豆豆先生の研究室

ぼくの気ままなnostalgic journeyです。

サリンジャー『若者たち』ーー2023年最後の書込み

2023年12月31日 | 本と雑誌
 
 今年最後の書き込みは、J・D・サリンジャー『若者たち<短編集1> サリンジャー選集2巻』(荒地出版社、1999年新装7刷)。
 「日本の古本屋」経由で、土浦のれんが堂書店というところから買った。500円だった。
 送料は185円~となっていたが、「最も安い送料で発送します」と書いてあった。そして実際に185円で郵送されてきた。クリックポストよりも安い。良心的な古本屋である。中には、「185円から」と書いておきながら、新書版の送料に350円を請求されたこともある。本体価格を安く見せながら、送料を明示しないで利ザヤを稼ぐ古本屋もあるのである。
 本の状態は「並み」とあったが、きれいな方である。元の持ち主の読みグセがついていたが、amazonの基準なら「良い」だろう。帯までついていた。

       

 「若者たち」は鈴木武樹訳の角川文庫版を持っているのだが、苅田元司、渥美昭夫訳で読んだほうがよかった短編もあったので、断捨離にもかかわらず、買ってしまった。
 実はその前にも、12月になってから荒地出版社版の「倒錯の森<短編集2>」を買ってしまった。角川文庫版と荒地出版社版では収録作品が異なっているので、ぼくが気に入ったサリンジャーの初期の短編集を一応揃えておきたいと思ったのである(上の写真)。
 今では「ライ麦畑で捕まえて」以上に、サリンジャーの初期短編(のいくつか)が気に入ってしまった。 

 1年間、時々お付き合いくださったみなさん、有難うございました。
 それでは、よいお年をお迎えください。   

 2023年12月31日 記
 

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ラジオ放送開始100周年・その3

2023年12月31日 | あれこれ
 
 12月31日(日)、2023年最後の日。
 今朝も午前5時すぎに、NHKラジオの「放送開始100周年」記念番組で目が覚めた。この時間になると自然に目が覚めるようになった。

 ぞんざいなしゃべり方をする老人だったが、そのうち話の内容から、みのもんただと分かった。
 彼も、文化放送セイ・ヤングの初期の頃に聞いたことがあった。ぼくの記憶にあるのは、彼の番組の内容ではなく、深夜放送ファンの集いか何かで、セイ・ヤングや他局のパーソナリティーが集合する中で笑っている彼の写真である。「深夜放送ファン」か何かに載ったのだろう。当時は御法川(みのりかわ)英文だったか何か、本名を名のっていた。そしてセイ・ヤングの田名網ディレクターというのは、「日本史の傾向と対策」(旺文社)でお馴染みだった田名網宏先生の息子だと落合恵子が言っていた。
 みのは番組の中でいろいろ失敗があって、番組を下ろされ営業に回されたため、文化放送に自分の居場所はないと辞職したと言っていた。名古屋の水道業者の倅だと当時から聞いていたが、そこに戻ったらしい。みのの番組内の発言に抗議する人たちが四谷2丁目の文化放送に押しかけたこともあったと言っていた。あの四谷の文化放送の前で、ぼくはデビュー間もないアグネス・チャンを見かけたことがあった。
 みのは同期(だったか)の久米宏をしゃべりの天才と言っていた。そういえば、久米の「土曜ワイド・ラジオ東京」(TBS)という番組もよく聞いた。土曜の朝8時ころから夕方の4時か5時までの放送だった。「東京の街、ここはどこでしょう?」というコーナーがあって、久米が現地の風景を中継し、視聴者にそれがどこかを当てさせるという趣向だった。
 ある回では、朝の番組開始とともに久米が(おそらく上野駅から)東北線に乗って旅を始め、途中下車しながらその地を紹介するという企画もあった。最後の下車駅が青森の八戸で、海岸が(砂浜でなく)草地になっている海岸からの中継で番組が終わった。草浜の海岸線、一度行ってみたい。
 みのは喋ることが「天職」だったと言っていたが、今朝はどこか寂しそうな喋り方だった。

 2人目は浜村淳だった。彼の番組はまったく聞いたことがないので、興味もないままに聞いていたら、彼の番組に出演した忘れられないゲストとして、ソフィア・ローレン(!)とアラン・ドロンをあげていた。ビックリしたが、2人とも映画の番宣で来日した折に出演したという。
 わが憧れだったソフィア・ローレンに会ったことがあるとは羨ましい限りだが、そのソフィア・ローレンにきつねうどんを食べさせる企画だったという。
 彼女は胸元のVゾーンが深く切れこんだドレスだったので、隣りに座っていた彼の視線は思わずその胸元にいってしまい、しかも「彼女のバストは96センチです」と放送してしまったそうである。そうしたら、彼女が怖い顔になって「立ちなさい!」と言ったので浜村が直立不動になると、彼女は「上から見たほうがよく見えるでしょ!」と笑ったという。
 ソフィア・ローレン関連のグッズはあまり持っていないが、芳賀書店の写真集のほかに、ホンダの原付自転車ロードパルの広告パンフが残っていた(冒頭の写真)。
 表面には、「まず、私が乗ってみました」というソフィア・ローレンのセリフがある(本当だろうか?)。下の白いスペースに「ホンダ専門店 宮原商会 新宿区須賀町14番地」というスタンプが押してある。何と、ぼくが勤めていた出版社と同じ番地ではないか! あの頃は複数の建物に同じ番地がついていたのだ。大日本茶道学会のあたりだろうか、そんな店があったような気もするが・・・(下の写真)。
       

 3人目は中村メイコだった。
 彼女に関するぼくの記憶は、何といってもNHKラジオの夕方の番組「1丁目1番地」である。家族で夕食を食べながら聞いた。
 中村が一人で3役も4役もやっていた。ぼくが子どもだったこともあるけれど、数人でやっていると思い込んでいた。「ペスよ、尾をふれ」という番組も中村メイコだっただろうか(松島トモ子だったかも)。悲しい内容の回に、聞いていた妹が号泣したため、隣りの部屋から母親が飛び出してきて、「何で妹をいじめるの!」と濡れ衣で叱られたことがあった。
 中村は、徳川夢声を師匠のように語っていたが、ぼくは徳川をうまいとは思わなかった。昭和30年代当時、すでに時代遅れの感じがしていた。ぼくが一番うまいと思ったのは森繁久弥である。NHKの朗読番組で、どう聞いても女声が一人はいるだろう、加藤治子(だったか、加藤道子)と2人でやっているのだろうと思って聞いていたら、最後にアナウンサーのナレーションで「出演は森繁久弥でした」というので、一人芝居(?)だったと知ってびっくりしたことがある。
 中村はマイクに向かうと仕事モードになったと言っていた。
 ぼくも授業の始まりにマイクのスイッチを入れると、気持ちにもスイッチが入った。マイクのスイッチが入っていることを確認するため、フッ!とマイクに息を吹きかけていたが、ある時、授業評価の自由記載欄に「授業の最初にマイクに息をかけるな、耳障りだ!」と書き込みがあった。授業評価の意見に対してはリアクションをせよとのお達しだったので、次の授業の初めに、「マイクに息を吹きかけるなと叱られたから、今後は息を吸うことにする」と言ってマイクに向かって深呼吸をしたら、学生たちが笑った。
 中村といえば、旦那の神津善行は神津牧場と関係があったはずである。子どもの頃、叔母のクルマで軽井沢から荒船高原、神津牧場に出かけたことがあった。川端康成の「高原」にも、神津牧場から軽井沢への旅行記が載っていた。神津牧場は明治製菓か明治乳業が所有する牧場だったらしい。

 2023年12月31日 記

 ※2024年1月8日追記
 中村メイコさんは、この録音が放送されたまさに12月31日に亡くなられたそうだ。
なお、「一丁目一番地」が彼女の一人芝居というのは間違いだった。でもあの頃そういう(彼女の一人数役という)ラジオ番組があったことは間違いない。

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ラジオ放送開始100周年・その2

2023年12月30日 | あれこれ
 
 12月30日(土)午前5時15分ころ。
 今朝もNHKラジオの「放送開始100周年記念 100人へのインタビュー」で目が覚めた。
 ラジオから聞こえてきた声は最初は小島一慶かと思ったが、吉田照美だった。吉田照美は深夜放送をやっていただろうか? ぼくには記憶がない。昼間の番組だったように思う。

 2人目は荒川強啓だった。彼はもともと山形放送のアナウンサーだったという。
 彼も午後というか夕方の番組の記憶しかない。山形放送時代に、山形弁で喋ったら、山形弁をバカにするな!と投書されたことがあったとか。その後彼は徹底的に山形弁を勉強してマスターしたと語っていた。山形弁には置賜(おきたま)弁など全部で4種類あるそうだ。
 むかし井上ひさしの「下駄の上の卵」を買ったものの、あの置賜弁で書かれた文章に辟易して十数ページで投げ出したことを思い出した。

 3人目は宇田川清江という、ぼくの知らない人だった。
 NHKの元アナウンサーで、「ラジオ深夜便」の第1期のアナウンサーだったという。
 「深夜便」の番組開始時に指示されたことは3つだけ、1つは、民放のアナウンサーと違ってNHKアナウンサーのゆっくりした喋りをすること、2つは、リクエストは募集しないこと、3つは番組でかける曲は必ず最初から最後まで掛けること、この3つだけだったという。
 リクエストは募集しなかったが、淡屋のり子の「別れのブルース」をかけたところ、視聴者から、このレコードを残して戦地に散った彼の思い出をつづった投書が来たことがあったという。番組で紹介したところ、その彼のイトコだと思うという方から返信があり、何とその彼は戦地から生還したが、結婚することなく独身のまま数年前に亡くなったと聞かされたというエピソードを紹介していた。
 50年前に吉祥寺駅の改札口で出会った武蔵野女子学院の女生徒の思い出話どころの思い出ではない。

          

 ラジオ番組で思い出したことをいくつか。
 1つ、「桂三枝の深夜営業」という深夜放送もよく聞いていた。そのうち何回かはテープに録音してある。桂三枝もラジオに出るようになった最初の頃は面白かった。
 2つ、土井まさるの「真夜中のリクエスト・コーナー」ではなく、夜の8時から10時ころの番組もよく聞いていた。ディレクターの金子さんという人が、ヨーロッパ旅行で見つけてきた当時イタリアで流行していたロス・マルチェロスの「アンジェリータ」という局を番組で紹介して、その放送がきっかけで日本でも流行した。
 ※「アンジェリータ」のレコードはいまだに見つからないのだが、このコラム用の画像ファイルの中にジャケットがあったので冒頭に載せておいた。ついでに同じ頃に人気があったジリオラ・チンクェッティのレコードジャケットもアップしておく(上の写真)。
 3つ、深夜放送がはやる以前の洋楽を紹介するラジオ番組には、「ユア・ヒットパレード」とか「S盤アワー」とか「9500万人のリクエスト」なんていうのがあった。確か「ユア・ヒットパレード」の、「あのシーンをもう一度」というコーナーでは、「鉄道員」や「第三の男」などのクライマックス・シーンの音声が流れて、それに続いてサントラ盤でテーマ音楽がかかった。「東京田辺」(製薬)の提供だった。
 「エデンの東」が1年間1位をつづけ、3年間10位以内にランクインしつづけたという伝説も「ユア・ヒットパレード」だったのではなかったか? 「9500万人の・・・」の当時は、日本の人口が9500万人だったのだろう。「S盤」というのは何の略称だったのだろう?
 4つ、深夜ではないが、「日立ミュージック・イン・ハイフォニック」という夜10時ころから始まる30分番組や、土曜か日曜の午前中に「キューピー・バックグラウンド・ミュージック」なんて番組もあった。今でもやっているのだろうか。パーシー・フェイス、フランク・チャックスフィールド、ビリー・ボーンなどがよくかかった番組である。
 5つ、そういえばFM東京の「ジェット・ストリーム」もよく聞いた。城達也の時代である。エンディングの「ミスター・ロンリー」を聞いてからラジオを消して眠りにつく夜も少なくなかった。大沢たかお、福山雅治になってからは、城達也の頃とDJの喋りも、かかる曲もあまりにもイメージが違ってしまったので、ここ十年はほとんど聞くことがなくなってしまった。

 2023年12月30日 記

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ラジオ放送開始100周年(NHK 第1)

2023年12月29日 | あれこれ
 
 12月29日(金)午前5時、村上里和さんのラジオ深夜便が終わって、ウトウトしていたら、突然ラジオから大沢悠里の声が流れてきた。
 たしかNHKラジオを聴いていたはずなのに、何でTBSが聞こえるのだろうと思って聞いていると、何と、NHKラジオの放送開始100周年記念「ラジオ放送100年 100人へのインタビュー」(題名は不確かだが、2025年が放送開始から100周年らしい)という番組で、その第1回(?)が大沢悠里だったのだ。
 ラジオ放送に興味をもったきっかけは?とか、ラジオ放送で泣いたことはあるか?とか、ラジオ放送の未来は?とか、全員が共通のインタビュー項目に答える形式のようだった。大沢悠里は子どもの頃からアナウンサー志望で、NHKの宮田輝や高橋圭三の物まねをしていたと言っていた。
 大沢は戦前の生まれだったが、昭和25年生まれのぼくにとって、子どもの頃に一番印象に残っているラジオは竹脇昌作の夕方の番組だった。日本信販の提供で “にっぽん しんぱんの クーポン ♪♪” というコマーシャル・ソングととともに、竹脇のあの独特の抑揚のない話し声がスピーカーから流れていた世田谷の玉電山下商店街の光景が浮かんでくる。“君知るや 君知るや~ オリエンタル・カレー ♪♪” というCMソングも懐かしいけど、オリエンタル・カレーは今でもあるのだろうか。

 20分ほどで大沢悠里が終わると、第2回は何とニッポン放送の亀淵昭信だった。
 亀淵はもともとディレクターとして入社したのが、後に深夜放送を担当するようになったという。一度休職してサンフランシスコの大学に留学したそうだ。それまで日本のラジオでは喋るのは「アナウンサー」だったが、彼の地では「パーソナリティー」と呼ばれていて、彼が、日本で「パーソナリティー」という呼び方を定着させたと言う。
 キャリア最大の危機は、社長になってからのライブドアによる買収への対応だったという。ぼくの記憶では、たしかニッポン放送のほうがフジテレビの親会社で、ライブドアはフジテレビの乗っ取りを画策していたと記憶する。

 さらに20分ほどで、今度は3番手で同じニッポン放送の斉藤安弘が登場した。
 彼は記憶に残るリスナーとして「たかぎ・ひとみ」さんという視聴者の名前をあげていた。ぜんそくで若くして亡くなったその子の遺品の中にアンコ―さん宛てのリクエスト葉書が残っていて、お父さんが投函したのを読んで以来、そのお父さんと亡くなるまで交流がつづいたと言っていた。
 アンコーさんは、ラジオの深夜放送の元祖は文化放送の土井まさるの「真夜中のリクエストコーナー」だと言っていた。ぼくもそう思う。ニッポン放送の「オールナイト・ニッポン」は、1972年までは局アナでやっていたが、その後タレントを使うようになったと言っていた。
 ぼくが深夜放送を聞いていたのは、土井まさる(文化放送)、野沢那智・白石冬美(TBS)、カメ&アンコ―(+今仁哲夫)の頃で、歌手・タレントのパーソナリティーでは南こうせつ(&山田パンダ)、谷村新司(あの「天才、秀才、バカ」のころの谷村で、「昴」の谷村とは別人のような時代である)くらいまでである。
 斎藤は、ビアフラで子供たちが飢え死にしているのに、日本ではコメが余っているという新聞記事を見て、自分の番組に投書などしなくていいから、ビアフラに米を送るように外務省に投書してくれと呼びかけたところ、外務省に投書が殺到し、結局5000トンの米が贈られることになったというエピソードを紹介していた。そんなこともあったのだ。
 斎藤は、かつてどこかのラジオ会社の経営者が「ラジオはやがて消滅する媒体である」と言っていたが、決してそんなことはないと否定していた。ぼくも消滅するとしたら、ラジオよりもテレビのほうが先のような気がする。
 年末の録画番組の垂れ流しをみるにつけ、その感を強くする。ただし、ドキュメントだけはテレビがいい。年末のNHK-BSでみた、「映像の世紀 ビートルズとロックンロール」で紹介された東欧(ポーランドだったか)での「ヘイジュード」の話はまったく知らなかった。

 ぼくは大学の教師をしていたが、教師という職業は研究論文の審査によって採用されるが、仕事の主要部分は学生に対する講義である。少なくとも文系科目では、研究者は「物書き」だが、教師は「話し家」(「咄家」ではない!)である。「物書き」としての能力で採用された教師の中には、「話し家」としての才能がゼロに近いのもいる。500頁以上の教科書を一人で書きながら、授業では教壇の椅子に座ったまま90分間その教科書をただ棒読みするだけという教師もいた。
 現役教師時代のぼくは学生による授業評価の点数が髙かったが、「物書き」のほうはともかく「話し家」としては及第点以上だったと自負している。子どもの頃の毎日曜日に見ていたテレビ番組「サンデー志ん朝」という古今亭志ん朝のトーク番組や、ラジオ深夜放送のパーソナリティーたちから「喋り」を学んでいたのだと今にしてと思う。

 早朝からこんな番組を聞いていたので、二度寝して目が覚めたら9時半だった。今朝は今年最後の資源ゴミ出しの日だったので、慌てて起床してゴミを出した。
 写真は現在ぼくが聴いているラジオ。オーム社製、スーパーバリューで1980円で買った。チューニングが難しくて、NHK第1すらなかなか同調しないうえに、FENより上の周波数はほとんど入らない。まさに「壊れかけのラジオ」である。

 2023年12月29日 記

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小津安二郎『秋刀魚の味』--2023年最後の映画

2023年12月27日 | 映画
 
 きのう12月26日(火)午後1時から、“ NHK-BS シネマ ”で、小津安二郎の『秋刀魚の味』を見た。
 先週の同じ時間帯に「お早よう」を見た時に次週予告があったので、忘れないで見た。
 「デジタル修復版 <スタンダード・サイズ>」と画面表示にあった。画面のタテ・ヨコ比を修正する方法が分からないので、そのまま見たが、少しタテ長で、笠智衆や佐田啓二の顔や足が長すぎるような気がするのだが(下の写真)。
 「秋刀魚の味」はこれまでに4、5回見ただろうか。ぼくは同じ映画を2度見ることはほとんどないのだが、「秋刀魚の味」は何度見ても悪くない。

   

 若い頃(といっても50歳頃まで)は小津映画の中では「父ありき」が一番好きだったが、最近では「秋刀魚の味」がいい。小津の最後の映画である。誰かが「小津の最後の作品が『秋刀魚の味』では・・・」と嘆いていたが、ぼくは小津の最後の作品としても悪くないと思う。いい余韻が残る。
 「東京物語」を小津の最高傑作とする見方が一般的らしいが、ぼくは「東京物語」はあまり好きでない。テーマが重すぎるのだ。「孤老」がテーマなのだが、妻に先立たれた笠を末娘の香川京子がずっと見守ってくれるような気がする。あのラストシーンからは、そう見えてしまった。

 「秋刀魚の味」もテーマは「老い」だと思う。「東京物語」の笠智衆よりは多少は若い年齢に設定された笠智衆、中村伸郎、北竜二(それに東野英治郎)たちが主役だが、定年をまじかに控え、末娘を嫁に出す笠にも「老い」は迫っている。
 以前にも書いたが、ぼくは予備校に通っていた18歳の頃に、奥井潔先生の英語の授業でモーム(の抜粋)を読んだ。後に出版された奥井先生の「英文解釈のナビゲーター」(研究社)を見ると、先生はモームを読みながら、若さとか友情とか嫉妬とか老いとか、要するに「人生」について若かったぼくたちに問いかけていたのだったが、18歳のぼくにはそのような感情を受け入れるレセプターがまったくなかった。
 自分も60歳を過ぎたころから、ようやく老いを感じることができるようになったのだろうか、「秋刀魚の味」が身に染みるのだ。   
 
 今回も「いつもながらの」(“Mixture as Before” )小津の風景が随所に見られた。
 会社の重役を務める笠の重役室には応接室が付属していて、そのドア際には来客が帽子とコートを掛けるコート掛けが置かれていた。ぼくが大学を出て就職した出版社の会議室もそんなつくりで、ドアの脇にコート掛けが置いてあった(下の写真)。
             

 定年も近い裕福なサラリーマン中村伸郎の家の和室はそれなりに立派な風情で、他方、若いサラリーマン佐田が住むアパートの一室はまだ冷蔵庫も掃除機もテレビもなく、休日には佐田が座布団を枕に寝そべって手持無沙汰に煙草をふかしている。
 佐田の勤める会社の屋上にはゴルフ練習場があるようだ。ぼくの会社にはゴルフ練習場はなかったが、木造3階建ての3階は壁際の書棚に資料が積んであり、部屋の真ん中には卓球台が1台置いてあった。
 マダム(岸田今日子)が亡くなった妻に似ていると言って笠が通うトリスバーのようなバーは今でもあるのだろうか。
 
 冒頭の写真は「秋刀魚の味」のなかでも、ぼくが好きな場面の一つである、石川台駅のホームの岩下志麻と吉田輝雄のツーショットのシーン。小津映画に定番のこのシーンでは、いつも二人は離れて立っている。「麦秋」の原と二本柳、「お早よう」の佐田と久我、そして岩下と佐田、みんな離れて立っている。
 50年以上前のこと、下校時刻の吉祥寺駅北口の改札口で、高校生だったぼくを待っていた武蔵野女子学院の女の子がいた。声をかける勇気がなかったけれど、岩下志麻くらい色の白い子だったーーなどと思い出しながら見た。 
 先日の岩下志麻が「最終講義」(NHK、Eテレ)で語っていた、失恋して部屋に戻って一人泣く場面はしっかりと見たが(前の書込み「お早よう」を参照)、その前の場面で、思いを寄せる吉田にはフィアンセがいることを父(笠)と兄(佐田)から聞かされた場面の岩下の表情がよかった。  
 
 今年最後の映画が「秋刀魚の味」でよかった。

 2023年12月27日 記

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小津安二郎『お早よう』(NHK-BS)

2023年12月20日 | 映画
 
 12月19日(火)午後1時から、NHK-BSで小津安二郎『お早よう』(松竹、1959年、デジタルリマスター版)をやっていた。
 「お早よう」は、小津作品の中では好きな作品ではないのだが、暇だったので見た。
 基本的にはいつもながらの小津映画である。佐田啓二と久我美子が私鉄の駅のホームで立ち話をする場面は(上の写真)、「麦秋」の原節子と二本柳覚の北鎌倉駅、岩下志麻と吉田輝雄の石川台駅と同じである
 荒川(?)沿いの土手と、その下で繰り広げられる昭和の東京郊外の家庭生活風景、とくに杉村春子ら昭和の主婦たちの「世間」がこの映画のテーマの(1つの)ように思った。
 阿部謹也さんの「世間」論の中に、専業主婦の女性には「世間」はないと書いてあったが、昼下がりの団地公園の砂場の周りなどは「世間」そのものである。阿部さんもこの小津映画を見ていれば考えを改めたのではないか。

 「お早よう」では、いつもは脇役の子役が(準)主役級で登場する。しかし、小津には子どもを主役(級)にした映画は無理だったように思った。その子役たちがオナラの出し合いを競うというのも品がないし、ユーモラスとも思えない。あんな遊びが当時はやっていたのだろうか。昭和30年代の世田谷では聞いたことがない。
 小津映画はやっぱりサラリーマンだろう。しかし、そのサラリーマンを演じる笠智衆、東野英治郎があまり精彩がない。杉村たち主婦陣も、沢村貞子、三宅邦子、賀原夏子、高橋とよとたくさん出てくるのだが、散漫な印象である。「秋刀魚の味」では彼らの演技がよかっただけに、残念である。
 
 舞台となった土手沿いの新興住宅街に、「助産婦」の看板を掲げた家があった。あんな噂話好きのおばさん連中がたむろしている町で、助産師の営業は困難だったのではないか。「東京暮色」で産科医を演じていた女優がこの町に住んでいて怪演していた。
 
   

 子どもたちが父親の笠に買ってもらったテレビが届く場面があった(上の写真)。子どもたちが近所のアパートに住んでいる水商売の女性の部屋に入りびたってテレビを見ているので、仕方なく買うことにしたのである。東野が電機屋の営業に転職して売り込みに来たせいもあるが。
 わが家でも1959年にテレビを買った。9歳だったぼくが近所のテレビのある家(その家のお父さんはNHKに勤めていた)に入りびたりで、時には夕飯までご馳走になって帰ってくるので、親が根負けしたらしい。
 わが家にテレビが届いたのは水曜日の夜8時すぎで、最初に見た番組はNHKの「事件記者」だったと記憶する。それまでは経堂の駅前にあった南風座に「月光仮面」などを見に行っていたのだが、テレビを買ってからは映画館には行かなくなった。記憶にあるのは、太田博之主演の「路傍の石」を学校から下高井戸の映画館に見に行ったことくらいしかない。
 小津の晩年の映画に、テレビが家庭に入ってくるシーンが残っているのも皮肉である。そういえば、「秋刀魚の秋」にも、阪神・大洋戦(ピッチャーがバッキーで打者が桑田武だった)を中継するテレビを中村伸郎たち見ている場面が出てきた。 

   

 それはそれとして、番組の最後に来週のこの時間(12月26日午後1時から)に、「秋刀魚の味」が放映されるという予告があった(上の写真)。
 覚えていたら、そして時間があいていたら見ることにしよう。
 そう言えば、2、3日前にNHKのEテレで、岩下志麻の「最終講義」というのをやっていた。あの「秋刀魚の味」の彼女も82歳だという。
 小津映画の話ばかりではなかったが、「秋刀魚の味」に出演した際に、岩下が(兄の佐田啓二の友人の)吉田輝雄に失恋した際の演技で100回もNGが出たと話していた。撮影現場では小津はどこが悪いか一言も言わなかったが、撮影後に小津に食事に誘われた時に、「人は悲しい時に悲しい表情をするんじゃない、人の感情はそんな単純なものではない」といった趣旨を諭されたという。
 来週見るときには、このシーンを気をつけて見ることにしよう。

 2023年12月20日 記

 追記
 そう言えば、数日前のNHKラジオ深夜便「NHKアーカイブス」で、杉村春子の聞き語りの再放送をやっていた。杉村81歳の時のインタビューで、聞き手は杉浦圭子アナだった。広島の女学校を出て、(当初の希望だった声楽家を断念して)築地小劇場の面接を受けて合格したが、広島弁を直すのに2、3年かかったと言っていたように思う(半分眠りながら聞いていたので)。「お早よう」では、沢村貞子の東京弁と遜色ない東京のおばさんの喋り口になっていた。
 もう一つ、そう言えば、さる12月12日は、たしか小津の没後60年にして、生誕120年の日だった。小津は12月12日に生まれて、12月12日に60歳で亡くなっている。

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J・ギースラー『ハリウッドの弁護士(下)』

2023年12月16日 | 本と雑誌
 
 ジェリー・ギースラー/竹内澄夫訳『ハリウッドの弁護士--ギースラーの法廷生活(下)』(弘文堂、1963年)を読み終えた。フロンティア・ブックスという弘文堂から出ていた新書版の1冊。

 ハリウッド界隈で起きた痴情による殺人事件、スターたちの離婚裁判や、ロバート・ミッチャムの麻薬事件、選挙をめぐるフレームアップ事件(ロスでは市長や地方検事候補者をハニートラップ、中でも未成年者淫行罪で引っ掛ける事件が横行したらしい)、さらにはハリウッドのやくざや賭博師がかかわる事件の弁護もしている。「東京クラブ事件」など何かと思ったら、ハリウッドの「東京クラブ」という名前の鉄火場で起きた日系賭博師が絡む殺人事件だった。
 ロバート・ミッチャムの事件もハメられた感じがある。オフの日に友人に誘われて出かけてみると、室内でマリファナ・パーティーが始まっており、彼が差し出されたマリファナを受け取った瞬間にガサ入れの警官が踏み込み、彼は逮捕されたという。ギースラーは、陪審裁判で彼がマスコミのさらし者になるのを避けるために、あっさりと有罪を認めさせて、60日間の刑期も済ませて芸能界に復帰させたという。
 民事事件では離婚関係が多く(シェリー・ウィンタース、グレタ・ガルボその他)、離婚原因の姦通(不貞)、離婚時の財産分与、離婚後の親権(監護権)や子の養育費、祖父母の孫との面会交渉権など、今日的な問題のオンパレードである。
 ぼくの感覚からは「こんな事件まで・・・」と思うような事件の弁護も引き受けているが、彼なりの倫理観に基いてはいるのだろう。

 チャールズ・チャップリンのマン法違反事件というのも印象的である。
 1942年当時のカリフォルニア州には性的目的で州外に移動する者に旅費を渡すなどした行為を罰する法律があった。チャップリンは、若い女優の卵と恋愛関係にあり、やがて破局した際に(チャップリンが彼女に飽きたのが原因だったという)、彼女がニューヨークに帰る旅費を渡したところ、同法違反で起訴されたという事件である。
 チャップリンは被告人席に座ると足が床につかないくらいの小さい男だったが、その被告人席でしょんぼりと肩を落として陪審員席を見つめていたという。それが演技だったのか本当に憔悴していたのか、ギースラーには判断できなかったが、その効果もあってか、当初はチャップリンに反感を抱いていた陪審員たちも最後には無罪の評決を下した。
 もちろんマン法が定める構成要件に該当する行為も故意もないことが証明されたから無罪になったのだろうが、ぼくにはその時のチャップリンの姿が手に取るように想像できる。おそらく演技だったのではないだろうか。冒頭の本書(下巻)の右側がチャップリンである。
 チャップリンはあけすけな性格で、彼女との関係を全く否定しなかったばかりか、「私の人生にとってセックスは重要なことではない」とまで証言したという。戦争が終わるとチャップリンはアメリカを去って行った。ヒットラーから逃れたアメリカで、今度はマッカーシズムから逃れるハメになった。
 そう言えば、この本にはマッカーシズム時代のハリウッドのことは全く出てこない。

 クラレンス・ダロウとの交流も印象的だった。
 1886年にアイオワで生まれたギースラーは、弁護士になりたいという野望を抱いてロサンゼルスに出て、材木運びの荷馬車の御者をしながら南カリフォルニア大学のロースクールで学び、アール・ロジャースという有名な刑事弁護士事務所の書生となった。
 書類運びなどの仕事をしながら司法試験に合格するのだが、当時のカリフォルニア州の司法試験はあっけないほど簡単だった。試験委員の裁判官に向かって、住所・氏名・年齢と、最近読んだ法律書の書名を答えるだけで合格したという。
 合格直後の時期に、ダロウが労働事件で労働者側の弁護人を務めていた際に、検察側の罠にハメられて陪審員買収の廉で起訴された事件で、ダロウはロジャースに弁護を依頼するが、事務所で見初めた若いギースラーにも弁護人になることを依頼したのであった。このことを名誉に思ったギースラーは、生涯ロジャースとダロウの写真を事務所に飾ったという。

 「アメリカは有罪だ」(この本はサイマル出版会から出ていたのではなかったか?そうだとすると、本書の編集者である田村勝夫さんと繋がる)のクラレンス・ダロウと、「ハリウッドの弁護士」のギースラーとはどこで繋がっていたのか訝しかったが、そんな馴れ初めだったのだ。

 2023年12月16日 記

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映画『返校--言葉が消えた日』

2023年12月05日 | 映画
 
 映画『返校--言葉が消えた日』(2019年、台湾。ツイン、DVD)を見た。

 蔣介石の国民党政権が台湾で恐怖政治を行っていた1962年(民国51年)、戒厳令下の台湾の高校を舞台にした映画である。ホラー映画の範疇に入るらしい。

 最初のシーンは古びた赤レンガの塀沿いに生徒たちが登校する風景から始まる。生徒たちに活気はない。むしろ陰欝な印象である。
 壁には「厳禁集党結社」という標語が大書されている。
 字幕では「共産党スパイの告発は国民の責務」「共産党の手先を隠せば同罪となる」「扇動する者を取り締り」「国家転覆を図る者は死刑に処す」というナレーションが流れる。

 この高校でタゴールの詩集を読む読書会グループの教師と生徒が、密告者の内通によって国家反逆の廉で憲兵の捜査を受け、逮捕され拷問されて、殺される。
 誰が密告者なのかは分からない。ホラー映画というものをほとんど見たことがないので(「エクソシスト」と「シャイニング」くらいしか記憶にない)、その「映画文法」がよく分からない。過去と現在の時空を行き来しているのか、そうではなく主人公たちの妄想の世界、心象風景を描いているのかも分からないのだが、恐怖感は十分に伝わってくる。ゲーム的な動きが感じられるシーンもあった。
 タゴールはインド出身の作家だが、植民地支配を批判した作家だったという。そんなタゴールすら読むことが許されない、読んだ高校生が死刑に処される時代だったのだ。
 ※下の写真は碓氷峠の見晴台に向かう山道の途中に建つタゴール座像の石標。日本女子大学の招きで軽井沢で講演を行ったという(三泉寮だろう。本女もミッションスクールだった)。生誕120年を記念して建立されたとある。
   

 この映画は、もともと「返校」というゲームが原作だという。
 ゲームが映画の原作になるというのも古い世代のぼくには理解しがたいが、メイキング・ビデオによると、ゲームの原作者(製作者?)3人も、この映画のジョン・スー監督も、1962年台湾の蒋介石政権の恐怖政治を実体験したことのない若い世代の人たちのようである。監督は、戒厳令下に弾圧を受けた人たちやその遺族に自ら面会して体験談を取材して映画製作に際して参考にしたという。
 その世代の人たちが、蔣介石国民党時代の戒厳令下の恐怖政治の体験を共有しようとしていることに感銘を受ける。
 わが国の若い世代に、戦後の「日本の黒い霧」や「真昼の暗黒」の記憶を共有する人たちがどれほどいるのだろうか。

 時あたかも、香港の民主化運動で逮捕された周庭さんが、カナダのトロントから声明を発したニュースが流れた。
 周庭さんはその後どうしているのだろうと思っていたが、香港国家安全法違反で有罪判決を受けて服役し、釈放された後も当局の監視を受けていたようだ。どのような経緯か分からないが、今年の9月からカナダに滞在しており、この度カナダへの「亡命」を宣言したという。
 香港には二度と戻ることはないと言っていた。香港が彼女が帰還できる自由な社会になることは、彼女の生涯のうちに訪れることはないと判断したのだろう。
 習近平政権の支配が及ぶ香港政府に対して周庭さんが抱いた恐怖こそ、映画「返校」に描かれた国民党戒厳令時代の台湾の人々が権力側の人間(憲兵や密告者)に抱いた恐怖、そして、その過去を共有する現在の台湾の人びとが、国家安全法の名の下に政権批判の言論が封じられている大陸に併合されることへの反発につながるのだろう。
 
 2023年12月4日 記

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