豆豆先生の研究室

ぼくの気ままなnostalgic journeyです。

丹羽文雄「ひと我を非情の作家と呼ぶ」

2024年12月19日 | 本と雑誌
 
 丹羽文雄「ひと我を非情の作家と呼ぶーー親鸞への道」(光文社、1984年、昭和59年)を読んだ。初出は月刊「宝石」昭和58年8月号~59年10月号の連載で、単行本のあとがきは「1984年夏 軽井沢山荘にて」とある。
 昭和40、50年代の夏の軽井沢では、朝の中軽井沢駅改札口で遠藤周作、芥川也寸志を見かけ、夕暮れ時の中軽井沢駅ホームに停車するあさま号の車中で壷井栄、繁治夫妻を見かけたことは以前に書いた。ところが本書のあとがきを見て、旧軽井沢の中華料理 “栄林” で丹羽文雄を見かけたような記憶がよみがえってきた。「あれ丹羽文雄じゃない?」と小声で母が言ったことがあったような気がする。中学生か高校生だった当時のぼくにとって丹羽は無縁の作家だったので印象に残らなかったのだが。

 丹羽はデビュー作「鮎」以来、実母が旅芸人と出奔したことや、その原因となった実父(丹羽の祖父母の養子になった)と養母(丹羽の祖母)との不倫関係、丹羽の言葉では「生家の庫裡でくりかえされた愛欲地獄の絵巻」(241頁)を書きつづけた。このことを多くの人が批判したようだが、丹羽は小説を書くことは自分の「業」であり書かずにはいられなかったという。そして、自分が「煩悩具足の凡人」であり、「無慚無愧(むざんむぎ)の極悪人」であることを自覚した親鸞の「歎異抄」に救いの道を見出したのだった。
 ーーという要約に自信はない。丹羽は親鸞の教えを信じることができた人のようだが、信仰に無縁のぼくには理解できない心境である。もしぼくに何らかの信仰があるとするなら、それは祖先の霊に対する「信心」だけである。祖先だけはぼくたち子孫を見守ってくれるような気がする。穂積陳重「日本は祖先教の国なり」の祖先教である。

 とくに本書では、実母の出奔の原因が実父と祖母との関係にあったことを知らないまま、実母を恨みつづけてアメリカに逃避した姉に事実を知ってもらいたいと思って執筆した「菩提樹」という小説を読んだ姉の苦しみが記されている。晩年に来日した姉は(おそらく読んだと思われる)この小説について一言も触れることなく、丹羽との軽井沢での再会も一日で切り上げて四日市の生家に去って行ったという。
 ぼくは「鮎」を読んで「オイディプス」的雰囲気を感じたと書いたが、本書によれば、「鮎」の中で丹羽は、幼少期以来自分がまったく経験することができなかった家族の「団欒」を思い描いて実母との架空の会話を書いたのであって(20頁)、「近親相姦を思わせるようなことを書いたわけでもなかった」と書いている(27頁)。このような弁明が書かれたということは、おそらく発表当時そのように読んだ者もいたということだろう。令和になって読んだぼくも「オイディプス的」と婉曲に書いたが、そのような読後感をもった。

 丹羽は「生母もの」と「マダムもの」が二本柱の作家と言われたそうだ。
 その「マダムもの」の原体験になったのが、早稲田の学生時代の下宿屋の娘との関係だった。友人の下宿の窓から見染めた向かいの下宿の娘に手招きすると、その女性は丹羽の指示に従って路地に出てくる。二人で鬼子母神の縁日を歩き、そのまま丹羽の下宿に戻って関係を持つ。丹羽の男前の写真(本書の口絵ページに若き日の丹羽と老齢になった生母の写真が載っている)を見なければ俄かには信じがたい展開である。
 家族を支えるために会社勤めをしていた彼女と丹羽は丹羽の実家の寺で祝言まで上げるが、女は東京に戻り二人は別居生活を送る。大学を卒業した丹羽は四日市の実家に戻って僧侶の仕事を手伝うが、「鮎」の発表を契機に実家から家出して上京する。再上京した丹羽は彼女が借りた部屋で半同棲のような生活をするが、彼女は丹羽をも養うために銀座のバーのマダムになる。ある時丹羽は、彼女の机の中に47人の男の名前の書かれたノートを発見する。その中には丹羽のことを忌み嫌っていた武田麟太郎の名前まであった。売春もしていたのか、丹羽は性病を罹患する。

 結局 4年後に丹羽は別の女性と結婚してこの女と別れることになる。生母に対してはその行状を暴きながらも最後には愛情を示すのだが、この「糟糠の妻」ともいうべき女性に対する丹羽の筆は冷淡である。家族の醜聞を小説に書いたことよりも、この女性に対する態度のほうが、親鸞による救いが必要なようにぼくには思えた。丹羽はやはり「非情」の作家である。
 ただしこの女性には、小津安二郎の「東京の女」だったかに出てきた岡田嘉子のような、一人でも生きていく戦前昭和の女の毅然とした風格を感じた。本書で彼女との出会いを描いた章は「東京の女」と題されている(48頁)。

 2024年12月19日 記

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石坂洋次郎「麦死なず」

2024年12月14日 | 本と雑誌
 
 石坂洋次郎「麦死なず」(新潮文庫、1956年、初出は昭和11年)を読んだ。
 これも、高見順「昭和文学盛衰史」で興味を持った本である。あの「青い山脈」や「若い人」の石坂洋次郎がかつてはプロレタリア作家だったということにまず驚いた。そんな彼のデビュー作である「麦死なず」というのはどんな内容だろうか。
 「麦死なず」は昭和11年(1936年)に改造社の編集者だった上林暁の英断によって「文藝」8月号に480枚一挙に掲載されたという(福田宏年解説279頁)。この頃石坂は同時に「若い人」を「三田文学」に連載執筆しており、秋田県横手で学校教師をしながら作家を目指していた石坂はこの2作の好評によって上京し、職業作家になった。
 「麦死なず」という題名から、火野葦平「麦と兵隊」のような従軍作家ものかと思ったら、題名の「麦」は兵隊の象徴ではなく、「一粒の麦もし死なずば・・・」という聖書が出典だった。横手の教師石坂自身が「麦」だったのだ。

 この小説も、高見順「故旧忘れ得べき」や丹羽文雄「鮎」などと同じく、石坂の身辺で実際に起きた事件を素材にしている。
 「麦死なず」の主人公は青森で学校教師をしながらプロレタリア小説を書いていたが、共産主義に共鳴する同志の女性と結婚する。妻は子を3人もうけるが、教師としての日常生活に埋没している夫に飽き足らず、夫を捨てて地域の左翼運動の指導者であり作家としても注目され始めていた男と駆け落ちしてしまう。夫は、左翼思想の深さでも作家としての能力でも相手の男よりも劣っていると自分を卑下して悩む。
 しかし結局妻は帰宅して主人公とよりを戻し、駆け落ちした相手の男もその後検挙されて転向したことを主人公は知ることになる。主人公は自信を回復するというか、コンプレックスから解放される。
 解説によると、「麦死なず」の内容がほとんど石坂の私生活で実際に起こった事実であったことを、妻の死後に石坂自身が随筆で告白しているという。高見順も丹羽文雄も石坂も、みんな身を切る思いで小説を書いていたのだ。この3人の中では石坂が一番「風俗小説」的な文体であった。なお福田解説によると、石坂が一貫して追求したテーマが「性」だったとある。「麦死なず」では、時代の制約か「性」ではなく「愛欲」と表現していた。
 戦後のぼくたちの世代では、学習雑誌(「高校時代」(旺文社)や「高校コース」(学研)が時おり「若者の性」や「18歳の性」などを特集していた。小学館から出ていた「中学生の友」の終刊号はまさに「性」特集だった。あれらの雑誌に小説を載せていた富島健夫は石坂の弟子だったか・・・。※ネットで調べると、何と富島は丹羽が全額を出資して創刊した「文学者」の同人だったというから、丹羽文雄の孫弟子だった。

 石坂の小説はこれまで一つも読んだことがなかった。読む気も起らなかった。ハーレクインか、最近のライトノベル程度かと思っていたが、その石坂にこんな修業時代の苦悩があったとは知らなかった。
 原節子主演の「青い山脈」は映画(DVD)で見たが、「若い人」は映画すら見たことがなかった。調べるてみると、「若い人」の三度目の映画化(1977年)のヒロインは何と桜田淳子だというではないか! 桜田淳子主演の「若い人」があったなどまったく記憶にないが、その後の彼女の人生を考えると江波恵子役は意外と適役だったかもしれない。残念ながらDVDはないようだ。
 いずれにしろ、石坂洋次郎は「麦死なず」で最後だろう。 

 2024年12月13日 記

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里見弴「十年」

2024年12月12日 | 本と雑誌
 
 里見弴「十年」(「里見弴全集・第8巻」筑摩書房、昭和53年(1978年)所収)を読んだ。初出は東京新聞昭和20年の敗戦後から同21年にかけて計160回連載された。これも、尾崎一雄「あの日この日」か高見順「昭和文学盛衰史」で興味を持ったのだが、どちらがどのような文脈で紹介していたかは忘れてしまった。内容的に高見が取り上げるような小説ではなかったから、志賀直哉を師と仰ぐ尾崎の本に出ていたのだろう。

 いかにも新聞小説といった構成で、二・二六事件前夜から昭和20年の敗戦までの10年間の上流家庭の生活が描かれる。熟読する内容でもないので、新聞小説を読むように1時間に50頁くらいの猛スピードでざっと読んだ。挿絵でもついていればもっと端折って読むことができただろう。
 最近読んだ尾崎一雄「あの日この日」や高見順「昭和文学盛衰史」、「故旧忘れ得べき」などと同じ時代(の一部)を背景としているのに、まるで別世界のような話である。登場するのは著者自身と思われる人物、その作家仲間、有島生馬を思わせる画家などといった学習院出の自由人や、しかるべき企業の社員、大蔵省商工省の官僚などといった有閑階級の人々、および彼らの妻子、係累らで、その暮らしぶりが軽いタッチで描かれる。
 舞台は主に東京山の手、最初の疎開先鎌倉、二度目の疎開先長野の上田だが、ちらっと軽井沢も出てくる。戦時下の軽井沢でも、この小説の登場人物のような面々が安閑とした疎開生活を送っていたのだろう。
 アジア太平洋戦争が戦われていた戦時下の日本で、この小説で描かれたような日常生活を送っていた人たちがいたのだということを知る意味では参考になるか。時おり東条英機をはじめ軍部や将官(畑、松井、杉山など実名で書いてある)に対する批判の片言も出てくるが、(戦後の執筆にもかかわらず)その批判はあまりに微温的で、登場人物たちの間に漂っていた厭戦気分がうかがえる程度である。
 建物の普請、庭の造園、家具什器(茶器や掛軸絵画など)の描写が結構出てくるが、こういった物に縁のないぼくにはまったく理解不能。(こういった体言止めもこの小説には頻出する。)挿絵があればイメージできたのだが。都心の一番町や九段坂上などで平成初期頃までは見かけたような(それ以降は大部分がマンションになってしまって今日ではほとんど見かけないが)、高さ2メートルを超す堂々とした門柱、石垣に囲まれた広い庭には庭木が生い茂るような数百坪の豪邸の内部ではこんな生活が繰り広げられていたのだろうと想像しながら読んだ。この小説には郊外とはいえ吉祥寺の3000坪の邸宅も登場する!
 高見順「故旧忘れ得べき」や丹羽文雄「鮎」などとは全く違う世界であるが、本小説に付されたあとがきによると、そんな里見でさえも(だからこそか)戦時中は事実上発表禁止の状態にあったという(748頁)。理由は高見の発禁よりは丹羽の発禁に近いもの、要するに「時局に反する」ということだろう。

 里見と言えば、学生時代に里見弴「多情仏心」を読み始めたことがあった。父親の書斎にあった筑摩書房かどこかの文学全集の1冊で、小さな活字の3段組みで数百ページもあったように記憶する。「多情仏心」を手に取った理由はというとーー。
 ぼくの通った大学の前身は七年制旧制高校で、同じ敷地内に付属高校もあった。「付属」と言いながら、付属高校が本家で大学のほうが「付属」のような新制大学だった。運動場と学生食堂だけは共用で、昼食時の学食は大学生と高校生が入り交って利用した。
 そんな学食の付属高校生の中に、ちょっと目立つ女生徒がいた。今では珍しくないかもしれないが、1969年のキャンパスでは彼女一人だけ膝上まであるソックスをはいていた。その彼女をデートに誘ったことがあった。千鳥ヶ淵だったか市ヶ谷の外堀だったかでボートに乗った(「赤頭巾ちゃん気をつけて」で学んだか)。
 その彼女が、付き合っている高校の先輩から「多情仏心」と墨書した手紙をもらったという。「どんな意味?」と聞かれたので、「気は多いけれど心は優しい」くらいの意味じゃないと適当に答えたが、ぼく自身が気になって、里見の「多情仏心」を読もうと思ったのであった。しかし、数ページで読む気がしなくなった。読んだところで彼女との関係に何のご利益もなさそうだった。今から思えば彼女の「多情」など、他愛のないむしろ可愛いくらいのものだったが。
 ーーこんなことを書いていたら、彼女の誕生日が5月12日で、1969年の5月12日に渋谷の東急文化会館1階の花屋で買った勿忘草(5月の誕生花だった)を春の嵐(may storm!)のなかNHKセンター近くの彼女の家まで届けたことを思い出した。
 それから50年を経てわが人生で2度目の里見弴が今回の「十年」だった。19歳の時とは違って、時間も有り余っているし、年もとったので何とか最後まで読むことはできた。
 
 きょう12月12日は小津安二郎の命日である。1963年(昭和38年)の今日、小津は亡くなった。この日は小津の60歳の誕生日でもあった。今朝のNHKラジオ「今日は何の日?」というコーナーでも、「小津安二郎、逝く」と言っていた。
 小津安二郎の「彼岸花」(昭和33年)、「秋日和」(昭和35年)は里見弴の原作であり、「青春放課後」というNHKのテレビドラマも小津と里見との共作らしい(松竹編「小津安二郎新発見」講談社α(アルファ)文庫315頁)。なお同書134頁では、里見の息子で松竹プロデューサーの山内静夫が小津への追想を書いている。
 そういえば、この里見弴「十年」という小説には小津映画のような雰囲気があったと思い至った。登場人物のセリフの語り口などは笠智衆、中村伸郎、佐田啓二、原節子、杉村春子、飯田蝶子、吉川満子らを思い浮かべながら読めばよかったかもしれない。ただし、息子の山内によれば里見は「半分べらんめえ調」だったということであり(α文庫134頁)、「十年」の登場人物の中にもそれに近い話し方をする人物がいた。小津映画の俳優たちのセリフのほうが端正な日本語である。
 与那覇潤「帝国の残影」で提示された小津の戦争観からいえば、小津は里見の「十年」を映画にしようとは思わなかっただろう。昭和10年の帝国ホテルでの結婚披露宴の場面で始まり、昭和20年秋の上田の民家の座敷での結婚式(祝言)の場面で終わるあたりは小津調だが。
  
 蛇足を一本。里見の「五分の魂」という小説のことを志賀直哉は「ゴブダマ」と呼んだという(754頁)。今年の流行語大賞「ふてほど」のルーツは志賀にあったのか。

 2024年12月12日 記

 蛇足をもう一本。サリンジャーの短編の中に、ヨーロッパ戦線から帰還した兵士(サリンジャー自身?)が戦死した戦友の遺妻を訪ねた帰りに、夏のニューヨークの夕暮れ時の街かどで暢気に犬と散歩して歩く太った中年男とすれ違う場面があった。自分たちがドイツの森の中で塹壕戦を戦っていた時にもこの男は犬を連れてニューヨークの街中を歩いていたのか、と怒りを覚えたサリンジャーを思い出した。(12月13日追記)

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丹羽文雄「鮎・母の日・妻」

2024年12月09日 | 本と雑誌
 
 丹羽文雄「鮎・母の日・妻ーー丹羽文雄短編集」(講談社文芸文庫、2006年)を読んだ。
 これも尾崎一雄「あの日この日」や高見順「唱和文学盛衰史」に出てきた丹羽の紹介で知って読んでみたくなった。早稲田高等学院以来の同門で、志賀直哉を読めと丹羽に助言したのだから、最初に興味を持ったのは尾崎の本を読んだときだろうが、高見の本にも丹羽を褒める新明正道の文芸評のことなどが出ていたので丹羽に対する興味が深まった。

 文壇デビュー作という「鮎」(初出は「文藝春秋」1932年4月)と、「贅肉」(中央公論、同年7月)から読み始めた。執筆は「贅肉」のほうが先ではなかったかと記憶するが、いずれも丹羽とその生母との関係を描いた小説である。
 丹羽の実家は四日市のお寺で、実父はお寺の婿養子だったが、養母である丹羽の祖母と関係を持っていたという。夫(丹羽の実父)が姑と同衾している事実を知った丹羽の実母は、当てつけで旅役者の男と出奔してしまう。その後旅役者に捨てられ、別の男の妾になった。そんな母が、十数年間生活を別にしてきて今は成人して作家を目ざす息子に甘えるのである。
 本書に収録された「悔いの色」や解説を読むと、丹羽は「鮎」の発表によって父の実家と絶縁されてしまったという。このような内情を暴露された家族としては耐えられなかっただろう。堀辰雄も文壇デビューによって、実生活における片山広子親子との交流が崩れたという話だったが、自分の身辺を描く作家にとって文壇デビューは苦いものである。
 ただし、丹羽は、自分を作品の中に投影させずにはいられないが、しかし自分が書くのは私小説ではなく自伝小説であり、現実に起こらなかった可能性を書くと語っているそうだ(中島国彦解説274頁)。げんに、「贅肉」では(妾である)母との復縁を拒まれた旦那は自殺しているが、「鮎」では息子の執り成しで復縁している。
 この 2作品の中心になるのは母(妾)と旦那の関係ではなく、息子と母との関係である。当時40歳すぎだった生母は美貌の人だったようで(丹羽文雄も整った顔立ちの美男子だったから、生母もさもありなんと思う)、男好きのするコケティッシュというか(今風に言えば)フェロモン横溢する女性だったようだ。性格は我が儘で、母が巻き起こすトラブルの数々には読んでいてうんざりさせられたが、若き日の丹羽は根気強くそんな母に対処する。
 ぼくは二人の間にオイディプス的な匂いを感じた。肉体関係が描かれているわけではないのだが、そのような雰囲気が漂っていた。題名の「鮎」も「贅肉」も母の肉体を表現している。

 「秋」「鮎」「贅肉」は大正15年から昭和7年にかけて発表されたもので、丹羽のまだデビュー間もない時期の作品である。これに対して「母の日」「悔いの色」は昭和30年代に書かれたようで(本書には各作品の初出年が書いてない)母の晩年から最期が描かれている(ほかにも数編収録されているが読まなかった)。美しかった母も晩年は認知症になったのか、着衣も着替えず臭気を放ち、部屋も散らかし放題になっているのを丹羽が引き取って、鴨川にある別荘に女中をつけて養った。小説としてはすっきり読みやすく仕上がっていたが、若い日の前 3作品のような筆の勢いは感じられなかった。
 「妻」は、病気がちになった丹羽の妻の闘病とそれを支える丹羽を描いていて、他の「生母もの」とは違って、丹羽自身に忍び寄る老いが描かれている。
 最後の「悔いの色」には、処女作以来全く触れることのなかった実父が「鮎」以来の丹羽の「生母」ものをどのように感じていたのだろうかと、それまでまったく関心が湧かなかった実父の心情に思いをいたしている。実父は小説家になるために四日市の実家を出ていった丹羽に対して帰郷を促すこともなく、丹羽を廃嫡(家構成員の資格と相続人の資格を奪う措置)し、僧籍(丹羽は僧籍を取得していた)も剥奪した。年譜では敗戦の年に亡くなっている。
 結局丹羽は実父をモデルにした自伝小説は書かなかったようだから、小説家的な感興を起こさせるほどの父子関係ではなかったのだろう。実父は念仏の会を主宰していて、とくに「歎異抄」を熱心に唱えていたと「悔いの色」にあるから、あるいは「親鸞」とか「蓮如」には、丹羽の父子関係を背景にした記述があるのかもしれないが、もうそこまで読む気力はない。

 尾崎、高見を読むまでは、丹羽文雄には何の関心もなく作品を読んだこともなかったが、ただ丹羽文雄「小説作法」は買った覚えがある。文庫本だったので、調べると角川文庫版「小説作法」(1965年)というのが古書目録に載っている。表紙がむき出しの写真だが、ぼくが持っていたのにはカバーがついていたように記憶する。小説家になりたいと思っていた頃に買ったのだろうが、丹羽には興味が湧かず、模範例として併載されていた丹羽自身の実作小説も(何だったか)興味が湧かず、放っているうちになくしてしまった。
 尾崎「あの日この日」に出てくる丹羽の修業時代を知った今こそ読んでみたいが、古本屋では文庫本が1000円くらい、単行本は3、4000円もする。これも図書館で済ませよう。
 30歳代の頃には、まさか70歳を過ぎてから丹羽文雄に関心が湧くなどとは思ってもいなかった。もし80歳過ぎまで生きたら何に関心が残っているのだろうか。そう考えると、いよいよ本の断捨離はむずかしい。

 2024年12月9日 記

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五木寛之作品集1 蒼ざめた馬を見よ

2024年12月05日 | 本と雑誌
 
 シルビー・バルタン引退の話題からミッシェル・ポルナレフを思い出し、さらに「I Love You Because」をくれた編集者のことを思い出した。思い出話のついでに五木寛之のことを。
 その人に五木寛之の小説の愛読者であることを話したら、当時彼女が勤めていた文藝春秋から刊行中だった「五木寛之作品集」を2冊くれた。「五木寛之作品集1 蒼ざめた馬を見よ」(1972年10月)と「同9 モルダウの重き流れに」(1973年6月)である。「作品集1」のほうには、黒地の表紙扉ページに白インク(絵具?)で五木寛之のサインがあった。

   

 ぼくが最初に読んだ五木の作品が何だったかは忘れたが、四谷の予備校に通っていた1968年の秋に、雑誌に掲載された「聖者昇天」を一刻も早く読みたくて四谷の文藝春秋本社まで買いに行ったことがあった。「聖者昇天」(後に「ソフィアの秋」と改題)は、「ソフィアの秋」(講談社文庫、1972年)の年譜(坂本政子編)によれば1968年10月の「文藝春秋」に掲載されたようだ。ぼくの記憶では「オール読物」か「別冊文藝春秋」だったと思っていたが。
 掲載紙の記憶はあいまいだったが、1968年10月はまさにぼくが四谷の予備校生だった時期である。四ッ谷駅界隈には書店はなかったのか(ドン・ボスコ社というのが駅前にあったが、キリスト教関係の本しか置いてなかった)、文藝春秋の本社に直接買いに行った。ホテルニューオータニの裏手にあって、ビルの壁面に「文藝春秋」と縦書きのロゴがあった(と思う)。
 直木賞受賞作となった「蒼ざめた馬を見よ」や「ソフィアの秋」など、ロシアや東欧、北欧を舞台にした小説が好きだった。「さらばモスクワ愚連隊」というのは書名が嫌いで読まなかった。「青年は荒野をめざす」は書名が気に入って読んだが、ジャズ嫌いのぼくには合わなかった。
 彼のような小説家になりたいと思って、彼の小説や(彼が新人賞を受賞した)「小説現代」を時おり購読したり、早稲田の露文か上智のロシア語科を受験しようかとさえ考えた。しかし実際の受験の時には無難に法学部を選んでしまった。ただし入学したのは政治学科である(その後法律学科に転科したが)。

   

 学生時代だったか編集者時代に、五木寛之、久野収、斉藤孝の3人によるヨーロッパの政治、戦争に関する鼎談が「毎日グラフ」に連載された。これが五木を読んだ最後だったかもしれない。あるいは「デラシネの旗」が最後だったかもしれない。「内灘夫人」は読んだけれど面白いとは思えなかったし、「青春の門」「朱鷺の墓」など国内もの、恋愛ものは読まなかった。
 前記「年譜」によると、1972年5月以後「ジャーナリズムから遠ざかる」とあるが、その頃からぼくも五木から遠ざかったのだろう。
 数年前からNHKのラジオ深夜便で時おり五木寛之が登場して語っているのを聞くことがあったが、この1、2年は聞かなくなった。彼が出演しなくなったのか、ぼくが聞かなくなったのか。
 五木の本もそろそろ断捨離するか。著者サイン入り本は捨てられないし、「ソフィアの秋」と「蒼ざめた馬を見よ」には思いが残るけれど。

 2024年12月5日 記

 ※ 今日の夕方、孫娘の習い事に同行した待ち時間にジュンク堂を眺めたところ、文庫本の著者名「い」のコーナーには池井戸だの池波だの井坂だのがずらっと並び、五木寛之の本は「親鸞」というのしかなかった。「現代的」小説の寿命は短い。50年も経って五木も読者も変わってしまったのだ。

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高見順「故旧忘れ得べき」

2024年11月27日 | 本と雑誌
 
 高見順「故旧忘れ得べき」(小学館、2022年)を読んだ。
 小学館の “P+D BOOOKS” というシリーズの1冊。このシリーズは、入手困難な名作をペーパーバックとデジタルで同時に同一価格で発行するもの。図書館で借りてきたペーパーバック版で読んだが、いかにもペーパーバックといった体裁の軽装版で、かえってお洒落な感じがする。
 本作は昭和10年の第 1 回芥川賞候補作で、単行本の初版は、人民社!から昭和11年(1936年)に発行。第 1 回芥川賞では太宰治も候補に入っていたが、受賞したのは石川達三の「蒼氓」だった。
 「昭和文学盛衰史」の高見順がどのような小説を書いた人なのかを知りたくて読んでみた。
 高見はいわゆる「転向」作家なのだが、プロレタリア文学から方向転換せざるをえなかったが、かと言って国粋文学だの皇道文学だの戦意高揚文学など真っ平御免であるという立ち位置にあった高見はどんなものを書いたのだろうか。
 読んでみて驚いた。こういうのが「転向文学」「転向小説」なのか!

 登場する人物はみんな左翼崩れなのだが、いずれも旧制高校(それもほとんどが旧制一高、時たま浦高)から帝国大学(こちらはほぼ東京帝大)の卒業生で、時代が時代ならみんなエリートである。主人公の小関健児は帝大の英文科を卒業したものの就職難のため、親戚の中学教師の紹介で出版社の臨時雇いで辞書の編集を手伝っているうだつの上がらない男である。見合いで結婚した妻は器量のよくない女で、その母親は経済的に不安定な夫(小関)の先行きを不安に思ったが「帝国大学」卒業の肩書を見込んで娘を結婚させた。
 「昭和文学盛衰史」によると、高見は一時期研究社で市河(三喜)の和英大辞典の編集を手伝ったとあったから、小関は高見自身なのだろう。当時の就職難は小津安二郎の「大学は出たけれど」などを思い浮かべればよい。
 もう一人の準主役の篠原辰也も同じく左翼崩れだが、実家が金持ちの上に転向後は流行雑誌「ヴォーグ」を発行する出版社を経営していて羽振りがよく、カフェだか酒場だかの女給と同棲生活を送っている。マルクス・ボーイからモダン・ボーイへの転身である。

 彼らの男女関係の濃密な描写や、篠原らに誘われて小関が銀座などで放蕩する生活の描写は昭和初期の風俗を描いた風俗小説である。性描写というほどではないが、男女関係の描写も意外と自由である。永井荷風もそうだったが、この当時の権力者は性風俗の描写には甘かったようである。
 カフェ、待合、女給、マネキン、エレベーター・ガール、就職難、安アパート、男女の同棲などといった風俗は昭和初期だが(主人公が女と一緒に待合に入るが風呂だけ浴びて帰る場面があったが、待合を銭湯のかわりに使うこともあったのか!)、登場人物や背景を描く筆致は軽やかで、現代小説のような雰囲気すら感じられる(といってもぼくは「現代小説」をほとんど読んでいない)。文章も古臭さがなく(新字体、新仮名遣いのせいかも)、人物の造形描写はややまどろっこいが、話の展開のテンポは悪くない。
 「筆者」が平然と登場したりもする。「第1節で紹介すみの篠原は・・・」とか、「篠原が往日の俤をとどめないとしたらそれは筆者の観察違いというよりは・・・」とか、登場人物の一人の旧制高校時代について、「その頃の彼は左傾していたというと、・・・読者は小説的作為と疑うかもしれぬが、当時の青年層を誰彼の区別なく熱病のように襲ったその左傾現象は、それを事実のまま書いたら却って小説にならぬ・・・から、小説的作為の点から事実を枉げて書く」などという記述もある。極めつけは、「読者よ。二人の会話をここで中断する不躾を筆者にゆるされ度い。筆者はなんとも胸糞がわるくなって、こんな忌まわしい会話を忠実に書きとめる苦痛に堪えられなくなったのである」などという言い訳もある。
 著者が読者と対話しているというか、読者に語りかけている印象である。

 鈴木茂三郎、大山郁夫など実在の人物も実名で登場するが、S県の特高課長M(や軍人)などは仮名になっている。同時代の作家や左翼活動家たちには誰のことかは自明だったのだろう。権力者、軍部の尻馬に乗るような連中に対する高見の反感は「昭和文学盛衰史」と共通である。
 そう言えば、一高、帝大の話題も結構出てきた。当時の帝大(東大)では「法科」が一番難しく、「法科」には2、3年かけなければ合格できないような成績でも「経済」なら(旧制高校さえ出ていれば)簡単に入ることができたので「やむなく」経済に入る学生もいた。その「法科的」学生がやがて「官吏こそ人間の仕事のうちで最も高い選ばれたものである」というような「官僚的」人間に名前を変えるのであると著者は書いている。今春の東大入試では「文科一類」(法学部)の合格最低点が「文科三類」(教養学部、文学部)の合格最低点を下回ったという。戦後80年にしてようやく官僚の権威、人気も衰退したのだろう。
 この小説は、自死した同志沢村の追悼集会の場面で結ばれる。妻子を残して自死した沢村は(モデルは誰?)帝大の経済を出たものの左翼活動で逮捕、刑務所歴があり、もともと丸の内のサラリーマン生活などは望まなかったので、喫茶店のコック、競馬場や行政裁判所の臨時雇いをしながら生活の糧を得る日々を送っていた。
 妻子へのカンパのために開かれた追悼式で最後にスピーチに立った仲間が、「戦闘的革命家」沢村の死は「反動期における行き詰ったインテリゲンチャの苦悶の象徴である」という弔辞を述べる。そして酒宴となるが、小関が「故旧忘れ得べき」を歌おうじゃないかと提案する。“Should Auld Acquaintance Be Forgot” 、どうして古い友達を忘れることができようか。小関が歌い出すと、なんだ「蛍の光」じゃないかと言いながらみんなもつづく。沢村と離別する侘しい歌声であった(223頁)。
 「故旧忘れ得べき」とは、「蛍の光」別名「別れのワルツ」だったのだ。

 裏表紙の解説には、本書は「転向」した筆者たちが抱えた「虚無感」を描いているとの紹介がある。主人公らの自堕落な生活ぶりの背後にそのような「虚無感」はあったのだろうが、その割には意外に明るく強かに生きているな、というのがぼくの感想であった。
 「転向」以前の高見はどんな「プロレタリア」小説を書いていたのだろうか。「蒲田の労働者はこのように描かなければならない」などと上層部(?)から指示されていたこと(政治主義)が「昭和文学盛衰史」に書いてあったが、彼らにとってはその頃のほうが表現の自由は制約されていたのではなかったのだろうか。ぼくにはそう思えた。

 2024年11月27日 記

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高見順「昭和文学盛衰史」

2024年11月22日 | 本と雑誌
 
 高見順「昭和文学盛衰史」(文春文庫、1987年、原著は文藝春秋新社、1958年)を読んだ。

 平野謙「昭和文学私論」で知った本だが、尾崎一雄の「あの日この日」と同様に、昭和文学史上の作家と彼らを取り巻く社会情勢の推移を回顧する。文庫本で600頁になんなんとする圧巻の書である。 
 「事実は小説より奇なり」で、本書に登場する作家の多くの作品をぼくは読んでいないが、高見の目から見た登場する作家、編集者その他の人物たちの言動は、彼らの作品を読んでいなくてもきわめて興味深く、面白く読んだ。彼らの多くを襲った困難を思うと軽々に面白かったなどとは言えないのだが。
 多くの作家たちの様々なエピソードが語られているが、本書の中心的なテーマは、大正末から昭和初期にかけてプロレタリア作家として文壇に登場した作家たちが、日中戦争の影響が日本社会にひろがり日本が軍国主義化し、作家に対する政府の弾圧が強まっていく過程で、どのような動機で、どのような形で、どのような方向へと「転向」していったかということだろうと思う。すべての作家が一様にプロレタリア文学から皇道文学や戦意高揚文学へと急旋回したわけではない。
 小林多喜二の拷問による虐殺が著者らに及ぼした影響も語られるが、他方では 島木健作に誘われて高見が志賀高原の発哺温泉に滞在した折に、同宿した小林秀雄、丸山真男、桑原武夫らと交流し、同地で片岡鉄平(一家)と出会ったことなど、ほっとするエピソードもある。発哺で島木は「嵐のなか」という「日本評論」の連載を執筆していたという(454頁~)。

 『新潮』9月号に、当時の東北帝大教授の新明正道が、編輯部からのもとめで畑違いの『文学的雑感』を書いている。自分の「贔屓作家」は丹羽文雄であるとして、その愛読したいくつかの小説の感想を激賞に近い言葉で述べて、この丹羽文雄の小説は自分の大学の学生が愛読している「知性的作家」などの「及び難い精神的な気魄を感じさせる」とも書き、「この逞しさもった作家が積極的に生活と取り組んだ人間を書く場合の素晴らしさを想像し、かくて丹羽氏を嘱望することになった」と言っている。文芸評論専門の批評家がややもすると、作家の欠点のみをあばき立てがちなのに反して、これは作家の長所を見抜いて、その点で作家の成長を鼓舞している、暖かい親切な文章であった。この文章のはじめに、こんなことが書いてある。
 私(新明)が丹羽氏のものを読んでいるなどと言うと、大分意外に思う人があるに違いない。丹羽氏にある概念をあてはめておる世間は、同時に私などにもある概念をあてはめていて、二つの概念を結びつけるのを妙に感じるのではないかと思う。丹羽氏は今でもなお軟派がかった風俗作家と考えられているが、私はまた誰かが誤ってカント学者と評したほど硬苦しい文章で硬苦しい意見を述べ立てている一学究者である。私が丹羽氏を贔屓にしているのは、一面たしかに不似合である。だが、それにも拘らず私が丹羽氏のものに注意を払っているのは事実である。・・・(中略)数名の文学者が軍部の肝煎りで中支見学に行ったが、その顔触れの中には氏も入っていた。・・・なかには人選の杜撰を指摘して、時局的な意識のない連中も入っているという悪口も飛んだ。氏などは当然非難された一人であることは明瞭であった。」(以上は高見による引用、492頁~)

 昭和15年の近衛「新体制」(このことは6月24日に荻窪の荻外荘で発表され、7月7日近衛の軽井沢別邸の記者会見で具体的内容が示されたという)に対処するために、文学界でも10月14日に「日本文学者会」が立ち上げられた。阿部知二、伊藤整、川端康成、小林秀雄、島木健作、林房雄、尾崎士郎、火野葦平らの他に、高見や尾崎一雄も入っている。かれらの主観では、このような「新体制」勢力が文学界に介入してくることに対する防波堤になろうという意図だったようである。
 しかし、丹羽には声はかからなかった。丹羽は、メンバーから外されたのは高見順の讒言があったからであるという友人のデマを信じ、高見に対して抗議の手紙を出した(丹羽は昭和23年の「告白」でこの間の事情を小説にしている)。これに怒った高見はそのような事実はない旨の反駁の手紙を出し、丹羽から謝罪の手紙が返ってきたという(~491頁)。この会に(入って然るべき立場にあったのだろう)丹羽や石川達三が入らなかったのは、上に引用した新明が書いているような「ある概念をあてはめておる世間」の「非難」を恐れたというのが、彼らを参加させなかった本当の理由だろう、そのような理由で彼らを加入させないことを承認した私(高見)も「非難」の側に回っていたということであり、「犯罪が行なわれるのを傍観していたようなものである」と高見は反省する(496頁)。

 この本も、平野謙「昭和文学私論」で知って興味を覚えた本だが、本書巻末の野口富士男解説によれば、平野謙「昭和文学史」が表通りの文学史であるのに対して、高見の「昭和文学盛衰史」は路地裏にまで分け入った文学史であり、両著は昭和文学史の基本的図書であるという。高見の本書は「周辺の時代状況を克明に記録」した点で、平野の著書と異なる特徴をもっているという。
 それにしても、平野「昭和文学私論」、尾崎一雄「あの日この日」、そして高見の「昭和文学盛衰史」と、どうして昭和の文学史はこんなに面白いのだろう。登場する小説の大部分は読んでもいないし、知らない作家の名前も出てくるのに、同人誌や文壇を背景に演じられる彼らの「人間喜劇」は、彼らの作品を読んだこともないのに面白いのである。尾崎や高見の経験と人間を観察する眼と彼らの筆力によるのだろう。

 2024年11月22日 記

 ※ ちなみに高見「昭和文学盛衰史」には永井荷風は一切登場しない。高見の昭和文学史にとって荷風はまったく無縁の存在だったのだろう。


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佐古純一郎「家からの解放」

2024年11月18日 | 本と雑誌
 
 佐古純一郎「家からの解放ーー近代日本文学にあらわれた家と人間」(春秋社、1959年)を再読した。巻末の白ページに「1990年5月14日」という日付けが書いてあり、「本が有利に買える店 八木書店 400円」と印刷されたレシートが挟んであった。
 
 日本の近代文学作品の中から、「家」制度の桎梏に悩み「家」からの自己の解放を目ざしてもがき苦しんだ人びとを描いた作品を取りあげて、明治民法下の「家」制度の実情を紹介し、「家」からの解放に向けた各作者の態度を批判的に論ずる。わが国で個人の個性が本当に尊重されるようになるためには、「家」からの解放が必須であったと著者はいう。
 取り上げられた作品は以下のような諸作である。
 第Ⅰ章 徳富蘆花「不如帰」(明治32年)、樋口一葉「十三夜」(明治28年)、島崎藤村「家」(明治43年)、夏目漱石「道草」(大正4年)、正宗白鳥「何処へ」(明治41年)、菊池寛「父帰る」(大正6年)、山代巴「荷車の歌」、高村光太郎「暗愚小伝」、志賀直哉「和解」
 第Ⅱ章 高村光太郎「道程」、太宰治「ヴィヨンの妻」(昭和22年)
 第Ⅲ章 白樺派、「暗夜行路」(前編=大正10年、後篇=昭和12年)

 志賀直哉と小林多喜二の交流はこの本にも出ていた(191頁)。白樺派の作家、作品に対する著者の評価は厳しい印象がした。とくに志賀「暗夜行路」には手厳しい。執筆の動機が弱く(志賀の母親の死に際して父が平然としているのに祖父が強く嘆いたことから、志賀は祖父と母との関係を勘ぐったという)、時任謙作がしばらく旅に出れば苦悩から解放されてしまうのも安易であると非難する。
 著者は「暗夜行路」を通俗小説と評しているが、むしろそういう側面があるから小津が「風の中の雌鶏」の参考にできたのだろう。時任謙作の回復力の早さ、容易さを考えれば、「風の中の雌鶏」のラストで、佐野周二が「明日からまたやり直そう」といって田中絹代を抱きしめるのも額面通りに受け取っていいのではないか。與那覇潤が黒澤清を援用して主張したように、あの場面は幽霊たちの抱擁だったとまで見ることもない。
 白樺派の作家たちの「善意」には厳しいのに対して、太宰「ヴィヨンの妻」の「義」を重んじようとする記述を評価するなど、かえってデカダン派の堕落には寛容であるように読めた。太宰の甲府時代の作品はぼくも好きで、とくに「新樹の言葉」はぼくが中学受験期の息子たちに奨めた本の中でベストワンだった。教科書で読んだ「富岳百景」も甲府時代だろうか。「富士山には月見草がよく似合う」よりも、「井伏先生は放屁された」という一文が忘れられない。
 高村光雲が光太郎に対してそんなに厳しい父親だったとは知らなかったが、彼の木彫の猿の表情などを思い起こすと(あれは光雲の作品だっただろうか)、光雲の厳しさも分からなくはない気がする。島崎藤村の苦悩も山田和夫「家という病巣」の読者としては素直になれないし、紀田順一郎「日記の虚実」で「一葉日記」に書かれなかった(削除された?)彼女のパトロンとの関係などを知った後では、一葉の経済的困窮もやや減殺されてしまう。
 引用された作品の中では山代巴「荷車の歌」が一番読んでみたくなった。映画化もされていいるようである。

 この本は家族法の講義の際に、明治民法の「家」制度の下での家族生活の実情を紹介する場面で時おり利用させてもらった。もっとも、ぼく自身が現物を読んだことがあるのは菊池寛の「父帰る」だけで、他の作品は昭和25年生まれのぼくにとっても「古くさい」ものだったから、昭和50年代以降に生まれた若い学生たちが旧民法の「家」制度を理解するうえで参考になったかは分からない。多分ならなかっただろう。
 ただし、先日の家族法学会でも「寄与分」(年老いた老親を長女が一人で世話したにもかかわらず、老親が亡くなったら他の子どもたちが出てきて均分(平等)相続を主張するのは不公平であるというような問題)がテーマになっていたから、身の回りでお祖父さんやお祖母さんの世話をめぐって、親が兄妹(=学生にとっては伯父叔母)ともめているのを経験した学生などには分かっただろう。
 今朝のNHKテレビ「朝いち」(?)でも相続問題を特集していたが、21世紀の25年が過ぎようという現在でも、亡くなった親の財産を兄(長男)が単独で相続すると主張して譲らないので困っているという妹からの投書が取り上げられていたから、戦後の新民法から80年経っても「家」意識をもち続ける人間もいるようである。

 白樺派の作家の中で、武者小路実篤も取り上げられていたが、久しぶりに武者小路の名前に接して、祖父母の家の食堂と台所の間に、野菜の水彩画に「仲良きことは美しき哉」という言葉が添えられた武者小路の暖簾がかっていたことを思い出した。
 ぼくは「暗夜行路」は読み通せなかったが、「小僧の神様」は好かったし、有島武郎「一房の葡萄」も好かった。白樺派の善意では真の人間解放はできないとしても、中学生がこれらの小説を読んで温かい気持になれたのは事実である。所詮小説によって人間が解放されることはない。「家」からの個人の解放は、何といっても戦後の新憲法制定と民法改正のおかげである、とぼくは思う。

 2024年11月18日 記

         

 ※ 武者小路の暖簾を思い出したので、物置を探して、武者小路実篤「友情」(新潮文庫、昭和22年、同44年63刷!)を見つけた。武者小路の本で読んだのはこの1冊だけのようだ。表紙が祖母の台所の暖簾と同じ画調なので入れておいた(上の写真)。
 「自分は恋する女のために卑しい真似はしたくない。自分を益々立派にしたく思うだけだ。・・・自分の真価を知ってくれて、それでも来る気が出ない女、そんな女に用はない。・・・正直な男という誇りを失ってまで、女を獲ようとすることは彼にはあまりに恥ずかしいことだ」(46頁)とか、「あの人はまだ誰も愛しようとはしていないよ。・・・しかし今が一番大事な、危険な時だと思うね。・・・もう男に愛されるように用意されている。誰か一人を愛し、たよりたがっている。しかし処女の本能でそれを今用心深く吟味している。まだ意識はしていないだろうが」(60頁)などという文章に鉛筆で傍線などが引いてある(他にも数か所傍線が引いてあったが、今では書き写すほどの文章には思えない)。
 19歳、浪人か大学1年の頃に読んだのだろうが、何を考えていたのか、そして、誰のことを考えていたのか。 (2024年11月22日 追記)

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尾崎一雄「あの日この日(上・下)」

2024年11月06日 | 本と雑誌
 
 尾崎一雄「あの日この日(上・下)」(講談社、1975年)を図書館で借りてきて、ざっと読んだ。尾崎が70歳をこえてから、「群像」に昭和48年12月号まで4、5年にわたって連載したものを大幅に修正したのが本書である。

 尾崎の書いたものは「単線の駅」という小田原での身辺雑記のような小説(随筆だったか?)でけしか読んだことしかない。彼は、大正末期から昭和初年にかけてはプロレタリア文学にも新興芸術派にも属さず、戦時下には戦争文学にも走れなかった少数派(私小説派?)と自己規定する。そして「文学を志して力及ばず、空しく山麓に眠る多くの人・・・、三合目、五合目に至って敗退した人・・・、離反して、他の仕事に走」った人たちなど、身の回りで出会った「無名戦士」たちの夢の跡を訪ねずにはおれなかったと本書執筆の動機を語っている(下428頁)。
 平野謙「昭和文学私論」を読んで本書を知り、上のような執筆動機に魅かれたのだが、平野によれば、尾崎自身が志賀直哉に傾倒するあまり危うくその裾野で潰え去りかかった一人だったという。「山麓に眠る」人々を語るにふさわしい筆者だったのだろう。
 大正5年に「大津順吉」を読んで以来志賀直哉に私淑し(後に奈良で面会がかない、それ以降は知己を得ることになる)、小田原の中学校を出て上京し、神官だった父親の「東大の国文科か皇学館に行け」という意向に反して文学を志し、大正9年に早稲田高等学院に進学した頃から執筆活動をはじめた尾崎の自伝的記述とともに、学院の「学友会雑誌」から、後には「早稲田文学」をはじめたくさんの同人誌にかかわる中で出会った作家志望の若者から志賀直哉、菊池寛、尾崎士郎らの大物まで、まさに文学者「群像」が描かれる。その数は正確に数えてはいないが、数百人に及ぶだろう。下巻の巻末に全登場人物の人名索引がある。

 ぼくが知っている最初の登場人物は野村平爾である(上18頁)。野村さんは早稲田の労働法の教授だったが、ぼくが就職した出版社の編集部長が野村門下で、わが社の(というかその部長の)編集顧問的な地位にあったようで、入社初日の1974年4月1日に、ぼくはその部長に連れられて世田谷区豪徳寺にあった野村先生のご自宅にご挨拶に伺った。社会人になった初日に、自分が生まれ育った豪徳寺に出向き小田急線豪徳寺駅に降り立ったときには不思議な気持ちがした。ただし本書で登場する野村さんは労働法学者としてではなく、早稲田学院の陸上中距離選手としてであった。そういえば、たしか野村先生はベルリン・オリンピックか何かに出場したと聞いたように思う。
 その次は千種達夫である。学院の「学友会雑誌」に尾崎らと並んで名前が見えるが(49頁)、千種(ちぐさ)は後に裁判官になる。戦時中には満州の家族慣行調査に従事したり、松本地裁(区裁?)判事時代には判決文の口語化運動を起したりとユニークな裁判官だったが、そのルーツは学院時代にあったのだろうか。

 大正12年、当時奈良に住んでいた志賀直哉を尾崎が初めて訪問した際、最初に応対に出たのが志賀邸で書生をしていた瀧井孝作だった。ぶっきら棒な瀧井に対して、岐阜県人のための飛騨学寮に友人が住んでいると尾崎が言ったところ、(岐阜出身の)瀧井が「あしこには僕もいたことがある」と答えた、確かに「あしこ」と言ったという(67頁)。それから二人の会話は打ちとけるようになった。
 軽井沢滞在中の志賀を尾崎が訪ねる場面もあった。昭和2年のこと、尾崎は「星野温泉の星野屋という旧式の宿屋で一夜を過ごし」、翌日「千ヶ滝のグリン・ホテルの志賀先生をお訪ねした」のだが、志賀は所用で東京に帰っており、翌日こちらに戻るが「お宿は沓掛の環翠楼になる筈」とホテルの従業員に言われ、環翠楼に回って部屋を確保し、翌日志賀と面談している(上356頁)。沓掛には吉岡弥生の病院の千ヶ滝分院があって志賀夫人が入院中であるとも聞かされる。
 星野温泉は最近では「ほしのや」と称しているようだが、「星野屋」はもともとの屋号だったのだ。「環翠楼」とあるのは、かつてぼくも泊まったことのある「観翠楼」ではないだろうか。屋号を変えたのか尾崎が誤記したのか・・・。千ヶ滝に吉岡の(女子医専の)病院があったとは!
 撞球屋で出会った後輩の丹羽文雄が「芥川、佐々木茂索を読んでいる」と言ったのに対して、尾崎は「危ない」と思った。そこで尾崎は、彼らは「うまい作家だ。しかし彼らのうまさは都会人の持つ神経に拠っている・・・若いうちに彼らに深入りするのは、あまりに早く自分を限定することになる。・・・志賀直哉を読むべきである・・・」と助言したという。丹羽は「よっしゃ!志賀直哉」と答えて志賀作品に喰らいつき、筆写までしたという(上277頁)。その後も尾崎と丹羽の交友はつづき、丹羽の「鮎」の出版祝賀会の当日に生まれた息子を尾崎は「鮎雄」と命名した(下287頁)。

 昭和6年頃、結婚をして生活に困っていた尾崎を救済すべく、志賀は西鶴の現代語訳の仕事を尾崎にあてがう。尾崎は訳業を完成させるが印税のことを直接出版社に打診したことなどから志賀の不興を買う(下120頁)。改造社版の「志賀直哉全集」(いわゆる円本か?)の編集も任されたが、ここでも大誤植を見落としてしまう。志賀は小林多喜二の刻苦勉励の生活ぶりを例に挙げて尾崎を叱責した(下115頁~)。小林多喜二が志賀の熱心な読者で、両者の間に交流があったことなど(下153、160頁ほか多数)、文学史上有名なエピソードらしいが、ぼくはまったく知らなかった。
 数年間の緘黙生活の後に、尾崎は復活して昭和8年に短編「暢気眼鏡」を書き上げる。瀧井経由で文藝春秋に持ち込むが放置されているうちに、早稲田の後輩が「人物評論」という雑誌を立ち上げ尾崎にも原稿依頼に来る。尾崎は「暢気眼鏡」を文春から引き上げて「人物評論」に掲載する。やがて単行本化されて砂子屋書房(この本屋もよく出てくる)から刊行された「暢気眼鏡」は昭和12年に第5回芥川賞を受賞することになる(下225頁)。

 全体を通して(とくに下巻では)志賀直哉との関係が底流になっている。
 尾崎の回顧は原則として年代順なのだが、頻繁に時代が前後する。同じ話題があちこちで何度も繰り返されることもある。とくに連載中だった昭和46年前後には志賀をはじめとして、多くの先輩や同志が鬼籍に入る。
 昭和3年、左翼と別れた右派が団結して紀伊國屋書店の田辺茂一の援助で「文藝都市」を刊行した話から、その稿を書いていた昭和46年に話が飛ぶ。その年の11月19日に阿川弘之から(志賀危篤の)電話があって上京し連載執筆のためにいったん帰宅するが、翌々日に志賀が亡くなった知らせが阿川夫人からあって再び上京する(上385頁~)。このあと上巻の残りの大部分は志賀の思い出に費やされる。志賀が亡くなったのは関東中央病院とある。ぼくの所属した研究会の先輩にこの病院の脳神経外科部長だった方がいた。用賀にある病院だが、晩年の志賀は世田谷に住んでいたから近くの病院だったのだろう。
 早稲田学院以来の友人で早稲田の独文の教授になった中谷博との交流とその死、困窮時代に近居した白井弘夫妻・親子との交流や白井の死のことなどは(下126頁~)しんみりさせられる。中谷だったかとの間には100数十通の手紙の交換があったようである。筆まめなことにも感心する。さすが物書きである。

 本書によって文学史上に名を遺すことになった「山麓に眠る」文士たちも以って瞑すべしというべきだろう。ぼくも文学ではないが、その道を「志して力及ばず、空しく山麓に眠る」ことになる一人だが、誰か覚えていてくれる人はあるだろうか。

 2024年11月6日 記

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鶴見俊輔「戦後を生きる意味」、同「戦争体験」

2024年11月04日 | 本と雑誌
 
 鶴見俊輔「戦後を生きる意味」(筑摩書房、1981年)、鶴見俊輔対話集「戦争体験--戦後の意味するもの」(ミネルヴァ書房、1980年)を斜めに読んだ。数十年ぶりの再読である。

 鶴見「戦後を生きる意味」は、「1981年10月11日(日)読了」とメモがあった。全部を読んだわけではなく、「柳宗悦」「石川三四郎」「太宰治」「竹内好」「加藤周一」「なくなった雑誌」「金芝河」の7編を読んだようだ。
 現在でも多少の関心があるのは石川だけである。彼は埼玉県児玉郡(現在は本庄市)で生まれたという。関越道に標識の出ている「本庄・児玉」のあたりなのだろう。当初は農本主義に近かったが、農本主義が日本の軍国主義を支えるようになってからは、自らの思想を「土民思想」(デモクラシーとルビを振る)と称したそうだ(48頁)。鶴見によれば、石川は大正デモクラシーの本流だった東大新人会が後に露呈することになったもろさを克服する視点を示し、日本の知識人に対して土人としての再生をうながすことを提言したという(50頁)。
 「土民思想としてのデモクラシー」が日本に広がることはなかったが、石川自身はその信条に忠実に、千歳村(世田谷の千歳か?)に農園を開いて同志と一緒に自給自足の農耕生活を送った。石川は天皇制は批判したが、天皇には親愛の感情をもっていて、天皇は日本の民衆の自治を祝福する祭司となりうると考えていたという(53~4頁)。
 
 「なくなった雑誌」は戦後間もなくに発刊したもののやがて廃刊になってしまった小雑誌を回顧する。
 理論社からは「理論」という雑誌が、国土社からは「国土」という雑誌が出ていたという(126頁~)。理論社の小宮山量平によると、編集者は執筆者(と読者?)の間にあって軽く扱われる縁の下の力持ちである、彼(編集者)のかもす劣等感が働き、同時代の中に猜疑心や裏切りを作り出すものとなるという(127頁)。どこまでが小宮山の言葉でどこからが鶴見の文章なのか分かりにくかった。
 ぼくが編集者だった頃、岡茂雄の「本屋風情」という本が出た(平凡社、1974年)。原稿をもらいに来た編集者に対して、執筆者である京大教授だったかの奥さんが「本屋風情・・・」という言葉を浴びせたというエピソードが印象的だった。「本屋」とは「書店」でなく「出版社」の意味である。現在はいざ知らず(今もありそうだが)、当時は編集者はそのように見られていたのだ。編集者時代のぼくは筆者から面と向かって「本屋風情」などといわれたことはなかったが、そういう雰囲気を感じたことは何度かあった。鶴見の(小宮山の?)「劣等感」という言葉の背後にもそのような見方が伺える。
 「新風土」(小山書房)という雑誌もあった(131頁)。この雑誌の編集方針の出発点は下村湖人だったという。下村は田澤義鋪とともに地域の青年団の組織化を目ざした。その後青年団は翼賛運動に絡めとられてしまうが、彼らが目ざしたのはそれとは似ても似つかない運動だったという(131~2頁)。

 昨年佐賀を旅行した折、佐賀空港から吉野ヶ里に向かう途中で通った神埼市の田園の中に「下村湖人記念館」だったかの看板が立っていた。神埼は下村の故郷である。数日後、嬉野から祐徳神社に向かう途中のJR 佐世保線鹿島駅近くに「田澤義鋪」生誕地だったかの立札が立っているのを見かけた。
 田澤義鋪のことは何も知らなかったのだが、田澤には思い出がある。日系三世のアメリカ人で田澤を研究しているという留学生に数十年前に会ったことがあった。彼はアメリカ生まれアメリカ育ちでアメリカの大学院に在籍する純粋のアメリカ人で、当然英語がネイティブ、日本語は親からではなく自分で勉強したという篤学の研究者なのだが、外見はまったくの日本人のため「日本語はできて当然」と見られて損をしていると指導教授が語っていた。
 日本人でも知らない田澤義鋪に彼が何で興味をもったのか不思議に思っていたが、本書で田澤の来歴や思想を知り、田澤や下村の出た広大で肥沃な佐賀平野を見て以降は(古代吉野ヶ里が興隆した経済的基盤は佐賀平野の米だろう)、日本からアメリカに移住した祖父母を祖先にもつ彼が田澤に興味をもったのも分からないではないと思うようになった。
 その後彼はどうなったのだろうか、本書で彼のことを思い出したので Google で検索してみると、何冊か英語の著書を出版していて、現在ではイギリスの大学の名誉教授になっていることが分かった。

   *   *   *

 鶴見俊輔対話集「戦争体験」には、「1980年7月20日(日)pm3:35 暑い。湿気を帯びて空は曇りはじめた。30℃」と書き込みがあった。鮎川信夫、司馬遼太郎、吉田満、粕谷一希、橋川文三ら、保守派というか戦後民主主義懐疑派との対談を収める。
 鶴見の「序論」の中に、鶴見の坊主刈りのことが書いてあった(7頁)。鶴見と安田武と山田宗睦の 3人が交代で、毎年 8月15日になると頭を丸刈りにしたのである。すっかり忘れていたが、確かにそんなイベントがあったことを思い出した。戦争の記憶を風化させないためだと思っていたが、「髪を伸ばしているのが当たり前だと思い込んで、疑わなくなるのがいや」だからだったと理由を語っている。
 彼ら3人のあの行動は、男子国民すべてに丸刈りを強制した戦前の軍部専制時代への反発、そのような画一主義に抵抗し、髪型の自由に象徴されるライフ・スタイルの多様性を認める社会への願いが込められていたのだった。

 ぼくはNHK朝の連続ドラマ「寅に翼」を8月の初めころだったか以降は見るのをやめた。
 主人公の夫が出征するというのに長髪のままだったのである。裁判官や会社員すら丸刈りにする者が少なくなかったあの時代に、インテリの一兵卒が髪を伸ばしたままで出征、入営することなど考えられないことである。まるで出張にでも行くように「ちょっと兵隊に行ってくるよ」と見えてしまう。
 ぼくにとって、戦争ドラマを作る側の真剣度を測る際の譲れない基準が、出演者男優が丸刈りになっているか否かである。古くNHKテレビ・ドラマ「歳月」で船越英一郎は丸刈りになっていた。主役の中井貴一はスポーツ刈り程度だったが、それでも長髪ではなかった。「寅に翼」でも主人公の弟役の俳優だけは丸刈りにしていた。題名は忘れたが戦争ドラマで、三浦春馬が丸刈りになっていたのを見た。それまで彼のことは(三菱銀行のポスターで見た以外は)あまり知らなかったのだが、役作りに向けての彼の真剣さを感じた。

 いずれにしろ、鶴見を読むことはもうないだろう。土着の思想、生活からの思想といっても、高見の見物に思えてしまう。断捨離しよう。

 2024年11月4日 記
 

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高橋睦郎監修「禁じられた性」

2024年11月03日 | 本と雑誌
 
 11月3日は「文化の日」、「国民祝日法」(略称)によると、文化の日の趣旨は「自由と平和を愛し、文化をすすめる」だそうだ。「自由と平和を愛する」日とは知らなかった。さすが昭和23年(1948年)に制定された法律である。そんな雰囲気が社会に横溢していたのだろう。
 11月3日も(東京オリンピック開会式の)10月10日と同じく、気象上の特異日だそうだが、今年の11月3日も昨日までとうって変わって朝から秋晴れである。
 文化の日には文化勲章の授与式が行われるが、今年の受賞者の中に「高橋睦郎」の名前があったので、この人にまつわる話題を1つ。
 
 民法の近親婚禁止規定(民法734条1項)を検討する論稿を書いたことがある。その際にわが国における近親相姦の現状を紹介した本を何冊か読んだのだが、そのうちの1冊が、高橋睦郎監修「禁じられた性ーー近親相姦・100人の証言」(潮出版社、1974年)という本だった。
 高橋睦郎という人は本来は詩人のようで、同書では自分の初体験と母親への思いを語った「日本のオイディプース」という序論を書いている。文化人類学者からも注目されていたようで、ぼくのこの問題に関する基本書になった川田順造編著「近親性交とそのタブー」(藤原書店、2001年)の中でも、文化人類学者に交じって、「自瀆と自殺のあいだーー近親相姦序説」という文章を書いている。同論文の目次には「アイルランド現代詩と『源氏物語』ーー“むすめを姦す父” とその息子の復讐」という、内容を示す見出しがついている。

 高橋監修の「禁じられた性」には近親者間の性行為を経験した100人の告白が掲載されている。すべての告白が真実であるかは検証の手段もない。この手の告白は「幻想」を語っているにすぎないという批判もあるようだが(例えば原田武「インセスト幻想ーー人類最後のタブー」人文書院、2001年を参照)、個々の告白内容にはいずれもリアリティーがあり、事実ではないかと思われる事例が多かったというのがぼくの読後感である。
 それでも、高橋の「監修」で、彼の「序論」を含む同書を自分の論稿に引用してよいものか、正直なところ躊躇があった。しかしわが国の現状を紹介した書物はほとんどなかったので、川名紀美「密室の母と子」(これも潮出版社)などとともに引用した。
 ところが、数日前の新聞で今年の文化勲章受章者が発表されたが、その中に「高橋睦郎」の名前があったのである。詩人の世界のことはまったく関心もなく、彼がそのような大人物だとも知らなかったので驚いた。
 前に永井荷風の文化勲章受章に関して、文化勲章の受賞にはとかくのうわさが絶えないと書いたが、文化勲章の授与によって、受賞者に対して世間が何らかの権威を与えることは間違いないだろう。
 少なくとも、近親婚禁止に関する論稿で高橋の文献を引用したぼくは、彼の文化勲章受章によって、「噴飯もの」の文献を引用したわけではないと思ってもらえるだろうという期待感をもった。彼が近親相姦に関する研究によって文化勲章を受章したのではないにしても、である。
 たかが文化勲章、されど文化勲章である。ぼくが読んだ限りでは、高橋氏は「自由と平和を愛」する人士であった。

 2024年11月3日 記

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千葉伸夫「小津安二郎と20世紀」

2024年10月31日 | 本と雑誌
 
 千葉伸夫「小津安二郎と20世紀」(国書刊行会、2003年)を読んだ。

 先日、旧北国街道沿い海野宿の古書店で買ったもの。
 偶然2、3日前の「鉄道・絶景の旅」というテレビ番組(BS朝日)で長野県の海野宿をやっていた(数年前のものの再放映のようだった)。つい先日行ったばかりだったので懐かしかった(下の写真)。

   

 本書は小津の戦前・戦後の映画を発表年度順に、家族社会学などでいわれる家族周期ーー世帯形成期(結婚)、育児期、教育期、子の独立期(就職、結婚)、老年期(廊下、死亡)ーーという準拠点に従って時系列で読み解いていく(13頁、207頁、270頁、ほか)。
 小津自身が「ホームドラマ」と言っている一連の映画を素直に「家族」に焦点を絞って論じていて、順当かつ常識的な読み方で納得できる記述が多かった。とくに、與那覇潤「帝国の残影」というきわめて特異で独自の視点からの小津映画論を読んだ直後だったこともあり、すっと内容が腑に落ちた。
 著者はこれまでにも、小津を論じた書籍の中で各作品のストーリーや、小津の年譜を執筆したことがあり、本書の執筆に当たっては小津家から資料の提供を受けたという。
 本文中には、作品ごとに著者による梗概が記されており、巻末には、小津監督の全作品のタイトル、発表年、原作者、スタッフ、キャストを一覧できる作品目録がついているので、小津映画の簡便なインデックスにもなっている。

 著者の本職は「ノンフィクション作家」ということだが(表紙カバー折返し)、小津論や山中貞雄の評伝などを執筆しており、大学で映画論を講じたりもしているという。20年の歳月をかけて執筆したという本書にはその側面からの記述も少なくないが、ぼくにはこの側面をコメントする能力はない。例えばスタニスラフスキー演出の小津的解釈(203頁)など。
 ただ、ぼくはこれまでに小津関連の本をけっこう読んでいるので、知っている事柄も多かった。また小津監督の映画もかなり見ている(戦後で見ていないのは「宗方姉妹」=「むなかたきょうだい」と読むらしい!だけ)ので、著者の論旨にもついていけた。ただぼくは「小津安二郎全日記」を読んでいないので、既読書で紹介されていないエピソードをいくつも知ることができた。

 戦場で親を殺されて一人残された中国人の赤子の傍を通りすぎた時のこと(1939年4月4日)、「暗夜行路」の後編は戦場で初めて読んで戦地で最も感激したこと(同年同月9日、なお237、240頁~)、「東京暮色」が「エデンの東」の翻案であり、有馬稲子がジェームス・ディーンだという解釈(299頁。びっくりしたが、確かにジミー兄弟の母親は厳格な夫と別れて売春宿を経営しており、同じく厳格そうな夫と別れた山田五十鈴は麻雀屋を経営していた!)、「彼岸花」では「あまり芸術などと云わないで、のんびりと儲かる映画を作ればいい」と思っていたこと(307頁)。
 そして「秋日和」は60年安保闘争のさなかに、闘争とは無縁に蓼科にこもって書かれ、その制作意図は「観客の気持が大人になる映画を作りたい」という点にあったこと、(318~9頁)、原節子の引退、母の死去、「秋刀魚の味」の執筆・撮影・公開がすべて1962年に起ったことであり(326~8頁)、翌63年にがんが判明し同年の12月12日に亡くなったこと、1958年からテレビに押されて映画観客数は減少の一途をたどり、小津最後の作品となったのも「青春放課後」というNHKのテレビ映画だったこと、小津の日記にも(共作者の)里見弴の日記にもその感想が一言も書いてなかったこと(336頁)などが紹介されていた。
 未完に終わった「大根と人参」の「金沢六髙同窓」(337頁)は「金沢四髙」か「岡山六髙」だろう。

   

 本書の最後は小津の死によって結ばれるが、小津が亡くなったのは1963年12月12日、場所は御茶ノ水の東京医科歯科大学病院だった。きのう御茶ノ水の病院に定期診断に行った際、待合室の窓から御茶ノ水駅に入ってくる丸ノ内線の赤い車両が見えた。医科歯科大学病院は画面のもっと左側にあるが、一応写真を載せておく。

   

 もう一つ、今日はハロウィンとかで、先日軽井沢にいた時に関越道の上里サービスエリアに飾ってあったハロウィンのデコレーションの写真も。
 取りとめもなく・・・。

 2024年10月31日 記

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與那覇 潤「帝国の残影」

2024年10月25日 | 本と雑誌
 
 與那覇 潤「帝国の残影――兵士・小津安二郎の昭和史」(NTT出版、2011年)を読んだ。
 先日、旧北国街道、海野宿にドライブした際に、街道沿いの古書店で買ったもの。「古本カフェのらっぽ」という店だったらしい。「らっぽ」とはどういう意味か、店主に聞いておけばよかった。

 さて、読んでみると、これが大変に面白かった。小津の映画をこんな風に読む(見る)こともできるのかと思い知らされながら読んだ。
 小津はあの戦争(日中戦争ないしアジア太平洋戦争)を兵士として体験しながら、あの戦争を描かなかった監督といわれてきたし、ぼくもそう思っていた。しかし著者によれば、小津は、明治期から日中、太平洋戦争の敗北にいたる(大日本)「帝国の残影」を描きつづけた映画監督だったという。最も「日本」的といわれ、戦争描写の欠落した「家族映画」といわれる小津映画の中に、東アジアに植民地を有する「帝国」だった日本の歴史が反映されており、一兵士としての小津の中国大陸における経験がいかに影響していたかを著者は析出する。
 しかも著者は、このことを小津の失敗作といわれる(シネマ旬報の順位の低かった)作品の系譜をたどる中から論証していく。すなわち、「風の中の雌雞」(1948年、キネマ旬報7位)、「宗方姉妹」(1950年、同7位)、「お茶漬けの味」(1952年、同12位)、そしてシネ旬の順位が最低だった「東京暮色」(1957年、同19位)などの諸作品である(26頁~)。

 「戸田家の兄妹」で、二男の佐分利信が、長男・長女夫婦らに冷遇されている母と妹を連れていく先が実際には(画面でも脚本でも)「天津」なのに、多くの小津映画研究者(佐藤忠男も含む)が「満州」と誤読していることの指摘と、その誤読の解釈もユニークである(32頁)。大陸に渡った佐分利の行先がどこだったのかぼくは記憶にない。日本が侵略した中国大陸のどこかに佐分利は一旗揚げに行ったので、そこが天津だろうと満州だろうと同じことくらいにしか考えていなかったのが正直なところである。
 しかし著者にとって「天津」であることはきわめて重要な意味をもつ。中国に派兵された小津は、戦場で志賀直哉「暗夜行路」(岩波文庫)を愛読しているが、「暗夜行路」で時任謙作の恋愛相手となるお栄は、大陸に渡ったものの天津で水商売に失敗し、大連で盗難にあい、最後は京城(現在のソウル)で行き詰って謙作に引き取られて帰国する。「王道楽土」の「満州」ではなく、「暗夜行路」お栄の不吉な行路の出発点となる「天津」は、戸田家の一見すると安定した家族像の裏面に小津がしのびこませた家族崩壊の予兆のメッセージだったと著者はいう(35頁~)。
 そして、「宗方姉妹」にわずかに登場する「大連」は、「暗夜行路」のお栄が流れていった先であり、ここにも著者は「帝国」の残影を見る。著者によれば、「宗方姉妹」は「晩春」に見られた小津調家族映画に対する自己批判である(47頁)。さらに、「暗夜行路」のお栄が最後に流れ着いたのが京城であり、時任謙作がお栄を迎えに京城に行った留守中に(謙作の)妻と従兄とが密通してしまうのであるが、「東京暮色」でも、夫(笠智衆)が「京城」に単身赴任中に、妻(山田五十鈴)が夫の部下(中村伸郎)と駆け落ちしてしまう。この映画でも「京城」は家族崩壊の記号としての意味をもっているのである。
 小津映画では、「戸田家の兄妹」の天津、「宗方姉妹」の大連を経て、「東京暮色」で京城に辿りつく。「そしてその時点で『晩春』のごとき『小津的』な家族は完全な自壊へと至るのである」と著者はいう(58頁)。天津、大連、京城にそんな含意があったとは、ぼくは思ってもみなかった。しかも「東京暮色」は、林芙美子(というか水木洋子)の「浮雲」に対する小津の応答でもあるという(同頁。このことは浜野保樹の見解だそうだ)。「浮雲」と「東京暮色」との関連など、「浮雲」を見た時も、「東京暮色」を見た時にもまったく思い浮かびもしなかった。「浮雲」の高峰秀子と森雅之が、「東京暮色」の山田五十鈴と中村伸郎だったとは。

 さらに「暗夜行路」を下敷きにした「風の中の雌雞」の、戦後の生活困窮時に売春をしてしまった事実を復員してきた夫に告白する妻(田中絹代)と夫(佐野周二)が抱擁しあって再生を誓うラストシーンを、病気の子どもも、戦場から帰ってきた夫も、階段から突き落とされた妻もみんな死人であり、あれは幽霊同士の抱擁であるとする黒澤清の解釈を、「暗夜行路」の結末から見て正当な解釈であると支持する(41頁)。田中は告白などしなければよかったのにとぼくは思ったが、著者によれば、「嘘」を嫌った小津にとって、この場面での「嘘」は許されなかったのだ。
 ぼくは、田中絹代の台詞まわしは、田中が「雨月物語」の幽霊になっても「田中絹代」そのままだと感じたことがあったから、「風の中の雌雞」ラストシーンの田中が実は幽霊だったという解釈は、これもなるほどと呻った。この本を読んでいると著者の深読みにしばしば呻らされることになる。
 「呻らされる」ついでに、「東京暮色」のラストシーンで、北海道に去っていく山田と中村の不倫カップルの乗った列車が出発を待つ上野駅ホームで、応援団風の学生たちが歌う明治大学校歌の騒々しさに辟易したのだが、著者は、同校校歌の「いでや東亜の一角に・・・正義の鐘を打ちて鳴らさむ・・・独立自治の旗翳し・・・遂げし維新の栄になふ 明治その名ぞ吾等が母校」という漢文調の(すなわち「中国化」された?)歌詞を引用しつつ、あのシーンは「明治」以来の「私たちは『帝国』たりうる存在なのだ」という「嘘」の崩壊を暗示しているという(206頁)。明大校歌の歌詞まで援用しながらタネ明かしをされると、ここでも「なるほど」と呻らざるを得ない。この「東京暮色」のラストシーンを佐藤忠男や川本三郎さんは小津の最高の表現のひとつに数えているという。
 日本の近代化はたんなる西欧化ではなく、朱子学化でもあったという指摘は、明治初期の法制度の近代化の過程を少し眺めただけのぼくにも了解可能であるし(明治20年代になっても「民法出でて忠孝亡ぶ」などという批判がまかり通っていた!)、まさに近代化の尖兵の一つであった明治大学(明治法律学校)の校歌は、西欧化にして漢語化を象徴しているように思う。

 小津は、次の世代の木下惠介「日本の悲劇」の試写会を退席して以来両者は不仲となり、お互いの作品を見なかったという。ぼくは木下の「カルメン故郷に帰る」を見た後の小津が「いい映画を見た後は酒がうまい」と言ったというエピソードを何かで読んだ覚えがあるのだが・・・。小津が嫌った「日本の悲劇」で母親を見捨てる冷淡な長男役を演じた田浦正巳に、妊娠した有馬稲子を見捨てて死に追いやり平手打ちを食らうという人格下劣な男の役を「東京暮色」で割り振ったのは木下への意趣返しだったのではないかと解釈する(161頁)。そこまでは、とも思うが、「東京暮色」の田浦の役は俳優としては演じたくない役柄ではあっただろう。
 小津映画に頻出する「麻雀屋」への嫌悪感(128頁ほか)、同じく「ラーメン屋」の意味(「東京暮色」の鶴田浩二と津島恵子のラーメン屋でのデート、東野英治郎と杉村春子父娘が営む来燕軒など)の解釈などにも(144~5頁)呻らされた。
 その他、「小早川家の秋」、「青春放課後」(というテレビドラマが小津の最後の作品だったという)、「彼岸花」、さらには「麦秋」「晩春」などの小津作品に見られる日本の「東西」問題(西日本問題)が、網野善彦の「日本」論などとの関係で語られる(151頁)。ぼくは「東西」問題以前に、浪花千栄子や中村雁治郎らの関西弁が耳障りで画面に集中できないのだが、関西弁に対してそんな強い拒否感をぼくが抱く深層にも、日本人の「東西」問題が潜んでいるのだろうか。

 サブタイトルにもなっている「昭和史」に対する成田龍一らの最近の視点、丸山眞男、竹内好、蓮實重彦ら旧世代の発言と、それらに対する著者の応答も、ぼくの読解能力を超える。そして何より残念なのは、著者與那覇さんの創見である「日本の中国化」という視点が理解できていないので、小津映画にみられる「中国化」についても論評できないことである。
 もっと勉強しなければならないと思う一方で、小津映画はもっと単純に見てもよいのではないか、という思いも捨てられない。本書で一番の収穫だったことは、一般に小津の失敗作といわれている「戸田家の兄妹」「風の中の雌雞」「東京暮色」「宗方姉妹」などが決して失敗作などではなく、小津の戦争体験が背景にある重要な作品と見る見方を教えられたことだろう。
 ぼくは「父ありき」から「秋刀魚の味」に至る小津の「家庭映画」の温かさも嫌いではないが、「戸田家の兄妹」「風の中の雌雞」「東京暮色」なども印象的な作品で、失敗作とは思えなかった。本書はこれらの諸作品を解読して、新たな見方をぼくに示してくれた。
 ぼくは、「帝国」と「家族」の矛盾(206頁)という側面に注意しながら「東京暮色」を見たくなった。

 2024年10月25日

 蛇足を1本。本書の冒頭に、「晩春」のなかで子役が川上の赤バットをまねてバットに塗料を塗りたくったが乾かないと言って泣きべそをかき、これを原節子がからかうシーンの意味が不明であるという指摘がある。実は当初のシナリオでは、娘を嫁がせた父親(笠智衆)が家に戻ってひとり号泣するというラストシーンだったのを、笠が号泣するという演技に猛反発したため現行のようなシーンに改変されたという。そのために生じた「オチの欠如した落丁本だった」という(9頁)。
 ぼくは、「晩春」の原と子役の会話シーンがあったことなど忘れていたが(小津映画の子役が出てくるシーンは嫌いでいつも読みとばしてしまうのだが)、「落丁」というほどでもないと思う。ラストシーンで笠が号泣しようとしまいと、子役と原の会話は「人は泣きたいけれど泣かないこともある」というメッセージを伝えている点で、ラストシーンの笠の心境を暗示していると思う。

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G・シムノン「名探偵エミールの冒険 (2) 老婦人クラブ」

2024年10月18日 | 本と雑誌
 
 ジョルジュ・シムノン「名探偵エミールの冒険 (2) 老婦人クラブ」(長島良三訳、読売新聞社、1998年)を読んだ。
 「名探偵エミールの冒険」シリーズ全4巻を借りてきたのだが、最初に読んだ「エミールの小さなオフィス」(第1巻「ドーヴィルの花売り娘」所収)から期待外れの出来だったので、各巻の表題作だけ読んで図書館に返却してしまったのだが、この第2巻だけは何も読まないまま返却するか迷っていた。で、小さな時間があったので、表題作の「老婦人クラブ」だけ読んだ。
 「老婦人クラブ」という題名からしてまったく読む気が起きなかったのだが、読んでみるとぼくが読んだ「名探偵エミール」シリーズの中ではこれが一番よかった。辛うじて及第点というレベルではあるが。
 50歳以上のセレブ女性だけが入会できるパリの婦人クラブが舞台である。このクラブに女装して紛れ込んで入会した男がいるというので、会長の老婦人からエミールに調査の依頼が来る。エミールは男の素性を調べ上げるのだが、突如老婦人から調査の中止を申し渡される。さて、・・・といった話である。
 この小説が書かれた1943年頃のフランスでは、50歳以上の女性は「老婦人」“vieilles dames” だったとは! 文中には「可愛い老嬢」などという表現も出てきたが、フランスではそんな存在もいるのか。
 これで「名探偵エミール」ものはお終いにしよう。

   

 本巻の巻末エッセー「シムノンを訳す喜び」で、訳者長島氏のメグレとの出会いが語られる。大学(仏文科)1年の夏休みに、フランス語を半期学んだだけでシムノンの「メグレと若い女の死」と「メグレと殺人者たち」の2冊(もちろん原書)を丸善で買ってきて一夏かけて読破したという。ぼくの大学1年の頃のフランス語力と何という違いか。
 ぼくも大学1年生の頃はフランス・レジスタンスへの思い入れは強かったのだが、夏休みに読んでいたのは淡徳三郎「抵抗」と「続・抵抗」、アンリ・ミシェル「レジスタンスの歴史」(クセジュ文庫、もちろん日本語訳)だった。
 大学1年の後期授業ではドーデ「星」、メリメ「マテオ・ファルコネ」、さらに「星の王子」なんかを読まされ、放課後のアテネ・フランセではモージェの日常会話ばかり読んだり喋らされていた(泣)。あの頃、メグレ警部ものでもテキストに指定してくれる教師がいたら、ぼくのフランス語は違う方向に進んだのだろうか? おそらくそれでもだめだっただろう。

 長島氏は、5年かかって大学を卒業後、出版社に15年勤務した後に独立して翻訳家になったという。留年、出版社勤務、独立というキャリアは割とぼくの人生と似ている。ぼくの出版社勤務は9年間で、退職後は教師になったが。彼はメグレもの78冊のうち、30冊以上を翻訳したという。河出書房のメグレ警部(いつの頃からか警視になった)シリーズの多くは長島氏の訳だった。シリーズの企画自体も彼だったのではないか。
 彼には、「メグレ警視」(読売新聞社、1978年)という著書があり、さらに「名探偵読本2 メグレ警視」(パシフィカ、1978年)という編著もある。これらでメグレに関する基礎知識は十分に得られるが、最近ではネット上にもっと詳細な書誌目録や映画化なども含むメグレ研究のページがある。
 ※ 「名探偵読本 メグレ警視」に挟んであったジル・アンリ「シムノンとメグレ警視」(河出書房)の書評(朝日新聞(1980年か?)11月2日付、「安」名義)によると、メグレものは102編あり、河出版「メグレ」全50巻の完結によって未訳の作品は10数編に減ったとなっている。

 2024年10月18日 記

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佐藤春夫「小説永井荷風伝」

2024年10月16日 | 本と雑誌
 
 佐藤春夫「小説永井荷風伝 他3篇」(岩波文庫、2009年。単行本は新潮社、1960年)を読んだ。
 佐藤春夫の書いたものを読むのは初めてである。若い頃はまったく関心がなかったが、今回は荷風への関心から読んでみることにした。

 慶応義塾予科での出会いから、市川での葬儀、雑司ケ谷での納骨までを描く。たんなる評伝ではなく、語り手であり登場人物でもある佐藤による小説というより回想録のようなもの(佐藤の頻用する言葉でいえば「あんばい」)である。
 荷風自身が記述するところ、巷間に流伝するところ、佐藤自身が見聞したことを三脚として、これに真偽定まらぬ伝説、佐藤の感情移入、思い出などを交えて書いたことが「小説」を標榜した所以のようである。中村光夫との論争で表明した「荷風=エディプスコンプレックス説」などはエピソードの一つに過ぎない印象だった(88頁~)。
 佐藤は、荷風を「自叙伝作家」とでもいうべきものであるとし、その「作品史」がそのまま「伝記」と精妙な一致をみるという。ただし、佐藤のこの評伝はなぜか「断腸亭日乗」をほとんど援用しない点で、他の評伝に比べて出色である。「日乗」から援用を始めると「日乗」の摘録になってしまうからではないか。

 佐藤は、少年時代から文学者としての荷風に心酔し、慶応予科では学生として謦咳に接し、その後も「荷風読本」の編者に推挙されるほどの信任を得ながら、やがては子弟の縁を切られるという数奇な関係を閲している。評伝を書くにふさわしい著者である。 
 佐藤の見立てでは、荷風は、一方では都会の育ちのよい律儀で礼儀正しい純粋な性情の人間であり、もう一方では、その良家、厳父の桎梏からの解放を願った反社会的人間でもある。また、一方で天性の詩人にして、もう一方で「異常な色情の人である」(12頁)という。
 荷風にまつわるエピソードの取捨や評伝全体からも、上のような荷風の二面性が浮かび上がってくる。佐藤の筆からは、荷風に対する強い憎しみも感じないかわりに、強い哀惜の念も感じられない。そういう意味では公平な評伝という印象を得た。

 以下エピソード風に印象に残ったことをいくつか記しておく。 
「花火」における幸徳秋水の大逆事件を契機に戯作者になったという荷風の言葉を額面通りに受け取るべきではない、自ら流布した伝説であるという説を卓見という(68頁)。
 芥川が偏奇館の文学は「西遊日誌抄」にとどめを刺すとして、(昭和初年には)荷風を無視したこと、文士は閑居してゴシップを好む者たちであり、芥川門下と同様「日乗」にも度々出てくるように荷風もゴシップ好きだったという(96頁)。
 荷風が社会や政治に関心が深かったことを示すエピソードとして、何かの折に「近衛文麿はだんだん悪相になって行くね」と語ったという。近衛の顔の変化など、きちんと新聞でも読んでいないと分からなかっただろう。先日NHKテレビ「映像の世紀」で、近衛がヒットラーに扮した写真を見たが、「悪相」というより呆れ果てた。

 現地を見ないかぎり執筆できないという荷風の実地踏査主義の結果として、荷風は(売春に関する)一種の風俗史家ということができると佐藤はいう(124頁)。また、「大久保だより」や「日和下駄」などは「東京歳時記」というべき作品であり、荷風の東京風土研究であるという(併載の「永井荷風」273頁)。
 荷風が戦後に一時期寄寓した小西茂也が深川あたりの米問屋の裕福な息子で、最初は荷風の崇拝者だったが、自宅の空部屋を提供して同居するうちに幻滅し、荷風が死んだら全て暴露すると宣言しつつ(佐藤も出席した「三田文学」の座談会でそう宣言した)、荷風より先に亡くなってしまった(173頁)。小西の暴露は何かで読んだような気がする(小西の家屋の室内で七輪で古原稿を燃やしたという話が出ていた)。ぜひとも暴露話を読みたかった。
 荷風の偽書事件などをめぐる平井程一らとの一件について佐藤は、紀田順一郎「日記の虚実」とは違って、平井らを悪者として描いている。平井ら二人は一時期佐藤のもとにも出入りしていたという。筆先は荷風との関係を取りなすよう佐藤に依頼したことがあったというKにも及ぶ(132頁)。Kは久保田万太郎らしい。

 佐藤が荷風に縁を切られたのは、「荷風読本」(三笠書房、昭和11年)の印税をめぐってであるという批判に対して、佐藤は「日乗」にある三笠書房との紛糾の内容は採録する作品をめぐっての対立であり印税の問題ではないと反論し(144頁)、佐藤が戦時中の言動を理由に荷風から排斥されたのは昭和16年のことであると訂正する。
 半藤「荷風さんの昭和」でも引用していたが、本書でも、佐藤が荷風を「規格外の愛国者」であると評したことが荷風の不興を買った原因だったとして、「日乗」の同年5月16日付の記事を援用している(146頁)。荷風は「日乗」で佐藤を「田舎者」と書いているが、「田舎者」は荷風最大の蔑称である。佐藤は戦後になっても、荷風は国土を愛し、国語の純化をこころざした「愛国者」であったと信ずると書く(1960年)。ただし、佐藤は、荷風の不興を買った戦時中の言動のうち、壮士然として皇道文学を吹聴したことなどについては黙している。
 なお、併録された「永井荷風」によると、米仏から帰朝した荷風は一部ジャーナリズムから「非国民」呼ばわりされたというが、ここでも佐藤は、荷風を「故国に文明を切望する無二の愛国者であった。・・・ただその愛国の観念は軍人と同一でなかっただけである」と書いている(259頁~)。佐藤はどこまでも荷風を「愛国者」にしたいようである。戦時中に「非国民」呼ばわりされた荷風(併載の「最近の永井荷風」219頁)を佐藤は「汚名」と考え、何とかその汚名を雪ぎたいと思っているようだが、荷風本人は「非国民」呼ばわりなどむしろ名誉とさえ思っていたのであり、「愛国者」などと呼ばれることこそ不本意、不愉快なことだっただろう。

 荷風の文化勲章受章、芸術院会員就任を正宗白鳥が皮肉ったらしいが、佐藤も受賞は不当ではないが不自然だったと書く(165頁)。久保田万太郎の推挙によると何かに書いてあったが、佐藤もKの推挙であると書いている(194頁)。芸術院会員も文化勲章も兎角の噂がたえない賞だから、荷風に限らず誰が受賞しても異論は起こるだろう。正宗も佐藤も久保田も(!)文化勲章を受章したらしい。
 荷風の不遇の死を、佐藤は「宿望たる陋巷の窮死を自然死の利用による自殺」の遂行であったと見る(188頁)。その葬儀をKが取り仕切っていることを同道した瀬沼(茂樹?)は不快に思うが、佐藤は誰かがやらなければならいのだからよいではないか、と取りなしている(192頁~)。その席で、弟威三郎が荷風に仇敵視された理由に思い至っていないことを知り、気の毒に思うと書いている(196頁)。

 巻末に荷風に関する佐藤の小論3篇が併録されている。「永井荷風ーーその境涯と芸術」は荷風生前に書かれた評伝だが、「あめりか物語」から「濹東綺譚」に至る初期作品の中から当時の荷風の真情が現われた個所が引用されていて、読まずに済ますことができた。ちょうど川本編「荷風語録」によって戦後に発表された作品を読まずに済ますことができたのと同様である。
 それにしてもなぜここまで荷風に引きずられるのか、我ながら不思議である。川本さんに始まって、吉野、半藤、紀田、秋庭、平野、佐藤と芋ずる式である。
 もうそろそろ、平野謙「昭和文学私論」で興味をもった高見順、尾崎一雄あたりに乗り換えていいだろう。
 
 2024年10月15日 記

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