最近になって、ぼくは学生時代から一貫して、「少しずつ変化すること」に興味があったということに気がついた。
気づかせてくれたのは、映画<寅さん>シリーズの“望郷篇”のラストシーン。
秋野太作が舎弟に向かって喋った、
「徐々に変わるんだよ。いっぺんに変わったら身体に悪いじゃないか」という台詞だった。
なるほどと思った。
学生時代にまったく興味がなかった小津安二郎を見るようになり、軽蔑すらしていた<寅さん>を見るようになった自分自身がそのいい証拠である。
学部時代に書いたゼミ論は、刑訴法ゼミでは「訴因変更の時間的限界」と、医事法ゼミの「人体実験論」だった。(ぼくの大学の法学部は1学年定員100名の小さな学部だったので、ゼミはいくつ参加してもよかった。ぼくは2~4年の間に4つのゼミに参加し、卒業時に2本のゼミ論を書いた。)
「訴因」は起訴時点で検察官が描いた事件像が、公判の証拠調べによって次第に明らかになった事実と食い違ってきた場合に、何時まで、どこまでなら訴因変更を許して同一事件として解決することができるか、どの時点で、どこまでずれた場合には被告人の防御の利益を優先して公訴棄却ないし無罪判決をするかというテーマだった。
そこに時間的な限界もあるというのがぼく独自の見解(のつもり)だった。
もう1つの「人体事件」論は、医師が患者に対する治療として行なう医療行為と、医学者として被験者に対して行う医学実験との境界を検討し、患者を被験者とするときはその旨を説明して同意を得ること、しかしそれだけでは患者=被験者は守れないので、患者を実験に使う場合は倫理委員会の承認を得ることを提案した。
これも「治療行為」から次第に「実験的な治療行為」をへて、完全な「実験行為」(その患者さんには何の利益もない行為)へと至る医師(研究者)の行為の法規制の問題であった。
その後も、子どもの成長と親の権利の関係で修士論文を書いた。
子どもの理解力・判断力が成熟するに従って、親の権利は小さくなること--子どもの側からみれば「成熟した未成年者の原則」といい、親の側からみれば「親権逓減の原則」といわれる。
婚姻関係についても、平穏期から夫婦関係の不和、破綻、別居を経て事実上の離婚状態に至るに従って、民法が定める婚姻の効力は次第に適用されなくなり、最終的に離婚に至るというのが判例法の考え方であるが、最近では「家庭内別居」の場合にも婚姻の効力を制限する事例が出てきている。
そして現在執筆しているのが、法律の世界における「男」と「女」の間の段階性(gradation)ないし連続性(continuum)についてである。
その前提として、生物学的には男(雄)と女(雌)は範疇性(categorisation)があるのか、生物学の世界でも男と女は連続性を持った存在と考えられているのか、も勉強しなければならない。
「XY染色体があれば男、XX染色体ならば女」というぼくらの高校時代の生物の知識では済まないのである。
2月になってしまったので、久しぶりに何か書き込もうと思ったが、長くなってしまったので、次回につづくことにしたい。
「連続性」を語ったことでもあるし、“to be continued”ということで・・・。
2017/2/3 記