豆豆先生の研究室

ぼくの気ままなnostalgic journeyです。

軽井沢・幻のホテル 5・スケートセンター ホテル

2006年03月26日 | 軽井沢・千ヶ滝
 
 “軽井沢・幻のホテル”物語

 5・軽井沢スケートセンター・ホテル 

 1965年冬の軽井沢スケートセンターの駐車場付近(現在のボーリング場のあたり)の写真。並んでいる車がどれも懐かしいスタイルである。

 ほかの写真を見ると、現在のテニスコート周辺の道路や空地も路上駐車のクルマであふれており、すでに結構モータリゼーションの波は押し寄せつつあったのだなと改めて思った。
                                  
 2006/3/26

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幻のホテル4 昔日の星野温泉グラウンド

2006年03月21日 | 軽井沢・千ヶ滝
 
 1964、5年頃の星野温泉のグラウンドの写真。
 
 今の駐車場のあたりだろうか? 後ろのほうがテニスコートだった。

 写真の向かって左手が温泉の玄関、右手が国道146号になる。

                                   
  2006年 3月21日

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軽井沢・幻のホテル3 昔日の星野温泉

2006年03月20日 | 軽井沢・千ヶ滝
 
 “軽井沢 幻のホテル”物語

 3. 昔日の星野温泉

 昭和30年代に私が居候していた親戚の軽井沢の別荘は獅子岩(千ヶ滝中区)にあった。
 ここから星野温泉に行くためには、こけもも山荘の裏から塩壺温泉の脇を下っていく方法と、もうひとつ培風館山本山荘下の草むらのなかのやっと人一人が通れるくらいの山道を沢づたいに下る方法とがあった。

 冒険をするつもりのときは、沢づたいの山道を下った。途中には幅1メートルほど、深さも1メートル弱のけっこう流れの急な用水路などもかかっていた。
 ちょっと“Stand by me”風の道だった。この道を下り終わって平坦なところに出ると、そこは星野温泉の裏庭のようなところだった。従業員の宿舎かと思われる平屋の質素な同じような住宅が軒を連ねて建っていて、その庭先には家庭菜園があったり、ひまわりが咲いていたりした。
 “幸せの黄色いハンカチ”に出てくるような、平凡な片田舎の風景である。あまり軽井沢らしくはないが、ぼくはこの風景が懐かしい。

 クルマで行くときは国道146号を下って、星野温泉入り口を左折して土の道を行くと、左手には原っぱが山すそまで広がり、右手にはテニスコートがあり、ついで左手には池とプールと外浴場が、右手には確か“ちびきや”という売店と、診療所があり、正面の小さいロータリーの向こうに和風の2、3階建ての旅館玄関があった。 
 一度妹が軽井沢で発熱したときに父親が妹を背負って、こけもも裏の道を下って、この星野温泉の診療所に担ぎ込んだことがあった。星野温泉の経営者一族の誰かがお医者さんだったように思う。

 ここも高級旅館で、ぼくは外浴場に浸かりに行ったことしかないが、星野温泉のテニスコートにはしばしばテニスをしに行った。
 テニスコートに面した別荘(写真には写っていないが向かって左側)に中学生くらいのかわいい女の子がいて、ときおりぼくたちがテニスをするのを眺めているその子に恋をした。
 いよいよ東京へ帰る日が近づいた8月の終わりに、その子に声をかけようと意を決してテニスコートに行ったが、すでにその別荘は雨戸が閉まっていて結局この恋は片思いのままに終わった。

 テニスコートの裏山には祖父の友人だった綿貫哲雄先生の別荘があって、祖父のお供でついて行ったことがある。まるい輪のなかに狸の絵が書いてある表札だった。「わ・たぬき」…。
 奥様は加納治五郎の娘さんと聞いた。イギリス留学経験もあるユーモアがあって親しみやすいおじいさんだった。
 綿貫さんの別荘のある小山の、道を挟んだ向かい側には原っぱというかグラウンドだった。ある夏、慶応の児童文化サークルが子ども教室を開いていた。小学生だった従弟はそこのソフトボール大会に参加したら、毎年軽井沢に静養に来ていた現在の皇太子も参加していて、一緒にプレーをしたことがある。

 星野温泉入り口の前はしょっちゅう通っていたが、久しく中に入ることはなかったが、「ずいぶん様変わりしたよ」と従弟がいうので、去年の夏久しぶりに行ってみたが、どこがグラウンドの跡で、どこがテニスコートで、どこがかつての玄関なのかも判別できないほどに豹変していた。
 まごまごしていたら駐車場に入ろうとする後続車にクラクションを鳴らされたので、ほうほうの体で退散することにした。

 * 写真は1965年か66年頃の星野温泉テニスコート。星野温泉は現在も営業しており、「幻の」というのはふさわしくないかもしれないが、あのロータリー正面にあった和風の玄関をはじめ、往時の建物が幻になってしまったという意味である。
 
  2006/3/20

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間違いだらけの軽井沢 

2006年03月15日 | 軽井沢・千ヶ滝
 
 3月、お彼岸も近いとはいえ、浅間山はまだ雪景色だった。
 
 今朝、子どもを部活に送り出してから、女房と2人で軽井沢に行ってきた。
 晴れ、10度。藤岡あたりから見える浅間山は、春霞のかなた、まだ白い雪をいただいていた。
 しかし、軽井沢の街中の雪はすっかり融けていた。今年1月6日に行ったときには一面の雪野原にゆったりとした熊の足跡などが残っていたわが家の庭も、すでに雪はとけて枯葉に覆われていた。

 突然思い立って、こんなコラムを書くようになったので、執筆の参考にするため、軽井沢に置きっぱなしにしてあった古い軽井沢の案内書を何冊かもち帰った。
 その中で一番役に立つのが、「軽井沢 その周辺」(三笠書房、1964年)という本。それを眺めていて、このコラムの間違えをいくつか見つけた。記憶を書いているだけで、事実を記しているつもりはないのだが、いちおう直しておきたい。
どうもぼくの乗ったタイムマシンは、時おりリコールが必要なようである。

 ① 諏訪神社の花火を見物したのは「明治屋」ではなく、「明治牛乳」だった。正式には明治乳業軽井沢販売所というらしい。
 店の看板には≪明治牛乳 MEIJI MILK SHOP≫とある。モームと“テス”のエピソードを思うと“MILK SHOP”というネーミングも泣かせる。

 ② それでは「MEIDIYA」なんて看板はまったくの記憶違いかと思いきや、別のページにしっかり≪MEIDI-YA 明治屋軽井沢出張所≫いう看板の写った写真が載っている。明治牛乳と明治屋の記憶が混同していたようだ。
となると、小松ストアーのピーナッツバター壜などの思い出も、ひょっとすると明治屋の店内かもしれない。

 ③ ロータリーから行って三笠書房の隣が小松ストアというのも間違い。写真で見ると、大塚無線-銀座小松ストアー-三笠書房の順になっている。
大塚無線(ビクターの看板が出ている)と小松ストアーとの間にちょっと隙間があるように見えるが、これが神宮寺への入り口だろうか・・・。

 ④ 軽井沢物産館の英語表記は“NAGANO PREFECTURAL PRODUCTS GALLERY”だった。「民俗博物館」などでは全然なかった。

 ⑤ 中軽井沢駅前交差点の化粧品店の名前は「桐万薬局」さん。白い雪をいただいた浅間山の麓の“キリマン”さんもいい。ぼくらも頂上の雪(“キリマンジャロの雪”)をめざしたいものである。
 きょうも店頭には誰か女性のモデルさんのポスターが貼ってあった。

 ⑥ ジャスコがあったあたりの地名は上ノ原ではなく、富が丘というようだ。

 ⑦ 浅間モーターロッジ(正式には「アサマ」と表記してある)の標高は1003メートル。
 この本に載っている浅間ロッジの広告によると、「ヨーロッパの高級スポーツカーをレンタカーしている」と書いてあるので、クラシックカーの展示という記憶はこれのことだと思う。

 * 写真は、2006年3月15日の午後、ツルヤから眺めた浅間山。 

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軽井沢・幻のホテル 2・浅間モーターロッジ

2006年03月14日 | 軽井沢・千ヶ滝
 
 “軽井沢・幻のホテル”物語

 2. 浅間モーターロッジ

 軽井沢の別荘は、だいたい10月から3月までは凍結による水道管の破烈を避けるために水道は止めてしまう。
 それ以前、以降でも秋分の日の連休などに訪れると朝晩はけっこう冷え込んでストーブが必要だったりするので、この時節に軽井沢に出かけるときはホテルに泊まることが多い。そんなときに利用したのが、浅間モーターロッジである。

 中軽井沢を通過し、借宿も通過してしばらく行くと、道路脇に「国道18号線最高標高1013メートル」とかいう標識が立っているが、その左手にあった。

 できた当初は、エントランス前のガレージにクラシックカーが展示してあったりする趣味的なホテルだった(経営者か宿泊客のクルマが駐車していただけかも)。 料金は軽井沢のホテルの中でも高いほうだったので、わが家ではたまにレストランに食事に行くことしかできなかった。
 やがて経営困難に陥ったらしく、文部省の共済組合に買収されて格安の保養所として運営されるようになった。安くなってからは何回か泊ったことがある。しかしそれも程なく破綻し、結局は廃墟となってしまった。 
 
 あるとき、ここのレストランで“ビーフシチュー・南欧風”というのを注文したら、予想していたあのこげ茶色のどろっとした液体の中に牛肉や人参、馬鈴薯が浮かんでいる料理とは似ても似つかない乾いた肉料理が出てきた。
 “stewed beef”という料理には、日本風の“ビーフシチュー”とはまったく別の形態のものがあるということを学んだ。
 
 ここのレストランから眺める、夏の夕暮れ時の八ヶ岳はとてもきれいだった。

 最近はメルシャン美術館や小諸、小布施、塩名田のほうへ出かけるときは浅間サンラインを利用することが多くなったので、浅間ロッジの廃墟の前を通ることはなくなってしまった。
 夏はたいした景色ではないけれど、秋のサンラインはいい。“秋の童話”のCDをかけて、ソン・スンホンかウォンビンになった気分でゆったりと走るのである。
 ただし、遠くに眺める浅間山や千曲川の秋景色はいいけれど、道端の景色はただの“コスモス街道”である。長野県の街道沿いはどうしてどこもここも同じなのだろうか・・・。

 * 写真は、1965年4月3日に浅間ロッジから眺めた浅間山。

  2006/3/14   
          

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軽井沢・幻のホテル 1・グリーンホテル

2006年03月12日 | 軽井沢・千ヶ滝
 
 これから何回か、ぼくの記憶に残っている軽井沢のホテルを、“軽井沢・幻のホテル物語”と題して、綴りたい。 
 
 1. 軽井沢グリーンホテル
 
 国道18号の中軽井沢駅前交差点の右角に“桐万薬局”という化粧品店がある。
 あるときこの店のショーウィンドウに小林麻美のポスターが貼ってあったので、行きつけだった母親に、あのポスターをもらってきてほしいと頼んだが、もうすでに予約済みだといって断られてしまった。

 その交差点を鬼押し出し方面に右折して道なりにしばらく登っていくと、道路右手に、星野温泉、塩壷温泉、こけもも山荘といった宿がつづき、左手にスケートセンターのテニスコート、西武百貨店千ヶ滝店、東京医大の夏季診療所、藤田肉店などがある。
 この藤田肉店を右に曲がると角には貸し馬屋があり、馬や飼い葉の匂いが漂う奥行き3、40メートルの広くて埃っぽい道の両脇には店を閉じたままの建物が残っていて、西部劇に出てくるゴーストタウンの趣きがあった。少し奥には東京女学館の寮があった。

 さて、鬼押し出しへの道路をさらに上ると、道路正面に山小屋風のとんがり屋根の郵便局が見えてくる。ここを左に曲がると次第に登りがきつくなり、つづら折りの坂道をしばらく行くと、左手にグリーンホテルの白い建物、赤い屋根が見えてくる。
 グリーンホテルといいながら、外壁はグリーンではなく白だったように思う。帝国ホテルと同じライトの設計ということで、フィッツジェラルドの小説にでも出てくるアメリカの小都市の洒落たホテルの雰囲気があった。
 車寄せの脇に赤い郵便ポストがあって、石段を数段登ったところが玄関になる。玄関ホール周辺はあまり雰囲気のない土産物コーナーだったと記憶する。2階か3階にレストランがあり、一度ここでコースをとったらデザートに林檎が丸ごと出てきて、これに厚い刃のナイフとフォークがついてきたので、どうやって食べたらいいのか分からずに困ったことがある。
 ぼくたちの世代は、給食に丸ごとの林檎が出たら、半ズボンで散々こすってぴかぴかに磨きあげてから丸かじりするのが流儀だった。

 ホテルの道路を隔てた反対側には小さな展望台があり、双眼鏡で離山方面が眺められた。その真下あたりがD・キーン氏の別荘だった。
 ホテルの並びには打ちっ放しのゴルフ練習場もあった。ゴルフを始めた叔父に誘われて、ぼくがはじめてゴルフのクラブを握ったのもこの練習場だった。72ゴルフ場がオープンした前後のことである。
 
遠藤周作のエッセイの中に、自分の小学生くらいだった息子にこのホテルのドアボーイをさせているというのがあった。それではと見物に出かけたが、あまり制服の似合っていない太目の小さなドアボーイがいたが、その子だったかどうかは分からない。
 
 西武か国土の経営だから潰れるようなことはないと思っていたのだが、どういう事情があったのか、いつの間にか廃業となり、ホテルの建物はゴルフ練習場もろとも跡形もなく消えて、今はただ雑草が生い茂るだけになってしまった。
 きれいさっぱり跡形もなくなってしまったかつてのグリーンホテル前を通過するたびに、ぼくはスティーブン・キングの世界に迷い込んだ気分になる。

 * 写真はバス通りの西側から見た軽井沢グリーンホテル(1965年の撮影)。

 2006/3/12

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モーム “お菓子と麦酒”

2006年03月10日 | サマセット・モーム

 I read “Tess of the D’Urbervilles”when I was eighteen with such enthusiasm that I determined to marry a milkmaid. (W. S. Maugham, “Cakes and Ale”preface, p. )
 “If you like the milkmaid type”answered Mrs. Driffield. (p.247)

 「テス」を読んで“乳搾り娘”との結婚を決意した18歳のモームって、いいと思いませんか。

 「お菓子と麦酒」に出てくるエドワード・ドリッフィールドがトマス・ハーディかどうかはあまり詮索する意味はない。本人が違うというから違うのだろうけれど、エドワードの「生命の盃」という小説をめぐる(子どもの死ぬ場面が問題となったという)エピソードは、ハーディの、というよりぼくにとってはケイト・ウィンスレットの、だが、「日陰のふたり」のエピソードそのものだろう。
 もしエドワードがハーディではないとしても、ロージーは、18歳のモームが結婚を決意した乳搾り娘テスその人である。

 小説の終章近くになって、若かりし頃のロージーのポートレートを見て、モームの連れが「ふくよかな田舎娘の感じですね」といったのに対して、エドワードの後妻は「もしあなたが乳搾り娘みたいなのがお好きならね。」と評している。
 “乳搾り娘”ロージーこそがこの小説の主人公であり、私(モーム)が「テス」を読んで抱いた“乳搾り娘”への思いがこの小説を貫いている。
 英米文学の世界でどんなことがいわれているのかは知らないけれど、モームが「テス」を読んだのと同じ18歳にして奥井先生の講義でモームを読みはじめたぼくの確信である。

 モームの心をとらえたロージーとは、見た目はどんな女性だったのだろうか。「ロージーは黒人との混血だと思う」という後妻の台詞からすると、テスは知らず、ロージーはナターシャ・キンスキーではありえない。
 Macmillan Modern Stories to Remember というシリーズに入っている“Cakes and Ale”のretold版(桐原書店から出ていた)には挿絵がついていて、そこにロージーも描かれている。ルノワールの「桟敷席の女」を少し田舎くさくして丸くしたような女性であるが、“乳搾り娘”の面影はない。作家の妻となったかつての“乳搾り娘”を勝手に想像して読んだほうがいいかも。
 その後、Vintageのpaperback版の表紙にもロージーの横顔が描かれているのを発見した。映画化するならジュリー・クリスティーあたりかなといった風貌である。

 * 写真は、Macmillan Modern Stories to Remember 版“Cakes and Ale”(Macmillan Press、発行年の記載なし。日本の版元は桐原書店)の表紙。向かって左端の横顔の女性がRosie。なお、Vintage 版の表紙は、このコラムの「木の葉のそよぎ」に載せておいた。見比べてほしい

 2006年 3月 2日

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所有する喜びのないカローラ

2006年03月05日 | クルマ&ミニカー
 
 徳大寺語録から

 1.「所有する喜びを与えてくれない」トヨタ・カローラ

 その通り。それがカローラの美点なのだから。世の中には、乗っているあるいは所有しているクルマで自己主張したいと思う人がいるのと同じだけ、乗っているあるいは所有しているクルマで自己主張しているなどとは絶対に思われたくない人がいるのだ。そういう人間の側から見ると、所有するクルマでしか自分を主張できない人というのは、ちょっと情けない存在に見えてしまうのだが…。
 これって負け惜しみかなのだろうか?

 2.「キビキビ感はなく、モワーとした走り」のVWポロ

 これもその通り。ポロはしばらくの間わが家のマイカーだったが、ほんとに「モワー」としていて、嫌になった。街中で信号待ちからスタートするたびに、並んだ車に遅れて一呼吸おいてから“どっこいしょ”といった感じで動き出す。碓氷軽井沢ICを出てからの坂道では、登坂車線側からフィットに抜かれてしまう。
 車に乗っていてストレスを感じるたびに、「ほんとに“モワー”だね!」はわが家の車中での合言葉になってしまった。

 3.「動く物置」ダイハツ・タント。

 四角いクルマ、ミニバンとかミニミニバンといったクルマが苦手な私もまったく同感です。もっともセダンのトランクを「物置」とまではいわないけれど、「床下収納庫」くらいのつもりで使っている人は結構いるのではないだろうか。

 4.「どちらを選んでも間違いではない」マーチ、ヴィッツ

 「間違いだらけの~」という題名とは矛盾するけれど、徳大寺センセイはちゃんと評価すべきクルマは評価してきた。スバル1000、ジェミニ、ファミリア、シャレード、ミラージュなどなど…。
 ヴィッツに至って、徳大寺センセイは本当は「わが国産車も悪くないではないか」という気持ちになっていたのではないだろうか。

 5.「私がこのクルマに乗るとしたら、それは介護されるようになって後席に乗るときだ」というトヨタ・ラウム

 でも、そういう状態でクルマの後部座席に乗る人もいるのだから、徳大寺センセイにはぜひ“後部座席から見た・間違いだらけのクルマ選び”を書いてほしいと思う。
 あの本が“最終版”になってしまって、本当に寂しい。毎年の“間違いだらけ~”で徳大寺センセイが吼えるのをぼくは楽しみにしていたのに。ヴィッツ、シビック、スイフト、シトロエンC3、そして今度のカローラなどなど、いったいどんな評価を受けるはずだったのだろうか。

 2006年03月05日

 * 写真は、徳大寺有恒「間違いだらけのクルマ選び[最終版]」(草思社、2006年)。「所有する喜びのない」カローラというけれど、そんなこともないと思う。「所有する」喜びかどうかはともかくとして、故障もせず、それなりに走ってくれる喜びはある。

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思い出の草軽電鉄

2006年03月03日 | 軽井沢・千ヶ滝
 
 残念ながら、ぼくは草軽電鉄(正式には草軽電機鉄道というようだが、草軽電車とか草軽鉄道とか呼ばれていた)に乗ったことがない。
 一度乗ってみたいと思っているうちに、ある夏、旧軽に出かけてみると、草軽鉄道は廃線になってしまっていた。
 乗ったことがないばかりか、実は草軽鉄道の走る姿をみた記憶もない。記憶にあるのは、せいぜい旧軽井沢駅に停車している草軽電車と、その駅舎と、駅を出てすぐのところにあった踏切だけである。

 草軽鉄道は、軽井沢駅(新軽井沢)から、旧軽井沢を経て、草津に至る軽便鉄道だったが、モータリゼーションの波に押されて、昭和34年か35年に廃線となり、線路跡が現在では、三笠から小瀬温泉、白糸の滝などを経由して、北軽井沢、草津に向かう道路になっている。
 旧道(いわゆる旧軽銀座)の入り口のところに踏切があり、その右手に旧軽井沢駅があった。踏切には遮断機もあったように記憶するが、降りているのを見たことがない。1日に10本もなかったので(このことは、かつて古本市で苦労して入手した「草軽電鉄50年誌」(軽井沢書林、1973年)によって知った)、なかなか出会う機会がなかったのだろう。
 ただし旧軽井沢駅に停車している2両編成(だったろうか)の姿は記憶にある。親から聞かされたところでは、この近くでぼくが便意を催したため、旧軽井沢駅のトイレを拝借したことがあるという。ぼくと草軽電鉄との縁は、臭くて軽いものだった。

 廃線になった後の旧軽井沢駅舎跡は、ヴィクトリアという洋菓子店になったと思う。
 このヴィクトリアはヨーデルの音楽をスピーカーで流しながら中軽井沢の千ヶ滝にまで販売車で来ていた。年下の従弟がこのヨーデルの物まねをして、よく家族を笑わせていた。
 旧駅舎跡の店には喫茶室もあって裏庭を眺める落ち着いた佇まいだったが、ヴィクトリアもいつの間にか店じまいしてしまい、今では何がなんだか分からない雑然としたスペースになってしまった。

 ぼくの父親はこの草軽鉄道に乗ったことがあるといっていた。これはちょっと羨ましくて、しゃくな話であった。
 親父は、北軽井沢に滞在している大学時代の恩師を訪問するために、北軽井沢までこれに乗ったそうである。
 親子二代にわたって尾篭な話で恐縮だが、親父によると、草軽鉄道のスピードの遅さたるや、乗車中に尿意を催した乗客が、電車から飛び降りて近くの木陰で用を済ませても、走っている電車に戻ることが出来るほどだったという。不器用だった親父にそんな芸当が出来るはずもないので、おそらくそのようなことをする乗客を目撃したのだろう。

 しかし、草軽鉄道を廃線に追いやった責任の一端は私たちにもある。
 昭和30年頃、わが家にはまだマイカーはなかったが、裕福だった親戚の家には、あの観音開きの黒いクラウンがあり、ぼくたちは軽井沢を起点に鬼押し出し、浅間牧場、照月湖、さらには草津白根山、横手山から志賀高原へとドライブに連れて行ってもらった。
 最近の夏の渋滞からは信じられないくらい道はガラガラだった。舗装されていない区間もあったけれど。しばらくしてわが家も人並みにクルマを持つようになった。確かにクルマは便利だし、世界を広げてもくれたが、それは草軽鉄道のようなのどかで愛すべき文化遺産を奪ってしまったのである。

 * 写真は、浜本幸之「草軽電鉄五拾年誌」(軽井沢書林、1973年)に付録としてついていた「消えゆく草軽電鉄」というレコードのカバー(東芝4RS-374)。草軽電車の発車、運行、停車の音などが収録されている。

 2006年 3月 3日

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