豆豆先生の研究室

ぼくの気ままなnostalgic journeyです。

ラジオ放送開始100周年・その4

2025年01月06日 | あれこれ
 
 今年の3月で日本のラジオ放送が開始から100年を迎えるというので、2023年からNHKラジオで、「放送開始100周年記念 100人へのインタビュー」という連続番組をやっている(正式な番組名は少し違うようだ)。
 ラジオ放送に関わった100人に、自身のラジオ放送の思い出やラジオの役割、今後のラジオのあり方などを語ってもらうオムニバス形式の番組である。不定期のようだが、ぼくが不定期で聞いているだけかもしれない。一昨年(2023年)の年末に大沢悠里(TBS)、亀淵昭信(ニッポン放送)、斉藤安弘(同)が喋っているのを偶然聞いた(2023年12月29日)。民放のアナウンサーも起用するとは寛大な人選であると思った。“オールナイト・ニッポン” はよく聞いた深夜放送だったが、どちらかと言えばカメ&アンコーよりは今仁哲夫 のキャラとお喋りが好きだった。
 その後、みのもんた(御法川英文、文化放送)、吉田照美(TBS?)、荒川強啓(文化放送?)なども出ていた。みのもんたの「セイ・ヤング」は聞いていたが、吉田、荒川の思い出はあまりない(荒川は夕方のラジオ番組を覚えているが)。一昨年の年末には中村メイコが出ていたし(その放送当日に亡くなったのではなかったか)、落合恵子や、最近では湯川れい子も出ていた。

 その「100人インタビュー」の昨日1月5日(日曜)朝の放送に吉永小百合が出演して、ラジオの思い出を語っていた。
 4歳の時に親戚が応募してNHKのラジオに初出演し、「からす」(なぜ鳴くの ♫)を合唱したのだが、吉永だけソロを歌ったと言っていた。その後7歳の時に再び応募して、2万人の応募者の中から選ばれたという。選ばれたのは男女各2人で、吉永の他に選ばれたもう一人の女子が藤田弓子だったという! 番組では初見の詩に自分でメロディーをつけて即興で歌うという内容で、吉永は審査員の高木東六に褒められたという。
 その後「赤胴鈴之助」(これは当時の東京放送だったか)に主演したという。吉永が赤胴鈴之助だったことは有名な話だが、ぼくにはまったく記憶がない。子供のころからチャンバラは嫌いだった。今でも池波正太郎、忠臣蔵、大岡越前守、NHK大河ドラマなどの時代劇は一切見ない。
 子役時代の吉永で覚えているのは、テレビの「まぼろし探偵」が最初で最後、その次は「キューポラのある街」だった。昭和時代を回顧する年末のテレビ番組でも吉永の映像が流れていたが、隣りにすわっていた川端康成にはキャプションが入ったのに、共演の浜田光夫の名前はなぜか入らなかった。
 この日は吉永に続いて小林克也も登場したが、ぼくは彼のラジオ番組にはまったく記憶がない。テレビに出るようになってから何度か見ただけである。

 ぼくの思い出に一番強く残っているラジオ番組は(前にも書いたが)昭和30年代の前半ごろ、夕方の民放(東京放送か?)でやっていた竹脇昌作がDJを務める番組である。日本信販の提供で、番組の合間に「ニッポン しんぱんの クーポン ♬」というCMソングがかかった。「クーポン」というものの意味が分からず、謎めいていて美味しそうだった。竹脇の番組の中でかかった曲では美空ひばり「花笠道中」(「鼻が作動中」と出た!)、三橋美智也「夕焼けトンビ」(?)、ベルト・ケンプフェルト「真夜中のブルース」が懐かしい。世田谷の玉電山下商店街のスピーカーから流れていたのを聞いていたので、これらの曲を聴くとぼくは昭和30年頃の世田谷にワープすることができる。広瀬正によると、昭和30年ごろの梅が丘にはタイムマシンがあった!
 NHKの「放送開始100周年」では、ラジオ放送にまつわるエピソードや資料の提供を呼びかけているが、だれか竹脇昌作のあの番組を録音していた人はいないだろうか。音源が残っているなら聞いてみたいものである。
 なお、この「放送開始100年」では、番組開始前と終了後に入る女性アナウンサーの声と語り方の調子がノスタルジックで好い。そのナレーションのバックに流れるスタンダードの曲も好い。何という曲なのか。

 2025年1月6日 記

 追記 
 土井まさる、野沢那智なども懐かしいが、音源だけでも残っていないものか。久米宏(「土曜ワイドラジオ東京」)も懐かしいが、久米は「100人インタビュー」に登場していないのでは。「桂三枝の深夜営業」なんて深夜放送も聞いていたか・・・。「エデンの東」が1年以上ベスト1に君臨したという伝説の「ユア・ヒットパレード」(同種の洋盤紹介番組「9500万人のリクエストコーナー」「S盤アワー」なども)、深夜放送第1部が終わった午前3時から始まる「走れ(走る?)歌謡曲」なども個人的には懐かしいラジオ番組だった。

謹賀新年(2025年 元旦)ver.2

2025年01月04日 | あれこれ
 
 1月4日になって、ようやくこのGoo Blog を開くことができるようになったので、改めて新年のご挨拶を申し上げます。

 冒頭の見出し画像を例年通り「東急ニューイヤー・コンサート」(テレビ東京)の新年の幕開け、2025年1月1日午前0時00分の画像に改めたいというだけの理由で “ver.2” を書き込んでいる。

 もう年なので、新年を起きて迎えなくてもよいだろうと思い、テレ東「ニューイヤー・コンサート」を見るのをやめて、午後11時半すぎに床に就いたのだが、毎日夜12時すぎに寝るのが習慣になっているため体内時計が睡眠モードにならない。結局11時50分すぎに再び起き出して、「ニューイヤー・コンサート」を見ながら新年を迎え、あらためて眠りについた。

   

 2024年最後の写真も上にアップしておく。同番組の一場面である。

 2025年1月4日 記

謹賀新年 2025年元旦

2025年01月03日 | あれこれ
 
 2025年(令和7年) 明けましておめでとうございます。

 本年も宜しくお願い致します。
 今年は新年早々からパソコンでこのブログを開くことができなくなっているので、スマホから書き込んでいます。
 写真をアップすることもできません。適当なものですが、あしからず。散歩の折に近所の公園で見上げた松の緑の葉と青く澄みわたった冬空のコントラストが新年にふさわしいと思ったので。

 2025年1月3日 記


訃報、川田順造さん(2024年12月20日)

2024年12月27日 | あれこれ
 
 東京新聞2024年12月24日朝刊に川田順造氏の訃報が載っていた。文化人類学者で文化勲章受章者の川田氏が20日に誤嚥性肺炎のために90歳で亡くなったとある。
 川田順造編「近親性交とそのタブー 文化人類学と自然人類学のあらたな地平」(藤原書店、2001年。2018年に「新版」が出たが本文は初版と同じ内容)は、ぼくが民法の近親婚禁止規定(734条1項)を検討する際に、インセスト・タブーに関する基礎知識を得るうえできわめて有用な本だった(豆豆先生2022年10月28、29日)。
 まず特筆すべきは、インセスト(近親相姦)は、われわれが思っているよりも多く実際に行なわれていると本書の中で数名の共著者が指摘していることであった。
 この本の編者である川田氏も、「現代日本でも実際に多く行われている母と息子の相姦の多くが」、亡くなった夫の姿を、母が成長した息子に感じ取るところに動機をもっている」のに対して、兄妹、姉弟間の相姦は、孤立ないし雑居的居住環境の中である種の強要によって生じるようだと序文に書き(ⅲ頁)、近親者間の性交は実際には行われているにもかかわらずタブーとされている社会が多いことなどを指摘している(10頁)。わが国には「タブー」といえるほどの強いインセスト禁忌はなかったという指摘もあった。「目から鱗」の指摘にたくさん出会い、学ぶことの多い本だった。

 今年の文化の日を控えた頃の新聞で、詩人の高橋睦郎氏が文化勲章を受章することになったという記事を読んだ。高橋睦郎監修の「禁じられた性ーー近親相姦100人の証言」(潮出版社)も、わが国における近親相姦の実情を窺うことができる数少ない文献の一つとして論文を執筆する際に役立ったのだが、高橋氏の業績は必ずしも近親相姦を中心とするものではなかった。
 川田氏にとって近親相姦(彼は人類学者らしく「近親性交」と没主観的というかザハリッヒな表現をしている)は、まさに中心的なテーマの一つだっただろう。その川田氏も文化勲章受章者だったとは知らなかった。ぼくの論文は期せずして二人の文化勲章受章者の先行文献を参照していたのだ。

 牽強付会の感もあるが、近親相姦に関して文化勲章レベルの業績を持つお二方を今年の新聞紙面で見かけたので、今年の締めくくりとして書き込んでおこう。

 2024年12月27日 記

クリスマスのランチ(12月23日)

2024年12月24日 | あれこれ
 
 12月23日(月)の昼下がり、池袋にクリスマスプレゼントを買いに行き、(旧)西武百貨店池袋店 8階のレストラン街にある銀座アスターでクリスマス・ランチを食べてきた。
 西武百貨店池袋店がヨドバシ・カメラに売却されてから初めて西武池袋店の店内に入った。1階から6階までは改装中でエレベーターも止まらず、降り立った8階もあちこちが改装工事を遮蔽するフェンスで遮られていて異様な雰囲気だったが、アスターも含めてレストラン街の一角は昔のまま店を開いていた。
 銀座アスターは亡母のお気に入りの中華で、吉祥寺の近鉄か東急百貨店に入っていた店に時おり食べに行っていたらしい。ぼくは相伴に預かったことがなかった。ぼくの記憶では、昭和30年代に渋谷の確か東急文化会館に入っていたアスターで炒飯を食べたことがあった。
 池袋の銀座アスターは2年ぶり。
 皿などは中華風ではなく、どちらかといえばフランス料理に近いか。料理はいずれも70歳代の夫婦にはちょうど良い分量で美味しかった。値段も年金生活者にとって程よい(しかも都民割とか何とかで10%還元されるらしい)。

 テーブルに置かれたメニュー表によると、料理内容は以下の通り。料理を運んできたウェイターの口頭の説明では覚えきれない。
 <前菜> 聖夜を彩る盛り合わせ
   

 <お料理>
  ふかひれとポルチーニのスープ、淡雪仕立て  
   

  海老と帆立貝のクリーム煮
   

  北京ダックと牛肉のやわらか煮衣揚げ、黒酢ソース
   

 <お食事>
  特製芽采(ヤーツァイ)炒飯
    

 <デザート>
  やわらか杏仁とライチシャーベットのミニパフェ(冒頭の写真)

 2024年12月24日 記

喪中欠礼の葉書(2024年)

2024年11月20日 | あれこれ
 
 今朝、ショッキングな葉書が届いた。
 大学のゼミで1年下級生だった女性のご主人から、彼女の死を知らせる喪中欠礼の葉書だった。
 卒業後50年間一度も会うことはなかったが、年に一度、正月の年賀状だけは(それこそ双方の親の喪中の年を除いて)欠かすことなく取り交わしてきた。毎年毛筆で一言添えられていた。達筆だった。
 それが今年の7月に彼女は亡くなっていたという。年齢も1歳下の元気で活動的な女性だったから、当然ぼくのほうが先だろうと思っていただけに、ショックだった。

 これまでにも何度か書いたが、学生時代、彼女の国際法のレポートを代筆したり、民事訴訟法の論点ノートを作ってあげたりした。下心ありありだったが、効果はなかった。
 卒業式当夜に開かれたゼミの謝恩会の帰りが遅くなって湘南電車の下り終電で彼女を家まで送っていたら、お父さんが泊っていきなさいと言って下さって、もう1人のゼミ生と一緒に彼女の家に泊めてもらった。
 卒業した年の五月の連休に、彼女から電話があって新宿駅東口のビルの1階か地階にあった「ビストロ アンアン」という店で二人で食事をした。期待して出かけたが、ただのお礼の飲み会だった。その日、彼女は恵比寿の友人の下宿に泊めてもらうというので、恵比寿駅を背にして夜の住宅街の坂道を並んで歩いた。沈丁花が匂っていた。それが彼女と会った最後だった。1974年の卒業だから、今年でちょうど50年になる。 
 その時のボトルキープカードを今でも持っている(写真)。有効期限はとっくに過ぎているし、あの店が今でもあるのかどうかすら分からない。

 卒業から4年後にぼくは結婚し、数年後れて彼女も結婚した。その後は年賀状の近況報告だけがつづいたが、毎年年末が近づくと彼女と年賀状を交換するのが楽しみだった。今年は何を書こうか、彼女の年賀状にはどんなことが書き添えてあるだろうか。
 今年の元旦に届いた彼女からの年賀状は印刷文字だけで、何も添え書きがなかった。そのころすでに体調がすぐれなかったのだろうか。昨年(令和5年)の年賀状も見ると、「元気にしてますか。ずいぶん年が経ちましたね。」とあった。これが彼女との最後の会話になってしまった。彼女こそ元気だったのだろうか。
 そして今朝の葉書である。
 日程メモを見ると、彼女が亡くなった日にぼくは家内と軽井沢に出かけていた。この夏の酷暑のさなか、もう彼女はいなかったのだ。
 一昨年に、高校大学と一緒で学生時代一番親しかった友人を失っている。この年齢になると、喪中欠礼の葉書は見るのが怖い。

 きょう書類の整理をしていたら、E・ルディネスコ「ジークムント・フロイト伝」を読んだときのメモが出てきて、そこにボルヘスの言葉が書き写してあった。
 「人が本当に亡くなるのは、その人を知っている最後のひとりが亡くなったときである。」(7頁)
 彼女との思い出はぼくひとりだけのものになってしまったけれど、ぼくは忘れないでおこう、あの学生時代の日々を。

 2024年11月20日 記

笹沢左保「死と挑戦」(春陽文庫)ほか

2024年11月01日 | あれこれ
 
 今回は「本」というよりは「断捨離」ないし「本の捨て方」がテーマなので、ジャンルはあえて<あれこれ>としておく。

 段ボールに2、3箱分の文庫本が物置にしまったままになっているが、この10年いや20年以上、ほとんど手にすることもないままに放置してある。「コンマリ」?流「断捨離」のルール、その本に「感動があるか?」(だったか・・・)に従って捨てることにした。

       
       
         
     
 断捨離の候補となった本は、いちいち書き写すのも面倒なので写真で済ませる(上の写真)。主なものをあげると、城山三郎の経済小説。城山の経済小説は出版社の社員だった頃にけっこうたくさん読んだ。城山のデビュー作「総会屋錦城」(新潮文庫)から(当時の)最新作まで、他の小説家の経済小説に比べれば「人間」が描けていたような記憶があるが、しかし凡作もあった。
 山口瞳の「サラリーマン諸君!」(角川文庫。ちょうどぼくが大学4年だった1973年の出版だった)は社会人になったばかりの頃のぼくのバイブルだった。家族にいわゆるサラリーマンが全然いなかったので、「サラリーマン」の生き方は山口のこの本から学んだといってもいい。しかし「人殺し(上・下)」(文春文庫)の最終ページには「つまらない」と書いてあった。
 その他の本はあえてコメントをするまでもなく、捨てることにした。
 
       
       
     
 後藤明生「挟み撃ち」(河出文庫)は買った当初は気になる本だったような記憶がある。しかし今回捨てる前にパラパラと最初の数ページを読んでみたが、まったく「感動」はなかった。御茶ノ水駅前(西口)の改札口前の広場に傾斜があって落ち着きが悪い云々とはじまるのだが、まどろっこしい。5、6ページでやめた。
 吉行理恵「記憶のなかに」(講談社文庫)は、母親が美容院を経営していた九段坂が舞台だというので、まず奥野健男の解説を読んでみた。しかし吉行淳之介が麻布中学で奥野の2年先輩の秀才だったというエピソードで始まるが、淳之介、吉行和子のことばかり書いてあって、なかなか理恵のことにならない。本文を読みはじめると、ウンコのついたパンツのことなどが「ですます」調で書いてあって、こっちは2ページでやめた。ただしこの本は家内の買った本だったかも知れないので、断捨離は一応保留する。民法762条2項によれば帰属不明の夫婦財産は夫婦の共有と推定されるので、夫婦の合意がないと処分できない。
 
 捨てようとして思いとどまったのは、沢木耕太郎「テロルの決算」(文春文庫)。今さら沢木耕太郎でもないだろうと思ったが、パラパラめくっているうちに、浅沼稲次郎というか日本社会党のことが気になりだした。ぼくは選挙権を得て以来ほとんどの選挙で神近市子から始まって社会党の候補に投票してきた。再軍備化方向への改憲を阻止できる議席数を確保すればそれでよいというのがほとんど唯一の理由であった。「社会新報」も定期購読していたが、配達していた党員の方が転居することになって、それ以降は配達する人がいなくなってしまった。
 ところが最近の総選挙では、社会党の後継らしい社民党は沖縄地方区の1議席しか獲得できなかった。少数与党に転落した自民党は国民民主党にすり寄ろうとしているが、立憲民主党も秋波を送っているという。野党第一党がなぜこんな体たらくになってしまったのか、浅沼時代にさかのぼって考えることにも意味があるかもしれないと思い、捨てないでおくことにした。
 志賀直哉「暗夜行路」(新潮文庫)も、小津との関係(というより與那覇さんの関係)で残すことにした。この本も父子間の葛藤というテーマにつられて読み始めたが、時代背景がよく理解できないうえに、知らない言葉が頻繁に出てくるし、なかなか本題に入らないので、最初の10ページくらいでやめてしまった。
 笹沢左保「死と挑戦」(春陽文庫)は読んだのかどうかも記憶にないが、あの永井荷風の春陽堂から出ていた文庫本ということで残しておくことにした。春陽文庫は今でもあるのだろうか。「江戸川乱歩名作集(4) D坂の殺人事件」(春陽文庫)も同じ理由で残しておく。ぼくが持っている春陽堂の本はおそらくこの2冊だけである。※気になってネットで調べると、なんと2022年に春陽文庫が復刊したという。坂口安吾「明治開化 安吾捕物帳」など、ちょっと読んでみたい。
 以前「新青年傑作選」全4巻(立風書房)や「夢野久作全集」(だったか)などを断捨離してしまったが、今になってちょっと惜しい気持になっている。

 残しておくのは簡単だが、残したまま死んだのでは息子たちが迷惑だろう。捨ててしまったとしても、読みたくなれば図書館に行く手間ひまさえかければ読むことはできる。捨てるのに躊躇、葛藤があるのは捨てた結果ではなく、本をゴミに出すというその行為のハードルが高いのである。かといって、「鶴見俊輔著作集全5巻」(函、帯つき、美本)を査定額ゼロ円などといういかがわしい「宅配買取サービス」詐欺まがいの古本屋にはもう引っかかりたくない。
 資源ゴミに出すのではなく、悪徳古本買取業者に買い取らせるのでもない、古本の正しくて心穏やかな「捨て方」は何かないものだろうか。

 2024年11月1日 記

ユージン・コスマン楽団「アニー・ローリー」

2024年06月12日 | あれこれ
 
 ユージン・コスマン楽団「別れの曲/アニー・ローリー」(コロンビア・レコード、1956年10月)を買った。
 断捨離のなか、これ以上本やレコードは買わないと決めたものの、Yahoo オークションに300円(+送料140円)で出ているのを見て、どうしても欲しくなり、クリックしてしまった。

 実は、つい最近になって、ネット情報で「ユージン・コスマン」というのは古関裕而の別名であることを知ったのである。
 古関裕而は、ぼくの人生とともにある作曲家である。
 ぼくの人生の最初の絶頂期が訪れた1964年、その10月10日(土)午後1時。前日まで降り続いた雨はその日の朝には奇跡のように上がって、晴れわたった青空のもとで、東京オリンピックの開会式が始まった。その入場行進曲が古関の「オリンピック行進曲」だった。
 あの青空、国立競技場の周囲にはためく万国旗、その旗がポールに当たる音、マラソンゲートから入場してくる選手団の色鮮やかなユニフォーム、そして古関裕而作曲(指揮も彼だったのでは?)のオリンピック行進曲。

 10月10日は土曜日だったが、当時は公立中学校では土曜日は登校日だった。ぼくたちの4時間目は体育の授業で、校庭の砂場で走り高跳びの測定をやっていた。4時間目が終わると、みんなすっ飛んで家に帰った。
 その頃、ぼくの中学校では、下校時刻になると校内各所のスピーカーから「アニ・ーローリー」が流れてきた。土曜日の下校時刻にも流れたと思うが、あの日はそんな時間まで学校に残っているものは1人もいなかっただろう。
 「アニー・ローリー」はYouTube で聴くことができるが、最初に出てくるNHK交響楽団による演奏は優雅すぎて、ぼくの思い出とは違っている。夕暮れ時の下高井戸商店街に流れる「アニー・ローリー」のほうがぼくの思い出に近いのだが、「ユージン・コスマン楽団」の「アニー・ローリー」が一番ぼくの記憶の中の「下校時刻のアニー・ローリー」に近いと感じていた。

 それが実は古関裕而の編曲、演奏だと知って合点がいった。ぼくが1964年前後の月曜から金曜の午後3時半か4時だったかに聞いていたのは、まさにこの古関の「アニー・ローリー」に違いない!
 ということで、「アニー・ローリー」を検索したところ、Yahoo オークションで何種類かのレコードが出ていた。一番安かったのは250円+送料180円のだったが、いかんせんジャケットが汚れていた。しかも1964年10月プレス(発売?)だったので、ぼくが1962年から1964年10月頃に学校で聴いた版(盤)ではない。
 そこで、2番目に安くて、1956年10月発売と書いてあったこのレコードを買ったのである。ジャケットは映画「哀愁」の一シーンで、左がヴィヴィアン・リー、右がロバート・テイラーという。A 面の「別れのワルツ」(蛍の光)はこの映画の挿入曲だったらしい。。

 ぼくは東京オリンピックの1964年(昭和39年)の夏に、リバイバル上映された「エデンの東」を見て以来、ヴィクター・ヤング楽団の「エデンの東」が気に入ってしまい、生徒会で下校時刻に流す音楽を「エデンの東」に代えることを提案したほどだった(圧倒的少数で否決されてしまったが、数票の賛同者がいた)。
 しかし中学を卒業した後になってからは、「アニー・ローリー」を聞くとぼくは必ず1964年頃の西荻窪の中学校の欅林の夕暮れ時を思い起こすようになった。やっぱり下校時刻には古関裕而の「アニー・ローリー」がよく似合う。
 週番で、下校時刻に教室内に残っている生徒に下校を促すために各教室を巡回していると、1年下のクラスで何度か一人だけで教室に残っている女の子がいた。今にして思うと、ぼくが回ってくるのを待っていたのではないかとも思うけれど(自惚れ?)、当時は恥ずかしさで声をかける勇気もなく、事務的に「下校時刻を過ぎたので、下校して下さい」としか言えなかった。

 これが、ぼくの「アニー・ローリー」にまつわる悲恋(!)である。彼女も73歳になっているはずだが、どこでどうしているのだろうか。実名を書きたい衝動に駆られるが、彼女に迷惑だろう。ユージン・コスマン楽団の「アニー・ローリー」を聞きながら思い出にとどめておこう。

 2024年6月12日 記

クラウン・コーラとミッション・コーラ

2024年06月01日 | あれこれ
 
 「豆豆先生の研究室」2007年2月27日の投稿で、「不二家 “トプシー”」という題名で、ボブ・マグラスが歌った「不二家トプシー」のCMソングと、ヴィレッジ・シンガーズが歌ったコカ・コーラのCMソングの思い出を書いた。
 1週間ほど前、この「不二家 “トプシー”」の項の閲覧数がなぜか急に増えた日があった。誰がどんな理由(経緯)で見てくれたのか分からないが、「トプシー」の書込みには気になっていることがあったので、この際補遺を書いておくことにした。
 ちなみに、不二家トプシーのCMソングは、ソノシートが出ていたらしく、Google で検索すると、ボブ・マグラスの甘い歌声を Youtube で聴くことができる。ぼくが書き込んだ歌詞は記憶で書いたものだったが、ほぼ正確だった。ヴィレッジ・シンガースのコカ・コーラのCMソングに関する情報は、今のところ発見できていない。

 補遺(というか訂正)は、不二家「トプシー」ではなく、森永の「クラウン・コーラ」に関するものである。
 ぼくは昭和30年代から40年代にかけて、「森永からクラウン・コーラというのが出ていた」と書いた。しかしこれは誤りで、「クラウン・コーラ」は寿屋(今のサントリー)から出たものだった。
 「クラウン・コーラ」は、正式には「ロイヤル・クラウン・コーラ」といい、1905年創業のアメリカ・ジョージア州の会社が出したコーラで、コカコーラ、ペプシコーラに次いで、第3位の売上げを誇る商品だった。英語では “Royal Crown Cola” と書き、“RC” と略称されたそうだが、ぼくの記憶では、わが国では「クラウン・コーラ」と呼ばれていた。
 クラウン・コーラは、日本では1962年に寿屋から発売されたが(1960年という記述も見られる)、業界1、2位のコカコーラ、ペプシコーラに大きく水をあけられたため、1974年に撤退したという。
 ということで、「クラウン・コーラが森永の発売」というのは誤りだった。トレードマークが森永とよく似た王冠(クラウン)形だったうえに、森永のチョコレートに「ハイクラウン」なんていうのがあったので、初めから誤解していたか、誤って記憶したらしい(負け惜しみ)。

 ネット情報によると、日本のコーラには苦難の歴史があったようだ。
 日本の文献における「コーラ」に関する記述は、大正3年(1914年)の高村光太郎「道程」のなかに「コカコオラ」が登場したのが初めてらしい。当時は庶民には縁のないハイカラな飲み物だった。大正8年には、あの明治屋 “MEIDI-YA” がコカコーラを輸入したそうだ。
 しかしアメリカとの戦争中は「敵性物資」として当然輸入などできなかっただろう。敗戦後の昭和20年になっても輸入申請が却下されている。外貨流出防止と国産飲み物(温州みかんジュースなど)保護のためだったという。
 昭和31年(1956年)に、在留外国人(ほとんどは米国人だろう)および外国人向けホテルやゴルフ場などでのみ販売が許されるようになり、昭和36年(1961年)にはコーラの輸入が完全に自由化され、コカコーラとペプシコーラの2社のコーラが輸入されるようになったという。昭和37年に中学生になったぼくが記憶しているのだから、クラウン・コーラもこの頃から輸入されるようになったのだろう。 

 「ミッション・コーラ」のほうは、驚くなかれ、国産のコーラだった! コカコーラなどの輸入に先駆けて昭和28年(1953年)に販売が開始されたという。
 わが国でコーラ飲料の生産が始まったのは、戦後の昭和27年(1952年)のウイン・コーラからで、ついで1953年にミッション・コーラが販売されはじめたという。
 ぼくはウィン・コーラというのはまったく記憶にないが、ミッション・コーラはなぜか記憶に残っている。ぼくが中学生だった1962~65年頃にはまだ販売されていたのだろうか。ひょっとしたら、いま現在でも、沖縄では販売されているのかもしれない。というのも、沖縄の洋品店で「ミッション・コーラ」(“Mission Cola”)というロゴとコーラ瓶のイラストの入ったTシャツを販売している店があるのをweb上で発見した。沖縄を旅行することがあったら訪ねてみたい。

 ぼくは、昭和30年代前半に軽井沢スケートセンターで開催された渡辺プロ主催の「真夏の夜の夢」というショーの第1回目で、来場者に無料で配布されたコーラを飲んだ(実は飲めなくて吐き出した)のが、コーラにまつわる最初の思い出なのだが、あの時飲んだのはコカコーラだったのかペプシコーラだったのか、ひょっとしてクラウンコーラかミッションコーラだったのか、分からない。
 もしあの「真夏の夜の夢」が始まったのが、コーラ輸入が自由化される1961年より以前だったとしても、渡辺プロは進駐軍に深く食い込んでいたから、コーラの入手は可能だったかもしれない。ぼくの記憶では、とても日本人好みの味つけにはなっていなかったから、アメリカ産のコカコーラかペプシコーラだったのではないかと思う(クラウンコーラだった可能性も?)。それくらいに、当時の日本の子どもにとっては苦くて不味い飲み物だった。
 
 2024年6月1日 記

 ※ 以上の記述は「日本清涼飲料検査協会」のHPその他によったところが多い。本文にふさわしいコーラ関連の写真を探したが、なかなか適当なものが見当たらなかった。ようやく10年前にイギリスを旅行した際に、オックスフォードのパブ “QUOD” で飲んだコーラの瓶が写っている写真を1枚見つけた。ブランド名ははっきりと読み取ることができないが、コカコーラやペプシコーラではなさそうである。イギリスにも地元産のコーラがあったのだろう。

滋賀の旅・彦根その2(3月21日)

2024年03月28日 | あれこれ
 
 3月21日(木)正午ころ、彦根城を後にして「栄町1丁目」を目ざす。
 滋賀大学経済学部を通り過ぎ、外堀も渡って、琵琶湖岸から彦根市内、京都方面に向かう大通りに出る。交差点の手前に、近辺の町内案内図が立っているのを見つけた。
 これを見ると、道を渡った左側が「栄町1丁目」となっていて、しかも道を渡って左折して2、3軒行ったところに、なんと「xx組」と表示されているではないか! これこそ祖母の本籍地である「xx町」の幕藩時代の地名である。町内案内図に幕藩時代の旧地名まで表示してあったことに感謝。
   

 交差点を渡って、「xx組」と表示されていた辺りを2ブロックほどくまなく歩き回って、わが祖母の旧姓の表札がかかった家がないかを探したが、残念ながら見当たらなかった。佐賀で祖父の旧本籍地を訪ねた時と同じように、ひょっとして子孫の誰かが今でも住んでいるのではないかと期待したのだったが・・・。
 祖母がこの辺りで生まれたのかどうかは分からないが、幕藩時代から明治の初期に曽祖父かそのまた祖先がこの辺りで生活していたことは間違いないだろう。この地の雰囲気を味わうことができたので良しとしよう(下の写真)。
   
   

 「栄町1丁目」を後にして、昼食をとるために、「夢京橋キャッスルロード」という観光街に向かう。
 江戸時代の街道沿いを模した建物と通りになっている。ひとまず端から端まで往復する。道幅も広く街路樹が植えられていて、風情があるのだが、いかんせん車の通行量が少し多すぎる(下の写真1枚目は夢京橋通りに面した近江牛の「千成亭」。昨日近江八幡の「千成亭」で食べたが、彦根のほうが本店らしい)。
 ガイドブックに、琵琶湖周辺は近江牛だけでなく、うなぎも名物と書いてあった。案内書でおすすめの「源内」という鰻屋に入る(冒頭の写真は「源内」の外観)。通されたカウンター席は日本風の内庭に面している。
 東京と違って「うな重」というのはなく、「うな丼」だけである。※というのは間違いで、ちゃんと「うな重」もあったと同行者に指摘された。ぼくがメニューを見落としていたらしい。
 彦根のうなぎの蒲焼きは、外はカリッとしていて、中は柔らかく仕上がっていた。蒸してから焼くので皮までふっくらと柔らかい東京の蒲焼きとは違う食感であった。関西のうなぎは初体験だったが、これも美味しかった。うなぎ自体は三河産とのこと(下の写真2枚目)。
   
   

 ついでに夢京橋の通り沿いで見かけた飛び出し注意の看板「とび太くん」。
 「翔んで埼玉」という映画で有名になったらしいが、滋賀県が発祥だという。大津、近江八幡でもそこかしこで見かけた。東京で見る定番の赤シャツに黄色ズボン姿ではなく、着物姿や学生服姿などの変形バージョンも多かった。
   

 夢京橋から外堀沿いを歩き、「たねや」(この店は近江八幡のほうが本店らしい)を眺め、これもガイドブックで美味しいと褒めていた「どら焼き 虎てつ」で孫たちに「ひこドラ」(ひこにゃんが刻印されたどら焼き)を買って、彦根駅に向かう。
   
 
 彦根駅から琵琶湖線で米原駅に出て、15時56分米原発のひかり号で帰京。
   

 こうしてわれわれの大津、近江八幡、彦根をめぐる旅は終わった。

 桜を見ることができなかったのは残念だったが、なぜか旅行の間は花粉症の症状が治まっていた。琵琶湖周辺にはぼくを悩ます物質が漂っていなかったようだ。
 
 2024年3月27日 記

滋賀の旅・彦根その1(2024年3月21日)

2024年03月26日 | あれこれ
 
 3月21日(木)、滋賀県の旅も最終日。
 夕べの天気予報では、今日の彦根地方は朝から何と雪! 
 朝5時すぎに目が覚めたので、恐るおそるカーテンを開けてみると、予報は見事に的中して、窓から見える彦根駅(東口)駅前のバスターミナルは雪化粧。ふたたび布団にもぐりこみ、6時にまた窓の外を見ると、今度は駅前の広場が朝日に輝いているではないか。安心して7時に今度こそ起き出して窓を見ると、何と再びの雪景色ではないか(下の写真が1時間ごとの窓の外の景色の変化)。
 激しく天候が変わる一日になりそうな気配だが、天気予報では昼ごろから曇りになるらしい。
   
   
   

 朝食を済ませて、駅前の観光案内所へ(下の写真1枚目)。
 きょうの行き先は決まっているので、祖母の本籍地の旧町名、旧番地を告げて、これが現在ではどのあたりかを聞いてみる。親切な係の女性が、旧町名と現在の町名の対照表をもってきて調べてくれる。
 「滋賀県犬上郡彦根xx町xx番地」は、幕藩時代には「xx組町」といい、現在は「栄町1丁目」の一部になっているとのこと。彦根城の南側、やや琵琶湖に近い地域である。ピンポイントではないが、曽祖父らの先祖が暮らしただいたいの位置が分かった。
 駅前から歩いて、彦根市役所に向かう(下の写真2枚目)。
 昨年の佐賀県嬉野市役所と同様に、マイナカードを提示して亡父の除籍簿以前の戸籍を申請する。しばらく待たされたが、右下に兜をかぶった「ひこにゃん」のイラストが入った薄いさくら色の除籍簿謄本を受領する。
 曽祖父が戸主で、曽曽祖父を前戸主とする除籍簿で、当然ながら(曽祖父の娘である)祖母についても、出生から婚姻までの身分事項が記載されている。まったく聞いたこともなかったが、祖母は17歳で祖父と結婚していた。そんな時代だったのだ。
   
   

 現地へ向かう前に、市役所のすぐ近くにある彦根城を見物する。
 井伊直弼の歌碑を眺め、開国記念館を見物する。幕藩時代の彦根城下のジオラマが展示されている。お城の周囲には家臣たちの住居が100軒ほど並んでいて、それぞれ家臣の氏名が書いてあるが、わが祖先の名はなかった。祖母から先祖は彦根藩士だと聞いていたが、それほどの重臣ではなかったのだろう。
 ここでも彦根城お堀めぐりの屋形船に乗った。この頃には空も晴れて暖かくなっていた。白鳥や鴨(に似た水鳥)が泳ぐ脇をゆったりと進む。途中、彦根城の天守閣が一番良く見えるあたりで、船はエンジンを止め撮影タイムとなる(下の写真)。
   
   
   

 お堀(内堀)の周囲には玄宮園という庭園があるが、復元整備中というので中には入らず。同園近くの広場には二度咲桜という種類の桜が咲いていた(下の写真)。「ひこにゃん、ひこにゃん、ひこにゃん、にゃん、にゃん ♪」という曲がスピーカーから繰り返し流れていた。
 今回の旅行は、桜の開花を期待して日程を設定したのだったが、あいにく今年の桜は開花が遅れていて、どこでも桜には出会うことができなかった。
 

 せっかくなので、彦根城の表門から入って、天守閣まで登ることにする。途中から天気が急変して、雪まで降り出したが、歩きにくい石段を何とか登って天守閣に到達した(下の写真1枚目)。天守閣の中も工事中で、相当急な階段(というより梯子)を何段も登らなければならないのだが、杖をもった老人もいたので、われわれも頑張る。天辺まで登ったが、窓(?)から粉雪が舞い込み、彦根城下の街並みも灰色に煙っていた。
 下りは大手門側に下る。そのほうが次の目的地の「栄町1丁目」に近いので。この頃には雪はやんでいたが、相変わらずの曇り空。大手門を出て内堀を渡って(写真2枚目は大手門跡)、旧武家屋敷沿いを北上する。
 後で地図を確認すると、この辺りの武家屋敷跡には旧大津地方裁判所があったらしい。あの大津事件を裁いた大津地方裁判所が大津ではなく、彦根にあったとは!
 屋形船からヴォ―リスが建てたという洋館を見たが、内堀沿いを徒歩で歩いても見つからなかった。その代わり、内堀をそれて外堀に向かって左折すると(「舟町口」とあった)、白いきれいな二階建ての建物が見えてきた。滋賀大学経済学部の校舎だった(3枚目)。ヴォ―リス風だが、観光パンフに書いてない所を見ると違うのだろう。最近の大学の校舎に比べて、落ち着いた雰囲気がある。
   
   
   

 100メートルほど歩くと広くて交通量の多い通りに出る。この通りを渡ると、いよいよわれらの目ざす「栄町1丁目」である。(彦根その2につづく)

 2024年3月25日 記

滋賀の旅・近江八幡その2(3月20日)

2024年03月25日 | あれこれ
 
 滋賀の旅、近江八幡の続き。3月20日の午後から。

 午後12時15分に出発する八幡堀めぐりの屋形船に乗る。
 恐れていた通り、犬2匹を連れた家族と同船。この犬2匹が激しく他の乗船客に向かって吠え続けるのである。「鳴く」といったレベルではない。東京では何十年来、こんなに激しく吠え続ける犬を経験したことがないが、この飼い主は黙らせようともしないで、犬が吠えるにまかせて平然としている。関西の犬文化はこんなものなのか、それともこの飼い主の躾けが特別に悪いのか。
 おまけに曇り空からはとうとう雨が落ち始めた。船は商家の土蔵などを眺めながらゆったりと進む。一時は晴れ間も見られたが、再び曇ったり降ったりと変わりやすい天候であった(下の3枚)。
   
   
     

 ※ 昨日夜のテレ東の番組(中川礼二の旅番組「妄想トレイン」)で近江八幡をやっていた。屋形船が浮かぶ八幡堀の桜の季節の風景が写っていた。桜が咲いていたら、こんな光景を眺めることができたのだった。今年の春の桜の開花の大幅な遅れを恨んでおこう(下の写真。2024年5月14日追記)。
    

 約30分ほどで元の船着き場に戻って、下船。
 「八幡堀」バス停前に出て、「白雲館」で作戦会議。今度はバス通りを東に進み、鍛冶屋町バス停をを目印に、ヴォ―リス学園を目ざすことにする。
 歩いているうちに、雨と風が強くなり、傘をさすのも困難になる。ようやく「鍛冶屋町」バス停を見つけて、右折。慈恩寺町通りというらしい。ほどなくして、小さな路地の向うにヴォ―リスが創設した「近江兄弟社学園」の瀟洒な二階建て校舎が見えた。前面はきれいに刈り込まれた黄緑の芝生。東京でいえば成城学園や成蹊学園のような学校なのだろうか(冒頭の写真)。
 元は幼稚園だったという「ハイド記念館」の案内表示があったので構内に入ってみる。この建物もヴォ―リスの建築らしく、白を基調としたニュー・イングランド風(?)の小ざっぱりとした建物である(下の写真1枚目)。いかんせん雨が激しく、早々に退出した。
 慈恩寺町通りを少し行った先に「ヴォ―リス記念館」(「一柳邸」ともいうらしい)がある。この建物は、それまでのヴォ―リス建築から一転して、板張りの和風建築である。ヴォ―リスの晩年の住居で、夫人に配慮して和風にしたというから、奥さんは日本人だったのか(2枚目)。ヴォ―リス記念館の銘板(3枚目)。
   
   
   

 雨の中を八幡堀に戻り、千成亭近江八幡店に入る。ようやく雨から逃れることができ、そして昨日来の念願の(?)近江牛にありつくことができた。
 われわれのテーブルの両隣りは、卒業旅行と思われる大学生たちのグループ。男子ばかりの4人組が2班に分かれて楽しそうに語らっている。ぼくにもあんな時代があったのだろうか。
   

 
 本当はこの後、長浜に行くか、彦根港から竹生島に渡ろうと思っていたのだが(琵琶湖周航の歌!)、あまりに天気が悪いので中止。彦根のホテルは午後3時以降ならチェックインできるので、バスで近江八幡駅に戻って彦根のホテルに向かうことにする。強風のためか、「新町」バス停の看板が横倒しになっていた。
 近江八幡駅に着いてみると、JR湖西線が強風で不通のため、サンダーバード(?)が琵琶湖線廻りになっているとかで、運行が乱れていた(下の写真1枚目は近江八幡駅ホームと列車)。午後4時すぎに彦根駅に到着し、駅前のホテルに投宿(2枚目)。
 昼食を奮発したので、夜は駅前のスーパーで弁当とおつまみとビールを買ってきて、ホテルでメジャー・リーグを見ながら済ませた。これが穏やかにドジャース戦を見ることができる最後の夜になるとは思ってもいなかったが。
  
  

 明日は、いよいよ今回の旅行の目的である祖母と曽祖父の本籍地を訪ねる。見つけ出すことができるだろうか。

 2024年3月24日 記

滋賀の旅・近江八幡その1(2024年3月20日)

2024年03月24日 | あれこれ
 
 3月20日(水)、朝9時にホテルを出発して、大津駅からJR琵琶湖線で近江八幡駅に向かう。新快速で約25分。今にも雨が降り出しそうな空模様で、しかも寒い(下の写真は大津駅ホーム)。
 近江八幡では、ヴォ―リスの建築物を訪ねるのが主たる目的。ヴォ―リスの事業に協力し、その建築を支援した近江商人の経済力を示す建築物も少なくない。
   

 ここでも、まずは駅前の観光案内所に立ち寄って観光地図をゲットし、おすすめの順路を教えてもらう。
 駅前から路線バスに乗って「八商前」(八幡商業?)で下車し、街を歩きながらヴォ―リスの建築物を眺めてから、八幡堀の屋形船に乗って、その後に「商人(あきんど)通り」を歩くというルートをすすめられたが、気がつかないうちに八商前を通過してしまい(駅前から3つ目のバス停だった)、「八幡堀」(はちまんぼり)というバス停まで来てしまった。観光客らしいグループが下車したので、われわれも下車する。

  

 八幡堀バス停を降りると、バス通りに面して、「白雲館」というレトロな外形の建物があり、1階は観光案内所になっている(上の写真)。
 説明パンフによると、この建物は、もとは明治10年(1877年)に八幡東学校の校舎として近江商人たちの寄付によって建てられたもので、生徒数が増えたために他校に統合された後は町役場や郡役所として使われてきたが、戦後は空き家となって老朽化していたのを、平成6年(1994年)に近江八幡市が開校当初の姿に復元したという。

 どうせ近くまで来てしまったのだから、まず屋形船に乗ろうと船着き場に行ってみると、20人以上の台湾からの観光客と一緒でよいなら間もなく出る船に乗ることができると言われたけれど、騒がしいのは嫌なので、1時間後に出る次の便まで近くを歩いて時間をつぶすことにした(冒頭の写真は堀にかかる橋からの眺めた八幡堀)。

   
   
 近江八幡というくらいだから、まずは「八幡」様に参拝する。「日牟禮(ひむれ)八幡宮」といい、創建は1800年以上前という(上の写真の1枚目)。
 すぐ近くに八幡山ロープウェー乗り場があったが、小雨まじりの曇り空で見晴らしは悪そうだし、頂上付近は風が強いというので、乗るのはやめた(2枚目)。

   
   

 バス通りに戻って、通りを東方向に歩く。
 道端の小さな公園にヴォ―リス像が建っている。ヴォ―リスに向かって少女が花束を捧げている(上の写真)。
 説明板によると、アメリカ生まれのヴォ―リスは1905年(明治38年)にYMCAから派遣されて来日し、ここ近江の地をキリスト教精神に基づいた理想社会とするために、企業家として「メンソレータム」で有名な会社(近江兄弟社)を興したほか(上の写真2枚目。現在は「メンターム」という商品名)、医療や教育事業(近江兄弟社学園)などを展開し、1964年(昭和39年)に83歳でこの地で亡くなったという。この公園はヴォ―リスの最初の住居があったゆかりの場所らしい。 
   
   
      
   

 バス通りを背にして駅側(南方向)に曲がると、近江商人の旧住居が並ぶ通称「商人(あきんど)通り」になる(上の2枚の写真。地図では「新町通り」とある)。一番立派なのは寝具の「西川」の本店(本家)。京都その他の「西川」はここの分家らしい。3枚目の写真は、その西川の旧住居。木造だが暖炉の煙突があり、帚目の通った立派な石庭には松が植えられている。

   
   
   

 町中を歩きまわって見かけた雰囲気のある建物を何軒か。
 一つはかつて尋常小学校として建てられた和風の建築物(1枚目)。先客が結構いたので中には入らず通り過ぎる。
 次は、「るるぶ滋賀びわ湖」にも紹介があった旧郵便局の建物(2、3枚目)。大正10年(1921年)、ヴォ―リス初期の建築だそうだ。

 1時間経過したので、12時近くに船着き場に戻る。予約名簿に「大人2名、子ども1名、犬2匹」という書き込みがあり、近くでわれわれに向かって吠えまくる犬を連れた家族連れがいて不吉な予感がしたが、船の到着を待つ。 (午後の近江八幡は次回に。)

 2024年3月23日 記

滋賀の旅・大津その2(3月19日)

2024年03月23日 | あれこれ
 
 びわ湖浜大津駅を出発して、京阪電車で石山寺に向かう。
 浜大津駅から先は路面でなく、専用軌道を走る。約20分ほどで終点の石山寺駅に到着(上の写真)。石山寺(いしやまでら)は、琵琶湖に沿って駅から約1キロメートル、10分ほどで山門に至る(下の写真)。
 駅や、道沿いや、土産物店は何処もかしこもNHKテレビ「光る君へ」に便乗したポスターやのぼりばかりで、食傷ぎみ。開祖よりも、一時期寺に滞在しただけの紫式部のほうが目立つくらいである。開祖は誰だか知らないが、「弘法大師」という提灯がかかっているのを見かけたから、弘法大師なのか・・・。

   
   

 このお寺も石段が多くて急なために疲れる。「石山寺」と名のるだけあって、立派な岩がそびえていた。紫式部が滞在したといわれる部屋には紫式部像が鎮座していた。この日から陳列されたとのこと(下の写真)。
      
    
   
 
 石山寺でも桜の開花はまだだったが、琵琶湖の湖畔には桜らしき花が咲いていた(名前を忘れてしまった)。
   

 石山寺駅から再び京阪電車に乗って浜大津駅に戻る。

 「ふれあい街歩き」(BS-NHKテレビ)ふうに、浜大津駅から大津市内をブラブラとJR大津駅を目ざして歩く。
 けっこう長く延びるアーケード商店街は半分以上が閉まっている感じの、典型的なシャッター商店街である。県庁所在地にもかかわらず、寂しいかぎりである。
   

 途中で、明るく輝いているガラス張りの建物があったので覗いてみると、「大津曳山会館」で、二階建ての高さの大津曳山祭りの曳山が飾ってあった。案内の方がいて、からくり人形を動かして見せてくれた。中国説話らしく桃から生まれてくる「桃太郎」(?)や従者がチャイナ服を着ていた(下の写真)。
 駅前の観光案内所で教えてもらった近江牛のステーキ屋も道沿いに見つけたが、残念ながら定休日だった。近江牛は明日に持ち越すことにする。
      
  
 ロシアのロマノフ王朝最後の皇帝ニコライ2世(事件当時は皇太子)が警備の警官に襲われた所謂大津事件の現場は、商店街の一角の本当に目立たない所に、小さな石碑がポツンと建っているだけだった。襲撃事件それ自体よりは、その後の犯人の裁判が重要なのだから仕方ないことか。高知に行った折に中江兆民の生誕の地を訪ねたが、その石碑も街角の民家の軒先にひっそりと建っていた。 
     
 
 JR大津駅前の広場では「平和憲法を守ろう」というビラを配っていて、演説の合い間にオカリナで「アヴェ・マリア」などを演奏していた。なかなか上手だった。

   
 
 大津駅からホテルのシャトル・バスに乗って、今日の宿泊先の大津プリンス・ホテルに到着。
 こうして、彦根への旅、第1日は終了。 

     
 
 2024年3月22日 記 

滋賀の旅・大津その1(2024年3月19日)

2024年03月22日 | あれこれ
 
 3月19日(火)から21日(木)の2泊3日で滋賀県の彦根、ついでに大津、近江八幡を訪ねて来た。

 昨年の4月には、父方の祖父の旧本籍地である佐賀県の嬉野、ついでに唐津、有田、伊万里、武雄、佐賀市を旅行した。佐賀では、幸いにも、町名変更にもかかわらず、旧町名、旧地番が残っていたので、現地まで到達することがでた。その後、同地に現在も居住しておられる遠縁の方と手紙を交換できるようになり、その方が先祖の菩提寺を訪ねて墓碑銘や過去帳を筆写して下さったので、1750年ころまでの先祖の名前と没年を知ることができた。

 今回は父方の祖母の故郷を訪ねた。祖母の旧本籍は滋賀県の彦根。
 亡父の相続時に取り寄せた除籍簿では、旧本籍地は「滋賀県犬上郡彦根東栄町xx番地」となっていたが、町名の変更だけでなく、行政区画の変更もあったようなので、今回は難航が予想された。とにかく祖母や、(ぼくが生まれる前に亡くなった曽祖父)の育った地域を歩いてその雰囲気を味わい、その場所の空気を吸うことができればよし、くらいの気持ちで出発した。

   

 3月19日(火曜)、午前9時03分、東京駅発のひかり505号で、12時01分に京都駅着、在来線に乗り換えて10分ほどで大津駅に到着。
 大津での予定は、今年はやりの紫式部ゆかりの三井寺と石山寺を訪ねること、大津事件の現場を訪ねること、そして近江牛を食べること。

   

 駅前の観光案内所に立ち寄って情報をもらってから、まず路線バスで三井寺(みいでら)に向かう。
 ぼくはNHKの大河ドラマは一度も見たことがないし、現在放映中の紫式部も見ていない。高校時代の古文・漢文は嫌いではなかったが、「源氏物語」は苦手だった。三井寺は、紫式部の父・為時(苗字は知らない)が出家した寺だという。
 石段が多くて、けっこう急だったのは、右ひざ膝蓋骨骨折や椎間板ヘルニアの既往歴をもつ身にはキツかった。
   

 あいにくの曇り空で、梅も桜もなかりけり、寂しい境内風景である。桜の季節になれば綺麗だろうし賑わうのだろうが、人混みがないのは救いである。桜が満開の時期の千鳥ヶ淵近辺の雑踏を思うと、のんびり歩くことができるのは助かる。

    
   

 三井寺を後にして、琵琶湖疏水沿いの通りを歩く。京都の水源である琵琶湖の水を京都に流す疏水の道沿いも道沿いは桜並木だが、桜の開花はまだ少し先の様子。中学校の地理で「インクライン」という言葉を聞いたが、この疏水のことだったか?
 疏水を背にして、大通りを琵琶湖方面に歩き、京阪電車びわ湖浜大津駅に向かう。
 浜大津駅前の十字路をゆったりと曲がって行く4両編成、緑とクリーム色のツートンカラーの路面電車がきれいだった(冒頭の写真。下の写真は、その線路だけ)。

   

 石山寺は改めて。

 2024年3月22日 記