豆豆先生の研究室

ぼくの気ままなnostalgic journeyです。

小津安二郎の昭和 洗濯・物干し・アイロンがけ

2010年11月25日 | 映画
 
 小津安二郎映画のいいところは、ぼくが育った昭和の懐かしい風物がさりげなく登場するところである。

 一番典型的なのが物干しで、竿をかけるために支柱に釘付けされた45度上向きの板片(上の写真を参照)などは、おそらく他の映画にはまったく登場しないのではないだろうか。
 最初の写真は、“東京物語”(昭和28年、1953年)に登場した物干しと風になびく洗濯物。
 主人公一家の長男(山村聡)の開業する診療所の近くの風景。遠くに隅田川(?)の土手が見えている。

 次は、縁側の軒下の物干し。
 やはり戦前のものだが、“戸田家の兄妹”(昭和16年、1941年)のなかで、長女(吉川満子)の家で働く女中役の文谷千代子が、そっと洗濯物の乾き具合を確かめるようなしぐさをしていた。

               

 そして、洗濯物が乾いたら、次は当然アイロンかけである。そこで、今回は、昭和のアイロンかけ。

 最初は“風の中の牝雞”(昭和23年、1948年)に登場する、田中絹代のアイロンかけ姿。
 戦地から帰還しない夫を下町の粗末なアパートで待つ貧しい母親が、幼い子の洋服にアイロンをかけているのだろう。

 どこが懐かしいといえば、アイロンのコードの先が、天井からぶら下がった電球の二股ソケットにつながっているところである。
 たしかにわが家でも、母親がアイロン掛けをするときに、こんなふうに電球の二股ソケットにつないでいた。
熱を帯びたソケットの焦げた匂いさえ思い浮かぶ。
 まだまだ電力事情も悪くて、停電もよく経験した。突然電気が消えて家の中が真っ暗になるのも、子どもにとっては楽しい出来事だった。

               

 それから14年後、昭和37年(1962年)の“秋刀魚の味”にも、岩下志麻がアイロンかけをするシーンが出てくる。高度成長期に向かい、東京オリンピックを招致する2年前である。
 やもめ暮らしの父親(笠智衆)と弟のために家事を切り盛りする一人娘を嫁がせるという小津安二郎の定番ストーリーだが、その父や弟の洗濯物にアイロンをかけてるのだろう。

               

 もう天井から下がった電球の二股ソケットなどからではなく、ちゃんと壁のコンセントからコードをつないでいる。
 こうやって並べてみると、小道具は少しづつ違っているが、構図はほとんど同じである。
 「豆腐屋」の「豆腐屋」たる所以だろう。

 2010/11/25

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マツダ・デミオ(mazda 2) 3door

2010年11月20日 | クルマ&ミニカー
 
 ぼくが最近気に入っているクルマは、マツダ・デミオの3ドア。本当は、“mazda 2”の3ドアで、ヨーロッパでしか販売されていない。
 ネット上で写真を見ると、このクルマは、もともと3ドアとしてデザインされたのではないかと思う。近所のマツダで展示してあるデミオの後部ドアを開閉すると、残念ながらチープな印象をぬぐえない。あんなドアなら、いっそのことない方がいい。

               

 来年早々にデミオはモデルチェンジされるらしい。
 “SKY-DRIVE”という6速トランスミッションと、“SKY-G”という新エンジンを搭載し、デミオにも“i-STOP”(アイドリング・ストップ)を導入し、燃費の向上を図るという。
 ぼくは距離はそれほど乗らないので、カタログの上だけの燃費競争にはあまり関心がない。しかし、渋滞がつづく都市部を走ることが多いので、アイドリングはいかにも地球に申し訳ないし、もったいない気がする。
 
 で、次のマツダ・デミオには、新しいフィット・ハイブリッド、12月に出るヴィッツの次世代モデル、さらに来年出るというホンダの1000ccクラス(ビートの後継車?)やヴィッツ・サイズのハイブリッド・カーなどとともに大いに期待している。
 マツダは全車種に“i-STOP”導入を宣言しているから、デミオ・スポーツ(スポルト?)にも“i-STOP”がつくだろう。できることならSPORTには3ドアを設定して、内装もPOLO・GTIのように差異化して、デミオの最上級モデルにして欲しい。
 マツダでは、mazda-2の3ドアを国内で生産しているという。国内で作られているのに国内で購入することができないのはしゃくな話である。

 “Zoom-Zoom”のMAZDAさん、ご検討をお願いします。

 2010/11/20

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オバマ、小津、大仏

2010年11月15日 | あれこれ
 
 APECで日本にやって来たアメリカのオバマ大統領が、子供のころに訪れて印象に残っているという鎌倉の大仏を見学し、同じく当時食べておいしかったという抹茶アイスを食べている姿がテレビで流れていた。

 これに便乗して、鎌倉の大仏ネタをひとつ。

 先日、清澄、深川、築地を散歩したときに道案内に持っていった貴田庄『小津安二郎をたどる東京・鎌倉散歩』(青春出版社、2003年)には、鎌倉の大仏が“朗かに歩め”と“麦秋”と二度も小津映画に登場すると書いてある(175頁)。
 しかし、鎌倉の大仏は、実は“父ありき”にも登場する。あの映画の中で、金沢の中学校教師の笠智衆と同僚の坂本武が生徒たちを引率して、鎌倉、箱根方面に修学旅行に行く場面がある。そのときに、大仏の前で生徒たちが記念撮影するシーンがあり、鎌倉の大仏さんはしっかりと登場している。
 写真は“父ありき”のそのシーン。

 オバマ大統領は、濡れ縁のようなところに腰掛けて、棒アイス(抹茶らしい)を手にしていたが、大仏の近くに、あんなふうに腰掛けて大仏を眺めることができる縁側はあったのか、記憶が定かでない。それとも、あれは大仏とは別の鎌倉のどこかのお寺なのだろうか。

 2010/11/15

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今年も光の 飯田橋 “アイ・ガーデン・エアー”

2010年11月08日 | 東京を歩く
 
 きょうの夜、授業が終わって、いつも通り飯田橋駅に向かって“ホッペマの並木道”を歩いていると、その先に眩い光のアーチを発見! 

 今年も、ホテル・メトロポリタン・エドモントの中庭に光のページェントが始まった。もうそんな季節になったのだ。
 地図によると、あの場所は“アイ・ガーデン・エアー”(i-garden air)というらしい。
 まずは、“アイ・ガーデン・エアー”南端から眺めた光のアーケイド。
 
                             
 
 つづいて、光のアーケイドの中に入って右手にあるトナカイのイルミネーション。神社の狛犬のように、左右に一体づつ置かれている。

               

 そして、“アイ・ガーデン・エアー”の北端、総武線の線路寄りにある、数頭のトナカイにひかれた雪橇(そり)。これだけはオレンジ色の光に輝いている。

               

 最後は、同じトナカイの橇をホテル・エドモントの喫茶室の屋外テラスから撮ったもの。さすがにテラスには人影はなかった。

               


 これから年末までこの光の並木道を眺めて帰宅することになる。

 2010/11/8

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清澄庭園(きよすみ ていえん)

2010年11月04日 | 東京を歩く
 
 東京都立清澄庭園の写真をもう少し。

 まずは、正門前から。11月3日、文化の日だったので、日の丸の旗が掲げてあった。最近では祝日に日の丸を掲げる家はほとんどなくなってしまった。昨日の数時間の散歩でも、旗を見かけたのはここだけだった。「旗日」などという言葉も、もはや死語だろう。

               

 つづいて、正門を入った正面の大きな池。清澄庭園の中心になっている。岩崎弥太郎が三菱の総力を挙げて全国から集めた庭石が随所に置かれている。そして、ここかしこで亀が泳いだり、甲羅を干したりしている。有栖川宮公園でも同じ情景を見た。近くで見ると、意外と水が濁っていたのも同じである。

               

 そして、池の端のコンクリにとまって翅を休めるトンボ。今年になって東京で初めて見るトンボかもしれない。昔は東京でも運動会の昼休みに校庭で水撒きなどすると、できた水溜りの周りをトンボたちが群舞したものだが。昭和30年代末の話である。

               

 庭園の一角に、芭蕉の「古池や、~」の句碑が建っている。ただし、芭蕉が詠んだ「古池」はこの庭園の池ではなく、近所の別の場所から句碑だけを移築したと説明が書いてあった。

               

 清澄は芭蕉にゆかりが深い町らしく、清澄通り沿いには旅姿の芭蕉の座像も建てられており、「芭蕉俳句の散歩道」という案内板の立つ小道もあった。

               

 2010/11/3

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小津安二郎の深川、築地

2010年11月03日 | 東京を歩く
 
 久しぶりに秋晴れの休日となったので、女房と東京散歩に出かけた。

 生まれて60年、一度も行ったことのない江東区深川という場所を訪ねることにした。もちろん、小津安二郎に因んでのことである。
 小津は1903年(明治36年)12月12日に東京市深川区万年町(現在の江東区深川1丁目8-8)で生まれ、1963年(昭和38年)6月、築地にある国立がんセンターでがんと診断され、同年12月12日、60歳の誕生日に転院先の東京医科歯科大学病院で亡くなっている。
 松坂での旧制中学校生活を経て、助監督時代は蒲田で、その後監督になってからは高輪、鎌倉などに居を構えているが、人生の始まりと終わりは隅田川沿いで迎えたことになる。
 後で出てくる石碑には、次のように小津の生涯が記されている。

                     
 貴田庄『小津安二郎をたどる東京・鎌倉散歩』(青春出版社、2003年)を手に、都営地下鉄大江戸線を清澄白河駅で下車して、小津の旅を歩きはじめた。
 まずは小名木川沿いをしばらく歩き、行き止まりを左折すると、白河庭園の入り口に当たる。もともとは紀伊国屋文左衛門の屋敷跡だったのを、岩崎弥太郎が買い取り、三菱の社員用の慰安所としたという。鯉や鴨が泳ぎ、亀が甲羅干しをする池の周りを手入れの行きとどいた木々が囲む、都会とは思えない静かな庭園である。
 東京では見かけなくなったトンボが池端の石の上で翅を休めている。
 隅田川、深川に対する先入観から、こんな落ち着いた雰囲気はまったく期待していなかったのだが、予想もしなかったよい散歩スポットだった。

               

 30分近くかけて庭園内を一周し、隣りの清澄公園を抜けて、清澄橋に出る。
 隅田川沿いの遊歩道に降りると、護岸から1メートルもないところに水面が迫っていた。山の手育ちには水面がこんなに護岸の近くまで迫っているのは怖い。近所の神田川の支流などは、ふだんは道路から3メートルくらい下をちょろちょろ水が流れる程度である。かつて江東区が「0メートル地帯」と呼ばれただけのことはある。
 正面には読売新聞本社ビルがある。振り返ると、清澄橋の向こうに建設中の東京スカイツリーが聳えていた。東京人の常として、東京タワーにも東京スカイツリーにも何の感慨もないが、見つければ見つけたで損した気はしない。
 隅田川沿いは時おり小津の映画に登場したらしい。“一人息子”で日守新一、飯田蝶子母子がしゃがんで語るシーンや、“風の中の牝雞”で文谷千代子と佐野周二がやっぱり腰をおろして語るシーンなどは、いづれも隅田川の川岸だったらしい。

               

 さらに隅田川沿いを歩き、隅田川大橋の手前で左折し、しばらく路地を歩いて清澄通りに出る。清澄庭園を背にして門前仲町方向に歩く。道路の右手が深川1丁目、左側が深川2丁目である。清澄通りにかかる歩道橋の袂の深川1丁目側に江東区教育委員会が建てた“小津安二郎誕生の地”というプレートが立っている。
 小津との接点はほとんどないが、夏休みの箱根ゼミ合宿で通った芦の湯の旅館きのくにや以来、2度目の小津の生きた場所の体験である。この辺の海産肥料問屋の次男として小津は生を受けた。小津が映画監督生活を始めた昭和の時代にすでにこの辺はかつての面影を失っており、小津はほとんど深川を描くことはなかったという。
 今日ではさらに昭和の面影すらなくなってしまった。

               

 門前仲町から再び大江戸線に乗り、築地市場駅で下車。
 築地市場は休業だが、周辺の小さな食事処(ほとんどが寿司屋である)が立ち並ぶ賑やかな路地の1軒に入り、海鮮丼を食べる。
 評判も何も分からずに入ったので、残念ながら安くもなければ、それほど美味しくもなかった。ただ2時間以上歩いていたので腹が減っており、何を食べても美味い状態だったので不満もない。“空腹は最大の美食家なり”!である。

               

 その後、門前仲町駅に戻り、またまた大江戸線で飯田橋で下車して神楽坂に向かった。ここからは“東京の坂道”シリーズになるので、また別の機会に書くことにする。
 忘れていたが、都営地下鉄の1日乗り放題乗車券は、通常だと700円のところが、11月28日までは500円である。したがって、今日の散歩で使った交通費も500円。

 * 冒頭の写真は、貴田庄『小津安二郎をたどる東京・鎌倉散歩』(青春出版社、2003年)。
 
 2010/11/3

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