豆豆先生の研究室

ぼくの気ままなnostalgic journeyです。

スタインベック「怒りの葡萄」

2025年02月27日 | 本と雑誌
 
 東京新聞2025年2月26日夕刊の「下山静香のおんがく ♫ X ブンガク ✑ 」欄で、スタインベックの「怒りの葡萄」を取り上げていた。
 執筆者は「ピアニスト、執筆家」という肩書で紹介されているが、以前にもサマセット・モームの「クリスマスの休暇」について、作品中に登場するイギリス人ピアニストがロシア系女性から「あなたにはロシアの曲は弾けない」と難詰される場面を中心に紹介していた。
 今回の「怒りの葡萄」も、オクラホマからカリフォルニアに移住してきた主人公ジョード一家が、わずかな安息を求めてハーモニカやフィドル(どんな楽器?)、ギターを弾きながら「チキン・リール」という曲に合わせて踊る場面を紹介している。「チキン・リール」はアメリカ人作曲家デイリーによるラグタイム調のピアノ曲だそうだ。

 ぼくは1964年10月11日に「怒りの葡萄」全3巻(大久保康雄訳、新潮文庫、昭和38年4月第14刷)を読み終えた。下巻のカバー裏にその旨の書き込みがある。1964年10月11日といえば、東京オリンピック開会式の翌日ではないか。開会式が土曜日だったから11日は日曜日、前日とはうって変わって東京は雨が降っていたはずである。
 日付に続けて「I think “East of Eden” is better than “The Grapes of Wrath” 」などと書き込んである。中学3年生の英作文であるが「エデンの東」への思い入れが最高潮だった時期がしのばれる。
 残念ながら、下山氏が書いている「チキン・リール」(どんな曲か?)を主人公のジョード一家が踊る場面の記憶はない。あの頃のぼくたち中学高校生にとっては、文化祭で踊る「オクラホマ・ミキサー」や「マイム・マイム」が女の子と手をつなぐ唯一の機会だったから、「怒りの葡萄」にそんな場面が登場したら記憶に残ったと思うのだが。ぼくの印象に強く残ったのは、シャロンのバラ(大久保訳ではそう呼んでいたが、最近の新訳ではローザンシャロンとか訳していた)が飢えで死期の迫った老人に乳を含ませる場面だった。
 というより、「怒りの葡萄」で一番印象に残っているのは実は内容ではなく、向井潤吉が描いたカバーの絵である。アメリカ西部の砂塵に煙ったルート66沿いの風景や、ジョード一家と家財一式を乗せた壊れかけのフォードのトラック、夢見てやって来たカリフォルニアの現実に失望するジョード一家の表情など、今でも瞼に浮かんでくる。主人公は明らかに映画「怒りの葡萄」で主人公を演じたヘンリー・フォンダの顔である(上の写真)。たしか新潮文庫版ヘミングウェイ「武器よさらば」の表紙カバーも向井潤吉だったと思う。あの頃以来、ぼくは向井潤吉の描く田舎の風景画が好きである。

 最近の小説をちっとも面白いと思えない(読んでもいないので面白いかどうかも分からないのだが、食指を動かされる題名や推薦文、内容を紹介する宣伝コピーにさえ出会えない)ぼくとしては、モームとスタインベックを登場させた下山さんに、この二人を取り上げただけでも共感を感じてしまうのである。

 2025年2月27日 記

 追記 書いていて思い出したのだが、ぼくが初めてスタインベックの名前を知ったのは、中学校の国語教科書(石森延男編だったと思う)に載っていた石森の随筆の中に、「赤い子馬」を読んでいる少女が登場して、「赤い子馬」は「スタインベックという人の作品よ」と語っている場面だった。

直井明「87分署のキャレラ エド・マクベインの世界」

2025年02月12日 | 本と雑誌
 
 きのう(2月11日)の東京新聞朝刊の死亡欄に直井明氏が2日に亡くなったという記事が出ていた。
 福島重雄弁護士(元札幌地裁判事)の死亡記事(享年94歳)と並んで載っていた。福島氏は、長沼ナイキ基地訴訟の裁判長として自衛隊を違憲とした判決内容だけでなく、裁判の過程で地裁所長が判決に介入したいわゆる「司法の危機」の当事者として有名である。

 ぼくは一時期エド・マクベインの「87分署」シリーズにはまっていた。「はまった」といっても、飽きっぽいぼくの場合はそのシリーズなり著者なりを10冊も読めば「はまった」ことになる。「87分署」シリーズも早川ポケットミステリとハヤカワ文庫で合計15冊くらい読んだだけである。その後、直井明「87分署のキャレラーーエド・マクベインの世界」(六興出版、1984年)という本を古本屋で見つけて買った。ただし、この著者ほどにはマクベインやキャレラ(主人公の刑事)自体には興味が湧かなかった。「87分署」の小説それ自体を読んで、ストーリーとその背景になったアイソラ(ニューヨーク)の雰囲気を味わうだけで十分だった。
 同書の表紙裏に、同じ直井氏の「87分署インタビュー エド・マクベインに聞く」、「87分署グラフィティ」「87分署シティー・クルーズ」(すべて六興出版)の新聞広告が挟んであった。本書の著者紹介によると、氏は1931年東京麻布の生まれ、東京外語大インド語学科卒業の商社マンで、本書執筆当時は商社(会社名はない)のヒューストン支店長、南達夫のペンネームでミステリ小説の受賞歴もあるとのこと。昨日の死亡記事によると、享年93歳、肩書は「海外ミステリー研究家」で、「本名非公表」となっている。記事によると、「87分署グラフィティ エド・マクベインの世界」で1989年に日本推理作家協会賞評論その他部門賞を受賞したとある。
 シャーロック・ホームズの「原典」を「研究」する「シャーロキアン」に倣うなら、氏はさながら「キャレリアン」とでも言えようか。  

 この本も断捨離候補の山積みにした本の中に積んであったが、もうしばらく置いておこうか。

 2025年2月12日 記

P・アコス他「現代史を支配する病人たち」

2025年02月01日 | 本と雑誌
 
 P・アコス、P・レンシュニック著/須加葉子訳「現代史を支配する病人たち」(新潮社、1978年)を読んだ。これも断捨離する前のお別れの読書。

 1950年生まれのぼくにとって、物心がついて最初に知った国際政治上の人物の名前は、マクミラン(イギリス)、アデナウアー(西ドイツ)、ドゴール(フランス)、フルシチョフ(ソ連)、アイゼンハワー(アメリカ)、毛沢東(中国)、ネール(インド)、ナセル(アラブ連邦)などなどだった。これらの人物が同時代の舞台に立った政治家だったのかどうかは自信がないが、ぼくの国際政治に関する記憶のデフォルトはこのような人物の名前とともにある。
 小学生の頃に、「為せば成る、為さねば成らぬ何事も、ナセルはアラブの大統領!」などという笑いがはやったこともあった。「山からころころコロンブス、それを取ろうとトルーマン」などというのもあったが、トルーマンが大統領だった時代の記憶はない。ネタ元は当時ぼくのご贔屓だった柳亭痴楽の「話し方教室」だったかもしれない。

 本書は1976年にフランスで出版されたものだが、著者の一人はジャーナリスト、もう一人は内科医師で、第2次大戦期から1970年代までの大物政治家たち27人の言動を病理学的というか病跡学的に分析したものである。
 登場人物は、ルーズベルトから始まって、アイゼンハワー、ケネディ、ニクソンらアメリカ大統領、ヒトラー、ムッソリーニ(サラザール、フランコも)らナチスト・ファシスト、彼らと対峙させられたチェンバレン、ダラディエ、チャーチルらヨーロッパの政治家、さらにアデナウアー、ド・ゴール、ポンピドーとつづき、東側のレーニン、スターリン、フルシチョフ、(間にイーデン・ナセルを挟んで)周恩来、毛沢東で結ばれる。
 懐かしい名前が続き、その表舞台での活動とその背後に潜んでいた病気の影響を暴いてゆくのだが、一番多かったのは高齢化、老衰による判断力や行動力の低下であって、高血圧だったとか軽い脳梗塞を起こしていたとう場合もあるが、必ずしも「病気」というほどではないものあるし、あえて「病気」というよりは本人の気質とか性格(のゆがみ)のような事例も少なくない。

 その一方で、やはり本人の病気が国際政治に大きな影響を及ぼしたと言わざるを得ない例も少なからず見受けられた。
 本書の冒頭の話題であるヤルタ会談当時のルーズベルトはアルヴァレス病を病んでおり、腹心のホプキンスは胃がんを患っており、ともに会談後相次いで亡くなっている。会談当時すでにスターリンを相手に、後に紛争地帯となる東ヨーロッパの帰属をめぐって外交交渉を展開する体力、気力は二人にはなかった。ルーズベルトの血圧が300/170だったこともあったという驚くべき記録も紹介されている(25頁)。
 若くて精悍な美青年というイメージで登場したケネディが、実は学生時代のフットボールの試合中に負った椎間板骨折による痛みに生涯悩まされつづけていたというエピソード、さらにアジソン病という腎疾患を患っており、常にコーチゾン(ステロイド剤?)を服用しなければならなかったという事実も知らなかった(55頁~)。著者によれば、ニクソンは強迫神経症で、ウォーターゲイト事件の特別検察官ハーヴァード大学コックス教授の追及によってニクソンは溶解した(74頁)。

 ヒトラーの書き出しは、1976年の驚くべき世論調査の数字の紹介から始まる。
 1976年当時アメリカの18~21歳の青年の92%は第1次大戦の認識を欠き、82%は1929年の経済恐慌に関心がなく、62%が真珠湾攻撃を、56%が朝鮮戦争を知らず、40%がケネディ暗殺を知らないというのだ(77頁)。ヒトラー主義の恐怖はもう人の心に浸透しないと著者は書いている(78頁)。そんなアメリカ社会であってみれば、マスクが極右政党を支持しハイル・ヒットラーのポーズをとったことに驚く我々はアメリカへの認識が欠如していたのかもしれない。
 そのヒトラーはヒステリー症で、潜在的同性愛を示す受動的、マゾヒスト的性格であり、近眼であることを隠すために一切眼鏡をかけず、特製の大きな文字のタイプライターを使っていた(80頁~)、さらに停留睾丸で、パーキンソン病の症状も現れていたという(92頁~)。ただし彼はイギリス、フランス政府が週末に休暇を取ることを知っていて、必ず土曜日に奇襲攻撃をかけたという。そのヒトラーと戦うフランス軍元帥のガムランは誇大妄想と矛盾が張り合う神経梅毒の患者であった(90頁~)。

 チャーチルの晩年は、まさに引き際を誤った老政治家の哀れな末路を象徴している。80歳にもなれば高齢化に伴う様々な不都合が生じるのは当然で、高血圧や高コレステロールの影響による「病気」の指摘よりも、高齢化による政治外交遂行能力の減退を考えるべきだろう。毛沢東の最晩年の記述などまさにその好例である。他方、周恩来のがん発症ように、外交遂行能力も十分な時期に政治生命とともに彼の生命を奪った病気は惜しんでも余りある。
 アデナウアー、ド・ゴール、フルシチョフ、ブレジネフその他の面々の「病気」エピソードは省略するが、忘れかけていた1970年代に至る国際政治の様々な事件や会議と、その舞台に登場した政治家たちのあれこれを思い出させる懐かしい読書になった。 
 本書は、公開された各政治家の自伝・伝記や医学雑誌の記事、報道等に依拠して記述されているが、著者は「結論」において、政治家の病気についてはヒポクラテスの誓い(医師は患者の病気を暴いてはならない)は適用されるべきではない、肉体的、精神的病人が最高権力を握るのを防止する点で民主的諸制度は極めて不十分であり、元首の心身の状況を調査することは全市民の正当防衛の権利であると主張する。
 今日から見ると病気や病人に関して適切を欠く記述も見受けられるが、著者の問題意識と指摘は現代でも重要なテーマである。
 
 巻末に訳者のあとがきがあり、翻訳をする者にとって有用な指摘が書いてある。
 訳者によれば、原文に正確という美名のもとに逐語的な正確さばかりを狙ったのでは日本語として読みにくい文章になってしまう。そこで訳者は、(1)原文の一語一語をその文脈の中で正確に把握する、正確な把握には一文全体、一段落全体、一章全体に及ぶ、言葉はフランス語自体、文章はフランス文自体として理解され、ニュアンス・リズム・感覚もフランス文化圏内でとらえる。(2)(1)で理解された文章からできるだけ忠実な日本文を想定する。(3)(2)の日本文を修正し、意味とニュアンスが最も原文に近くなるように一語一語を選択し直し、素直な日本文になるように再構成する、という。さらに、欧文に頻出する主格代名詞や所有形容詞は意味が通る限り省略する、逆に欧文の代名詞は固有名詞で言いかえて説明しないと意味が分からなくなる(ことが多いので固有名詞で言いかえる)などである。
 さすがに本書の訳文は意味の取れない箇所もなく、大変に読みやすい訳文であった。

 なお、裏表紙に1982年2月10日付朝日新聞の「政治家と病気」という記事が挟んであった。戦後日本の歴代首相の病歴を扱っているが、最大の謎は石橋湛山の病気(風邪!?)による首相辞任、その後の回復だろう。ぼくには毒を盛られたとしか思えない。石橋が病気、退陣していなければその後の日米関係は今とは違った形になっていただろうと思う。
 病気になっても辞めない政治家も迷惑だが、あまりに潔い(潔よすぎる)石橋も残念である。

 2025年2月1日 記

「民法(家族法)改正のポイントⅠ」

2025年01月31日 | 本と雑誌
 
 大村敦志・窪田充見編「「民法(家族法)改正のポイントⅠーー2018~2022年民法改正編」(有斐閣、2024年)を読んだ。 
 今年最初にして、しかも久しぶりの法律の専門書である。専門領域だからきちんと応対しなければならないのだが、ひとまず読んだことだけ書き込んでおく。

 本書は、近年の家族法領域における民法改正について解説する本であり、分担執筆の各論稿は基本的に今次の立法の経過と、改正内容の客観的な紹介が中心である。
 近時の改正のうちとくに関心のある実親子法および生殖医療関連法の箇所を中心に読んだ。ぼくは今次の実親子法改正の基本方向や改正の具体的な内容に賛同できない部分が少なくないので、本書の記述にも納得できない部分がある。
 ーーと書き始めてはみたものの、やはり論文を書くべきだろうと思いとどまった。
 
 以下では誤植(ではないかと思われる)箇所を指摘しておく。
 はしがきⅸページ、9行目 「法性」⇒「法制」(これは誤植)
 本文119ページ、6行目 「子C」⇒「C」(だろう)
  〃149ページ、下から9行目 「子と認知した者」⇒「子を認知した者」(ではないか)
  〃188ページ、6行目 「出産した子により生まれた子」⇒「出産した子」または「出産により生まれた子」(だろう。そうでないと意味不明だが)
 ※なぜか9行目と6行目が多い。96(苦労)が多い?

 2025年1月22日 記

ぼくの探偵小説遍歴・その8ーー余滴

2025年01月28日 | 本と雑誌
 
 (承前)ぼくが探偵小説や小説一般に飽きた原因の一つははっきりしている。

 勉強で家族法の判例を読むうちに、実際に起きた事件を扱った判例を読むほうが、下手な小説などよりはるかに面白いことを発見してしまったのだ。
 そもそもぼくは、大学時代の家族法の講義で先生が紹介した、田村五郎「家庭の裁判--親子」(日本評論社)を読んだのがきっかけで家族法に興味を持つようになった。しかも最初に読んだのが「水商売の女の貞操」という認知の訴えに関する章だった。

       

 その後、ぼくは平成5年頃から令和に至るまで、毎年家族法関係の判例のうち、公刊された判例集に登載されたものを全件読んで、判決の要旨を執筆して、関係条文の該当項目に配列し、検索の便宜のためのキーワードを抽出するという仕事をしてきた。毎年20件から60件程度の判例を2人で分担して執筆するのである。中には読み物としてはあまり面白くない事例もあるが、時には事実関係がきわめて興味深い事案に出会うことがある。
 事件の当事者には申し訳ないが、第三者として読むと(不謹慎と言われそうだが)やはり「面白い」事案が結構ある。あまり文才があるとは言えない裁判官の手によるものであっても、事実自体が大変に興味深く、下手な小説よりもよほど読ませるのである。
 おそらく、ぼくが小説をほとんど読まなくなってしまったのは、これが原因だと思う。

 ぼくは教師になって、1コマあたり90分の授業を年に25回するようになった際に、講義の一番役に立ったのは、中川善之助先生の講義や講演を活字化した本だった。中川さんは大正時代に東大を出て、戦後の民法家族法改正にも寄与された家族法の大家だが、座談の名手でもあった。学問のことだけでなく、家族に関する各地の風習・習俗から、日本各地の民謡や民話などについても造詣が深い方で、「民法風土記」(日本評論社、後に講談社学術文庫)という著書もある。
 私は一度だけ中川先生と酒席をご一緒させていただいたことがあった。九段坂上の「あや」という料亭だった。先生は仲居さんを捕まえて、「あなたはどこの出身か」「あの辺りでは今でも末っ子が相続しているのかね」などと、話の相手にああわせてご当地の話題を語って、座を和ませるのである。民謡を歌われたこともあったと聞いた。
 その中川先生の「家族法判例講義(上・下)」(日本評論社)や、「民法 活きている判例」(同)、「民法講話 夫婦・親子」(同)、「家族法読本」(有信堂)、などは、講義のテーマにまつわる様々な話題を提供してくれる。ある年の授業評価で、受講生が「先生の講義はどこまでが本論で、どこからが余談か分からない」とコメントを書いたことがあった。これはぼくにとって、ある意味で褒め言葉であった。ぼくは「余談」はするけれど、授業とまったく関係のない無駄話は(まったくしないわけではないが)あまりしない。講義のテーマを理解するうえで、学生たちの印象に残るような「サイド・ストーリー」を語ってきたつもりである。中川先生や田村先生の種本が面白かったこともあって、サイド・ストーリーのほうばかりが記憶に残ってしまったかもしれない。
 
 2024年5月25日 記

 ※ 書くことがないので、ほったらかしてあった古い草稿をそのまま載せた。

志賀直哉「小僧の神様 ほか」(集英社文庫)

2025年01月23日 | 本と雑誌
 
 志賀直哉は「小僧の神様」なども含めて、偕成社版「少年少女現代日本文学全集」の「志賀直哉名作集」(1963年)で読んだはずだが、冒頭の写真は、息子が子どもだった頃に買い与えた志賀直哉「清兵衛と瓢箪 小僧の神様」(集英社文庫、1992年)の表紙カバーである。
 2000年頃までは新潮、角川、小学館、集英社など各社が、毎年夏休み前になるとこぞって若者をターゲットに自社の文庫本から古典的な名作をピックアップした小冊子を配布するなど販売促進活動をしていたものだった。本書の表紙カバー見返しにも、「青春必読の1冊 集英社文庫ヤング・スタンダード」と称して、芥川「河童」「地獄変」から、漱石、鴎外、鏡花、宮沢賢治、川端、太宰、堀辰雄、梶井基次郎、中島敦らを経て、山川方夫「夏の葬列」、吉行淳之介「子供の領分」に至る40冊近い目録が載っている。しかし、いつの間にか若者は文庫本の販売対象ではなくなってしまったようだ。「笛吹けど踊らず」だったのだろう。
 この集英社文庫も、表紙カバーのイラストが若者向けなだけでなく、本文も活字が大きく行間も広くとってあり読みやすい印象を与えている。もちろん新仮名遣い、新字体で、ルビ、語注までついている。巻頭には著者の若いころの写真などを納めた口絵ページがあり、巻末には解説の他にも著者の経歴や作品を網羅した年譜などをつけて若い読者に配慮しているのだが。
 
 「小僧の神様」は、短編小説の名手として「小説の神様」といわれた志賀直哉中期の代表作だと解説はいう。
 話の最後に作者(志賀)自身が登場して、小僧が立て替えてもらった握り寿司の代金を払いに行ったら、そこにはお稲荷さんの祠があったとかいう結末にしようと思ったが、小僧が気の毒なのでやめたと書いていたことが、中学生の頃に偕成社版で読んだときには強く印象に残った。こんな風に作者自身が小説の中に顔を出す小説を読んだのは初めての経験だったのだろう。その後柴田錬三郎「うろつき夜太」や、最近になって読んだ永井荷風「濹東綺譚」、高見順「故旧忘れ得べき」などにも作者自身が登場する場面があったから、小説作法として特別なことではなかったのだ。
 集英社文庫版のもう一つの表題作である「清兵衛と瓢箪」は、かつて読んだときはあまり好い印象を残す小説ではなかった。幼い少年が骨董屋の店頭に置かれた一見何でもない瓢箪(ひょうたん)を気に入って購入するのだが、周囲の大人たちからは馬鹿にされる、しかしのちにその瓢箪に高値がつくといった内容だったと思う。そもそも瓢箪に価値があるなどという世界がぼくには当時も今も理解不能なので、そんな瓢箪に目利きかどうかなど主人公の少年の価値に何の関係もないではないか、という思いをぬぐえなかった。少年の審美眼を信じるというのも白樺派作家の「善意」なのだろうか。

      

 今回、「網走まで」「母の死と新しい母」「正義派」「范の犯罪」「城の崎にて」などを読んだ。ついでに旺文社文庫版「網走まで 他16編」(昭和43年、手元にあったのは昭和52年13刷。上の写真)で「沓掛にて」を読んだ。
 「沓掛」は現在の中軽井沢駅周辺の昭和30年ころまでの呼称である(沓掛時次郎!)。あのあたりの何が書いてあるのだろうと期待して読んだが、中身は芥川龍之介との思い出話で、彼の自殺を篠ノ井から沓掛に向かう信越線の車中で知ったという以外に「沓掛」はまったく登場しなかった。ぼくは志賀が「沓掛」で芥川と出会ったことがあり、そのときの思い出を回想するのだろうと期待したのだったが、期待外れだった。ただ、志賀の芥川に対する突き放したような見方が印象的だった。志賀が芥川を都会人、自分を田舎者と見ていたことも意外だった。
 「城の崎にて」も城の崎のことはほとんど描かれていないし、「網走まで」も青森行きの列車で同席した母子が(どんな理由があってか)網走に向かっているというだけだった。小説の題名に地名をつけた志賀の真意が分からないが、「沓掛」「城の崎」「網走」に何か含意があったのだろうか。「沓掛にて」のテーマは芥川の死だが、彼の死に「沓掛」が係わりがあったと志賀は考えたのか。「城の崎にて」もテーマは「死」それ自体だが、誰かの死が城の崎に係わりでもあったのだろうか。「網走まで」は、ひょっとすると母親の夫は受刑者で母子は刑務所に面会にでも行く途中だったのだろうか。
 
 今回読んだ志賀の小説の中で一番ぼくの印象に残ったのは「范の犯罪」である。偕成社版に入っていたかは覚えていないが、旺文社文庫には入っていた。編集者時代に、誰だったか法律家の随筆で「范の犯罪」に触れたものを読んだことがあった。
 主人公は中国人の奇術師夫婦である。夫(范)が戸板の前に直立させた妻に向かってナイフを投げるという芸当を見せるのだが(ウィリアム・テル!)、ある時夫の投げたナイフが妻の喉にあたって妻は死んでしまう。裁判になり、夫に殺意があったか否かが争点になる。実は結婚直後に、妻が結婚前に交際のあった男との間の子を産んだため(死産だったが)、夫婦は結婚直後から不仲となり、夫はその事実を受け入れようとキリスト教の洗礼まで受けるが、心の安らぎを得られないでいたということを夫自身が告白する。殺意があったのかどうか、夫は自分自身でも分からないと告白する。
 最後に裁判官が「無罪」と心証を得るところで話は終わるが、たとえ殺人で無罪だとしても、(重)過失致死罪の責任は免れないだろう。
 その結論の当否よりも、「范の犯罪」では妻の不貞(この小説では結婚前のことだが)に対する主人公(=志賀)のこだわりが印象的である。「暗夜行路」はもっと直截に妻の不貞による出産という自分の出生の秘密(への疑惑)がテーマになっていた。
 小津安二郎の映画に対する志賀直哉「暗夜行路」の影響は何人も指摘しているが(浜野保樹「小津安二郎」岩波新書ほか)、小津「風の中の牝鶏」の夫(佐野周二)の煩悶などは、「暗夜行路」というよりむしろ「范の犯罪」の影響の方が強いのではないか。最近読んだ佐古純一郎「家からの解放」(春秋社)では、そもそも「暗夜行路」の主人公時任健作が抱いた父子関係への疑念の脆弱さが厳しく批判されていたが。

 集英社文庫版の最後のページには、「2002年8月27日(火)」という日付と下の息子のサインがあった。日付からして、夏休みの宿題の読書感想文を書かせるために読ませたのかもしれないが、小学校6年、12歳の息子には「范の犯罪」や「正義派」は無理だろう。「『小僧の神様』を読んでごらん」とちゃんと読書指導をしたうえで読ませただろうか。太宰治「新樹の言葉」のような感想は書いてなかった。

 2025年1月23日 記
 

丹羽文雄「小説作法」(角川文庫版)

2025年01月11日 | 本と雑誌
 
 持っているはずなのに見つからなかった丹羽文雄「小説作法」(角川文庫、昭和40年、手元にあるのは昭和52年第12版)を本棚で見つけた。
 志賀直哉の「小僧の神様」なら小学生が読んでも面白いかもしれないと思って、志賀「網走まで 他16編」(旺文社文庫、昭和52年)を本棚から取り出そうとしたら、その数冊隣りに、何と!探していた時には見つからなかった丹羽「小説作法」が並んでいるではないか。
 ぼくの記憶通りにカバーのかかった角川文庫版であった(上の写真)。しかも、図書館で借りてきた講談社文芸文庫版には入っていなかった「小説作法・実践編」という続編も合本となって収められていた。

 さらに驚いたことに、途中で投げ出したと思っていたのだが、「正編」だけでなく「続編」=「実践編」までちゃんと読み通したようで、青インクのペンで傍線まで随所に引いてある。読まなかったのは「正編」の実作例として掲載された「女靴」と「媒体」という小説だけだった。しかも、読んだ時期と動機も記憶違いだった。
 ぼくは、庄司薫「赤頭巾ちゃん気をつけて」やサリンジャー「ライ麦畑でつかまえて」のような青春小説を書きたいと思って、20歳前後の頃にこの本を読んだように記憶していたが、「1977年11月9日に読了」とメモがある。27歳の時に読んだのだった。さらに、最終ページには「日経・経済小説懸賞募集」の広告が切り抜いて挟んであった。「経済・ビジネスに題材を求めた長編で、400字詰め原稿用紙350枚~500枚、選考委員は江藤淳、尾崎秀樹、城山三郎、新田次郎、山田智彦の各氏、当選賞金300万円、佳作2作各50万円」とある。
 27歳といえば社会人3年目で、サラリーマン生活最初の危機の渦中にあったころである。世間知らずだったぼくが大学を出て初めて経験した「サラリーマン生活」の日々を書こうと思ったのだった。自分を松山中学校の「坊っちゃん」に見立てて、悪戦苦闘の末に最後は赤シャツ連合に敗北して会社を辞めて故郷に帰るというストーリーを考えていたのだった。当時のぼくは笹川巌「怠け者の思想」(PHP)に表れたサラリーマン像に共感していて、それが主人公の造形にも影響したように思っていたが、調べると笹川の本は1980年発行だったからここでも記憶の捏造があったようだ。あるいは1980年代に入ってからも未完の小説を書きつづけていたのかもしれない。
 丹羽「小説作法」(角川文庫版)で、傍線を引いてあったのは以下のような箇所である(要約して引用した個所もある)。

 「私は説明という形式を極端なくらいに避ける。説明の部分が多いととかく低調になりやすい」(25頁)、「作者はつねに、どんな人間に対しても貪婪なくらいの好奇心と愛情をもっていなければならない」(28頁、嫌な奴でも愛情をもって観察するなどということは当時の(今でも)ぼくには無理だった)、「誰からもどこからも非難されないような立派な主人公は嘘である。そんな主人公に出会えば、読者は退屈をしてしまう」(35頁)、「作中人物が正義感にあふれて言動するのはいいのだが、作者までがそれと一緒になって正義感をふりまわすのは間違いであ(る)、たとえ主人公が作者であろうと、小説である以上は、別の存在でなければならない」(86頁)などの助言は、出版社で正義漢のつもりで暴れる主人公を想定していた当時のぼくにはきわめて適切な助言だっただろう。小説は書けなかったけれど、当時の現実社会(会社)で自分の行動を客観視する指針として役に立ったはずである。
 「作者には自ずと限界がある、大切なことは、作者は己のよく知っている範囲内で小説を書くということである」(42頁)、「テーマはしっかりしたもの、自分の身についたものを探したほうがよい」(54頁)、「小説を書きはじめる人が、筋をどの程度に決めてかかるかと迷うのは当然である。いくつかの章に大別してかかれば安心出来る。この章には何枚ぐらい、という風に計画を立てる。書出し、発展の過程、結びと大別してかかれば、便利であろう」(67頁)、「事件または行為、人物、背景の三つが小説の三要素である。人物(には)自分のよく知っている人間をモデルに借りる」(88~9頁)、自然描写も自分の知っている場所を選ぶべきであり、丹羽は三鷹(武蔵野市西窪?)に住んでいたので熟知している三鷹駅周辺や(国木田独歩のではない)昭和戦後期の武蔵野の風景をよく登場させたという。
 小説における「時間の経過」についての助言や(131頁)、小説の中の「会話」は日常生活の会話とは異なることの注意もあった。「正編」の最後では、「自分のことを書き給え、自伝を書き給え、この素材はどんな素材よりも秀れている、先ず自分のことから書くべきである。自分のことが書けないような作家は、一人まえの小説家とは言えない」と助言し、しかし「自分のことを書くのには勇気がいる」と忠告する(180頁)。

 当時のぼくが自分のサラリーマン生活を書こうとしたのは、丹羽の指南に従えばテーマ設定として正解だったけれど、主人公と作者自身を分離して、正義感を振りかざす主人公を客観的に観察して叙述するといった芸当は当時のぼくにはできなかった。
 結局ぼくは構想した小説を書きあげることはできず、その後転職の決断もできないまま 9年間も編集者稼業をつづけた挙句に、在職10年目の4月末に出版社を退職し、紆余曲折を経た後に教師になった。今では、教師こそぼくにとっての天職だったと思っている。もし本気で小説家などを目ざしていたら、その後の自分はどうなっていただろうと考えただけでも恐ろしい(昔の人なら「くわばら、くわばら」と胸をなでおろすだろう)。
 ちなみに、丹羽「小説作法」の中には、「井伏鱒二の初期の自然描写は心にくいほど巧みであった。自然描写の名手は、その後あらわれていない」(90頁)という指摘もあった。初期の井伏とは「ジョン万次郎」あたりだろうか、今度読む時にはその自然描写にも気をつけて読んでみよう。「作者は読者の参加という問題に敏感でなくてはならない、読者は小説を補充してくれるものである」という忠告もあった。モームの小説でさえ、もっと読者を信じて、こんな描写や説明は省略すればよかったのにと思ったことがある(「凧」や「魔術師」などだったか)。

 2025年1月10日 記

シートン「シートン動物記・1」

2025年01月10日 | 本と雑誌
 
 今年になって一番最初に読んだ本は、実は井伏鱒二「本日休診」ではなく、「シートン動物記」だった。アーネスト=トムソン・シートン/阿部知二訳「シートン動物記・1」(講談社青い鳥文庫、1985年)を散歩の道すがら通りかかった駅前踏切脇の古本屋で見かけて買ってきた。店頭の100~200円コーナーに置いてあったが、天地、小口の磨き処理は完璧で、本文ページに読み癖もなく、表紙カバーの汚れや皺も一つもなく新品同様だった。Amazon なら「非常に良い」だろう。
 別出版社から出た3種類の「シートン動物記」が並んでいたが、若いころから阿部知二や中野好夫の翻訳で英米の小説に馴染んできたので、阿部訳のものを選んだ。挿し絵も子供っぽくなくてよかった。※シートンの名前 “Thompson” の日本語表記は「トムソン」だろうが、講談社青い鳥文庫版以外のほとんどが「トンプソン」と表記している。

 小学校高学年になった孫に読んでもらいたいと思って買ったのだが、ぼくは「シートン動物記」には苦い思い出がある。
 小学生だったぼくが本を読まないことを心配した父親が、読んでみなさいと言って「シートン動物記」をぼくに渡したのである。自分が子供の頃に読んで面白かったと言うのだが、渡された本は父親が子どもだった大正時代に刊行されたかび臭い「動物記」だった。ーーと記憶していたが、調べてみると「シートン動物記」の本邦初訳は1937年だから刊行から20年くらいしかたっていなかったことが判明した。父親の子供時代の本ではなかったようだが、ネット上の写真を見ると表紙や函の装幀はいかにも古めかしい。もともと本嫌いだったぼくは、読む以前にその古色蒼然とした本自体に拒否反応を起こしてしまい、結局「シートン動物記」は読まなかった。それ以来「シートン動物記」と聞いただけでかび臭さの記憶が蘇ってくるようになってしまった。
 しかし、一般には「シートン動物記」は小学生向けの推薦図書に必ず入っているし、この本を自身の思い出の本として紹介する人は少なくない。しかも、ここ数年クマやイノシシが人里に出没して農作物や人身の被害が発生する事件が頻発しており、人間と野生動物の関係は現代的なテーマでもある。1860年代の北アメリアが舞台だとしても動物文学の古典として読んでおいて損はないだろう。
 ただ、孫が小学2年生の時に、夏休みの推薦図書にあがっていた「山の頂上の木のてっぺん」(書名は不詳)だったかという本をプレゼントしたところ、主人公の少年が可愛がってきた飼い犬が死んでしまうというストーリーだったため、心優しい孫の心にトラウマを残してしまったらしい。「シートン動物記」の代表作である「オオカミ王ロボ」も、ラストはオオカミ王が死んでしまう話である。心配だったので、まずぼくが読んでみてから渡すことにした。そして読んだところ、「山の頂上~」ほど感傷的ではなかったので大丈夫だろうと判断した。

 先日の新聞で、1年間に1冊も本を読まない子が60%を超えたという記事を見た。元出版社員で、元教師であるぼくには信じがたい話だが、そういう現実なのだろう。せめて子どもや孫には本を読んでもらいたい。しかし、子どもを本好きにするのは難しい。
 子ども時代のぼく自身が漫画は大いに読んだ(?)が、活字(だけ)の本にはなかなかなじめなかった。親に渡されたのが古い「シートン動物記」だったり、いまだに忘れられないのだが、「シートン」に前後して母親から「ながいながいペンギンのお話」というのと「スケートをはいた馬」というのを与えられた。しかしこの2冊も、当時のぼくの琴線にふれることはなかった。毎月購読していた雑誌「少年」や、創刊間もない「週刊少年サンデー」、貸本屋の漫画読み物「褐色の弾丸 房錦物語」などに熱中する「子ども」だったのだから。
 子ども時代の読書ということでは、親から毎年「少年朝日年鑑」という子供用の年鑑を買ってもらっていたのだが、これはちょこちょこと読んでいた。記憶にあるのは、「クロード・岡本」という当時天才少年画家と騒がれた子供のことを紹介した記事と(その後どうなったのだろうか)、(埼玉県)行田市(当時は町か村だったかも)皿尾部落の4H運動の記事である。4Hクラブ運動というのは戦後になっても因習的な農村地域を青年たちの手で民主化する運動だが、4H運動のことが小学校の教科書に出てきた際に、自慢げに「少年朝日年鑑」で知っていた知識をひけらかしたため教室内で浮いてしまった苦い思い出がある。小説の面白さを発見することはできなかったけれど、年鑑の2、3頁の記事を70歳を過ぎた今でも覚えているくらいだから、「少年朝日年鑑」は何らかのインパクトを当時のぼくに与えたのだろう。

 ぼくが小説を好きになったのは、遅まきながら中学2年の国語教科書(光村図書)に載っていた芥川の「魔術」を読んだことがきっかけだった。それ以前にも岩波少年文庫でリンドグレーン「カッレ君の冒険」、ケストナー「名探偵エミール」、ドラ・ド・ヨング「あらしの前」「あらしの後」などは読んでいたが、「魔術」のインパクトは今も鮮明に記憶にある。
 当時国語の担当だった明田川先生という女の先生が、ぼくの作文をいつも褒めてくれて、卒業の時には「東京オリンピックの思い出」という作文を卒業文集に載せてくれたりもした(ぼくの活字印刷デビュー作である)。ぼくが国語を好きになり小説を読むようになったのは、おそらくその先生の指導のおかげだったのだと思う。植物の成長と同じで、人もしかるべき時期が到来して、しかるべき本と出会うことがなければ、本を好きになることはできないのである。少なくとも、ぼくにとっての「ながいながい~」や「スケートを~」のように、子どもを本嫌いにさせるくらいなら、無理に本など読ませないほうがよい。
 「シートン動物記・1」は、孫に渡す時期を見はからうためにぼくの机の上に置いておいたところ、遊びに来た下の孫娘が見つけて「読む」と言って持って行ってしまった。テレビの医療ドラマや、動物ドクターの番組などを熱心に見る子だから興味をもって読んでくれるかもしれない。

 2025年1月9日 記

 息子たちが子どもだった時に買ってやった読み物は、息子たちの独立後もわが家に置いたままになっているが、下の息子はぼくが与えた芥川龍之介や太宰治を読んだようで、読み終わった日付だけでなく、太宰「走れメロス」(これも講談社青い鳥文庫)の裏扉には「“新樹の言葉” が良かった」と書き込みがしてあった。ぼくも読んでみたが、甲府時代の太宰の穏やかな心境が感じられるよい話だった。「井伏先生」も登場したのではなかったか。井伏文学の雰囲気も漂っていた。
 子どもだった頃の息子が「新樹の言葉」に出会ったように、孫たちも何かに出会ってくれるといいのだが、時機を待つしかない。

井伏鱒二「本日休診」

2025年01月08日 | 本と雑誌
 
 井伏鱒二「本日休診」を読んだ。井伏鱒二「ジョン万次郎漂流記・本日休診」(角川文庫、1979年)に収録された中編。昭和29年の「別冊文藝春秋」に連載されたという。
 手元にある本は平成9年(1997年)第20版とあるから、買った目的は息子たちの中学受験のためではなく、自分で読むためだったのだろう。「ジョン万次郎漂流記」は子どもの頃に講談社の絵本で読んだ記憶がある。
 実は昨年末に、亡父がお世話になったことがある近所の開業医の診療所のドアに「本年末をもって閉院する」旨の掲示が貼ってあるのを目にしたのがきっかけで、ふと井伏の「本日休診」を思い出して読んでみたのだが、面白かった。

 「本日休診」の主人公は、実質的な医業は甥に任せて名義だけ病院「顧問」となっている老産科医である。名義だけのつもりだったのが、実際には頻繁に急患対応や往診をせざるを得ないことになる老開業医の日常が井伏一流のゆったりとした筆致で描かれる。いまだ敗戦の傷跡が色濃く残る当時の大阪の開業医の生活と診療の実態を委細にわたって知ることができる。いわゆる「ビル診」(ビルの1室を診療所として時間外の診療や往診は一切行わないような診療形態)が一般化した昨今の日本の開業医からは信じられないであろう多忙な日常生活である。
 深夜の急患に対応してウィスキーを4、5杯あおって眠りについた途端にまた呼び鈴を鳴らす者があってふたたび出産介助にでかけるなど、今日では危ない場面もある。登場する患者たちはみな貧しい庶民であり、医療保険の国民皆保険化が実現する数年前のこともあって、医療費の未払いや踏み倒しが日常的だった様子も描かれる。 

 井伏には、産科医療の実情を教えてくれるインフォーマントの産科医師がいたのだろう。梅毒の治療(内診)から、自宅出産、帝王切開、用手剥離(後産の胎盤を剥離する方法の一つで、福島県立大野病院事件でも議論になった手技である)、穿顱術(「せんろじゅつ」とルビがあり、文脈からすると胎児を堕胎ないし分娩死させる方法の一つのようである。知合いの産科医が「穿頭術」といっていた方法だろうか。135~7頁)、はては刺青の消去手術まで、それぞれの手法から用いる薬品名などが細かく記述される。

 医学部の教師だった頃は、新入生にクローニンなどを紹介したが(学生たちが読んでくれた気配はなかったが)、井伏「本日休診」は、大阪が舞台で、しかも産科医療の詳細な記述がある医療小説であり、医師を目ざす医学部生や医事法研究者にとってもおすすめの小説だと思う。ちなみに、わが日本の医事法学の出発点となったのは、同じ大阪の開業医の往診、診療、転院措置が適切だったかどうかという問題だったが(唄孝一「死ひとつ」信山社)、この小説は当時の大阪の開業医の日々の多忙さを窺うことができる点で、医療者側にとって有力な援軍(不可抗力という抗弁)となりうる内容であった。
 そんなことは措くとしても、主人公である老医師の言動の中に井伏の庶民に対する温かいまなざしが感じられる好読物であった。

 2024年1月8日 記

丹羽文雄「小説作法」

2024年12月31日 | 本と雑誌
 
 丹羽文雄「小説作法」(講談社文芸文庫、2017年)を読んだ。

 巻末の編集部の註釈を見ると、最初の単行本「小説作法」(文藝春秋社、1954年)「を基に」その後の角川文庫版や「私の小説作法」(潮出版社)、丹羽文雄全集などを参考にしたとある。
 ぼくは若いころに角川文庫版の「小説作法」を買って持っていたはずなのだが、読まずに放置しているうちに失くしてしまった。今回図書館で借りてきて眺めると、小説の書き方指南の模範例として示された実作が「女靴」という題名だった。この題名が昔のぼくの読む気を削いだ気がする。
 会社の部下の女性と社員旅行の旅先で関係を持ち愛人関係になった(妻子持ちの)男が、海外出張先から赤い女靴を愛人と妻各々に送るのだが、取り違えて妻のサイズの靴を愛人に、愛人の靴を妻に送ってしまう。その後愛人も妻も銀座だったかのホステスになり偶然両者が出会ってしまう、という筋の小説である。
 当時のぼくが書きたかったのは、庄司薫「赤頭巾ちゃん気をつけて」というか、サリンジャー「ライ麦畑で捕まえて」のような青春小説である。ところが丹羽の「小説作法」には、若手の初心者が書く恋愛小説や青春小説の批判が何か所か出てくる。こんな(失礼!)「女靴」などという小説を例にとった「小説作法」など、読んだとこところで何の役にも立たないと決めつけて早々に見切りをつけてしまったのだろう。

 今読んでみると、「テーマ」「プロット」「人物描写」「描写と説明」「リアリティ」「時間の処理」「書き出しと結び」「題名のつけ方」など、興味深い見出しが続いていて、当時読んでいたらきっと役に立っただろうと思うが、「時すでに遅し」である。
 結局ぼくは、いくつか書き出してはみたものの何一つ形のある物を仕上げることはできなかった。「小説作法」など気にしないで、当時の思いのたけを自分流の文章で書きとめておけばよかったと残念に思うけれど・・・。
 丹羽の「小説作法」は、一定の修業を積んだ小説家志望者が、一定レベルの作品を継続的に書きつづけ「文壇」で生き延びるための方法を指南した書のように読めた。

 2024年は、川本三郎さんの講演会を機に、川本さんの(永井荷風に関する)評論から始まって、永井荷風の「断腸亭日乗」(抄録)や「濹東綺譚」、佐藤春夫の「小説永井荷風伝」や、半藤一利、吉野俊彦の荷風論を読んだが、だんだん荷風に対する好意的とは言えない評価に共感を感ずるようになっていった。ぼくが読んだ中では紀田順一郎「日記の虚実」が最も厳しく荷風「日乗」を批判していた。愛弟子であった佐藤の指摘する荷風の二面性(都会育ちの礼儀正しく律儀な人間 vs 厳父の桎梏から逃れようとする反抗的な人間)というのが妥当な評価か。

 さらに平野謙「昭和文学私論」、尾崎一雄「あの日この日」、高見順「昭和文学盛衰史」などで、昭和文壇の人間模様に興味を持った(これらには荷風は全く登場しない)。昭和文学史の登場人物である高見「故旧忘れ得べき」、石坂洋次郎「麦死なず」、丹羽文雄「鮎」、里見弴「十年」などの実作も読んでみることになった。そして丹羽「小説作法」で2024年を終えることになった。
 この間驚いたことは、これらの昭和の作家の作品が新刊書店の店頭からはすっかり消えてしまっていることであった。夏目漱石、森鴎外、芥川龍之介、菊池寛、志賀直哉、堀辰雄、川端康成・・・などなどの作品は近所の書店の書棚(もちろん文庫本の棚)には一冊も置かれていないのである。いつからそんなことになっていたのか。
 わずかに岩波や偕成社などの少年文庫の棚に、漱石「坊っちゃん」、芥川「杜子春」、太宰治「走れメロス」、宮沢賢治「銀河鉄道の夜」、壷井栄「二十四の瞳」、井上靖「しろばんば」などが散見されるだけである。
 雪は降らねど、昭和も遠くなりにけり、である。

 

 よもや2024年が丹羽文雄を読んで終わるとは、2024年の初頭には思ってもいなかった展開である。
 NHKテレビBS放送で「エディット・ピアフーー愛の讃歌」を見ながら今年最後の書き込みである。
 皆さん、良いお年をお迎えください。

 2024年12月31日 記

 追記 と書いておきながら、12月31日の地上波のテレビ番組があまりにもつまらないので、「エディット・ピアフ」に続けて、BSでやっていたクリント・イーストウッドの「夕陽のガンマン」を見てしまった。「夕陽のガンマン」が2024年最後の映画とは情けないとも思ったが、地上波のテレビがいかにつまらなくなったかを示す意味で2024年最後に見た映画が「夕陽のガンマン」(何年前の映画か?)だったといのも象徴的かもしれない。
 年末にテレビでやっていた羽鳥慎一と小倉智昭の対談で(これは地上波のテレビ番組だった)、「最近のテレビ、情報番組をどう思いますか」という羽鳥の問いに対して、小倉は一言「つまらないね」と答えていた。権力者の圧力に屈して「忖度」だらけの番組になってしまったという趣旨だった。(2025年1月4日 追記)
 

丹羽文雄「ひと我を非情の作家と呼ぶ」

2024年12月19日 | 本と雑誌
 
 丹羽文雄「ひと我を非情の作家と呼ぶーー親鸞への道」(光文社、1984年、昭和59年)を読んだ。初出は月刊「宝石」昭和58年8月号~59年10月号の連載で、単行本のあとがきは「1984年夏 軽井沢山荘にて」とある。
 昭和40、50年代の夏の軽井沢では、朝の中軽井沢駅改札口で遠藤周作、芥川也寸志を見かけ、夕暮れ時の中軽井沢駅ホームに停車するあさま号の車中で壷井栄、繁治夫妻を見かけたことは以前に書いた。ところが本書のあとがきを見て、旧軽井沢の中華料理 “栄林” で丹羽文雄を見かけたような記憶がよみがえってきた。「あれ丹羽文雄じゃない?」と小声で母が言ったことがあったような気がする。中学生か高校生だった当時のぼくにとって丹羽は無縁の作家だったので印象に残らなかったのだが。

 丹羽はデビュー作「鮎」以来、実母が旅芸人と出奔したことや、その原因となった実父(丹羽の祖父母の養子になった)と養母(丹羽の祖母)との不倫関係、丹羽の言葉では「生家の庫裡でくりかえされた愛欲地獄の絵巻」(241頁)を書きつづけた。このことを多くの人が批判したようだが、丹羽は小説を書くことは自分の「業」であり書かずにはいられなかったという。そして、自分が「煩悩具足の凡人」であり、「無慚無愧(むざんむぎ)の極悪人」であることを自覚した親鸞の「歎異抄」に救いの道を見出したのだった。
 ーーという要約に自信はない。丹羽は親鸞の教えを信じることができた人のようだが、信仰に無縁のぼくには理解できない心境である。もしぼくに何らかの信仰があるとするなら、それは祖先の霊に対する「信心」だけである。祖先だけはぼくたち子孫を見守ってくれるような気がする。穂積陳重「日本は祖先教の国なり」の祖先教である。

 とくに本書では、実母の出奔の原因が実父と祖母との関係にあったことを知らないまま、実母を恨みつづけてアメリカに逃避した姉に事実を知ってもらいたいと思って執筆した「菩提樹」という小説を読んだ姉の苦しみが記されている。晩年に来日した姉は(おそらく読んだと思われる)この小説について一言も触れることなく、丹羽との軽井沢での再会も一日で切り上げて四日市の生家に去って行ったという。
 ぼくは「鮎」を読んで「オイディプス」的雰囲気を感じたと書いたが、本書によれば、「鮎」の中で丹羽は、幼少期以来自分がまったく経験することができなかった家族の「団欒」を思い描いて実母との架空の会話を書いたのであって(20頁)、「近親相姦を思わせるようなことを書いたわけでもなかった」と書いている(27頁)。このような弁明が書かれたということは、おそらく発表当時そのように読んだ者もいたということだろう。令和になって読んだぼくも「オイディプス的」と婉曲に書いたが、そのような読後感をもった。

 丹羽は「生母もの」と「マダムもの」が二本柱の作家と言われたそうだ。
 その「マダムもの」の原体験になったのが、早稲田の学生時代の下宿屋の娘との関係だった。友人の下宿の窓から見染めた向かいの下宿の娘に手招きすると、その女性は丹羽の指示に従って路地に出てくる。二人で鬼子母神の縁日を歩き、そのまま丹羽の下宿に戻って関係を持つ。丹羽の男前の写真(本書の口絵ページに若き日の丹羽と老齢になった生母の写真が載っている)を見なければ俄かには信じがたい展開である。
 家族を支えるために会社勤めをしていた彼女と丹羽は丹羽の実家の寺で祝言まで上げるが、女は東京に戻り二人は別居生活を送る。大学を卒業した丹羽は四日市の実家に戻って僧侶の仕事を手伝うが、「鮎」の発表を契機に実家から家出して上京する。再上京した丹羽は彼女が借りた部屋で半同棲のような生活をするが、彼女は丹羽をも養うために銀座のバーのマダムになる。ある時丹羽は、彼女の机の中に47人の男の名前の書かれたノートを発見する。その中には丹羽のことを忌み嫌っていた武田麟太郎の名前まであった。売春もしていたのか、丹羽は性病を罹患する。

 結局 4年後に丹羽は別の女性と結婚してこの女と別れることになる。生母に対してはその行状を暴きながらも最後には愛情を示すのだが、この「糟糠の妻」ともいうべき女性に対する丹羽の筆は冷淡である。家族の醜聞を小説に書いたことよりも、この女性に対する態度のほうが、親鸞による救いが必要なようにぼくには思えた。丹羽はやはり「非情」の作家である。
 ただしこの女性には、小津安二郎の「東京の女」だったかに出てきた岡田嘉子のような、一人でも生きていく戦前昭和の女の毅然とした風格を感じた。本書で彼女との出会いを描いた章は「東京の女」と題されている(48頁)。

 2024年12月19日 記

石坂洋次郎「麦死なず」

2024年12月14日 | 本と雑誌
 
 石坂洋次郎「麦死なず」(新潮文庫、1956年、初出は昭和11年)を読んだ。
 これも、高見順「昭和文学盛衰史」で興味を持った本である。あの「青い山脈」や「若い人」の石坂洋次郎がかつてはプロレタリア作家だったということにまず驚いた。そんな彼のデビュー作である「麦死なず」というのはどんな内容だろうか。
 「麦死なず」は昭和11年(1936年)に改造社の編集者だった上林暁の英断によって「文藝」8月号に480枚一挙に掲載されたという(福田宏年解説279頁)。この頃石坂は同時に「若い人」を「三田文学」に連載執筆しており、秋田県横手で学校教師をしながら作家を目指していた石坂はこの2作の好評によって上京し、職業作家になった。
 「麦死なず」という題名から、火野葦平「麦と兵隊」のような従軍作家ものかと思ったら、題名の「麦」は兵隊の象徴ではなく、「一粒の麦もし死なずば・・・」という聖書が出典だった。横手の教師石坂自身が「麦」だったのだ。

 この小説も、高見順「故旧忘れ得べき」や丹羽文雄「鮎」などと同じく、石坂の身辺で実際に起きた事件を素材にしている。
 「麦死なず」の主人公は青森で学校教師をしながらプロレタリア小説を書いていたが、共産主義に共鳴する同志の女性と結婚する。妻は子を3人もうけるが、教師としての日常生活に埋没している夫に飽き足らず、夫を捨てて地域の左翼運動の指導者であり作家としても注目され始めていた男と駆け落ちしてしまう。夫は、左翼思想の深さでも作家としての能力でも相手の男よりも劣っていると自分を卑下して悩む。
 しかし結局妻は帰宅して主人公とよりを戻し、駆け落ちした相手の男もその後検挙されて転向したことを主人公は知ることになる。主人公は自信を回復するというか、コンプレックスから解放される。
 解説によると、「麦死なず」の内容がほとんど石坂の私生活で実際に起こった事実であったことを、妻の死後に石坂自身が随筆で告白しているという。高見順も丹羽文雄も石坂も、みんな身を切る思いで小説を書いていたのだ。この3人の中では石坂が一番「風俗小説」的な文体であった。なお福田解説によると、石坂が一貫して追求したテーマが「性」だったとある。「麦死なず」では、時代の制約か「性」ではなく「愛欲」と表現していた。
 戦後のぼくたちの世代では、学習雑誌「高校時代」(旺文社)や「高校コース」(学研)が時おり「若者の性」や「18歳の性」などを特集していた。小学館から出ていた「中学生の友」の終刊号はまさに「性」特集だった。あれらの雑誌に小説を載せていた富島健夫は石坂の弟子だったか・・・。
 ※ネットで調べると、何と富島は丹羽が全額を出資して創刊した「文学者」の同人だったというから、丹羽文雄の孫弟子だった。

 石坂の小説はこれまで一つも読んだことがなかった。読む気も起らなかった。ハーレクインか、最近のライトノベル程度かと思っていたが、その石坂にこんな修業時代の苦悩があったとは知らなかった。
 原節子主演の「青い山脈」は映画(DVD)で見たが、「若い人」は映画すら見たことがなかった。調べるてみると、「若い人」の三度目の映画化(1977年)のヒロインは何と桜田淳子だというではないか! 桜田淳子主演の「若い人」があったなどまったく記憶にないが、その後の彼女の人生を考えると江波恵子役は意外と適役だったかもしれない。残念ながらDVDはないようだ。
 いずれにしろ、石坂洋次郎は「麦死なず」で最後だろう。 

 2024年12月13日 記

里見弴「十年」

2024年12月12日 | 本と雑誌
 
 里見弴「十年」(「里見弴全集・第8巻」筑摩書房、昭和53年(1978年)所収)を読んだ。初出は東京新聞昭和20年の敗戦後から同21年にかけて計160回連載された。これも、尾崎一雄「あの日この日」か高見順「昭和文学盛衰史」で興味を持ったのだが、どちらがどのような文脈で紹介していたかは忘れてしまった。内容的に高見が取り上げるような小説ではなかったから、志賀直哉を師と仰ぐ尾崎の本に出ていたのだろう。

 いかにも新聞小説といった構成で、二・二六事件前夜から昭和20年の敗戦までの10年間の上流家庭の生活が描かれる。熟読する内容でもないので、新聞小説を読むように1時間に50頁くらいの猛スピードでざっと読んだ。挿絵でもついていればもっと端折って読むことができただろう。
 最近読んだ尾崎一雄「あの日この日」や高見順「昭和文学盛衰史」、「故旧忘れ得べき」などと同じ時代(の一部)を背景としているのに、まるで別世界のような話である。登場するのは著者自身と思われる人物、その作家仲間、有島生馬を思わせる画家などといった学習院出の自由人や、しかるべき企業の社員、大蔵省商工省の官僚などといった有閑階級の人々、および彼らの妻子、係累らで、その暮らしぶりが軽いタッチで描かれる。
 舞台は主に東京山の手、最初の疎開先鎌倉、二度目の疎開先長野の上田だが、ちらっと軽井沢も出てくる。戦時下の軽井沢でも、この小説の登場人物のような面々が安閑とした疎開生活を送っていたのだろう。
 アジア太平洋戦争が戦われていた戦時下の日本で、この小説で描かれたような日常生活を送っていた人たちがいたのだということを知る意味では参考になるか。時おり東条英機をはじめ軍部や将官(畑、松井、杉山など実名で書いてある)に対する批判の片言も出てくるが、(戦後の執筆にもかかわらず)その批判はあまりに微温的で、登場人物たちの間に漂っていた厭戦気分がうかがえる程度である。
 建物の普請、庭の造園、家具什器(茶器や掛軸絵画など)の描写が結構出てくるが、こういった物に縁のないぼくにはまったく理解不能。(こういった体言止めもこの小説には頻出する。)挿絵があればイメージできたのだが。都心の一番町や九段坂上などで平成初期頃までは見かけたような(それ以降は大部分がマンションになってしまって今日ではほとんど見かけないが)、高さ2メートルを超す堂々とした門柱、石垣に囲まれた広い庭には庭木が生い茂るような数百坪の豪邸の内部ではこんな生活が繰り広げられていたのだろうと想像しながら読んだ。この小説には郊外とはいえ吉祥寺の3000坪の邸宅も登場する!
 高見順「故旧忘れ得べき」や丹羽文雄「鮎」などとは全く違う世界であるが、本小説に付されたあとがきによると、そんな里見でさえも(だからこそか)戦時中は事実上発表禁止の状態にあったという(748頁)。理由は高見の発禁よりは丹羽の発禁に近いもの、要するに「時局に反する」ということだろう。

 里見と言えば、学生時代に里見弴「多情仏心」を読み始めたことがあった。父親の書斎にあった筑摩書房かどこかの文学全集の1冊で、小さな活字の3段組みで数百ページもあったように記憶する。「多情仏心」を手に取った理由はというとーー。
 ぼくの通った大学の前身は七年制旧制高校で、同じ敷地内に付属高校もあった。「付属」と言いながら、付属高校が本家で大学のほうが「付属」のような新制大学だった。運動場と学生食堂だけは共用で、昼食時の学食は大学生と高校生が入り交って利用した。
 そんな学食の付属高校生の中に、ちょっと目立つ女生徒がいた。今では珍しくないかもしれないが、1969年のキャンパスでは彼女一人だけ膝上まであるソックスをはいていた。その彼女をデートに誘ったことがあった。千鳥ヶ淵だったか市ヶ谷の外堀だったかでボートに乗った(「赤頭巾ちゃん気をつけて」で学んだか)。
 その彼女が、付き合っている高校の先輩から「多情仏心」と墨書した手紙をもらったという。「どんな意味?」と聞かれたので、「気は多いけれど心は優しい」くらいの意味じゃないと適当に答えたが、ぼく自身が気になって、里見の「多情仏心」を読もうと思ったのであった。しかし、数ページで読む気がしなくなった。読んだところで彼女との関係に何のご利益もなさそうだった。今から思えば彼女の「多情」など、他愛のないむしろ可愛いくらいのものだったが。
 ーーこんなことを書いていたら、彼女の誕生日が5月12日で、1969年の5月12日に渋谷の東急文化会館1階の花屋で買った勿忘草(5月の誕生花だった)を春の嵐(may storm!)のなかNHKセンター近くの彼女の家まで届けたことを思い出した。
 それから50年を経てわが人生で2度目の里見弴が今回の「十年」だった。19歳の時とは違って、時間も有り余っているし、年もとったので何とか最後まで読むことはできた。
 
 きょう12月12日は小津安二郎の命日である。1963年(昭和38年)の今日、小津は亡くなった。この日は小津の60歳の誕生日でもあった。今朝のNHKラジオ「今日は何の日?」というコーナーでも、「小津安二郎、逝く」と言っていた。
 小津安二郎の「彼岸花」(昭和33年)、「秋日和」(昭和35年)は里見弴の原作であり、「青春放課後」というNHKのテレビドラマも小津と里見との共作らしい(松竹編「小津安二郎新発見」講談社α(アルファ)文庫315頁)。なお同書134頁では、里見の息子で松竹プロデューサーの山内静夫が小津への追想を書いている。
 そういえば、この里見弴「十年」という小説には小津映画のような雰囲気があったと思い至った。登場人物のセリフの語り口などは笠智衆、中村伸郎、佐田啓二、原節子、杉村春子、飯田蝶子、吉川満子らを思い浮かべながら読めばよかったかもしれない。ただし、息子の山内によれば里見は「半分べらんめえ調」だったということであり(α文庫134頁)、「十年」の登場人物の中にもそれに近い話し方をする人物がいた。小津映画の俳優たちのセリフのほうが端正な日本語である。
 与那覇潤「帝国の残影」で提示された小津の戦争観からいえば、小津は里見の「十年」を映画にしようとは思わなかっただろう。昭和10年の帝国ホテルでの結婚披露宴の場面で始まり、昭和20年秋の上田の民家の座敷での結婚式(祝言)の場面で終わるあたりは小津調だが。
  
 蛇足を一本。里見の「五分の魂」という小説のことを志賀直哉は「ゴブダマ」と呼んだという(754頁)。今年の流行語大賞「ふてほど」のルーツは志賀にあったのか。

 2024年12月12日 記

 蛇足をもう一本。サリンジャーの短編の中に、ヨーロッパ戦線から帰還した兵士(サリンジャー自身?)が戦死した戦友の遺妻を訪ねた帰りに、夏のニューヨークの夕暮れ時の街かどで暢気に犬と散歩して歩く太った中年男とすれ違う場面があった。自分たちがドイツの森の中で塹壕戦を戦っていた時にもこの男は犬を連れてニューヨークの街中を歩いていたのか、と怒りを覚えたサリンジャーを思い出した。(12月13日追記)

丹羽文雄「鮎・母の日・妻」

2024年12月09日 | 本と雑誌
 
 丹羽文雄「鮎・母の日・妻ーー丹羽文雄短編集」(講談社文芸文庫、2006年)を読んだ。
 これも尾崎一雄「あの日この日」や高見順「唱和文学盛衰史」に出てきた丹羽の紹介で知って読んでみたくなった。早稲田高等学院以来の同門で、志賀直哉を読めと丹羽に助言したのだから、最初に興味を持ったのは尾崎の本を読んだときだろうが、高見の本にも丹羽を褒める新明正道の文芸評のことなどが出ていたので丹羽に対する興味が深まった。

 文壇デビュー作という「鮎」(初出は「文藝春秋」1932年4月)と、「贅肉」(中央公論、同年7月)から読み始めた。執筆は「贅肉」のほうが先ではなかったかと記憶するが、いずれも丹羽とその生母との関係を描いた小説である。
 丹羽の実家は四日市のお寺で、実父はお寺の婿養子だったが、養母である丹羽の祖母と関係を持っていたという。夫(丹羽の実父)が姑と同衾している事実を知った丹羽の実母は、当てつけで旅役者の男と出奔してしまう。その後旅役者に捨てられ、別の男の妾になった。そんな母が、十数年間生活を別にしてきて今は成人して作家を目ざす息子に甘えるのである。
 本書に収録された「悔いの色」や解説を読むと、丹羽は「鮎」の発表によって父の実家と絶縁されてしまったという。このような内情を暴露された家族としては耐えられなかっただろう。堀辰雄も文壇デビューによって、実生活における片山広子親子との交流が崩れたという話だったが、自分の身辺を描く作家にとって文壇デビューは苦いものである。
 ただし、丹羽は、自分を作品の中に投影させずにはいられないが、しかし自分が書くのは私小説ではなく自伝小説であり、現実に起こらなかった可能性を書くと語っているそうだ(中島国彦解説274頁)。げんに、「贅肉」では(妾である)母との復縁を拒まれた旦那は自殺しているが、「鮎」では息子の執り成しで復縁している。
 この 2作品の中心になるのは母(妾)と旦那の関係ではなく、息子と母との関係である。当時40歳すぎだった生母は美貌の人だったようで(丹羽文雄も整った顔立ちの美男子だったから、生母もさもありなんと思う)、男好きのするコケティッシュというか(今風に言えば)フェロモン横溢する女性だったようだ。性格は我が儘で、母が巻き起こすトラブルの数々には読んでいてうんざりさせられたが、若き日の丹羽は根気強くそんな母に対処する。
 ぼくは二人の間にオイディプス的な匂いを感じた。肉体関係が描かれているわけではないのだが、そのような雰囲気が漂っていた。題名の「鮎」も「贅肉」も母の肉体を表現している。

 「秋」「鮎」「贅肉」は大正15年から昭和7年にかけて発表されたもので、丹羽のまだデビュー間もない時期の作品である。これに対して「母の日」「悔いの色」は昭和30年代に書かれたようで(本書には各作品の初出年が書いてない)母の晩年から最期が描かれている(ほかにも数編収録されているが読まなかった)。美しかった母も晩年は認知症になったのか、着衣も着替えず臭気を放ち、部屋も散らかし放題になっているのを丹羽が引き取って、鴨川にある別荘に女中をつけて養った。小説としてはすっきり読みやすく仕上がっていたが、若い日の前 3作品のような筆の勢いは感じられなかった。
 「妻」は、病気がちになった丹羽の妻の闘病とそれを支える丹羽を描いていて、他の「生母もの」とは違って、丹羽自身に忍び寄る老いが描かれている。
 最後の「悔いの色」には、処女作以来全く触れることのなかった実父が「鮎」以来の丹羽の「生母」ものをどのように感じていたのだろうかと、それまでまったく関心が湧かなかった実父の心情に思いをいたしている。実父は小説家になるために四日市の実家を出ていった丹羽に対して帰郷を促すこともなく、丹羽を廃嫡(家構成員の資格と相続人の資格を奪う措置)し、僧籍(丹羽は僧籍を取得していた)も剥奪した。年譜では敗戦の年に亡くなっている。
 結局丹羽は実父をモデルにした自伝小説は書かなかったようだから、小説家的な感興を起こさせるほどの父子関係ではなかったのだろう。実父は念仏の会を主宰していて、とくに「歎異抄」を熱心に唱えていたと「悔いの色」にあるから、あるいは「親鸞」とか「蓮如」には、丹羽の父子関係を背景にした記述があるのかもしれないが、もうそこまで読む気力はない。

 尾崎、高見を読むまでは、丹羽文雄には何の関心もなく作品を読んだこともなかったが、ただ丹羽文雄「小説作法」は買った覚えがある。文庫本だったので、調べると角川文庫版「小説作法」(1965年)というのが古書目録に載っている。表紙がむき出しの写真だが、ぼくが持っていたのにはカバーがついていたように記憶する。小説家になりたいと思っていた頃に買ったのだろうが、丹羽には興味が湧かず、模範例として併載されていた丹羽自身の実作小説も(何だったか)興味が湧かず、放っているうちになくしてしまった。
 尾崎「あの日この日」に出てくる丹羽の修業時代を知った今こそ読んでみたいが、古本屋では文庫本が1000円くらい、単行本は3、4000円もする。これも図書館で済ませよう。
 30歳代の頃には、まさか70歳を過ぎてから丹羽文雄に関心が湧くなどとは思ってもいなかった。もし80歳過ぎまで生きたら何に関心が残っているのだろうか。そう考えると、いよいよ本の断捨離はむずかしい。

 2024年12月9日 記

五木寛之作品集1 蒼ざめた馬を見よ

2024年12月05日 | 本と雑誌
 
 シルビー・バルタン引退の話題からミッシェル・ポルナレフを思い出し、さらに「I Love You Because」をくれた編集者のことを思い出した。思い出話のついでに五木寛之のことを。
 その人に五木寛之の小説の愛読者であることを話したら、当時彼女が勤めていた文藝春秋から刊行中だった「五木寛之作品集」を2冊くれた。「五木寛之作品集1 蒼ざめた馬を見よ」(1972年10月)と「同9 モルダウの重き流れに」(1973年6月)である。「作品集1」のほうには、黒地の表紙扉ページに白インク(絵具?)で五木寛之のサインがあった。

   

 ぼくが最初に読んだ五木の作品が何だったかは忘れたが、四谷の予備校に通っていた1968年の秋に、雑誌に掲載された「聖者昇天」を一刻も早く読みたくて四谷の文藝春秋本社まで買いに行ったことがあった。「聖者昇天」(後に「ソフィアの秋」と改題)は、「ソフィアの秋」(講談社文庫、1972年)の年譜(坂本政子編)によれば1968年10月の「文藝春秋」に掲載されたようだ。ぼくの記憶では「オール読物」か「別冊文藝春秋」だったと思っていたが。
 掲載紙の記憶はあいまいだったが、1968年10月はまさにぼくが四谷の予備校生だった時期である。四ッ谷駅界隈には書店はなかったのか(ドン・ボスコ社というのが駅前にあったが、キリスト教関係の本しか置いてなかった)、文藝春秋の本社に直接買いに行った。ホテルニューオータニの裏手にあって、ビルの壁面に「文藝春秋」と縦書きのロゴがあった(と思う)。
 直木賞受賞作となった「蒼ざめた馬を見よ」や「ソフィアの秋」など、ロシアや東欧、北欧を舞台にした小説が好きだった。「さらばモスクワ愚連隊」というのは書名が嫌いで読まなかった。「青年は荒野をめざす」は書名が気に入って読んだが、ジャズ嫌いのぼくには合わなかった。
 彼のような小説家になりたいと思って、彼の小説や(彼が新人賞を受賞した)「小説現代」を時おり購読したり、早稲田の露文か上智のロシア語科を受験しようかとさえ考えた。しかし実際の受験の時には無難に法学部を選んでしまった。ただし入学したのは政治学科である(その後法律学科に転科したが)。

   

 学生時代だったか編集者時代に、五木寛之、久野収、斉藤孝の3人によるヨーロッパの政治、戦争に関する鼎談が「毎日グラフ」に連載された。これが五木を読んだ最後だったかもしれない。あるいは「デラシネの旗」が最後だったかもしれない。「内灘夫人」は読んだけれど面白いとは思えなかったし、「青春の門」「朱鷺の墓」など国内もの、恋愛ものは読まなかった。
 前記「年譜」によると、1972年5月以後「ジャーナリズムから遠ざかる」とあるが、その頃からぼくも五木から遠ざかったのだろう。
 数年前からNHKのラジオ深夜便で時おり五木寛之が登場して語っているのを聞くことがあったが、この1、2年は聞かなくなった。彼が出演しなくなったのか、ぼくが聞かなくなったのか。
 五木の本もそろそろ断捨離するか。著者サイン入り本は捨てられないし、「ソフィアの秋」と「蒼ざめた馬を見よ」には思いが残るけれど。

 2024年12月5日 記

 ※ 今日の夕方、孫娘の習い事に同行した待ち時間にジュンク堂を眺めたところ、文庫本の著者名「い」のコーナーには池井戸だの池波だの井坂だのがずらっと並び、五木寛之の本は「親鸞」というのしかなかった。「現代的」小説の寿命は短い。50年も経って五木も読者も変わってしまったのだ。