1月16日(木曜)の昼前、知り合いの彫刻家が個展を開いていると高校以来の友人に誘われたので、国立駅に近いギャラリーに出かけてきた。
国立は高校時代の3年間通った懐かしい場所だが、久しぶりに訪れた国立駅の変わりように驚いた。最後に訪れたのは下の息子が桐朋高校野球部と練習試合をするのを見るために桐朋高校のグランドに行った時だから、もう20年近く前のことである。そのころすでに国立駅前の風景はぼくの高校生時代とは様変わりしていたが、駅舎は昔のままの雰囲気のある三角屋根の木造建築のままだったように記憶する。
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それが今回降り立ってみると、どこにでもあるようなモダンだけれど平凡な駅舎になってしまっていた。ただし、新しい駅舎の手前には旧駅舎の一部が移築して保存されていて多少は救われた気持ちになった(上の写真)。この駅舎の前で、中学時代の同級生で国立音高に進んだ旧友とたまに出会うのが楽しみだった。同窓会で、J・K・ケネディの横顔を彫ったぼくのネクタイピンを欲しいというのであげてしまった彼女である。
ただしぼくの高校は8時30分始業で、彼女の方はたしか9時始まりだったので、会うことができるのはぼくが大遅刻をした時だけだった。1965~7年のあの頃は「8時ちょうどのあずさ2号」(狩人)が8時に新宿を発車して、これが8時15分前後に吉祥寺駅を通過するため、8時5分だったかに吉祥寺を出る立川行きに乗り遅れると、次は8時20分すぎまで待たなければならず、吉祥寺で遅刻が決まってしまった。遅刻しても国立駅で彼女に会えればまだいいけれど、たいていは遅刻常習犯の常連が5人ごとに乗り合いタクシーで学校に行くしかなかった。割り勘にすると一人当たりバス代と同じ運賃だった。
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展覧会を見終わってから、大学通りを一橋大学の方に歩いた。
駅前の「増田書店」が健在だった。新しいビルの1階に陣取っていて、昔は薄暗かった店内も明るかった(上の写真)。この「増田書店」がフランス革命時のマラーか誰かの著作集を出版したという記事を読んだような記憶がある。
新装開店の胡蝶蘭が飾ってある「白十字」があったけれど、あれは1960年代の「白十字」と同じ店だろうか。あそこのウェイトレスを好きになって、「ラーメン1つ」などと注文して、 「ラーメンはありません」と言われるのを喜んでいるやつがいた。どうしているのだろう。
ついでなので、一橋大学の構内を散歩してきた。まだ冬休みなのか、構内は学生の姿もなく閑散としていた。
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放課後にたまに立ち寄ってはラーメンや焼きそばを食べた富士見通りの「マルハチ」も、もうなくなっただろう。世界史の授業で、モンゴルの皇帝か誰だったかの「ヌルハチ」という名前を先生が口にしたとき、教室中に笑いが起きた。先生はなんで笑われたのか分からなかっただろう。
ガストで日替わりランチを食べて帰宅する。
国立駅ホームに上ると、北口側の風景も大きく変わっていて、昔がどんな風景だったか今ではもう思い出せない(上の写真)。
吉祥寺に向かう中央線の車窓から見える風景も変わった。東京経済大学か東京農工大学のグランドにはアメフトのゴールポストが見えていたり、獣医大学の馬場(厩舎)なども見えていたが、どれも見えなかった。何とか生命科学大学と校名は変更になったが、黄色のペンキで塗られたクラシックで雰囲気のある木造ホールの塔が高架を走る車窓から見えた。
東小金井駅では法政大学生らしい男女が降り立ち、武蔵境駅では亜細亜大学生らしい学生が下りていった。ほとんど全員が一人でずっとスマホをいじっていた。
2025年1月20日 記