豆豆先生の研究室

ぼくの気ままなnostalgic journeyです。

千ヶ滝遊園地案内所

2018年11月10日 | 軽井沢・千ヶ滝

 千ヶ滝通信35号(2018年秋冬)が送られてきた。

 表紙の写真は、ここ数号続けて軽井沢千ヶ滝の昔懐かしい写真。
 今回の号は、かつて中軽井沢駅前(というよりは沓掛駅前)にあった(らしい)千ヶ滝遊園地案内所の写真である。

 以前にこのブログに書き込んだ、この夏のセゾン美術館の千ヶ滝100年展のポスターにもなっていた写真である。
 
 写真向かって左から右に向かって緩やかな下り坂になっているが、下り坂から推測すると、現在の<かぎもとや>の辺りだろうか。
 「千ヶ滝遊園地案内所」のうえに小さい文字で「沓掛」と書いてある。
 「千ヶ滝遊園地」というのは、おそらく「軽井沢スケートセンター」のことではないだろうか。どんな遊具を備えた「遊園地」だったのだろう? 写真があれば見て見たいものだ。

 ぼくの記憶にある昭和30年代初頭の中軽井沢駅前(もう「沓掛駅」ではなく「中軽井沢駅」だった)は、北口の真向かいに西武バス(軽井沢高原バス)の案内所があった。今の<かぎもとや>の駐車場のところである。
 とんがり屋根の二階建ての建物で、五角形か六角形をしていて天井の高い吹き抜けになった建物だった。
 駅に面して入口があり、道路から石段を2、3段上った内部はやや薄暗くひんやりしていた。入った左手に受付があって、おばさんが切符などを扱っていた。
 壁に浅間山の噴火の写真が飾ってあったように思うが、噴火ではなくうっすらと煙がたなびく浅間山だったかもしれない。

 道を挟んだ東側は、今でもあるタクシー会社や土産物屋が並んでいた。

         

 残念ながら、その写真はないので、「軽井沢 その周辺」(三笠書房、1964年)から、昭和30年代の軽井沢の長距離バス案内所の写真をアップさせてもらう。
 看板をみると、東京-軽井沢間が片道500円だったようだ。

 <東日本観光バス旧軽営業所>とあるから、中軽ではなく、旧軽の旧道手前の松葉タクシー乗り場の辺りにあったのではないだろうか。
 ちなみに隣のページの写真には、懐かしい三笠書房(出版社ではなく書店のほう)や小松ストアが写っている。
 神宮寺に入る路地の辺りである。

 さて、「千ヶ滝通信」に戻る。

 案内所の前には一頭立ての馬車を引く法被姿の男性と制服制帽姿の御者、そして車内に一人の男性客が写っている。
 驚くことに、手綱を引く男性が着ている法被の衿には「グリーンホテル」と染めてあり、身ごろから背中に向かっては「GreenHotel」と書いてある(写真では「Gr」しか見えないがGreen Hotel と書いてあるのだろう)。

 沓掛駅前からグリーンホテルまで、あの山道を馬車を引いて登ったのだろう。


 2018/11/10 記



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西山松之助 『江戸文化誌』、大石慎三郎 『大岡越前守忠相』

2018年11月03日 | 本と雑誌
 文化の日にふさわしく、読んだ本の話を・・・。
 と言うのはやや正直でない。断捨離の最中に出てきた本をついつい読んでしまった、というのが実相である。

 最初は、西山松之助『江戸文化誌』(岩波書店、1987年)。

 「江戸学」を唱える著者が岩波市民セミナーで話したものを活字化した書物。
 「江戸学とは何か」、「お江戸日本橋」、「山の手と下町」、「江戸ッ子」、「江戸の名人芸」などの7章からなる。

 江戸は完全な「新開都市」であり、諸国から参勤交代などで集まってきた田舎者が寄り集まってできた町であること、その連中が銭湯で会話する中から、お国言葉に代わっていわゆる「標準語」ができたこと(ちなみに江戸中期まで江戸の銭湯は混浴だったらしい)、日本橋が町政や商業、交通の中心地だっただけでなく、平賀源内や杉田玄白が住み、北斎や歌麿が住み、印刷・出版業者が集まる江戸の科学・文化の中心地だったことなどを知った。

 生粋の「江戸ッ子」は、人から「江戸っ子」と言われるを嫌っていたが、著者の「江戸ッ子」論によって、池田弥三郎のような「江戸っ子」が「江戸っ子」であることに誇りを持てるようになったと著者に語ったというエピソードもある。
 だいたい自分を「江戸っ子」などと吹聴する人間は、東京生まれであること以外に自負すべきものを持たないような人士が多いように思うが、本当の「江戸っ子」は他人から「江戸っ子」などと呼ばれるのを嫌がっていたとは知らなかった。

 ちなみに著者によれば、本来の「江戸ッ子」とは日本橋と京橋の間で生まれたものを意味し、銀座生まれも「江戸っ子」ではなかったらしい。池田弥三郎さんも銀座生まれであるが。

 山の手、下町の境界線論争は本書でも決着を見ない。
 しかし、地理学的にはあの四谷のトンネル以西の台地が山の手であることに異論はない。中学校の地理の時間にそうならった。
 今では家屋が立ち並び、地理学的な境界は見えにくくなっているが、昭和20年の敗戦で東京全都が焼け野原になっていたころは、四谷以西が「山」だったことが肉眼で明らかに見えたという。
 
 そして、わが九段下の田安門の近くにある巨大な灯篭のようなものが、実は燈台であり、江戸湾の航海の道案内だったという驚く事実も知った。
 あんなに近くまでが海だったとしたら、南海トラフが起きたら都心はひとたまりもないだろう。

 歌舞伎の薀蓄、両国の盛衰などはあまり関心がないので飛ばしたが、三遊亭円朝がいかに研究熱心だったかという話などは、「噺家」であるべき教師にとっても参考になることである。


           

 次は、大石慎三郎『大岡越前守忠相』(岩波書店、1974年)。

 いわゆる「大岡政談」というか、「大岡裁き」の裁判ものを期待して読んだのだが、まったく正反対で、「大岡裁き」といわれる話はほとんどが中国由来のものか「板倉政要」に出てくる話や、他の奉行が行った裁判であることが、麻生磯次氏らによって立証されているそうだ。

 実母と継母が赤子を争う有名な話も中国に原典があり、有名な天一坊事件も実際はほかの奉行が捌いたという。ちなみに「裁き物」は、当時は「捌き物」と表記したようだ。
 実在の江戸町奉行、大岡越前守忠相が裁いた事案は実際には数件しかないらしい。

 実際の大岡忠相は経済畑を得意とする実務型のエリートで、あまりアピール力がなかったために、吉宗の改革を推進するためにあのような話(作り話)を流布させて、彼の(というか彼の政策の)イメージアップを図った、というのが事の真相らしい。

 「断捨離」といいながら、こんな風に捨てるつもりの本を読みだしたりしているので、しかも結局捨てられないので、定年の準備はなかなかはかどらない。
 なお、両書とも物置にしまってあったため表紙が汚れている。


 2018/11/3 文化の日。

 息子夫婦がお迎えに行けないため、昨日、頼まれて孫を幼稚園に迎えに行ったら、金色の折り紙を貼って手作りした「文化勲章」を胸に下げて孫が出てきた。幼稚園の先生たちのユーモアというか、パロディ精神に脱帽した。文化勲章受章の老人も幼稚園児も文化の担い手としては平等である。 


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