連休頃から引いたり治ったり、また引き直したりの何度目かの風邪のせいで、昼夜逆転の生活。しかたなくラジオの深夜放送(+昼間の放送も)のご厄介になっている。
さいわい昨夜(今早朝というべきか)は、いつもはつまらないNHKの“ラジオ深夜便”で時間がつぶれた。
昨夜は、なぜかNHKの滋賀放送局からの放送で、いつものような抑揚のない台本棒読みの老アナウンサーの声ではなかった。そして、テーマも、いつものような素人の海外居住者がぼそぼそした声で語る冗漫でどうでもいい地元の話題ではなく、“琵琶湖周航の歌”の誕生にまつわるエピソードを紹介していた。
“琵琶湖周航歌”--正式には“琵琶湖周航の歌”というらしいが、ぼくはなぜか“琵琶湖周航歌”と覚えている--は、ぼくの好きな歌の1つで、職場のカラオケ仲間の1人である京大出身の先輩が一緒のときは必ず歌う歌である。
学生時代に、合宿先の宿屋の娘に恋をしながら、打ち明けることもなく別れていくというストーリーがいい。とくに、この先輩は60歳過ぎの現在まで独身なだけに、歌にも気持ちがこもっている。
その“琵琶湖周航の歌”が、京大ボート部の歌であることは有名だが、昨夜のラジオ深夜便によってその誕生の仔細を知ることができた。
語っていたのは元NHK滋賀支局のアナウンサーで、退職後に自分でこの歌のルーツを調べた人だった。すでに先達もあって、かなりのことは判明しており、この人自身の新発見がどの部分なのかは、よく分からなかったが、いずれにせよ、“琵琶湖周航の歌”の歌詞と曲の成立はわかった。
作詞者は小口太郎さんという。京都大学のボート部員(水上部といっていた)で、ほかにも多数の寮歌を作った人らしい。諏訪の出身で現在の諏訪清陵高校から三高に進学した。この歌を作ったのは21歳の時だったが、26歳で亡くなっており、諏訪湖を見下ろす丘の上にお墓があるという。
小口さんが作ったこの詩をきいたボート仲間が、当時知られていた“羊草”という曲に合うといって勝手に曲をつけてしまい、それが流通することになったのだが、小口さん自身はこの曲に不満で、親友あての葉書には、“寧良の都”のメロディーで歌いたいと書いてきたという。
“琵琶湖周航の歌”の曲については、これまで、“真白き富士の嶺”模倣説、イングランド民謡“羊草”(羊草とは睡蓮のことだという)流用説など、いくつかの説が流布していたそうだが、その後になって、吉田千秋さんという人の作曲した“羊草”という曲の楽譜が発見されて、これであると決着したようだ。
吉田さんの発見は、昨夜の語り手のラジオでの問い合わせがきっかけになったらしい。吉田さんは吉田東伍という新潟の在野歴史家の子孫で、その吉田東伍を研究する人がラジオを聞いていて、吉田東伍には「千秋」という子があることを知らせてくれたという。
吉田千秋は、府立四中から東京農大に進んだが、肺結核のために中退し、24歳で亡くなったという。そして偶然に彼も21歳の時にこの“羊草”を作曲している。
ラジオでは、“真白き富士の嶺”も“寧良の歌”もイングランド民謡の“羊草”もみんな流していたが、どの歌もどことなく曲調が似ている。しかし、現在流通している“琵琶湖周航の歌”のメロディーは間違いなく、吉田千秋さんの“羊草”である。
吉田さんという人も異能の人だったらしく、子どもの頃から個人雑誌を刊行して、方言の研究だの、(寝ぼけながらきいていたのではっきり記憶してないのだが)いろいろなことに関心を持っていた人だったらしい。
※ 吉田東伍さんは日本書紀の研究家としても業績を残した人らしい(坂本太郎ほか『日本書紀(5)』岩波文庫、1995年、611頁の解説を参照)。
番組の最後に、京都大学合唱団がアカペラで歌う正調“琵琶湖周航の歌”が流れたが、何箇所かぼくが聞き知ったのとは違う所があった。加藤登紀子の歌い方で覚えたのだろうか。
放送では語られていなかったが、小口さんも吉田さんも子孫を残すことなく世を去られた様子である。そうなると、ますます独身の我が先輩が歌う“琵琶湖周航の歌”とその悲恋には愛惜が感じられるだろう。
ちなみに、同じくぼくの同僚の韓国語の先生(韓国出身の女性)で大変に熱い先生がいるが、彼女は日本の歌の中で、“真白き富士の嶺”が一番好きだといっていた。とくに、“小さき腕に 力も尽き果て 呼ぶ名は父母”の所は涙なしには歌えないという。彼女のことだから、涙とともに歌うだろう。
* 写真は、歌ごえホール“炎”(京・四条河原町西)の歌集。奥付に昭和41年2月14日発行とあるから、ぼくが高校2年の修学旅行で京都に行ったときに入った歌声喫茶だろう。今もあるのだろうか。