豆豆先生の研究室

ぼくの気ままなnostalgic journeyです。

“邪魔者は殺せ”

2011年04月24日 | 映画

 4月23日午前3時すぎ、目が覚めてしまった。雨が激しく降っている。
 
 寝床でテレビをつけるが地上波はつまらない。しかたなくリビングに降りてBSを見る。

 あちこちチャンネルを回していると、モノクロの古い映画が面白そうなので、見ることにした。
 番組表を見ると、“邪魔者は殺せ”(けせ!と読むらしい)だった。

 「第三の男」のキャロル・リード監督の作品(1947年)。原作は、F・L・グリーンの小説、“Odd Man Out”(1945年)。
 舞台は北アイルランドの小さな都市。冷たい雨が降り、時おり雪が舞う暗い冬である。
 アイルランド革命軍の三人の兵士が、軍資金調達のために強盗を犯し、その中の一人が傷を負って追われる身となる。彼を愛する女(キャサリン・ライアン)が助けようとするが、彼の居場所が分からない。
 逃げまどう町の人々が、アイルランド革命軍とも警察とも関わりたくないという微妙な立場にあるところが、逃走劇を面白くしている。
 
 Odd Man Out というのはどういう意味か。直訳すれば「奇数の男(人間)は排除」だが、イギリス人なら分かる慣用句なのだろう。
 映画の内容から判断すれば、要するに主人公のジェームス・メイソンがまさに「奇数男」で、はみ出してしまう。幼少時の神父の教えからはみ出し、逃走中のクルマからも転げ落ちてしまい逃亡のみとなることなどの暗喩だと思う。

 教会の神父が登場し、テロリスト(ジェームス・メイソン)を愛する女(キャサリン・ライアン)が心中をほのめかすと神父が強く諌めるなどカトリック的な場面があったので、原作者のF・L・グリーンというのはグレアム・グリーンの兄弟か何かかと思って、ウィキペディアを調べてみたが、そのような記述はなかった。
 ラストシーンの処理も、やっぱりカトリック的である。ぼくから見れば、あれも一種の「自殺」、法律でいえば「故意ある道具」による自殺なのだが、カトリックの教義では救済されるのだろうか。

 * 写真は、ぼくの映画に関する情報の知恵袋である、キネマ旬報『ヨーロッパ映画作品全集』(キネマ旬報昭和47年12月10日号)

 2011/4/24 記

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“魂を投げろ”

2011年04月23日 | 映画

 「新潮45」(2011年5月号)に、「永遠の処女」原節子 現存する最古の“幻”映像 という付録DVDがついている。
 雑誌本体はいらないけれど、購入した。定価は通常号より100円高いだけの890円だが、ぼくのように付録だけがほしい人にとっては890円のDVDにオマケの雑誌が付いてきたようなもの。
 DVDの解説は本体に載っているのだから仕方ないか。

 原節子のデビュー3作目にあたる“魂を投げろ”(タマを投げろと読むらしい。)という昭和10年公開の野球映画(田口哲監督)の一部分が収録されている。
 田舎の強豪校、常盤中学には伊沢と早崎という二枚看板のピッチャーがいるが、伊沢の父は「舶来遊戯」の野球を軽蔑し、息子が野球をすることを許さず、夏の大会直前に退部させてしまう。それでも伊沢は、ひそかに近所の海辺で投球練習を続けている。早崎の妹(原節子)がこれを助ける。
 いよいよ大会が迫ったときに、早崎は病魔に襲われ、出場できなくなる。若いコーチの説得で、ようやく伊沢の父親も折れて、伊沢も出場できることになり会場近くの旅館にやってくる。しかし試合前夜に、旅館に「早崎危篤」の電報が届く。
 そして試合の朝を迎える・・・、というところでフィルムは終わってしまう。

 解説によれば、原作は飛田穂洲の小説を何本かあわせたものらしい。
 野球がわが国の文化になって行く一こまを垣間見ることができた。ぼくの子ども時代は野球小説というのは、もはやなかったのではないだろうか。貸本屋の本の中に「長嶋茂雄物語」とか「王貞治物語」などはあったけれど、どちらかというと、「背番号0物語」とか「スポーツマン金太郎」(ともに寺田ヒロオ)とか「快球Xあらわる!」(怪球だったかも)などといった野球漫画が全盛だった。
 
 原節子の出ている小津安二郎の映画はたくさん見たし、“我が青春に悔なし”や“青い山脈”なども見たけれど、個人的には原節子はそれほど好きな女優ではない。作りが大きすぎす感じがする。
 ぼくとしては、今回の“魂を投げろ”に出てくる原節子が一番好感をもてた。

 それにしても画面が汚すぎる・・・。

 2011/4/23 記

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“英国王のスピーチ”

2011年04月22日 | 映画

 近所の、大泉学園T-joyで“英国王のスピーチ”を見てきた。

 ぼくは60歳以上なのでいつ見ても1000円、水曜日は女性は1000円なので、水曜日に出かけたのだが、夫婦ならいつでも1000円だった。
 9時55分からの最後の上映だったが、観客は10人弱。映画は大丈夫だろうか、心配になる。ときどき見に行かなくては、老後の楽しみの場所がなくなってしまう。

       

 映画は、吃音(どもり)に悩むジョージ6世(最初はヨーク公)(コリン・ファース)が、オーストラリア人の言語療法士ローク(ジェフリー・ラッシュ)によって吃音を矯正する物語。

 ヨーク公は厳しい父親(ジョージ5世)の強圧的な態度が原因で、幼児からどもりに悩んでいる。1925年の大英帝国博覧会閉会式のスピーチに大失敗して以来、人前で話すことができなくなってしまう。
 妻のエリザベス妃(現在のエリザベス女王の母親)(ヘレナ・ボナム=カーター)は、たまたま新聞広告で見つけたロークのもとを訪ね、夫の治療を依頼する。ロークは依頼者が王子と知っても、自分の流儀で治療する。二人は何度も対立するが、ヨーク公は最後はロークを頼る。

 兄(エドワード公)がシンプソン夫人との結婚によって退位してしまうため、ヨーク公は心ならずも、ジョージ6世としてイギリス国王に即位することになる。
 やがて、ヒットラーの暴虐に対してイギリスも宣戦を布告することになるが、国民の戦意を発揚すべくジョージ6世は全世界に向けてラジオで演説する。マイクの向かい側にはロークが立ち会って励ます。
 演説は成功する・・・。

 最初のうち、ヨーク公のどもりの表現があまりに生々しくて、不快な感じがした。後半は、かえって彼のスピーチや日常会話が流暢すぎて、これまた違和感があった。
 エドワード公とシンプソン夫人の結婚は「純愛」物語かと思っていたが、この映画ではシンプソン夫人はすれっからしの中年女として描かれている。どちらが真実に近いのか。いずれにしても、元国王をこんな風に描けるところはイギリスもさすがである。
 エリザベス妃(皇太后)は、かつてニュースなどで何度か見たことがあるが、大きな顔をした太った女性だった。演じた女優がちょっとやせすぎではないか。

 でも、まずまずの水準作であった。1000円は高くない。

 * “英国王のスピーチ”(原題は“King's Speech”)2010年、イギリス映画、監督トム・フーパー。
  なお、写真は主人公のジョージ6世の横顔が彫られたイギリスの半クラウン銀貨(1948年)。コインを集める趣味はないのだが、子ど もの頃に、祖父がヨーロッパの学会に出かけたときのお土産にくれたもの。



 2011/4/22 記

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皇居一周(後半)

2011年04月21日 | 東京を歩く

 4月17日(日曜日)の皇居一周の後半戦。
 半蔵門から(出発点の)竹橋まで。

 上の写真は、中間地点の半蔵門。
 半蔵門交差点を挟んだ右手に、変わった外観のビルが見える。下着のワコールだった。

 右手に国立劇場、最高裁判所などを眺めながら三宅坂を下る。やがて「昔懐かしい」社会党の建物がある。もちろん現在は社会民主党だが、ぼくにとっては「社会党」である。
 最高裁判所の建物の頂点は国会議事堂と同じ高さだが(三権分立の象徴だという!?)、下の写真で分かるように、社会党の建物は国会議事堂よりも高い。

       

 20歳になって選挙権を得て以来、国政選挙から区議会議員選挙まで、ひたすら社会党に投票し続けてきた。社会党に政権を取ってほしいなどという気持ちはまったくなかったのだが、自民党に3分の2を取らせてはいけないという一心からだった。
 鈴木茂三郎からはじまって、神近市子、高沢寅男、美濃部亮吉、田英夫などなど、彼らのイデオロギーなどあまり知らないままに投票し続けた。
 社会党が存在し、決して自民党に憲法改正のために必要な3分の2の議席を与えなかったことは戦後の日本のためによかったとぼくは今でも思っている。

 三宅坂の中腹で屋根のない二階建ての観光バスを見かけた。こんなバスが走っているのだ。

      

 この辺りのお堀端は菜の花が満開で、先日のイタリアの風景を思い出した。
 イタリアも日本と同じように不景気の真っただ中で、ベルルスコーニ首相は、わが菅首相と同じくらい人気がなく、最終日に半日だけ歩いたローマに街並みも、観光名所というには余りにも薄汚かった。“ローマの休日”を見たあとだっただけにがっかりした。
 道路には100メートルおきに、各県の県花のレリーフが埋め込まれている。下の写真は家内の出身県である香川県のオリーブの花。
 オリーブのうっすらとした緑色が大好きなので、わが家の玄関の両脇にも小豆島から持ち帰ったオリーブを植えてあるが、なかなか大きくならない。

      

       
 
 そして三宅坂を下りきると桜田門。
 どの辺で「桜田門外の変」は起きたのか。立ち番の警官は結構恐そうだった。

      

 桜田門の向かいは警視庁。
 ぼくには「七人の刑事」のタイトルバックになっていた旧舎のほうが懐かしい。

      
         
 桜田門交差点の向こう側には、法務省の赤れんがの建物が残っている。かつては隣りの最高裁判所も同じような赤レンガだった。

       

 日比谷公園を左折して、内堀通りに入る。二重橋を眺めて、大手門に至る。
 大手門の右手の白壁が一部崩落していた。石垣も数十メートルにわたって崩れたいた。この間の地震の影響だろう。

              

      

 やがて毎日新聞社のビル(パレスサイド・ビル)が見えて来て、終点が近い。

      

 内堀と内堀通りの間に狭い公園がある。この辺りはまだ八重桜が咲いている。
 銅像が建っていて、何やら由来が書いてあったが、読めなかった。地図で調べると「和気清麻呂像」とある。高校の歴史で聞いた記憶があるが、誰だかは記憶にない。

      

 そして最後に、平川門に到着して、われわれの皇居一周体験は終了。

      

 途中何度か休んだが、1時間30分程度で、歩数は1万歩弱だった。
 
 2011/4/21 記 

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皇居一周

2011年04月19日 | 東京を歩く

 一昨日の日曜日、皇居を一周してきた。

 おととしの6月に、NHKの“ためして、ガッテン”で「ゆるジョギ」というのをやっていた。
 マグロが数千キロ(数万キロ?)を回遊しても疲れないのは、マグロには「遅筋」という筋肉が発達しているからで、人間もこの「遅筋」を鍛えておくと長時間歩いても疲れない、「遅筋」を鍛えるためには息が上がらない程度にゆっくりとした速さでジョギングするとよい、という話だった。
 
 それ以来、わが家では近所の公園の周回道路を毎晩「ゆるジョギ」するようになった。家から7~800m、1周600mを2~3周するだけなのだが、つづかないと思っていたが3年近くつづいている。
 携帯に付いている万歩計は累計で2487kmになった。東京-京都間(日本橋-三条大橋間)を2往復し、現在は3往復を目ざして、京都・三条大橋から大津宿に向かっているところである。

 最近では、近所の公園では物足りなくなって、いつかは皇居一周ジョギングに参戦しようと、下見に行ったのである。

         

 まずは、竹橋(ただし標識は「雉子橋通り」)の毎日新聞社前を出発し、時計の反対回りで歩いた。
 
 最初に見えてくるランド・マークは九段下の武道館。常連のランナーらしき人たちは靖国通り沿いの急な坂道を避けてショートカットに左折していったが、われわれは靖国通りを登った。

         

 千鳥が淵の桜はすでに葉桜になってしまったが、おかげで人は少なく混雑してないのは助かる。
 お濠には何台もボートは浮いている。ボートも花見シーズンは長蛇の列ができるが、この日は待たなくても乗れる。

         

 千鳥が淵公園を出た左手に、皇居の門があり警官の詰め所があったが、地図で調べても門の名前は分からなかった。
 この辺りで、アルファロメオ・ミトを見かけた。ボディは白。イタリアで見たときよりも大きく、ぼってりとしているように見えた。以前にわが家の近くの修理工場で後姿を見たときも日産ムラーノと見間違えた。全高は1500mmないのに、意外とSUV風である。

         

 やがて右手にイギリス大使館の雰囲気のある建物が見えてくる。桜の名所の一つだが、ここもすでに散っている。
 ひっそりとしている。放射能被曝を恐れて、イギリス人たちは帰国してしまったのかもしれない。

         

 つぎは半蔵門。門自体は奥の方にある。道の向かい側には、一風変わった外観のビルが建っていた。下着のワコールらしい。

          

 やがて三宅坂から桜田門方面に向かうが、今回はこの辺まで。
 最後の写真は、半蔵門から眺めた桜田門の風景。お濠の崖には菜の花が咲いていた。

         

 2011/4/19 記 

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New “new beetle” 登場

2011年04月18日 | クルマ&ミニカー

 きのう始まった上海モーターショーで、フォルクスワーゲンのnew“new beetle”が発表された。

 正式な名前は“VW The Beetle”というらしい。
 現在売っている“new beetle”を“last edition”と言ってしまっているのだから、new“new beetle”とは言いにくいだろう。
 でも、上海モーターショーを紹介したネット上の記事の中には、このクルマを“new new beetle”と呼んでいるものもある。

 さて、どうだろうか? 従来の“new beetle”をイメージしていた人は、期待を裏切られたのではないだろうか。ぼくはがっかりした。
 デザインはシロッコのデザイナーだという。スポーティーに仕上げたというが、ニュー・ビートルに「スポーティー」はないのではないか。
 
 どこかの記事には、最近のVWの寄せ集め(hotch-potch)と評していた。
 基本は、現行ゴルフの車台に別エンジンを搭載した、ゴルフの派生車である。確かに、ゴルフやポロのようなバンパー、横から後ろはシロッコ風・・・、わずかにnew beetleの面影も残っているが、ぼくは好きになれなかった。

 * 写真は、ネット上のあちこちに載っていたものを使わせてもらった。VWのプレス・リリースなのだろう。

 2011/4/20 記

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アルファ・ロメオ MiTo 

2011年04月12日 | クルマ&ミニカー

 イタリアでは、アルファロメオのミト(MiTo)を1台しか見かけなかった。

 せめてミニカーだけでもと思って、あちこちの土産物屋で聞いてまわったけれど、やっぱりなかった。
 たしかに、東京でも、土産物屋にはミニカーは置いてない。秋葉原や表参道ヒルズの“京商”や、新宿3丁目の“サクラヤ ホビー館”のようなミニカー・ショップをイタリアで見つける能力はぼくにはない。

 仕方ないので、帰国してからネットで調べた。
 Alfa Romeo MiToの1/43のミニカーは、日本のネット上でもあまり見つからない。
 それでも、かろうじて、“Alfa Romeo オンラインストア”というところに、NOREV社製の1/43のMiTo(ホワイト)が1224円で出ていたので、ワンクリックで注文した。
 ほんとは、ピエンツァで見かけたような、ブラックがよかったけれど、文句は言えない。

 注文した後で、ふたたび同社のページに戻ったら、もう“Alfa MiTo(ホワイト)1/43 NOREV製”はカタログから消えていた。最後の1台をゲットしたようだ。ついていた。
 残っているのは、5040円もする赤のMiToだけになっていた。

 けさ、クロネコで到着した。
 イタリア車のミニカーはパッケージがシンプルで助かる。Kyosho、J-Collection、MINICHAMPSなどはケースが大きすぎるうえに、サイズがバラバラで並べていて見栄えがよくない。
  机の上にのせて、眺めている。

 2011/4/12 記

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イタリアで見かけたクルマ

2011年04月10日 | クルマ&ミニカー

 4月3日午前中に法科大学院の入学式を終えてから、駆け足でイタリアを旅行してきた。

 4月4日にミラノ到着、フィレンツェ、ローマを回って今日昼前に成田に戻ってきた。

 例によって、車窓から眺めたイタリアのクルマ事情を。

 今回一番楽しみにしていたのは、イタリアの風景の中でアルファ・ロメオ・ミト(Alfa Mito)を見ることだった。ところが、残念ながらMITOにはまったくお目にかかれない。イタリアの街を走っているクルマは、ほとんどがFIAT車か、FORD車。グランデ・プント、チンクウェチェント、(僕の大好きな)フォード・フィエスタや先代のフォード・フォーカスなども多い。

 上の写真は、4月5日のサン・ジミニャーニョで見かけたフィアット500。イタリアの(というか地中海の)朝の陽ざしの中をまったりとプロムナードしていた。

 つづいて、フィレンツェからサン・ジミニャーニョに向かう車中で見つけたプジョー107。トヨタの(先代か先々代の)ヴィッツの兄弟車である。個人的にはヴィッツよりも恰好がよいと思うのだが、日本には導入されていない。

                  

 観光地ばかり回ったせいかもしれないが、アルファ・ミトどころか、アルファ147や159すら、ほとんど出会うことがない。高級車ではアルファ・ロメオより、むしろベンツのほうが頻繁に目につく。
 そういえば、“ニュー・シネマ・パラダイス”で、有名な映画監督になった主人公の(元)少年が、故郷に凱旋した時も、ベンツに乗っていた。
 
 そして、4月7日、ピエンツァの街中で、とうとう見つけた今回のイタリア旅行中に見かけた、たった1台のアルファ・ミト。他人様の家の庭先にとめてあったので、手前の気が邪魔だけど仕方ない。
 やや深い緑色がかったブラック。東京で一回だけ見たときのMITOよりも小振りに見えた。ちょうどヴィッツくらいの印象だった。クルマなんて興味のない女房が「かわいいね」といった。
 ひょっとすると許可が出るかもしれない・・・。

            

 そして、下の写真は、シエナの街角で見つけた数少ないアルファ車。これもミトだったのだろうか。

           

 ≪ユーロ コンパクト マガジン≫(ティーボ2011年1月増刊)をみると、上のクルマは“アルファ ロメオ ジュリエッタ”(Alfa Romeo Giulietta)というクルマのようだ。顔はMiToとよく似ているが(とくにヘッドライト)、大きさが違っていた。   

 2011/4/10 記

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