豆豆先生の研究室

ぼくの気ままなnostalgic journeyです。

“ニュー・トリックスーー退職デカの事件簿”

2021年06月21日 | あれこれ
 
 夕方、少し涼しくなったので、郵便を出しに近所の郵便局に行った。夕方5時台と7時台にも集配があり、助かった。
 投函後、帰宅の途中で見上げた西の空にうろこ雲が浮かんでいた。この雲は梅雨のこの時期に見られる雲だったろうか。夏の終わりか秋の空だったように思うのだが・・・。
 もう少し後で買い物に出かけた家内は、夕日に輝く彩雲(?)を見たという。

 昨日(一昨夜)はラジオの深夜放送および早朝の番組で、二度もカスケーズの「悲しき雨音」がかかった。
 NHKラジオの早朝番組では、女子アナウンサーの曲名紹介の際の「カスケーズ」のイントネーションが変で、「貸す」のイントネーションで発音していた。曲がかかった後で年配の男性アナウンサー(アンカー?)は、ぼくが中学時代に覚えたのと同じイントネーションで曲名を発音していた。東京で「はずれ」や「くず」という意味で使う「カス」のイントネーションである。「ケーズ」は「K's電気」の「ケーズ」である。
 英語ではどちらが正しいのかはわからないが。
 ※と書いたものの、英語ではどう発音するのか不安だったところ、英語が出来る人から指摘を受けた。“Cascade”はアメリカの山(脈?)の名前で、“Cascades”はCascade地方の人たち(たとえば山形人)という意味だろうとのこと。そして“Cascade”のアクセントは第2音節(後方)にあるから、日本風にいえば「貸す」ケーズのほうが正確らしい。NHKの女性アナウンサーさん、ご免なさい。しかし1960年代の日本では「カス」ケーズだったのです。

 いずれにしても、「悲しき雨音」はこの時期に聴く懐かしい曲として大好きだが、あいにくここ数日はあまり梅雨らしくない天気である。
 もう1曲、リトル・ペギー・マーチの「雨に煙る道 いつまでも ぬれて二人で歩いたの 小さな公園 水たまり ~♪♪」という曲(題名は忘れた。YOU TUBE にも出てこない)も好きだった。ペギー・マーチ自身が日本語で歌っていた。

 帰宅すると、BSのミステリー・チャンネル(560ch)で、“ニュー・トリックス--退職デカの事件簿”をやっていた。
               
 
 プルマン警視が戦争犯罪捜査部門(!)への異動を打診されるシーンだった。
 その後、夕食を食べがてら遊びにやってきた孫たちにチャンネル権を奪われ、“おかしなおかしなガム・ボール”につき合わされ、7時すぎにふたたび“ニュー・トリックス”に戻ったら、ボスの女警部(?)が別の役者になっていた。
 ぼくはプルマン警視を演ずる女優が好きだったのだが、最後に去っていく場面を見逃してしまった。

 2021年6月21日 記


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ホッブズ『市民論』

2021年06月20日 | 本と雑誌
 
 トマス・ホッブズ『市民論』(本田裕志訳、京都大学学術出版会、2008年)の一部を読んだ。

 表紙や扉には「市民論」という表題に並べて、“De Cive” というラテン語の副題がついている。というより『ホッブズ市民論 “De Cive”』というのが正式な書名なのかもしれない。訳者はラテン語の原典から訳出したという。碩学の人がいるものだと感心する。
 ホッブズ『法の原理』の第1部を読み終えたところで、小休止をかねて、「父権」の部分だけつまみ読みをしたまま放置してあった本書をめくってみた。しかし今回も、「父権」の部分(第9章)だけ読んで、『法の原理』に戻ることにした。

 以前には、まさに親権(ホッブズでは「父権」)についてホッブズがどのように説明しているかに関心があって読んだのだが、今回はホッブズが結婚を夫婦間の契約としていることを発見したのが収穫だった。婚姻は最終的には(そして本来的には)当事者間の完全な自由契約に任せるべきであるというぼくの立場から共感できるものであった。
 ※以下の引用は、ほぼ訳者の訳文の通りだが、一部省略したところがある。

 ホッブズは、まず子に対する父の権利は出生(産ませたこと)によって当然には発生しないという。子を支配する親の権利は、子を産むことによってではなく養育することによって子の母に帰属するという(183-5頁)。
 そして母が夫に身をゆだねて命令権が夫にあるという条件下で生活共同体を形成した場合には、両者間に生まれた子は、母親に対する父親の命令権のゆえに父親に属することになる(186頁)。しかし、自然状態において男女が契約して、一方が他方に従属しない共同関係を作る場合には、両者から生まれた子は母親に属する(187頁)。
 ただし、国家の中において男女間で同居のための契約がなされた場合には、生まれた子は父親に属する、なぜならあらゆる国家において家族は父系によって決まっており、家庭内の命令権は男に属しているからである。このような契約は市民法(国法)に従って行われる場合には「婚姻」と呼ばれ、これに対して男女が内縁関係のみを契約する場合は、子は父親に属する場合も母親に属する場合もあるという(同頁)。
 男女間の(共同生活に関する)契約のうち、国法に従って締結されたものだけを「婚姻」と呼ぶ用語法は、日常社会における「結婚」と民法が規定する「婚姻」を峻別する方向を志向する点で現代にも通用する。

 (親権、父権から)独立した子も、「両親を敬え」という聖書の教えは、自然法であり、たんなる謝恩というだけでなく約定という名のもとにある(189頁)。ナポレオン民法にも、子は生涯その両親を敬うべしという規定があった。
 自分が子どもだった時には耳の痛い規定だったが、老親となった今では自然法!と言ってみたくなる。ただし、民法に規定するような事柄ではないだろう。
 きょうは「父の日」らしいが、独立した息子からメールが届いただけでも良しとしなければなるまい。

 2021年6月20日 記


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ホッブズ『哲学者と法学徒との対話』

2021年06月15日 | 本と雑誌
 
 堂目『アダム・スミス』を読んで、なぜかホッブズを読んでみようという気になった。どういう脈絡だったかは、数週間前のことなのにもう思い出せない。
 トイレ用図書のサマセット・モーム『要約すると』(新潮文庫、平成8年復刊版)を読んでいたら、偶然モームが、ホッブズのことを「ホッブズの『リヴァイアサン』を読んで、あの個性を持った、ぶっきらぼうな、率直なジョンブル気質に心をひかれずにいられる人はない」だろう、「彼ら(ホッブズやロック、ヒュームら)はすべて・・・文章を研究するものは、なによりもまず研究すべきイギリス語を書いている」と評しているのに出会ったことも(228頁)影響したかもしれない。残念ながらホッブズを英語で読む能力も気力も今はないが、30年以上前にロックが“mature”という言葉を使っているかどうか調べる必要があってロック『市民政府論』を原書で読んだときは、その英語の平明さに驚いた。17世紀の文章とはとても思えなかった。
 ちなみに、モームはイギリス人の両親のもとに生まれたが、母は早くに亡くなり、父はフランス大使館付の弁護士だったため、母親代りのフランス人の乳母に育てられ、フランス語の学校に上がったため、英語は後に第2言語(第1・5言語くらいか)として習得したという(『要約すると』による)。               
            

 幸い10年以上前に買ってそのままだった『哲学者と法学徒との対話ーーイングランドのコモン・ローをめぐる』(田中浩他訳、岩波文庫、2007年5刷)が本棚に並んでいるのを見つけたので、これを読むことにした(冒頭の写真)。

 哲学者がホッブズ自身で、法学徒はクックのコモン・ローを代弁してホッブズに反論し、時に質問するという構成だが、ホッブズがすべて一人称で論じてくれた方が分かりやすい。ときおり「法学徒」のなかにホッブズ本人が投影されていて、どこまでが純粋なコモンロー学徒の本心からの発言なのか分からないところがある。

 ホッブズがこんなにイギリスの法律や法制度、法制史に詳しかったとは知らなかった。
 コモンロー=判例法に対抗するために、マグナ・カルタを筆頭に、エドワード3世治世25年の制定法[法律第2号]、ヘンリ8世治世25年制定法などといった制定法がふんだんに引用してあり、裁判制度をめぐる議論や裁判所の改編に関する記述も十分には理解できなかった。イギリス法やその歴史に相当詳しい人でなければ十分には理解できないだろう。少なくとも細部の議論について行くことができるのは法律家でもわが国に10人もいないのではないか。

 コメントは改めて後日書くつもりだったが、書けそうもないので、観想だけを。
 コモン・ローやそれを担う裁判所や裁判官の理性が信用に足りるものではなく、主権者(議会における国王?)による制定法、そこに示された主権者の意思こそ国民の生命や財産を守る道である、という以上の理解はできなかった。
 君主制、貴族制、民主制という3つの政体が並列して記述された個所があるが、ホッブズが君主制を支持しているのか民主制(議会制)を支持しているのかすら読み取れなかった。引用される制定法をめぐる対話も理解できないことが多く、陪審制をめぐる対話も興味はあるのだが残念ながら十分な理解には至らなかった。慣習と理性(の法)とコモン・ローの関係も、「理性」が理解できないので読み取れなかった。重罪の範囲や(今の刑法でいえば)誤想防衛の議論などは刑法学者が読んだら面白いのだろう。

 訳者による巻末の解説が道案内にはなるが、いくつかのテーマについては前提となる予備知識が必要である。
 ホッブズ自身の法学史における位置づけは堀部政男氏が法学セミナーに連載した「英米の法律家」その他のなかの、クック(ぼくの頃は“コウク”と呼ばれていた)およびホッブズを読んでみること(法学セミナー162-164号[1969年]、同誌262号[1977年]など)、裁判所制度とコモンローの生成についてはベイカー(小山貞夫訳)『イングランド法制史概観』(創文社)を、議会主権については田島裕氏の『議会主権』(を表題に掲げた本があったはずだが)を読むこと。
 “King in Parliament” というのがホッブズ主権論のキーワードの1つらしい。
 福田歓一『近代政治原理成立史序説』(岩波書店)は若いころに読んだが、よもや定年後に再び読む気になるとは思わなかったので、後輩の政治思想史研究者が欲しいというのであげてしまった。70歳になったらバルザックを読もうなどと30歳の頃には思っていたのだが、70歳になったらそんな気はあまりなくなってしまっていた。定年直前の今から1年半前の時には、もう法律の勉強からは足を洗おうと決意したつもりだったのだが、これも全くの思い違いで、いまだに足を洗えない。

 そもそも17世紀中・後半のイギリス史についてもきちんと思い出しておかなければ背景を理解できない。高校時代の世界史以降も、川北稔氏やラスレットの翻訳などイギリス史の本は時おり読んでおり、近藤和彦『イギリス史10講』(岩波新書)なども読んだ記録があるが(2014年1月12日読了という書き込みが最終頁にある)、17世紀イギリスの委細はほぼ忘れてしまった。

   *   *   *
 
 『リヴァイアサン』はおそらく完読することができないだろうと判断して、初期の作品ながら『リヴァイアサン』に至るホッブズの思想の原型がすでに現われているという『法の原理』を読んでみることにした。邦訳は2冊出ているが、近所の書店を3軒回ったところ、ジュンク堂の本棚の最下段にちくま学芸文庫の『法の原理ーー自然法と政治的な法の原理』(2019年)があったのでこれを買って帰って読み始めた。          
 これについては、いずれ読み終えたら書き込むことにしたい。ただし初っぱなから難渋している。

 2021年6月15日 記

 きょうは確か樺美智子さんの命日である。何周忌になるのだろうか。本当ならオリンピック反対の意思を表明すべくデモ行進に参加しなけらばならないのだが。


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軽井沢に行ってきた(2021年6月2日~5日)

2021年06月11日 | 軽井沢・千ヶ滝
 
 6月2日から4日間、軽井沢に行ってきた。
 予約してあったトイレのリフォームの日が近づいたため。
 1週間前の話だが、コロナに感染していないことを確認するため、一応1週間様子を見たが大丈夫そうなので今日になって書き込みをしている。

 緊急事態宣言下でもあり、県境を超えた移動は自粛を要請されているのだが、オリンピックは強行実施するらしい(観客も入れるらしい)、選手村は「自宅」とみなせるから選手村での飲酒は自由だという(それなら行きつけの居酒屋だって「自宅」の延長だろう)、各国関係者は1か国40名もやってきて高級ホテルに宿泊し飲食や外出も自由(携帯を置いて出かければよい)、14日間の隔離期間も設けないでその辺の一般ホテルに宿泊する(らしい)、都立大学では学生にはリモート授業で入構を制限しておきながら、パブリックビューイングで外部の人間は学内に集って盛り上がってよい・・・などなど「石流れ、木沈む」報道に毎日接しているうちに、「正直言って」もう自粛などバカらしくなってしまった。
 それでも、万が一、感染でもしてしまったら医療従事者の方々には申し訳ないという思いから、(本当は強制接種には反対なのだが)予防接種も受けたし、なるべく控え目に行動してきた。

 2日は午前9時過ぎに家を出たが、川越で事故があり藤岡まで100分近くかかったため、昼過ぎに到着した。
 天気は良く、窓を開けて空気を入れる。気温は20度と道路表示には出ていたが、風が冷たくて体感温度はもっと低く、ダウンのコートを羽織って過ごす。
 昼食、夕食ともに、持参の食材で家ですませた。

 3日は、「浅間のかおり」という地元農家がやっている売店が、ネット上の口コミの評価が4・3と発地市場より高いので行ってみようと家内がいうので、ナビを頼りに行くことにした。
                
 国道18号を馬瀬口で左折して、長野自動車道の下をくぐったり、小さな川に沿った水田わきの道路を10分ほど行くと看板を見つけた。
 11時ころに到着したせいか、品数も少なく、4・3という評価は「?」だった。ネットの口コミもあてにならない。道すがらの水田と遠くの小山の眺めがよかったのがせめてもの救い。東側に500mくらい?のそこそこの山が1つだけあったのだが、何山だろう。
 ※地図で調べると、平尾富士というらしい。もしそうだとすると、標高1155mという結構な高さの山である。離山か小浅間山くらいにしか見えなかったけど、違う山だろうか。

               
 
 <しまむら>で孫のためにベッドカバーを買い(上の写真はしまむらの駐車場から軽井沢消防署ごしに眺めた浅間山だが、雲に隠れて見えない)、<ケーヨーD2>で高枝切りばさみを買う。ショッピング・モールを眺め、峠のそば茶屋で温かい天ぷらそばを食べる(下の写真)。
               

 ツルヤで買ってきた義姉への贈り物を追分の郵便局からレターパックで送る。宛先は四国だったが翌日には義姉からもう届いたという連絡が入った。日本郵便にしては上出来。コロナで配送品が少なかったり、深夜の国道が混雑していなかったりするのだろうか?

 4日はトイレの工事。あいにく朝から雨が降っていたが、9時から3時間ほどで終了。
 見積もりのための下見なしでの注文だったので若干心配だったが、無事に終わった。従来のトイレの便器や水道管(止水栓)や排水管の位置などの写真と寸法、段差の有無を知らせるだけで、下見が不要というシステムだった。依頼する側も業者も助かる。

 雨なので、終日家で本を読んで過ごす。
 ぼくはホッブズの『哲学者と法学徒との対話ーーイングランドのコモン・ローをめぐる』(岩波文庫)を読んでいる。 

               

 5日はもう帰京する日である。
 朝から晴れていて、帰るのがもったいない。
 発地市場で野菜を買い込んで帰途に(上の写真は発地市場)。ただし前日が雨だったので、野菜はいまいちだった。

 2021年6月11日 記

 ※ 冒頭の写真は、プリンス・ショッピング・モールから眺めた離れ山と、その向こうにわずかに見えている浅間山(石尊山)。


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