↑ 上の写真は旧軽井沢スケートセンターから眺めた浅間山
8月8日の法科大学院の期末試験でようやく前期の仕事が終わり、翌9日から軽井沢に来ている。
↓ 中軽井沢駅隣りの“沓掛テラス”
軽井沢での仕事として予定していた8月23日締切りの原稿を書いていたら、突如8月末締切りの原稿の依頼(というより命令)が入った。一昨年亡くなった恩師の随想集を出すのでそのうちの何篇かの「解説」を書くようにという、兄弟子からの指示である。
これが結構厄介で、中軽井沢駅の隣に新設された“沓掛テラス”内の中軽井沢図書館に通って、新藤兼人の「愛妻記」(「午後の遺言状」も必要なのだがなかった)などを読んでいる。
“沓掛テラス”はなかなか良い。まず名前がいい。「軽井沢」にこだわらず、「沓掛」にしたことが最大の美点。ぼくが初めて(中)軽井沢に来たのは昭和32年だが、当時は「中軽井沢駅」はまだ「沓掛駅」だった。それでよかったのだ。
駅前交差点の角に「沓掛時次郎饅頭」の看板を掲げた土産物屋があるが、これが店じまいしてしまっているのが残念・・。
↓ 玉村豊男の“ヴィラ・デスト”
午前中は原稿書き。午後は図書館に行って調べ物やメール等のチェック。夕方1時間程度の散歩が日課。夜も勉強の後、ビデオを見て風呂に入って寝る、という毎日。
8月11日は、ツルヤで偶然出会った従弟と叔母に誘われて、東御市(「とうみ」と呼ぶらしい)にある玉村豊男経営の“ヴィラ・デスト”というところに出かけてランチ。イングランド・ガーデン風の庭に女房も気に入った様子。
子羊のステーキを頼んだが、叔母の選んだ若鶏のほうが美味しそうだった。
8月12日は大賀ホールで中村紘子のピアノ。
早めについたので、矢ヶ崎公園の木陰で時間をつぶす。午後4時半開場。8分の入りか。中村紘子は初めてだが、演奏の合間のトークが結構辛口のユーモアがあって面白かった。
昔、晩年のホロヴィッツが来日した時の演奏を酷評しているのをテレビで見たが、そのままだった。話しぶりと演奏の兼ね合いは、教師としても参考になった。
↓ 久しぶりの千ケ滝
8月15日は、セゾン美術館前の空き地にクルマを駐め、そこから歩いて千ケ滝に登った。
千ケ滝に出かけるのは50年ぶりに近い。その頃はセゾン美術館などなく、鬼押し出しに向かう途中の観翠楼のあたりから左折して山道を延々と登った記憶がある。帰り道で夕立に降られ、そのままスケートセンターの温泉に駆け込んだ。
小学生だったせいか、もっと雄大な滝のように思っていたが、意外と小ぶりだった。高さは20メートルと書いてある。
↓ 浅間テラスから眺める浅間山
今年の散歩の収穫は“浅間テラス”という場所を見つけたこと。
1000メートル林道を直進して、千ケ滝西区分譲地(?)の西北の外れあたりまで来ると、「軽井沢インターナショナル・スクール工事現場 xx組」とかいう看板が立っていた。どんなことになっているのかと見に行くと、学校は見つからなかったが、レタス畑が広がる向こうに浅間山がすそ野をきれいに伸ばしていた。
軽井沢で浅間山がきれいに見える場所はどんどん少なくなってしまったが、ここはいい。こんな場所があるとは今まで知らなかった。旧国土計画が開発した千ケ滝(西区)分譲地だが、その外れにはこんなレタス畑が残っていたとは・・・。
千ヶ滝西区のあたりは、かつては入会地だったのだろう。秋に行くと、地元の人が大勢で敷地内に入って栗を拾ったりしていた。川島武宜さんの「日本人の法意識」にも軽井沢の別荘に立ち入る地元の人の話が出てくる(川島さんの別荘が軽井沢のどこにあったかは知らないが)。
堤義明は、どのようにして大日向村と千ヶ滝分譲地の境界を決めたのだろうか。いずれにせよ、原生林を伐採して別荘地にされてしまった千ヶ滝のむこうに、あんな自然が残っていたとは感動である。
↓ 中軽井沢駅から眺めた浅間山。手前にある白樺は、あの旧駅舎の前に立っていた白樺だろうか。
8月16日は女房の誕生日。
旧軽井沢の三笠会館でランチ。後で、音羽の森のディナーのチラシがクルマの中に置いてあったことに気づいた。本当はこっちが希望だったのかも・・・。
この間、夜のビデオ鑑賞は小津安二郎で行くことにした。
8月10日 「お早よう」
8月11日 「秋刀魚の味」
8月13日 「一人息子」
8月14日 「晩春」
8月16日 「お茶漬の味」
8月18日 「麦秋」
8月19日 「戸田家の兄妹」
8月20日は「三人の妻への手紙」を見た。脚本はアーサー・ミラーとあった。小津の「秋刀魚の味」を戦後間もないころのアメリカの小都市に舞台を移すと、こんな映画になるのだろう。
2013/8/21 記