豆豆先生の研究室

ぼくの気ままなnostalgic journeyです。

映画『R R R』

2023年02月26日 | 映画
 
 インド映画『R R R』を見てきた。
 何人かの知人が面白かったというので期待して見に行ったのだが、T - Joy では、入口から会場まで、ポスターの一枚すら貼られていなかった。
 上映も一日2回だけ。平日の昼だったので、観客の入りは3分くらいか。
 チケットに「字幕」と明記してあったのにも驚いた。劇場公開の外国映画が字幕なのは当たり前のことで、吹き替えの映画を映画館で見たことなど一度もなかった。最近では吹き替え版で劇場公開され\る外国映画もあるのだろうか。

 内容は、シルベスター・スタローン『ランボー』のインド版といったところ。
 インド映画を見たのは、『踊るマハラジャ』『クイズ・ミリオネア』(だったか)につづいて、3本目である。前2本は面白かったので、期待して見に行った。歌あり、踊りありで、いかにも「インド映画」という風ではあったが、3時間は長すぎる。2時間以内に編集できる内容だろう。
 ちなみに、題名の “R R R” とは、“water”、“fire”、“interval” の3つの単語の中の “R” ということらしい。

 1920年代、イギリスの植民地時代のインドが舞台で、残虐、凶暴なイギリス人総督とその妻が登場する。こんな白人優越主義者で、残虐な性格のとんでもない総督夫婦を演ずるイギリス人俳優がよくいたものだと感心した。しかし帰宅後にネットで俳優の素性を調べてみて納得した。2人ともアイルランド系のイギリス人だったのである。

       

 17世紀のアイルランドは、イングランド国王が任命したダブリン総督(王代官)によって支配されていた。アイルランド人はカトリック教徒が多かったために弾圧を受け、1649年にはクロムウェルが指揮するイングランド軍によるカトリック教徒大量虐殺事件もおきている。
 このようなアイルランドの歴史をふり返れば、アイルランド系の「イギリス人」が、イングランド・ウェールズ人とインド人のどちらに共感をおぼえるかは、簡単には断言できないだろう。イングランドから派遣された悪代官(総督)に対する抵抗という点では、むしろインド人に共鳴するアイルランド人もいるのではないか。

 映画は期待したほどではなかったが、帰宅後に、堀越智『アイルランドの反乱--白いニグロは叫ぶ』(三省堂新書、1970年)を復習し(アイルランド人は「白いニグロ」と呼ばれていたのか!)、近藤和彦『イギリス史10講』(岩波新書、2013年)の該当箇所を読み直すきっかけになったのだから、良しとしよう。

 2023年2月26日 記

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鶴見俊輔『北米体験再考』

2023年02月21日 | 本と雑誌
 
 鶴見俊輔『北米体験再考』(岩波新書、1971年)を読んだ。
 最初に読んだのはいつだったのか、書き込みがないのでわからないが、傍線を引いたところが何か所かあるので、出版された頃に読んだのだろう。

 「序章 ケムブリッジ」、「第1章 マシースン」、「第2章 スナイダー」、「第3章 フェザーストンとクーリーヴァ―」、「終章 岩国」、の4章からなる。
 マシ―スンたちが何者か、どういう脈絡で並んでいるのか、まったく分からない。あとがきによると、本書は、2つの記録と3つの書評からなるというから、第1~3章が書評、その他が記録なのだろう。

 「序章」では、19歳でハーヴァード大学最終学年だった(!)鶴見が、「無政府主義者」であることを申告しないで入国したとして移民法違反でFBIに逮捕され、勾留、裁判(陪審!)を経て、捕虜交換船で日本に送還された経緯(おそらく敵性国民だったことがほんとうの理由だろう)、帰国後召集逃れのために海軍に志願したものの結核で除隊し、戦後は進駐軍への協力を拒否して、ハーヴァード大学の同窓会名簿などを作っていたことが記される。
 「米国ずきの私」と書いてあって(15頁)、鶴見のアメリカに対する基本的な感情がうかがえる。

 「第1章 マシースン」は、マッカ―シーの赤狩りによって自殺に追い込まれたハーヴァード大学教員組合の創設者で、ニューディール左派、共産党シンパだったマシースンという人物の「アメリカの文芸復興」という本の書評の形をとりながら、入植から1940年代までのニューイングランド、ケンブリッジ周辺が語られる。
 ヒューバーマン、スウィージー、ドライザー、ドルトン・トランボ(「ジョニーは戦場に行った」。「ローマの休日」も彼が匿名で脚本を書いたのではなかったか)、フランクファータら、懐かしい名前が登場する。赤狩り時代に、左翼からベトナム戦争擁護者に転向したスタインベックも登場する。中学時代に読んだ「エデンの東」「怒りの葡萄」で、ぼくはスタインベックのファンになったが、高校1、2年生の頃に、彼がベトナム戦争におけるアメリカの軍事行動を支持するエッセイを書いているのを毎日新聞だったかで読んで幻滅した。
 ソロー、エマソン、ホイットマンにはまったく興味が湧かないないまま過ぎてしまった。鶴見が重視するメルヴィル「白鯨」にも興味はわかなかった。ただしアメリカにおける捕鯨の歴史が日本の開国をもたらしたことには興味がわく(67~9頁)。このテーマを取り上げた本はあるのだろうか。
 ホイットマンがソローを評して、「そのへんにいるトム、ディック、ハリーといった普通の人を好きになれないというのが彼(ソロー)の欠点だと言い、自分(ホイットマン)は普通の人間の普通のくらしがそのまま偉大で英雄的なものであると思う」と言っているという文章に傍線が引いてあった(65頁)。1970年代に読んだときに気に入ったのだろう。今でも同感である。
 「今日のソヴィエト・ロシアと今日の北米合州国、共産主義の理想を独裁者が腐敗させた形態と民主主義の理想を資本家が腐敗させた形態、その間に、あたらしく第三の道を見い出すことが必要だ。それは二つの社会形態の折衷ではなくて、個人と社会の双方に配慮するような、より十分な社会主義である」というマシースンの言葉にも傍線があった(71頁)。これも、今でもそう思う。

 「第2章 スナイダー」のスナイダーもぼくの知らない人物だが、禅に興味を持って来日し鶴見とも親交のあった人物のようである。本章も彼の本の書評の形をとりながら、その本からは大きく外れてアメリカ・インディアン(本書の表記に従う)や黒人の側からみたアメリカが論じられる。鶴見はアメリカでインディアンにあったことがないとも書いてあった。
 本章は、西部劇映画とインディアンの話から始まる。いわゆる「アメリカ」(鶴見はUSAのことを「北米合州国」と呼ぶ)の歴史はインディアンからの土地略奪の歴史であることは、鶴見を読まないでもぼくは理解していた。西部劇映画では常にインディアンが一方的に悪者にされているわけでもない。「ガンヒルの決闘」では保安官の妻はインディアン出身だったし、テレビ番組「ローン・レンジャー」では白人の主人公の斥候トントはインディアンだった(「キモサベエ」とか言っていたがどういう意味だったのか)。
 インディアンの共同体の影響を受けて、自分たちを 部族(トライブ)と呼ぶ若者がこの頃から増加し、サンフランシスコで1万5千人、全米で200万人いるという(112頁)。これが今日に至るトライブ “tribe” (E・ブレイク「最小の結婚」など)の起源なのだろうか。

 ジョン・ロックが「市民政府論」で示した “property” への権利、直訳すれば「財産権」だが、ロックに忠実に意訳すれば「各個人の “proper” なものへの権利」、すなわち各個人がその人らしく生きる権利=「幸福追求権」にも共感した。しかし、ロックがニュー・イングランドに入植した白人の権利を擁護して、インディアンが無駄に消尽している(“exhaust”)土地に対して、入植者が自らの手で開墾、改良し、耕作して収穫した作物(土地も)は、彼らに “proper” なものとして彼らに帰属すると書いていたのには到底納得できなかった。インディアンこそ、北米の土地やその果実を本来の趣旨に従って、エコロジカルに、生活=生きるために必要な範囲でのみ使用し収穫していたのである。
 この章に関しては、鶴見にいわれるまでもなく、ぼくも理解していた。

 「第3章 フェザーストン・・・」では、ベトナム戦争の当初の1966年頃は、キング牧師が戦争に対して沈黙していたこと(149頁)、日本からの北米留学生が、ジョン万次郎らの漂流民、新島襄らの脱藩浪士、小村寿太郎・金子堅太郎らの官僚から、裕福な実業家が二世へと変遷し、昭和に入ると官僚としての出世コースから外れたブルジョワ層の子弟へと変遷したという記述(165頁)が印象的である。ハーヴァードの同窓会名簿を作った経験から、実名も浮かんでいたのだろう。後に親米派の学者やジャーナリストになったフルブライト留学生などはどうか。
 べ平連の招きで来日したフェザーストンが鶴見に語ったという「日本は、沖縄と沖縄以外の部分と、その二つにわかれている」という指摘も印象的である(137頁)。

 本書は、60年代の黒人運動、ベトナム戦争に従軍した若い世代の中から新しい生活の流儀が生れてくるのではないかという予言によって結ばれる(186頁)。 
 それから60年、本書の刊行から50年が経って、はたして鶴見の予言は当たっていたのか。
 ベトナムでベトナム人が日々殺されている現実を前にして、「ベトナムに平和を!」「殺すな!」との思いから、べ平連のデモの後ろを歩いていた学生時代のぼくは、鶴見俊輔のことをどう思っていたのだったか、今では思い出せない。小田実の「古今東西人間チョボチョボ主義」ほどには影響を受けなかったように思う。
 ウクライナでウクライナ人が日々殺されている現在、ウクライナに平和を!、殺すな!の運動の指導者はいるのだろうか。

 この本も、お別れである。

 2023年2月21日 記

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亀井俊介『自由の聖地--日本人のアメリカ』

2023年02月16日 | 本と雑誌
 
 亀井俊介『自由の聖地--日本人のアメリカ』(研究社、1978年)を読んだ。
 断捨離前のお別れ読書の一環。

 ペリーの来航から太平洋戦争に至る近代日本人のアメリカ観を概観したもの。
 「蜜月」、「動揺」、「衝突」の時代を経験しながらも、基本的にアメリカを「自由の聖地」とみる見解が断続的に続いてきたと著者はいう。
 ジョセフ彦、福沢諭吉ら幕末のアメリカ経験者、中江兆民、馬場辰猪ら自由民権運動家のアメリカ観、内村鑑三、新渡戸稲造らキリスト者のアメリカ観における、当初の「蜜月」=「自由の聖地」アメリカ賛美から、現実のアメリカにおける拝金主義の横行や人種差別の現実(黒人や中国人差別はやがて日本人にも及ぶ)への幻滅から「動揺」の時代を経て、太平洋戦争期の反米、アメリカとの「衝突」の時代へと変遷の特徴を概観する。
 移民を奨励するいわゆる「渡米本」に誘われてカリフォルニアに渡った移民たちが1920年代の排日移民法によってアメリカを追われ、やがて日米戦争に至るところで本書は終わる。

 移民のアメリカ観を除けば、基本的に「頂上」の文化人たちのアメリカ観が中心で、亀井のアメリカ文化論のテーマである「裾野」の人たちのアメリカ観はあまり登場しない。
 アメリカ在住の社会主義者である片山潜が、アメリカの現状に失望しながらも、日本よりはましな程度には住みやすい国であると書いていたが、たしか鶴見俊輔の『北米体験再考』(岩波新書、1971年)にも、留置場の比較を通して同じような印象が語られていた。 
 ぼくのアメリカ観も彼らに近い。アメリカに強い好意は持っていないが、日本よりはマシかな、といった程度であった。戦時中に威張っていた日本の軍人よりは、敗戦後にやって来たアメリカ進駐軍の兵隊のほうがまだマシというのは、戦後第一世代の平均的な日本人のアメリカ観だったのではないか。 

 ぼくが子どもの頃のカルタの字札の中に「強くて優しいマッカーサー」なんていうのがあったらしいが、ぼくにはそこまでの感情はなかった。少し年長の従兄たちは「憎きニミッツ、マッカ―サー」の(手のひら返しの)世代だった。
 著者もこの従兄の世代ではないかと思うが、本書は、太平洋戦争前夜の対米決戦論や、戦時中の日本人の反米思想、敗戦後の手のひらを返したような拝米思想にはほとんど触れていない。もはや「自由の聖地」などという幻想で括ることはできなくなったのだろう。

 ところで著者が、中国人のことを「シナ人」と表記する場面がたびたび出てくることに、ぼくは違和感を禁じえなかった。“Chinese” のつもりなのだろうが、日本語の「シナ人」は、中国人に対する蔑称としても使われてきた。アメリカ人が日本人を蔑んで “Jap” と呼ぶのと同じである。
 1911年の中華民国樹立以前の “Chinese” を「中国人」と呼びたくないのなら、「清国人」でよかったのではないか。
 この本を最初に読んだのは、「1981年5月13日(水)10:54 am」と裏表紙に書き込んであったが、1980年代初めのぼくは、こんな呼び方に違和感を感じなかったのだろうか。
 この本も、「コンマリ」流でいけば「ときめき」はない。お別れすることにしよう。

 2023年2月16日 記
 

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閲覧数 200万回突破!

2023年02月14日 | あれこれ

 このブログの編集画面の「トータルアクセス数」を見ると、昨日 2月13日(月)で、「トータル閲覧数」が2,000,077 PVとなり、「トータル訪問数」が827,521 UUとなった。
 「PV」や「UU」の意味は分からないのだが、延べで82・7万回誰かがこのブログを訪れてくれて、延べで200万回どこかのページを閲覧してくれたということではないか。
 2006年2月18日に「タイムマシンの作り方」(広瀬正)でこのブログを始めてから、この2月でちょうど16年、よくぞ続いたものである。
 そして、こんな多数の人に読んでもらえたことに驚く。紙媒体では考えられないことである。スタインベックの「創作日記」や、ボブ・グリーンの日記でもない限り。

 ぼくは、中学3年生だった1965年に日記を書き始めた。最初の頃は、旺文社から出ていた「学生日記」というのに書いた(写真)。
 この日記はいかにも旺文社のものらしく、365日の各日付けごとに数行の豆知識や名言などがついていたり、巻末にもいくつか記事が載っている。
 この記事のなかにその年の各種スポーツの記録が載っていたおかげで、ぼくは1964年の東京オリンピックの十種競技で敗退した台湾の楊伝広選手が、オリンピックには敗れたが、それでも1964年現在の世界記録保持者だったことを知ることができたりもした。

 その後1980年ころまでは大学ノートで書きつづけたが、それ以後は小さなポケットサイズのスケジュール帳にその日の予定や出来事を簡単に記すだけになってしまった。
 そして、2006年以降は、この「豆豆先生の研究室」にあれこれを書き残すようになった。
 最近一番閲覧数が多いページは「軽井沢スケートセンターが廃業していた」と「軽井沢グリーンホテル」(からの閲覧)ではないかと思う。モームの「木の葉のそよぎ」も善戦している。

 つぎは300万アクセスを目ざしたいところだが、単純計算ではあと8年かかることになる。はたして到達できるだろうか。

 2023年2月14日 記

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鶴見俊輔・亀井俊介『アメリカ』

2023年02月08日 | 本と雑誌
 
 鶴見俊輔・亀井俊介『アメリカ』(文芸春秋、1980年)を読んだ。980円で、発行者(社長?)は半藤一利となっている。
 再読で、前回読んだのは1980年12月28日(日)、pm 2:34に読み終わったらしい。最終ページの余白にそう書いてあった。さらに「新幹線ひかり2号(下り)車中で。富士川通過から10分くらい。車窓には、年末のあわただしさも感じさせない、のどかな農村の風景。冬晴れ。」と万年筆で書き込みがある。時期からして、家内の実家への帰省の車中だろう。

 裏表紙に「深みのある知米派対談」と題した朝日新聞の書評(12月8日付、無署名)が挟んであった。
 対談というより、どちらかといえば亀井が聞き手となって鶴見の話を聞き出す感じで始まっているが、途中から亀井も元気になって自説を述べるようになる。
 高田宏氏に対する謝辞が「あとがき」にあるところを見ると、あの懐かしい雑誌「エナジ―」(エッソかどこかが発行していた対談誌)が初出だったのかも。

 植草甚一、石坂洋次郎、谷譲次(牧逸馬)らのアメリカ体験を評価し、東大を追放された(とは知らなかった!)ラフカディオ・ハーンの水脈の可能性を指摘するなど、鶴見の視点は独自である。
 山本周五郎がサロイヤンの影響を受けていたこと(確かに二人とも主な舞台は周縁部=田舎である)、反軍演説で知られる斎藤隆夫がイェール大学出身で、その風貌とは裏腹に彼の中にはアメリカ魂がみられるという指摘なども(61頁)、なるほどと思わせる。
 ジョン(中浜)万次郎、ジョセフ(浜田)彦蔵らの漂流民に日本のデモクラシーの可能性を見ようともする(41頁)。小田実あたりが「漂流民」的なアメリカ体験の最後だろう。
 わが良心的兵役拒否の明石順三を、灯台社本部はその歴史から抹殺し、歪曲していると書いてあるが(113頁)、事実なのか。兵役拒否は輸血拒否などよりも重要な信仰の核心問題だと思うのだが、なぜ抹殺されなければならなかったのだろう。

 フランクリンの俗物性や、シェーンと沓掛時次郎の対比、ターザンからスーパーマンまで、大衆文化についても多く語られているのだが、少なくとも鶴見は、基本的にはエスタブリッシュメントの側の日本人がみた、正統派の側のアメリカ文化論と読んだ。ホイットマンからプラグマティズムに至るアメリカ文化に関する鶴見の博識さはただならない。
 父親(鶴見祐輔)の縁故でアメリカ東部のプレップ・スクールに留学し、その後ハーヴァード大学で学び、そのアメリカにおける「保護者」がアーサー・シュレジンジャー Jr. のお父さんであり!(61頁)、多くの日系人が強制収容されたにもかかわらず、捕虜交換船で帰国することができたという鶴見の経歴に由来するぼくの偏見かもしれないが。

 彼はアメリカ(と父親)に対する「愛憎」についてどこかで語っていたが、その感情はどのように形成されたのか。アメリカへの「愛」は理解できるのだが、「憎」はどのようなものだったのか。
 本書刊行の時点では、ウォーレスのような極右の人物が大統領になりかかったものの、危ういところで食い止められたが、その後トランプのような人間が実際に大統領になり、落選後も再起を図っているというアメリカの状況を、もし生きていたら鶴見はどう語るだろうか。

 昨夜、NHKの Eテレ(2ch)で、ナパーム弾を開発したアメリカ人化学者のことをやっていた。あれが大量に使われたベトナム戦争の惨禍を知った後であるはずの1980年頃に、ぼくはアメリカに対して一体どのような感情をもって、鶴見や亀井の「アメリカもの」を読んでいたのだろうか。

 2023年2月8日 記

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亀井俊介他編『アメリカの大衆文化』(つづき)

2023年02月02日 | 本と雑誌
 
 亀井他編『アメリカの大衆文化』(研究社、1975年)のつづき。
 小野耕世「イノセントであることの暴力ーーコミックスの夢と悪夢」、R・リッシ―「ハードコア大衆文化の世界--小説と映画」、亀井俊介「ジープに乗って山こえてーー結び・アメリカ大衆文化への誘い」を読んだ。

 小野によれば、ディズニーが1920年代に誕生させたミッキー・マウスは、当初は尻尾が生えていたという! 30年以上前に息子に買ったミッキー・マウスのビデオをみると、すでに尻尾はなくなっていた。初期のミッキーがネズミ顔だとは思っていたが、尻尾まで生えていたとは・・・。ミッキーが紳士化して保守化するのと反比例して、保守的だったドナルド・ダックの枠からはみ出した愚行が可笑しく思えるようになったという(263~5頁)。
 ミッキー・マウスの変化を考察するほど見たわけではないが、エーリッヒ・フロム『自由からの逃走』(東京創元社)には、1920~30年代のミッキーマウスとチャップリン(の “逃走” もの)は、「自由から逃走」するアメリカ人を象徴していると書いてあったのが印象に残っている。
 ナチスと戦った「キャプテン・アメリカ」が、第2次大戦後のマッカーシズムの時代には赤狩り(“Commie Smasher” というらしい)の一番手となり、やがてベトナム戦争の時代には面目を失うという30年以上の歴史も興味深いが(~267頁)、ぼくは「キャプテン・アメリカ」なる漫画(?)をまったく知らない。さらに続く「カッツェンヤマー・キッズ」も「小さな孤児アニー」も知らない。
 自動車王ヘンリー・フォードが「孤児アニー」の熱烈なファンだったが、一方で労働者を弾圧して「流血の月曜日事件」を起こしていたなどという事実をぼくは知らなかった。知っていたら、FORDのフォーカスやフィエスタを好きにはならなかっただろう。
 
 リッシ―も残念ながら、紹介される小説や漫画はぼくのまったく知らないものばかりだった。アメリカのコミックスは、1950年に生れて、日本の貸本マンガや野球少年、少年マガジンなどの雑誌で育ったぼくには何の影響も与えなかった。セントルイス生まれの筆者は、子どもの頃は「デヴィッド・カパフィールド」「宝島」「トムソーヤの冒険」などの映画を見て育ち、高校、大学生になってスタインベック、ヘミングウェイ、ドライザーら原作の映画を見たという(304頁)。
 ここで、辛うじて筆者とぼくの人生が少しだけ交錯することになった。ぼくは1964年、中学3年の夏休みにエリア・カザン監督の映画「エデンの東」を見たのをきっかけに、秋にスタインベックの原作を読み、つづけて「怒りの葡萄」も読んだ。
 2、3日前にNHK-BS プレミアムで「エデンの東」をやっていたが、原作の核心である「人は道を選ぶことができる」(ティムシェル)というセリフは映画にもちゃんと出ていた(下の写真はそのシーン。冒頭の写真も同映画のテレビ画面から)。
   

 亀井は、中学1年のときに敗戦を岐阜の田舎町で迎えた筆者が、ジープに乗ってこの町にやって来た進駐軍のアメリカ兵と初めて出会ったときから、「直接的体験」にこだわった自らのアメリカ研究を回顧する。
 筆者は、映画こそがアメリカだといい、気さくで楽天的で勇ましく正直で正義感があるという映画の中のアメリカ人の姿をすっかり真実だとは信じていなかったが、全体的には「これがアメリカだ」と思っていたという(315~6頁)。
 アメリカ文化の研究がエマソン、ソロー、ホーソンからW・ジェームズ、フォークナーらに至る「頂上の文化」に偏っていたと批判し、「裾野の文化」というべきアメリカの大衆文化の研究の必要性を説く。彼によれば、マーク・トウェインは講演運動(ライシーアム運動?)、サーカス、西部的ほら話(トール・テール)、大衆ロマンス、立身出世物語など当時の大衆文化を取り入れた裾野の広い作家だという(329頁)。 
   
   
 亀井俊介は、ぼくが30歳代に結構読んだ著者の1人だったが(上の写真)、ぼくは彼からどのような影響を受けたのだろうか。彼のいう「裾野の文化」からみたアメリカ民主主義論がどこかに書かれていていて、共鳴したのだろうか。
 トランプを支持する群衆のようなアメリカの「裾野」を見せつけられた今となっては、もはや素直にアメリカの「裾野」に目を向ける気にはなれない。
 これらの本を断捨離することにも、あまり躊躇はなくなってしまった。

 2023年2月2日 記
 

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