3月22日付の東京新聞に佐藤忠男さんの死亡記事が載った。91歳とのことだった。下の写真は、その死亡記事と、佐藤さんの若き日の肖像が載っていた『世界映画100選』(秋田書店、1974年)のカバー。
佐藤さんも一時期たくさん読んだ著者の1人である。「映画」についていろいろ教えられたのだと思うが、具体的にどのような影響を受けたかはわからない。
最後に読んだのは、10数年前にぼくが小津安二郎をせっせと見ていた頃に読んだ『完本・小津安二郎の芸術』(朝日文庫、2000年)だった。表紙裏に「2010年9月30日読了」とメモがある。
死亡記事をきっかけに、佐藤さんの本をひっぱり出してきて、『映画と人間形成』(評論社、1972年)を読みだした。もともとは『映画こども論』(1965年)という本の改訂増補版だそうだ。
「日本映画の親たちと子どもたち」「アメリカ映画の 〃 」「ヨーロッパ映画の 〃 」「アジア・アフリカ映画の 〃 」「戦争の中の子ども」「危機の子どもたちと若者たち」「大人の問題」の7章からなり、「教育学、比較社会学、比較文化論などの立場からの関心にもこたえられるものでありたい」と著者は前書きで抱負を語っている。
冒頭で紹介される「筑豊の子どもたち」「秋立ちぬ」「おとうと」「目白三平」「大人と子供のあいのこだい」の5本の映画は、彼が昭和35~36年に新聞に連載した「映画の中の家庭」の再録だそうだ。「おとうと」の主人公が川口浩、「大人と子供の~」の主人公が浜田光夫と、ここでも時の流れを感じる。
貧しい家庭に生まれた中学3年生の(!)浜田が、せっかく篤志家の援助で高校進学の道が拓かれたのに、病弱の母や姉から就職しないことをなじられて進学を断念する。しかし、夜間高校から必ず大学に行くと決断する浜田の自己決定を称揚する佐藤の評価は(20-21頁)、わが “mature minor rule” の一場面そのものである(我田引水か)。
つづく文章では、小津安二郎の「一人息子」を、佐藤は、歪んだ社会と健全な家庭のモラルの葛藤を描いた作品として評価する。失意の母子が巨大なごみ処理場の草むらに座って母が子を諭す場面を、佐藤は「親が子にまっこうから人間のあり方を説いた場面として、日本映画史上、もっとも美しく感動的な場面である」、「これらの作品では、家庭は伝統的な正義感の源泉のような場所であった」と高く評価する(29頁)。ぼくには同意しかねる評価だが・・・。
その小津が、「父ありき」(や「戸田家の兄妹」)では、「歪んで淀んでいる家庭のあり方を、社会の新しい空気を吸ってきた息子がやっつける」、「もはや社会の側には何の非もなく、もしこの社会に不満をもつようなことがあるとしたら、それは個人あるいは家庭のほうが自らの欲をいましめなければならなぬ」ことになっている、戦後の「晩春」に至っては「家庭だけがあって社会はない」と批判する(30-31頁)。
ぼくが学生時代に小津安二郎の映画に共感できなかったのも、このような評価からだったかもしれない。「父ありき」はぼくが小津映画の中で一番好きな作品だが、それはぼくが60歳近くなって見たからかもしれない。
『映画の読み方--映像設計のナゾとセオリーの解明』(じゃこめてい出版、1974年)にも読んだ形跡があった。
子どもの頃に病気で寝ていると、天井板の節穴や木目が表情をもって語りかけてくることがあった、という彼自身の経験からイメージ論を説き起こすのだが、つづく「モンタージュ説とフォトジェニック説」以降、カメラワーク、映像のつながり方、映画における象徴、スラップスティックと現代映画まで、当時のぼくには理解できなかったし、今でも理解できない。
おそらく、ぼくには理解できないが印象に残った場面のなかには、佐藤さんが説く映像のセオリーから説明ができるシーンがあるのだろうが、「セオリー」が理解できなくても映画を見ることはできる。
ぼくの映画遍歴(というほどではないが)は「自転車泥棒」(飯島正のアルス文庫の解説)や、学校からクラスごとに列になって下高井戸の映画館に見に行った「にあんちゃん」や「路傍の石」(太田博之主演)、親に連れられて行った「汚れなき悪戯」や「喜びも悲しみも幾年月」から始まったのだから、佐藤さんの本でいえば「筑豊の子どもたち」から始まって「二十四の瞳」で終わる『映画と人間形成』のほうがぼくに与えた影響は大きかっただろうと思う。『映画と人間形成』はもう一度じっくり読んでみようと思う。
ジェームス・ディーンらしきイラストのカバーがかかった『青春映画の系譜』(秋田書店、1976年)や『世界映画100選』も、見ないで済ませる映画遍歴には役立っただろう。この本の中に、桜田淳子主演の「愛の嵐の中で」(東宝)という映画のパンフレットと渋谷東宝の優待券2枚が挟んであった(上の写真)。出演者の中に植草甚一と大林宣彦の名前がある!どんな映画だったのか。
これらの本には佐藤さんの住所が表記されているが(当時の本ではよくあることだが)、何と佐藤さんは世田谷区松原xのxxのx番地に住んでおられた。ぼくが育った世田谷区世田谷の隣り町ではないか。
佐藤忠男さん、お疲れ様でした。
2022年3月29日 記