豆豆先生の研究室

ぼくの気ままなnostalgic journeyです。

車窓からの富士山(西武線)

2024年11月10日 | 東京を歩く

 きのう11月9日(土曜日)の午後4時すぎ、西武池袋線下りの車窓からチラっと見えた富士山の山影。
 夕日を背景にしてブルーグレー色に映えていた。まだ雪化粧はしていないようだった。安物のスマホで撮った写真なので、見えるかどうか。中心部を拡大したものの、もともとが悪いのであまり効果はなかったようだ。
 手前のグラウンドは都立大泉高校の校庭。

    

 きのうは、40年近く参加してきた学術団体(学会)の研究会があった。
 その団体を昨日を最後に退会した。75歳になるのを機に、そろそろ潮時だろうと考えた。やがて判断能力がなくなって、数年間会費未納によって除籍処分になるより前に自分で自己決定できるうちに退会することにした。・・・のだが、少し寂しい気持ちになった。
 
 そんなぼくの心に、初冬(晩秋)の夕日に染まった富士山とあかね雲が訴えてきた。
 と言っても、若山牧水や北原白秋ではなく、「北国の二人」や「バラ色の雲」が心に浮かんだ。

 2024年11月10日 記

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横浜を歩いてきた(2024年10月2日)

2024年10月03日 | 東京を歩く
 
 2024年10月2日(水)、午前11時すぎ、みなとみらい線元町・中華街駅に到着。
 家内の姪の娘さんと待ち合わせて、一緒に横浜を散歩する。本当は秋めいてきた街路樹を眺めながら横浜の日本大通り、馬車道あたりを歩く予定だったのだが、前日(10月1日)の涼しさとは一転して、朝から30℃近い暑さとなってしまった。しかし半年前から予定していたので、仕方ない。雨よりはずっとましである(と負け惜しみ)。

 ランチまで時間があるので、山下公園をぶらぶら歩く(下の写真)。日影がなくて暑い。
 本当は開港記念館、横浜税関庁舎(展示室)、神奈川県庁舎(展望台)あたりまで歩く予定だったが、暑いので中止。
 山下公園を出て、ホテル・ニューグランド脇を通って朝陽門から中華街に入り、そのまま11時半の営業開始とほぼ同時に重慶飯店本館に直行する。横浜中華街は頻繁に行くところではないので不案内なのだが、親の代から横浜に住んでいる友人のおすすめで、昔からいつも食事は「重慶飯店」か「四五六」(すごろ)で食べる(荷風なら飯す)ことにしている。美味しくて値段も手ごろである。
   

 13時前にランチを終えて、中華街を歩く。平日にもかかわらずそこそこの人出だったが、休日のようなごった返すほどの人混みではなかった。自粛が徹底したのか、以前のような客引きや甘栗の押売りはいなくなっていた。
 中華街を抜け、高速道の下を左折して、元町商店街を歩き、適当な交差点を右折して山手方面へ向かう。途中で道に迷ってかなり遠回りしたが、ようやくフェリス女学院前に出た。元町公園、外国人墓地を経由して、港の見える丘公園に至る。暑さでへたった。なんども「昨日だったら涼しくてよかったのに」と愚痴が出る。外国人墓地の前では大規模なマンション(?)の建設中。こうして山手の歴史的景観も少しずつ失われていく。

   

 しばし横浜港の風景を眺めるが、ここも日影がほとんどない(上の写真)。早々に退散することにして、フランス領事館跡を通り、ダラダラ坂を下り、元町・中華街駅に至り、元町通りのコメダ珈琲店に憩ふ(荷風のまね)。ようやく足を休ませることができる。
 エアコンが効いていて涼しいのも助かる。珈琲ゼリーにソフトクリームが乗ったやつを注文、何という名前だったか・・・。分量が多くて一人では食べきれなかった。
 午後4時すぎ、少し早いがラッシュで混雑する前の電車で帰りたいので、元町駅に戻る。幸い始発電車に座ることができ、帰宅の途に就く。向かい側の座席にはフェリスらしき女生徒が数人並んで座っていて、賢そうな顔をした子が文庫本を読んでいた(荷風は何で女学生を忌み嫌ったのだろう)。60年前のぼくもバスや電車の中ではいつも本を読んでいたが、こんな風に見えただろうか。
 家に戻ると、万歩計は1万5000歩をこえていた。足が疲れた。

 2024年10月3日 記
 

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桜も見納めか・・・2024年4月8日ーー東映撮影所の軍艦

2024年04月10日 | 東京を歩く
 
 4月8日(月)曇り。

 昨日で今年の桜も見納めのつもりだったが、買い物から帰宅した家内が、白子川沿いの桜が満開で綺麗だったというので、午後の散歩のついでに歩いてきた。
   
   
   
   

 確かに、数年前に見物に出かけた目黒川沿いに負けないくらいに咲きほこっていた。
 桜の本数は目黒川の方がはるかに勝っているが、何といっても目黒川は人混みがかなわない。数年前に一度だけ出かけたが、中目黒駅の女子トイレから階段にまではみ出した長蛇の列に始まって、川沿いの出店や見物客の人混みが凄まじくて、ゆっくりと桜を愛でる気分にはなれなかった。
 それに比べると、わが白子川は、本数では負けるものの、雑踏もなくゆったりと眺めることができるだけでも助かる。
 桜の木も、大泉学園駅前からの桜並木通りの桜よりも若いらしく、元気がよい。あそこは、かつては東映大泉撮影所の敷地だった。その敷地の北西寄りの場所には、今村昌平の「豚と軍艦」の撮影のために軍艦のオープン・セットが建てられていた。ぼくが小学生か中学生の頃である。
 ※ 調べると、今村の「豚と軍艦」は1961年公開の日活映画とある。1961年という年代はぼくの記憶とあっているが、はたして日活映画の撮影のために、東映撮影所にオープンセットを作ることがあるだろうか。何か別の東映の戦争映画のために作った軍艦を「豚と軍艦」の軍艦と誤って記憶していたのかもしれない。

 東映大泉撮影所の北のはずれ、白子川沿いに植えられていたあの桜も、一時は伐採の危機にさらされたようだが、結局は保存されることになり、一時移植された後に元の位置に戻されたとの話である。よくぞ残った。

 2024年4月9日 記

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今年の桜(2024年4月7日)

2024年04月08日 | 東京を歩く
 
 4月7日(日)、天気予報によれば、東京で桜見物ができる天気がよい日はこの日だけということだったので、近所に花見に出かけた。青空に白い雲が浮かび、ポロシャツ一枚で十分の暖かさだった。
 大泉学園駅北口から都民農園、セコニック(今もあるのだろうか?)方面に向かうバス道路沿いの桜である。
 ぼくのスマホが安物のうえに、小学生だった昭和30年代後半に比べると、桜の花びらの容色(?)も衰えた感じである。
   
   

 下の写真は、前日の4月6日の散歩のおりに撮った写真。
 都立大泉高校の正門の桜。正門から校庭までの桜並木を一般開放していたが、あいにくの曇り空のうえに、満開までは今一息だったため桜の見栄えはいまいちで、見物客もまばらだった。
 昔は三鷹のICUも桜の季節には構内を開放していて、誰でも入ることができたので、多磨霊園のの墓参り兼花見のついでにICUの桜も見物して帰ったのだが、ある時期から入れなくなってしまった。
 ついでに、同じ散歩の道すがら、桜の木に鶯(うぐいす)がとまっていたので。なかなかベストショットの位置にとまってくれなかったので、写真で見えるだろうか?
      
    

 2024年4月8日 記

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御茶ノ水を空中散歩(2024年2月27日)

2024年02月29日 | 東京を歩く
 
 2月27日(火曜日)、眼科の定期検査のため御茶ノ水へ出かける。
 風速10メートル近い北風が吹き、寒くて歩きにくい。

 冒頭の写真は、井上眼科の待合室から見下ろした御茶ノ水駅周辺。上から見下ろすと、こんな光景だったのか。
 真中よりやや下の方に中央線(総武線)と地下鉄丸ノ内線が通っていて、御茶ノ水駅に沿った神田川では駅舎の改修がまだ続いている。もう工事が始まって数年になると思うが、いつまで続くのか。
 向かって左側の橋が御茶ノ水橋、右側が聖橋。
 線路の向う側の高層ビルは東京医科歯科大学病院、その左側には順天堂病院が並ぶ。新しい建物に看板がかかっていたので、よく見てみると「順天堂大学大学院」とあった。
 右下に見える緑地は湯島聖堂。その昔息子たちが受験の際に初詣のお参りに行った。
 ※写真を間違えてアップしてしまい、湯島聖堂は写っていなかった。

 30歳の時に入院した日立病院は、聖橋を北上して湯島天神に向かう道沿いにあった。この写真に写っているのだろうか? 病院に向かう道の周辺はラブホテル街だった。
 ※同じく、この写真には写っていない。
 同じ病室には上野のソープでボイラーマンをしているという優しいおじいさんがいた。派手で明るいお姉さんたちが見舞いに来たりしたこともあったが、夜になると喘息で苦しそうに咳をしていた。
 ぼくの病気は一生付き合わなければならない病いと覚悟していたのだが、幸い2005年の春頃の増悪を最後に寛解状態となり、2020年に定年退職した後に、内視鏡検査をした医師から完治を宣言された。やっぱり社会的なストレスが原因だったのだろうか。しかし、今度は目である(泣)。

   

 検査と診察の間に1時間半も空き時間があったので、先に昼食をとることにした。外に出てみたものの風があまりに強かったので、同じビルの地下の食堂街で済ませることにした。
 10軒ほどが軒を連ねていたが、「肉の万世」に入ることにした(上の写真)。
 新聞で「万世」が閉店するという記事を読んだような気がしたので選んだのだが、あとで調べると、閉店するのは「肉の万世」秋葉原店だけだった。あの総武線の万世橋近くの車窓から特徴的な牛のイラストの看板が見えるあの店だろう。
 2、3人順番待ちがいたが、2分と待たずに案内され、ハンバーグと生姜焼き定食(下の写真)を注文すると、5分たらずで出来上がった。待っている間に、フォックス「生殖と世代継承」の解説を読もうと思ったが、1ページも読んだか読まないうちに注文の品が届いてしまった。

     

 食事を終えて、1時45分に診察室前に戻ると、予約時間前だったのに名前を呼ばれた。ここでもフォックスを読みそこなった。

 2024年2月27日 記

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石神井公園の河津桜(2024年2月24日)

2024年02月24日 | 東京を歩く
 
 2月24日(土)午後。
 きのうの雨は夜半にやんで、朝から晴れ。気温も10℃をこえて日ざしが暖かそうだったので、久しぶりに石神井公園まで散歩に出かけた。旧日銀グランド脇を抜け三宝寺池に降りて、池の畔を半周した。
 冬なのか春なのか、穏やかな日ざしを浴びて池が光って、「逆さ富士」のように周囲の風景が水面に映っていた(上の写真)。
 鴨が暢気そうに羽を休めて日向ぼっこをしていた。この冬は雨が少なかったのか、池の淵には水が干上がって泥湿地になっているところもあった(下の写真)。以前は池のこの辺りにワニが棲息しているという噂がささやかれていたこともあったが、この渇水ではワニも隠れていることはできないだろう。

    
   

 旧日銀グランドの庭園を歩いていると、「かわづざくら」という標識がついた木があったが、花はほぼ散ってしまっていて、河津桜らしさは感じられなかった。しかも逆光なので、ただの枯れ木にしか見えないだろう(下の写真)。
   

 石神井公園に別れを告げて(大袈裟か)、帰途につく。
 通りすがりの小さな公園に植えられた木が、鮮やかなピンク色の花をつけていた。樹木の名前が表示されていなかったので自信はないが、花の色と形、幹の模様からみて河津桜ではないかと思う。旧日銀グランドのとは違って、こちらの方が枝ぶりも花びらもきれいだった。
   

 大泉学園通りの桜並木のソメイヨシノは寿命が近づいているのか最近は発色が悪く、ぼくが小学生だった頃のような春めいた感じがしなくなってしまった。東京ではあまり見かけない河津桜だが、この公園の河津桜は色も華やいでいて春らしい感じがした。

 2024年2月24日 記
   

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雨に煙る公園

2024年02月21日 | 東京を歩く
 
 雨が好きだと書きこんだら、本当に雨になった。その雨が小降りになったので、夕方から散歩に出かけた。暑いくらいだった昨日とは一転、寒かったのでマフラーと手袋で出かけた。
 本当は少し出かけるのが億劫だったのだが、歩きはじめると、雨に煙った夕暮れの街並みが、なぜか懐かしい風景のように見えてきた。上の写真と下の写真は散歩の途中で立ち寄った公園の風景。実際に見える光景よりも、カメラのレンズ越しの画像のほうが鮮明になってしまった。小雨に煙っている公園をそのまま撮るにはどうしたらよいのか。
 小学生の頃の、梅雨時の放課後に歩いた近所の街並みと、大学生の頃の、こちらは五月の雨の渋谷の街並みが思い浮かぶ。
    

 雨の中の散歩というと、リトル・ペギー・マーチの「なぜだか判らない」、ジーン・ケリー(?)「雨に唄えば」、バート・バカラック「雨に濡れても」、クリーデンス・クリアウォーター・リバイバル「雨を見たかい?」などを思い出す、と言いたいところなのだが、なぜか三善英史の「雨」がまっさきに思い浮かんでしまう。
 しかも、渋谷駅前の “Tea for Two” という喫茶店(今もあるのだろうか?)の2階席から見下ろした歩道と、東武ホテルに向かう公園通りを行きかう人たちのかなり鮮明な画像が思い浮かぶのである。調べると、CCRの「雨・・・」も三善の「雨」も、どちらも1972年の発表だから、ぼくが大学4年のときの思い出と時間的には矛盾しないけれど、「なぜだか判らない」。

   

 もう一つ、きょうの昼間、BSテレビ(501ch)「日本映画専門チャンネル」で、「生きる Living」を見た。黒澤明の「生きる」をリメイクした映画である(2023年)。カズオ・イシグロが脚本を書いたという。背景は1953年のロンドンになっているが、ストーリーは黒澤の「生きる」とほぼ同じである。
 あのようなテーマはイギリス人にも通じるのだろう。日本の「生きる」ほどヒットしたかどうかは知らないが。「我等の生涯の最良の年」、「三十四丁目の奇跡」、「素晴らしき哉、人生」などのようないわゆる “Heart-worm Story” の系譜に入る作品だろう。
 主人公が後輩の公務員に対して、「何のために生きているのか、考えてほしい」と書き残すシーンがあった。
 「ぼくは何のために生きているのだろうか」。そんなことを考えなくなって久しいことに気づかされた。
 雨のシーンではないけれど、雨に濡れたような夜の公園で、主人公(ビル・ナイという俳優らしい)がブランコに腰を下ろて歌う回想シーンがあったので(上の写真)。

 2024年2月21日 記

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「公園には誰もいない」--雪の東京

2024年02月06日 | 東京を歩く
 
 昨夜から今朝早朝にかけて、東京では今年最初の雪が降った。
 大雪警報が出たり、甲州街道が通行止めになったり(交差する道路があんなにたくさんあるのに、どうやって甲州街道を通行止めにすることができたのだろう?)、かなりの大雪を期待したが、今朝起きてみると、数センチだけ積もった雪は早くも融けはじめていた。
 下の写真は今日の夕方のテレビで放映していた甲州街道の上空からの写真。
     

 午後から近所を散歩したが、その途中の公園を撮ったのが冒頭の写真。雪の公園には誰もいなかった。
 東京の雪というと、いくつかの思い出があるが、学生時代の1969年から1974年の間のある正月に(何年だったかは忘れた)、友人と行った都心の美術館の窓から眺めた雪景色もその1つである。
 どこの美術館だったのか、誰の展覧会だったのかも覚えていないのだが、皇居を見下ろす都心のビルの上層階(7、8階だった)にあった。サントリー美術館だったか・・・。
 50年前のその日も東京に雪が降った翌日で、美術館の窓から見下ろした、雪をかぶった皇居の木々や一面真っ白の芝生の雪化粧が印象に残っている。下の写真は本日(2月7日)のテレビに映った今日の皇居前を見下ろした光景。ぼくが50年前に眺めた皇居の雪風景はもっと一面の銀世界だったような記憶がある。
     

 そして、その光景とともに、ぼくは結城昌治の「公園には誰もいない」(講談社文庫、昭和49年、1974年)を思い出す。
       
 
 結城昌治も好きだった作家の1人で、「軍旗はためく下に」をはじめ何冊か読んだのだが、「公園には誰もいない」の表紙が一番印象に残っている。東京で雪が降り積もると、なぜかこの本の表紙が思い浮かぶ。今日の散歩でも、誰もいない公園を通りかかった際に、結城のこの本の表紙の絵を思い出した。カバー挿画は木村茂、デザインは亀倉雄策とある。亀倉は講談社文庫全体のグラフィック・デザインだろう。
 話の内容は覚えていないが、裏表紙の作品紹介を見ると、失踪したシャンソン歌手の死体が軽井沢の別荘で発見されたことから私立探偵の捜査が始まるとある。結城の作品に「軽井沢」ものがあったとは・・・。

 2024年2月6日 記

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冬の散歩道(2024年1月24日)

2024年01月25日 | 東京を歩く
 
 毎日のルーティーンとなっている午後の散歩。

 きょうの東京は、寒気が流れ込んでこの冬一番の寒さということだったが、思ったほどの寒さではない。それよりも、すみわたった冬の青空がきれいだった。
 上の写真は午後3時ころの大泉学園駅近くの写真だが、残念ながらぼくのスマホでは、あの冬の青空の透明感は表現できなかった。でも、とにかくきれいだった。
 
 数日前に、もう少し遅い時間帯、午後4時すぎに歩いたときは、北の方向の空に浮かんだ雲が夕日を反射してうっすらと茜色(ばら色?)に染まっていて、これもきれいだった。
 正月の冬空に浮かぶ雲を眺めていると、「バラ色の雲と 思い出を抱いて ~♪」という曲と、「雲は流れる~ 北国の町へ~♪」という歌い出しの2曲が思い浮かぶ。正確な曲名ははっきり覚えていないが、おそらく「バラ色の雲」と「北国の二人」で、「バラ色~」はヴィレッジ・シンガーズ、「北国の二人」はブルー・コメッツだったはずだが・・・。どちらも似た曲想、曲調だった。

 1970年前後の思い出である。なぜかこの2曲と、正月の元旦に環八を走る車から眺めた冬の空を思い出す。1970年ころに環状8号線ができていたかどうかは記憶にないが、谷原から世田谷・上野毛に向かう道路とその上空の思い出である。

 2024年1月24日 記

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お茶の水を歩く(2023年10月30日)

2023年11月06日 | 東京を歩く
 
 10月30日(月)、午後2時から御茶ノ水駅前の眼科病院で定期検診。
 かつての同僚と正午に大学で待ち合わせて、久しぶりにランチ。コロナ前の退職時には1000円だった定食が1230円になっていた。上限を980円に抑えていた新書の値段がこの秋から一斉に1100円になったという話だから、25%のアップは想定の範囲内。
 秋晴れで気持ちがよかったので、徒歩で御茶ノ水駅に向かうことにした。神保町の露店古本市を右手に眺めながら(以前のような人だかりは見られなかった)、靖国通りの神保町交差点を水道橋方面に左折。

     

 途中適当なところで右折したら、知らない道に迷い込んでしまった。
 昭和風のレトロな二階建ての建物があり、何だろうと近づいてみると、「神田猿楽町会」の看板。マンションに挟まれてよくぞ残っている(上の写真)。バブル前までこの界隈には、こんな建物がいくつもあったのだが。
 そのうち、見覚えのある急な階段のある坂道に行き当たる。かつての明治高校校庭横の「男坂」だか「女坂」である。きつそうだけど、これを登れば御茶ノ水駅前に出ることができるので、登ることにする(冒頭の写真)。
 登りきると、懐かしいマロニエだかプラタナスの街路樹の通りに出る。学生時代アテネ・フランセに通った道である。
 左手にかつての文化学院のアーチ形の門が残っていて、「東京BS放送」だったかという表札がかかっていた。覗いてみると、門だけでなく建物も文化学院当時のものが残っているようだ(外観だけかも)。門の脇には、かつてここにあった「文化学院」の歴史を紹介する小さな立札も立っていた(下の写真)。
 アテネに通っていた頃、御茶ノ水駅前交番のすぐ近くに「与謝野」の表札のかかった家があった。文化学院の創設者(?)の1人である与謝野晶子の家だったのではないかと思った。

   
   

 道路の右手には駿台予備校の立派な建物がそびえている。かつて西校舎が建っていたところだろうか。その駿台ビルのワンフロアだけが「弘文堂」となっていた。
 弘文堂は、前に取り上げた J・ギースラー「ハリウッドの弁護士」の版元である。昭和38年当時の弘文堂の住所は「千代田区神田駿河台4の4」となっている。今と同じ場所だろうか。上巻の訳者前書きに、編集者である田村勝夫さんへの謝辞がある。田村さんは出版業界で有名な編集者の1人で、のちにサイマル出版会を起した人である。
 ちなみに「ハリウッドの弁護士(上)」は「フロンティア・ブックス」という弘文堂の新書だが、本文がちょうど200頁で、定価280円だった。

 2時少し前に病院に到着したが、待ち時間は1時間30分以上。「ハリウッドの弁護士」を読んで待とうとしたのだが、睡魔に襲われて、断念。

 2023年11月6日 記

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今年の桜

2023年03月24日 | 東京を歩く
 
 今年も桜の季節になった。
 
   

 わが家の近くにも桜並木はあるのだが、ここ十数年は、寿命が近づいているのか花の色に精彩がない。
 60年前、ぼくが小学校に通っていた頃はもっと鮮やかなピンク(桜色)だったように記憶しているのだが、年々白ちゃけてきた印象である。
 ぼくが年をとるのと一緒に、わが町の桜も年をとってしまったのだろう。

   
   
 いずれも一昨日、3月22日に撮った桜だが、翌23日に満開を迎えたようだ。あいにく雨模様だったので写真を撮る余裕はなかった。

   

 最後の一枚は、欅の枯れ木を背景にした近所の公園の桜。
 欅の枯れ枝も、ぼくの好きな東京の風景である。新学期の中学校の校庭に咲いた桜、連休が近づくと葉桜から毛虫が落ちてきた。校舎裏手の神社や、道を挟んだ大地主の敷地に植わっていた欅とともにあの頃を思い出す。

 2023年3月24日 記

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こぶし咲く、東京の

2023年03月18日 | 東京を歩く
 
 散歩の途中で通りかかった公園に枝ぶりのきれいなこぶし(?)が咲いていた。
 一昨日(17日)の夕方通りかかった時のほうが西陽を浴びて美しかったのだが、幼稚園帰りの母子連れがまわりで遊んでいて、写真を撮りにくい雰囲気だったので遠慮した。
 昨日改めて通ったのだが、あいにくの曇り空で花びらの色もいま一つ、しかもすでに散り始めていた。誰もいなかったので一応写真には撮ってきたが、残念ながら一昨日の美しさは感じられなかった。

 「明日ありと 思う心の あだ桜 夜半にあらしの 吹かぬものかは」である。誰の和歌だったか。

 2023年3月18日 記

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智積院展、サントリー美術館

2023年01月13日 | 東京を歩く
 
 朝日新聞の営業からタダ券をもらったので、サントリー美術館で開かれている「京都・智積院の名宝」を見てきた。「抒情と荘厳--等伯プロデュース、国宝障壁画一挙公開」という長い副題(キャッチ・フレーズ?)がついている。
 六本木の東京ミッドタウンに出かけるのは久しぶり。前回は何を見に行ったのか、何の用事で出かけたのかも思い出せない。

     

 智積院(ちしゃくいん)には10年近く前に、イギリスに旅立つ息子に少し日本の伝統文化を知っておいてもらおうということで京都、奈良に出かけた際に訪れた。
 あいにく三十三間堂で時間を食っている間に、智積院の閉館時間が迫ってしまい、残念ながら中には入れなかった。そんな因縁があったので、招待券を貰ったのをよい機会に出かけてきた。

 副題にもある通り、長谷川等伯および息子の長谷川久蔵の障壁画を中心に、その他智積院に所蔵されている書画が展示されている。「等伯プロデュース」の意味は不明。
 目玉というか呼び物というべき展示物は、やはり等伯の「楓図」(冒頭の画)と、久蔵の「桜図」なのだろう。

     

 幸い亡父の蔵書の中に「障壁画全集・智積院」(美術出版社、昭和41年、上の写真)という本があったので、予習、復習ができた(「楓図」「桜図」の写真も同書から)。
 等伯の画には亡父の書き込みがあって、「原物の幹の色はこれほど緑黄色でなく、濃い茶色の地に黒に近い部分が入っている。他の部分は各種色刷中最も原物に近い色が出ている。昭和42年10月13日記」とメモがある。
 久蔵の「桜図」(下の写真)については「この画家は、金色を諧調の空間とする。もとよりそれは、春という季節の大気を象徴する役割を負わせた金雲である。・・・」その他の解説(水尾比呂志)に朱線が引いてあった。

   

 今回見た原物は、この画集の図録よりも、はるかに色褪せていた。亡父が原物を見た昭和40年代からの60年近くの間に、さらに色褪せてしまったのだろうか。
 やまと絵も研究テーマの一つにしていた亡父と、展覧会と画集を通して会話することができた。
 こうして、13日の金曜日は無事終わった。

 2023年1月13日 記

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緑の東横線車両

2022年12月13日 | 東京を歩く
 
 先日久しぶりに都心に出かけた。

 その帰りに、地下鉄副都心線で明治神宮前駅から小竹向原駅へ、乗り換えて西武池袋線を待っていると、何か不思議な車両の電車がホームに入ってきたので、一瞬とまどった。しかしアナウンスが石神井公園行きと言っているので、そのまま乗った。
 そして石神井公園駅で下車すると、なんと懐かしい、ぼくが大学生の頃に通学で乗っていた緑色の東横線の車両ではないか!(上の写真)
 この緑色の車両を見ると、東横線の渋谷駅のホームに並んでいた姿を思い出す。ただし、当時の車両はもっとくすんだ緑色だったし、今ほどスマートではなかったと思う。

 実はこの日は、高校時代の同級生が4人だけで集まったミニ・クラス会だった。
 中学から一緒だったのが1人、大学も一緒だったのが1人で、高校時代はこの4人組が特に親しかったわけでもなかったのだが、そのうちの1人が、娘家族の住む福岡に移住することになったというので、2月に送別会をかねて集まった。大学時代に一度会ったきりで、それから数十年ぶりだった。
 その福岡の友人が上京するというので、また集まったのである。別の1人が、南青山の骨董通りにあるビルの一角でコレクションの展示会をやっているというので、そこに集合し、その後で彼のなじみの店に行って昼食をして、喋って別れた、それだけである。

 あえて共通点を探すと、4人とも普通の会社員生活を全うしていないことに気づいた。
 1人は最初から医者だったが、残りの3人は、最初は会社に入ったのだが、3人とも途中で脱サラして別の道を歩いてきた。一匹狼というほどではないけれど、終身雇用に安住することはなかった。
 今では別に珍しくもないのだろうが、1970年代初めの入社組としては少数派だった。ただし、うち2人は出版社で、もう1人はかの広告代理店だったから、一般の商事会社に比べると途中退社はそれほど珍しいことではなかった。
 
 「一匹狼」には思い出がある。ぼくが東大を受験した1969年の英語の入試問題で、こんなのがあった。
 ある男がバーで「自分は一匹狼を貫いて生きてきた」と自慢話をしたところ、聞いていた相手の男が「自分も一匹狼として生きてきた」と返したため、2人は意気投合して「一匹狼の会」を作ることになった、という英文を読んで、この話のどこが可笑しいのかを50字だったかで説明せよ、という問題があった。
 一匹狼で生きてきたわけではないが、社歴自慢、ゴルフ自慢、愛車自慢、家族自慢などが一切ないので気楽なのかと思う。容貌、体型なども、この期に及んでは皆などっこいどっこい。それぞれ「一病息災」?だが、さいわい大病はしていない。

 2022年12月13日 記

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秋の散歩道(2022年11月11日)

2022年11月11日 | 東京を歩く
 
 昼すぎ、石神井公園まで散歩に出かけた。

 最近の東京(というか日本)は四季が感じられず、夏から一気に冬になってしまうので、亜熱帯気候になりかかっているのではないかと思うことがあるけれど、きょうの青空は、まさに東京の秋の空だった。
 小学校の校舎の上空に広がっていた青空、東京オリンピック開会式のあの青空、予備校時代に迎賓館前の公園の芝生に寝そべって眺めた青空、あれやこれやの青空が思い浮かぶ。
   
   

 そして、銀杏の黄葉が午後の日ざしを浴びて輝いていた。プラタナスか何かの大きな枯葉が歩道を舞っている、紋切型だけど秋を感じながら小一時間歩いてきた。
 上野には銀杏が似あうなどと書いたが、うちの近所のほうがきれいだった。
 石神井公園近くの小公園のハナミズキも空を突き上げる力もなく、わびしく枯れていた。でも背景の青空を引き立ててはいた。   
        
     
 レンガのプロムナードには、自分の影が長く伸びていた。 
 ずいぶん日が低くなったのだ。

 2022年11月11日 記

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