豆豆先生の研究室

ぼくの気ままなnostalgic journeyです。

笹沢左保「死と挑戦」(春陽文庫)ほか

2024年11月01日 | あれこれ
 
 今回は「本」というよりは「断捨離」ないし「本の捨て方」がテーマなので、ジャンルはあえて<あれこれ>としておく。

 段ボールに2、3箱分の文庫本が物置にしまったままになっているが、この10年いや20年以上、ほとんど手にすることもないままに放置してある。「コンマリ」?流「断捨離」のルール、その本に「感動があるか?」(だったか・・・)に従って捨てることにした。

       
       
         
     
 断捨離の候補となった本は、いちいち書き写すのも面倒なので写真で済ませる(上の写真)。主なものをあげると、城山三郎の経済小説。城山の経済小説は出版社の社員だった頃にけっこうたくさん読んだ。城山のデビュー作「総会屋錦城」(新潮文庫)から(当時の)最新作まで、他の小説家の経済小説に比べれば「人間」が描けていたような記憶があるが、しかし凡作もあった。
 山口瞳の「サラリーマン諸君!」(角川文庫。ちょうどぼくが大学4年だった1973年の出版だった)は社会人になったばかりの頃のぼくのバイブルだった。家族にいわゆるサラリーマンが全然いなかったので、「サラリーマン」の生き方は山口のこの本から学んだといってもいい。しかし「人殺し(上・下)」(文春文庫)の最終ページには「つまらない」と書いてあった。
 その他の本はあえてコメントをするまでもなく、捨てることにした。
 
       
       
     
 後藤明生「挟み撃ち」(河出文庫)は買った当初は気になる本だったような記憶がある。しかし今回捨てる前にパラパラと最初の数ページを読んでみたが、まったく「感動」はなかった。御茶ノ水駅前(西口)の改札口前の広場に傾斜があって落ち着きが悪い云々とはじまるのだが、まどろっこしい。5、6ページでやめた。
 吉行理恵「記憶のなかに」(講談社文庫)は、母親が美容院を経営していた九段坂が舞台だというので、まず奥野健男の解説を読んでみた。しかし吉行淳之介が麻布中学で奥野の2年先輩の秀才だったというエピソードで始まるが、淳之介、吉行和子のことばかり書いてあって、なかなか理恵のことにならない。本文を読みはじめると、ウンコのついたパンツのことなどが「ですます」調で書いてあって、こっちは2ページでやめた。ただしこの本は家内の買った本だったかも知れないので、断捨離は一応保留する。民法762条2項によれば帰属不明の夫婦財産は夫婦の共有と推定されるので、夫婦の合意がないと処分できない。
 
 捨てようとして思いとどまったのは、沢木耕太郎「テロルの決算」(文春文庫)。今さら沢木耕太郎でもないだろうと思ったが、パラパラめくっているうちに、浅沼稲次郎というか日本社会党のことが気になりだした。ぼくは選挙権を得て以来ほとんどの選挙で神近市子から始まって社会党の候補に投票してきた。再軍備化方向への改憲を阻止できる議席数を確保すればそれでよいというのがほとんど唯一の理由であった。「社会新報」も定期購読していたが、配達していた党員の方が転居することになって、それ以降は配達する人がいなくなってしまった。
 ところが最近の総選挙では、社会党の後継らしい社民党は沖縄地方区の1議席しか獲得できなかった。少数与党に転落した自民党は国民民主党にすり寄ろうとしているが、立憲民主党も秋波を送っているという。野党第一党がなぜこんな体たらくになってしまったのか、浅沼時代にさかのぼって考えることにも意味があるかもしれないと思い、捨てないでおくことにした。
 志賀直哉「暗夜行路」(新潮文庫)も、小津との関係(というより與那覇さんの関係)で残すことにした。この本も父子間の葛藤というテーマにつられて読み始めたが、時代背景がよく理解できないうえに、知らない言葉が頻繁に出てくるし、なかなか本題に入らないので、最初の10ページくらいでやめてしまった。
 笹沢左保「死と挑戦」(春陽文庫)は読んだのかどうかも記憶にないが、あの永井荷風の春陽堂から出ていた文庫本ということで残しておくことにした。春陽文庫は今でもあるのだろうか。「江戸川乱歩名作集(4) D坂の殺人事件」(春陽文庫)も同じ理由で残しておく。ぼくが持っている春陽堂の本はおそらくこの2冊だけである。※気になってネットで調べると、なんと2022年に春陽文庫が復刊したという。坂口安吾「明治開化 安吾捕物帳」など、ちょっと読んでみたい。
 以前「新青年傑作選」全4巻(立風書房)や「夢野久作全集」(だったか)などを断捨離してしまったが、今になってちょっと惜しい気持になっている。

 残しておくのは簡単だが、残したまま死んだのでは息子たちが迷惑だろう。捨ててしまったとしても、読みたくなれば図書館に行く手間ひまさえかければ読むことはできる。捨てるのに躊躇、葛藤があるのは捨てた結果ではなく、本をゴミに出すというその行為のハードルが高いのである。かといって、「鶴見俊輔著作集全5巻」(函、帯つき、美本)を査定額ゼロ円などといういかがわしい「宅配買取サービス」詐欺まがいの古本屋にはもう引っかかりたくない。
 資源ゴミに出すのではなく、悪徳古本買取業者に買い取らせるのでもない、古本の正しくて心穏やかな「捨て方」は何かないものだろうか。

 2024年11月1日 記

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ユージン・コスマン楽団「アニー・ローリー」

2024年06月12日 | あれこれ
 
 ユージン・コスマン楽団「別れの曲/アニー・ローリー」(コロンビア・レコード、1956年10月)を買った。
 断捨離のなか、これ以上本やレコードは買わないと決めたものの、Yahoo オークションに300円(+送料140円)で出ているのを見て、どうしても欲しくなり、クリックしてしまった。

 実は、つい最近になって、ネット情報で「ユージン・コスマン」というのは古関裕而の別名であることを知ったのである。
 古関裕而は、ぼくの人生とともにある作曲家である。
 ぼくの人生の最初の絶頂期が訪れた1964年、その10月10日(土)午後1時。前日まで降り続いた雨はその日の朝には奇跡のように上がって、晴れわたった青空のもとで、東京オリンピックの開会式が始まった。その入場行進曲が古関の「オリンピック行進曲」だった。
 あの青空、国立競技場の周囲にはためく万国旗、その旗がポールに当たる音、マラソンゲートから入場してくる選手団の色鮮やかなユニフォーム、そして古関裕而作曲(指揮も彼だったのでは?)のオリンピック行進曲。

 10月10日は土曜日だったが、当時は公立中学校では土曜日は登校日だった。ぼくたちの4時間目は体育の授業で、校庭の砂場で走り高跳びの測定をやっていた。4時間目が終わると、みんなすっ飛んで家に帰った。
 その頃、ぼくの中学校では、下校時刻になると校内各所のスピーカーから「アニ・ーローリー」が流れてきた。土曜日の下校時刻にも流れたと思うが、あの日はそんな時間まで学校に残っているものは1人もいなかっただろう。
 「アニー・ローリー」はYouTube で聴くことができるが、最初に出てくるNHK交響楽団による演奏は優雅すぎて、ぼくの思い出とは違っている。夕暮れ時の下高井戸商店街に流れる「アニー・ローリー」のほうがぼくの思い出に近いのだが、「ユージン・コスマン楽団」の「アニー・ローリー」が一番ぼくの記憶の中の「下校時刻のアニー・ローリー」に近いと感じていた。

 それが実は古関裕而の編曲、演奏だと知って合点がいった。ぼくが1964年前後の月曜から金曜の午後3時半か4時だったかに聞いていたのは、まさにこの古関の「アニー・ローリー」に違いない!
 ということで、「アニー・ローリー」を検索したところ、Yahoo オークションで何種類かのレコードが出ていた。一番安かったのは250円+送料180円のだったが、いかんせんジャケットが汚れていた。しかも1964年10月プレス(発売?)だったので、ぼくが1962年から1964年10月頃に学校で聴いた版(盤)ではない。
 そこで、2番目に安くて、1956年10月発売と書いてあったこのレコードを買ったのである。ジャケットは映画「哀愁」の一シーンで、左がヴィヴィアン・リー、右がロバート・テイラーという。A 面の「別れのワルツ」(蛍の光)はこの映画の挿入曲だったらしい。。

 ぼくは東京オリンピックの1964年(昭和39年)の夏に、リバイバル上映された「エデンの東」を見て以来、ヴィクター・ヤング楽団の「エデンの東」が気に入ってしまい、生徒会で下校時刻に流す音楽を「エデンの東」に代えることを提案したほどだった(圧倒的少数で否決されてしまったが、数票の賛同者がいた)。
 しかし中学を卒業した後になってからは、「アニー・ローリー」を聞くとぼくは必ず1964年頃の西荻窪の中学校の欅林の夕暮れ時を思い起こすようになった。やっぱり下校時刻には古関裕而の「アニー・ローリー」がよく似合う。
 週番で、下校時刻に教室内に残っている生徒に下校を促すために各教室を巡回していると、1年下のクラスで何度か一人だけで教室に残っている女の子がいた。今にして思うと、ぼくが回ってくるのを待っていたのではないかとも思うけれど(自惚れ?)、当時は恥ずかしさで声をかける勇気もなく、事務的に「下校時刻を過ぎたので、下校して下さい」としか言えなかった。

 これが、ぼくの「アニー・ローリー」にまつわる悲恋(!)である。彼女も73歳になっているはずだが、どこでどうしているのだろうか。実名を書きたい衝動に駆られるが、彼女に迷惑だろう。ユージン・コスマン楽団の「アニー・ローリー」を聞きながら思い出にとどめておこう。

 2024年6月12日 記

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クラウン・コーラとミッション・コーラ

2024年06月01日 | あれこれ
 
 「豆豆先生の研究室」2007年2月27日の投稿で、「不二家 “トプシー”」という題名で、ボブ・マグラスが歌った「不二家トプシー」のCMソングと、ヴィレッジ・シンガーズが歌ったコカ・コーラのCMソングの思い出を書いた。
 1週間ほど前、この「不二家 “トプシー”」の項の閲覧数がなぜか急に増えた日があった。誰がどんな理由(経緯)で見てくれたのか分からないが、「トプシー」の書込みには気になっていることがあったので、この際補遺を書いておくことにした。
 ちなみに、不二家トプシーのCMソングは、ソノシートが出ていたらしく、Google で検索すると、ボブ・マグラスの甘い歌声を Youtube で聴くことができる。ぼくが書き込んだ歌詞は記憶で書いたものだったが、ほぼ正確だった。ヴィレッジ・シンガースのコカ・コーラのCMソングに関する情報は、今のところ発見できていない。

 補遺(というか訂正)は、不二家「トプシー」ではなく、森永の「クラウン・コーラ」に関するものである。
 ぼくは昭和30年代から40年代にかけて、「森永からクラウン・コーラというのが出ていた」と書いた。しかしこれは誤りで、「クラウン・コーラ」は寿屋(今のサントリー)から出たものだった。
 「クラウン・コーラ」は、正式には「ロイヤル・クラウン・コーラ」といい、1905年創業のアメリカ・ジョージア州の会社が出したコーラで、コカコーラ、ペプシコーラに次いで、第3位の売上げを誇る商品だった。英語では “Royal Crown Cola” と書き、“RC” と略称されたそうだが、ぼくの記憶では、わが国では「クラウン・コーラ」と呼ばれていた。
 クラウン・コーラは、日本では1962年に寿屋から発売されたが(1960年という記述も見られる)、業界1、2位のコカコーラ、ペプシコーラに大きく水をあけられたため、1974年に撤退したという。
 ということで、「クラウン・コーラが森永の発売」というのは誤りだった。トレードマークが森永とよく似た王冠(クラウン)形だったうえに、森永のチョコレートに「ハイクラウン」なんていうのがあったので、初めから誤解していたか、誤って記憶したらしい(負け惜しみ)。

 ネット情報によると、日本のコーラには苦難の歴史があったようだ。
 日本の文献における「コーラ」に関する記述は、大正3年(1914年)の高村光太郎「道程」のなかに「コカコオラ」が登場したのが初めてらしい。当時は庶民には縁のないハイカラな飲み物だった。大正8年には、あの明治屋 “MEIDI-YA” がコカコーラを輸入したそうだ。
 しかしアメリカとの戦争中は「敵性物資」として当然輸入などできなかっただろう。敗戦後の昭和20年になっても輸入申請が却下されている。外貨流出防止と国産飲み物(温州みかんジュースなど)保護のためだったという。
 昭和31年(1956年)に、在留外国人(ほとんどは米国人だろう)および外国人向けホテルやゴルフ場などでのみ販売が許されるようになり、昭和36年(1961年)にはコーラの輸入が完全に自由化され、コカコーラとペプシコーラの2社のコーラが輸入されるようになったという。昭和37年に中学生になったぼくが記憶しているのだから、クラウン・コーラもこの頃から輸入されるようになったのだろう。 

 「ミッション・コーラ」のほうは、驚くなかれ、国産のコーラだった! コカコーラなどの輸入に先駆けて昭和28年(1953年)に販売が開始されたという。
 わが国でコーラ飲料の生産が始まったのは、戦後の昭和27年(1952年)のウイン・コーラからで、ついで1953年にミッション・コーラが販売されはじめたという。
 ぼくはウィン・コーラというのはまったく記憶にないが、ミッション・コーラはなぜか記憶に残っている。ぼくが中学生だった1962~65年頃にはまだ販売されていたのだろうか。ひょっとしたら、いま現在でも、沖縄では販売されているのかもしれない。というのも、沖縄の洋品店で「ミッション・コーラ」(“Mission Cola”)というロゴとコーラ瓶のイラストの入ったTシャツを販売している店があるのをweb上で発見した。沖縄を旅行することがあったら訪ねてみたい。

 ぼくは、昭和30年代前半に軽井沢スケートセンターで開催された渡辺プロ主催の「真夏の夜の夢」というショーの第1回目で、来場者に無料で配布されたコーラを飲んだ(実は飲めなくて吐き出した)のが、コーラにまつわる最初の思い出なのだが、あの時飲んだのはコカコーラだったのかペプシコーラだったのか、ひょっとしてクラウンコーラかミッションコーラだったのか、分からない。
 もしあの「真夏の夜の夢」が始まったのが、コーラ輸入が自由化される1961年より以前だったとしても、渡辺プロは進駐軍に深く食い込んでいたから、コーラの入手は可能だったかもしれない。ぼくの記憶では、とても日本人好みの味つけにはなっていなかったから、アメリカ産のコカコーラかペプシコーラだったのではないかと思う(クラウンコーラだった可能性も?)。それくらいに、当時の日本の子どもにとっては苦くて不味い飲み物だった。
 
 2024年6月1日 記

 ※ 以上の記述は「日本清涼飲料検査協会」のHPその他によったところが多い。本文にふさわしいコーラ関連の写真を探したが、なかなか適当なものが見当たらなかった。ようやく10年前にイギリスを旅行した際に、オックスフォードのパブ “QUOD” で飲んだコーラの瓶が写っている写真を1枚見つけた。ブランド名ははっきりと読み取ることができないが、コカコーラやペプシコーラではなさそうである。イギリスにも地元産のコーラがあったのだろう。

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滋賀の旅・彦根その2(3月21日)

2024年03月28日 | あれこれ
 
 3月21日(木)正午ころ、彦根城を後にして「栄町1丁目」を目ざす。
 滋賀大学経済学部を通り過ぎ、外堀も渡って、琵琶湖岸から彦根市内、京都方面に向かう大通りに出る。交差点の手前に、近辺の町内案内図が立っているのを見つけた。
 これを見ると、道を渡った左側が「栄町1丁目」となっていて、しかも道を渡って左折して2、3軒行ったところに、なんと「xx組」と表示されているではないか! これこそ祖母の本籍地である「xx町」の幕藩時代の地名である。町内案内図に幕藩時代の旧地名まで表示してあったことに感謝。
   

 交差点を渡って、「xx組」と表示されていた辺りを2ブロックほどくまなく歩き回って、わが祖母の旧姓の表札がかかった家がないかを探したが、残念ながら見当たらなかった。佐賀で祖父の旧本籍地を訪ねた時と同じように、ひょっとして子孫の誰かが今でも住んでいるのではないかと期待したのだったが・・・。
 祖母がこの辺りで生まれたのかどうかは分からないが、幕藩時代から明治の初期に曽祖父かそのまた祖先がこの辺りで生活していたことは間違いないだろう。この地の雰囲気を味わうことができたので良しとしよう(下の写真)。
   
   

 「栄町1丁目」を後にして、昼食をとるために、「夢京橋キャッスルロード」という観光街に向かう。
 江戸時代の街道沿いを模した建物と通りになっている。ひとまず端から端まで往復する。道幅も広く街路樹が植えられていて、風情があるのだが、いかんせん車の通行量が少し多すぎる(下の写真1枚目は夢京橋通りに面した近江牛の「千成亭」。昨日近江八幡の「千成亭」で食べたが、彦根のほうが本店らしい)。
 ガイドブックに、琵琶湖周辺は近江牛だけでなく、うなぎも名物と書いてあった。案内書でおすすめの「源内」という鰻屋に入る(冒頭の写真は「源内」の外観)。通されたカウンター席は日本風の内庭に面している。
 東京と違って「うな重」というのはなく、「うな丼」だけである。※というのは間違いで、ちゃんと「うな重」もあったと同行者に指摘された。ぼくがメニューを見落としていたらしい。
 彦根のうなぎの蒲焼きは、外はカリッとしていて、中は柔らかく仕上がっていた。蒸してから焼くので皮までふっくらと柔らかい東京の蒲焼きとは違う食感であった。関西のうなぎは初体験だったが、これも美味しかった。うなぎ自体は三河産とのこと(下の写真2枚目)。
   
   

 ついでに夢京橋の通り沿いで見かけた飛び出し注意の看板「とび太くん」。
 「翔んで埼玉」という映画で有名になったらしいが、滋賀県が発祥だという。大津、近江八幡でもそこかしこで見かけた。東京で見る定番の赤シャツに黄色ズボン姿ではなく、着物姿や学生服姿などの変形バージョンも多かった。
   

 夢京橋から外堀沿いを歩き、「たねや」(この店は近江八幡のほうが本店らしい)を眺め、これもガイドブックで美味しいと褒めていた「どら焼き 虎てつ」で孫たちに「ひこドラ」(ひこにゃんが刻印されたどら焼き)を買って、彦根駅に向かう。
   
 
 彦根駅から琵琶湖線で米原駅に出て、15時56分米原発のひかり号で帰京。
   

 こうしてわれわれの大津、近江八幡、彦根をめぐる旅は終わった。

 桜を見ることができなかったのは残念だったが、なぜか旅行の間は花粉症の症状が治まっていた。琵琶湖周辺にはぼくを悩ます物質が漂っていなかったようだ。
 
 2024年3月27日 記

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滋賀の旅・彦根その1(2024年3月21日)

2024年03月26日 | あれこれ
 
 3月21日(木)、滋賀県の旅も最終日。
 夕べの天気予報では、今日の彦根地方は朝から何と雪! 
 朝5時すぎに目が覚めたので、恐るおそるカーテンを開けてみると、予報は見事に的中して、窓から見える彦根駅(東口)駅前のバスターミナルは雪化粧。ふたたび布団にもぐりこみ、6時にまた窓の外を見ると、今度は駅前の広場が朝日に輝いているではないか。安心して7時に今度こそ起き出して窓を見ると、何と再びの雪景色ではないか(下の写真が1時間ごとの窓の外の景色の変化)。
 激しく天候が変わる一日になりそうな気配だが、天気予報では昼ごろから曇りになるらしい。
   
   
   

 朝食を済ませて、駅前の観光案内所へ(下の写真1枚目)。
 きょうの行き先は決まっているので、祖母の本籍地の旧町名、旧番地を告げて、これが現在ではどのあたりかを聞いてみる。親切な係の女性が、旧町名と現在の町名の対照表をもってきて調べてくれる。
 「滋賀県犬上郡彦根xx町xx番地」は、幕藩時代には「xx組町」といい、現在は「栄町1丁目」の一部になっているとのこと。彦根城の南側、やや琵琶湖に近い地域である。ピンポイントではないが、曽祖父らの先祖が暮らしただいたいの位置が分かった。
 駅前から歩いて、彦根市役所に向かう(下の写真2枚目)。
 昨年の佐賀県嬉野市役所と同様に、マイナカードを提示して亡父の除籍簿以前の戸籍を申請する。しばらく待たされたが、右下に兜をかぶった「ひこにゃん」のイラストが入った薄いさくら色の除籍簿謄本を受領する。
 曽祖父が戸主で、曽曽祖父を前戸主とする除籍簿で、当然ながら(曽祖父の娘である)祖母についても、出生から婚姻までの身分事項が記載されている。まったく聞いたこともなかったが、祖母は17歳で祖父と結婚していた。そんな時代だったのだ。
   
   

 現地へ向かう前に、市役所のすぐ近くにある彦根城を見物する。
 井伊直弼の歌碑を眺め、開国記念館を見物する。幕藩時代の彦根城下のジオラマが展示されている。お城の周囲には家臣たちの住居が100軒ほど並んでいて、それぞれ家臣の氏名が書いてあるが、わが祖先の名はなかった。祖母から先祖は彦根藩士だと聞いていたが、それほどの重臣ではなかったのだろう。
 ここでも彦根城お堀めぐりの屋形船に乗った。この頃には空も晴れて暖かくなっていた。白鳥や鴨(に似た水鳥)が泳ぐ脇をゆったりと進む。途中、彦根城の天守閣が一番良く見えるあたりで、船はエンジンを止め撮影タイムとなる(下の写真)。
   
   
   

 お堀(内堀)の周囲には玄宮園という庭園があるが、復元整備中というので中には入らず。同園近くの広場には二度咲桜という種類の桜が咲いていた(下の写真)。「ひこにゃん、ひこにゃん、ひこにゃん、にゃん、にゃん ♪」という曲がスピーカーから繰り返し流れていた。
 今回の旅行は、桜の開花を期待して日程を設定したのだったが、あいにく今年の桜は開花が遅れていて、どこでも桜には出会うことができなかった。
 

 せっかくなので、彦根城の表門から入って、天守閣まで登ることにする。途中から天気が急変して、雪まで降り出したが、歩きにくい石段を何とか登って天守閣に到達した(下の写真1枚目)。天守閣の中も工事中で、相当急な階段(というより梯子)を何段も登らなければならないのだが、杖をもった老人もいたので、われわれも頑張る。天辺まで登ったが、窓(?)から粉雪が舞い込み、彦根城下の街並みも灰色に煙っていた。
 下りは大手門側に下る。そのほうが次の目的地の「栄町1丁目」に近いので。この頃には雪はやんでいたが、相変わらずの曇り空。大手門を出て内堀を渡って(写真2枚目は大手門跡)、旧武家屋敷沿いを北上する。
 後で地図を確認すると、この辺りの武家屋敷跡には旧大津地方裁判所があったらしい。あの大津事件を裁いた大津地方裁判所が大津ではなく、彦根にあったとは!
 屋形船からヴォ―リスが建てたという洋館を見たが、内堀沿いを徒歩で歩いても見つからなかった。その代わり、内堀をそれて外堀に向かって左折すると(「舟町口」とあった)、白いきれいな二階建ての建物が見えてきた。滋賀大学経済学部の校舎だった(3枚目)。ヴォ―リス風だが、観光パンフに書いてない所を見ると違うのだろう。最近の大学の校舎に比べて、落ち着いた雰囲気がある。
   
   
   

 100メートルほど歩くと広くて交通量の多い通りに出る。この通りを渡ると、いよいよわれらの目ざす「栄町1丁目」である。(彦根その2につづく)

 2024年3月25日 記

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滋賀の旅・近江八幡その2(3月20日)

2024年03月25日 | あれこれ
 
 滋賀の旅、近江八幡の続き。3月20日の午後から。

 午後12時15分に出発する八幡堀めぐりの屋形船に乗る。
 恐れていた通り、犬2匹を連れた家族と同船。この犬2匹が激しく他の乗船客に向かって吠え続けるのである。「鳴く」といったレベルではない。東京では何十年来、こんなに激しく吠え続ける犬を経験したことがないが、この飼い主は黙らせようともしないで、犬が吠えるにまかせて平然としている。関西の犬文化はこんなものなのか、それともこの飼い主の躾けが特別に悪いのか。
 おまけに曇り空からはとうとう雨が落ち始めた。船は商家の土蔵などを眺めながらゆったりと進む。一時は晴れ間も見られたが、再び曇ったり降ったりと変わりやすい天候であった(下の3枚)。
   
   
     

 ※ 昨日夜のテレ東の番組(中川礼二の旅番組「妄想トレイン」)で近江八幡をやっていた。屋形船が浮かぶ八幡堀の桜の季節の風景が写っていた。桜が咲いていたら、こんな光景を眺めることができたのだった。今年の春の桜の開花の大幅な遅れを恨んでおこう(下の写真。2024年5月14日追記)。
    

 約30分ほどで元の船着き場に戻って、下船。
 「八幡堀」バス停前に出て、「白雲館」で作戦会議。今度はバス通りを東に進み、鍛冶屋町バス停をを目印に、ヴォ―リス学園を目ざすことにする。
 歩いているうちに、雨と風が強くなり、傘をさすのも困難になる。ようやく「鍛冶屋町」バス停を見つけて、右折。慈恩寺町通りというらしい。ほどなくして、小さな路地の向うにヴォ―リスが創設した「近江兄弟社学園」の瀟洒な二階建て校舎が見えた。前面はきれいに刈り込まれた黄緑の芝生。東京でいえば成城学園や成蹊学園のような学校なのだろうか(冒頭の写真)。
 元は幼稚園だったという「ハイド記念館」の案内表示があったので構内に入ってみる。この建物もヴォ―リスの建築らしく、白を基調としたニュー・イングランド風(?)の小ざっぱりとした建物である(下の写真1枚目)。いかんせん雨が激しく、早々に退出した。
 慈恩寺町通りを少し行った先に「ヴォ―リス記念館」(「一柳邸」ともいうらしい)がある。この建物は、それまでのヴォ―リス建築から一転して、板張りの和風建築である。ヴォ―リスの晩年の住居で、夫人に配慮して和風にしたというから、奥さんは日本人だったのか(2枚目)。ヴォ―リス記念館の銘板(3枚目)。
   
   
   

 雨の中を八幡堀に戻り、千成亭近江八幡店に入る。ようやく雨から逃れることができ、そして昨日来の念願の(?)近江牛にありつくことができた。
 われわれのテーブルの両隣りは、卒業旅行と思われる大学生たちのグループ。男子ばかりの4人組が2班に分かれて楽しそうに語らっている。ぼくにもあんな時代があったのだろうか。
   

 
 本当はこの後、長浜に行くか、彦根港から竹生島に渡ろうと思っていたのだが(琵琶湖周航の歌!)、あまりに天気が悪いので中止。彦根のホテルは午後3時以降ならチェックインできるので、バスで近江八幡駅に戻って彦根のホテルに向かうことにする。強風のためか、「新町」バス停の看板が横倒しになっていた。
 近江八幡駅に着いてみると、JR湖西線が強風で不通のため、サンダーバード(?)が琵琶湖線廻りになっているとかで、運行が乱れていた(下の写真1枚目は近江八幡駅ホームと列車)。午後4時すぎに彦根駅に到着し、駅前のホテルに投宿(2枚目)。
 昼食を奮発したので、夜は駅前のスーパーで弁当とおつまみとビールを買ってきて、ホテルでメジャー・リーグを見ながら済ませた。これが穏やかにドジャース戦を見ることができる最後の夜になるとは思ってもいなかったが。
  
  

 明日は、いよいよ今回の旅行の目的である祖母と曽祖父の本籍地を訪ねる。見つけ出すことができるだろうか。

 2024年3月24日 記

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滋賀の旅・近江八幡その1(2024年3月20日)

2024年03月24日 | あれこれ
 
 3月20日(水)、朝9時にホテルを出発して、大津駅からJR琵琶湖線で近江八幡駅に向かう。新快速で約25分。今にも雨が降り出しそうな空模様で、しかも寒い(下の写真は大津駅ホーム)。
 近江八幡では、ヴォ―リスの建築物を訪ねるのが主たる目的。ヴォ―リスの事業に協力し、その建築を支援した近江商人の経済力を示す建築物も少なくない。
   

 ここでも、まずは駅前の観光案内所に立ち寄って観光地図をゲットし、おすすめの順路を教えてもらう。
 駅前から路線バスに乗って「八商前」(八幡商業?)で下車し、街を歩きながらヴォ―リスの建築物を眺めてから、八幡堀の屋形船に乗って、その後に「商人(あきんど)通り」を歩くというルートをすすめられたが、気がつかないうちに八商前を通過してしまい(駅前から3つ目のバス停だった)、「八幡堀」(はちまんぼり)というバス停まで来てしまった。観光客らしいグループが下車したので、われわれも下車する。

  

 八幡堀バス停を降りると、バス通りに面して、「白雲館」というレトロな外形の建物があり、1階は観光案内所になっている(上の写真)。
 説明パンフによると、この建物は、もとは明治10年(1877年)に八幡東学校の校舎として近江商人たちの寄付によって建てられたもので、生徒数が増えたために他校に統合された後は町役場や郡役所として使われてきたが、戦後は空き家となって老朽化していたのを、平成6年(1994年)に近江八幡市が開校当初の姿に復元したという。

 どうせ近くまで来てしまったのだから、まず屋形船に乗ろうと船着き場に行ってみると、20人以上の台湾からの観光客と一緒でよいなら間もなく出る船に乗ることができると言われたけれど、騒がしいのは嫌なので、1時間後に出る次の便まで近くを歩いて時間をつぶすことにした(冒頭の写真は堀にかかる橋からの眺めた八幡堀)。

   
   
 近江八幡というくらいだから、まずは「八幡」様に参拝する。「日牟禮(ひむれ)八幡宮」といい、創建は1800年以上前という(上の写真の1枚目)。
 すぐ近くに八幡山ロープウェー乗り場があったが、小雨まじりの曇り空で見晴らしは悪そうだし、頂上付近は風が強いというので、乗るのはやめた(2枚目)。

   
   

 バス通りに戻って、通りを東方向に歩く。
 道端の小さな公園にヴォ―リス像が建っている。ヴォ―リスに向かって少女が花束を捧げている(上の写真)。
 説明板によると、アメリカ生まれのヴォ―リスは1905年(明治38年)にYMCAから派遣されて来日し、ここ近江の地をキリスト教精神に基づいた理想社会とするために、企業家として「メンソレータム」で有名な会社(近江兄弟社)を興したほか(上の写真2枚目。現在は「メンターム」という商品名)、医療や教育事業(近江兄弟社学園)などを展開し、1964年(昭和39年)に83歳でこの地で亡くなったという。この公園はヴォ―リスの最初の住居があったゆかりの場所らしい。 
   
   
      
   

 バス通りを背にして駅側(南方向)に曲がると、近江商人の旧住居が並ぶ通称「商人(あきんど)通り」になる(上の2枚の写真。地図では「新町通り」とある)。一番立派なのは寝具の「西川」の本店(本家)。京都その他の「西川」はここの分家らしい。3枚目の写真は、その西川の旧住居。木造だが暖炉の煙突があり、帚目の通った立派な石庭には松が植えられている。

   
   
   

 町中を歩きまわって見かけた雰囲気のある建物を何軒か。
 一つはかつて尋常小学校として建てられた和風の建築物(1枚目)。先客が結構いたので中には入らず通り過ぎる。
 次は、「るるぶ滋賀びわ湖」にも紹介があった旧郵便局の建物(2、3枚目)。大正10年(1921年)、ヴォ―リス初期の建築だそうだ。

 1時間経過したので、12時近くに船着き場に戻る。予約名簿に「大人2名、子ども1名、犬2匹」という書き込みがあり、近くでわれわれに向かって吠えまくる犬を連れた家族連れがいて不吉な予感がしたが、船の到着を待つ。 (午後の近江八幡は次回に。)

 2024年3月23日 記

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滋賀の旅・大津その2(3月19日)

2024年03月23日 | あれこれ
 
 びわ湖浜大津駅を出発して、京阪電車で石山寺に向かう。
 浜大津駅から先は路面でなく、専用軌道を走る。約20分ほどで終点の石山寺駅に到着(上の写真)。石山寺(いしやまでら)は、琵琶湖に沿って駅から約1キロメートル、10分ほどで山門に至る(下の写真)。
 駅や、道沿いや、土産物店は何処もかしこもNHKテレビ「光る君へ」に便乗したポスターやのぼりばかりで、食傷ぎみ。開祖よりも、一時期寺に滞在しただけの紫式部のほうが目立つくらいである。開祖は誰だか知らないが、「弘法大師」という提灯がかかっているのを見かけたから、弘法大師なのか・・・。

   
   

 このお寺も石段が多くて急なために疲れる。「石山寺」と名のるだけあって、立派な岩がそびえていた。紫式部が滞在したといわれる部屋には紫式部像が鎮座していた。この日から陳列されたとのこと(下の写真)。
      
    
   
 
 石山寺でも桜の開花はまだだったが、琵琶湖の湖畔には桜らしき花が咲いていた(名前を忘れてしまった)。
   

 石山寺駅から再び京阪電車に乗って浜大津駅に戻る。

 「ふれあい街歩き」(BS-NHKテレビ)ふうに、浜大津駅から大津市内をブラブラとJR大津駅を目ざして歩く。
 けっこう長く延びるアーケード商店街は半分以上が閉まっている感じの、典型的なシャッター商店街である。県庁所在地にもかかわらず、寂しいかぎりである。
   

 途中で、明るく輝いているガラス張りの建物があったので覗いてみると、「大津曳山会館」で、二階建ての高さの大津曳山祭りの曳山が飾ってあった。案内の方がいて、からくり人形を動かして見せてくれた。中国説話らしく桃から生まれてくる「桃太郎」(?)や従者がチャイナ服を着ていた(下の写真)。
 駅前の観光案内所で教えてもらった近江牛のステーキ屋も道沿いに見つけたが、残念ながら定休日だった。近江牛は明日に持ち越すことにする。
      
  
 ロシアのロマノフ王朝最後の皇帝ニコライ2世(事件当時は皇太子)が警備の警官に襲われた所謂大津事件の現場は、商店街の一角の本当に目立たない所に、小さな石碑がポツンと建っているだけだった。襲撃事件それ自体よりは、その後の犯人の裁判が重要なのだから仕方ないことか。高知に行った折に中江兆民の生誕の地を訪ねたが、その石碑も街角の民家の軒先にひっそりと建っていた。 
     
 
 JR大津駅前の広場では「平和憲法を守ろう」というビラを配っていて、演説の合い間にオカリナで「アヴェ・マリア」などを演奏していた。なかなか上手だった。

   
 
 大津駅からホテルのシャトル・バスに乗って、今日の宿泊先の大津プリンス・ホテルに到着。
 こうして、彦根への旅、第1日は終了。 

     
 
 2024年3月22日 記 

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滋賀の旅・大津その1(2024年3月19日)

2024年03月22日 | あれこれ
 
 3月19日(火)から21日(木)の2泊3日で滋賀県の彦根、ついでに大津、近江八幡を訪ねて来た。

 昨年の4月には、父方の祖父の旧本籍地である佐賀県の嬉野、ついでに唐津、有田、伊万里、武雄、佐賀市を旅行した。佐賀では、幸いにも、町名変更にもかかわらず、旧町名、旧地番が残っていたので、現地まで到達することがでた。その後、同地に現在も居住しておられる遠縁の方と手紙を交換できるようになり、その方が先祖の菩提寺を訪ねて墓碑銘や過去帳を筆写して下さったので、1750年ころまでの先祖の名前と没年を知ることができた。

 今回は父方の祖母の故郷を訪ねた。祖母の旧本籍は滋賀県の彦根。
 亡父の相続時に取り寄せた除籍簿では、旧本籍地は「滋賀県犬上郡彦根東栄町xx番地」となっていたが、町名の変更だけでなく、行政区画の変更もあったようなので、今回は難航が予想された。とにかく祖母や、(ぼくが生まれる前に亡くなった曽祖父)の育った地域を歩いてその雰囲気を味わい、その場所の空気を吸うことができればよし、くらいの気持ちで出発した。

   

 3月19日(火曜)、午前9時03分、東京駅発のひかり505号で、12時01分に京都駅着、在来線に乗り換えて10分ほどで大津駅に到着。
 大津での予定は、今年はやりの紫式部ゆかりの三井寺と石山寺を訪ねること、大津事件の現場を訪ねること、そして近江牛を食べること。

   

 駅前の観光案内所に立ち寄って情報をもらってから、まず路線バスで三井寺(みいでら)に向かう。
 ぼくはNHKの大河ドラマは一度も見たことがないし、現在放映中の紫式部も見ていない。高校時代の古文・漢文は嫌いではなかったが、「源氏物語」は苦手だった。三井寺は、紫式部の父・為時(苗字は知らない)が出家した寺だという。
 石段が多くて、けっこう急だったのは、右ひざ膝蓋骨骨折や椎間板ヘルニアの既往歴をもつ身にはキツかった。
   

 あいにくの曇り空で、梅も桜もなかりけり、寂しい境内風景である。桜の季節になれば綺麗だろうし賑わうのだろうが、人混みがないのは救いである。桜が満開の時期の千鳥ヶ淵近辺の雑踏を思うと、のんびり歩くことができるのは助かる。

    
   

 三井寺を後にして、琵琶湖疏水沿いの通りを歩く。京都の水源である琵琶湖の水を京都に流す疏水の道沿いも道沿いは桜並木だが、桜の開花はまだ少し先の様子。中学校の地理で「インクライン」という言葉を聞いたが、この疏水のことだったか?
 疏水を背にして、大通りを琵琶湖方面に歩き、京阪電車びわ湖浜大津駅に向かう。
 浜大津駅前の十字路をゆったりと曲がって行く4両編成、緑とクリーム色のツートンカラーの路面電車がきれいだった(冒頭の写真。下の写真は、その線路だけ)。

   

 石山寺は改めて。

 2024年3月22日 記

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NHKラジオ深夜便「風になる」(小手拉大手)

2024年01月19日 | あれこれ
 
 夕べ(1月19日の午前3時すぎ)、NHKラジオ深夜便から、懐かしい曲が流れてきた。
 数年前(といっても調べたら2016年の11月だった)に、台湾に旅行した帰りの台北、松山空港のロビーで、何かのCMの撮影をやっていた。
 空港ビルに入っている土産物売り場のおねえさん、おにいさん、それにおじさん、おばさんたち10数人が一列に並んで、何かを手に持ってフラダンスのような仕草で踊りながら行進するのである。観光客が物珍しげに眺める真ん中を、大して恥じらう風もなく2、3度撮り直しをしていた。

   

 その時に流れていた曲がなぜか強く印象に残っているのである。その曲は息子が台湾で買ってきたCDにも入っていたのだが、名前は知らなかった。今朝早朝に久しぶりにその曲がラジオから流れるのを聞いて、今度こそ名前を知りたくなった。
 曲の途中から聞いたので曲名は分からなかったが、午前4時前にそのコーナーが終わるときに「スタジオ・ジブリの主題歌・挿入歌特集でした」とアナウンサーが言っていたので、起きてから google で「スタジオ・ジブリの主題歌・挿入歌」を検索したが、分からなかった。そこで、「スタジオ・ジブリ 歌 台湾」で検索すると、(スポンサーを除いた)一番最初に、この曲の youtube のページが出てきた!
 梁静茹(しずかにゆでる?)という歌手が歌う「小手拉大手」という曲で、つじあやの「風になる」のカバーらしい。梁静茹というのはシンガポール出身の台湾で活躍する歌手だそうだ。
 「猫の恩返し」という映画の主題歌と紹介があった。何度も書いたけれど、ぼくは「火垂るの墓」以外のアニメにはまったく関心がない。とうぜん「猫の恩返し」という映画も知らない。しかし、この曲はいい。すごくいい。この曲を聞くと、2016年の、たった一度だけの台湾旅行のあれやこれやを思い出す。ただし歌詞の内容はまったく分からない。唯一「加油!」(チャーヨン)と言っているのだけは聞き取れるから、応援歌なのだろう。
 ※「小手拉大手」というのは、直訳すれば小さい手が大きな手を引っぱって(拉致の拉!)という意味で、「子どもに手をひかれて」くらいの意味だという。それで、あの松山空港のCM撮影のニュアンスも分かってきた。老若男女が一列になってそれぞれ手を引かれて台湾(台北)観光に繰り出す、というコンセプトだったのではないだろうか?

   

 台北から基隆(キールン)を経由して、「千と千尋の神隠し」の舞台となった九份(きゅうふん)に行くマイクロバスのツアーに参加した。基隆ちかくの海岸沿いには断崖がせまり、激しい波が打ち寄せていた(冒頭の写真)。
 みやげ物売り場の並ぶ九份の坂道は雨の中、日本人観光客でごった返していた。週末の清水寺に向かう九条坂なみだった。ほとんど屋根がないので傘をさしたまま歩かなければならず、土産物を物色する元気も出なかった(上と下の写真)。
 11月の雨の日だったにもかかわらず生暖かく、亜熱帯であることを実感した。
   
      

 「地球の歩き方」を片手に地下鉄の一日乗車券(suicaのようなカード)を買って歩きまわった台北の街並み、二人乗りのバイクの洪水、意外に小さかった白菜が飾ってあった故宮博物院、忠烈碑の前を通った時のタクシー運転手とのやりとり、中正記念堂(?)の衛兵交代式、101タワー、“ジベタリアン“ が沢山座り込んで本を読んでいた誠品書店、途中の乗り換えが不安だったが無事行き着くことができた新北市の輔仁大学、あまり美味しくなかった寧夏夜市の牡蠣オムレツの匂いまで思い浮かぶ。
 そんな光景を思い出させてくれる「風になる」というか「小手拉大手」なのである。

 2024年1月19日 記

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ぼくの新春歌会始

2024年01月07日 | あれこれ
 
 ぼくだけの新春歌会始(?)。あるいは、ぼくの「一人十首」。

 数日前のNHKテレビ「漫画家イエナガ」の短歌講義を聞いたばかりのところ、今朝の早朝(1月7日午前2時半すぎ)NHKラジオ深夜便の「フォスター特集」を聞いていたら、下の第1首が浮かび、その後相ついで歌(?)が沸々と湧いてきた。
 すべて1963~4年ころの中学校時代の思い出だが、そのまま眠って朝になったら忘れてしまいそうだったので、起き出して午前4時近くまでかけて推敲して書き留めた。意外に寒くはなかった。
 そんな訳で、きょうは睡眠不足。

※音楽室の壁に飾ってあった音楽家たちの肖像画の思い出。
 フォスターの 頬杖ついて 物憂げに
 ぼくを見下ろす 音楽室で

※赤人の長歌を暗誦したぼくを「すごい!」と褒めてくれた明田川先生。
 「天地の 分かれし時ゆ ・・・」 暗誦し
 褒められし日を 今も忘れず

※教科書に牧水、茂吉、晶子らの短歌が2首づつ載っていた。
 街をゆき 子供の傍を 通る時
 思い出すのは 木下利玄

※ぼくの読書開眼は中学2年の教科書で読んだ芥川からだった。
 光村の 教科書で読む 芥川
 「魔術」の魔術か 本の虜に

※英語の先生から「君たちはどんな歌を聴いているの」と聞かれ、ジョーン・バエズを歌った。
 「ドナ・ドナ」を 英語で歌って 拍手浴び
 「悲しい歌ね」と 先生は言い

※「アイドルを探せ」のシルビー・バルタンのファンだった頃に。
 バルタンの ポスターくれた 林さん
 「私の方が 可愛いのに」と

※週番として下校確認の校内巡回をした教室で。
 放課後の 教室に一人 岡☆さん
 白いブラウス 夕日に染まり

※下校時刻が来ると校内にアニー・ローリーが流れた
 本当は 「エデンの東」が 好きだけど
 下校時刻は アニー・ローリー

※生徒会で知った「動議」という議事運営の民主主義。生徒会長は3年生の女子だった。
 言い募る ぼくを制して 委員長
 「動議ですか?」と 議事を進行

※203高地、和服の教師もいた時代だった。
 先生を 「ババア」と呼んだ 悪童の
 わが身に老いの 来るを知らでや

※ユーモアのある祖父との思い出。「夕べに風あり 秋立ちぬ」?
「夕有風 立秋」 読んでご覧と 祖父が言い
“You are foolish” と 孫をからかう

 長期記憶は五・七・五のリズムに合うのだろうか。

 2024年1月7日 記
 
 ※一部は仮名とした。本当は実名にして本人に読んでもらいたいのだが。岡☆さん、元気かな?
 ※冒頭の写真は今日の浅間山(追分)。気象庁観測カメラから。

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A Happy New Year ! 2024

2024年01月01日 | あれこれ
 
 2024年、明けましておめでとうごいざいます。
 今年も、東急シルベスター・コンサート(テレビ東京)とともに明けました。
 「豆豆研究室」を開設してから18年目を迎えます。今年も変わりばえのしないこと “Mixture as Before” を書き綴っていきたいと思います。よろしかったら、眺めてやって下さい。

    

 そして昨年、2023年も例年通り、東急シルベスター・コンサートを見ながら過ぎていきました。

 「今夜は誰も眠らせない」と誰かが歌っていたにもかかわらず、1月1日(日)午前0時半頃に眠り、そして、午前5時20分ころに目が覚めた。
 今朝もNHKラジオから、「放送開始100年記念プロジェクト 100人インタビュー」が聞こえてきた。なんと、毒蝮三太夫だった。2024年は毒蝮の声とともに始まった。
 彼は民放(TBS?)の昼の番組でお馴染みだったが、実は子役出身で4、5歳だったかの頃から内幸町のNHKで、生放送に出演していたという。NHKの街頭録音の元祖、藤倉修一や、向島出身の鈴木健二らとも交流があったと言っていた。
 90歳近いはずだが、聞こえてくる声はとてもそんな年齢には思えない元気な声だった。

 次は高嶋秀武だった。
 彼のオールナイト・ニッポンも聞いた。特徴のある喋り方で、わりと面白かった記憶がある。彼も小さい頃からのラジオ少年で、NHKの公開放送などに通い詰めたという。彼はもともとはスポーツ中継専門で採用されたそうで、志村清順(?)アナの思い出話や、彼も藤倉修一の思い出を語っていた。
 高嶋は一時期テレビに出演していたのを見たことがあったが、すぐにテレビには向いていないことを見極めたのだろう、あっという間に消えてしまった。
 80歳すぎの現在も現役で喋っていると言っていたが、彼の声も80過ぎとは思えない元気な声だった。80を過ぎても「喋り」の仕事がある現役というのは羨ましい。

 今朝はこの2人の前に、笑福亭鶴光と東海林のり子も出ていたらしいが、彼らよりは毒蝮のほうが懐かしい。
 
 2024年1月1日 記

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ラジオ放送開始100周年・その3

2023年12月31日 | あれこれ
 
 12月31日(日)、2023年最後の日。
 今朝も午前5時すぎに、NHKラジオの「放送開始100周年」記念番組で目が覚めた。この時間になると自然に目が覚めるようになった。

 ぞんざいなしゃべり方をする老人だったが、そのうち話の内容から、みのもんただと分かった。
 彼も、文化放送セイ・ヤングの初期の頃に聞いたことがあった。ぼくの記憶にあるのは、彼の番組の内容ではなく、深夜放送ファンの集いか何かで、セイ・ヤングや他局のパーソナリティーが集合する中で笑っている彼の写真である。「深夜放送ファン」か何かに載ったのだろう。当時は御法川(みのりかわ)英文だったか何か、本名を名のっていた。そしてセイ・ヤングの田名網ディレクターというのは、「日本史の傾向と対策」(旺文社)でお馴染みだった田名網宏先生の息子だと落合恵子が言っていた。
 みのは番組の中でいろいろ失敗があって、番組を下ろされ営業に回されたため、文化放送に自分の居場所はないと辞職したと言っていた。名古屋の水道業者の倅だと当時から聞いていたが、そこに戻ったらしい。みのの番組内の発言に抗議する人たちが四谷2丁目の文化放送に押しかけたこともあったと言っていた。あの四谷の文化放送の前で、ぼくはデビュー間もないアグネス・チャンを見かけたことがあった。
 みのは同期(だったか)の久米宏をしゃべりの天才と言っていた。そういえば、久米の「土曜ワイド・ラジオ東京」(TBS)という番組もよく聞いた。土曜の朝8時ころから夕方の4時か5時までの放送だった。「東京の街、ここはどこでしょう?」というコーナーがあって、久米が現地の風景を中継し、視聴者にそれがどこかを当てさせるという趣向だった。
 ある回では、朝の番組開始とともに久米が(おそらく上野駅から)東北線に乗って旅を始め、途中下車しながらその地を紹介するという企画もあった。最後の下車駅が青森の八戸で、海岸が(砂浜でなく)草地になっている海岸からの中継で番組が終わった。草浜の海岸線、一度行ってみたい。
 みのは喋ることが「天職」だったと言っていたが、今朝はどこか寂しそうな喋り方だった。

 2人目は浜村淳だった。彼の番組はまったく聞いたことがないので、興味もないままに聞いていたら、彼の番組に出演した忘れられないゲストとして、ソフィア・ローレン(!)とアラン・ドロンをあげていた。ビックリしたが、2人とも映画の番宣で来日した折に出演したという。
 わが憧れだったソフィア・ローレンに会ったことがあるとは羨ましい限りだが、そのソフィア・ローレンにきつねうどんを食べさせる企画だったという。
 彼女は胸元のVゾーンが深く切れこんだドレスだったので、隣りに座っていた彼の視線は思わずその胸元にいってしまい、しかも「彼女のバストは96センチです」と放送してしまったそうである。そうしたら、彼女が怖い顔になって「立ちなさい!」と言ったので浜村が直立不動になると、彼女は「上から見たほうがよく見えるでしょ!」と笑ったという。
 ソフィア・ローレン関連のグッズはあまり持っていないが、芳賀書店の写真集のほかに、ホンダの原付自転車ロードパルの広告パンフが残っていた(冒頭の写真)。
 表面には、「まず、私が乗ってみました」というソフィア・ローレンのセリフがある(本当だろうか?)。下の白いスペースに「ホンダ専門店 宮原商会 新宿区須賀町14番地」というスタンプが押してある。何と、ぼくが勤めていた出版社と同じ番地ではないか! あの頃は複数の建物に同じ番地がついていたのだ。大日本茶道学会のあたりだろうか、そんな店があったような気もするが・・・(下の写真)。
       

 3人目は中村メイコだった。
 彼女に関するぼくの記憶は、何といってもNHKラジオの夕方の番組「1丁目1番地」である。家族で夕食を食べながら聞いた。
 中村が一人で3役も4役もやっていた。ぼくが子どもだったこともあるけれど、数人でやっていると思い込んでいた。「ペスよ、尾をふれ」という番組も中村メイコだっただろうか(松島トモ子だったかも)。悲しい内容の回に、聞いていた妹が号泣したため、隣りの部屋から母親が飛び出してきて、「何で妹をいじめるの!」と濡れ衣で叱られたことがあった。
 中村は、徳川夢声を師匠のように語っていたが、ぼくは徳川をうまいとは思わなかった。昭和30年代当時、すでに時代遅れの感じがしていた。ぼくが一番うまいと思ったのは森繁久弥である。NHKの朗読番組で、どう聞いても女声が一人はいるだろう、加藤治子(だったか、加藤道子)と2人でやっているのだろうと思って聞いていたら、最後にアナウンサーのナレーションで「出演は森繁久弥でした」というので、一人芝居(?)だったと知ってびっくりしたことがある。
 中村はマイクに向かうと仕事モードになったと言っていた。
 ぼくも授業の始まりにマイクのスイッチを入れると、気持ちにもスイッチが入った。マイクのスイッチが入っていることを確認するため、フッ!とマイクに息を吹きかけていたが、ある時、授業評価の自由記載欄に「授業の最初にマイクに息をかけるな、耳障りだ!」と書き込みがあった。授業評価の意見に対してはリアクションをせよとのお達しだったので、次の授業の初めに、「マイクに息を吹きかけるなと叱られたから、今後は息を吸うことにする」と言ってマイクに向かって深呼吸をしたら、学生たちが笑った。
 中村といえば、旦那の神津善行は神津牧場と関係があったはずである。子どもの頃、叔母のクルマで軽井沢から荒船高原、神津牧場に出かけたことがあった。川端康成の「高原」にも、神津牧場から軽井沢への旅行記が載っていた。神津牧場は明治製菓か明治乳業が所有する牧場だったらしい。

 2023年12月31日 記

 ※2024年1月8日追記
 中村メイコさんは、この録音が放送されたまさに12月31日に亡くなられたそうだ。
なお、「一丁目一番地」が彼女の一人芝居というのは間違いだった。でもあの頃そういう(彼女の一人数役という)ラジオ番組があったことは間違いない。

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ラジオ放送開始100周年・その2

2023年12月30日 | あれこれ
 
 12月30日(土)午前5時15分ころ。
 今朝もNHKラジオの「放送開始100周年記念 100人へのインタビュー」で目が覚めた。
 ラジオから聞こえてきた声は最初は小島一慶かと思ったが、吉田照美だった。吉田照美は深夜放送をやっていただろうか? ぼくには記憶がない。昼間の番組だったように思う。

 2人目は荒川強啓だった。彼はもともと山形放送のアナウンサーだったという。
 彼も午後というか夕方の番組の記憶しかない。山形放送時代に、山形弁で喋ったら、山形弁をバカにするな!と投書されたことがあったとか。その後彼は徹底的に山形弁を勉強してマスターしたと語っていた。山形弁には置賜(おきたま)弁など全部で4種類あるそうだ。
 むかし井上ひさしの「下駄の上の卵」を買ったものの、あの置賜弁で書かれた文章に辟易して十数ページで投げ出したことを思い出した。

 3人目は宇田川清江という、ぼくの知らない人だった。
 NHKの元アナウンサーで、「ラジオ深夜便」の第1期のアナウンサーだったという。
 「深夜便」の番組開始時に指示されたことは3つだけ、1つは、民放のアナウンサーと違ってNHKアナウンサーのゆっくりした喋りをすること、2つは、リクエストは募集しないこと、3つは番組でかける曲は必ず最初から最後まで掛けること、この3つだけだったという。
 リクエストは募集しなかったが、淡屋のり子の「別れのブルース」をかけたところ、視聴者から、このレコードを残して戦地に散った彼の思い出をつづった投書が来たことがあったという。番組で紹介したところ、その彼のイトコだと思うという方から返信があり、何とその彼は戦地から生還したが、結婚することなく独身のまま数年前に亡くなったと聞かされたというエピソードを紹介していた。
 50年前に吉祥寺駅の改札口で出会った武蔵野女子学院の女生徒の思い出話どころの思い出ではない。

          

 ラジオ番組で思い出したことをいくつか。
 1つ、「桂三枝の深夜営業」という深夜放送もよく聞いていた。そのうち何回かはテープに録音してある。桂三枝もラジオに出るようになった最初の頃は面白かった。
 2つ、土井まさるの「真夜中のリクエスト・コーナー」ではなく、夜の8時から10時ころの番組もよく聞いていた。ディレクターの金子さんという人が、ヨーロッパ旅行で見つけてきた当時イタリアで流行していたロス・マルチェロスの「アンジェリータ」という局を番組で紹介して、その放送がきっかけで日本でも流行した。
 ※「アンジェリータ」のレコードはいまだに見つからないのだが、このコラム用の画像ファイルの中にジャケットがあったので冒頭に載せておいた。ついでに同じ頃に人気があったジリオラ・チンクェッティのレコードジャケットもアップしておく(上の写真)。
 3つ、深夜放送がはやる以前の洋楽を紹介するラジオ番組には、「ユア・ヒットパレード」とか「S盤アワー」とか「9500万人のリクエスト」なんていうのがあった。確か「ユア・ヒットパレード」の、「あのシーンをもう一度」というコーナーでは、「鉄道員」や「第三の男」などのクライマックス・シーンの音声が流れて、それに続いてサントラ盤でテーマ音楽がかかった。「東京田辺」(製薬)の提供だった。
 「エデンの東」が1年間1位をつづけ、3年間10位以内にランクインしつづけたという伝説も「ユア・ヒットパレード」だったのではなかったか? 「9500万人の・・・」の当時は、日本の人口が9500万人だったのだろう。「S盤」というのは何の略称だったのだろう?
 4つ、深夜ではないが、「日立ミュージック・イン・ハイフォニック」という夜10時ころから始まる30分番組や、土曜か日曜の午前中に「キューピー・バックグラウンド・ミュージック」なんて番組もあった。今でもやっているのだろうか。パーシー・フェイス、フランク・チャックスフィールド、ビリー・ボーンなどがよくかかった番組である。
 5つ、そういえばFM東京の「ジェット・ストリーム」もよく聞いた。城達也の時代である。エンディングの「ミスター・ロンリー」を聞いてからラジオを消して眠りにつく夜も少なくなかった。大沢たかお、福山雅治になってからは、城達也の頃とDJの喋りも、かかる曲もあまりにもイメージが違ってしまったので、ここ十年はほとんど聞くことがなくなってしまった。

 2023年12月30日 記

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ラジオ放送開始100周年(NHK 第1)

2023年12月29日 | あれこれ
 
 12月29日(金)午前5時、村上里和さんのラジオ深夜便が終わって、ウトウトしていたら、突然ラジオから大沢悠里の声が流れてきた。
 たしかNHKラジオを聴いていたはずなのに、何でTBSが聞こえるのだろうと思って聞いていると、何と、NHKラジオの放送開始100周年記念「ラジオ放送100年 100人へのインタビュー」(題名は不確かだが、2025年が放送開始から100周年らしい)という番組で、その第1回(?)が大沢悠里だったのだ。
 ラジオ放送に興味をもったきっかけは?とか、ラジオ放送で泣いたことはあるか?とか、ラジオ放送の未来は?とか、全員が共通のインタビュー項目に答える形式のようだった。大沢悠里は子どもの頃からアナウンサー志望で、NHKの宮田輝や高橋圭三の物まねをしていたと言っていた。
 大沢は戦前の生まれだったが、昭和25年生まれのぼくにとって、子どもの頃に一番印象に残っているラジオは竹脇昌作の夕方の番組だった。日本信販の提供で “にっぽん しんぱんの クーポン ♪♪” というコマーシャル・ソングととともに、竹脇のあの独特の抑揚のない話し声がスピーカーから流れていた世田谷の玉電山下商店街の光景が浮かんでくる。“君知るや 君知るや~ オリエンタル・カレー ♪♪” というCMソングも懐かしいけど、オリエンタル・カレーは今でもあるのだろうか。

 20分ほどで大沢悠里が終わると、第2回は何とニッポン放送の亀淵昭信だった。
 亀淵はもともとディレクターとして入社したのが、後に深夜放送を担当するようになったという。一度休職してサンフランシスコの大学に留学したそうだ。それまで日本のラジオでは喋るのは「アナウンサー」だったが、彼の地では「パーソナリティー」と呼ばれていて、彼が、日本で「パーソナリティー」という呼び方を定着させたと言う。
 キャリア最大の危機は、社長になってからのライブドアによる買収への対応だったという。ぼくの記憶では、たしかニッポン放送のほうがフジテレビの親会社で、ライブドアはフジテレビの乗っ取りを画策していたと記憶する。

 さらに20分ほどで、今度は3番手で同じニッポン放送の斉藤安弘が登場した。
 彼は記憶に残るリスナーとして「たかぎ・ひとみ」さんという視聴者の名前をあげていた。ぜんそくで若くして亡くなったその子の遺品の中にアンコ―さん宛てのリクエスト葉書が残っていて、お父さんが投函したのを読んで以来、そのお父さんと亡くなるまで交流がつづいたと言っていた。
 アンコーさんは、ラジオの深夜放送の元祖は文化放送の土井まさるの「真夜中のリクエストコーナー」だと言っていた。ぼくもそう思う。ニッポン放送の「オールナイト・ニッポン」は、1972年までは局アナでやっていたが、その後タレントを使うようになったと言っていた。
 ぼくが深夜放送を聞いていたのは、土井まさる(文化放送)、野沢那智・白石冬美(TBS)、カメ&アンコ―(+今仁哲夫)の頃で、歌手・タレントのパーソナリティーでは南こうせつ(&山田パンダ)、谷村新司(あの「天才、秀才、バカ」のころの谷村で、「昴」の谷村とは別人のような時代である)くらいまでである。
 斎藤は、ビアフラで子供たちが飢え死にしているのに、日本ではコメが余っているという新聞記事を見て、自分の番組に投書などしなくていいから、ビアフラに米を送るように外務省に投書してくれと呼びかけたところ、外務省に投書が殺到し、結局5000トンの米が贈られることになったというエピソードを紹介していた。そんなこともあったのだ。
 斎藤は、かつてどこかのラジオ会社の経営者が「ラジオはやがて消滅する媒体である」と言っていたが、決してそんなことはないと否定していた。ぼくも消滅するとしたら、ラジオよりもテレビのほうが先のような気がする。
 年末の録画番組の垂れ流しをみるにつけ、その感を強くする。ただし、ドキュメントだけはテレビがいい。年末のNHK-BSでみた、「映像の世紀 ビートルズとロックンロール」で紹介された東欧(ポーランドだったか)での「ヘイジュード」の話はまったく知らなかった。

 ぼくは大学の教師をしていたが、教師という職業は研究論文の審査によって採用されるが、仕事の主要部分は学生に対する講義である。少なくとも文系科目では、研究者は「物書き」だが、教師は「話し家」(「咄家」ではない!)である。「物書き」としての能力で採用された教師の中には、「話し家」としての才能がゼロに近いのもいる。500頁以上の教科書を一人で書きながら、授業では教壇の椅子に座ったまま90分間その教科書をただ棒読みするだけという教師もいた。
 現役教師時代のぼくは学生による授業評価の点数が髙かったが、「物書き」のほうはともかく「話し家」としては及第点以上だったと自負している。子どもの頃の毎日曜日に見ていたテレビ番組「サンデー志ん朝」という古今亭志ん朝のトーク番組や、ラジオ深夜放送のパーソナリティーたちから「喋り」を学んでいたのだと今にしてと思う。

 早朝からこんな番組を聞いていたので、二度寝して目が覚めたら9時半だった。今朝は今年最後の資源ゴミ出しの日だったので、慌てて起床してゴミを出した。
 写真は現在ぼくが聴いているラジオ。オーム社製、スーパーバリューで1980円で買った。チューニングが難しくて、NHK第1すらなかなか同調しないうえに、FENより上の周波数はほとんど入らない。まさに「壊れかけのラジオ」である。

 2023年12月29日 記

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