠の中にいるペットのリスをペン先で突いたり、雄猫の尻尾を引っ張ったりと八つ当たりを始めます。火掻き棒で暖炉の灰を掻き回したり、壁紙を破いたり、大時計の振り子にぶら下がって外し、ノートや本を破って「僕は意地悪で自由!」と叫びます。

疲れたぼうやがソファに座ろうとすると、ソファが動き出し「これでやっとあの乱暴な子どもを追い出しました。」
とうたいだします。

それに続きぼうやに乱暴に扱われたものたちが歌い、脅かし復讐しようとします。

大乱闘になった時、傷ついたリスを見つけ、ぼうやが包帯を巻き、傷の手当てをします。
「ママ!」と倒れてしまった
ぼうやを取り囲み、物たちは
「傷の手当てをしたよ。優しい子どもだ。」とぼうやをママの所に帰します。



ホルスト惑星の作者

2021-12-13 22:46:28 | 近代
今日はピアノの坂田さんと
合わせです。
曲はリュリのメヌエットとヘンデルのフルートソナタ2番から第2楽章。

頂いた栗のお饅頭。
栗が丸々一個入っていておいしかったです。


お昼ごはん、今日はピラフ。
琵琶湖道の駅で買ってきたハヤトウリは塩で浅漬けして、ゆず味噌を着けて食べました。

夕方まで録画したりしました。マイクが良くないので不満。

グスターフ ホルスト(1874-1934年)

イングランド グロスターシャー州チェルトナム生まれ、イングランド ロンドン没。

スウェーデン バルト系移民の家系に生まれました。
10代で作曲を初め、ロンドンの王立学園に学びます。

卒業後はトロンボーン奏者としてオーケストラに所属していました。
その頃ヴォーン ウィリアムズと知り合い、親交を深めます。

ウィリアム モリス(1834-1896年)


ハマースミス社会主義者協会に参加し、1896年、協会指揮者として招かれ、そこで楽団員のイソベル ハリスンと結婚。

1900年、コッツウォルズ交響曲の第2楽章はモリスに捧げる哀歌です。

1895年からインド音楽に傾倒しサンスクリット語を学び、インド風の音楽を作曲しましたが、成功しませんでした。

1905年にセント・ポール女学院の教師の職を得ます。
1910年チューダー朝時代(1485-1603年)のマドリガルやウィリアム バード(1543-1623年ブリタニア音楽の父)、ヘンリー パーセル(1659-1695年)やイギリス民謡を好むようになります。

交響曲の失敗で落ち込んでいた時、作曲家アーノルド バックスの弟クリフォード バックスとスペイン旅行をします。その時クリフォードから占星術の知識を教えられました。

その事がきっかけで「惑星」を作曲しました。
1920年に初演されると、人気が一気に高まります。

その後も書き続け、1934年出血性胃腸炎で亡くなりました。

ベタですが、やっぱり「惑星」の中の「木星」

吹奏楽のための第1組曲も好きなのですがね😉





モンテヴェルディの始めたこと

2021-12-12 20:25:59 | 音楽
先週いった琵琶湖のそばの道。
運転手 次男がいるとこういう写真がたくさん撮れます。
ありがたいです。

クラウディオ モンテヴェルディ(1567-1643年)

スペイン帝国クレモナ生まれ、ヴェネチア共和国ヴェネチア没。

ルネサンスとバロックの両方に分類される作曲家です。

クレモナの大聖堂の楽長に学んだ後、マドリガーレを何曲か出版します。

1590年、マントヴァのヴィンチェンツォ一世 ゴンザーガの宮殿で、歌手、ヴィオラ ダ ガンバ奏者として雇われます。


1602年には宮廷楽長になります。
9巻のマドリガーレを出版します。

五巻以降、ポリフォニーというルネサンスの形式を超えて、モノディという方法を打ち出しています。

ポリフォニーを第1作法、モノディを第2作法と呼び出したのも彼です。

簡単にいうと、ポリフォニーが複数の声部で歌うことで
モノディは1つの旋律に伴奏がつくということで、今では当たり前になった歌謡曲のような形の歌い方のことです。

他にも通奏低音、調性の機能的な使用音楽による劇、効果音、オーケストレーションなども、モンテヴェルディが始めたと言われています

1612年ヴィンチェンツォ公が亡くなると、楽長を解雇されます。
1613年サン・マルコ寺院の楽長に任命され、

破綻していた楽団を建て直し、マドリガーレ集を8巻までだし、チケット興行で運営する初のオペラハウスのために多くのオペラ作品を書きました。

1632年カトリック司祭に任命され、サンタ マリア グラリオーサ ディ フローリ聖堂に埋葬されました。








ベートーベン第9交響曲

2021-12-11 20:41:47 | 名曲
先月飛行機から撮った空です。

年末というと、ベートーベンの第九。

ベートーベン自筆譜

1824年、ベートーベン54歳の時の作品です。
1827年に亡くなり、最後の交響曲になりました。

聴覚障害のためハイリゲンシュタットの遺書を書いたのは32歳の頃、40代ではほぼ全聾だったろうと言われていますが、諸説あります。

人の声を交響曲に使うという、当時誰もやらなかったことをやったこと。

音楽に明確なストーリーがあること。

「人類最高の芸術」とも言われています。

日本で年末に演奏するのは、編成が大きく、沢山の人数が必要なため、年越しに必要なお金を多くの演奏家に渡すことができるからと言われています。

お金は大事。

ベートーベンは父親が大酒飲みで、家計を省みなかったため、母親や、二人の弟たちを養うために早くから音楽で稼がなくてはなりませんでした。

職業音楽家としてやっていくためにいろいろ苦労しています。

テンポも諸説あり、ベートーベンが書いたとされるテンポが、後に加筆されたものだと否定されたりして、定説はまだありません。