豆豆先生の研究室

ぼくの気ままなnostalgic journeyです。

きょうの軽井沢(2022年9月26日)

2022年09月26日 | 軽井沢・千ヶ滝
 
 昨日から1泊2日で軽井沢に行ってきた。

 2日間とも晴天に恵まれた。東京に比べると多少は秋の気配が感じられたが、“風立ちぬ” にはもう一歩のところだった。
 道路のそこかしこに栗の毬(いが)が落ちていたが、あらかた中身は持ち去られた後だった。

 今朝、起きたとき窓の外には霧がかかっていたが、9時近くになると日がさしてきた。きっと浅間山がきれいだろうと思って、絶景ポイントに出かけてみた。
 予想通り、いや期待していた以上に山肌がきれいに青空に映えていた。

   

 中腹の噴火口がしっかりとハート形をしていた。あの噴火口がハート形とは今まで知らなかった。こんなにくっきりと見えることはなかったのだろうか。
 ところで、この噴火口の少し下側にタテの黒い線が見えたが、あれは何なのだろうか。

   

 帰りがけに発地市場から眺めた浅間山もきれいだった。ここからもハート形の噴火口が確認できた。電線が邪魔だけど。
 来年にはこの近くにホテルが開業すると軽井沢新聞に書いてあったが、来年のこの辺りはどんなことになっているのだろうか。

 2022年9月26日 記

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アラン・ブルーム『アメリカン・マインドの終焉』

2022年09月21日 | 本と雑誌
 
 アラン・ブルーム『アメリカン・マインドの終焉』(菅野盾樹訳、みすず書房、1988年。原題 “The Closing of the American Mind” ,1987)を読んでいる。
 「全米80万部の超ベストセラー、文明の将来をうらなう問題作」などと、みすず書房にしては珍しく大袈裟な新聞広告をうっていたのにつられて、1989年に買って読みだしたのだが、著者が何を言いたいのかよく理解できず、「第3部 大学」の手前まではヨタヨタと読んだ形跡があるが、ここで断念したようだ。
 今回断捨離に際して、捨てるまえに再度チャレンジしたのだが、今回は第3部よりもはるか手前でうんざりしてきた。

 そこで、本文を読み進めるのをやめて、巻末の訳者による解説を先に読んた。
 訳者によれば、本書の著者は「ほとんど無名の大学教授」であり、「経歴について、そう詳しいことはわからない」のであり、本書はニューヨーク・タイムズの「褒めちぎった」(!)「書評によって作られたベストセラー」なのだそうだ(425頁~)。
 本書の著者に対しては、「鼻もちならぬエリート主義者だ」、「とんでもない性差別論者だ」などの批判が加えられたが、訳者は「そんなに粗雑で単純な議論を、彼が展開しているわけではない、・・・理論的・哲学的な水準で本書をめぐる議論を・・・本格的に行なうことが必要だ」という(428頁)。
 しかし、訳者も、本書(著者)の最後の拠り所が人間の「理性」と「本性」だとすると、「ブルームは肝心な点について何も言っていない、という批判を免れ」ず、「あるいは、あまりに安易に考えている、というそしりを免れないだろう」(429頁)と指摘する。

 ぼくは、本書は、高名な政治哲学者が、学問的な蓄積をバックグランドにして、昨今の大学教育や学生を批判する政治哲学の書だと思った。しかし、どうも著者の拠って立つところが見えてこない。ソクラテス、プラトン、アリストテレス、ホッブズ、ロック、ルソーらが引用されるのだが、登場の仕方が唐突で、饒舌に語るわりには彼らを引用して著者が何を言いたいのかが読み取れない。ぼくが無教養だからなのかもしれないけれど。
 フロイト、ウェーバー、フロム、リースマンらも引用され、その精神分析学、価値相対主義、他者志向型人間類型などが批判されるのだが(どこかにロールズを茶化すような引用もあった)、それでは著者自身は、現代の若者にどのような内面性を求め、そのためにどのような具体的な方策を提案しているのか、大学教育がそのためにどのように改革されることが必要なのかについての著者の考えは見えてこなかった。
 巻末で訳者が、「(著者は)肝心な点について何も言っていない」と解説しているのを読んで安心した。何も言っていないのであれば、著者が何を言いたいのかを読み取ることができなくても当然だろう。ぼくには、解説で訳者が紹介された本書への批判のほうが当たっているように思えた。

 この本は、人文科学を軽視する大学の現状、世間のリベラリズムやフェミニズムの傾向、学界における「ドイツ・コネクション」(ナチズムの弾圧を逃れてアメリカにやって来たユダヤ系ドイツ人学者たち)を苦々しく思ってきた保守派の教授が、ゼミかオフィス・アワーの場で、学生たちを相手に鬱憤をぶちまけた長広舌(おしゃべり)を活字化したものと思って読むことにした。面倒くさい個所はすっ飛ばして(聞き流して)先に進むのである。そうすると、あまり腹も立たなくなってきた。
 本書は、大学教師の立場からみた「若者の魂の省察」であり(11頁)、大学における一般教養教育(“Liberal Education”)のあり方を論じた本であるなどという、冒頭の著者の宣言にぼくは幻惑されてしまっていたようだ。著者が批判したフロム「自由からの逃走」や、リースマン「孤独な群衆」ほどの洞察力のある本とは、ぼくには思えなかった。
 1980年代末に80万部の超ベストセラーになったというが、あの当時、本書のようなアンチ・リベラルな論調に喝采する読者が一定数はいたのだろう。しかし、30年後の今日のアメリカにおける、トランプ支持者らの議事堂乱入、トランプに任命された連邦最高裁判事による中絶判例の変更その他のアンチ・リベラルの現象を見ると、本書の著者が抱いたような感情は必ずしも少数者の感情ではなく、30年間ずっとリベラルな流れの裏側でくすぶっていたのかもしれない。
 
 疑問を一つ。
 著者によれば、アメリカでは寛容が権利にとってかわり(20頁)、O・W・ホームズらの考え方に従えば、「不寛容な人に対して寛容であってはならないのだ」(21頁)と訳してあるが、この個所はぼくには理解不能だった。
 逆なのではないだろうか。ホームズのような思想の自由市場論者によれば、「不寛容な人に対しても不寛容であってはならない」か、「不寛容な人に対しても寛容でなければならない」という結論になるはずである。ホームズのような「思想の自由市場」における自由な言論活動による自然淘汰という考え方が、ナチズムの「不寛容」を生む温床になったのではないか。ぼくの読み間違えかも知れないが。

 2022年9月21日 記

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R.B. ダウンズ『アメリカを変えた本』

2022年09月14日 | 本と雑誌
 
 ロバート・B・ダウンズ『アメリカを変えた本』(斎藤光ほか訳、研究社、1972年)を読んだ。
 アメリカの歴史を論じた本ではなく、本自体がアメリカの変化や歴史に影響を与えた本を25冊選んで、その内容とアメリカ社会への影響を1書あたり約20ページにまとめてある。
 アメリカでは、このようにアメリカの歴史に影響を与えた書物を何冊(何十冊)か選んで、リーダーズ・ダイジェスト的に要約した本がそれまでにも何冊か出版されていたようだが、本書もおそらく1976年のアメリカ建国200年を控えて、アメリカ200年の歴史を書物で回顧しようとしたのだろう。
 著者のダウンズは「図書館学の権威」として、来日したこともあるという。
 独立期のトマス・ペイン「コモン・センス」(1776年)に始まって、トックヴィル「アメリカの民主主義」、ビアード「合衆国憲法の経済的解釈」などから、レイチェル・カーソン「沈黙の春」(1962年)まで25冊の本が取り上げられる。社会科学、歴史学だけでなく、自然科学系の本も取り上げられているが、小説や戯曲など文学書は1冊もない*。 
 * ストウ夫人の「アンクル・トムの小屋」(1851年)とアプトン・シンクレアの「ジャングル」(1906年)が入っていたのを忘れていた。

 25冊の中で、ぼくがいちばん興味をもって読んだのは、カルドーゾの「司法過程の性質」(1921年)である。この本は中央大学出版部から出ていた邦訳(守屋善輝訳)で大昔に読んだ。いわゆる裁判官による法創造(裁判官は現に存在する制定法をただ解釈するだけでなく、現実問題に法を適用するに際して実際には法を創造する場合もある)を肯定する側の裁判官による、裁判官が実際に裁判を行い、判決を下す際のプロセスをありのままに説明した内容だった。裁判がたんなる三段論法による制定法の事件へのあてはめでないことは多くの論者がいうところだが、カルドーゾは裁判官に影響を与える要素として、(1)類推の規則、(2)歴史の発展法則(進化論)、(3)伝統(共同社会の慣習)、(4)正義・道徳・社会福祉を掲げ、これらによって、裁判官の判断が恣意的になることを回避しようとする。
 カルドーゾは執筆当時の連邦最高裁判事たちのリベラルな精神を楽観的に信頼するのと同時に、しかし、裁判官個人の好き嫌いの念、偏見、感情なりが裁判に影響を与えうることも指摘した。昨今のトランプに任命された最高裁判事たちによる中絶違憲判決や、わが最高裁長官が砂川事件の判決前に一方当事者であるアメリカ側と密談して合議の内容を漏洩していた事実の発覚(布川玲子他編『砂川事件と田中最高裁長官--米解禁文書が明らかにした日本の司法』日本評論社)、公判を109回も欠席してホテルにこもって判決を書いていたという東京裁判におけるパール判事のような事例(粟屋憲太郎『東京裁判への道(下)』講談社メチエ)をなど知ると、カルドーゾの心配は杞憂ではなかったと言わざるを得ない。

 ※ 下の写真は、アメリカ独立200年を記念して発行された1ドルのコイン(白銅貨)。リバティ・コインと呼ばれているようで、表面に “LIBERTY” と刻印されていて、肖像はアイゼンハワー大統領。ネット情報ではこの記念硬貨は1ドル、50セント、25セントの3枚セットで、50セントの肖像はケネディ大統領(1976年は共和党政権だったのだろうか?)。どうせならケネディのほうが欲しかった。友人からアメリカ土産にもらった物だが、最初からキーホルダーがついていた。現在1ドルは145円前後だが、1976年当時1ドルは何円だったのか。古銭市場では1円から2980円まで様々な値段で売られている。
   

 以下では、この本の中で印象に残ったことをアドホックに列挙しておく。

 ソローの「市民政府への反抗」が発表された当時(1849年)、本書にはあまり反響がなく、奴隷制度廃止運動にも影響しなかったこと、しかし、20世紀に入ってから、トルストイ、ガンジー、1950年代のマーティン・ルーサー・キング牧師らに影響を与えたこと、アメリカでは1950年代まで、ソローの本書を朗読しただけで逮捕されたことなどに驚いた(140頁~)。70年前にはアメリカも、政府に都合の悪い事実に関しては表現の自由が存在しなかった点で、現在のロシア、中国などと同類だったのだ。

 ベラミー「顧みれば」(1888年)は、2000年から1847年をかえりみるというユートピア論である。生産と分配の共同化が実現した2000年には、国の負債に対する利子はなくなっており、刑務所はほとんど空で、税吏も、銀行家も、保険業者も、広告業者も、弁護士もいなくなっていると彼は考えた。しかし、ベラミーの理想は見事に打ち砕かれたどころか、いよいよ広告業者が跋扈して、人々に必要もない欲望をかき立て、必要もない消費を煽っている。政府の支払う利子はかさむばかりで、政府を信用できない国民は保険と預金に頼るしかない。もし21世紀に再臨したら、彼は仰天することだろう。
 ベラミーの影響を受けた者の中に、トウェイン、ウェッブ、ヴェブレン、ショーらとともに、クラレンス・ダロウ(弁護士)の名前が挙がっていた(178頁)。ダロウは、どのような影響をベラミーから受けたのだろうか。ダロウの伝記(『アメリカは有罪だ』サイマル出版会)を読み直してみよう。

 ターナー「フロンティア」(1893年)は「安全弁としてのフロンティア」論に立脚している。「安全弁」論とは、東部で搾取された労働者らも、1862年のホームステッド法の成立以降は、フロンティアの自由地を取得して農業によって自立することができたので、フロンティアの存在が東部における労働者問題の安全弁になったという仮説である。しかし本書によれば、「安価な自由地」は実は神話であり、実際にはフロンティアを目ざした農民よりも先に土地投機家たちが自由地を買占めて農民に高値で転売したので、入植した農民たちは土地代の支払いのために困窮生活を強いられたというのが現実だったという(205頁~)。スタインベック「怒りの葡萄」の主人公一家を思い起こせば、この現実は明らかだろう。

 ステファンズ「都市の恥」(1903年)は、セントルイス、ミネアポリス、ピッツバークなど、アメリカ各地における議員、裁判官、警察、官僚などが地元のボスや企業家と癒着して繰り広げた腐敗の実態をあばいており、興味深かった。アメリカの裁判官の中には買収に応じる者があることは英米法の講義で実例を聞いたことがあったが、実は裁判官の家系に生まれたカルドーゾの父親もニューヨーク州の裁判官だったが、汚職事件が発覚して弾劾裁判を免れるために辞職した黒い裁判官だったということに驚いた(335頁)。カルドーゾは父親の贖罪のためにも勤勉に働いたという。
 ステファンズは、腐敗した諸都市の共通点として、納税者から金を奪うために、「品位ある」実業家と不真面目な暴力団とが政治家と結びついているという構図を指摘した。公共事業に1ドルが費やされるたびに、1ドルが盗人の手に渡ったと彼は言う(230頁)。この構図は現在のわが国でも同じではないか。オリンピックをめぐる贈収賄疑惑で元電通マンや企業経営者の逮捕が連日のように報じられているが、汚職の構図はいつの時代、どの地域でも変わらないのかと暗澹たる気持ちになる。現代のわが国にはステファンズのような勇気あるジャーナリストはいるのだろうか。

 ジェーン・アダムズ「ハル・ハウスの20年」(1910年)は、シカゴでセツルメント活動を立ち上げ、貧民救済に一生をささげた社会事業家の著作だが、このような事業はアメリカでは「社会主義者」のレッテルを貼られ、彼女の死に際して弔辞を読んだのはクラレンス・ダロウともう一人だけだったという(274頁)。しかし、セオドア・ルーズベルトは、一時期「進歩党」を立ち上げ、彼女を支持した。そして今日ではアダムズが唱えた労働者や未成年者の保護政策はほぼ実現しているという。本書で何度か登場するセオドア・ルーズベルトにも興味がわいた。

 リンド夫妻「ミドルタウン」(1929年)は、未開部族を対象にしてきた文化人類学の手法をアメリカの典型的な中都市の住民の生活に適用した最初の研究であるという。彼らによれば、ミドルタウンの住民は大規模な宣伝や雑誌、映画、ラジオなどによって半贅沢品を生活必需品のように感じさせられ、所有していないと不満をもつように仕向けられている。自動車は全階級の人々の心をとらえた地位(ステイタス)の象徴で、貧しい階層の人でも子どもの学校での地位を維持するために(!)、この頃から普及し始めたクレジットによって自動車を買うのである(357頁)。
 ミュルダール「アメリカのディレンマ」(1944年)は、アメリカ憲法が保障したはずの人権というアメリカの普遍的理念と、現実社会における黒人差別の矛盾を指摘した。
 ガルブレイス「豊かな社会」は、1958年の出版である。「ミドルタウン」のような都市はさらに「豊か」になったが、テレビ、自動車、冷蔵庫その他の耐久消費財を手に入れても、2台目のテレビ、2台目の自動車・・・を買いつづけなければならないと人々は思わされる。人々は自分が何を欲しているのかを広告マンに教えてもらわなければならない(405頁)。ガルブレイスは、このような個人の必要と、住宅、教育、医療保障など公共が必要とするものとの間の適切な均衡(社会的均衡)の原理を提示した(407頁)。

 本書は、環境破壊告発の嚆矢となったレイチェル・カーソン「沈黙の春」(1962年)で結ばれるが、本書を通読しての感想は、「はたしてこれらの本によってアメリカは本当に変わったのか?」という疑問だった。アメリカはいまだに本書で指摘されたような「南部」的な精神風土、「西部」ないし「似非フロンティア」的な風土が残っているのではないだろうか。そもそもアメリカは建国からせいぜい250年しか経っておらず、いまでも形成途上にあるのではないか。
 本書出版以後(1972年以降)の50年間のアメリカを通覧するのにふさわしい本は何かあるだろうか。

 2022年9月15日 記

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エリザベス女王と私

2022年09月12日 | あれこれ
 
 9月8日に、イギリスのエリザベス女王が亡くなった。
 96歳のご高齢とはいえ、その2日前にトラス新首相の任命式に臨んでいる姿をテレビのニュースで見ていたから、驚いた。

 エリザベス女王(エリザベス2世)と私とは、言うまでもなく、まったく無縁である。
 わずかな「縁」といえば、2014年にイギリスを旅行した際に、女王が毎夏避暑に訪れ、昨晩女王の棺が到着して安置されているエディンバラのホリルード宮殿を見物したこと、ロンドンのバッキンガム宮殿を見物したこと、そして、女王の肖像が描かれたイギリスのコインや紙幣を少し持っていること、それだけである。

 ホリルード宮殿は、エディンバラ城から東に向かうロイヤル・マイルという(まさに全長1マイル=約1600mだそうだ)通りのほぼ突き当り、スコットランド議事堂や最高裁判所の向かいに位置する(下の写真はその正門と宮殿)。観光客も余りいなくて、その日は空も曇っていて、寂しい場所だった印象がある。
   
   

 女王の棺は、ロイヤル・マイルの真ん中よりややエディンバラ城に近いところにあるセント・ジャイルズ大聖堂で一般に公開されるという。日本とは遺体観が違うようだ。その昔、波平恵美子さんの日本人の死体観に関する著書を読んだような記憶があるが、内容は忘れてしまった。
 下の写真は、セント・ジャイルズ大聖堂の尖塔。
   

 バッキンガム宮殿は、衛兵交代式を見に行こうとしたのだが、当日(日曜日だった)サッカーの試合があり、暴動(?)を避けるため、地下鉄が最寄駅のはるか手前で運休になってしまい、2階バスに乗り換えて現地に向かったが間に合わず、衛兵交代式を見ることはできなかった。運転中止の車内放送も聞き取れず、乗客がどんどん降りていくので何が起こったのだろうと思っていたら、当時イギリスに留学中で、その時も一緒にいた息子が事情を説明してくれたので、辛うじてバスに乗り換えることができた。そう言えば、われわれの旅行費用だけでなく、息子の留学費用でも、イギリス経済に若干の貢献はしたのだった。
 バスの停留所からバッキンガム宮殿に向かう小道沿いに、わがミスター・ビーン(豆豆先生)の等身大のパネルが店頭に飾ってあるMr. ビーン関連グッズを売る店があった。愛車のミニは置いてなかった。 
 下の写真は、バッキンガム宮殿。 
   

 そして、イギリスの紙幣とコイン。現在はエリザベス女王の肖像だが、順次チャールズ新国王の肖像に差し換えられるという。チャールズの肖像への変更は、イギリス経済にどのような影響を及ぼすのだろうか。キャッシュレス化が加速するのではないだろうか。
 冒頭の写真は、エリザベス女王の肖像が描かれた5ポンド紙幣。下の写真はエリザベス女王の肖像が彫られた2ペンスのコイン。
   
   

 イギリスのコインは大きさと額面が比例していない。大きさの順でいうと、金色に輝く一番大きくて見栄えのするコイン(銅貨?)が2ペンス、これより少し小さい銀色のコイン(銀貨?)が10ペンス、次に小さい7角形の銀貨が20ペンス、その7角形の内接円程度の金色のコインが1ペニー、いちばん小さい銀貨が5ペンスである(上の写真)。上の段から20ペンス、10ペンス、・・・1ペニーと、順に額面が下がってくる。
 額面が大きさの順になっていないばかりか、数字(額面?)が書いてあるのは1ペニーと10ペンス、20ペンスだけで、2ペンスと5ペンスのコインには数字が書いてない。イギリスの造幣局の意図が分からない。とにかくコインで支払うたびに間違えていないか緊張した。
 下の写真は、女王の父君ジョージ6世(“英国王のスピーチ” の国王)の肖像が彫られた “Half Crown” 銀貨。ジーニアス英和によると、1クラウン=5シリング=25ペンスだそうだから、半クラウンは12・5ペンス銀貨ということか。1948年鋳造と刻印されている。祖父からもらったものだが、その頃イギリスに行ったはずのない祖父はどうやってゲットしたのか? 1948年生れのこのHalf Crown 銀貨の “コインの冒険” (S・シェルダン)は、ぼくの机の引出しの中にしまわれたままで終わりそうである。
   

 われわれが旅行した2014年の春は、スコットランド独立の可否を問う国民投票に向けての運動が行われていた。この時は、結果的にスコットランド独立派が敗れたが、その後の国民投票で、こんどはイギリスがEUから離脱することになった。スコットランドではEU残留派のほうが多数だったため、スコットランドでは再びイギリスからの独立、EUへの復帰を目ざす運動が起きているという。
 スコットランド人の気持ちや経済的利害は分からないが、エリザベス女王がスコットランド滞在中に亡くなったことは、イギリス残留派に勢いを与えることになるのではないか。

 なぜか憎めない、お洒落なおばあさんだった。
 エリザベス女王の国葬が執り行われる9月19日は、偶然私の母の命日にあたる。

 2022年9月12日 記

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さらば、夏の光よ!--軽井沢盛衰物語

2022年09月04日 | 軽井沢・千ヶ滝
 
 この夏、旧軽井沢の本通り(旧道)を歩いたら、「軽井沢物産館」のシャッターが下りていた。定休日とも何とも掲示してなかったので、閉店してしまったのではないかと心配になった。
 6月に出かけたときには、旧軽井沢ロータリー前の竹風堂のシャッターが閉まっていて、「今期は営業いたしません」の貼り紙があった(下の写真)。

   

 ふり返ると、ぼくの記憶にある軽井沢の商店や、施設のかなりのものがなくなってしまった。とくに、ここ数年は旧軽井沢では本通り沿いの店舗の閉店が相次いでいて、シャッターが閉まったままの店舗が目立つ。栄枯盛衰は世の常と言ってしまえばそれまでだが、昭和からの古い店の閉店がつづくのは寂しいことである。
 ここでは、ぼくの記憶の中にある思い出の店や施設を回想してみたい。前にも「幻のホテル」、「幻の湖」シリーズなどを書きこんだことがあるが、一部は重複している。

☆千ヶ滝(中区)編
 <西武百貨店軽井沢店> 思い出がありすぎて、何から書いたものか。芝生席で飲んだクリーム・ソーダや、スパゲッティ・ナポリタン、そこで開催された古本市で買ったモーム全集の『クリスマスの休暇』(新潮社)など・・・。
 <軽井沢スケートセンター> 毎夏、渡辺プロ主催の「真夏の夜の夢」というポップスのコンサートが開催され、ショーが終わると花火が打ち上げられた。世界スピードスケート選手権大会も開催された。屋外リンクの南西側、表彰旗掲揚台の脇に優勝したソ連の選手の雄姿をかたどった銅像があったはずである。
 午前中の勉強が終わってから、スケートセンターのボート池に面したベンチに座って、スピーカーから流れてくるハワイアンを聴きながら、物思いにふけっていた。もちろんスケートもやった。インドアリンクに入ったときの、あの冷気と氷の臭いも懐かしい。テニスコートでテニスをやったこともあった。日陰がなくて暑いコートだった。
 <こけもも山荘> そのテニスコートの国道を挟んだ向かい側(東側)には、「こけもも山荘」という小さなホテル(ペンション?)があった。慶応自動車部の親戚が合宿でここに来たことがあった。部員のらしい改造されたスバル360が庭にとめてあった。後部座席は外されていて、ストーブの煙突のような太い排気パイプ(?)が突き出していた。
 <東京医科大学軽井沢診療所> 西武百貨店軽井沢店から国道146号を少し上った国道に沿った左側にあった。一度何かで診察を受けたのか、待合室の記憶がある。夏の間ここの診察に駆り出されていた若い研修医たち(?)ももう80歳代だろう。隣りが交番か駐在所だったような気もするが、自信はない。
 <貸馬屋> もう少し上ると右手に貸馬屋があった。藤田肉店のあたりだろうか。左手には西武バスの営業所をかねた駐車場があった。この横丁は昭和30年代からすでに寂れていて、当時から西部劇に出てくるゴースト・タウンの雰囲気があった。
 この奥のほうにNHKの保養所や、東京女学館の夏季寮があったはずである。
 <千ヶ滝郵便局> さらに上ると、道路の右手というか国道が左に曲がる突き当りに、三角屋根の郵便局があった。
 <観翠楼> さらに上った(手前だったか?)左手に日本旅館の「観翠楼」があった。西武・国土計画系の経営で、冬のスケートバス旅行で泊まったことがあった。中学2、3年の頃である。
 <軽井沢グリーン・ホテル> 国道をもっと上ると、左手に「軽井沢グリーン・ホテル」があった。堀辰雄の小説にも出てくるホテルである。ここの2階のレストランでデートしたことがあった。手前には打ちっぱなしのゴルフ練習場があり、道を隔てた向かい側には展望台があった。昭和30年代までは裏手にスケートリンクもあったらしい。
 下の写真は、堀辰雄の追分にある旧宅の庭。先日行ってみたが、この庭の木々の葉の間から遠くに八ヶ岳を眺めることができた。堀はこの庭に座って、富士見のサナトリウムに思いをはせていたのだろうか。

   

☆千ヶ滝西区
 <西武百貨店軽井沢店、西区支店?> 千ヶ滝西区の(旧)NEC保養所の向かいには、西武百貨店軽井沢店の支店があった。コンビニほどにも物はなかった。西区分譲地の販売促進のために作ったのだろうが、それでも、お菓子やかゆみ止め(ムヒ)くらいは置いてあった。東京医大の診療所も付設されていた。西武の従業員の宿舎もここにあった。
 千ヶ滝西区には、かつては<企業の保養所>がたくさんあった。
 日本銀行、日本航空、日興証券、資生堂、朝日放送などなど。防衛庁共済組合の保養所もあった。保養所にやってくる女子従業員のことを、東海林さだおが「寮家の子女」などと揶揄した漫画を描いていたが、社会保険制度の改革で保養所の多くは撤退してしまった。一昨年にはNECの立派な保養所も解体され、跡地には東急の施設が建っている。
 現在西区に残っている保養所の中で目ぼしいのは、東京ガス、フジテレビ、富士通くらいか・・・。いやいや、ものすごいのを忘れていた。ビル・ゲイツの別荘といわれる広大な施設(もう「別荘」などといった範疇ではない)が、2、3年の歳月をかけて作られた。地上からその姿を見ることはできず、全容はGoogle map の航空写真で窺うしかない。

☆星野地区
 千ヶ滝と星野地区の境界は分からないが、千ヶ滝中区から星野に向かって歩いて行くと、「星野xxx番」というハウスナンバー表示の表札を掲げた別荘が並ぶ一角がある。祖父の友人だった先生の別荘も星野の山の上にあった。
 <星野温泉> かつての星野温泉と現在の星野リゾートの関係もぼくには分からないが、「星野温泉」という標石は今でも国道に面したところに立っている。星野温泉の本館が建っていた右手には<星野診療所>があり、<ちびきや>という雑貨屋があった。星野のテニスコートでもテニスをやった。「ちびきや」の店番をしていた娘さんや、テニスコートに面した別荘の女の子のことは今回は省略。
 <合格地蔵> 星野というか、塩壺温泉というか、あの辺りに弘田龍太郎の歌碑があり、その近くの別荘地の一角に「受験地蔵」だか「合格観音」だかがあった(今もあるかもしれない)。高校3年の時に叔父に連れられてお参りに行ったが、ご利益はなかったようで志望大学には落ちた。しかし、結果的に入学した大学で、後に大学教師への道を開いてくれることになる恩師に出会うことができた。ということは「ご利益」はあったのかもしれない。

   

☆ホテル編
 <千ヶ滝プリンス・ホテル> ここには、今年の夏、生まれて初めて入ることができた(上の写真は千ヶ滝プリンス近くの夏景色)。その時の係の説明では、ここは旧朝香宮別邸で、ぼくが生まれた昭和25年の建築ということだった。西武(国土)が買収して「千ヶ滝プリンスホテル」となり、一時は一般客が宿泊したこともあったらしいが、その後は皇太子(現上皇)ご一家専用のホテルになり、一般人は泊まれないどころか、立ち入ることもできなくなった。その後ホテル営業自体が廃業してしまった。
 <晴山ホテル> 「晴山(せいざん)ホテル」は、現在のプリンス・ショッピングモールか軽井沢プリンス・ホテル東館のあたりにあった。「晴山ホテル」は、もとは根津嘉一郎の別荘だったから、東武系だろう。根津が創設した武蔵中学・高校の<青山(せいざん)寮>という夏季寮も、戦後しばらくはあの辺にあったらしい。軽井沢が俗化したとして、群馬の赤城に移転してしまった。
 <浅間モーターロッジ> 国道18号の最高地点、1003メートル(だったか)の南側にあった。当初は高級ホテルとして開業したが、経営不振で文部省共済組合に売られ、その後廃墟になって放置されていたが、今は解体されたようだ。 
 <軽井沢ホテル>、<藤屋旅館> 旧軽井沢の本通りと聖パウロ教会の間に「軽井沢ホテル」、神宮寺の境内に面して「藤屋旅館」という旅館のあったことが、堀辰雄の小説(川端康成『高原』だったかも)に出てくる。ぼくの記憶にはないが、昭和30~40年代まで存在したらしい。戦前の夏の夜の本通りには、別荘の外国人に雇われたアマが徘徊していたと、これは川端の『高原』(61頁ほか)に書いてあった。
 ※「藤屋」「観翠楼」「グリーン・ホテル」は、すべて川端の「軽井沢だより」という短編に出ていた(『高原』中公文庫160~1頁)。「グリーン・ホテル」は堀の「ルウベンスの偽画」にも出てくる(『菜穂子』岩波文庫13頁)

   

☆旧軽井沢本通り編
 旧軽井沢の本通り(と堀辰雄は呼んでいた。ぼくも「旧軽銀座」とは言いたくない)に軒を連ねていた、小松ストア、明治屋(わが家では今でも子供用に使っている “オズの魔法使い“ のイラストが描かれたガラスコップは、このどちらかで買ったピーナッツバターの瓶である)、明治牛乳販売所(諏訪神社の花火をこの店の芝生席から眺めた。この店の裏手にはパターゴルフ場があった)、デリカテッセン(ドイツ語の看板がかかっていて、祖父から訳してごらんと言われたことがあった)、三笠書房(アメリカの犯罪実話雑誌なるものにこの本屋の店頭で初めて出会った)、三芳屋書店(テニスコートへの通りにあった。中軽井沢駅前にもあった)、紀ノ国屋(この跡地が沢村ベーカリーだろうか)、鈴屋ベル・コモンズ、三笠会館(この夏通りかかったら建物の壁面もなくなっていたような・・・)、喫茶店の水野(テラス席に座る中村真一郎を見かけたことがあった)、洋菓子のヴィクトリア(千ヶ滝まで出張販売車がやって来た)、などなど。
 2、3年前には、亡くなった母がお気に入りだった大城レース店(わが家にはやたらとレース物がある)、そしてこの夏は軽井沢物産館のシャッターが閉っていた(下の写真)。かつては看板に英語表記の店名が書いてあった。閉店してしまったのだろうか。だとしたら残念なことである。といって、ここ数年は何も買ったことはなかった。神津牧場のコーヒー牛乳さえ・・・。
 物産館の建物は軽井沢の建築遺産になっているらしい(上の写真)。

   

 かつては物産館で(だけ?)売っていた木彫りの鳥の形をした砂糖壺を、友人の結婚祝いの手ごろな定番としてプレゼントしていた時期があった。もちろんわが家の砂糖壺もこれである(下の赤い鳥)。
 ある時、わが家のこの砂糖壺を見て、その友人の娘さんが「わぁ、これと同じの、うちにもある!」と歓声を上げた。
 「ぼくがプレゼントしたのです。君のお父さんお母さんが気に入って、大事に使っていてくれて有り難う」と、心の声で返事をした。
     
 ついでに、もう一つの鳥型の砂糖壺。こちらは焦げ茶色で、赤いのより少し大振り。
    

 そして、旧軽井沢本通りからは外れるけれど、<紀ノ国屋>や<竹風堂旧軽井沢店>など・・・。   

☆軽便鉄道・国鉄編
 <草軽電鉄> 旧軽井沢では何といっても、草軽電鉄がなくなってしまった。残っていれば、貴重な観光資源になったと思うが、旧軽井沢駅舎やすぐ隣りのロータリーを横切る踏切など、撮り鉄が押し寄せてかえって迷惑かも。下の写真は、旧道入口のロータリー脇、かつて草軽電鉄の旧軽井沢駅があったあたりに建つ「旧軽井沢駅」の駅標(もちろんレプリカ)。
   

 旧北軽井沢駅跡に、あのカブト虫型車両が保存されており、走る姿は木下恵介監督「カルメン故郷に帰る」(松竹、1951年)でふんだんに見ることができる。
   

 <信越本線> そういえば、国鉄の信越線もなくなってしまった。あさま号やそよかぜ号だけでなく、横川駅、熊ノ平駅、さらには中軽井沢駅駅舎もなくなってしまった。中軽井沢駅前の観光案内所はなくなってしまい、沓掛時次郎饅頭を売っていた土産物店も閉まったままである。
 下の写真は、現在の中軽井沢駅の駅標。
 

 <西武バス西区線> これもあげておこうか。現在は軽井沢病院行きの、黄緑色のコミュニティ・バスが運行している。

 さらば、夏の光よ!
 変わらないのは、浅間山だけである。

 ※ 冒頭の写真は、浅間サンライン沿いの浅間高原牧場・小諸ファームの夏空。右手の緑の向うに浅間山の天辺がわずかに覗いていた(2022年8月7日)。

 2022年9月4日 記

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鬼押出し、白糸の滝、碓氷峠見晴台(2022年8月30日)

2022年09月03日 | 軽井沢・千ヶ滝
 
 8月30日(火)曇り。
 朝8時30分に千ヶ滝を出発して、国道146号を北上して鬼押出しに向かう。
 旧グリーン・ホテル、万山望あたりから霧が立ち込めてくる。有料道路のあたりも霧で、残念ながら浅間山を眺めることはできなかった。
 途中の絶景ポイントにあった道の駅も閉鎖されて何年になるのだろうか、だいぶ寂れていた。

 9時過ぎに鬼押出し園に到着したが、駐車場には先客が1台とまっているだけだった。
 霧雨は時おり小雨に変わり、溶岩たちも霧に煙っているので、しばらく車中で待機する。先客も全員車中にとどまっている。そのうち、もう1台がやって来たが、やはり車から出てこない。
 9時半すぎ、すこし霧が収まってきたので、意を決して見物に出かけることにした。

   

 幸い傘をさす必要もなく、頂上の寛永寺別院に到達した。残念ながら嬬恋側の山並みもほとんど見えなかったが、雨が降らなかっただけでも良しとせねばなるまい。

 ついで、白糸の滝に向かう。
 後続車はゼロ、対向車もほとんどいなかったので、のんびりと山道を下ったが、白糸の滝に到着すると、駐車場というか道端の駐車スペースはほぼ満車状態。
 滝への登り口より旧軽井沢側に寄ったほうに空きスペースを見つけたので、そこにとめた。
 人物の映っていない滝の写真は撮り忘れた。池の淵はいつもながらの人だかりで、撮れなかったといった方が正確かもしれない。

 次は、碓氷峠の見晴台に向かう。
 小瀬温泉から三笠通りを下って旧軽井沢の別荘地帯を抜けて、左折して水車の道(と堀辰雄は呼んでいた。聖パウロ教会前の小道)に入り、神宮寺の横を通って、ショー牧師記念碑のあたりで旧中山道に出る。山道を登ること約10分で見晴台の駐車場に到着。
 この頃には日も射し始めてきたのだが、見下ろした妙義や霧積の方角は雲海の中。軽井沢方面はかろうじて離山が見えていたが、ここでも浅間山は見ることができなかった(冒頭の写真も見晴台からの風景)。

   

 森村誠一の『人間の証明』と言っても、西條八十の霧積の詩と言っても、若い人にはまったく伝わらない。
 ぼくたちの結婚式では、エンディングのBGMに、 “Mama ! Do you remember ・・・♪ ” というジョー・山中が歌った『人間の証明』のサントラ盤を流したのだった。

   

 再び山道を下り、旧軽井沢の沢村ベーカリーで昼食。ここは以前には紀ノ国屋があった場所だろうか。駐車場の木立に面影が残っているが・・・。
 本当は浅野屋がごひいきなのだが、コロナの折から、テラス席もあって開放感があるこちらの店にした。

 2022年9月1日 記

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浅間サンライン(2022年8月29日)

2022年09月02日 | 軽井沢・千ヶ滝
 
 8月29日(月)、この日も天気がよかったので、浅間サンラインを道の駅<雷電の里>までドライブしてきた。
 <雷電の里>は、行政区画でいうと小諸市の隣りの東御市(とうみ)にあり、軽井沢からは20キロくらいの距離である。
 浅間サンラインは、秋の風景が似合う街道だが、この日は「秋」というには少し早かった。それでも車窓から眺める澄んだ空と掃いたような雲には秋の気配が漂っていた。

   

 <雷電の里>は、数年前に来たときは、大関昇進前の御嶽海のポスターが貼ってあったが、今回は(余りの不調のためか)御嶽海のポスターはなかった(と思う)。
 道の駅の少し上田方面寄りに「雷電の生家跡」の看板が立っていた。雷電は本当にこのあたりで生まれたのだった。御嶽海は、百何十年ぶりの、同じ長野出身の大関だが、この辺の出身ではなかったはずである。

   

 浅間山は、軽井沢側から眺める、あの裾野をゆったりと伸ばした姿がいちばんで、小諸側から眺める浅間山は不恰好で好きになれない。
 今回<雷電の里>の駐車場に設置された案内標で見ると(上の写真)、あの不格好な山々は浅間山自体ではなく「浅間山連峰」の山々だったらしい。右端に小さく見える山(だけ)が浅間山と表記されていた。
 ちなみに、浅間山の隣りに「前掛山」の表示があった。軽井沢側から見て浅間山の左隣りの山は「前掛山」でよかったらしい。最近見た地図にこの名前が載っていなかったので少し不安だったのだが。
 浅間山、前掛山、石尊山が、個人的には「浅間三山」である。

 そこそこ暑かったので、ブルーベリー+バニラのソフトクリームと、シャインマスカットのソフトを食べた。
 JAFの会員証を提示すると1個につき50円おまけしてくれた。

 2022年9月1日 記

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昭和天皇行幸記念碑(軽井沢町大日向)

2022年09月01日 | 軽井沢・千ヶ滝
 
 8月28日(日)、暑くもなく寒くもない、日が照るでもなく雨が降るでもない、散歩には程よい天気だったので、軽井沢町大日向(おびなた)にある昭和天皇行幸記念碑まで、散歩してきた。二度目の訪問である。
 昭和天皇は借宿(の現在は国道18号の交差点)から歩いたらしいが、我われはもう少し近くから、それでも2キロ近く歩いた。
 何年か前に、上皇ご夫妻がこの近くの畑を訪問されたのを偶然にお見かけしたことがあった。その畑の少し先にある。

   

 原武史『昭和天皇』(岩波新書)にも載っていた御製の歌碑が建っている。
 草書(?)のため、全部は判読できなかったが、
 浅間おろし つよき麓にかへりきて いそしむ田人 たふとくもあるか
 と詠んだらしい。最後の字余りの「か」は何を意味するのだろうか。「何と堂々とした姿か」「何と立派な行いであることか」などの「か」と同じ意味か。

   

 大日向村への行幸は昭和28年だっただろうか。満蒙開拓団の帰村地である大日向村は、まだ開墾の途上だったと思うが、「田人」というからには、原生林はすでに伐採されて畑になっていたのかも知れない。
 途中の道沿いのレタス畑では高齢のご夫婦が農作業にいそしんでいた。

   

 この光景がいつまでも続くことを願うばかりである。

 2022年9月1日 記

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