goo blog サービス終了のお知らせ 

豆豆先生の研究室

ぼくの気ままなnostalgic journeyです。

映画「真昼の暗黒」、「無法松の一生」

2025年03月30日 | 映画
 
 東京新聞夕刊の連載「映画から世界が見えるーー古今東西の名作・話題作」は、取り上げる映画がぼくの趣味とはまったく合わないものばかりで、ほとんど読んでいなかったのだが、最近は取り上げる映画の傾向がこれまでのものとはかなり変わって、ぼくにとって懐かしい作品が増えた。

 例えば、今年(2025年)3月3日付の同コーナーが取り上げた映画は「真昼の暗黒」(今井正監督、1956年)だった(上の写真)。
 八海(やかい)事件をモデルにした映画である。八海事件とは、1951年に山口県で起きた老夫婦に対する強盗殺人事件で、捜査側が複数犯と見立てて6人を逮捕、起訴したが(1人はアリバイが成立したため釈放)、実際には被告のうちの1人による単独犯で、他の4被告は最終的に1968年の第3次(!)最高裁判決で無罪が確定した事件である。この最高裁無罪判決には、あの「虎に翼」の(串団子をかじってた判事のモデルといわれる)石田和外も加わっていた(裁判長は奥野健一、他に色川幸太郎の名も見える)。
 映画の原作は、無罪となった4被告の弁護人を務めた正木ひろし弁護士の「裁判官」(確かカッパブックスだった)。
 記事によると、この映画は、冤罪だった被告の1人を死刑、同じく冤罪だった他の3人の被告人を懲役とする広島高裁判決が出た直後の1956年3月に公開されたという。もともとプロデューサーは黒澤明監督「羅生門」のような「真相はやぶの中」といった結末を期待したそうだが、訴訟記録を読み込んだ今井正監督は冤罪を確信し、その方向で脚本が書かれ撮影されたという。当時の最高裁長官(記事には書いてないが田中耕太郎)が裁判官に対して「雑音に耳を貸すな」と訓示するなど、裁判に対する批判が注目を集めた事件でもあった。誤判をした広島高裁の裁判長が裁判外で有罪論を展開する書籍を出版して話題になったこともあった。

 実は、ぼくは八海事件の訴訟記録の一部を見る機会があった。その中には、真犯人が被害者の老婆を居間の鴨居に寝間着の帯で吊り下げて自殺のように偽装した現場写真も含まれていた(目にしたときはギョッとした)。検察側は、このような偽装工作は単独犯では無理であるとして複数犯説の根拠の一つと主張したが、ぼくの当時の印象ではいかにも杜撰な偽装で、若い男なら一人でも十分に可能と思えた。実際の裁判でも、弁護側が法廷内に事件現場を再現するセットを持ち込んで、正木弁護士が1人で被害者と同じ身長体重の人形を鴨居に吊り下げる実験を再現して見せたという。
 また、真犯人は犯行前に被害者宅の入り口で脱糞などしているが(強盗の中には勇気づけのため犯行の前にそのような奇行に及ぶ犯罪者があったらしい)、これはこの映画の中に出てきたのだったか。
 正木弁護士ら弁護側の努力に加えて、この映画をはじめとする裁判外での支援活動の力もあずかって、最終的には真犯人以外の4人の被告は無罪判決を得ることができたが、冤罪の人間をあやうく死刑に処する誤判事件だったのである。単独犯で無期懲役に服した真犯人は、仮釈放後に(自分が虚偽の自白で事件に巻き込んでしまった)他の被告たちへの謝罪行脚を続けたという。


      
 
 そして、2025年3月24日夕刊では、稲垣浩監督の「無法松の一生」が取り上げられた。
 戦争中の1943年公開の阪東妻三郎主演のものと、戦後の1958年公開の三船敏郎主演のものの2作を比較紹介している。1943年版は車引き(ごとき無頼の徒が)が帝国陸軍将校の未亡人に恋慕の情を抱くとはけしからんと内務省からクレームがつき、1958年版には日清戦争勝利のちょうちん行列のシーンが軍国主義的であるとしてGHQの検閲でカットされたという(上の写真はその記事と、原作である岩下俊作「無法松の一生」(角川文庫、昭和33年=1958年ということは三船映画の公開に便乗した出版だろう)。
 原作の角川文庫には検閲を批判した白井佳夫の「検閲の愚かさ 私は語り継ぐ」という記事が挟んであった(朝日新聞1993年11月2日付)。
 ぼくは白井佳夫の記事と、寅さんが飲み屋で知り合った米倉斉加年の奥さん(大原麗子)に恋するという寅さん映画(題名は忘れた)で、「無法松の一生」を知った。その寅さん映画は(阪東妻三郎のほうの)「無法松の一生」を下敷きにしていると何かに書いてあった。いまだに阪妻版は見る機会がない。1958年の三船版のほうはDVDが発売されているらしいが、今回の東京新聞の記事の筆者は1943年版のほうを薦めている。どこかで見ることができるのだろうか。

 そのほかにも、最近のこのコーナーでは「禁じられた遊び」も取り上げていた。コーナーの執筆者が交代したのか、採用作品の採用基準に変更があったのか分からないが、ぼくの好みに合った映画が相次いで取り上げられることは同慶の至りである。

 2025年3月29日 記

幽冥録・2024年その2(映画界)

2025年03月03日 | 映画
 
 昨夜(3月2日午後11時5分~)のNHKラジオ深夜便11時台のミッドナイト・トークは、徳田章アナと映画評論家(誰か?)が、昨年(2024年)亡くなった映画関係者を回顧しながら、ゆかりの映画のサウンドトラック盤をかけていた。
 トークの喋りがよく聞き取れないところもあったけれど、取り上げた映画はいずれも団塊世代のぼくにとって懐かしく、往年のラジオ文化放送のリクエスト番組「ユア・ヒットパレード」を思わせる構成だった。

 最初はアラン・ドロン。1935年生まれ、昨年88歳で亡くなった。
 彼は家庭的に恵まれず、中学卒業で仕事に就き、インドシナ戦争に従軍して帰国した後は職業を転々とし、付き合っていた女優から「あなたは美貌だし身体もいいから、裸でカンヌの町を歩いていたら、きっと映画監督から声がかかるわよ」とアドバイスを受け、その通り実践したら、ちょうど「武器よさらば」の撮影でカンヌに滞在していた監督の目にとまって、映画界入りすることになったという。
 「武器よさらば」にはゲイリー・クーパー主演のもの(フランク・ボーゼージ監督、制作年不詳)と、ロック・ハドソン主演のリメイク版(チャールズ・ビダー監督、1957年)があるらしい。前者はキネマ旬報の「アメリカ映画作品全集」に載っていないが、AmazonでDVDを売っている。
 下の写真は新潮文庫版ヘミングウェイ「武器よさらば」の表紙カバー。向井潤吉の描く風景画ということで、前に書き込んだ「怒りの葡萄」とも繋がりがあるので。
       

 アラン・ドロンの出世作となった「太陽がいっぱい」(ルネ・クレマン監督、ニーノ・ロータ音楽)は1960年の公開だが、それ以前にも何本か出演作があるらしいから、カンヌの町を歩いていたアラン・ドロンを見い出したのはどちらの「武器よさらば」の監督でもおかしくない。ヘミングウェイはゲイリー・クーパーをイメージして「誰がために鐘は鳴る」を書いたというから、前者の方が原作にはふさわしいと思うが、後者の主役ロック・ハドソンもヘミングウェイ作品にふさわしい俳優だし、ヴィットリオ・デ・シーカが俳優として出演しているというから後者も興味がある。
 昨夜の番組では、当時アラン・ドロンは美形男性の代名詞のように言われ、「xx界のアラン・ドロン」といわれる男があちこちに登場したと紹介して、その中に「落語界のアラン・ドロン」まで挙げていたが、「落語界のアラン・ドロン」は三遊亭小遊三のギャグではないか。

       

 アラン・ドロンの関連グッズは何もない。 「太陽がいっぱい」のレコードくらいあるのではないかと探したところ、わずかに「スクリーン・ムード・トップ4(第1集)」というのの中に「禁じられた遊び」や「鉄道員」と一緒に「太陽がいっぱい」が入っているのを見つけた(日本グラムフォン、450円、発行年記載なし)。残念ながらサントラ盤ではなく「フィルム・シンフォニック・オーケストラ」演奏だが、ジャケットにアラン・ドロンの横顔があった(冒頭の写真)。
 ※と思っていたら、ドロン主演の映画「フリック・ストーリー」のパンフレットが出てきた(1970年、東宝事業部発行、200円、上の写真)。ドロンは連続殺人犯を追う刑事を演じていた。「フリック」というのは「デカ(刑事)」の意味だそうだ。舞台となったフランスの片田舎の冬枯れの風景が印象に残っている。「シベールの日曜日」を思わせる風景だった。
 学生時代に、アラン・ドロンの “C' est l'elegance de l'homme moderne,D'urbain!” (スペルは怪しいが、「セ レレガンス ドゥ ロム モデルン、ダーバン」と聞こえた)というナレーションが入った「ダーバン」(オンワード樫山のブランドの一つ)のCMがテレビでよく流れていた。ダーバンの紺色の長めの冬コートを着ていたことがあった。 

 次は、「男と女」の関係者の誰かがやはり昨年亡くなったと言っていた。聞き漏らしたが、今朝になって「らじるらじる」の聴き逃しサービスで調べると主演のアヌーク・エーメが2024年に亡くなっていた。
 「男と女」を見た記憶はないが、フランシス・レイの主題歌(曲)は何度聞いたことか。昨夜も流れていた。

       

 その次は「ある愛の詩」(アーサー・ヒラー監督、フランシス・レイ音楽、1970年)。フランシス・レイつながりで、「男と女」の次に来たらしいが、「ある愛の詩」のだれが昨年亡くなったのかは分からなかった。フランシス・レイはアヌーク・エーメと同じ歳で誕生日は1日違いだが、彼は今も健在だと言っていた(ような気がする)。主演のライアン・オニールが亡くなったのは一昨年の年末のことだが、団塊の世代としては、ひとつの時代が終わったと感じたと言っていたから、ライアン・オニールの追悼か。
 「ある愛の詩」は映画のパンフも原作の翻訳本も持っていたはずだが見つからないので、原作ペーパーバック版の表紙をアップしておく。Erich Seagal,“Love Story”(Signet Novel,発行年記載なし。95¢。1ドル以下とは「安い!」)。家内の持ち物だったが、驚くなかれ贈呈したのはぼくだった! まったく記憶にない。映画のライアン・オニールはハーヴァード大学のアイスホッケー選手だったが、背番号はぼくと同じ 7番だった。
 「思い出の夏」もフランシス・レイ作曲だと言っていたので、ついでに「思い出の夏」の原作も並べておいた(Herman Raucher,“Summer of '42”,Dell Book,1971)。
 ※これも後に映画のパンフが見つかった(1976年、東宝事業部発行、250円、下の写真)。相手役はアリ・マックグロウ。

       

 その次が「ロミオとジュリエット」のオリビア・ハッセイ。 1968年に日比谷映画に女の子を誘って見に行った。彼女は確かぼくと同じ年で、昨年74歳で亡くなったはずである(1歳年下の73歳だった)。昨夜のDJ徳田アナはオリビア・ハッセイと同じ歳、語り手の評論家も同世代と言っていた。
 昨夜のラジオ深夜便では、「ロミオとジュリエット」のサントラ盤が流れたが、そのサントラ盤には彼女とレナード・ホワイティングが囁きあうセリフが入っていて、「ユア・ヒットパレード」を思い起こさせた。

 その後何曲か流れたが忘れてしまった。眠っていたのかもしれない。
 最後は、なぜか西田敏行の「もしもピアノが弾けたなら」だったが、そんな映画があったのだろうか。ここでラジオを切って寝ることにした。
 ※ 今朝になって「らじるらじる」で確認したら、その間に「屋根の上のバイオリン弾き」が挟まっていて、そのつながりで、日本の舞台で主役を演じた西田の曲が流れたらしい。ラジオ深夜便はけっこう聞いているようで実は眠っている時間帯もあるようだ。
 それにしても、ニーノ・ロータ「太陽がいっぱい」で始まって、フランシス・レイを経て、再びニーノ・ロータ「ロミオとジュリエット」と続いた昨夜の番組(曲)構成の、なんで最後が「もしもピアノが~」になってしまったのか・・・。

 ぼくとしては、昨年亡くなった映画人ではジーン・ハックマンも挙げておきたい。亡くなったことを知らなかったが、週末のテレビで三谷幸喜が紹介していた。アル・パシーノと共演した「スケアクロウ」が好かった。
 ーーこんなことを書いていたら、みのもんたの訃報が報じられた。ぼくにとってみのもんたは文化放送「セイ・ヤング」が懐かしい。どこかの番組で本名「御法川法男」(みのりかわ のりお)と紹介していたが、「セイ・ヤング」時代は本名だったかも。「みの」の本名が「御法川」であることをぼくは昔から知っていた。文化放送の土井まさる、TBSの野沢那智、ニッポン放送の今仁哲夫などとともに、みのの軽妙なしゃべりが好きだった(ちょっとうるさかったか)。テレビに進出した後もたまに画面で見かけることはあったが、彼のテレビ番組はほとんど見なかった。昨年だったかNHKラジオの「ラジオ放送開始100周年」に出ていたが、その声にかつての元気はなく寂しげな語り口が気になった。

 2025年3月3日 記

映画「トランボーーハリウッドに最も嫌われた男」

2024年10月10日 | 映画
 
 昨日10月9日の午後、13時~15時まで、映画「トランボーーハリウッドに最も嫌われた男」(2016年、アメリカ)をNHK-BS で見た。偶然やっていたので見たのだが、なかなか良かった。

 トランボは、第2次世界大戦後の米ソ冷戦下にアメリカでマッカシーによる赤狩りの嵐が吹き荒れていた頃、「アカ」と烙印を押されてハリウッドを追放された脚本家、作家である。
 ぼくは、トランボの名前を「ジョニーは戦場に行った」という映画と書籍で知った。
 戦争で四肢を失った帰還兵の物語で、ぼくはてっきり第2次世界大戦が舞台だと思っていたが、映画上映を機に出版された原作(角川文庫、1971年、下の写真)の後書によると、原書の出版は1939年で、第1次世界大戦が舞台だった。第2次世界大戦へのアメリカの参戦とともに禁書とされ、1945年の戦勝で一時出版が許されたが、マッカーシーの赤狩りで再び禁書とされたという。トランボは「戦時中は禁書となり、戦後出版できる」ということは私にとって喜びではないと述べている(286~7頁)。
 なお、角川文庫ではトランボの名前を「ドルトン」と表記していて、ぼくも「ドルトン」になじんでいるが最近は「ダルトン」と呼ぶらしい。

       

 さて、映画「トランボ」は、そのマッカーシーの赤狩り旋風がハリウッドを覆っていた頃のハリウッドの映画産業界を舞台に展開する。
 リベラル派と目された監督、脚本家、俳優らが次々と議会に召喚され、「お前は共産党員だったか否か」と踏み絵を強要される。党員だったと答えれば、「他に誰が党員だったか」と追及される。同僚の中にはハリウッドで仕事を失うことを恐れて仲間を売ってしまう裏切り者もでるが、トランボは議会での証言を最後まで拒否したため議会侮辱罪で数か月間刑務所に収監される。刑務所では「アカ」の白人インテリとして嫌われ、重労働を課され、牢名主のような黒人受刑者からの嫌がらせを受ける。出所後も隣の住人からプールに汚物を投げ込まれたりする。
 トランボは、売れっ子の脚本家だったので経済的には裕福だったようで、郊外のプールつき住宅に妻(ダイアン・レイン)と3人の子どもと住んでいて、その裕福な生活ぶりが印象的だった。「アカ」といってもアメリカの「アカ」は日本と大分雰囲気が違う。

 ハリウッド映画産業界には「アカ」のブラックリストが出回っていて、そこに名前のある者はハリウッドでは仕事ができなかった。出所後のトランボもハリウッドでは脚本書きの仕事にありつくことができず、三流の映画会社と契約して、様々な仮名で大衆映画の脚本を書いては生活費を稼いでいた。やがて、彼の才能を見込んだハリウッドの製作者が、ハリウッド映画のために匿名で脚本を書くことを依頼してくる。
 この時に書いたのが「ローマの休日」の脚本だった。手元にある “Classics Movies Collection” DVD版の「ローマの休日」を見ると、原作「イアン・マクラレン・ハンター、ダルトン・トランボ」、脚本がハンターと「ジョン・ダイトン」(実在の人物なのか?)、 制作と監督がウィリアム・ワイラーで、1953年公開とある。「ローマの休日」はぼくの大好きな映画の一つで、トランボの脚本であることは知っていたが、彼がハリウッドで復権するまでは匿名(ハンター名義)とされていた。
 昨日見た映画では、トランボが最初に提案した原題は「王女と無骨者」!だったというが、制作者の一言で却下され、「ローマの休日」“Roman Holiday” に変更されたという。「王女と無骨者」では歴史に残らなかったかもしれない。「ローマの休日」はアカデミー賞の脚本賞だか原案賞だかを受賞したが、トロフィーにはハンターの名前が刻印されている。トランボは受賞自体は喜んだが、トロフィーにはまったく執着しなかった。

 その後も、トランボはロバート・リッチという仮名で発表した「黒い牡牛」(1956年公開)でもアカデミー賞(原案賞)をとっている。映画では、トランボがタイプライターに向かって書いているのが「脚本」なのか「原案」なのかは分からなかった。ちなみにトランボ死亡時の死亡記事では彼の肩書は「映画台本作家」となっている(後掲)。「台本」と「脚本」もどこが違うのか?
 その頃(1950年代末)までは、なおハリウッドでは「アカ」の「ブラックリスト」が存在するとされていて、そのリストに載っている人間はハリウッドの大手映画会社からは締め出されていたのだが、当時まだ若手だが人気俳優だったカーク・ダグラスがトランボを訪ねてきて、彼が制作、主演する「スパルタカス」の脚本の執筆を依頼する。そして彼は、完成したフィルムのクレジットに脚本としてトランボの実名を明記した(1960年公開)。
 ハリウッドに隠然たる影響力を持った元女優(ヘレン・ミレンが嫌味な老女の役を演じていたが、モデルは誰か?)から横やりが入るが、ダグラスは西部魂(?)ではねのける。
 さらに、オットー・プレミンジャー監督がトランボを訪れて、「栄光への脱出」の脚本を依頼する。これも実名での公開だった(1961年公開)。映画を鑑賞した J・F・ケネディが激賞したのは「スパルタカス」だったか「栄光への脱出」だったか。もうこの頃には、赤狩りの勢いは衰えていて、本当に「ブラックリスト」などが存在しているのかも怪しくなっていたらしい。
 赤狩りの「ブラックリスト」で、ぼくは今読んでいる平野謙「昭和文学私論」(毎日新聞社)のプロレタリア文学弾圧(小林多喜二拷問死)時代の日本の文壇状況を思い出した。太平洋戦争勃発時に情報局嘱託の地位にあった平野は、情報局課長の机上にそのような「ブラックリスト」が置かれているのを目撃したと証言している(369頁)。密告などに基いてある右翼作家が、特定の作家、評論家を陥れるために作成したという。 

 こうしてハリウッド映画界に実名で復帰を果たしたところで、映画「トランボ」は終わるが、映画には出てこなかったが、その後も自作の「ジョニーは戦場に行った」(1973年)などの脚本を書いた。
 この映画は、マッカ―シーによる議会での赤狩りや、それに同調したハリウッドの映画産業界を相手に戦う反マッカーシズムの闘士としてのトランボだけでなく、友人同士の友情と裏切りや、「仕事の邪魔をするな!」と愛娘を怒鳴って彼女の16歳の誕生日パーティに顔も出さないで、バスタブに浸かってタイプを打っているなど家庭内でのトランボの姿も描かれる。家族を大事にすると公言していたトランボにしてこの態度である(後には改心したようだが・・・)。
 今日の狂信的なトランプ支持者にまで至る戦後アメリカの暗黒面を強く印象づける映画だった。
 
 なお、「ジョニーは・・・」(角川文庫)に挟んであった死亡記事によると(紙名不詳1976年9月16日付)、トランボは1976年9月10日に70歳で亡くなった。映画のエンド・ロール(?)の中にも出ていた。

 2024年10月10日 記
 ※ 快晴だった60年前の1964年10月10日(土)の東京と違って、今日の東京は朝から時おりわずかに薄日が射すだけのどんよりとした曇り空である。10月10日は特異日(統計上晴れの日が有意に多い日)と言われていたが、今年は外れたようだ。

京マチ子からの葉書(昭和24年2月25日)

2024年05月07日 | 映画
 
 2、3日前のNHKラジオ深夜便だったか、その後の早朝の番組だったかで、誰か映画評論家が、黒澤明「羅生門」のことを話していた。
 途中からだったこともあり、詳しくは覚えていないが、当時東宝が労働争議で映画が撮れなかったので、黒澤は永田雅一に誘われて大映で「羅生門」(1950年)を撮ったと言っていた。これに続いて京が出演した「雨月物語」「地獄門」(1953年)が相ついでベネチア、カンヌ映画祭やアメリカのアカデミー賞を受賞したため、京マチ子は一気に国際女優となり、日本でもスターになったという。
 黒澤は「羅生門」を原節子で撮りたかったが叶わなかったので、京マチ子で撮ることになったのだという。同年に木下恵介の「カルメン故郷に帰る」も公開されたが(1951年)、高峰秀子と京マチ子はともに1925年生まれだと言っていた(ネットでは1924年、大正13年となっている。大正13年生まれの亡母が高峰と同い年といっていたから1924年が正しいだろう)。ちなみに、マーロン・ブランドとマルチェロ・マストロヤンニも同じ1925年生まれだと言っていた。
 
 などという話を半分夢うつつで聴いてから(聞き間違いがあったらお許しください)、きょうの昼間、古い蔵書を何気なく開いてみたところ、中に京マチ子から祖父にあてた葉書が挟んであった。こういうことは偶然なのか、誰か(神?)の作為によるものなのか・・・。
 といっても、意味深長な内容ではなく、彼女が松竹歌劇団を退団し、大映京都に入社することになった旨が印刷された宣伝の挨拶状である。ただし、宛て名と宛て先は万年筆で手書きである。日付けは2月25日とだけ書いてあるが、切手の消印は「24.3.1」となっているから、昭和24年(1949年)だろう。切手は清水寺の舞台を描いた薄紅色の粗末な印刷の2円切手である。
 表面はレビュー姿の京で、「レビュウの女王 京マチ子 大映入社」「第1回出演映画 『最後に笑う男』」という宣伝文が入っている(上の写真)。
 祖父が何かに応募でもしたのか、ファンクラブにでも入っていたのか。ぼくも桜田淳子から来た葉書を1枚持っているが、この祖父にしてこの孫あり、である。

 なお、この本の中には、京マチ子からの葉書に他に、その頃祖父が住んでいた仙台の映画館のパンフが2枚挟んであった。
 1枚は、日乃出映画劇場の「舞踏会の手帖」のパンフである。「ギャラ・プレヴュ GALA PREVUE (拡張会館・豪華なご披露 8月3日 1日限り)」という青い判が押してある4つ折りのパンフである(下の写真)。「ギャラ・プレビュ」とか「拡張会館」とはどういう意味か。1日だけ上映したということなのか。1937年制作というが、日本公開は何年だったのだろうか。
 映画好きだった祖父は、当時母が通っていた宮城第一高女では生徒が映画館に入ることを禁止していたのに、「親がついていれば大丈夫だ」と言って、心配する娘(私の母)を平気で映画に連れて行ったという。
 「舞踏会の手帖」は、結婚生活20年の後に夫に先立たれた妻が、16歳の時に舞踏会で出会った10人の男たちを、当時の「手帖」を頼りに訪ね歩くという筋立てらしい。ぼくも、60年近く前の中学、高校生だった頃に出会った女性たちを訪ねて歩く映画を作ってみたい。

   

 もう1枚は、仙台日活館のビラである(下の写真)。
 こちらには、当時の旧制中学受験を描いたらしい「試験地獄」、ゲーリー・クーパー主演「砲煙と薔薇」、ジームス・ギャグニ―主演「シスコ・キッド」などの宣伝が載っている。「試験地獄」は1936年公開らしいから、「舞踏会の手帖」もその頃のものだろう。

       

 1936、7年というと大昔のようだが、ぼくが生まれるわずか12、3年前である。この13年の間に女学生だった母は学校を終え、結婚しぼくを産んだ。一方、祖父が亡くなって今年8月でちょうど40年になる。自分が生まれる12、3年前のことは大昔のように思えるが、祖父が亡くなってからの40年はあっという間に過ぎていったような気がする。
 歴史の遠近法はどのようにして形づくられるのだろうか。

 2024年5月7日 記

小津安二郎『秋刀魚の味』--2023年最後の映画

2023年12月27日 | 映画
 
 きのう12月26日(火)午後1時から、“ NHK-BS シネマ ”で、小津安二郎の『秋刀魚の味』を見た。
 先週の同じ時間帯に「お早よう」を見た時に次週予告があったので、忘れないで見た。
 「デジタル修復版 <スタンダード・サイズ>」と画面表示にあった。画面のタテ・ヨコ比を修正する方法が分からないので、そのまま見たが、少しタテ長で、笠智衆や佐田啓二の顔や足が長すぎるような気がするのだが(下の写真)。
 「秋刀魚の味」はこれまでに4、5回見ただろうか。ぼくは同じ映画を2度見ることはほとんどないのだが、「秋刀魚の味」は何度見ても悪くない。

   

 若い頃(といっても50歳頃まで)は小津映画の中では「父ありき」が一番好きだったが、最近では「秋刀魚の味」がいい。小津の最後の映画である。誰かが「小津の最後の作品が『秋刀魚の味』では・・・」と嘆いていたが、ぼくは小津の最後の作品としても悪くないと思う。いい余韻が残る。
 「東京物語」を小津の最高傑作とする見方が一般的らしいが、ぼくは「東京物語」はあまり好きでない。テーマが重すぎるのだ。「孤老」がテーマなのだが、妻に先立たれた笠を末娘の香川京子がずっと見守ってくれるような気がする。あのラストシーンからは、そう見えてしまった。

 「秋刀魚の味」もテーマは「老い」だと思う。「東京物語」の笠智衆よりは多少は若い年齢に設定された笠智衆、中村伸郎、北竜二(それに東野英治郎)たちが主役だが、定年をまじかに控え、末娘を嫁に出す笠にも「老い」は迫っている。
 以前にも書いたが、ぼくは予備校に通っていた18歳の頃に、奥井潔先生の英語の授業でモーム(の抜粋)を読んだ。後に出版された奥井先生の「英文解釈のナビゲーター」(研究社)を見ると、先生はモームを読みながら、若さとか友情とか嫉妬とか老いとか、要するに「人生」について若かったぼくたちに問いかけていたのだったが、18歳のぼくにはそのような感情を受け入れるレセプターがまったくなかった。
 自分も60歳を過ぎたころから、ようやく老いを感じることができるようになったのだろうか、「秋刀魚の味」が身に染みるのだ。   
 
 今回も「いつもながらの」(“Mixture as Before” )小津の風景が随所に見られた。
 会社の重役を務める笠の重役室には応接室が付属していて、そのドア際には来客が帽子とコートを掛けるコート掛けが置かれていた。ぼくが大学を出て就職した出版社の会議室もそんなつくりで、ドアの脇にコート掛けが置いてあった(下の写真)。
             

 定年も近い裕福なサラリーマン中村伸郎の家の和室はそれなりに立派な風情で、他方、若いサラリーマン佐田が住むアパートの一室はまだ冷蔵庫も掃除機もテレビもなく、休日には佐田が座布団を枕に寝そべって手持無沙汰に煙草をふかしている。
 佐田の勤める会社の屋上にはゴルフ練習場があるようだ。ぼくの会社にはゴルフ練習場はなかったが、木造3階建ての3階は壁際の書棚に資料が積んであり、部屋の真ん中には卓球台が1台置いてあった。
 マダム(岸田今日子)が亡くなった妻に似ていると言って笠が通うトリスバーのようなバーは今でもあるのだろうか。
 
 冒頭の写真は「秋刀魚の味」のなかでも、ぼくが好きな場面の一つである、石川台駅のホームの岩下志麻と吉田輝雄のツーショットのシーン。小津映画に定番のこのシーンでは、いつも二人は離れて立っている。「麦秋」の原と二本柳、「お早よう」の佐田と久我、そして岩下と佐田、みんな離れて立っている。
 50年以上前のこと、下校時刻の吉祥寺駅北口の改札口で、高校生だったぼくを待っていた武蔵野女子学院の女の子がいた。声をかける勇気がなかったけれど、岩下志麻くらい色の白い子だったーーなどと思い出しながら見た。 
 先日の岩下志麻が「最終講義」(NHK、Eテレ)で語っていた、失恋して部屋に戻って一人泣く場面はしっかりと見たが(前の書込み「お早よう」を参照)、その前の場面で、思いを寄せる吉田にはフィアンセがいることを父(笠)と兄(佐田)から聞かされた場面の岩下の表情がよかった。  
 
 今年最後の映画が「秋刀魚の味」でよかった。

 2023年12月27日 記

小津安二郎『お早よう』(NHK-BS)

2023年12月20日 | 映画
 
 12月19日(火)午後1時から、NHK-BSで小津安二郎『お早よう』(松竹、1959年、デジタルリマスター版)をやっていた。
 「お早よう」は、小津作品の中では好きな作品ではないのだが、暇だったので見た。
 基本的にはいつもながらの小津映画である。佐田啓二と久我美子が私鉄の駅のホームで立ち話をする場面は(上の写真)、「麦秋」の原節子と二本柳覚の北鎌倉駅、岩下志麻と吉田輝雄の石川台駅と同じである
 荒川(?)沿いの土手と、その下で繰り広げられる昭和の東京郊外の家庭生活風景、とくに杉村春子ら昭和の主婦たちの「世間」がこの映画のテーマの(1つの)ように思った。
 阿部謹也さんの「世間」論の中に、専業主婦の女性には「世間」はないと書いてあったが、昼下がりの団地公園の砂場の周りなどは「世間」そのものである。阿部さんもこの小津映画を見ていれば考えを改めたのではないか。

 「お早よう」では、いつもは脇役の子役が(準)主役級で登場する。しかし、小津には子どもを主役(級)にした映画は無理だったように思った。その子役たちがオナラの出し合いを競うというのも品がないし、ユーモラスとも思えない。あんな遊びが当時はやっていたのだろうか。昭和30年代の世田谷では聞いたことがない。
 小津映画はやっぱりサラリーマンだろう。しかし、そのサラリーマンを演じる笠智衆、東野英治郎があまり精彩がない。杉村たち主婦陣も、沢村貞子、三宅邦子、賀原夏子、高橋とよとたくさん出てくるのだが、散漫な印象である。「秋刀魚の味」では彼らの演技がよかっただけに、残念である。
 
 舞台となった土手沿いの新興住宅街に、「助産婦」の看板を掲げた家があった。あんな噂話好きのおばさん連中がたむろしている町で、助産師の営業は困難だったのではないか。「東京暮色」で産科医を演じていた女優がこの町に住んでいて怪演していた。
 
   

 子どもたちが父親の笠に買ってもらったテレビが届く場面があった(上の写真)。子どもたちが近所のアパートに住んでいる水商売の女性の部屋に入りびたってテレビを見ているので、仕方なく買うことにしたのである。東野が電機屋の営業に転職して売り込みに来たせいもあるが。
 わが家でも1959年にテレビを買った。9歳だったぼくが近所のテレビのある家(その家のお父さんはNHKに勤めていた)に入りびたりで、時には夕飯までご馳走になって帰ってくるので、親が根負けしたらしい。
 わが家にテレビが届いたのは水曜日の夜8時すぎで、最初に見た番組はNHKの「事件記者」だったと記憶する。それまでは経堂の駅前にあった南風座に「月光仮面」などを見に行っていたのだが、テレビを買ってからは映画館には行かなくなった。記憶にあるのは、太田博之主演の「路傍の石」を学校から下高井戸の映画館に見に行ったことくらいしかない。
 小津の晩年の映画に、テレビが家庭に入ってくるシーンが残っているのも皮肉である。そういえば、「秋刀魚の秋」にも、阪神・大洋戦(ピッチャーがバッキーで打者が桑田武だった)を中継するテレビを中村伸郎たち見ている場面が出てきた。 

   

 それはそれとして、番組の最後に来週のこの時間(12月26日午後1時から)に、「秋刀魚の味」が放映されるという予告があった(上の写真)。
 覚えていたら、そして時間があいていたら見ることにしよう。
 そう言えば、2、3日前にNHKのEテレで、岩下志麻の「最終講義」というのをやっていた。あの「秋刀魚の味」の彼女も82歳だという。
 小津映画の話ばかりではなかったが、「秋刀魚の味」に出演した際に、岩下が(兄の佐田啓二の友人の)吉田輝雄に失恋した際の演技で100回もNGが出たと話していた。撮影現場では小津はどこが悪いか一言も言わなかったが、撮影後に小津に食事に誘われた時に、「人は悲しい時に悲しい表情をするんじゃない、人の感情はそんな単純なものではない」といった趣旨を諭されたという。
 来週見るときには、このシーンを気をつけて見ることにしよう。

 2023年12月20日 記

 追記
 そう言えば、数日前のNHKラジオ深夜便「NHKアーカイブス」で、杉村春子の聞き語りの再放送をやっていた。杉村81歳の時のインタビューで、聞き手は杉浦圭子アナだった。広島の女学校を出て、(当初の希望だった声楽家を断念して)築地小劇場の面接を受けて合格したが、広島弁を直すのに2、3年かかったと言っていたように思う(半分眠りながら聞いていたので)。「お早よう」では、沢村貞子の東京弁と遜色ない東京のおばさんの喋り口になっていた。
 もう一つ、そう言えば、さる12月12日は、たしか小津の没後60年にして、生誕120年の日だった。小津は12月12日に生まれて、12月12日に60歳で亡くなっている。

映画『返校--言葉が消えた日』

2023年12月05日 | 映画
 
 映画『返校--言葉が消えた日』(2019年、台湾。ツイン、DVD)を見た。

 蔣介石の国民党政権が台湾で恐怖政治を行っていた1962年(民国51年)、戒厳令下の台湾の高校を舞台にした映画である。ホラー映画の範疇に入るらしい。

 最初のシーンは古びた赤レンガの塀沿いに生徒たちが登校する風景から始まる。生徒たちに活気はない。むしろ陰欝な印象である。
 壁には「厳禁集党結社」という標語が大書されている。
 字幕では「共産党スパイの告発は国民の責務」「共産党の手先を隠せば同罪となる」「扇動する者を取り締り」「国家転覆を図る者は死刑に処す」というナレーションが流れる。

 この高校でタゴールの詩集を読む読書会グループの教師と生徒が、密告者の内通によって国家反逆の廉で憲兵の捜査を受け、逮捕され拷問されて、殺される。
 誰が密告者なのかは分からない。ホラー映画というものをほとんど見たことがないので(「エクソシスト」と「シャイニング」くらいしか記憶にない)、その「映画文法」がよく分からない。過去と現在の時空を行き来しているのか、そうではなく主人公たちの妄想の世界、心象風景を描いているのかも分からないのだが、恐怖感は十分に伝わってくる。ゲーム的な動きが感じられるシーンもあった。
 タゴールはインド出身の作家だが、植民地支配を批判した作家だったという。そんなタゴールすら読むことが許されない、読んだ高校生が死刑に処される時代だったのだ。
 ※下の写真は碓氷峠の見晴台に向かう山道の途中に建つタゴール座像の石標。日本女子大学の招きで軽井沢で講演を行ったという(三泉寮だろう。本女もミッションスクールだった)。生誕120年を記念して建立されたとある。
   

 この映画は、もともと「返校」というゲームが原作だという。
 ゲームが映画の原作になるというのも古い世代のぼくには理解しがたいが、メイキング・ビデオによると、ゲームの原作者(製作者?)3人も、この映画のジョン・スー監督も、1962年台湾の蒋介石政権の恐怖政治を実体験したことのない若い世代の人たちのようである。監督は、戒厳令下に弾圧を受けた人たちやその遺族に自ら面会して体験談を取材して映画製作に際して参考にしたという。
 その世代の人たちが、蔣介石国民党時代の戒厳令下の恐怖政治の体験を共有しようとしていることに感銘を受ける。
 わが国の若い世代に、戦後の「日本の黒い霧」や「真昼の暗黒」の記憶を共有する人たちがどれほどいるのだろうか。

 時あたかも、香港の民主化運動で逮捕された周庭さんが、カナダのトロントから声明を発したニュースが流れた。
 周庭さんはその後どうしているのだろうと思っていたが、香港国家安全法違反で有罪判決を受けて服役し、釈放された後も当局の監視を受けていたようだ。どのような経緯か分からないが、今年の9月からカナダに滞在しており、この度カナダへの「亡命」を宣言したという。
 香港には二度と戻ることはないと言っていた。香港が彼女が帰還できる自由な社会になることは、彼女の生涯のうちに訪れることはないと判断したのだろう。
 習近平政権の支配が及ぶ香港政府に対して周庭さんが抱いた恐怖こそ、映画「返校」に描かれた国民党戒厳令時代の台湾の人々が権力側の人間(憲兵や密告者)に抱いた恐怖、そして、その過去を共有する現在の台湾の人びとが、国家安全法の名の下に政権批判の言論が封じられている大陸に併合されることへの反発につながるのだろう。
 
 2023年12月4日 記

「風と共に去りぬ」「会議は踊る」ほか

2023年09月06日 | 映画
 
 『ある陪審員の四日間』を読みながら、久しぶりにレコードを聴いた。

 映画音楽の主題歌を集めたアルバムで、1枚は「想い出の映画音楽のすべて--Immortal Movie Themes」(CBS SONY SOPV-71~72 )発売年は不明(上の写真)。
 「禁じられた遊び」「マルセリーノの歌」「鉄道員」「ムーランルージュの歌」「第三の男」「太陽がいっぱい」「テリーのテーマ」(「ライムライト」の主題歌だった)「真夜中のブルース」「タラのテーマ」「エデンの東」「夏の日の恋」「ムーンリバー」「慕情」「魅惑のワルツ」など、懐かしい曲ばかりが、2枚組LPに24曲収録されている。
 1曲2~3分なので、10分ちょっとおきにレコードを裏返さなければならないのがつらいけど、久しぶりに聞いたのでどの曲も懐かしい。「禁じられた遊び」など何年ぶりで聞いたのだろうか。今ウクライナで起こっていることと同じではないか!

   

 見開きのジャケットには、収録された映画の解説と、スチール写真が何枚か載っている(上の写真)。ぼくがホセ・ファーラーをロートレックだと思い込んだ「赤い風車」のショットもある。


     

 もう1枚は、「想い出の亜米利加・欧羅巴映画音楽ベスト20」(TEITIKU BL-1166~7)。こちらも製作、発売年は不明(上の写真)。
 「想い出」も「亜米利加」「欧羅巴」もわざとらしい印象だが、収録された映画の年代からして、許すことにしよう。
 「巴里の空の下」「ただ一度の」(「会議は踊る」の主題歌)「巴里祭」「自由を我等に」など1920~30年代に公開された映画ばかりで、ぼくが見た映画はほとんどない。
 ただ、リリアン・ハーヴェイが歌う「ただ一度の」にだけは思い出がある。

 このレコードだったか、ラジオからこの曲が流れるのを聞いた今は亡き叔父が、旧制高校時代に「ドイツ語の勉強」と称して「会議は踊る」を見に行ったという思い出を語っていたのである。
 叔父の通った高校は7年制の旧制東京府立高校で、ぼくの学んだ東京都立大学の前身の学校である。叔父はこの学校のぼくの先輩ということになるが、ぼくが入学した1969年当時も、学校は旧制時代と同じ目黒の柿の木坂にあり、A棟と呼ばれた3階建ての校舎は旧制高校当時のままだった。
 ぼくが大学1年の時に、英語を担当した笠井先生という老先生がおられたが、この先生は叔父が旧制高校に入学した年に新しく着任したばかりの先生だったという。

 笠井先生の授業は1時間目だったが、始業時間ぎりぎりの朝9時近くに都立大学駅を降りたぼくは、遅刻の名人だったが、柿の木坂で前をゆっくりとした歩調で登って行く笠井先生を見つけて追い越すと、安心して速度を落として教室へ向かったものだった。
 笠井先生は、ぼくが1年か2年の時に定年で退職された。
 このレコードのジャケット裏には、リリアン・ハーヴェイの写真も載っていた。
 映画「会議は踊る」の解説には、1931年の製作だが、日本公開は3年後の昭和9年1月、帝劇ほかで上映とある。大正9年生まれの叔父が7年制旧制高校に在籍したのは、12歳の昭和7年か8年から7年間だから、年代はあっている。
 ※ 叔父と笠井先生の思い出を書きながら、この話は前にもこのコラムに書きこんだ気がしてきた。2006年以来15年以上書いてきたので、過去に何を書き、何は書いてないのかの記憶も怪しくなってきた。

 そして「亜米利加・欧羅巴映画音楽・・・」の解説には、この「ただ一度の」は、「ポルカ風リズムの軽快な魅力あるメロディーは世界のすみずみまで歌われました」とある(南葉二解説)。
 その「世界のすみずみ」の1つが、昭和12~3年頃の柿の木坂の旧制東京府立高校だったのだろう。
 ぼくが大学に入学したのは昭和44年(1969年)だから、叔父が学んでいた頃から30年しか経っていなかったのだ。それに対して、ぼくが大学を卒業してから来年でもう50年になる。ぼくの歴史の遠近法では、前者の30年のほうがよっぽど長く、その後の50年はあっという間だった気がする。

 そう言えば、小津安二郎の「秋刀魚の味」や「秋日和」などの挿入歌も、「ただ一度の」を思わせる陽気なポルカ風の曲が多かったように思う。
 小津も洋画ファンだったから、リリアン・ハーヴェイも聞いただろう。

 2023年9月6日 記

小津安二郎 “秋日和” を見た

2023年05月13日 | 映画
 
 久しぶりに、小津安二郎「秋日和」を見た。
 数日前の夜9時ころに、偶然つけたBS260ch (BS松竹東急)でやっていた。
 BSは104ch(BS-NHK)か、300ch(BS-TBS)から560ch(ミステリー・チャンネル)あたりを見ることが多く、200番台はほとんど見ない。ところが、この夜はなぜか260chに行き当たった。「秋日和」がぼくを読んでいたのだろう。
 母一人(原節子)、娘一人(司葉子)の母子家庭の娘を嫁がせるために、亡くなった父親の学生時代の旧友たち(佐分利信、中村伸郎、北竜二)が一計を案じ、原と北の再婚話をねつ造して、自分が結婚したら一人になってしまう母親のことを心配して、結婚を躊躇する娘に決断させようというストーリー。
 「晩春」の笠智衆、原節子、父娘の逆バージョンで、「秋刀魚の味」の笠智衆、岩下志麻、父娘とも同工異曲、「豆腐屋の豆腐」である。
 それでも構わないのである。2時間ちょっとの時間つぶしにはもってこいである。岡田茉莉子の唇を尖がらせたおきゃんな演技がいつみてもいい。
 「デジタル・リマスター版」とか称していて、画面もきれいだった。

     

 上の写真は、「小津安二郎名作映画集10+10」の第5巻「秋日和+母を恋はずや」(小学館、2011年)の表紙。
 2011年というのは、小津の没後50年を控えての出版だったのだろう。アッという間に10年が経って、今年2023年12月12日は、没後60年(かつ生誕120年)になる。
 しかし、全然そんなに時間が経った気がしない。小津映画はぼくが昭和に帰る「タイムマシン」なのである。

 この本の中に内田樹の映画評が載っていて、「秋日和」の中で、小津が登場人物の学歴にこだわっていることを指摘している。
 そう言われてみれば、級友たちは東大卒らしいし、司の相手(佐田啓二)は早稲田の政経出という台詞がある。戦前の小津映画には早稲田がしょっちゅう出てくるが、登場人物の学歴など、ぼくは気にしたこともなかった。
 本書には出演俳優たちの学歴も載っている。
 笠は東洋大学文学部中退(実家のお寺を継ぐ予定だったのだろう)、佐分利は日本映画俳優学校!、中村は開成高校、北は早稲田の文学部、佐田も早稲田(学部は書いてない)、司は共立女子短大、沢村貞子は日本女子大(小劇場時代に治安維持法で捕まった経歴があったらしい!)、桑野みゆきは法政女子高中退、三上真一郎は立教高校などなど、多様である。
 渡辺文雄の東大卒は知っていたが(ちなみに彼と湘南高校で同級生だった男が昔の職場にいた)、電通社員を経て俳優になっていたとは初耳だった。

 この映画に出てくるような、おっさんたちのお節介があったからこそ、当時の日本の婚姻率、出生率は保たれていたのだろう。
 実はぼくも今、友人の娘さんに誰かいないかと頼まれている。そしてかつての同僚の中に、年齢と趣味が合っていそうなのが一人いるのだが、彼に打診してみる勇気がおきない。
 40近くまで独身でいるその彼に結婚する気があるかどうかを聞くことは、どうも彼の私生活というか「婚姻の自由」に対して土足で踏み込んでしまうような気がしてしまうのである。
 もし彼にその気があったらと思うと、ダメもとで聞いてみるだけ聞いてみてもいいのではないか、とも思うのだが・・・。
 チャットGTPだか何だかに質問してみたいところである。

 2023年5月13日 記 

映画『R R R』

2023年02月26日 | 映画
 
 インド映画『R R R』を見てきた。
 何人かの知人が面白かったというので期待して見に行ったのだが、T - Joy では、入口から会場まで、ポスターの一枚すら貼られていなかった。
 上映も一日2回だけ。平日の昼だったので、観客の入りは3分くらいか。
 チケットに「字幕」と明記してあったのにも驚いた。劇場公開の外国映画が字幕なのは当たり前のことで、吹き替えの映画を映画館で見たことなど一度もなかった。最近では吹き替え版で劇場公開され\る外国映画もあるのだろうか。

 内容は、シルベスター・スタローン『ランボー』のインド版といったところ。
 インド映画を見たのは、『踊るマハラジャ』『クイズ・ミリオネア』(だったか)につづいて、3本目である。前2本は面白かったので、期待して見に行った。歌あり、踊りありで、いかにも「インド映画」という風ではあったが、3時間は長すぎる。2時間以内に編集できる内容だろう。
 ちなみに、題名の “R R R” とは、“water”、“fire”、“interval” の3つの単語の中の “R” ということらしい。

 1920年代、イギリスの植民地時代のインドが舞台で、残虐、凶暴なイギリス人総督とその妻が登場する。こんな白人優越主義者で、残虐な性格のとんでもない総督夫婦を演ずるイギリス人俳優がよくいたものだと感心した。しかし帰宅後にネットで俳優の素性を調べてみて納得した。2人ともアイルランド系のイギリス人だったのである。

       

 17世紀のアイルランドは、イングランド国王が任命したダブリン総督(王代官)によって支配されていた。アイルランド人はカトリック教徒が多かったために弾圧を受け、1649年にはクロムウェルが指揮するイングランド軍によるカトリック教徒大量虐殺事件もおきている。
 このようなアイルランドの歴史をふり返れば、アイルランド系の「イギリス人」が、イングランド・ウェールズ人とインド人のどちらに共感をおぼえるかは、簡単には断言できないだろう。イングランドから派遣された悪代官(総督)に対する抵抗という点では、むしろインド人に共鳴するアイルランド人もいるのではないか。

 映画は期待したほどではなかったが、帰宅後に、堀越智『アイルランドの反乱--白いニグロは叫ぶ』(三省堂新書、1970年)を復習し(アイルランド人は「白いニグロ」と呼ばれていたのか!)、近藤和彦『イギリス史10講』(岩波新書、2013年)の該当箇所を読み直すきっかけになったのだから、良しとしよう。

 2023年2月26日 記

映画 「モリコーネ--映画が恋した音楽家」”

2023年01月20日 | 映画
 
 ジョゼッペ・トルナトーレ監督の「“モリコーネ--映画が恋した音楽家」 を見てきた。
 吉祥寺駅南口(東口?)駅前の吉祥寺オデオンで。中学、高校時代の6年間通学で吉祥寺駅を通っていたのだが、こんなところに映画館があった記憶はない。
 あのころは中央線は地上を走っており、あの辺りには踏切があったはずだ。
   

 さて映画だが、何かのラジオ番組で紹介しているのを聞いて、面白そうだなと思った。久しぶりに見たい映画に出会った。
 エンリオ・モリコーネは好きな作曲家の1人である。字幕では「エンニオ」となっていた。
 上映館を調べると、吉祥寺でやっている。これなら場所も悪くない。しかし上映時間が2時間40分(!)というので躊躇した。いくら何でも長すぎないか。「ニュー・シネマ・パラダイス」 みたいに、モリコーネの音楽が流れる古い映画の部分部分をモンタージュのようにつなぎ合わせたようなものだと、とても2時間40分は耐えられない。
 しかし、結局行くことにした。

    

 午前11時25分から2時間40分なので、昼飯がわりにおにぎり4個と、近くのコンビニで買ったお茶とお菓子(どら焼き)を持参した。
 映画は90歳をすぎたモリコーネが自室で作曲したり、柔軟体操をするシーンから始まる。
 そして、彼の生い立ち、というよりは音楽家としてのキャリアの出発点から彼の音楽家人生をたどっていく。
 トランペット吹きだった父親の命令で音楽学校に入り、トランペット奏者を目ざすが、やがて作曲に目覚めていく。そして映画音楽の世界で頭角をあらわすようになる・・・。
 この辺から、もう2時間40分という時間のことはまったく忘れていた。

 懐かしいメロディー、懐かしいシーン、懐かしい俳優や歌手が次々に登場する。
 彼の出世作になった「荒野の用心棒」「夕陽のガンマン」「続・夕陽のガンマン」 などの発想から完成に至るプロセスをモリコーネ自身が語り、監督や製作者らの回想を交えながら、モリコーネの曲が流れるシーンが映る。
 申し訳ないことに、「荒野の用心棒」を聞きながら、ぼくはこの曲が挿入歌として流れる「迷宮グルメ 異郷の駅前食堂」を思い出してしまった。あの番組は、挿入歌で流れる「荒野の用心棒」と「ライム・ライト」が番組の雰囲気に似合っている。

 ぼくの知らない映画や俳優や歌手も大勢登場する。トルナトーレ自身も何度か登場する。
 懐かしかったのは、ジャン・ギャバン、リノ・バンチュラ、アラン・ドロン、ジャン・ポール・ベルモント、マルチェロ・マストロヤンニ、それに現在のジョーン・バエズまで登場した。
 “ワンス・アポンナ・タイム イン アメリカ” のジェニファ・コネリーも初々しい。あの映画の撮影時にはモリコーネの音楽をスタジオで流しながら撮影したという。
 映画俳優だけでなく、歌手のジャンニ・モランディやミーナも登場した。彼の曲を歌っていたのだ。残念ながらミーナが歌っていたのは “砂に消えた涙” ではなかったが。
 しかし、何といっても印象的だったのはモリコーネご本人である。
 時にはメロディを口ずさみながら、時には指先で机を叩いてリズムを刻みながら、時には目を閉じて指揮棒を振るしぐさをしながら、自作を語る語り口が魅力的だった。

 驚いたのは、高校時代に見た「アルジェの戦い」 が、何とイタリア映画で、作曲がモリコーネだったこと! 
 あれはフランス映画だとばかり思っていた。フランス人がアルジェリアの独立運動を弾圧する怖い映画だった。人権宣言以来のフランスの「自由」や「人権」が、「フランス人の」自由、人権にすぎないことを思い知らされた映画だった。
 ただし、今回聴いてもあれが「モリコーネ」の音楽とは思えなかった。“荒野の用心棒” 以降の彼の曲風とは違う世界だった。

 アカデミー賞に6回もノミネートされながら、受賞に至らなかったなど、信じられないエピソードである。クラシック出身のモリコーネが「映画」音楽家であることに「罪悪感」をもっていたというのも驚きであった。
 彼は新人監督だったトルナトーレ監督の依頼に応じて、「ニュー・シネマ・パラダイス」 の音楽を引き受けてくれたという。いかにもモリコーネ風で、ペーソスがあってノスタルジックないい曲だった。

 今回の “モリコーネ” は、「ニュー・シネマ・パラダイス」より編集が数段洗練された印象だった。いい映画を見た。
 モリコーネは2020年に亡くなったようだが、ラッシュででもこの映画を見ることはできたのだろうか。

 2023年1月21日 記

映画「二十四の瞳」 (NHK-BSプレミアム)

2023年01月04日 | 映画
 
 2023年、最初の映画は「二十四の瞳」になった。
 きょう(1月3日)の夕方、NHK-BSプレミアム(BS104ch)でやっているのを偶然に見つけた。NHKのBSプレミアムで去年の夏に放映されたテレビ・ドラマの再放送らしいが、知らなかった(NHKエンタープライズ制作、NHK 松竹制作・著作、2022年)。
 2022年に最後に見た映画が “ひまわり” で、2023年に最初に見た映画が “二十四の瞳” と、どちらも一種の「戦争映画」だったのは偶然ではないだろう。

 主人公の大石先生を演じている女優さんが清楚で、好感をもった。
 土村芳というらしい。知らなかった(下の写真)。高校生だった頃、同じNHKの連続テレビ番組「姉妹」で岡崎由紀を見初めた時を思い出した。
 大石先生は、原作者の壷井栄の妹さんだったかお姉さんがモデルだと聞いたことがある。小豆島の分教場の先生にしては、土村芳は少しきれいすぎる気がするけど。
 
     

 「二十四の瞳」は、何度も映画化、テレビ・ドラマ化されたが、小豆島がまだ俗化していなかった昭和20年代に、地元の子どもたちを使って、ほとんどロケで撮影された木下恵介のがいちばんよかった(昭和29年公開)。
 最近の小豆島は都市化、俗化してしまったので、「二十四の瞳」の昭和の雰囲気を小豆島ロケで再現するのは、もはや困難だろう。今回の作品もすべてを小豆島でロケしたのではなさそうである。ぼくの知らない風景が出てきただけかもしれないが。
 今日見たドラマに登場する岬の分教場は、田中裕子主演の映画を撮影した時に作られたオープン・セットをそのまま観光施設として保存した映画村(?)で撮影されたようだ(最初の写真)。       

 ぼくが初めて小豆島を訪ねた昭和50年頃は、土庄港から安田に向かう旧街道など、まだ戦前、戦後直後の小豆島の面影が多少は残っていたが、その後の40年の間に小豆島はまったく変わってしまった。

 2023年1月3日 記

2022年最後の映画は「ひまわり」

2022年12月31日 | 映画
 
 夕食を食べながらテレビのスイッチを入れると、NHKのBSプレミアムでヴィットリオ・デ・シーカ監督、ソフィア・ローレン主演の「ひまわり」をやっていた。

 ロシアのウクライナ侵略のあった今年は、あちらこちらで “ひまわり” が上映されたようだ。“ひまわり” を見たからといってウクライナへの連帯の意志を示すことができるわけでもない。所詮はウクライナのひまわり畑が背景に登場するメロドラマなのだが、それでも、今年の1本にあげることはできるだろう。
 久しぶりなので、最後まで見た。

 今日の午前中には、同じくNHK-BSで「世界ふれあい街歩き」のキエフ編(まだキーウではなかった)をやっていた。
 2019年に放送されたものの再放送だった。穏やかで美しい街並みだったが、すでに2019年当時から、ロシアのクリミア侵略に対抗して出征した帰還兵士が何人か登場していた。
 ソ連時代に造られたというウクライナとロシアの友好を記念する巨大な虹のようなモニュメントには、しかし、その後の両国関係の悪化を象徴するように、黒く塗られた亀裂が描かれていた。
 そして2019年にはキエフの公園で民族楽器を奏でていた53歳の男性が、現在は志願兵として軍事訓練中であると紹介されていた。
 この番組を見て、ウクライナ人の反ロシア感情、ふたたび旧ソ連時代のような全体主義国家に後戻りさせられることは真っ平だという強い信念を感じた。そう簡単に和平は到来しないだろう。

 21世紀にこんな戦争が起こるとは、こんな戦争を起こす人間がいるなどとは、思ってもいなかったぼくは何と愚かだったのか。
 
 2022年12月31日 記

小津安二郎「秋刀魚の味」、幾たびか

2022年12月22日 | 映画
 
 おととい(12月19日)の夜、テレビのチャンネルを回していたら、偶然BS松竹東急(BS260ch)で小津安二郎の「秋刀魚の味」をやっていた。12月12日が小津の誕生日にして、命日だから、その日に放映されものの再放送だったのかも。

 見つけた時にはもう終わりに近かったけれど、久しぶりだったので最後まで見た。
 ちょうど娘(岩下志麻)が結婚式場に出かけるあたりからで、次のシーンは式が終わって笠智衆が友人の中村伸郎の家で、北竜二と3人で酒を飲み、帰りがけに岸田今日子がマダムのスナックに立ち寄って軍艦マーチを聞きながらまた酒を飲み、そして娘のいない家に帰るという、あのラストシーンである(上の写真はエンド・マーク。小津の映画監督人生最後の画面でもある。わが家の照明が映りこんでしまったのはご愛敬)。
 ぼくの持っているDVD(小学館+松竹)よりも画像がきれいだった(今年テレビを買い替えたからかも)。きれいすぎて、昭和の雰囲気をそいでいるようにも思ったが、あのような強い色彩のほうが昭和的かもしれない。

 中学校の同級生たちが60歳近くなって、集まって酒を飲み、娘の縁談を語り合う、などという映画は20、30歳代の時に見たら絶対に共感できなかっただろう。しかし自分が笠や中村たちよりも上の年代になって見ると(役の上で彼らは50歳代半ばである)、なかなか悪くない映画だと思える。「秋刀魚の味」という題名はいまだに意味が分からないが。
 ぼくには、笠、中村、北たちのような交流はないが、今年の初めに、今春限りで医師をやめ開業医を廃業して福岡に移住するという高校時代の級友を送る4人だけの送別会があり、一期一会のつもりで出かけてきた。12月に入ってその友人が上京するというので、また4人で会ってきた。
 何のしがらみ(“Human Bondage”!)もない集まりで、楽しいというか気楽な時間を過ごした。年寄りはこういう風に時間を過ごすのだというマナーを小津の「秋刀魚の味」から学んでいたのかもしれない。

   

 今月初めには吉田喜重の死亡が報じられた。
 吉田の『小津安二郎の反映画』(岩波現代文庫)は、ぼくが読んだ小津論の中で一番難しかったが、舩橋淳という人が朝日新聞に書いた追悼文を読んで(2022年12月19日付、上の写真)、吉田の小津に対する評価が多少は理解できた。
 「反映画」というのが、「青春を賛美する青春映画」や「男女の愛憎劇を強調するメロドラマ映画」を否定する「反青春映画」、「反メロドラマ」のことで、それが吉田のいう「反映画」の意味らしい。実はぼくは吉田の映画を一本も見たことがないのだが、大島渚の「青春残酷物語」を思い出した。

 吉田によれば、小津の映画も「反映画」ということなのか。論者は「無時間性」こそ吉田と小津とが「肌を接し合う点であった」と結んでいる。残念ながらぼくには「無時間性」の本当の意味は分からないけれど、「時間を超えた」とか「時代を超えた」という意味なら、2022年のぼくは「秋刀魚の味」を見ながら、1960年の笠たちと気分を共有することはできる。
 「秋刀魚の味」は、「青春映画」でも「メロドラマ」でもない。岩下と吉田輝雄の交情などあっさりしすぎている。あえて言えば「老人映画」だが、若いだけが青春ではないという意味では、「反青春映画」といえるだろうか。「秋刀魚の味」は老人が主人公の青春映画、すなわち「反青春映画」といえよう。

 吉田に言わせれば、「遠く過ぎ去った中学時代のことをさほど覚えてもいないにもかかわらず、それを懐かしく感じるのは、すでに死に絶えて停止している時間であるからにすぎない。いま生きている現在といった時間が刻々と移ろいゆくあまり、それがなんであるか知りえず、そうした不確定であることの不安より逃げようとして、すでに死に絶えて動かぬ過去の時間に身を寄せて、心地よく懐かしむ」のが同窓会に期待される夢であり、終わってみればしらじらしい気持になるのが同窓会の宿命である、ということになるらしい(302頁)。
 ずいぶん辛辣な言葉である。「同窓会」一般はそういうものかもしれないが、「秋刀魚の味」の元教師、東野英治郎を招いての笠たちの酒宴や、ぼくたち4人のミニ・クラス会には当てはまらない言葉である。r少なくともぼくは「すでに死に絶えて動かぬ過去の時間に身を寄せて」いるつもりはない。
 そもそも笠たちの酒宴や、ぼくらの集まりは「同窓会」ではない。吉田にはよほど不愉快な同窓会体験があったのだろう。

 数十年来、年中行事のように続けてきた年賀状の交換をやめると宣言するはがきやメールがこのところ相ついだ。何のために出しているかを考えて見ると、年賀状のあて名を書き、一言だけ添え書きをしつつ過去を回顧するというノスタルジックな気持ちもあるけれど、最近では、「今年も何とか生きています」という安否確認の通知の意味合いのほうが強くなっているように思う。
 ぼくはもうしばらくは出したいと思っている。

 2022年12月21日 記

映画『エデンの東』

2022年08月24日 | 映画
 
 映画『エデンの東』を見た。「1954年製作、Renewed 1982 。エリア・カザン監督、ワーナー・ブラザース」となっているが、DVD(ワーナー・ホーム・ビデオ)の製作年はケースにもディスクにも記載がなかった。

 ディスクが2枚入っていて、1時間近くある特典映像のほうも、面白かった。
 ジェームス・ディーンのプロフィールや、衣装合せ(ワードローブ・リハーサルとかいっていた)、未公開シーン、さらにニューヨークでのプレミアム試写会を訪れた面々が映画館に入っていく映像(テレビ番組で放映されたらしい)も入っていた。原作者のスタインベックまでもがインタビューに答えていたが、微妙な顔つきだったようにぼくには思えた。見終わったらもっと微妙な顔つきになったのではないか。
 特典映像によると、キャル役のジェームス・ディーンと父親役のレイモンド・マッセイは本当に仲が悪く、撮影中も険悪な雰囲気だったという。
 本当にウマが合わなかったのか、それとも父子間の葛藤を演技するために、ジェームス・ディーンが意図的に父親役の俳優と険悪な雰囲気を作ったのか? 特典映像を見てから本編を見たのだが、このことを知って映画を見ると、父子間の葛藤がいっそう真に迫って見えた。

 さて本編のほうだが、久しぶりに見たのだが、やはり良かった。
 中学3年生の秋に原作を読んでから相当の時間が経ったので、原作との違いも気にならなかった。何年か前に見たときには、原作との違い、とくにラストシーンの違いが気になったが、今回はそんなこともなかった。
 『エデンの東』のテーマは父に対する子の反抗である。父親は厳格なキリスト者で、子どもたちにもキリスト者らしい生活を要求する。兄は従順に父に従うが、ジェームス・ディーン演ずる弟キャルは反抗する。キャルも本当は父に愛されたいと思っているのだが、父はキャルを受け入れない。
 兄弟の母は、この父を嫌って家を出て近隣の町で売春宿を経営している。その事実をキャルから知らされた兄は自暴自棄になって志願して戦地に赴いてしまう。ショックを受けた父は脳溢血に倒れ、死期が迫っている。

 原作のラストシーンは、「ティムシェル、アダム・トラスクは目を閉じ、そして眠った」(野崎孝訳、早川書房)だったと思う。
 「ティムシェル」とは古代ヘブライ語で、「人は道を選ぶことができる」という意味だそうだ。聖書原理主義者の父アダムは聖書の意義を探るために古代ヘブライ語を勉強するような謹厳な男だった(ただし、映画では熱心なキリスト者としての父親という部分はカットされている)。
 弟のキャルはそんな父親(レイモンド・マッセイ)の価値観の押しつけに反抗するのだが、そのキャルに対して臨終のベッドで父は「ティムシェル」と語りかけるのだった(ただし、ティモシー・ボトムズがキャルを演じたテレビドラマの『エデンの東』のラストシーンでは「ティムシェル」ではなく「ティムショール」と発音していた)。「人は道を選ぶことができる」、これこそ原作の『エデンの東』が伝えたかったメインテーマだと、当時のぼくは読んだ。
 映画のラストシーンはかなり違っていた印象だったのだが、今回改めて見てみると、ラストシーンで父親はキャルに向かって、ちゃんと「人間は道を選ぶことができる」と語りかけているではないか!
 さらに前半のどこかのシーンでも、「ほかの動物と違って人間は道を選ぶことができる」という台詞があった。エリア・カザンはスタインベックの意図を忠実に再現していたのだ。
 
 「人は道を選ぶことができる」という自己決定の原則は、中学3年生の時以来ぼくの核心的な価値観だと思って生きてきた。しかし、ぼくは本当に「自分で道を選んで生きてきたのだろうか」と最近では思うことがある。むしろ抗いがたい何かの力によって生かされてきたのではないか。

 2022年8月24日 記