豆豆先生の研究室

ぼくの気ままなnostalgic journeyです。

M・A・サリンジャー『我が父サリンジャー』

2021年11月28日 | 本と雑誌
 
 マーガレット・A・サリンジャー『我が父サリンジャー』(新潮社、2003年)を読んだ。『ライ麦畑でつかまえて』の J・D・サリンジャーの長女による父の伝記である。

 実際には長女自身の自叙伝的な部分も少なくない(多い)。サリンジャーの創作の背景や彼の家庭生活には興味があるが、長女自身の人生には興味がないので、申し訳ないが長女に関する部分は読み飛ばした。
 ※ S・モーム『読書案内』(岩波文庫、1997年)で、モームは、「とばして読むことも読書法のひとつ」であり、『カラマーゾフの兄弟』の終わりの数章などよほどの読者でなければとうてい完全に読めるものではない、と言っている。細部が意味をもつのは全体と関係があるときにかぎる。しかし、モーム自身は、自分にとって役に立つことを読みとばしているのではないかが気になって、読みとばすことが苦手であると述懐している(84頁)。
 今回読みとばした中に、サリンジャーに関する興味ある指摘がなかったことを願うが、彼女の生い立ちの細部は読みとばした。

 彼女は、おそらく父親サリンジャーの独特の生活スタイルの影響が大きかったのだろう、放埓な少女時代を送った後に、自動車修理工になるなど迷走した挙句に、ブランダイス大学に入学し、さらにオックスフォード大学の大学院に進学して修士号を取得した。

 サリンジャーがアイビー・リーグを毛嫌いしたため、ブランダイス大学に入学するのだが、サリンジャーが学費の支払いに難色を示したため、母親が離婚時の合意書を暴露すると脅して支払わせたという(424頁)。その一方で、彼女は学生時代に空手インストラクターと衝動的に結婚するのだが、披露宴の費用は父親に支払わせるなどといった娘の行動をみると(同頁)、どちらもどちらと思わざるを得ない。後に離婚したマーガレットの夫は彼女のカードを勝手に使って行方をくらました。
 しかし、彼女はブランダイス大学で親身になって直接指導する教授たちに出会い、勉強に目覚める。同大学のセミナーでキャラハン元英国首相夫妻の知己を得たりもする。そして、祖母を相続して得た資産によってオックスフォード大学の修士課程に進学し、1987年労働者災害補償法の成立過程に関する修論(!)で最優秀賞を獲得し首席で卒業したとのことである(435頁)。

 サリンジャーの長女への教育は、ぼくに言わせれば “phony” (いんちき)そのものである。アイビー・リーグの大学くらいに高い授業料の寄宿学校に娘を入学させ、ニューヨークに出かけるときは娘も一等車に乗せ(流行作家の妻に贅沢をさせないために妻は三等車に乗せた)、プラザホテルほかの超高級ホテルに宿泊して(前日までポール・マッカートニーが宿泊していた部屋に泊まったこともあった!)、ニューヨーカー誌の編集長との面談にも同道する、などなど(284頁ほか)。
 『ライ麦畑・・・』の作者サリンジャー自身もホールデン同様の “innocent”(無垢)な人なのだろうと想像し、まさかご本人が “phony” な側の1人だとは思ってもみなかったぼくの先入観と偏見は見事に打ち砕かれた。娘自身が、「プレップ・スクール嫌いのホールデンファンは驚くかもしれないが、私は寄宿学校に入った」と書いている(304頁)。

 父サリンジャーにかかわる記述として一番印象的だったのは、彼女がサリンジャーを含む戦前、戦中のユダヤ系アメリカ人の微妙な立ち位置について、彼女自身の視点から検討している個所である。
 サリンジャーは1919年に、成功した食品輸入業を営むユダヤ系の父と、アイルランド系の母との間にニューヨークで生まれた(28頁)。
 1920年代には、(後にサリンジャーが寄稿する)サタデー・イブニング・ポスト紙もポーランド系ユダヤ人を蔑視していた。サリンジャーも、「若者たち」は「ジェローム・サリンジャー」で発表したが、「今にできる」(「コツをつかめば」か?)では「J・D・サリンジャー」と表記して、ユダヤ系であることを示す名前(ファースト・ネーム)を避けたという(39~40頁)。

 1939~45年頃、アメリカの反ユダヤ主義は最高潮に達したという(70頁)。当時のアンケート調査によれば、アメリカ人の大部分が(ヒットラーの行為に対して)「ユダヤ人にも責任がある」と考えており、陸軍内でも反ユダヤ主義を主張するビラがまかれたことなど、今日から見れば意外な事実が紹介される(~71頁)。
 サリンジャーの前では、「大学」「アイビー・リーグ」といった言葉は禁句であり(49頁)、自分の言葉づかいを「上流ふう」に見せようとする人物に対して彼は容赦なかったという(60頁)。
 ワスプ(White, Anglo-Saxon, & Puritan)の牛耳る社交界、カントリー・クラブ、アイビー・リーグ名門校に対する激しい怒りは、彼が1920~30年代にニューヨークに生きたユダヤ人、それも半分だけユダヤ人だったという背景から語られている(89頁)。 

 著者は基本的に父サリンジャーに共感的な態度をとっているが、家庭内における暴君ぶりも暴露されている。
 例えば、彼はコーニッシュというウィスコンシン州の森の中での隠遁生活を妻子にも強いながら、パークアベニュー暮らし並みの生活を妻に要求し、1日3回のニューヨークの高級レストラン並みのサービスを要求したという(108頁)。
 そして創作上の行きづまりから、新興宗教を転々とし、カルト、飲尿(!)、ライヒ・・・と帰依先を模索しつづけた。著者は、第2次大戦中の塹壕体験によるストレスが原因と推測する(~108頁)。「フランスのアメリカ兵」に描かれたのはサリンジャー自身の体験だったのだろう。
 彼の価値判断の基準は、1920、30、40年代のハリウッド映画のそれであったという辛辣な観察もある(198頁)。ちなみに彼の愛する映画はヒチコックの「三十九夜」だったという(293頁)。
 
 サリンジャーが妻と離婚後の養育費(子の教育費)をケチったかのような記述を何かで読んだが、本書によれば、サリンジャーは、支払った養育費が元妻の新しいボーイフレンドを「食わせるために」費消されることを怒ったらしい(204頁)。それなら問題は、養育費が正当な目的に使われたかどうかにかかってくる。
 全体としては、父親に好意的で、母親のとくに離婚後の行動については批判的だがーー彼女はダートマス大学の学生から「ミセス・ロビンソン」(映画『卒業』でアーン・バンクロフトが演じた、娘の婚約者と関係をもってしまったあの女性)とあだ名されていたというーー、父は仕事以外の分野では責任感に欠けていたとか(244頁)、自分のプライバシーにこだわるわりには、子どもの面前で言うべきではないこと(夫婦間の私事)を話すなど、プライバシーの観念に欠けていたなど(242頁)、娘ならではの指摘もたくさん書かれている。
 
 ベトナム戦争の際に、太ももにピース・マークを青インクで書きこんだ娘に対してサリンジャーが、アメリカがベトナムから撤退したらどうなるか、おまえは共産主義者が何をするか分かっていないと激怒したというエピソードも興味深い(263頁)。
 ぼくは高校生だった頃、「エデンの東」以来のファンだったスタインベックがベトナム戦争を支持する論陣を張ったことに失望して、それ以来スタインベックを嫌いになったが、サリンジャーがベトナム戦争に対してそんな考えをしていたと分かっていれば、ぼくはサリンジャー『ライ麦畑・・・』を読むことはなかっただろう。ベトナム戦争におけるアメリカの軍事行動を支持しながら、無垢の子どもたちの「キャッチャー」になるなど、当時のぼくには考えられないことであった。
 サリンジャー自身が「ライ麦畑の捕まえ手」、ホールデンそのものだったと思い込んでいたのは、まったくぼくの思い違いであった。 
 なお、彼が日本ぎらいだったことは、「最後の休暇の最後の日」「優しい軍曹」「コネティカットのひょこひょこおじさん」などの作品からうかがうことができるが、本書ではそのことには触れていなかったように思う。
 
 本人(マーガレット)の言葉や行動、サリンジャーの言動など、自分たち家族の実体験がサリンジャーの作品の中にそのまま使われていることの指摘など、サリンジャー作品の背景に関心をもつ人には興味深く読むことができるだろう。 
 著者は、サリンジャーが「自然死」させてしまった初期の短編小説群を発見したことを大いなる喜びと感じ、そこに現われた父こそ、わたしがとどめておきたい「パパ」だったという言葉が印象に残った(65頁)。
 ぼくにとっても、この秋から冬にかけてのサリンジャー読書から得た最大の収穫は、彼の初期短編集を読んで、『ライ麦畑・・・』とはまったく別のサリンジャーの一面を知ったことだった。

 トリビアな話題を蛇足で一つだけ。
 サリンジャーが幼い息子と「屋根ボール」で遊んだとある(229頁)。その遊びの具体的内容は書いてないが、ぼくたちも子どもの頃、ゴムボールを平屋の家のかわら屋根の上に投げて、どこから落ちてくるか分からないボールを捕球するという遊びをやっていた。「屋根ボール」があの遊びだとしたら、あれをやっていたアメリカ人がいたとは・・・。アメリカの進駐軍が日本の子どもたちに伝播させたのかもしれない。

 2021年11月28日 記

 ※ 著者(サリンジャーの長女マーガレット)自身の自伝的な部分は読み飛ばしたのだが、図書館に返却する期限が迫ったので、最後の2章、第33章「自分自身の人生をつむいで」と第34章「目ざめ」を読んだ。
 サリンジャーという「偉大な」作家の娘に生まれ、しかし「偉大」どころか、妊娠した娘に対して中絶を示唆するような(472頁)非人情で、家族に対する責任を放棄し、作中の人物だけでなく実在の娘にも大人になることを許さないような「偉大とは程遠い」父サリンジャーから苦労の末に独立し、やがて結婚して子をもうけ、結婚と子どもを自分の人生に訪れたもっとも喜ばしいことだと考えるような両親のもとで子どもが育つことを素晴らしいと思えるような人間になったことを記して(491頁)、彼女の自叙伝は結ばれる。

 ※ 2021年12月6日 追記

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散歩道の夕空(2021年11月21日)

2021年11月24日 | 東京を歩く
 先日(11月21日、東京の雨の前の日)の夕方の散歩のおりに見上げた夕空と雲。
 いずれも大泉学園駅ビル、エミオン(?)の屋上庭園から眺めたもの。

 最初は東側の空。
 遠くはるかに、新宿副都心の高層ビルが見えている。
 1969年4月の末、大学1年の時に、八王子セミナーハウスで新入生歓迎会が開かれた。夜になってコテージの外に出てみると、はるか彼方にできて間もない新宿副都心の高層ビルを望むことができた。まだ、京王プラザのほかに2、3棟しかたっていなかったのではなかったか。 
 野猿峠から新宿が見えるとは、感激した。
 下の写真はその新宿方向を拡大したもの。
     

 つぎの写真は、日が傾いた西側の空。残念ながらビルが邪魔して富士山は見えない。
 ぼくが高校生の頃は、大泉学園から吉祥寺まで、道路脇はほとんどが畑だったので(芝生用の芝を育てている農家も多かった)、初冬の夕方の下校時間帯のバスの窓から西側を眺めると、夕日に染まって赤紫の富士山が見えていたのだけれど。

     

 最後は、北側を眺めた写真。
 これといった特徴ある建物はないけれど、雲がいい。手前の樹木が邪魔で撮りにくかった。

     

 2021年11月24日 記

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サリンジャー、初期短編集

2021年11月21日 | 本と雑誌
 
 やっぱり、一部を読み残したまま図書館に返却するのは嫌だったので、読んでなかった「じき要領を覚えます」「できそこないのラヴ・ロマンス」「ある歩兵に関する個人的な覚書き」「週1回ならどうってことないよ」(それに巻末の訳者解説)も読んでから、昨日の夕方『サリンジャー選集 (2) 若者たち』を返却してきた。
 訳者解説によれば、各作品ごとにサリンジャーの文体は異なっているらしいが、ぼくは渥美訳の端正な和訳が一番しっくりきた。しょせん英語で読めないのだから、変に若者っぽい日本語にされても違和感しか残らない。訳者の解説によれば「やさしい軍曹」の英語などは軍曹の優しさにもかかわらず堅くて男っぽい文体で書かれているらしいのだが、日本語でもバークさんの「優しさ」が伝わったのだから良しとしよう。
 
 ぼく自身の備忘のために、サリンジャーの初期短編全21篇を列挙しておく。
 ※ 邦題、原題、掲載誌、掲載年(『選集』(荒地出版社)は年代順に掲載している)の順。邦題は原則として『選集 (2),(3)』に従ったが、鈴木武樹訳『若者たち』(角川文庫、1971年)を採用したり、ぼくが改めたものもある。“Post” は “Saturday Evening Post” の略。

『サリンジャー選集 (2) 若者たち<短編集Ⅰ>』(荒地出版社、1968年)所収
 若者たち The young Folks, Story, 1940.
 エディーに会いな Go See Eddie, Kansas City University Review, 1940.
 じき要領を覚えます(こつはちゃんと) The Hang of It, Collier's, 1941. 
 できそこないのラヴ・ロマンス(途切れた物語の心) The Heart of a Broken Story, Esquire, 1941.
 ロイス・タゲットのやっとのデビュー The Long Debut of Lois Tagget, Story, 1942.
 ある歩兵に関する個人的な覚書き Personal Notes on an Infantryman, Collier's, 1942.
 ヴァリオーニ兄弟 The Varioni Brothers, Post, 1943.
 二人で愛し合うならば(当事者双方) Both Parties Concerned, Post, 1943.
 やさしい軍曹 Soft Boiled Sergeant, Post, 1944.
*最後の休暇の最後の日 The Last Day of the Last Furlough, Post, 1944.
 週1回ならどうってことないよ Once a Week Won't Kill You, Story, 1944.
*フランスのアメリカ兵 A Boy in France, Post, 1945.
 イレーヌ Elaine, Story, 1945.
*マヨネーズぬきのサンドイッチ This Sandwich Has No Mayonnaise, Esquire, 1945.
*他人行儀(一面識もない男) The Stranger, Collier's, 1945.
*ぼくはいかれてる I'm Crazy, Collier's, 1945.

『サリンジャー選集 (3) 倒錯の森<短編集Ⅱ>』(荒地出版社、1968年)所収
*マディソン街のはずれの小さな反抗 Slight Rebellion Off Madison, New Yorker, 1946.
 大戦直前のウェストの細い女 A Young Girl in 1941 with No West at All, Mademoiselle, 1947.
 倒錯の森 The Inverted Forest, Cosmopolitan, 1947. (中編)
 ある少女の思い出 A Girl I Knew, Good Housekeeping, 1948.
 ブルー・メロディー Blue Melody, Cosmopolitan, 1948.

 ※『選集 (2),(3)』は年代順に掲載しているが、鈴木訳『若者たち』(角川文庫)は内容に従って「初期短編物語群」とは別に、「グラドウォラ・コールフィールド物語群」(*印)を独立させて掲載している。ただし、「ヴァリオーニ兄弟」(1943年)だけはページ数の都合からか、『倒錯の森』(角川文庫)に収録されている。

 2021年11月21日 記
 

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サリンジャー「やさしい軍曹」

2021年11月20日 | 本と雑誌
 
 「やさしい軍曹」(原題は“Soft Boiled Sergeant”,初出は“The Saturday Evening Post”,1944年)。『選集 (2)』渥美昭夫訳で読んだ。
 
 「おれ」が16歳の新兵だった時のことである。おれが独りで寝台の上で泣いていると、古参の見習い曹長だったバークさんが声をかけてくれた。彼は25、6歳だったが、けっして若くは見えないほんとうの醜男だった(と語り手が言うのでそのままに書いておく)。フランス戦線で手柄を立てて勲章をいくつも持っているのだが、それらをおれの軍隊用下着につけておけと言う。おれは数日間、その勲章をジャラジャラと下着にピンでとめたまま歩きまわった。
 バークさんと一緒にチャップリンの映画を見に行ったこともあった。バークさんはある赤毛の女が好きだったのだが、映画館でその女が別の男と一緒にいるのに出くわした。バークさんはちょっと挨拶しただけで何も言わなかった。おれも何も聞かなかった。
 やがておれは転属になったけれど、バークさんに手紙を出すこともしないでいた。そうしたら、知り合いから手紙が来て、軍曹になったバークさんがパール・ハーバーで戦死したと聞かされた。日本軍の奇襲を受けて兵舎内に取り残された新兵を助けるために、バークさんは避難していた防空壕から飛び出して救出に向かい、新兵を救出した後で機銃掃射でやられてしまったという。肩甲骨の間に4発の銃弾の跡が残っていた。
 おれの彼女のジャニタは、ハンサムな英雄みたいなのが出てくる嘘っぽい戦争映画ばかり喜んでいるような女だったのだが、おれがバークさんのことを話したら、ジャニタがはじめて泣いた。こういう女を女房にしなければいけない。 

 これも良かった。
 バーク軍曹は、「優しいだけでは生きて行けない、優しくなければ生きている資格がない」というフィリップ・マーロウの “hard boiled” そのものだと思うけれど、そのバーク軍曹をサリンジャーは “soft boiled” だという。訳者は、題名の「ソフトボイルド」は「感傷的」くらいの意味だと言っている(186頁)。訳者が邦題とした「やさしい」のほうがいい。
 ぼくは完全にサリンジャーの戦争中および戦後初期の短編のファンになっている。『ライ麦畑・・・』だけがサリンジャーではなかった。 

 図書館への返却期限も迫ってきたので、『サリンジャー選集 (2) 若者たち<短編集Ⅰ>』(荒地出版社、1993年)に収められた短編の感想文は今回で打ち止めとしよう。

 2021年11月20日 記


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サリンジャー「ヴァリオーニ兄弟」ほか

2021年11月19日 | 本と雑誌
 
 もう少し、サリンジャーを。

 「ヴァリオーニ兄弟」(原題 “The Varioni Brothers”,初出は “The Saturday Evening Post” ,1943年)。『サリンジャー選集 (2) 若者たち』(荒地出版社、新装版1993年)、渥美昭夫訳で読んだ。
 この作品を薦めていたのはスラウェンスキー『サリンジャー』(晶文社)だったか。

 兄のソリオ・ヴァリオーニは売れっ子の作曲家、弟のジョーは詩人だが大学で英文学の講師をしながら、兄の曲に歌詞をつける仕事をしている。
 ジョーの講義の受講生サラは、ジョーの詩人としての才能が兄によって無駄に消尽されていることを残念に思っていた。賭博で借金のできたソリオは事件に巻きこまれるが、ソリオと間違えられたジョーが殺されてしまう。その後、ソリオは社会から消えてしまい誰もその行方が分からなくなってしまう。十何年か経って、新聞にソリオを探す尋ね人の広告が載ったのがサラの目にとまる。
 実はソリオは、結婚したサラの家に引き取られて、今は、亡き弟ジョーが書き散らしたままになっている小説の復元作業をしている。・・・
 過去と現在が行き来するのだが、うまく構成されていてテンポよくストーリーが進行する。

 『サリンジャー選集 (2)』の解説者(刈田、渥美共著)によると、芸術家と俗世間の緊張を描いた小説ということになる(185頁)。テーマはその通りなのだろう。
 しかし、ぼくは「コネティカットのひょこひょこおじさん」と、その映画化された「愚かなり我が心」の主題歌、ヴィクター・ヤング作曲の “My Foolish Heart” のどちらが好きかと聞かれれば、躊躇なく “My Foolish Heart” と答える。そのうちでも、曲か歌詞かと聞かれれば曲のほうを選ぶ。
 世間的には、サリンジャーは芸術家で、ヴィクター・ヤングは俗世側ということかも知れないけれど、“My Foolish Heart” はぼくの心にしみる。

 --ちなみに、You Tube では、 “My Foolish Heart” (「愚かなり我が心」)を20人(組)くらいのアーティストが演奏しているのを聞くことができる。
 個人的には、インストロメントでは、ヴィクター・ヤングのオーケストラがベスト。Chad L.Q.カルテット、スタン・ゲッツ、オスカー・ピーターソン、ビル・エヴァンスがつづく。ピアノよりもサックスが似合う曲だ。
 歌っている中では、エセル・エニス、ジャネット・サイデル、Joy Partise、Holly Cole(実はみんな知らない人ばかり)、そしてジュディ・オングがいい。意外に、シナトラ、ナットキングコールはあまりこの曲には合っていなかった。やっぱりシナトラは「マイ・ウェイ」、ナットキングコールは「トゥ・ヤング」だろう。

    *    *    *

 「二人で愛し合うならば」(原題 “Both Parties Concerned”,初出は “The Saturday Evening Post”,1943年)。荒地出版社『選集 (2)』、これも渥美訳で。
 鈴木武樹訳『若者たち』(角川文庫、1971年)では「当事者双方」という邦題になっている。 “Both Parties Concerned” は、法律の世界では「(訴訟における原告と被告の)「両当事者」であり、話の内容も離婚一歩手前の破綻しかかった夫婦間の不和だから、「当事者双方」のほうが素直な直訳であり、かつ内容にも合致していると思う。
 この話は面白かった。家庭を顧みない夫と、(医学部進学を断念して)結婚して専業主婦となった妻の間で起きた夫婦喧嘩というありふれた話から始まるのだが、状況設定がうまく、夫婦の行き違う会話のすれ違い方もいい。そして結末に至る展開もテンポがいい。
 もともと劇作家志望だったというサリンジャーの戯曲家としての才能を感じさせる会話の応酬である。
 ぼくが題名を意訳するなら「妻が実家に戻るとき」にする。「サタデー・イブニング・ポスト」という新聞が文字通り土曜日の夕方に配達される夕刊紙だったら、週末に帰宅してこれを読んで心中穏やかでない夫も少なくなかっただろう。
 娘が書いた『我が父サリンジャー』(新潮社)によると、サリンジャー自身が家庭よりも仕事を優先する男だったらしいけれど、自らにブーメラが突き刺さる心配はなかったのか。

    *    *    *

 「イレーヌ」(原題 “Elaine”,初出は “Story”,1945年)。同じく荒地出版社『選集 (2)』の刈田元司訳で読んだ。
 ちょっと頭が弱くて、グラマー・スクール(中学校?)を卒業するのに9年もかかって16歳でやっと卒業させてもらった、しかし美人の女の子イレーヌが主人公。
 イレーヌは性的にも無知らしく、映画館で隣りに座ったアパートの管理人が彼女に足をくっつけてきても避けようともしない(この作品にもこのエピソードが登場するか・・・)。
 デートに誘われても、母親から言われた「いちゃいちゃさせてはだめよ」という忠告を忠実に守っている。彼女を見そめたテディが海岸へのドライブに誘う。にぎわっていた海水浴場が、日暮れになると急にさびしくなり、イレーヌは不安になる。この場面がよかった。
 二人は結婚することになるのだが、テディの家での結婚式の最中に、イレーヌの母親とテディの母親が些細なことから取っ組み合いのけんかになり、母親の「帰ってきなさい」の一言で、イレーヌは母親に従ってテディとの結婚をやめて家路につく。
 帰り道、母子は通りがかりの映画館でヘンリー・フォンダの映画を見ようということで意見が一致する。

 とんでもない展開なのに、結末は拍子抜けするくらいあっけらかんとしている。1940年代のアメリカにはこんな母子関係も成立したのだろうか。
 『我が父サリンジャー』によると、サリンジャーには女性蔑視の傾向があったとのことだが、1940年代とはいえ、サリンジャーの作品には軽薄そうな女の子が時折り登場する。その軽薄さをそれなりに誇張して描いているのだろうが。
 
 2021年11月19日 記

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夕暮れの散歩道

2021年11月18日 | 東京を歩く
 午後4時すぎに家を出て、近所を散歩してきた。
 午後4時ではちょっと出遅れで、もう少し早めに出発しないと、あっという間に日が暮れてしまう。

     

 冬枯れの始まった何でもない住宅街の風景がよかったので、シャッターを押したのだが、老人用スマホに付属したちゃちなカメラのため、実際に感じた風景は再現できなかった。
 どの景色も、実際はもっと薄暗い中、ほのかな残照に枯れ木が映えて美しかったのだが。

     

 ぼくが小学生のころ、ここは東映映画の撮影所で、6年生の時だったか、今村昌平の「豚と軍艦」の撮影のために、けっこう長い間、実物大(かとと思えるほど巨大な)軍艦のオープン・セットが設置されていた。あの「軍艦」の映像は残っているのだろうか。
 撮影所になる前は田んぼだったと元の地主さんから聞いた。
 今では大きなマンションが建っている。そのマンションの左側すぐ上に満月(かな?)が上っていた。桜の枝にさえぎられているけど、見えるだろうか。

 2021年11月18日 記


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サリンジャー「マヨネーズぬきサンドイッチ」余話

2021年11月17日 | 本と雑誌
 
 サリンジャー「マヨネーズぬきのサンドイッチ」(原題は “This Sandwich has No Mayonnaise”,初出は “Esquire” 誌,1945年)。『サリンジャー選集(2) 若者たち』荒地出版社、1993年新装版、刈田元司訳で読んだ。

 題名は適当で、内容をまったく示していない。「わたしの乗ったトラック」でも「戦争と平和」でも「マヨネーズぬきのサンドイッチ」でも、何でもよかったとサリンジャー(というか主人公のヴィンセント)はいうが(149頁)、本当は「戦争と平和」にしたかったのだろう。場面は始めから終わりまで、ジョージアの基地近くの雨に降られたポンコツ軍用トラックの中だから、「わたしの乗ったトラック」でもいいけど、「マヨネーズぬきのサンドイッチ」では何の意味か分からない。

 トラックには34人の兵隊が乗っているが、今夜のダンス・パーティーに行くことができるのは30人だけ、4人は降りなければならない。誰を下すか、ヴィンセントは悩む。同時に、今は地元で行方不明になっている弟のホールデンのことも心配しなければならない。この二つの悩みが交互に波状的にくり返される。
 トラックのズック(!)の幌に雨が降り注ぎ、吹き込む雨で肘がぬれるのだが、サリンジャーは雨の描写は下手である。湿度99%、読者の履いているズボンまでがじっとりと湿ってくるような感覚は起きない。シムノンやフリーリングは雨を描くのがうまかった。
 でも、雨のトラックの中の兵士たちは、暢気である。これまでに配属されたことのあるマイアミやメンフィスやダラスやアトランタの思い出を語り、自慢する。マイアミでは(おそらく接収した)ホテルに滞在して1日2回でも3回でもシャワーを浴びることができた。やっぱり、アメリカに勝てるわけなどなかったのだ、と納得させられる。

 今回も登場人物たちが饒舌に語りまくる。老人となったぼくにはうるさくてかなわない。若いころはこんな会話がよかったのだろうか。もう思い出せない。
 でも、サリンジャーの『ライ麦畑でつかまえて』以外の短編は、若かった20代の頃にも読んでみたものの途中で投げ出してしまったのだから、若い頃からそれほど好きではなかったのだろう。饒舌さと煙草は苦にならなかったらしいけれど。
 今では饒舌さ(や煙草)には参ってしまうけれど、サリンジャーというユダヤ系アメリカ人の戦争体験を背景に書かれた、戦勝国の戦後文学だと思って読んでいるので、理解できることも少なくない。

 今回も時おり鈴木武樹訳『若者たち』(角川文庫)を参照した。
 話の冒頭から、刈田訳では、主人公たちが軍用トラックの「安全ベルトに腰かけて」いるのだが(148頁)、そんな「安全ベルト」はないだろう。鈴木訳を見ると「内側のベンチの上に」腰かけている(253頁)。こっちなら分かる。
 ホールデンの通う学校も、刈田訳では「ペンティ大学予備校」だが(152頁)、鈴木訳では「ペンティ進学高校」となっている(261頁)。なお、鈴木訳の「マディソン街はずれのささやかな反抗」では、同じ学校を「ペンシ男子進学高等学校」と訳している(201頁)。おそらく「プレップ・スクール」の訳だろうが、「男子進学高等学校」とまで説明する必要があったか。
 「ペンティ」だったり「ペンシ」だったり、鈴木訳は複数の人間が訳したのではないか(少なくとも下訳は複数でやった)と思われる個所が散見される。訳文の分かりやすさ、サリンジャーらしさも、作品ごとに違いが感じられる。
 
 ところで、マヨネーズはいつ頃日本に入ってきたのだろうか。サンドイッチにつけた記憶はないが、嫌いだったほうれん草にマヨネーズをつけて無理やり食べさせられた記憶があるから、昭和30年代には日本の食卓に上っていた。キューピー(人形)はアメリカの象徴だから、マヨネーズもきっとアメリカから入ってきたのだろう。

   *    *    *

      

 蛇足ながら、もうひとつ、「マヨネーズぬき・・・」には出てこなかったけれど、『若者たち』か『倒錯の森』のどちらかに、クリネックス(Kleenex)のティッシュが出てくる短編があった(『ライ麦畑・・・』には間違いなく出てくる)。
 サリンジャーの初期の作品には、ニューヨークの裕福な家庭の生活ぶりが描かれていて(小津安二郎の映画に昭和の日本の中流から少し上の家庭生活が描かれているように)、1940~50年代のアメリカの家庭生活をうかがい知ることができる。
 コールフィールド家が住んでいるニューヨーク、マンハッタンの高級アパートには、エレベーターがついていて、エレベーター・ボーイまでいる。どの家にもたいていは召使いがいて、子どもたちは名門プレップ・スクールに通う。家には自家用車もあるけれど、デートの帰りにはタクシーの後ろ座席で彼女にキスをし、友人宅で開かれるパーティーでは、高校生なのにビールやマーティーニを飲み、テラスに出て煙草を吸ったりする。
 そんな小道具の一つがクリネックスのティッシュである。サリンジャーは、貧しい敵国日本の読者に対する影響など考えてもいなかっただろうけれど、当時の日本人のほとんどは(羨ましく思う以前に)、それが何なのかさえ理解できなかったのである。

 クリネックスのティッシュなどというものは、「マヨネーズぬき・・・」が発表された1945年当時はもちろん、ぼくが高校生だった1960年代半ばになってもまだ日本では普及していなかった。せいぜい「チリ紙の仲間」くらいの理解だっただろう。
 ぼくが小学校低学年だった昭和30年代初め頃は、(尾籠な話で恐縮だが)わが家のトイレ(便所というべきか)では、古新聞を25センチ X 20センチくらいに切ったやつが数十枚ずつ箱に入れて置いてあって、用が済むたびにそれをくしゃくしゃに揉んでから尻ふきに使っていた。赤瀬川原平の『鏡の町・皮膚の町』(筑摩書房だったか?)にもこのエピソードが出てきた。同じ目的で使用するための結節のついた荒縄がぶら下がっている便所もあったらしい。

 中学か高校の英語の時間に読まされた何かに、その “tissue” が出てきた。辞書を引くと「薄葉紙」と訳語が書いてあった。何となく意味は分かるけれど、どんな物か実物は見たこともなかった。金持ちの家にはあったのかもしれないが。
 今回、サリンジャーやその周辺を読んでいたら、鈴木武樹の『フラニーとズーイ』(角川文庫、1969年)の解説の中に、1952年の『ライ麦畑・・・』の時代には「クリーネックス・ティッシュ―」は「薄葉紙」と訳すしかなかったと書いてあるのを見つけた。1952年の翻訳といえば、橋本福夫の『危険な年齢』(ダヴィッド社)しかない。橋本さんもぼくと同じ英和辞典を使っていたのだろうか。
 ぼくは中学時代は『新スクール英和辞典』(研究社、1962年)という百科事典のような辞書を使い、高校時代は『岩波英和辞典(新版)』(1958年)を使っていた。
 『スクール英和』の “tissue” には「1(生物)組織、2 薄い織物、しゃ(紗)、3 (うそ(嘘)・ばかげたことなどの)織混ぜ、連続(=network,set,web)」という訳語が並んでいて、赤鉛筆でアンダーラインが引いてあった(ということは調べたのだ)。鼻をかんだり、涙を拭いたりするあの「ティッシュ」の意味は出てこない。“network”,“web” なんて言葉が1962年当時から日本の中学生向けの辞書に載っていたとは驚きである。しかも“network” や “web” が「嘘やばかげたことの連続」とは何という予言的なことか! 
 連語として “tissue paper” が出てきて、「薄葉紙、吉野紙(本のさし絵を保護したり、損じやすい物を包んだりするのに用いる)」とある。「吉野紙」とはおしゃれな訳語ではないか。 このカッコ書きなら、どんなものか想像はつく。ただし、『ライ麦畑・・・』を訳すのに「吉野紙」というわけにはいかないだろう。
 『岩波英和』の “tissue” も、『スクール英和』と同じような訳語が並んでいて(一つだけ「炭素印画紙」という訳語が加わっていた)、鼻をかむあの「ティッシュ」の意味は出てこない。ここでも連語としての “tissue-paper” には「貴重品などを包む薄く柔らかい紙」という訳語があてられている。
 
 ぼくが覚えた「薄葉紙」は、どうも『新スクール英和辞典』から来たようだ。
 ちなみに、最近の『ウィズダム英和辞典(第3版)』(三省堂、2013年)の “tissue” を見ると、真っ先に「ティッシュ(ペーパー)」という訳語が出てきて、「この意味では tissue paper としない。商標をそのまま用いて a Kleenex ともいう」と注記がある。3番目に“tissue-paper” で「(割れ物、本などを包む)薄葉紙」!という訳語が載っている。 

 --ぼくがこのブログで何を書いているかを、外部で調べている人(?)がいるらしくて、ぼくが「ティッシュ」のことを書きこんで以来、ぼくのパソコンを開くと、頻繁に<配布用ティッシュ1個2円から>という広告が横っちょに出てくる。ぼくはティッシュ配りか何かに関連がある人間と思われているようだ。

 2021年11月17日 記

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サリンジャー「最後の休暇の最後の日」ほか

2021年11月16日 | 本と雑誌
 
 「最後の休暇の最後の日」(原題 “The Last Day of the Last Furlough”,初出は “The Saturday Evening Post” ,1944年)は、「グラッドウォーラー三部作」といわれる(らしい)連作の第1弾。“furlough” というのは(海外勤務の)軍人や公務員の休暇のこと。賜暇(leave)とある。
 この作品は、サリンジャーがいよいよ戦場に出る時期に書かれたもので、家族にあてた一種の「遺書」と見る解釈もあるらしい(スラウェンスキー117~8頁)。
 「グラス家もの」の第3弾であり、(ホールデンの兄)ヴィンセント・コールフィールドが主人公だが、ヴィンセントの親友として登場するジョン・ベーブ・グラッドウォーラーはサリンジャー自身の分身だそうだ。スラウェンスキーによれば、ベーブに付けられた(軍の)認識番号ASN32325200はサリンジャー自身のものだそうだ(同頁)。

 この作品にも、ニューヨークの青年の彼女とのデートの話題や、またしても煙草の場面が何度も出てくる。しかし、この作品の核心は、サリンジャーの戦争に対する思い、戦争を語らないことへの覚悟が語られているところにあると思った。

 ベーブは、第1次大戦に従軍した彼の父に向かって言う。
 「パパの世代の人たちは、・・・まるで戦争って、何か、むごたらしくて汚いゲームみたいなもので、そのおかげで青年たちが一人前になったみたいに聞こえる・・・。みんな、戦争は地獄だなんて口ではいうけれど、・・・戦争に行ったことをちょっと自慢にしているみたいに思うんだ。きっとドイツでも第一次大戦に行ったひとたちが、おんなじようなことを考えたり、いったりしたんだろうと思うんだ。だからヒットラーがこんどの戦争をはじめたとき、ドイツの青年たちは父親に負けないとか、それ以上だとかいうことを証明したくなったんじゃないかな。」
 「ぼくはこんどの戦争は正しいと思うよ。・・・ぼくはナチスやファシストや日本人(鈴木訳では「ジャップ」)を殺すことが正しいと思ってるんだ。・・・ただね、こんどの戦争にせよ、そこで戦った男たちはいったん戦争がすんだら、もう口を閉ざして、どんなことがあっても二度とそんな話をするべきじゃない。・・・もう死者をして死者を葬らせるべき時だと思うのさ。」
 「もしぼくらが帰還して、・・・だれもかれもがヒロイズムだの、ゴキブリだの、たこつぼだの、血だののと話したり、書いたり、絵にしたり、映画にしたりしたとしたら、つぎのジェネレーションはまた未来のヒットラーに従うことになるだろう。」(『サリンジャー選集(2) 若者たち』荒地出版社、1993年、109頁、渥美昭夫訳) 

 ぼくには、ヴィンセントの妹マティーに対する「愛情」がどうしても「幼女愛」に見えてしまうのだが、ホールデンのフィービーに対する思いや、そもそも「ライ麦畑」の「キャッチャー」になろうというサリンジャーの覚悟は、すべてサリンジャーなりの「戦争」の語り方を示しているように思えてきた。
 出征前夜、妹マティが眠っているベッドの端に腰を下ろしたヴィンセントは、「君はまだ小さな少女さ。でも少年でも少女でもいつまでも小さいままではいられないんだよ。」と語りかけるあたりは、『ライ麦畑・・・』のホールデンである(同上113頁)。
 ぼくは、「コンバット」という一昔前のテレビ番組の「戦場のメリーゴーランド」というエピソードを思い出した。「コンバット」の脚本家はサリンジャーを読んでいたのかもしれない。

   *   *   *
 
 「フランスのアメリカ兵」(原題 “A Boy in France”,初出は “The Saturday Evening Post” ,1945年)。 グラッドウォーラーもの、第2作と何かに書いてあったし、鈴木武樹訳『若者たち』(角川文庫)でも「グラドウォラ・コールフィールド物語群」に収められているが、グラッドウォーラーは出てこない。彼は確か24歳で出征しているから「少年」ではないはずだが。
 フランス戦線で塹壕掘りをする少年兵が主人公。戦闘で指の爪を剥がしてしまい、痛みのために自ら塹壕を掘ることができない。そこで、敗走したドイツ兵が残していった塹壕(たこつぼ)を見つけて、もぐり込み、胸のポケットに大事にしまってある母親からの手紙を読む。手紙はもう30回以上も読みなおしたので擦り切れている。そこには海岸の別荘に家族で来ていること、少年兵のガールフレンドの近況などが書いてある。
 読み終えた手紙を胸ポケットに戻して、少年兵は眠りに落ちる。
 サリンジャーらしくなくて良かった。ここでもぼくは、「コンバット」に出ていたビッグ・モロウの部下の兵隊を思い出した。
 『サリンジャー選集(2) 若者たち』の渥美昭夫訳で読んだ。 

    *    *    *

 「他人行儀」(原題 “The Stranger”,初出は “Collier's” ,1945年)。グラッドウォーラー3部作の第3弾。スラウェンスキーでは「よそ者」、鈴木武樹訳では「一面識もない男」と題する。
 戦後アメリカに戻ったベーブ・グラッドウォーラーが、親友ヴィンセント・コールフィールドのもとの恋人(で既に結婚している)ヘレンに彼の戦死を伝えに行く。どのように伝えたらよいのか悩むが、ありのままに、朝の薪割りの最中に飛んできた臼砲が当たって、運ばれたテントの中で3分後に亡くなったと伝える。
 そしてヴィンセントが書き残した「ミス・ビーバーズ」(彼女の旧姓だろう)という詩を手渡す。ぎこちない会話が続くうちに、「なんでポーク氏(現在の夫)と結婚したのか」とベーブが尋ねる。彼女は「彼(ヴィンセント)のせいよ、彼は弟のケネスが死んでからは何も信じなくなったの」と答える。
 会話の最中にベーブは何度もくしゃみをして鼻をかむのだが(「花粉熱」とあるけど「花粉症」か?)、作者の作為が感じられて煩わしい。
 8月末の気だるく暑い夕暮れの帰り道、五番街への歩道で、犬の散歩をさせる太った男とすれ違う。「ドイツ大反攻の時もこの男は犬の散歩をさせていたのだろう。信じられない」とベーブはつぶやく。
 ヴィンセントは戦死してしまったのだ。

 サリンジャーが影響を受けたというサロイヤンの『人間喜劇』だったか『わが名はアラム』だったかにも、おばあさんのもとに息子か孫の戦死を知らせる手紙を配達しなければならない郵便配達の少年の話があった。大学1年の時の英語の授業で読んだ。
 『サリンジャー選集(2) 若者たち』の刈田元司訳で読んだのだが、意味のとれないところがいくつかあったので、鈴木武樹訳『若者たち』(角川文庫、1971年)も参照した。

 2021年11月16日 記

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サリンジャー「若者たち」ほか

2021年11月15日 | 本と雑誌
 
 J・D・サリンジャー『若者たち』(荒地出版社、1993年新装版、渥美昭夫訳)から、「若者たち」ほかを読んだ。

 まずは、デビュー初期、戦前の作品から。
 「若者たち」(原題 “The Young Folks”,初出は “Story” 誌,1940年)は、サリンジャーの文芸誌デビュー作。
 ニューヨークの裕福な家庭の大学生たちが、親の家で開いたホーム・パーティーの一幕を描いたもの。ほとんど全編が会話から成り立っている。「おしゃれな会話」を意識しすぎているのか、不自然な会話。
 そして、ジョン・アップダイクが(他の作品について)批判したように、「煙草を吸いすぎる」。禁煙して数十年になるが、読んでいてニコチン臭に胸がむかついてくる。
 処女作からサリンジャーの才能をうかがわせると評価する人もいるらしいが、(だからこそ、コロンビア大学でサリンジャーの先生だった編集者のウィット・バーネットも自分の編集する「ストーリー」誌に掲載したのだろうが)、サリンジャーの作品と知らなかったら、ぼくにとっては面白くも何ともない作品である。
 しかし晩年の作品のような過剰な潔癖感はなかったから、当時のニューヨークの若者を描いた風俗小説としてさらりと読み飛ばせた。

 「エディーに会いな」(原題 “Go See Eddie”,初出は “The University of Kansas City Review” 誌,1940年)。
 ニューヨークのアパートの一室での、コーラス・ガールのあばずれ女と、あまり全うではないその兄の会話がつづく。
 面白くない。「ストーリー」誌が掲載を却下したのも当然だろう。この作家がまさか後に『ライ麦畑でつかまえて』で大ベストセラー作家になるとは、敏腕の編集者でもわからなかっただろう。
 登場人物がやたらと爪を噛んだり、煙草をふかしたりするところだけは『ライ麦畑・・・』につながっているが、世の中が禁煙社会になった2021年に読まされると煙草臭さが漂ってくるようで閉口(閉鼻?)する。

 「ルイス・タゲットのやっとのデビュー」(原題 “The Long Debut of Lois Tagget ”,初出は “Story” 誌,1942年)。
 ニューヨークの裕福な家の娘ルイス・タゲットは、他人のことを「知性的ね」などと臆面もなく言うような、あまり知性的とはいえない女である。
 親の肝煎りで社交界にデビューするが、デパートの宣伝係か何かの男と結婚してしまう。男ははじめからタゲット家の財産が目当てだった。「タゲット家の納棺所までも入りこむ入口を見出そう」ともくろむような男だった。やがて煙草の火を手の甲に押しつけるなどのDVが始まり、ルイスはネバダの裁判所で離婚する。
 次の男は背が低くて太った魅力のない、いつも白い靴下をはいている男である。ニューヨーカーにも(テニス選手を除いて)白い靴下をはく男がいたとは・・・。
 彼は、「君、ぼくと結婚したくなんかないだろうね」と否定形でプロポーズする(ぼくは仮定法だった)。でもルイスはこの男と結婚する。しかし結婚生活はうまくいかない。それでいて子どもが生まれるが、赤子は毛布で窒息死してしまう。
 このことを契機に、ルイスは突如夫にやさしくなる。白い靴下でもいいよと言う。この遅すぎた目覚めが、「やっとの」(“long”)デビュー(スラウェンスキー訳者がつけた邦題)という意味だろう。
 この話にも、煙草を吸う場面が頻出し(うんざり・・・)、ウィスキー・ソーダが出てきたり、裕福な上流家庭でもラジオで音楽を聴く場面が出てきたり、酔ったルイスが動物園のキリンの檻の前まで歩いたりと、1940年代のニューヨークの雰囲気が描かれていて、『ライ麦畑・・・』の片りんをうかがうことができる。
 赤ちゃんの突然の死という意表を突く展開など、スティーヴン・キングがサリンジャーから影響を受けたというのも頷ける気がする。 

 古いニューヨークの若者を描いた作家の短編小説として、だんだん調子が分かってきた。
 
 2021年11月15日 記

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サリンジャー「マディソン街・・・ささやかな反抗」ほか

2021年11月14日 | 本と雑誌
 
 J・D・サリンジャー「マディソン街はずれのささやかな反抗」を渥美昭夫訳で読んだ(『サリンジャー選集(3) 倒錯の森<短編集Ⅱ>』荒地出版社、1993年新装版所収)。原題は “Slight Rebellion off Madison”,1946年,初出は “The New Yorker” 誌。
 鈴木武樹訳『若者たち』(角川文庫)に収められたやつでは、最初の1ページで挫折してしまったので、別の訳者のもので再挑戦を試みた。

 『ライ麦畑でつかまえて』のホールデン・モリシ―・コールフィールドが初めて登場する作品である。彼にはこんなミドル・ネームがあったのか。
 今度は通読できた。通読はしたが、やはり「ニューヨーカー」誌に載せるサリンジャーをぼくは好きになれなかった。世間も「いんちき」かも知れないが、ホールデンも「いんちき」ではないのか。19歳のぼくはホールデンの側に身をおいて読んだのだろうか。
 今となっては思い出せないが、19歳の頃のぼくは毎日日記をつけていたから、ひょっとしたら『ライ麦畑・・・』の感想を書いているかもしれない。探してみよう。


       

 「ぼくはいかれてる」(原題は “I'm Crazy” ,1945,初出は “Collier's” 誌)は、「マディソン街・・・」に続いてホールデンが登場する第2作目(『サリンジャー選集(2) 若者たち<短編集Ⅰ>』荒地出版社、1993年新装版所収、刈田元司訳)。『選集』の邦題は今日的にはちょっと微妙なので、スラウェンスキー『サリンジャー』や鈴木武樹訳『若者たち』の邦題に従った。
 ペンシー校を放校になった主人公ホールデン・コールフィールドが、流感で寝込んでいるスペンサー先生の家を訪ねてお別れを言い、夜中の1時にニューヨークの自宅に帰りつくが、父親から「もう二度と学校には戻らず、父親の事務所で働くよう」に言い渡される。妹フィービーも登場する。
 冬になってセントラルパークの池に氷が張ったらアヒルはどうなるのだろう、と心配するエピソードなど、『ライ麦畑・・・』にそのまま流用された場面も出てくる。
 「コリヤーズ」誌に掲載される短編にはO・ヘンリー的な結末の「おち」が要求されるとあったが(刈田・渥美解説『選集(2)』185頁)、この話にはそのような結末も「おち」もなかった。
 

   *     *     *

 さらに、『選集』の訳者たちが、サリンジャーの考えが原初的な形で示されているという(渥美解説『選集(3)』151頁以下)、「最後の休暇の最後の日」と、これにつづく3部作、「フランスのアメリカ兵」「他人行儀」、サリンジャーの戦争体験(ヒュルトゲン森の戦い)が背景に存するという意味でこれらにつながるという(スラウェンスキー180頁)「エズミに捧ぐ--愛と汚辱のうちに」(野崎孝訳『ナイン・ストーリーズ』新潮文庫所収)も読んでみよう。
 スラウェンスキー『サリンジャー』で気になった「ヴァリオーニ兄弟」「イレーヌ」「ルイス・タゲットのデビュー」、それに処女作の「若者たち」なども読んでみたい。
 これまでサリンジャーの短編をいくつか読んだ経験からは、ホールデンないしグラス家の物語ではなく、サリンジャーの戦争体験、差別体験から生まれた短編のほうがぼくには合っているような気がする。

 2021年11月14日 記


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サリンジャー「ある少女の思い出」「ブルー・メロディー」

2021年11月13日 | 本と雑誌
 
 サリンジャー選集(2)『倒錯の森《短編集Ⅱ》』(荒地出版社、新装版、1993年)から、「ある少女の思い出」(“A Girl I Knew”,1948)と、「ブルー・メロディー」(“Blue Melody”,1948)を読んだ(ともに渥美昭夫訳)。

 1936年、若き日のサリンジャーと思しき主人公ジョンは、大学1年の全単位を落としてしまい、退学を命じられる。
 ニューヨークの実家に帰省したジョンは、父親から「お前の正式な教育は終わった。(父の)会社で働く準備としてヨーロッパに行って外国語の2、3でも習得して来い」と言い渡される。
 ジョンはウィーンに5か月滞在し、下宿先のアパートの階下に住む美しいユダヤ系の少女リアと知り合う。リアには、父親が決めた年配の婚約者がいたが、リアはジョンの部屋にやってきて、ふたりはリアの片言の英語と、ジョンの片言のドイツ語で語り合ったり、レコードを聴いたりする。
 ジョンがウィーンを離れてパリに旅立つ日、リアはポーランドに住む婚約者の家族への挨拶に行っていて、別れを告げることはできなかった。ジョンは手紙を残してウィーンを去る。

 1937年にリアからジョンのもとに小包が届く。ジョンがウィーンの下宿に置いたままにしてあったレコードが入っていた。リアの住所も新しい名前も書いてなかった。それきり二人は会うことがないまま、戦争がはげしくなり、ウィーンもヒットラーに蹂躙される。
 ドイツが敗れ、歩兵部隊の情報部に勤務していたジョンは、任務でウィーンにやって来た。かつて滞在したアパートの近くを訪ねて、リアの消息を求めるが誰も知る者はいない。おそらく収容所で死んだだろうと聞かされる。
 今はアメリカの将校用住宅となっているアパートの、かつてリアが訪ねてきたこともあった一室の窓辺に立ってジョンは、リアが佇んでいた階下のバルコニーを見下ろす。

 「ある少女の思い出」は、そんな話である。
 きのう読んだ「バナナフィッシュ」とも「コネティカット」ともちがって、すがすがしい印象を受けた。結末は残酷なのだけれど。原文の英語はサリンジャー調なのかどうか分からないが、訳文の日本語は端正でいい。You Tube で “My Foolish Heart” を聞きながら、読んだ。
 ぼくはこういう短編らしい短編が読みたかった。
 解説によると、あまりにもか弱いリアはナチスの暴力がなかったとしても傷ついただろう、結末に比してこの話の前半は軽薄すぎると批判した評論家がいたという。ぼくは全然そのようには思わなかった。
 サリンジャーの私生活を知ってしまっているので、もしリアが生き延びていたとしてもジョンと結ばれることはなかったと思うが、現実のひとりの少女に「永遠の女性」の幻影を見る男の恋物語としてぼくには理解できる。

 この作品は “Housekeeping” 誌に掲載された。
 ぼくの子どもの頃、わが家には、母親の旧友で日米開戦後はロスアンジェルスに帰っていた日系二世から、“Housekeeping” が時おり送られてきていた。
 ひょっとしたら、サリンジャーのこの作品が掲載された “Housekeeping” もわが家に届いていたかもしれない。

   *     *     *

 「ブルー・メロディー」も良かった。すごく良かった。
 これも、いろんな歌手や奏者による “My Foolish Heart” 、「愚かなり我が心」をYou Tube で流しながら読んだ。

 ヨーロッパ戦線に従軍中のわたし(サリンジャー)が、ドイツに向かうトラックに乗り合わせたテネシー州出身の軍医大尉ラドフォードから聞いた話である。
 
 1920年代、クーリッジ大統領の頃である。テネシー州メンフィス近郊の田舎町出身のラドフォードは、小学校の(?)同級生のペギーと一緒に、町の大通りに面したハンバーガー屋に入り浸っている。その店のピアノ弾きのブラック・チャールズと仲良しで、学校帰りや学校をさぼってはしょっちゅう遊びに来るのだった。
 ある時、チャールズの姪のルイーズがやって来て、この店で歌うようになる。やがて彼女の歌が評判になり、ルイーズはメンフィスの店にスカウトされるのだが、何があったのかふたたび戻ってくる。

 ラドフォードが寄宿学校に入ることになり、ペギー、チャールズ、ルイーズが連れだってお別れのピクニックに出かける。草むらでランチをしていると、突然ルイーズが激しい腹痛を訴えて倒れる。チャールズのポンコツ車で町の病院に運び込むのだが、彼女が黒人であることを理由に2軒続けて治療を拒否される。メンフィスにある3軒目の病院に向かう途中、交差点で停車した車の中でルイーズは死んでしまう。
 それから15年後の1942年に、ニューヨークのホテルのレストランで、ラドフォードは偶然ペギーと再会する。何気なく聞こえてきた懐かしいテネシー訛りで彼女だと気づくのである。二人はルイーズの思い出を語り合う。
 
 そんな話を、1944年のドイツに向かう軍用トラックの中でラドフォードがわたし(サリンジャー)に語るのである。
 “Black lives matter!” と声高に叫ぶことはないが、ラドフォード(を介したサリンジャー)の差別に対する怒りと悲しみが伝わってくる。
 この作品は “Cosmopolitan” 誌に掲載された。どうもサリンジャーの作品は彼が掲載にこだわった “The New Yorker” 誌ではない他の雑誌に掲載されたものの方が普通の短編小説らしくて、ぼくは好きだ。

 ぼくは、気になっているサリンジャーの短編をやっぱり読んでみようかという気持ちになった。
 荒地出版社の『サリンジャー選集』で。ぼくの思い出の中にあるエンジ色と白のツートンカラーにサリンジャーの横顔の点描画が描かれた表紙の古い『サリンジャー選集』ではなく、新装版になってしまっているけれど。

 2021年11月13日 記

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サリンジャーと映画「愚かなり我が心」

2021年11月12日 | 本と雑誌
 
 ケネス・スラウェンスキー『サリンジャー』に触発されて、かつて読む気になれなかったサリンジャーの初期の短編小説を読んでみることにした。

 最初は、「ライ麦畑でつかまえて」のホールデンが初めて登場したという「マディソン街のはずれのささやかな反乱」(“Slight Rebellion off Madison”,1946)。手元にあった『若者たち』(鈴木武樹訳、角川文庫、1971年)に収録されているのを読みだした(角川の邦題は「マディスンはずれの微かな反乱」)。
 しかし、今回もダメだった。書き出しの1文から引っかかった。数行とはいわないが、第2フレーズでやめることにした。ぼくにとっては時間の無駄であると覚った。スラウェンスキーの要約で十分だ。

 ついで、サリンジャー『ナイン・ストーリーズ』(野崎孝訳、新潮文庫、1978年)にチャレンジすることにした。
 「マディソン街・・・」がダメだったのはひょっとしたら訳文のせいかもしれない。ぼくは野崎孝訳で「ライ麦畑・・・」を読んだが、ぼくが気に入ったのはサリンジャーではなく、野崎孝訳だったかもしれない。彼は、翻訳当時ラジオの深夜放送を聞いてその頃の(日本の)若者の言葉を学んだと何かに書いていた記憶がある。野崎訳なら・・・、と期待した。
 掲載された順番に、「バナナフィッシュにうってつけの日」(“A Perfect Day for Bananafish”,1948)、つづいて「コネティカットのひょこひょこおじさん」(“Uncle Wiggily in Connecticut” 1948)を読んだ。

 やっぱりこれもダメだった。訳文は角川にくらべれば工夫されていて読みやすい。
 しかし、いくらスラウェンスキーで執筆の背景事情を知っても、つまりサリンジャーの小説がいわゆる「戦後文学」だったとしても、彼の書き方をぼくは好きになれない。
 でもこの2作はとにかく最後まで通読した。「バナナフィッシュ・・・」の「バナナフィッシュ」は井伏鱒二の「山椒魚」である(どちらが先なのか?)。ラストはちょっと衝撃的だが、時おりあのような衝動が戦後のサリンジャーを襲ったのだろうか。

 「コネティカット・・・」もぼくにはムリだった。
 自堕落な日々を過ごすヒロイン、エロイーズと友人メリー・ジェーンの会話について行くことができない。エロイーズの初恋の相手(ウォルト)が、戦争中に(戦闘によってではなく)、上官の日本製(!)ストーブの梱包作業中の爆発事故で不慮の死を遂げるという過去があったとしても、そしてそれがサリンジャーが実際に経験した戦友の事故死に題材をとったものだと知ったとしても、である。
 サリンジャーは日本軍の真珠湾奇襲攻撃に怒って、愛国心から志願兵になったというが、このストーブが日本製だったところに、彼の日本に対する憎しみを感じた。

 「コネティカット・・・」は、 “My Foolish Heart”(邦題は「愚かなり我が心」)として映画化されている。その映画の紹介を読むと(『アメリカ映画大全集』キネマ旬報社、1972年)、登場人物はおおむね原作に従っているが、けっこう(文字通り)脚色した部分も多い。
 エロイーズ(スーザン・ヘイワード)の不思議な性格をもった娘ラモーナの出生の秘密などは原作にはまったくない、いかにも映画的な設定になっている。エロイーズが酒びたりになっている事情は原作よりも映画のほうがぼくには腑に落ちるけれど、きっと映画を見たサリンジャーは激怒しただろう。

 今回のサリンジャー再読の最大の収穫は、この「愚かなり我が心」の主題歌、ヴィクター・ヤング作曲の “My Foolish Heart” を知って、その曲が気に入ったことである。しかも、かつてのあこがれのジュデイ・オングも、NHKの “My Favorite Songs” という番組でこの曲を歌っていた。
 今もYouTube でこの曲を聞きながら書き込みをしている。

 さて、「ある少女の思い出」や「ブルー・メロディ」はどうするか・・・。『ナイン・ストーリーズ』に収録された「エズミに捧ぐ」はスラウェンスキーでは高く評価されていたが、これも心配である。
 サリンジャーは、ぼくにとっては『ライ麦畑でつかまえて』の作者としてだけ記憶にとどめておいたほうがよいのかもしれない。

 2021年11月12日 記

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スラウェンスキー『サリンジャー』

2021年11月10日 | 本と雑誌
 
 ケネス・スラウェンスキー/田中啓史訳『サリンジャー -- 生涯91年の真実』(晶文社、2013年)を読んだ。原書は、Keneeth Slawenski;“J.D.Salinger:A Life”(Random House, 2011)。なぜか最初に出版されたPomona Books 版の原題は “J.D.Salinger:A Life Raised High” となっている。 
 本文616頁の大作だが、数日かけて読みおえた。
 サリンジャー『ライ麦畑でつかまえて』は大学に入ったばかりの1969年に読んだ。強烈なインパクトを受けた。ぼくの人生の10冊に入る本である。

 しかし、その後読んだサリンジャーの他の小説には失望した。ニューヨークの悩めるモラトリアム人間、ホールデンを求めたのだが、そんな話はまったくなかった。
 『若者たち』も『フラニーとゾーイ(ズーイ)』も『ナイン・ストーリーズ』も面白くなかった。みんな途中でやめてしまった。『倒錯の森』と『大工よ、屋根の梁を高くあげよ/シーモア序章』は買う気さえ起きなかった。『ライ麦畑・・・』も、がっかりすることが怖くて、一度読んだきりその後は二度と読んでいない。
 それなのに、なぜ今になって急に『サリンジャー』などを読んでみる気になったのか。

 それは、サマセット・モームの『読書案内』(岩波文庫)を読んだからである。
 モームはアメリカ文学で読むべき本の1つとして、マーク・トウェインの『ハックルベリー・フィンの冒険』をあげている。
 そして、ハックルのような粗野で無学の少年があのように豊富なボキャブラリーで話すことなどありえないのだが、トウェインはハックルの一人称、口語体によって、自分自身(トウェイン)の思想を語るという形式を発明した。その後のアメリカ文学の中には、この技法の恩恵を被った作者が少なからずいるといった趣旨を述べている。
 これを読んで、そのような作家として、ぼくは真っ先にサリンジャーの『ライ麦畑でつかまえて』を思い浮かべた。

 実は大学1年だったぼくは、庄司薫の『赤頭巾ちゃん気をつけて』を読んで、ぼくと同じ年代で自分のことをこんな風に書くことができる凄い作家がいたのか、と驚いた。しかしこの作品が芥川賞を受賞したことで、この作者が実は10年も前に中公新人賞でデビューした30歳すぎの作家であることを知って、もう一度驚いた。
 そしてこの小説がサリンジャーの盗作だとか模倣だということが話題になったのがきっかけで、ぼくはサリンジャーの『ライ麦畑でつかまえて』の存在を知り、読むことになったのだった。もちろん野崎孝訳の日本語版である(白水社<新しい世界の文学>、1964年)。 
     
     

 モームの指摘を読んで、すぐにサリンジャー『ライ麦畑・・・』のホールデンを思い浮かべたぼくの直観も捨てたものではなかった。
 本書『サリンジャー』の中で、著者ケネス・スラウェンスキーは、サリンジャーが影響を受けた作家の筆頭に、まさにマーク・トウェインとチャールズ・ディケンズを挙げている(318頁)。『ライ麦畑・・・』の主人公、ホールデン・コーフィールドという名前からして、ディケンズのデビッド・コパフィールドに由来するという。
 スラウェンスキーは、『ライ麦畑・・・』が、ホールデンという18歳のニューヨーク少年を主人公としながらサリンジャー自身を語った小説という点で、サリンジャーをトウェインの後継者だと言っているわけではないが、モームの一言で、50年ぶりにサリンジャーを思い浮かべ、図書館で600頁を超える『サリンジャー』を借りてきて、そして読んだのだった。

 この著者の徹底した取材には驚嘆しかない。自分の出自、経歴を隠し続け、時には虚偽の事実も述べていたサリンジャーの生涯をよくもここまで明かしたものである。
 しかも、彼の生涯と並行して、彼の全作品の解読と評価を試みている。『ライ麦畑・・・』以外の作品をすべて途中でやめてしまったり、最初から敬遠して読まなかったぼくとしては大いに助かった。 
 ぼくが19歳の頃に、サリンジャーの他の作品を読む気になれなかった一因も、この本によって明らかになった。
 ぼくは、『ライ麦畑・・・』を当時の(と言ってもアメリカで発表されたのは1951年で、ぼくが日本で読んだのは1969年だが)10代後半の都会の少年のモラトリアム状態をうまく表現した小説と思って共感したのだが、本書を読んで、『ライ麦畑・・・』は実は戦争文学でもあったことを知った。

 戦勝国アメリカに「戦後文学」があったなど、思いもよらないことだったが、サリンジャーは第2次大戦中ノルマンディー上陸作戦に従軍し、シェルブールからパリを経て、ベルリンへ進軍する部隊に所属していた。ヒトラーの往生際が悪かったため、とくにパリ奪還以降の進軍は難航を極め、彼の属した第12歩兵連隊は将校の76%、下士官の63%を失ったという(153頁)。
 まさに「屍累々」の状況を経験したサリンジャーは、今日でいえばPTSDを発症したのだろうと思われる(288~290頁参照)。彼の小説に見られる宗教性(サリンジャー本人はラーマクリシュナ信仰にのめり込んだ)や神秘性、無垢な子どもの保護者(“The Catcher in the Rye”)であろうとした背景には、彼の苛酷な戦争体験があった。

 さらに、彼の家がユダヤ系の裕福な商売人の家系だったことも大きな影響を及ぼした。
 戦争前にサリンジャーは、父親の商売を継ぐためにヨーロッパに修業に出かけ、ウィーンに住む親せきを訪ねたり、商売仲間だったポーランド人の作業現場を訪ねたことがあった。しかしドイツが降伏した後にふたたび訪ねると、彼らはすべてナチスによって収容所に送られ、殺されていた。
 初期の作品「ある少女の思い出」は、戦争前にウィーンで会ったが、戦後になってウィーンで探したけれど見つからなかった親戚の少女がモデルだという(222頁~)。
 「ブルー・メロディー」は、黒人であるために入院を拒否されて亡くなった実在のジャズ歌手(『サリンジャー選集(3)倒錯の森<短編集Ⅱ>』(荒地出版社、1993年)の渥美昭夫解説によれば、ベッシ―・スミスという歌手だそうだ)をモデルにした物語である。差別に直面したサリンジャーに、アメリカが戦争によって守ろうとした価値は何だったのかという疑問を生じさせる出来事だったという(258頁)。
 本書によって執筆の背景を知ったことで、ぼくは「ブルー・メロディー」と「ある少女の思い出」の2作は読んでみたいと思った。両方とも荒地出版社の『サリンジャー選集』や、鈴木武樹訳『倒錯の森』(角川文庫)に収録されているようだ。

 他にも、「バナナ・フィッシュにうってつけの日」「エズミに捧ぐ」(野崎孝訳「ナイン・ストーリーズ」新潮文庫に入っている)などは、退役軍人のための「魂の震えるメロディー」として書かれたという(289頁)。これも読んでみよう。 
 さらに、サリンジャーが「ライ麦畑・・・」によって注目の人になってしまう前の初期の作品、ホールデンがはじめて登場した「マディソン街のはずれのささやかな反乱」と「ぼくはいかれてる」(ともに鈴木武樹訳「若者たち」角川文庫に収録されている)には改めて挑戦してみようと思った。

 『ライ麦畑・・・』で一躍注目を浴びることなってしまったサリンジャーは、マスコミやファンから自分と家族のプライバシーを守るために、ニューヨークから380キロ離れたニューハンプシャー州コーニッシュという田舎町に11万坪という広大な敷地を購入し、生涯そこで暮らした。1965年に最後の作品を発表して以後もこの地で隠遁生活をつづけた。
 サリンジャーは、自らの作品に編集者らが手を加えることはもちろん、表紙のデザイン、紙の質や版型、宣伝広告のデザインや文面にまで干渉し、表紙などに自分の肖像写真や履歴を入れたり、挿絵を入れたりすることも認めなかった。
 基本的に作品は“ ニューヨーカー ” 誌にしか発表せず、そこでもお気に入りの編集者としか付き合わなかった。各出版社の編集者にとって桁外れの厄介な筆者だった。それでも一定のファンがついていて、掲載すれば雑誌の部数は伸び、出版すれば売れるので付き合うしかなかった。その商売精神が、またサリンジャーの機嫌を損ねた。

 この本の特徴は、国勢調査資料まで用いてサリンジャーの家系を詳細に調べた点、軍部の資料によって彼の戦争体験(所属部隊や戦歴)を明らかにした点、そして彼を育てた編集者との間の手紙を大量に検討してサリンジャーの姿勢や作品の本質を示した点にあるという(訳者解説622頁)。
 『ライ麦畑・・・』以前、以後のサリンジャー作品をちっとも面白いと思えなかったぼくはセンスのない人間なのかと思っていたが、10代の終わり頃にぼくが挫折した作品のいくつかは、当時から一部の批評家から酷評されており、とくに彼の末期(と言っても作品の発表をやめた1965年前後)の作品、いわゆる「グラス家年代記」については、読む気を起させない、もうたくさんだと思った読者、書評家、編集者が少なからずいたことをこの本で知って、安心した。
 例えば、サリンジャーから影響を受けた作家の1人であるジョン・アップダイクは「フラニーとゾーイ」を、長すぎる、たばこを吸いすぎる、やたらにうるさくしゃべりすぎるなどと批判している(503頁)。
 
    *   *   *

 この本で知ったサリンジャーをめぐるエピソードのうち、ぼくの印象に残ったものをいくつか列挙しておこう。
 最初は、サリンジャーの母方の名字が「ジリック」だったということ(20頁)。イギリスの親権法に関する有名な貴族院判決に「ギリック」事件というのがある。15歳未満の娘にNHS(イギリスの保健所)が避妊用ピルを処方するのは親権の侵害だと母親(ギリック夫人)が争った事件である。
 英語では“ Gillick ” だが、「ギリック」と表記するのか「ジリック」と表記するのか迷ったので、イギリス人の英語の先生に尋ねたところ、日本語でいえば「ギ」と「ジ(ヂ?)」の中間くらいなので、どちらで表記しても間違いではないと教えられた。サリンジャーの母方の氏は“ Gillick ” ではないだろうか。

 サリンジャーは生涯で3度結婚しているが、2度目の結婚に際して「結婚許可証」の取得に先立って血液検査を受けている、しかもその結婚許可証で過去の婚姻歴を否定しているという(403頁)。結婚届の前に血液検査が要求されていることと、最初の結婚を否定することができたことに驚いた。
 最初の妻は本当はドイツ人だったが、当時アメリカ人はドイツ人との結婚を禁止されていたため、サリンジャーは(軍隊内の力を利用して)妻の国籍をフランス籍に偽装したうえで彼女と結婚したという。そんな風に成立した最初の婚姻が無効とされたのだろうか。禁反言(“estopel”)といって、自ら違法行為をした者はその無効を主張できないという原則がアメリカ法にはあるはずだが。
 2度目の妻クレアは、ヘンリー8世の娘(マーガレット・テューダー)の子孫だったので(ホントかな? 本当だとしてもちょっと“phony”じゃないか?)、サリンジャーとの間に生まれた娘はマーガレット・アンと名づけられた(420頁)。その後見人(ゴッドファーザーとルビが振ってある)は、ご近所で親しく交際していたラーニッド・ハンド判事が引き受けたという(426頁)。ラーニッド・ハンド判事の著書『権利の章典』はぼくが以前勤めていた出版社から出ていた(『権利章典』清水望・牧野力共訳、日本評論新社。下の写真)。
     

 2度目の結婚も破綻するが、妻が離婚訴訟を提起する(アメリカには協議離婚はない)。二人は、それ以前から広大な敷地内で「家庭内別居」状態にあった。2人の子どもの養育権は母に与えられ、サリンジャーは面会権を得る。11万坪の敷地と住居は妻に分与され、年間8000ドルの生活費(彼の収入に比して少ないのでは)および子どもたちの学費の支払いが命じられた(558頁~)。
 サリンジャーは妻に分与した敷地の隣りに土地および仕事場を持っていたから、子どもたち(元妻とも)との交流はその後も続いた。元妻はその後西海岸の大学院で学び、臨床心理士となり自立したという。
 娘マーガレットが書いた『我が父サリンジャー』(新潮社)によると、サリンジャーは離婚後の養育費や教育費の支払いを出し惜しみしたとのことである(訳者解説、620頁)。家庭よりも仕事を優先させる、しかも女性蔑視の男だったと娘が暴露しているらしい。この本も読んでみたい。

 『ライ麦畑・・・』については、エリア・カザンが映画化を希望したが、サリンジャーは拒絶した。
 サリンジャーは書籍の装丁、宣伝内容にまで干渉し、挿絵を入れることも認めなかったのだから、映画化などもちろん認めなかっただろう。
 「理由なき反抗」のジェームス・ディーンは「ライ麦・・・」のホールデンがモデルだというが(468頁)、ぼくはホールデンとジミーの怒り、反抗は違うと思う。エリア・カザンの「ライ麦畑・・・」を見たかった気もするが、「エデンの東」の原作と映画の違いを考えると、映画化されなかった方がよかったかも知れない。その後、スピルバーグによる映画化も拒否された(605頁)。

 ただし、サリンジャーは一度だけ、「コネティカットのひょこひょこおじさん」(1948年)の映画化を承諾したことがあった。映画は「愚かなり我が心」という題名(原題は “My Foolish Heart”) 、スーザン・ヘイワード主演で1949年に公開された。しかし、話は原作とまったく違った方向に進んでいて、サリンジャーはハリウッドの仕打ちを思い知らされることになった(285頁)。
 ヴィクター・ヤング作曲の “My Foolish Heart” というこの映画の主題歌をYOUTUBEで聞くことができるが、都会的でしっとりとしたいい曲である。すごくいい曲で、ジュディ・オングも歌っている。キネマ旬報「アメリカ映画作品全集」(1972年)の解説によると、映画自体は評判にならなかったけれど、この主題歌がアメリカで大ヒットしたので、日本でも1953年になってから映画が公開されたとのことである。
 ところで、W・P・キンセラの「シューレス・ジョー」を原作とする映画「フィールド・オブ・ドリームス」のラストシーンで、トウモロコシ畑の中に消えていくあの野球選手はサリンジャーだというのだが(580頁)、そうだったか・・・。

 ホールデンが忌嫌った「いかさま」「いんちき」(“phony”)にまみれて生きてきたぼくだが、作者のサリンジャーにも、離婚後の養育費を出し惜しんだり、ホールデンなら唾棄するような裕福な家庭の子弟が入るプレップ・スクールに息子を入学させたり(その学校にはJ・F・ケネディの息子もいたという)、けっこう“phony” なところがあることを知って、ぼくは少し安心した。
 生きていくうちに、人は誰でも汚れてしまうのだ。 

 2021年11月10日 記

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横浜中華街を歩く(2021年11月5日)

2021年11月06日 | 東京を歩く
 
 天気が良いので、横浜まで散歩に出かけてきた。     

 みなとみらい駅で降りて、横浜ワールド・ポーターズをぶらぶらウインドウ・ショッピング。
 ウイークデーの午前中なのに、中学生や高校生のグループが結構歩いている。運動会の代休か、修学旅行かも。
 ここから、観覧車を右に見ながら海岸沿いを山下公園方面に向かって歩く。
 街路樹の銀杏は色づきはじめているが、黄葉には今一息。
   

 左手には赤レンガの倉庫が並んでいる。
 何年(何十年?)か前に<横浜博>できたころは、本当にただの「倉庫」だったけれど。あの日は雨だったので、いかにもうらぶれた倉庫といった風情があった。
   

 象の鼻公園から停泊中のクルーズ船《あすか》が見える。
 いつもあそこの停泊しているのか、2年前に来た時もあそこに泊まっていた。
   

 山下公園の西端に到着。税関記念館(?)前の遊歩道を遠足の小学生たちが歩いている。きっと去年は秋の遠足も中止だったろう。「元気よく歩いていた」と言いたいところだが、コロナへの配慮か、静かに行進していた。
 久しぶりの遠足、しかもこんな広い空間である。子どもたちがお喋りしながら歩いたっていいではないか。

   
 
 山下公園から氷川丸を眺める(冒頭の写真)。
 山下公園を出ると、向かいがホテル・ニューグランド。
 例によって、3階の角部屋315号室、マッカーサー・ルームの外観を。

       

 南に進み、朝陽門から中華街へ。

    

 中華街も土曜日曜ほどの人混みはなかった。
 重慶飯店本館で、平日のサービスランチを注文する。改築前は税込み945円だった(消費税が8%になってからも945円のままだった)ので、5月の連休中の平日にゼミ生たち(15人から20人いる)にご馳走しても安くて助かった。
 重慶飯店新館にも同じ平日サービスランチがあるが、新館はA~Dの4種類の中から1品を選ぶのだが、本館はA~Hの8種類の中から選ぶことができる。食べたいのはE~Hのほうにあったので、本館に入った。新館のほうがゆったりしていて、フロントの人も親切だったので、本当は新館に入りたかったのだが。
 このランチ、今は1650円になっているが、それでもかなりお得感があり、しかも美味しかった。写真を撮るのを忘れてしまい、最後のデザートだけ撮った。
   

 3時半すぎに、元町・中華街駅から急行に乗って帰る。1万2000歩の散歩だったが、好天に恵まれてあまり疲れなかった。

 2021年11月6日 記

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『橋本福夫著作集Ⅰ』を買った

2021年11月02日 | あれこれ
 
 図書館で借りてきた『橋本福夫著作集Ⅰ』を読んだ。
 定年退職以後は蔵書はできるだけ捨てる努力をして、今後もう本は買わない、増やさないつもりでいるのだが、この本は手元にあってもよいな、と思った。

 Amazon で調べると、最安値が「草思堂」というところで、「評価:良い、本体257円、配送料349円」で出ていた。
 その住所を見ると、なんと石神井公園駅の近くではないか! それなら歩いて行くこともできる。散歩日和なので、さっそく今日(11月1日)の午後、散歩がてら出かけてみた。google map のストリート・ビューで調べておいたので、店はすぐに見つかった。

     

 カウンターの若い男性に、「ネットに出ている本も店頭で買えますか?」と聞くと、買えるというので、プリントアウトした『橋本福夫著作集Ⅰ』のページを渡した。倉庫からとってきますと言って、数分待っていると持ってきてくれた。
 評価:「良い」だったが、「非常に良い」に近いきれいな本だった(上の写真)。しかも本体価格だけで購入できた。
 Amazon 最安値の古書店が徒歩圏内にあるなど、めったにない幸運である。でも、たまにはそんなこともある。Amazonで「呂運享評伝」を探した時も、家から最も近いポラン書房が最安値だった。この『橋本福夫著作集Ⅰ』も、ぼくに買われるためにこの古書店の倉庫で眠っていたのだろう。

     

 安くて申し訳なかったので、本棚から見つけたG・K・チェスタトン『木曜の男』(創元推理文庫)も買って帰った。200円だった。残念ながら橋本福夫訳のハヤカワ文庫版は置いてなく、吉田健一訳だったが、多少の縁はあるだろう。
 ぼくは『木曜日だった男』、『ブラウン神父』の著者名を「チェスタートン」と思っていたが、最近は「チェスタトン」と表記している。この小説は橋本訳が本邦初訳だが、橋本訳の『木曜日の男』(ハヤカワ文庫、1951年)は「チェスタートン」である。これが流布したのだろう。ただし、今回の本では橋本自身も「チェスタトン」と書いている。

 ちなみに、『著作集』の中の橋本の回顧談によると、ジョイス「ダブリン市民」も橋本が本邦初訳らしい。比較文学会の会長にそう言われたとのことである(295頁)。サリンジャー「ライ麦畑でつかまえて」(橋本訳ではサリンガ-『危険な年齢』ダヴィッド社、1952年)も本邦初訳である。しかも原著が刊行された翌年には翻訳を出版している。
 チェスタトン、ジョイス、サリンジャーを見つける眼力と、たちまち訳出する腕力はなかなかのものである。
 ※ そう言えば、橋本はドイッチャーの『予言者トロツキー』3部作の共訳者の1人でもあった。新潮社に出版を提案したのは橋本だったという。

 「ライ麦・・・」のホールデンは、橋本の小説の主人公葛木(橋本自身)を思わせる。葛木が都会的でない点で決定的に違っているが、葛木も裕福な地主階級の息子で、いわゆるモラトリアム人間であり(小此木啓吾『モラトリアム人間の心理構造』中央公論社、1979年、246頁~)、自殺願望をもっている(しかし実行はしない)点は共通しているように思う。
 ドライザー『アメリカの悲劇』の全訳も橋本が最初らしいが(角川文庫)、これは彼の卒論のテーマでもあったから納得できる。ぼくは大久保康雄訳の新潮文庫で読んだが、もう今から橋本訳で読み直す気力はない。しかし、橋本訳のサリンガ-『危険な年齢』はぜひ読んでみたい。

 堀が追分(「菜穂子」「楡の家」など)、軽井沢(「ルウベンスの偽画」「風立ちぬ」など)に、「クレーブの奥方」や「マノン・レスコー」などヨーロッパの文学空間を虚構として構築(ロマン化)したのに対して、橋本の追分はさびれた宿場町、田舎(日本的ムラ社会)そのままであった。それだけにかえって「追分」情報小説として橋本の随筆、小説は貴重である。

 2021年11月2日 記 

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