豆豆先生の研究室

ぼくの気ままなnostalgic journeyです。

高見順「故旧忘れ得べき」

2024年11月27日 | 本と雑誌
 
 高見順「故旧忘れ得べき」(小学館、2022年)を読んだ。
 小学館の “P+D BOOOKS” というシリーズの1冊。このシリーズは、入手困難な名作をペーパーバックとデジタルで同時に同一価格で発行するもの。図書館で借りてきたペーパーバック版で読んだが、いかにもペーパーバックといった体裁の軽装版で、かえってお洒落な感じがする。
 本作は昭和10年の第 1 回芥川賞候補作で、単行本の初版は、人民社!から昭和11年(1936年)に発行。第 1 回芥川賞では太宰治も候補に入っていたが、受賞したのは石川達三の「蒼氓」だった。
 「昭和文学盛衰史」の高見順がどのような小説を書いた人なのかを知りたくて読んでみた。
 高見はいわゆる「転向」作家なのだが、プロレタリア文学から方向転換せざるをえなかったが、かと言って国粋文学だの皇道文学だの戦意高揚文学など真っ平御免であるという立ち位置にあった高見はどんなものを書いたのだろうか。
 読んでみて驚いた。こういうのが「転向文学」「転向小説」なのか!

 登場する人物はみんな左翼崩れなのだが、いずれも旧制高校(それもほとんどが旧制一高、時たま浦高)から帝国大学(こちらはほぼ東京帝大)の卒業生で、時代が時代ならみんなエリートである。主人公の小関健児は帝大の英文科を卒業したものの就職難のため、親戚の中学教師の紹介で出版社の臨時雇いで辞書の編集を手伝っているうだつの上がらない男である。見合いで結婚した妻は器量のよくない女で、その母親は経済的に不安定な夫(小関)の先行きを不安に思ったが「帝国大学」卒業の肩書を見込んで娘を結婚させた。
 「昭和文学盛衰史」によると、高見は一時期研究社で市河(三喜)の和英大辞典の編集を手伝ったとあったから、小関は高見自身なのだろう。当時の就職難は小津安二郎の「大学は出たけれど」などを思い浮かべればよい。
 もう一人の準主役の篠原辰也も同じく左翼崩れだが、実家が金持ちの上に転向後は流行雑誌「ヴォーグ」を発行する出版社を経営していて羽振りがよく、カフェだか酒場だかの女給と同棲生活を送っている。マルクス・ボーイからモダン・ボーイへの転身である。

 彼らの男女関係の濃密な描写や、篠原らに誘われて小関が銀座などで放蕩する生活の描写は昭和初期の風俗を描いた風俗小説である。性描写というほどではないが、男女関係の描写も意外と自由である。永井荷風もそうだったが、この当時の権力者は性風俗の描写には甘かったようである。
 カフェ、待合、女給、マネキン、エレベーター・ガール、就職難、安アパート、男女の同棲などといった風俗は昭和初期だが(主人公が女と一緒に待合に入るが風呂だけ浴びて帰る場面があったが、待合を銭湯のかわりに使うこともあったのか!)、登場人物や背景を描く筆致は軽やかで、現代小説のような雰囲気すら感じられる(といってもぼくは「現代小説」をほとんど読んでいない)。文章も古臭さがなく(新字体、新仮名遣いのせいかも)、人物の造形描写はややまどろっこいが、話の展開のテンポは悪くない。
 「筆者」が平然と登場したりもする。「第1節で紹介すみの篠原は・・・」とか、「篠原が往日の俤をとどめないとしたらそれは筆者の観察違いというよりは・・・」とか、登場人物の一人の旧制高校時代について、「その頃の彼は左傾していたというと、・・・読者は小説的作為と疑うかもしれぬが、当時の青年層を誰彼の区別なく熱病のように襲ったその左傾現象は、それを事実のまま書いたら却って小説にならぬ・・・から、小説的作為の点から事実を枉げて書く」などという記述もある。極めつけは、「読者よ。二人の会話をここで中断する不躾を筆者にゆるされ度い。筆者はなんとも胸糞がわるくなって、こんな忌まわしい会話を忠実に書きとめる苦痛に堪えられなくなったのである」などという言い訳もある。
 著者が読者と対話しているというか、読者に語りかけている印象である。

 鈴木茂三郎、大山郁夫など実在の人物も実名で登場するが、S県の特高課長M(や軍人)などは仮名になっている。同時代の作家や左翼活動家たちには誰のことかは自明だったのだろう。権力者、軍部の尻馬に乗るような連中に対する高見の反感は「昭和文学盛衰史」と共通である。
 そう言えば、一高、帝大の話題も結構出てきた。当時の帝大(東大)では「法科」が一番難しく、「法科」には2、3年かけなければ合格できないような成績でも「経済」なら(旧制高校さえ出ていれば)簡単に入ることができたので「やむなく」経済に入る学生もいた。その「法科的」学生がやがて「官吏こそ人間の仕事のうちで最も高い選ばれたものである」というような「官僚的」人間に名前を変えるのであると著者は書いている。今春の東大入試では「文科一類」(法学部)の合格最低点が「文科三類」(教養学部、文学部)の合格最低点を下回ったという。戦後80年にしてようやく官僚の権威、人気も衰退したのだろう。
 この小説は、自死した同志沢村の追悼集会の場面で結ばれる。妻子を残して自死した沢村は(モデルは誰?)帝大の経済を出たものの左翼活動で逮捕、刑務所歴があり、もともと丸の内のサラリーマン生活などは望まなかったので、喫茶店のコック、競馬場や行政裁判所の臨時雇いをしながら生活の糧を得る日々を送っていた。
 妻子へのカンパのために開かれた追悼式で最後にスピーチに立った仲間が、「戦闘的革命家」沢村の死は「反動期における行き詰ったインテリゲンチャの苦悶の象徴である」という弔辞を述べる。そして酒宴となるが、小関が「故旧忘れ得べき」を歌おうじゃないかと提案する。“Should Auld Acquaintance Be Forgot” 、どうして古い友達を忘れることができようか。小関が歌い出すと、なんだ「蛍の光」じゃないかと言いながらみんなもつづく。沢村と離別する侘しい歌声であった(223頁)。
 「故旧忘れ得べき」とは、「蛍の光」別名「別れのワルツ」だったのだ。

 裏表紙の解説には、本書は「転向」した筆者たちが抱えた「虚無感」を描いているとの紹介がある。主人公らの自堕落な生活ぶりの背後にそのような「虚無感」はあったのだろうが、その割には意外に明るく強かに生きているな、というのがぼくの感想であった。
 「転向」以前の高見はどんな「プロレタリア」小説を書いていたのだろうか。「蒲田の労働者はこのように描かなければならない」などと上層部(?)から指示されていたこと(政治主義)が「昭和文学盛衰史」に書いてあったが、彼らにとってはその頃のほうが表現の自由は制約されていたのではなかったのだろうか。ぼくにはそう思えた。

 2024年11月27日 記

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きょうの軽井沢(2024年11月25日)

2024年11月26日 | 軽井沢・千ヶ滝
 
 日帰りで軽井沢に行ってきた。紅葉は終わってしまったようだが、25日は全国的に晴れて絶好の行楽日和で、26日からは天気が崩れるというので、今年最後の軽井沢に行くことにした。
 朝8時20分に出発してほどなく関越道に入る。天気が良く、遠くに富士山も見える。本庄児玉を過ぎると、時おり正面に浅間山と石尊山が見え隠れする。山腹から山頂まで一片の積雪すらなかった。昔なら11月も末になれば山頂は雪で覆われていたのに。約50分で上里SAに到着。
   
 
 上里を出て、藤岡から上信自動車道に分岐して、碓氷峠(?)を登る。妙義山の山影が見えてくる。妙義山といえば、大相撲の妙義龍が引退してしまった。勝っても負けても悠然として表情を変えず、好きな力士だったのだが。九州場所では花道で警備をしている姿をテレビで見かけた。
   
   

 碓氷軽井沢インターで下りて、取り付け道路(?)を軽井沢の町中に向かう。山道の両側は紅葉はすでに終わったのか、早くも枯れ木モード。
   

 まずは発地市場に立ち寄って野菜を買い込み、ツルヤにも立ち寄って、11時すぎに到着。
 発地からは、冬の青空を背景に浅間山が裾野を広げている全景が眺められた。
   

 日が暮れる前に帰宅したかったので、3時前には軽井沢を出発する。4時前というのに、日陰に入ると早くも冬の夕枯れの空気が漂っていて気が滅入る。
 夏休みに孫たちが蝶々やトンボ、バッタを追いかけた浅間台公園の草も枯れ、人っ子一人いなかった。なぜか駐車場には10台近くの車が止めてあった。
   
   
 
 最後の写真は、国道18号線、借宿の交差点から眺めた浅間山。今年最後の浅間山だろう。

 2024年11月25日 記

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高見順「昭和文学盛衰史」

2024年11月22日 | 本と雑誌
 
 高見順「昭和文学盛衰史」(文春文庫、1987年、原著は文藝春秋新社、1958年)を読んだ。

 平野謙「昭和文学私論」で知った本だが、尾崎一雄の「あの日この日」と同様に、昭和文学史上の作家と彼らを取り巻く社会情勢の推移を回顧する。文庫本で600頁になんなんとする圧巻の書である。 
 「事実は小説より奇なり」で、本書に登場する作家の多くの作品をぼくは読んでいないが、高見の目から見た登場する作家、編集者その他の人物たちの言動は、彼らの作品を読んでいなくてもきわめて興味深く、面白く読んだ。彼らの多くを襲った困難を思うと軽々に面白かったなどとは言えないのだが。
 多くの作家たちの様々なエピソードが語られているが、本書の中心的なテーマは、大正末から昭和初期にかけてプロレタリア作家として文壇に登場した作家たちが、日中戦争の影響が日本社会にひろがり日本が軍国主義化し、作家に対する政府の弾圧が強まっていく過程で、どのような動機で、どのような形で、どのような方向へと「転向」していったかということだろうと思う。すべての作家が一様にプロレタリア文学から皇道文学や戦意高揚文学へと急旋回したわけではない。
 小林多喜二の拷問による虐殺が著者らに及ぼした影響も語られるが、他方では 島木健作に誘われて高見が志賀高原の発哺温泉に滞在した折に、同宿した小林秀雄、丸山真男、桑原武夫らと交流し、同地で片岡鉄平(一家)と出会ったことなど、ほっとするエピソードもある。発哺で島木は「嵐のなか」という「日本評論」の連載を執筆していたという(454頁~)。

 『新潮』9月号に、当時の東北帝大教授の新明正道が、編輯部からのもとめで畑違いの『文学的雑感』を書いている。自分の「贔屓作家」は丹羽文雄であるとして、その愛読したいくつかの小説の感想を激賞に近い言葉で述べて、この丹羽文雄の小説は自分の大学の学生が愛読している「知性的作家」などの「及び難い精神的な気魄を感じさせる」とも書き、「この逞しさもった作家が積極的に生活と取り組んだ人間を書く場合の素晴らしさを想像し、かくて丹羽氏を嘱望することになった」と言っている。文芸評論専門の批評家がややもすると、作家の欠点のみをあばき立てがちなのに反して、これは作家の長所を見抜いて、その点で作家の成長を鼓舞している、暖かい親切な文章であった。この文章のはじめに、こんなことが書いてある。
 私(新明)が丹羽氏のものを読んでいるなどと言うと、大分意外に思う人があるに違いない。丹羽氏にある概念をあてはめておる世間は、同時に私などにもある概念をあてはめていて、二つの概念を結びつけるのを妙に感じるのではないかと思う。丹羽氏は今でもなお軟派がかった風俗作家と考えられているが、私はまた誰かが誤ってカント学者と評したほど硬苦しい文章で硬苦しい意見を述べ立てている一学究者である。私が丹羽氏を贔屓にしているのは、一面たしかに不似合である。だが、それにも拘らず私が丹羽氏のものに注意を払っているのは事実である。・・・(中略)数名の文学者が軍部の肝煎りで中支見学に行ったが、その顔触れの中には氏も入っていた。・・・なかには人選の杜撰を指摘して、時局的な意識のない連中も入っているという悪口も飛んだ。氏などは当然非難された一人であることは明瞭であった。」(以上は高見による引用、492頁~)

 昭和15年の近衛「新体制」(このことは6月24日に荻窪の荻外荘で発表され、7月7日近衛の軽井沢別邸の記者会見で具体的内容が示されたという)に対処するために、文学界でも10月14日に「日本文学者会」が立ち上げられた。阿部知二、伊藤整、川端康成、小林秀雄、島木健作、林房雄、尾崎士郎、火野葦平らの他に、高見や尾崎一雄も入っている。かれらの主観では、このような「新体制」勢力が文学界に介入してくることに対する防波堤になろうという意図だったようである。
 しかし、丹羽には声はかからなかった。丹羽は、メンバーから外されたのは高見順の讒言があったからであるという友人のデマを信じ、高見に対して抗議の手紙を出した(丹羽は昭和23年の「告白」でこの間の事情を小説にしている)。これに怒った高見はそのような事実はない旨の反駁の手紙を出し、丹羽から謝罪の手紙が返ってきたという(~491頁)。この会に(入って然るべき立場にあったのだろう)丹羽や石川達三が入らなかったのは、上に引用した新明が書いているような「ある概念をあてはめておる世間」の「非難」を恐れたというのが、彼らを参加させなかった本当の理由だろう、そのような理由で彼らを加入させないことを承認した私(高見)も「非難」の側に回っていたということであり、「犯罪が行なわれるのを傍観していたようなものである」と高見は反省する(496頁)。

 この本も、平野謙「昭和文学私論」で知って興味を覚えた本だが、本書巻末の野口富士男解説によれば、平野謙「昭和文学史」が表通りの文学史であるのに対して、高見の「昭和文学盛衰史」は路地裏にまで分け入った文学史であり、両著は昭和文学史の基本的図書であるという。高見の本書は「周辺の時代状況を克明に記録」した点で、平野の著書と異なる特徴をもっているという。
 それにしても、平野「昭和文学私論」、尾崎一雄「あの日この日」、そして高見の「昭和文学盛衰史」と、どうして昭和の文学史はこんなに面白いのだろう。登場する小説の大部分は読んでもいないし、知らない作家の名前も出てくるのに、同人誌や文壇を背景に演じられる彼らの「人間喜劇」は、彼らの作品を読んだこともないのに面白いのである。尾崎や高見の経験と人間を観察する眼と彼らの筆力によるのだろう。

 2024年11月22日 記

 ※ ちなみに高見「昭和文学盛衰史」には永井荷風は一切登場しない。高見の昭和文学史にとって荷風はまったく無縁の存在だったのだろう。


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喪中欠礼の葉書(2024年)

2024年11月20日 | あれこれ
 
 今朝、ショッキングな葉書が届いた。
 大学のゼミで1年下級生だった女性のご主人から、彼女の死を知らせる喪中欠礼の葉書だった。
 卒業後50年間一度も会うことはなかったが、年に一度、正月の年賀状だけは(それこそ双方の親の喪中の年を除いて)欠かすことなく取り交わしてきた。毎年毛筆で一言添えられていた。達筆だった。
 それが今年の7月に彼女は亡くなっていたという。年齢も1歳下の元気で活動的な女性だったから、当然ぼくのほうが先だろうと思っていただけに、ショックだった。

 これまでにも何度か書いたが、学生時代、彼女の国際法のレポートを代筆したり、民事訴訟法の論点ノートを作ってあげたりした。下心ありありだったが、効果はなかった。
 卒業式当夜に開かれたゼミの謝恩会の帰りが遅くなって湘南電車の下り終電で彼女を家まで送っていたら、お父さんが泊っていきなさいと言って下さって、もう1人のゼミ生と一緒に彼女の家に泊めてもらった。
 卒業した年の五月の連休に、彼女から電話があって新宿駅東口のビルの1階か地階にあった「ビストロ アンアン」という店で二人で食事をした。期待して出かけたが、ただのお礼の飲み会だった。その日、彼女は恵比寿の友人の下宿に泊めてもらうというので、恵比寿駅を背にして夜の住宅街の坂道を並んで歩いた。沈丁花が匂っていた。それが彼女と会った最後だった。1974年の卒業だから、今年でちょうど50年になる。 
 その時のボトルキープカードを今でも持っている(写真)。有効期限はとっくに過ぎているし、あの店が今でもあるのかどうかすら分からない。

 卒業から4年後にぼくは結婚し、数年後れて彼女も結婚した。その後は年賀状の近況報告だけがつづいたが、毎年年末が近づくと彼女と年賀状を交換するのが楽しみだった。今年は何を書こうか、彼女の年賀状にはどんなことが書き添えてあるだろうか。
 今年の元旦に届いた彼女からの年賀状は印刷文字だけで、何も添え書きがなかった。そのころすでに体調がすぐれなかったのだろうか。昨年(令和5年)の年賀状も見ると、「元気にしてますか。ずいぶん年が経ちましたね。」とあった。これが彼女との最後の会話になってしまった。彼女こそ元気だったのだろうか。
 そして今朝の葉書である。
 日程メモを見ると、彼女が亡くなった日にぼくは家内と軽井沢に出かけていた。この夏の酷暑のさなか、もう彼女はいなかったのだ。
 一昨年に、高校大学と一緒で学生時代一番親しかった友人を失っている。この年齢になると、喪中欠礼の葉書は見るのが怖い。

 きょう書類の整理をしていたら、E・ルディネスコ「ジークムント・フロイト伝」を読んだときのメモが出てきて、そこにボルヘスの言葉が書き写してあった。
 「人が本当に亡くなるのは、その人を知っている最後のひとりが亡くなったときである。」(7頁)
 彼女との思い出はぼくひとりだけのものになってしまったけれど、ぼくは忘れないでおこう、あの学生時代の日々を。

 2024年11月20日 記

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佐古純一郎「家からの解放」

2024年11月18日 | 本と雑誌
 
 佐古純一郎「家からの解放ーー近代日本文学にあらわれた家と人間」(春秋社、1959年)を再読した。巻末の白ページに「1990年5月14日」という日付けが書いてあり、「本が有利に買える店 八木書店 400円」と印刷されたレシートが挟んであった。
 
 日本の近代文学作品の中から、「家」制度の桎梏に悩み「家」からの自己の解放を目ざしてもがき苦しんだ人びとを描いた作品を取りあげて、明治民法下の「家」制度の実情を紹介し、「家」からの解放に向けた各作者の態度を批判的に論ずる。わが国で個人の個性が本当に尊重されるようになるためには、「家」からの解放が必須であったと著者はいう。
 取り上げられた作品は以下のような諸作である。
 第Ⅰ章 徳富蘆花「不如帰」(明治32年)、樋口一葉「十三夜」(明治28年)、島崎藤村「家」(明治43年)、夏目漱石「道草」(大正4年)、正宗白鳥「何処へ」(明治41年)、菊池寛「父帰る」(大正6年)、山代巴「荷車の歌」、高村光太郎「暗愚小伝」、志賀直哉「和解」
 第Ⅱ章 高村光太郎「道程」、太宰治「ヴィヨンの妻」(昭和22年)
 第Ⅲ章 白樺派、「暗夜行路」(前編=大正10年、後篇=昭和12年)

 志賀直哉と小林多喜二の交流はこの本にも出ていた(191頁)。白樺派の作家、作品に対する著者の評価は厳しい印象がした。とくに志賀「暗夜行路」には手厳しい。執筆の動機が弱く(志賀の母親の死に際して父が平然としているのに祖父が強く嘆いたことから、志賀は祖父と母との関係を勘ぐったという)、時任謙作がしばらく旅に出れば苦悩から解放されてしまうのも安易であると非難する。
 著者は「暗夜行路」を通俗小説と評しているが、むしろそういう側面があるから小津が「風の中の雌鶏」の参考にできたのだろう。時任謙作の回復力の早さ、容易さを考えれば、「風の中の雌鶏」のラストで、佐野周二が「明日からまたやり直そう」といって田中絹代を抱きしめるのも額面通りに受け取っていいのではないか。與那覇潤が黒澤清を援用して主張したように、あの場面は幽霊たちの抱擁だったとまで見ることもない。
 白樺派の作家たちの「善意」には厳しいのに対して、太宰「ヴィヨンの妻」の「義」を重んじようとする記述を評価するなど、かえってデカダン派の堕落には寛容であるように読めた。太宰の甲府時代の作品はぼくも好きで、とくに「新樹の言葉」はぼくが中学受験期の息子たちに奨めた本の中でベストワンだった。教科書で読んだ「富岳百景」も甲府時代だろうか。「富士山には月見草がよく似合う」よりも、「井伏先生は放屁された」という一文が忘れられない。
 高村光雲が光太郎に対してそんなに厳しい父親だったとは知らなかったが、彼の木彫の猿の表情などを思い起こすと(あれは光雲の作品だっただろうか)、光雲の厳しさも分からなくはない気がする。島崎藤村の苦悩も山田和夫「家という病巣」の読者としては素直になれないし、紀田順一郎「日記の虚実」で「一葉日記」に書かれなかった(削除された?)彼女のパトロンとの関係などを知った後では、一葉の経済的困窮もやや減殺されてしまう。
 引用された作品の中では山代巴「荷車の歌」が一番読んでみたくなった。映画化もされていいるようである。

 この本は家族法の講義の際に、明治民法の「家」制度の下での家族生活の実情を紹介する場面で時おり利用させてもらった。もっとも、ぼく自身が現物を読んだことがあるのは菊池寛の「父帰る」だけで、他の作品は昭和25年生まれのぼくにとっても「古くさい」ものだったから、昭和50年代以降に生まれた若い学生たちが旧民法の「家」制度を理解するうえで参考になったかは分からない。多分ならなかっただろう。
 ただし、先日の家族法学会でも「寄与分」(年老いた老親を長女が一人で世話したにもかかわらず、老親が亡くなったら他の子どもたちが出てきて均分(平等)相続を主張するのは不公平であるというような問題)がテーマになっていたから、身の回りでお祖父さんやお祖母さんの世話をめぐって、親が兄妹(=学生にとっては伯父叔母)ともめているのを経験した学生などには分かっただろう。
 今朝のNHKテレビ「朝いち」(?)でも相続問題を特集していたが、21世紀の25年が過ぎようという現在でも、亡くなった親の財産を兄(長男)が単独で相続すると主張して譲らないので困っているという妹からの投書が取り上げられていたから、戦後の新民法から80年経っても「家」意識をもち続ける人間もいるようである。

 白樺派の作家の中で、武者小路実篤も取り上げられていたが、久しぶりに武者小路の名前に接して、祖父母の家の食堂と台所の間に、野菜の水彩画に「仲良きことは美しき哉」という言葉が添えられた武者小路の暖簾がかっていたことを思い出した。
 ぼくは「暗夜行路」は読み通せなかったが、「小僧の神様」は好かったし、有島武郎「一房の葡萄」も好かった。白樺派の善意では真の人間解放はできないとしても、中学生がこれらの小説を読んで温かい気持になれたのは事実である。所詮小説によって人間が解放されることはない。「家」からの個人の解放は、何といっても戦後の新憲法制定と民法改正のおかげである、とぼくは思う。

 2024年11月18日 記

         

 ※ 武者小路の暖簾を思い出したので、物置を探して、武者小路実篤「友情」(新潮文庫、昭和22年、同44年63刷!)を見つけた。武者小路の本で読んだのはこの1冊だけのようだ。表紙が祖母の台所の暖簾と同じ画調なので入れておいた(上の写真)。
 「自分は恋する女のために卑しい真似はしたくない。自分を益々立派にしたく思うだけだ。・・・自分の真価を知ってくれて、それでも来る気が出ない女、そんな女に用はない。・・・正直な男という誇りを失ってまで、女を獲ようとすることは彼にはあまりに恥ずかしいことだ」(46頁)とか、「あの人はまだ誰も愛しようとはしていないよ。・・・しかし今が一番大事な、危険な時だと思うね。・・・もう男に愛されるように用意されている。誰か一人を愛し、たよりたがっている。しかし処女の本能でそれを今用心深く吟味している。まだ意識はしていないだろうが」(60頁)などという文章に鉛筆で傍線などが引いてある(他にも数か所傍線が引いてあったが、今では書き写すほどの文章には思えない)。
 19歳、浪人か大学1年の頃に読んだのだろうが、何を考えていたのか、そして、誰のことを考えていたのか。 (2024年11月22日 追記)

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紅葉の軽井沢(2024年11月13日)

2024年11月13日 | 軽井沢・千ヶ滝
 
 今朝のテレビ朝日「モーニングショー」で、軽井沢が映っていた(写真はその画面)。
 紅葉が見ごろを迎え、見物客で軽井沢のあちこちが平日でも大渋滞になっているという。雲場の池から始まって、旧軽井沢通り、峠の見晴台、国道18号バイパス、鳥井原のツルヤなどあちこちの混雑ぶりを紹介していた。

   

 先月に行ったときにはまだ紅葉していなかったが、その後気温が下がって紅葉したのだろう。わが家にももみじが数本植わっていて、亡くなった母がその紅葉を楽しみにしていた。毎年紅葉シーズンに出かけるため、軽井沢には石油ストーブが数台置いてあり毛布や冬用の布団などが何枚も置いてあった。
 ぼくの現役時代には、授業に加えて入試業務も始まる紅葉の時期に軽井沢に行くことなど不可能だったし、定年後もこの時期に泊まりがけで行くこともなくなったので、石油ストーブは数年前に、冬用の布団類は去年すべて粗大ゴミに出して廃棄し、残っていた灯油は行きつけのガソリン・スタンドで廃油処分してもらった。

 亡くなった母は、庭に生えている羊歯と、夏の庭に3、4本咲く実生の百合(鬼百合?)と、秋になると紅葉するもみじが好きだった。今年庭木を伐採した際に、車の通行の邪魔になっているもみじの木も伐採しようかと思ったが、亡母に恨まれそうなので思いとどまった。植木屋さんからも、この木を切るのはもったいないと意見されてしまった。
 ちなみにぼくが好きな軽井沢の植物は、「軽井沢の三大植生」といわれているらしい羊歯と熊笹と苔である。すべて数十年前から自然のままに自生しているものである。その次が1960年代に植えた白樺と落葉松だが、植えた当初はせいぜい2メートル足らずの背丈だったのが、数十年経ってみると巨木化してしまって植えた当初の可憐さがなくなってしまった。
 わが家のもみじも今ごろ紅葉しているだろうか。

 2024年11月13日 記

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車窓からの富士山(西武線)

2024年11月10日 | 東京を歩く

 きのう11月9日(土曜日)の午後4時すぎ、西武池袋線下りの車窓からチラっと見えた富士山の山影。
 夕日を背景にしてブルーグレー色に映えていた。まだ雪化粧はしていないようだった。安物のスマホで撮った写真なので、見えるかどうか。中心部を拡大したものの、もともとが悪いのであまり効果はなかったようだ。
 手前のグラウンドは都立大泉高校の校庭。

    

 きのうは、40年近く参加してきた学術団体(学会)の研究会があった。
 その団体を昨日を最後に退会した。75歳になるのを機に、そろそろ潮時だろうと考えた。やがて判断能力がなくなって、数年間会費未納によって除籍処分になるより前に自分で自己決定できるうちに退会することにした。・・・のだが、少し寂しい気持ちになった。
 
 そんなぼくの心に、初冬(晩秋)の夕日に染まった富士山とあかね雲が訴えてきた。
 と言っても、若山牧水や北原白秋ではなく、「北国の二人」や「バラ色の雲」が心に浮かんだ。

 2024年11月10日 記

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尾崎一雄「あの日この日(上・下)」

2024年11月06日 | 本と雑誌
 
 尾崎一雄「あの日この日(上・下)」(講談社、1975年)を図書館で借りてきて、ざっと読んだ。尾崎が70歳をこえてから、「群像」に昭和48年12月号まで4、5年にわたって連載したものを大幅に修正したのが本書である。

 尾崎の書いたものは「単線の駅」という小田原での身辺雑記のような小説(随筆だったか?)でけしか読んだことしかない。彼は、大正末期から昭和初年にかけてはプロレタリア文学にも新興芸術派にも属さず、戦時下には戦争文学にも走れなかった少数派(私小説派?)と自己規定する。そして「文学を志して力及ばず、空しく山麓に眠る多くの人・・・、三合目、五合目に至って敗退した人・・・、離反して、他の仕事に走」った人たちなど、身の回りで出会った「無名戦士」たちの夢の跡を訪ねずにはおれなかったと本書執筆の動機を語っている(下428頁)。
 平野謙「昭和文学私論」を読んで本書を知り、上のような執筆動機に魅かれたのだが、平野によれば、尾崎自身が志賀直哉に傾倒するあまり危うくその裾野で潰え去りかかった一人だったという。「山麓に眠る」人々を語るにふさわしい筆者だったのだろう。
 大正5年に「大津順吉」を読んで以来志賀直哉に私淑し(後に奈良で面会がかない、それ以降は知己を得ることになる)、小田原の中学校を出て上京し、神官だった父親の「東大の国文科か皇学館に行け」という意向に反して文学を志し、大正9年に早稲田高等学院に進学した頃から執筆活動をはじめた尾崎の自伝的記述とともに、学院の「学友会雑誌」から、後には「早稲田文学」をはじめたくさんの同人誌にかかわる中で出会った作家志望の若者から志賀直哉、菊池寛、尾崎士郎らの大物まで、まさに文学者「群像」が描かれる。その数は正確に数えてはいないが、数百人に及ぶだろう。下巻の巻末に全登場人物の人名索引がある。

 ぼくが知っている最初の登場人物は野村平爾である(上18頁)。野村さんは早稲田の労働法の教授だったが、ぼくが就職した出版社の編集部長が野村門下で、わが社の(というかその部長の)編集顧問的な地位にあったようで、入社初日の1974年4月1日に、ぼくはその部長に連れられて世田谷区豪徳寺にあった野村先生のご自宅にご挨拶に伺った。社会人になった初日に、自分が生まれ育った豪徳寺に出向き小田急線豪徳寺駅に降り立ったときには不思議な気持ちがした。ただし本書で登場する野村さんは労働法学者としてではなく、早稲田学院の陸上中距離選手としてであった。そういえば、たしか野村先生はベルリン・オリンピックか何かに出場したと聞いたように思う。
 その次は千種達夫である。学院の「学友会雑誌」に尾崎らと並んで名前が見えるが(49頁)、千種(ちぐさ)は後に裁判官になる。戦時中には満州の家族慣行調査に従事したり、松本地裁(区裁?)判事時代には判決文の口語化運動を起したりとユニークな裁判官だったが、そのルーツは学院時代にあったのだろうか。

 大正12年、当時奈良に住んでいた志賀直哉を尾崎が初めて訪問した際、最初に応対に出たのが志賀邸で書生をしていた瀧井孝作だった。ぶっきら棒な瀧井に対して、岐阜県人のための飛騨学寮に友人が住んでいると尾崎が言ったところ、(岐阜出身の)瀧井が「あしこには僕もいたことがある」と答えた、確かに「あしこ」と言ったという(67頁)。それから二人の会話は打ちとけるようになった。
 軽井沢滞在中の志賀を尾崎が訪ねる場面もあった。昭和2年のこと、尾崎は「星野温泉の星野屋という旧式の宿屋で一夜を過ごし」、翌日「千ヶ滝のグリン・ホテルの志賀先生をお訪ねした」のだが、志賀は所用で東京に帰っており、翌日こちらに戻るが「お宿は沓掛の環翠楼になる筈」とホテルの従業員に言われ、環翠楼に回って部屋を確保し、翌日志賀と面談している(上356頁)。沓掛には吉岡弥生の病院の千ヶ滝分院があって志賀夫人が入院中であるとも聞かされる。
 星野温泉は最近では「ほしのや」と称しているようだが、「星野屋」はもともとの屋号だったのだ。「環翠楼」とあるのは、かつてぼくも泊まったことのある「観翠楼」ではないだろうか。屋号を変えたのか尾崎が誤記したのか・・・。千ヶ滝に吉岡の(女子医専の)病院があったとは!
 撞球屋で出会った後輩の丹羽文雄が「芥川、佐々木茂索を読んでいる」と言ったのに対して、尾崎は「危ない」と思った。そこで尾崎は、彼らは「うまい作家だ。しかし彼らのうまさは都会人の持つ神経に拠っている・・・若いうちに彼らに深入りするのは、あまりに早く自分を限定することになる。・・・志賀直哉を読むべきである・・・」と助言したという。丹羽は「よっしゃ!志賀直哉」と答えて志賀作品に喰らいつき、筆写までしたという(上277頁)。その後も尾崎と丹羽の交友はつづき、丹羽の「鮎」の出版祝賀会の当日に生まれた息子を尾崎は「鮎雄」と命名した(下287頁)。

 昭和6年頃、結婚をして生活に困っていた尾崎を救済すべく、志賀は西鶴の現代語訳の仕事を尾崎にあてがう。尾崎は訳業を完成させるが印税のことを直接出版社に打診したことなどから志賀の不興を買う(下120頁)。改造社版の「志賀直哉全集」(いわゆる円本か?)の編集も任されたが、ここでも大誤植を見落としてしまう。志賀は小林多喜二の刻苦勉励の生活ぶりを例に挙げて尾崎を叱責した(下115頁~)。小林多喜二が志賀の熱心な読者で、両者の間に交流があったことなど(下153、160頁ほか多数)、文学史上有名なエピソードらしいが、ぼくはまったく知らなかった。
 数年間の緘黙生活の後に、尾崎は復活して昭和8年に短編「暢気眼鏡」を書き上げる。瀧井経由で文藝春秋に持ち込むが放置されているうちに、早稲田の後輩が「人物評論」という雑誌を立ち上げ尾崎にも原稿依頼に来る。尾崎は「暢気眼鏡」を文春から引き上げて「人物評論」に掲載する。やがて単行本化されて砂子屋書房(この本屋もよく出てくる)から刊行された「暢気眼鏡」は昭和12年に第5回芥川賞を受賞することになる(下225頁)。

 全体を通して(とくに下巻では)志賀直哉との関係が底流になっている。
 尾崎の回顧は原則として年代順なのだが、頻繁に時代が前後する。同じ話題があちこちで何度も繰り返されることもある。とくに連載中だった昭和46年前後には志賀をはじめとして、多くの先輩や同志が鬼籍に入る。
 昭和3年、左翼と別れた右派が団結して紀伊國屋書店の田辺茂一の援助で「文藝都市」を刊行した話から、その稿を書いていた昭和46年に話が飛ぶ。その年の11月19日に阿川弘之から(志賀危篤の)電話があって上京し連載執筆のためにいったん帰宅するが、翌々日に志賀が亡くなった知らせが阿川夫人からあって再び上京する(上385頁~)。このあと上巻の残りの大部分は志賀の思い出に費やされる。志賀が亡くなったのは関東中央病院とある。ぼくの所属した研究会の先輩にこの病院の脳神経外科部長だった方がいた。用賀にある病院だが、晩年の志賀は世田谷に住んでいたから近くの病院だったのだろう。
 早稲田学院以来の友人で早稲田の独文の教授になった中谷博との交流とその死、困窮時代に近居した白井弘夫妻・親子との交流や白井の死のことなどは(下126頁~)しんみりさせられる。中谷だったかとの間には100数十通の手紙の交換があったようである。筆まめなことにも感心する。さすが物書きである。

 本書によって文学史上に名を遺すことになった「山麓に眠る」文士たちも以って瞑すべしというべきだろう。ぼくも文学ではないが、その道を「志して力及ばず、空しく山麓に眠る」ことになる一人だが、誰か覚えていてくれる人はあるだろうか。

 2024年11月6日 記

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鶴見俊輔「戦後を生きる意味」、同「戦争体験」

2024年11月04日 | 本と雑誌
 
 鶴見俊輔「戦後を生きる意味」(筑摩書房、1981年)、鶴見俊輔対話集「戦争体験--戦後の意味するもの」(ミネルヴァ書房、1980年)を斜めに読んだ。数十年ぶりの再読である。

 鶴見「戦後を生きる意味」は、「1981年10月11日(日)読了」とメモがあった。全部を読んだわけではなく、「柳宗悦」「石川三四郎」「太宰治」「竹内好」「加藤周一」「なくなった雑誌」「金芝河」の7編を読んだようだ。
 現在でも多少の関心があるのは石川だけである。彼は埼玉県児玉郡(現在は本庄市)で生まれたという。関越道に標識の出ている「本庄・児玉」のあたりなのだろう。当初は農本主義に近かったが、農本主義が日本の軍国主義を支えるようになってからは、自らの思想を「土民思想」(デモクラシーとルビを振る)と称したそうだ(48頁)。鶴見によれば、石川は大正デモクラシーの本流だった東大新人会が後に露呈することになったもろさを克服する視点を示し、日本の知識人に対して土人としての再生をうながすことを提言したという(50頁)。
 「土民思想としてのデモクラシー」が日本に広がることはなかったが、石川自身はその信条に忠実に、千歳村(世田谷の千歳か?)に農園を開いて同志と一緒に自給自足の農耕生活を送った。石川は天皇制は批判したが、天皇には親愛の感情をもっていて、天皇は日本の民衆の自治を祝福する祭司となりうると考えていたという(53~4頁)。
 
 「なくなった雑誌」は戦後間もなくに発刊したもののやがて廃刊になってしまった小雑誌を回顧する。
 理論社からは「理論」という雑誌が、国土社からは「国土」という雑誌が出ていたという(126頁~)。理論社の小宮山量平によると、編集者は執筆者(と読者?)の間にあって軽く扱われる縁の下の力持ちである、彼(編集者)のかもす劣等感が働き、同時代の中に猜疑心や裏切りを作り出すものとなるという(127頁)。どこまでが小宮山の言葉でどこからが鶴見の文章なのか分かりにくかった。
 ぼくが編集者だった頃、岡茂雄の「本屋風情」という本が出た(平凡社、1974年)。原稿をもらいに来た編集者に対して、執筆者である京大教授だったかの奥さんが「本屋風情・・・」という言葉を浴びせたというエピソードが印象的だった。「本屋」とは「書店」でなく「出版社」の意味である。現在はいざ知らず(今もありそうだが)、当時は編集者はそのように見られていたのだ。編集者時代のぼくは筆者から面と向かって「本屋風情」などといわれたことはなかったが、そういう雰囲気を感じたことは何度かあった。鶴見の(小宮山の?)「劣等感」という言葉の背後にもそのような見方が伺える。
 「新風土」(小山書房)という雑誌もあった(131頁)。この雑誌の編集方針の出発点は下村湖人だったという。下村は田澤義鋪とともに地域の青年団の組織化を目ざした。その後青年団は翼賛運動に絡めとられてしまうが、彼らが目ざしたのはそれとは似ても似つかない運動だったという(131~2頁)。

 昨年佐賀を旅行した折、佐賀空港から吉野ヶ里に向かう途中で通った神埼市の田園の中に「下村湖人記念館」だったかの看板が立っていた。神埼は下村の故郷である。数日後、嬉野から祐徳神社に向かう途中のJR 佐世保線鹿島駅近くに「田澤義鋪」生誕地だったかの立札が立っているのを見かけた。
 田澤義鋪のことは何も知らなかったのだが、田澤には思い出がある。日系三世のアメリカ人で田澤を研究しているという留学生に数十年前に会ったことがあった。彼はアメリカ生まれアメリカ育ちでアメリカの大学院に在籍する純粋のアメリカ人で、当然英語がネイティブ、日本語は親からではなく自分で勉強したという篤学の研究者なのだが、外見はまったくの日本人のため「日本語はできて当然」と見られて損をしていると指導教授が語っていた。
 日本人でも知らない田澤義鋪に彼が何で興味をもったのか不思議に思っていたが、本書で田澤の来歴や思想を知り、田澤や下村の出た広大で肥沃な佐賀平野を見て以降は(古代吉野ヶ里が興隆した経済的基盤は佐賀平野の米だろう)、日本からアメリカに移住した祖父母を祖先にもつ彼が田澤に興味をもったのも分からないではないと思うようになった。
 その後彼はどうなったのだろうか、本書で彼のことを思い出したので Google で検索してみると、何冊か英語の著書を出版していて、現在ではイギリスの大学の名誉教授になっていることが分かった。

   *   *   *

 鶴見俊輔対話集「戦争体験」には、「1980年7月20日(日)pm3:35 暑い。湿気を帯びて空は曇りはじめた。30℃」と書き込みがあった。鮎川信夫、司馬遼太郎、吉田満、粕谷一希、橋川文三ら、保守派というか戦後民主主義懐疑派との対談を収める。
 鶴見の「序論」の中に、鶴見の坊主刈りのことが書いてあった(7頁)。鶴見と安田武と山田宗睦の 3人が交代で、毎年 8月15日になると頭を丸刈りにしたのである。すっかり忘れていたが、確かにそんなイベントがあったことを思い出した。戦争の記憶を風化させないためだと思っていたが、「髪を伸ばしているのが当たり前だと思い込んで、疑わなくなるのがいや」だからだったと理由を語っている。
 彼ら3人のあの行動は、男子国民すべてに丸刈りを強制した戦前の軍部専制時代への反発、そのような画一主義に抵抗し、髪型の自由に象徴されるライフ・スタイルの多様性を認める社会への願いが込められていたのだった。

 ぼくはNHK朝の連続ドラマ「寅に翼」を8月の初めころだったか以降は見るのをやめた。
 主人公の夫が出征するというのに長髪のままだったのである。裁判官や会社員すら丸刈りにする者が少なくなかったあの時代に、インテリの一兵卒が髪を伸ばしたままで出征、入営することなど考えられないことである。まるで出張にでも行くように「ちょっと兵隊に行ってくるよ」と見えてしまう。
 ぼくにとって、戦争ドラマを作る側の真剣度を測る際の譲れない基準が、出演者男優が丸刈りになっているか否かである。古くNHKテレビ・ドラマ「歳月」で船越英一郎は丸刈りになっていた。主役の中井貴一はスポーツ刈り程度だったが、それでも長髪ではなかった。「寅に翼」でも主人公の弟役の俳優だけは丸刈りにしていた。題名は忘れたが戦争ドラマで、三浦春馬が丸刈りになっていたのを見た。それまで彼のことは(三菱銀行のポスターで見た以外は)あまり知らなかったのだが、役作りに向けての彼の真剣さを感じた。

 いずれにしろ、鶴見を読むことはもうないだろう。土着の思想、生活からの思想といっても、高見の見物に思えてしまう。断捨離しよう。

 2024年11月4日 記
 

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高橋睦郎監修「禁じられた性」

2024年11月03日 | 本と雑誌
 
 11月3日は「文化の日」、「国民祝日法」(略称)によると、文化の日の趣旨は「自由と平和を愛し、文化をすすめる」だそうだ。「自由と平和を愛する」日とは知らなかった。さすが昭和23年(1948年)に制定された法律である。そんな雰囲気が社会に横溢していたのだろう。
 11月3日も(東京オリンピック開会式の)10月10日と同じく、気象上の特異日だそうだが、今年の11月3日も昨日までとうって変わって朝から秋晴れである。
 文化の日には文化勲章の授与式が行われるが、今年の受賞者の中に「高橋睦郎」の名前があったので、この人にまつわる話題を1つ。
 
 民法の近親婚禁止規定(民法734条1項)を検討する論稿を書いたことがある。その際にわが国における近親相姦の現状を紹介した本を何冊か読んだのだが、そのうちの1冊が、高橋睦郎監修「禁じられた性ーー近親相姦・100人の証言」(潮出版社、1974年)という本だった。
 高橋睦郎という人は本来は詩人のようで、同書では自分の初体験と母親への思いを語った「日本のオイディプース」という序論を書いている。文化人類学者からも注目されていたようで、ぼくのこの問題に関する基本書になった川田順造編著「近親性交とそのタブー」(藤原書店、2001年)の中でも、文化人類学者に交じって、「自瀆と自殺のあいだーー近親相姦序説」という文章を書いている。同論文の目次には「アイルランド現代詩と『源氏物語』ーー“むすめを姦す父” とその息子の復讐」という、内容を示す見出しがついている。

 高橋監修の「禁じられた性」には近親者間の性行為を経験した100人の告白が掲載されている。すべての告白が真実であるかは検証の手段もない。この手の告白は「幻想」を語っているにすぎないという批判もあるようだが(例えば原田武「インセスト幻想ーー人類最後のタブー」人文書院、2001年を参照)、個々の告白内容にはいずれもリアリティーがあり、事実ではないかと思われる事例が多かったというのがぼくの読後感である。
 それでも、高橋の「監修」で、彼の「序論」を含む同書を自分の論稿に引用してよいものか、正直なところ躊躇があった。しかしわが国の現状を紹介した書物はほとんどなかったので、川名紀美「密室の母と子」(これも潮出版社)などとともに引用した。
 ところが、数日前の新聞で今年の文化勲章受章者が発表されたが、その中に「高橋睦郎」の名前があったのである。詩人の世界のことはまったく関心もなく、彼がそのような大人物だとも知らなかったので驚いた。
 前に永井荷風の文化勲章受章に関して、文化勲章の受賞にはとかくのうわさが絶えないと書いたが、文化勲章の授与によって、受賞者に対して世間が何らかの権威を与えることは間違いないだろう。
 少なくとも、近親婚禁止に関する論稿で高橋の文献を引用したぼくは、彼の文化勲章受章によって、「噴飯もの」の文献を引用したわけではないと思ってもらえるだろうという期待感をもった。彼が近親相姦に関する研究によって文化勲章を受章したのではないにしても、である。
 たかが文化勲章、されど文化勲章である。ぼくが読んだ限りでは、高橋氏は「自由と平和を愛」する人士であった。

 2024年11月3日 記

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「世界 “夢の本屋” 紀行」(NHK-Eテレ)

2024年11月02日 | テレビ&ポップス
 
 11月2日(土)、朝からの雨は、予報に反して夕方になっても止まない。
 テレビをつけると、誰だかイケメン男性が神田の古書店街を歩いて、店主にインタビューしている。
 新聞の番組欄を見ると「チャン・ドンゴンと行く 世界 “夢の本屋” 紀行」(NHK-Eテレ、午後2時~3時30分)という番組で、歩いていたのはチャン・ドンゴンだった。彼は本好きだったのか。

 神田神保町だけでなく、ヨーロッパや中国のユニークな古書店や新刊書店をめぐり歩く旅をしていた。そのなかで、イギリス(だったか)の古書店で、不要になった本を持ち込むと、他の誰かが持ち込んだ古本と交換してくれるという古書店を紹介していた。
 古本同士のマッチングである。東京のどこかで書店だかビルだかの一角を時間貸していて(確か2週間単位だった)、自分で古本を持ち込んで売ることができるスペースがあると聞いたが、毎日店番に出かける余裕もない。こんなイギリス古書店のようなシステムの古書店が日本にもできるといいのだが。

 2024年11月2日 記

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笹沢左保「死と挑戦」(春陽文庫)ほか

2024年11月01日 | あれこれ
 
 今回は「本」というよりは「断捨離」ないし「本の捨て方」がテーマなので、ジャンルはあえて<あれこれ>としておく。

 段ボールに2、3箱分の文庫本が物置にしまったままになっているが、この10年いや20年以上、ほとんど手にすることもないままに放置してある。「コンマリ」?流「断捨離」のルール、その本に「感動があるか?」(だったか・・・)に従って捨てることにした。

       
       
         
     
 断捨離の候補となった本は、いちいち書き写すのも面倒なので写真で済ませる(上の写真)。主なものをあげると、城山三郎の経済小説。城山の経済小説は出版社の社員だった頃にけっこうたくさん読んだ。城山のデビュー作「総会屋錦城」(新潮文庫)から(当時の)最新作まで、他の小説家の経済小説に比べれば「人間」が描けていたような記憶があるが、しかし凡作もあった。
 山口瞳の「サラリーマン諸君!」(角川文庫。ちょうどぼくが大学4年だった1973年の出版だった)は社会人になったばかりの頃のぼくのバイブルだった。家族にいわゆるサラリーマンが全然いなかったので、「サラリーマン」の生き方は山口のこの本から学んだといってもいい。しかし「人殺し(上・下)」(文春文庫)の最終ページには「つまらない」と書いてあった。
 その他の本はあえてコメントをするまでもなく、捨てることにした。
 
       
       
     
 後藤明生「挟み撃ち」(河出文庫)は買った当初は気になる本だったような記憶がある。しかし今回捨てる前にパラパラと最初の数ページを読んでみたが、まったく「感動」はなかった。御茶ノ水駅前(西口)の改札口前の広場に傾斜があって落ち着きが悪い云々とはじまるのだが、まどろっこしい。5、6ページでやめた。
 吉行理恵「記憶のなかに」(講談社文庫)は、母親が美容院を経営していた九段坂が舞台だというので、まず奥野健男の解説を読んでみた。しかし吉行淳之介が麻布中学で奥野の2年先輩の秀才だったというエピソードで始まるが、淳之介、吉行和子のことばかり書いてあって、なかなか理恵のことにならない。本文を読みはじめると、ウンコのついたパンツのことなどが「ですます」調で書いてあって、こっちは2ページでやめた。ただしこの本は家内の買った本だったかも知れないので、断捨離は一応保留する。民法762条2項によれば帰属不明の夫婦財産は夫婦の共有と推定されるので、夫婦の合意がないと処分できない。
 
 捨てようとして思いとどまったのは、沢木耕太郎「テロルの決算」(文春文庫)。今さら沢木耕太郎でもないだろうと思ったが、パラパラめくっているうちに、浅沼稲次郎というか日本社会党のことが気になりだした。ぼくは選挙権を得て以来ほとんどの選挙で神近市子から始まって社会党の候補に投票してきた。再軍備化方向への改憲を阻止できる議席数を確保すればそれでよいというのがほとんど唯一の理由であった。「社会新報」も定期購読していたが、配達していた党員の方が転居することになって、それ以降は配達する人がいなくなってしまった。
 ところが最近の総選挙では、社会党の後継らしい社民党は沖縄地方区の1議席しか獲得できなかった。少数与党に転落した自民党は国民民主党にすり寄ろうとしているが、立憲民主党も秋波を送っているという。野党第一党がなぜこんな体たらくになってしまったのか、浅沼時代にさかのぼって考えることにも意味があるかもしれないと思い、捨てないでおくことにした。
 志賀直哉「暗夜行路」(新潮文庫)も、小津との関係(というより與那覇さんの関係)で残すことにした。この本も父子間の葛藤というテーマにつられて読み始めたが、時代背景がよく理解できないうえに、知らない言葉が頻繁に出てくるし、なかなか本題に入らないので、最初の10ページくらいでやめてしまった。
 笹沢左保「死と挑戦」(春陽文庫)は読んだのかどうかも記憶にないが、あの永井荷風の春陽堂から出ていた文庫本ということで残しておくことにした。春陽文庫は今でもあるのだろうか。「江戸川乱歩名作集(4) D坂の殺人事件」(春陽文庫)も同じ理由で残しておく。ぼくが持っている春陽堂の本はおそらくこの2冊だけである。※気になってネットで調べると、なんと2022年に春陽文庫が復刊したという。坂口安吾「明治開化 安吾捕物帳」など、ちょっと読んでみたい。
 以前「新青年傑作選」全4巻(立風書房)や「夢野久作全集」(だったか)などを断捨離してしまったが、今になってちょっと惜しい気持になっている。

 残しておくのは簡単だが、残したまま死んだのでは息子たちが迷惑だろう。捨ててしまったとしても、読みたくなれば図書館に行く手間ひまさえかければ読むことはできる。捨てるのに躊躇、葛藤があるのは捨てた結果ではなく、本をゴミに出すというその行為のハードルが高いのである。かといって、「鶴見俊輔著作集全5巻」(函、帯つき、美本)を査定額ゼロ円などといういかがわしい「宅配買取サービス」詐欺まがいの古本屋にはもう引っかかりたくない。
 資源ゴミに出すのではなく、悪徳古本買取業者に買い取らせるのでもない、古本の正しくて心穏やかな「捨て方」は何かないものだろうか。

 2024年11月1日 記

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