豆豆先生の研究室

ぼくの気ままなnostalgic journeyです。

虎に翼(その5)ーー名古屋控訴院庁舎

2024年04月25日 | テレビ&ポップス
 
 東京新聞2024年4月18日夕刊一面トップに上の写真のような記事が載っていた。
 名古屋控訴院の建物が現在も保存されていて、NHK朝の連ドラ「虎に翼」の中で、東京地裁の正面階段の場面のロケに使われているという。
 昨年このコラムにシリーズで書いた「建築でたどる日本近代法史」に加えたい建築物である。

 ぼくは「虎に翼」の撮影は明治村かCGの合成でやっていると思っていたが、このような建物が保存されていて、ロケに使われていたとは知らなかった。
 赤レンガの控訴院で思い出すのは、昭和30年代ぼくが子どもの頃に毎年夏休みを過ごした仙台の市電通りに面した旧仙台控訴院(当時は仙台高等裁判所)の建物である。戦後になっても、仙台の人々が「控訴院」と呼んでいた、あの赤レンガの建物はその後取り壊されてしまったのではないか。1985年に祖父の法事で仙台を訪れ、あの通りを東急ホテル前から大橋まで歩いたが、赤煉瓦の建物を見た記憶はない。
 戦前の仙台控訴院判決で何か有名な事件があったかは思い浮かばないが、戦後では、松川事件で被告人を全員無罪とした仙台高裁の門田(もんでん)判決が有名である。松川判決のころの仙台高裁は、まだ戦前の控訴院の建物だったように思うが、趣きのある歴史的建築物だったのに残念である。
 川前丁にあった東北大学法文学部の2階建て(3階建てか?)の建物なども今はないのだろう。

 その後、「虎に翼」はあまり熱心には見ていないが、きょう(4月25日)の放送では、明律大学の男子学生が帝大生にコンプレックスを持っていることが話題になっていた。
 実は、昭和19年に日本女子大(学校)を卒業した亡母が、(当時の)明大生はガラが悪く、帝大生にコンプレックスを持っていて、帽章の「明」と「治」の部分を(学帽の縁の)黒いリボンで隠していた(ここを隠すと帝大の帽章と同じに見えたらしい)と話していたことを思い出した。
 これまでの放送でも、明律大学の男子学生のガラの悪さは何度も登場したが、帝大コンプレックスの話題は今朝が初登場ではないか。誰もが明治大学と思って見ているだろうが、脚本で明治大学と明示しているわけではないから、これでいいのかもしれない。

 2024年4月25日 記

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モーム「赤毛」ーー行方昭夫「英文精読術 Red」

2024年04月24日 | サマセット・モーム
 
 久しぶりのサマセット・モームの話題である。何年ぶりの書込みだろうか。
 行方昭夫「英文精読術ーーRed」(DHC、2015年)を読んでいる。これも買ったまま放置してあったのだが、気がついてみれば刊行から10年近く経っていた。

 モームの「南洋もの」の代表作の一つであり、モームの全短編の中でも「雨」と並んで代表的な作品だろう。ぼくが「赤毛」を最初に読んだのは、おそらく予備生だった昭和43年だったと思う。駿台予備校の奥井潔先生のテキストに「赤毛」の一部が抄録されていた。
 「かつて誰かが恋をした場所には、何年たってもその恋の残り香が感じられるものである」といった趣旨の文章がなぜか強く心に残っている。予備校のあった四ツ谷駅周辺の線路沿いの土手や、迎賓館前の歩道、若葉町公園の木陰のベンチなどには、もし訪れることがあれば、きっとモームのいう恋の残り香が感じられるだろう。ほかの人はどうか知らないが、ぼくは感じるだろう。
 原文では “fragrance of a beautiful passion” となっていた。辞書的には「芳しい香り」なのだろうが、ぼくの場合は「香り」というよりは「霊気」とでもいったほうがふさわしい。

 予備校時代のモームの思い出は以前にも書き込んだ。その後、神保町の小川図書の店頭でハイネマン版のモーム全集を見つけて、「赤毛」“Red” の入った “The Trembling of a Leaf” 「木の葉のそよぎ」1冊だけを買ったこともすでに書いたとおりである。  
 ただし、この文章を奥井先生の授業で読んだのか、奥井先生に触発されて読んだ中野好夫訳の新潮文庫版「雨・赤毛」で読んだのかは、今となっては思い出せない(手元にある新潮文庫は昭和44年の第15刷だった)。奥井先生が英文読解の授業で伝えたかったテーマは愛、友情、嫉妬、若さ、老いなど「人生」というか「人の生き方」だったと今にして思うから、この個所もテキストに選ばれていたような気がする。
 いずれにしても、この文章だけは50年以上経った今でも鮮明に覚えている。   
        
       
 
 今読んでいる行方(「なめかた」とお読みするらしい)「英文精読術」でも、ようやくこの個所に到達した(96頁~)。
 正直なところ、「赤毛」のここまでの導入部分をこれほどまでに「精読」する必要があるか、ぼくには疑問である。ぼくが一人で読むなら、ここまででは、舞台となる南洋の孤島の風景と、聞き手の船長が太った粗野であまり教養のない人物で、これからのストーリーの語り手となる痩せたスウェーデン人が何か曰くありげな過去を持つ人物であるという人物像が読み取れれば十分だと思うのだが。
 しかも、ここまで読んできたところで、「赤毛」の結末の「落ち」を何となく思い出してしまった。
 中野好夫の解説によると、モームはモーパッサンこそ最大の短編作家であり、面白い話(ストリ・テリング)は警抜な「落ち」を伴わなければならないと考えており、「雨」と「赤毛」はそのモームの短編の中でも最上のものだというから、その「落ち」を思い出してしまってはやや興ざめである(新潮文庫151頁~)。
 よくネット上の投稿で「ネタバレあり」という警告を目にするが、ぼくはそんなことを気にしたことはなかった。しかし何年振りかで読み始めたモーム「赤毛」の結末を思い出してしまっては、小説を読む推進力ががたっと落ちてしまった感は否めない。仕方ないから、ここから先は小説を読む楽しさではなく、行方先生の精読術と薀蓄にお付き合いしながら読むことにしよう。このシリーズには、まだ「物知り博士」と「大佐の奥方」の2冊が待っているのだから。
 ちなみに、わが国で最初のモームの翻訳が出版されたのは、この解説によれば中野好夫訳で昭和15年に出版された「雨」だったという。

   

 ついでに、新潮文庫版「雨・赤毛ーーモーム短編集Ⅰ」の裏表紙に載ったモーム作品一覧と、「凧・冬の船旅」(英宝社、昭和28年)の巻末に載っていた「サマセット・モーム傑作選」の一覧をアップしておく(上の写真)。後者のうち3巻から5巻は、その後日本ではなぜか出版されることがなくなってしまった 「環境の生き物」“Creatures of Circumstances” の全訳である(1、2巻は「カジュアリーナ・トリ―」の翻訳で、こっちは新潮文庫、ちくま文庫で出ている)。

 2024年4月24日 記

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虎に翼(その4)--毒饅頭事件と瀧川幸辰

2024年04月17日 | テレビ&ポップス
 
 NHK朝の連ドラ「虎に翼」の今週は、主人公たちが大学祭で模擬裁判を演じていた。
 取り上げた事件は、「毒饅頭殺人被告事件」とか銘うっていたが、実際に起きた女医による元婚約者毒殺未遂事件を下敷きにした事案である。
 この事件もどこかで読んだ記憶があったが、ネットで調べると、いくつか元ネタの事件を解説したページがあった。その記事のどれかで、この事件の弁護人が瀧川幸辰(たきがわ・こうしんと呼んでいるが、正しいのか)だったことを知った。
 ※小池新さんという人が書いた文春オンラインの記事だった。この記事を見るのは初めてだから、他のニュース源で知ったのだと思う。澤地久枝の書籍が参考文献に上がっているが、澤地の本を読んだことはない。佐木隆三の「殺人百科」にでも載っていたかもしれないが、手元にないので確認できない。
 この事件は、婚姻予約の不当破棄事件(実態は内縁関係の不当破棄事件)としての側面もあったようなので、そちらの関係で見たのかもしれない。

 ならば弁護人を務めた瀧川の著書の中でふれているかも知れないと思い、手元にある瀧川幸辰「刑法と社会」(河出書房、昭和14年)と、瀧川「刑法史の或る断層面」(政経書院、昭和8年)を見たが、毒饅頭事件(神戸チフス菌饅頭事件)に触れた記事は見当たらなかった。
 「刑法と社会」を斜め読みして、瀧川は大学卒業後に暫らく司法官試補を務めており、また(滝川事件で)大学教授を退職後は弁護士として「法服」を着ていたと書いてあるから、毒饅頭事件の弁護人もその頃に務めたのであろう。
   
   
 上の2枚の写真は、「刑法史の或る断層面」の扉の挿画で、ウィーンの美術館所蔵の「十字架刑への出発」と「山上の説教」だそうだ。穂積「判例百話」もそうだったが、昭和初期の法律書はどの本をとっても、革装ないし布クロース装で箱入りの立派な装丁で、昭和戦後期から平成、令和に至る現代の書籍よりも文化的な香りがある。手元にある本は、戦争をはさんで数十年を経ているため、かなり傷んではいるが。

 瀧川の「刑法と社会」の中から、「虎に翼」(というか女子学生)にまつわる随想を一つ。
 戦前から女性に聴講の機会を与えていたどこかの大学に瀧川が講師として出講した際に、毎朝授業開始時間に遅れて、しかも袴に革靴姿で靴音を鳴らしながら教室に入ってくる女学生を叱ったところ、その学生は「私は女ですもの」と口答えしたという。
 瀧川は、この大学が婦人に門戸を開いたのは婦人が優秀だからではなく、お慈悲からである、そこを勘違いしてはいけない、君たちの一挙手一投足は後から来る者たちに影響する、自省しなさいといった趣旨の小言を言った。そうしたところ、その聴講生はぷいと教室を出て行ったきり、それ以後は授業に出て来なくなったという(「婦人と希少性価値」237頁)。
 実は授業開始時間は午前8時からだったのだが、第1回目も2回目も瀧川が定時に教室に行っても学生は誰も来ていない、8時15分から開始することにしても出てこない、仕方なく最後には8時30分開始とするが、この時間には決して遅れないで出席するように指示したにもかかわらず、その次の回の授業開始時に起きた事件だった。
 瀧川は、婦人は教養を積まなければいけない、世間並みの読み物よりも低級な婦人雑誌しか理解できないようでは困るなど、けっこう当時の女性に対して辛辣な、今日では反感を買いそうな言葉も投げかけている。毒饅頭事件の被告人女医の弁護人を引き受けるほどには理解のある人物だったようだが、遅刻してきたこの女子学生の態度はよほど腹に据えかねたのだろう。
 1937年(昭和12年)に発表された随筆だが、その当時女性の聴講を認めていた関西の大学とは、いったいどこの大学だろう。

 ぼくも教師時代に、遅刻して教室に入ってくる学生には腹が立った。しかし教師だった父親から、「学生のやることにいちいち腹を立てていたら教師は務まらない」と言われていたので、心の平穏のために無視するように努めた。
 ただし、初回の授業の際のガイダンスで、「通学電車の中でおなかが痛くなって途中下車しなければならないこともあるだろう、絶対に遅刻するなとは言わないが、遅れて教室に入ってくるときは、ほかの受講生の迷惑にならないように静かに遠慮がちに入ってこい」と申し渡しておいた。
 どうせ遅刻する者の大部分は寝坊が原因だろうが、中にはやむを得ない遅刻もあるだろう。せっかく大学まで来ていながら遅刻したからといって教室に入れないのも気の毒だし、もったいない。一人でも多くの学生にぼくの話を聞いてもらいたいという気持ちもあった。
 今どきの学生はほぼ全員がスニーカーなので、瀧川さんのように遅刻学生の靴音が気になることはなかった。
 ある時、授業中に10人以上の学生が遅れてぞろぞろと入ってきたことがあった。これは電車の遅延でもあったのだろうと思い、遅れてきた学生の中にゼミ生がいたので、「電車が遅れたのか?」と聞くと、「デート!」と答えるではないか。唖然として、「デート?」と聞き返すと、「デ・ン・ト!」との返事。「デントってなんだ?」ともう一度聞き返すと、「田園都市線」のことだと言う。学生たちの間では田園都市線を「デント」と呼んでいることをこの時初めて知った。 

 2024年4月17日 記

 ※なお、「刑法と社会」には「人権擁護と予審制度」という随想があった(33頁)。
 予審制度というのは、本来は糺問的な刑事裁判を改めて、予審判事の関与によって被告人の人権を保障するために設けられた制度であり、公訴提起の可否を判断することを目的とする手続きだったのだが、戦前日本の予審手続は、捜査を行なう検察官が主導権を握って、予審判事は検察官の行為にお墨付きを与え、公判の準備をするだけの手続きに堕してしまった。証拠閲覧など被告人に認められた人権保障も実際にはまったく機能していなかったので、廃止すべきか改善して存続すべきかが議論されていたという。瀧川は予審制度廃止論をとり、検察官に捜査の全責任を負わす方が望ましいと書いている。

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NHKスペシャル「下山事件」(2024年4月某日)

2024年04月15日 | テレビ&ポップス
 
 数週間前に、NHKスペシャル「未解決事件File.10 下山事件」を見た(下の写真)。
 下山事件とは、昭和24年(1949年)に起きた、下山定則国鉄初代総裁の不審な鉄道死亡事件のことである。7月のある雨の夜中、常磐線北千住・綾瀬駅間の五反野ガード付近で、下山総裁の轢断死体が発見された。
 当時の国鉄は、復員兵を大量に雇用するなどしたために人員過剰状態にあり、占領軍の指示によって10万人規模の馘首(解雇)をめぐって会社側と労働組合との間で熾烈な闘争が繰り広げられていた。当日朝、車で出勤の際に下山は銀座三越前で止めるように運転手に指示し、下車してデパート内へと消えた。しかしそのまま会議の時間を過ぎても下山は出勤せず失踪し、その夜半になって轢死体となって発見された。
 渦中にあった下山総裁の死をめぐっては、警視庁捜査一課と慶応大学法医学教室は自殺説をとり、捜査二課と東京地検(布施健)および東大法医学教室(古畑種基)は他殺説をとって対立した。
 他殺の線が濃厚になって来たところで占領軍が介入しきて、結局捜査は強制的に終了となる。

   

 番組では、敗戦後に日本に進駐したアメリカ占領軍の諜報機関の一員だったキャノン大佐に生前に行なったインタビューや、制作当時は生存していたアメリカ軍の諜報機関員へのインタビューなどもあって、興味深かった。
 とくに布施健検事が他殺説の立場から捜査を指揮していたことは知らなかった。布施は後に検事総長となり、ロッキード事件の際に田中角栄首相を逮捕した人物である。ロッキード事件もアメリカの絡んだ謀略説が唱えられているが、戦後間もない時期の下山事件に布施が関わっていたのは奇妙な符合である。
 ドキュメント番組としては面白かった。ただし、事件から70年以上経過したとはいえ、轢断死体の一部が写っている現場写真が登場したのにはギョッとした。その夜、わが家の近くの駅で人身事故が起きた現場を目撃した夢を見てしまった。

 その後、下山事件が気になって、松本清張「日本の黒い霧(上)」(文春文庫)の「下山国鉄総裁謀殺論」を改めて読み直した。
 まだ大野達三のドキュメントくらいしか出ていない時期の執筆のようだが、ほぼNHKドキュメントに近い推理になっている。さすが松本清張である。NHKでは触れなかった(と思う)吉田茂(当時の首相)、加賀山之雄(当時国鉄副総裁)らの言動も興味深い。
 面白かったので、眼科の定期検診の待ち時間に持参して読んでいたのだが、検査結果は眼圧が前回より1上がってしまっていた。目と脳に負担がかかってしまったのだろうか。

 たまたま昨日の東京新聞に宮田毬栄さん(中公の編集者)のことが載っていた。彼女の姉の藤井康栄さん(文春の編集者)とは、40年以上昔に(知り合いの文春の編集者の紹介で)お会いしたことがあったような気がしたので、googleを眺めいて、藤井忠俊「黒い霧は晴れたかーー松本清張の歴史眼」という本があることを知った。
 渡米した岸田首相のアメリカに迎合する情けない姿をニュースで見るにつけ、黒い霧はいまだに晴れることなくわが国を覆っていると思わざるを得ない。

 2024年4月15日 記

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虎に翼(その3)--妻の無能力と穂積重遠

2024年04月11日 | テレビ&ポップス
 
 NHK朝の連ドラ「虎に翼」の、昨日から今朝にかけて(4月10日~11日)のテーマは、明治民法の下での「妻の無能力」の問題だった。

 民法では、民法上の権利(私権)をもつことができる法律上の地位のことを「権利能力」といい、すべての人(自然人)は出生の時から権利能力を有すると定めている(民法3条1項。明治民法1条も同じ)。
 権利能力を有する人が契約を結ぼうとする場合などには、その契約の法的意味を理解する能力が必要とされる。この能力を「意思能力」という。例えば酩酊状態で呑み代30万円の支払い契約を結んでしまったような場合には、あとから「あの時は意思能力がなかった」ということを証明して契約の無効を主張することができる(民法3条の2)。 
 ただし、個別の事案ごとに、契約当時その当事者に意思能力があったかなかったかをいちいち判断するのでは、契約当事者双方に不便である。そこで民法は、未成年者や成年被後見人(かつての禁治産者)などについては、類型的に「行為能力」を制限された者と定めて、未成年者が親権者や後見人の同意なしに行った行為や、成年被後見人が単独で行なった行為は、後から取り消すことができるとした(民法5条、9条)。

 昭和22年に現在の民法に改正されるまで効力をもっていた明治民法のもとでは、この未成年者や禁治産者のことを「無能力者」(行為能力が無い者の意味)と呼んでおり、未成年者や禁治産者だけでなく、妻(法律上の婚姻をした女性)も「無能力者」とされ、妻の財産については夫が管理すると規定されていた(明治民法14条~)。
 実は、明治民法にも「無能力」という言葉が書いてあったわけではない。民法には「能力」という見出しがあるだけで、「無能力者」という言葉は出てこない。民法は、未成年者や妻などが、保護機関(親権者、夫など)の同意を得ないで行なった契約等は取り消すことができると規定しただけなのだが、民法によって「行為能力」を制限された妻や未成年者のことを、明治民法のもとで(戦後もしばらくの間は)学者たちが「無能力者」と呼びならわしたのであった(穂積・読本52頁。下の写真はその該当ページ)。
 昭和22年の民法改正で、妻の無能力規定(明治民法14条~)は廃止され、妻は夫の同意なしに単独で契約等を結ぶことができるようになった。未成年者は現在でも単独で契約等を結ぶ権利を制限されているが、今日では「無能力者」ではなく、「制限行為能力者」と呼ぶのが一般的である。

 この「妻は無能力者」という教科書の記述に、主人公(寅子?)は猛反発したのである。劇中で主人公たちが見ていた教科書は穂積重遠(しげとお)の「民法読本」だった。
 劇中の「穂高教授」は、妻を無能力者とすることは、妻にとって必ずしも不利益なことではないと説明していたが、穂積「民法読本」にも、まさにそうような記述がある。ただし、結論的に穂積は、妻を無能力者としたことは不当かつ不要なことであった、夫婦とも自己の財産については各自に責任を負わせ、夫婦間の相談と協力は義理人情の問題にしておいたほうがかえって夫婦の円満に資するだろうと結んでいる(52~3頁)。
   

 なおこの日のテーマはもう1つあった。「妻の無能力」とも関連がある。
 不貞行為や暴力を繰り返す夫に対して、別居中の妻が離婚の訴えを起すとともに、夫に対して、(夫宅に残してきた)花嫁道具として持参した母の形見の着物の返還を求める訴えを起した。この訴えが認められるかどうか、という議論である。
 この裁判は1審、2審で妻が敗訴しており、大審院に上告中のようであった。主人公たちが穂高教授と一緒に裁判を傍聴に行く場面で今日は終わった。
 確か、こんな内容の実際の事件をどこかで読んだ記憶があった。そして妻が勝訴したように覚えていた。
 ぼくの考えでは、妻が持参した花嫁道具に含まれる着物は「妻が婚姻前から有する財産」だから、妻の「特有財産」であり、妻は所有権に基づいて返還を請求できると思ったのだが(明治民法807条1項、現行民法762条1項)、ドラマの中の第1、2審の裁判所の判決は、夫は「管理権」に基づいて返還を拒否できるとしたようだった。夫に「所有権がある」という台詞もあったような気がしたが、それは誤りだろう。
 このような夫の管理権行使を権利濫用ないし信義誠実の原則に反する権利行使として退けることも考えられるが(現在の民法1条2、3項)、当時としてはどうだったか。

 記憶をたどって、我妻栄「新しい家の倫理--改正民法余話」(学風書院、昭和24年)の「妻の無能力」の項目を見たが、この事案のことは出ていなかった。そこで、穂積重遠「判例百話--法学入門」(日本評論社、昭和7年。冒頭の写真)を探して見たら、ちゃんと載っていた。
 「第88話 妻の衣類調度と夫の権利」という表題で、大審院昭和6年7月24日判決を取り上げている。離婚成立までは夫に管理権があるとして返還を認めなかった原審(第2審)判決を破棄して、大審院は、原告(妻)の返還請求を認めた。穂積は「実に近来の名判決である」と評価している(343頁)。
 大審院判決は、民法が夫に妻の財産の管理権を認めたのは夫婦共同生活の平和を維持し、妻の財産を保護するためであり、本件夫婦のように婚姻生活が破綻した場合に、妻を苦しめるだけの目的で夫が管理権を主張することは権利の濫用であるとして、着物を妻に返還するよう夫に命じたのであった。
 現在の判例では、婚姻関係が破綻した以降は、民法が定める婚姻の効力の規定(夫婦間の契約取消権、夫婦間の貞操義務など)は破綻した夫婦には適用されないという判例理論が確立している。
 昭和6年にそのような判例ルールの先駆けが既に出ていたことに驚いた。 

 明日の朝、ドラマはどのような展開となるのかわからないが、こんな明治民法らしからぬ論法の判決を聞いた主人公は、いよいよ法律を勉強しようという向学心に燃えることだろう。
 
 2024年4月11日 記

 ※今朝(4月12日)の放送では、予想通り、ドラマの中でも大審院昭和6年7月24日判決とほぼ同趣旨の判決だった。「穂高教授」の評価まで「判例百話」の中の穂積の評価と同じだった。
 それはそれとして、ぼくはNHKの朝の連ドラの見方が分からない。出演者たちがドタバタを演じるシーンをどう見ればよいのか。法律の話ばかりでは一般の視聴者は飽きるだろうから、喜劇風のコントも入れておきましたということなのか。
 さらに、山田某という人物の役回りも分からない。外見は男装のモガだが、そうでもないらしい。穂積のような微温的な「フェミニズム」に敵意を持っているらしいことはわかるが、そうかといって無産者階級の人間が明治の女子部に入れる時代でもなかっただろう。「東京の宿」「東京の女」の岡田嘉子の時代である。しばしば大きな声で同級生を恫喝するシーンが出てくるが、宝塚宙組のパワハラ上級生を思い出させて朝から嫌な気分になる。どういう演出意図なのか。
 「判例百話」にはほかにも面白い判例がいくつもあるから、またエピソード的に出てくるのではないだろうか。今は穂積重遠と思しき人物が出てくるので見ているが、三淵判事が司法官僚として出世する時代の話になったらおそらく見なくなりそうな気がする。(2024年4月12日 追記)
 

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桜も見納めか・・・2024年4月8日ーー東映撮影所の軍艦

2024年04月10日 | 東京を歩く
 
 4月8日(月)曇り。

 昨日で今年の桜も見納めのつもりだったが、買い物から帰宅した家内が、白子川沿いの桜が満開で綺麗だったというので、午後の散歩のついでに歩いてきた。
   
   
   
   

 確かに、数年前に見物に出かけた目黒川沿いに負けないくらいに咲きほこっていた。
 桜の本数は目黒川の方がはるかに勝っているが、何といっても目黒川は人混みがかなわない。数年前に一度だけ出かけたが、中目黒駅の女子トイレから階段にまではみ出した長蛇の列に始まって、川沿いの出店や見物客の人混みが凄まじくて、ゆっくりと桜を愛でる気分にはなれなかった。
 それに比べると、わが白子川は、本数では負けるものの、雑踏もなくゆったりと眺めることができるだけでも助かる。
 桜の木も、大泉学園駅前からの桜並木通りの桜よりも若いらしく、元気がよい。あそこは、かつては東映大泉撮影所の敷地だった。その敷地の北西寄りの場所には、今村昌平の「豚と軍艦」の撮影のために軍艦のオープン・セットが建てられていた。ぼくが小学生か中学生の頃である。
 ※ 調べると、今村の「豚と軍艦」は1961年公開の日活映画とある。1961年という年代はぼくの記憶とあっているが、はたして日活映画の撮影のために、東映撮影所にオープンセットを作ることがあるだろうか。何か別の東映の戦争映画のために作った軍艦を「豚と軍艦」の軍艦と誤って記憶していたのかもしれない。

 東映大泉撮影所の北のはずれ、白子川沿いに植えられていたあの桜も、一時は伐採の危機にさらされたようだが、結局は保存されることになり、一時移植された後に元の位置に戻されたとの話である。よくぞ残った。

 2024年4月9日 記

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虎に翼(その2)--明治法律学校の教材

2024年04月09日 | テレビ&ポップス
 
 「虎に翼」(NHK朝の連ドラ)の補遺を。

 ドラマの中の法律書専門書店の書棚に貼られた宣伝ビラの中に、末弘厳太郎「民法講話」を見つけた。残念ながらぼくはこの本は持っていないが、戦後になって高弟の戒能通孝さんが改訂した3巻本(岩波書店、昭和29年)を持っている。
 同じく劇中で、法学生(三淵家の書生?)の本箱か机の上に、穂積重遠「民法読本」らしき本が置いてあるのを見た(ような気がした)。この本はぼくも持っている(日本評論社刊)。手元のあるのは昭和19年版だが、時代を反映してか、表紙も本文も粗末な紙質である。
 なお、書店の店内では、牧野菊之助「日本親族法論」を宣伝していたが、女性法律家の卵が学ぶ親族法の教科書といえば、当時なら穂積重遠「親族法」(岩波書店、1933年)だろう。あるいは、あの頃牧野は明治大学で教鞭をとっていて、彼の本が教科書に指定されていたのだろうか。 
  
       
       

 明治大学関係の家族法の出版物では、「司法省指定私立明治法律学校出版部講法会出版」刊の柿原武熊「民法親族編講義(完)」という本を持っている。本自体には出版年度の記載はないが、Google で調べると、明治民法が制定された明治31年の翌年に出版された講義録のようである。表紙扉の著者肩書きによると、柿原は「控訴院判事」だったようだ。
 「司法省指定」というのは仰々しいが、「私立」というところには自負が感じられる。日本の近代家族法学は私立法律学校の教師たちによって出発したという評価もあるくらいである(山畠正男・判例評論195号以下、1975年)。
 もう1冊、島田鉄吉著「親族法(完)」(明治大学出版部発行)というのも持っている。表紙の扉には「島田鉄吉君講述」とあり、島田の肩書は「行政裁判所評定官」となっている。これも明大での講義録だろう。この本も発行年度の記載はないが、大正4年に出た大審院「婚姻予約有効判決」への言及があるから、大正4年以降の刊行だろう。ネット上の古書店目録では、大正8年刊の同書が売りに出ている。

 柿原の本では、近親婚禁止規定について、近親婚禁止を正当化する事由をあれこれ述べていて印象的である。最近の家族法教科書では、理由ともいえないような簡単な理由しか述べられないことに比べて印象的である。おそらく本書が授業の口述を筆記したものだからだろう。戦後の本でも、中川善之助の「民法講話 夫婦・親子」(日本評論社)や、「家族法読本」(有信堂)など、講演で語ったものを書籍化した本では、近親婚禁止の理由についても饒舌に記されている。内容の当否はともかくとして。
 島田の本は、日本の妾制度を批判し、一夫一婦制を明治民法の基本原理の一つとして強調していて、印象的である。明治民法になってからも日本の現実社会では妾を囲うことが普通に行なわれていたことを考えると(黒岩涙香「畜妾の実例」萬朝報、後に社会思想社)、印象的である。島田の近辺にもそのような男がいたのかもしれない。
 それと、上記の婚姻予約有効判決のように大審院の判例が紹介されていることも印象的である。教科書の中に判例が登場するのは、大正末期の末弘厳太郎以降のことかと思っていたが、大正4年の判決が教科書に出てくるとは意外だった。著者が現場の裁判官だったことの影響もあるだろう。柿原や島田といった実務家が私立法律学校で講じていた授業では、たんなる理論だけでなく判例についても教えられていたのだろう。

 「虎に翼」では、入学早々に模擬裁判が行われ、主人公が実際の裁判を傍聴に行ったりしているところを見ると、戦前の法学教育のほうが、(法科大学院以前の)戦後の法学部教育よりも実務的な色彩が強かったのかもしれない。今後の番組で授業風景も紹介されるだろうから、しっかり見てみよう。

 2024年4月9日 記
 

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今年の桜(2024年4月7日)

2024年04月08日 | 東京を歩く
 
 4月7日(日)、天気予報によれば、東京で桜見物ができる天気がよい日はこの日だけということだったので、近所に花見に出かけた。青空に白い雲が浮かび、ポロシャツ一枚で十分の暖かさだった。
 大泉学園駅北口から都民農園、セコニック(今もあるのだろうか?)方面に向かうバス道路沿いの桜である。
 ぼくのスマホが安物のうえに、小学生だった昭和30年代後半に比べると、桜の花びらの容色(?)も衰えた感じである。
   
   

 下の写真は、前日の4月6日の散歩のおりに撮った写真。
 都立大泉高校の正門の桜。正門から校庭までの桜並木を一般開放していたが、あいにくの曇り空のうえに、満開までは今一息だったため桜の見栄えはいまいちで、見物客もまばらだった。
 昔は三鷹のICUも桜の季節には構内を開放していて、誰でも入ることができたので、多磨霊園のの墓参り兼花見のついでにICUの桜も見物して帰ったのだが、ある時期から入れなくなってしまった。
 ついでに、同じ散歩の道すがら、桜の木に鶯(うぐいす)がとまっていたので。なかなかベストショットの位置にとまってくれなかったので、写真で見えるだろうか?
      
    

 2024年4月8日 記

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虎に翼(NHKテレビ朝の連ドラ)

2024年04月06日 | テレビ&ポップス
 
 NHKの朝の連続ドラマは、ぼくの大学時代の先生のお気に入りの番組だった。
 先生の先生である我妻栄さんは、毎朝5時に起きて勉強をはじめ、午前8時15分(確か当時は8時15分始まりだったと思う)に朝の勉強を中断してこの番組を見るのが習慣だったそうで、ぼくの先生も、我妻先生も今ごろ勉強しておられるかなと思いつつ早朝に勉強し、そしてこの番組を見るのを楽しみにしておられた。
 ぼくは、NHKの朝の連ドラをほとんど見たことがない。わずかに「おしん」を祖父母が見ていた頃に、傍から見るともなしに眺めていたくらいである。NHKのテレビ・ドラマでも、中井貴一主演の「歳月」や、岡崎由紀の「姉妹(あねいもうと)」、ジュディ・オングが出ていた正月の単発ドラマなどはかなりはっきりと記憶にあるのだが。

 現在やっている朝の連ドラ「虎に翼」は、法律を勉強するものには名を知られた三淵嘉子判事をモデルにした昭和の女性法律家の物語である。
 彼女は、穂積重遠のすすめで(実話だろうか)、女性を対象に法律学を講じていた当時としては唯一の学校である明治女子短期大学(明短と呼ばれていた)の前身に入学した。
 ドラマでは「明律大学」となっているが、黄緑色のドームが屋上にある駿河台の大学である。ぼくが勤務していた大学にも、毎年のように明短卒の女子学生が3年生に編入してきた。
 この学校(明短)は、明治大学を右折して山の上ホテルに向かう路地の奥にあった。編集者時代に山の上ホテルに泊まった際に、朝食をとっていると窓の外に明短の女子学生たちが坂道を登って登校する姿が見られた。

   

 昨日、この番組を見ていたら、法律を学ぶ決心をした三淵さんを母親が法律書専門店に連れて行って「六法全書」を買うシーンがあった。
 店は神保町の古本屋のような雰囲気で、書籍の宣伝の貼り紙が並んでいたが、その中に「日本親族法論 牧野菊之助」という文字と、「憲法提要」という書名が見てとれた(冒頭の写真)。
 牧野菊之助の同書は、大正から昭和戦前期の定番の家族法教科書だったようだ。ぼくも古本屋で購入して、今でも持っている。初版は明治41年で、手元にあるのは大正12年刊の17版である(上の写真)。牧野は裁判官で、大審院長も務めた人だったらしい。

 「憲法提要」は誰の著書かわからないが、ネットで調べると穂積八束と野村淳治に「憲法提要」という書名の著書があった。いくらなんでも女性法律家の卵が穂積八束はないだろうから、野村淳治の「憲法提要」だろう。
 「憲法提要」によく似た書名で、美濃部達吉「憲法撮要」という本があった。戦前の高文試験受験生に必携の憲法教科書として定評があったという。「撮要」(さつよう)というのは妙な書名だと思ったが、写真に撮るように憲法の要点を表現しているといった意味だろうか。
 番組の中の書店には、他にも、末弘厳太郎や穂積重遠の名前も並んでいたような気がした。ドラマの中では穂積は「穂高」教授となっているが。

 朝ドラにはあまり興味がなかったのだが、穂積重遠らしき人物が出てくるとあっては見ないわけにはいかない。すでに亡くなられたぼくの先生、我妻先生もご覧になったらなんと仰るだろう。

 2024年4月6日 記 

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アラン・マクファーレン『イギリス個人主義の起源』

2024年04月05日 | 本と雑誌
 
 アラン・マクファーレン/酒田利夫訳『イギリス個人主義の起源--家族・財産・社会変化』(リブロポート、1990年)を読んだ。
 100頁の余白に「'93・9・8」と書き込みがある。20年前にはここで断念したのだろう。

 イギリスの13世紀以降の中世史がテーマで、中世イングランドにおける「小農」(ペザント peasant とルビ)社会は、通説よりも早く13世紀にはすでに消滅していたという主張のようである。イングランドの土地所有の法概念も分からないし、イングランドの地理に関する基本的な知識すらないので、読み進めるのは難渋を極めた。1日に10ページくらいしか進まない日もあり、途中で旅行に行ったりしたので、3週間近くかかったがとにかく読み終えた。字面を追っただけに近い個所も少なくない。
 ※という訳で、以下の記述は正確な要約ではなく、適切な批評でない可能性がある。あくまでも「個人の感想」である。

 ロビン・フォックスの「生殖と世代継承」(法大出版局)は、近代史における「個人主義」の発展という図式および現実の動向に疑問を提示し、「親族」の復権を唱えるものであった(と読んだ)が、今回のマクファーレンは反対に(一昔前の学生だったら「真逆に」というだろう)、イングランドにおける「個人主義」は、他の北欧(西欧)諸国よりもかなり早く、13世紀にはすでに成立していたと主張する。
 主張のメインストリームは、13世紀頃のイングランドは「小農」社会であったという通説を否定し、その当時からすでにイングランドにおける土地所有の主体は「家族」ではなく「個人」であったということに向けられる。

 著者によれば、「小農」社会は「特定の個人に帰属する絶対的な所有が欠如していること」が主要な特徴であり、財産保有の単位は永続的な「団体」であり、個人はこの団体に属して労働を提供するが、個人が家族財産の持分を売却することはできず、息子をもつ父親は(窮乏した場合以外は)土地を売却することができないし、女性は個人的・排他的な財産権をもつことはないという社会である(131頁)。
 マルクスは、中世イングランドにおいては、ノルマン征服(1066年)以降「家族制的生産様式」による「小農」社会が存続し、15世紀後半に至って土地保有上の革命が起って、「私有財産」が成立し、貨幣地代、無産労働者の発生を伴う「資本的生産様式」への移行が始まったとした。
 ウェーバーも、小農者が土地から解放され、土地が小農層から解放されることによって、16世紀に自由な労働市場が成立し、無限の営利追求を特徴とする資本主義が成立したとする。イングランドは17世紀までには貨幣地代に依存する貴族社会となったが、その理由として、イングランドが島国であり、大規模な陸軍が不要だったこと、ノルマン征服後に中央集権国家が成立し、合法的な法と市場が発展したことを挙げる(66~80頁)。

 これに対して、著者は、イングランドにおいては、すでに13世紀には、大多数の庶民は、親族関係、社会生活において自由な個人主義者となっており、居住地域や職業などに関して社会流動性(移動の可能性)をもち、土地を含む自由な市場を志向する合理的で、自己中心的な存在になっていたという(268頁)。
 彼が自説の論拠として提出するのは、土地売買証書や、マナ(荘園)裁判所判決、人頭税徴税簿、教会簿冊など社会史の文献に頻出する古文書や、それらに基づいて統計的、人口学的分析を行った先行研究である。イングランドにおける土地所有や利用制度の変遷にまったく不案内であるだけでなく、イングランドの地名やその地方の特性もよく分からないので、著者が援用する土地の売買や土地利用の記録がその地方の特殊事情によるのか、イングランドに一般的な現象なのかを想像することすらできない。

 13世紀頃から、「家族の土地」という感情をもたずに土地を売却する者がいて、それに伴って所生の土地(故郷)を離れて他郷に移動する者たちが存在したことを示す記録が少なからず残っていることは理解できたが、それが当時のイングランドで普遍的な現象だったのか、特殊な事例だったのかは理解できなかった。さらに「小農」社会の早期の消滅が、その反面において「個人主義」の成立をもたらしたという因果関係も理解できなかった。13世紀から、祖先の土地に縛られない独立覇気のイングランド人が生まれ始めたというくらいのことなら了解できるが、それを「個人主義の起源」とまで言えるのか。

 いずれにしても、あくまでイングランドの13世紀の話であって、日本における「個人主義」の誕生(もし生まれていたとして)に裨益する知見はない(少ない)ように思う。
 個人的なことだが、ぼくの父方の曽祖父(祖父の父。武士階層の出ではなく、維新後の職業も不詳だが、陶工だった可能性が濃厚)が明治初年に居住していた佐賀の本籍地には、150年後の現在でも子孫(祖父の長兄の末娘の子の未亡人)が住んでいるが(末子相続?)、父方のもう1人の曽祖父(祖母の父)は彦根藩の下級武士だったが、祖先が幕藩時代から住んでいて、維新後には曽祖父も住んでいたはずの本籍地の(土地および)住居はすでに人手に渡っているようだった。
 明治民法の家族法では、祖先から子孫へと未来永劫続くべき「家」(団体)が基本とされ、「家」に属する家族が居住する家屋や家族の生計を維持する田畑などは本来は「家」団体に属する財産(「家産」)だが、法形式上は戸主の個人財産とされた。現在では日本の全土地のうち、九州の総面積に匹敵する土地が所有者不明になっているというのだから、明治民法の時代に戸主が独断で(あるいは家族の了解のもとに)譲渡した土地や、150年のうちに誰も居住しなくなってしまった土地も少なくないだろう。
 マクファーレンのような手法で、明治・大正・昭和前期の日本の土地売買の社会史を記述した本はあるのだろうか。

 ブラクトン、メイン、ブラックストン、メイトランド、プラクネットその他、法律の世界でも名前の知れた学者も何人か登場する。中大出版部や東大出版会、創文社などから出ていた彼らの本(邦訳)の何冊かを持っていたが、退職の際にすべて後輩の研究者にあげてしまった。惜しいことをしたとも思うが、ぼくの手元にあったとしても大した役には立たなかっただろう。ぼくが死蔵してしまうよりも、後輩のほうが少しは役に立ててくれるだろうと思って諦めることにする。
 退職前には、定年後にどんな人生が待っていて、どんなことに関心を抱くか、自分自身でも分からなかった。

 2024年4月5日 記

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