豆豆先生の研究室

ぼくの気ままなnostalgic journeyです。

滝田ゆう「寺島町奇譚(上・下)」

2024年08月31日 | 本と雑誌
 
 滝田ゆう「寺島町奇譚(上・下)」(筑摩書房「滝田ゆう漫画館 (1) (2)」、1992年)を読んだ(?)。

 読みかけの川本三郎「荷風と東京--『断腸亭日乗』私註」(都市出版)のなかで、玉の井(寺島町)出身の漫画家で、昭和戦前期の玉の井風景が描かれていると紹介していたので、図書館で借りてきた。
 滝田は生前には時おりテレビで見かけたが、1932年(昭和 7年)の向島区寺島町(現在の墨田区向島町)の生まれで、田河水泡の内弟子を経て独立したとある。漫画の中の「ドン」という小さなスタンド・バーの息子が滝田本人らしい。
 驚いたことは、三遊亭圓歌(歌奴)の後書き(下巻)によると、滝田、圓歌、小川宏、出羽錦、早乙女勝元が、同地の小学校(学校名は書いてなかった)の同窓生だったという。下町空襲の資料収集で有名な早乙女さんと同窓だったとは知らなかった。
 ※ 滝田ゆうの本を1冊持っていた。「下駄の向くまま--新東京百景」(講談社)という画文集である。小学校の同窓生だったという早乙女勝元「ゴマメの歯ぎしり--平和を探して生きる」(河出書房新社)と並べて(下の写真)。
   

 さて、「寺島町奇譚」だが、確かに東京大空襲で町全体が焼失する前の玉の井の雰囲気を知ることができる。玉の井(寺島町)は「どぶ川があったり・・・。それがまた汚いどぶ川でね、真っ黒なんでおはぐろどぶって呼んでた。その周りに女郎屋さんがあったんですね。まああんまりいい町じゃないんですよね。要するに私娼窟ですから」と圓歌はいっている(下441頁)。
 川本「私註」では、玉の井の匂いを、娼家の便所から流れ出る洗浄液と屎尿の臭気と書いた大林清の文章が紹介されていたが(407頁)、滝田の漫画からは、そんな臭いまでは漂ってこなかった。荷風「断腸亭日乗」や「濹東奇譚」では私娼が健気に生業を営むひっそりとした町のように描かれているが、荷風の「陋巷」趣味によって美化された描写なのだろう。

 この漫画で描かれた玉の井の風物で、昭和25年に山の手で生まれたぼくとの共通の思い出もいくつかあった。
 まず、どぶ川である。どぶ川は世田谷の玉電山下の駅前にもあって、経堂方面から東松原方面に向かって流れていた。玉の井ほど汚くはなかったが、屎尿も含んでいただろう下水(生活排水)が流れていたはずである。草の繁る幅30センチくらいの川岸があり、ぼくたちは山下駅前の橋の袂から土手を降りて、その狭い川岸をトミヤ洋品店やウワボ菓子店の裏(下)を通って赤堤通り(?)に架かる橋のあたりで地上に戻った。
 滝田はそのどぶ川で笹舟を流す競争をやっていた。笹舟の競争はぼくらもやったが、さすがに山下のどぶ川ではやらなかった。どこでやったのだろう?

 各家の塀際に置かれた木でできたゴミ箱(小津の「風の中の雌鶏」などにも登場していた)、そのゴミを収集に来た収集車はこれまた木製の大八車だった。木樽を天秤担ぎしたおわい屋(と当時は呼ばれていた)なども共通である。漫画ではおわい屋に滝田の母親が金を払っているが、昭和30年頃はうちの母親に5円を渡していた。滝田の家は商売をしていたから有料だったのかも。
 京成電車の駅には痰壺が描かれているが、痰壺は昭和40年代まで電車の各駅の柱の脇に置かれていた。「痰は痰壺に」といった標語が貼られていた。もちろん駅の便所も汲み取り式だった。
 電信柱に病院の広告が貼ってあるのも同じである。昭和40年代になっても、西荻窪の中学校の周辺にはやたらと性病科の広告が目立った。「淋病」などという言葉を知ったのもその広告からだった。

 メンコ、ベーゴマも昭和30年代の玉電山下界隈で行われていたが、ぼくはまったくやらなかった。ベーゴマなどまわし方も分からなかった。
 ぼくは野球一筋で、近所の路地でキャッチボールや屋根ボールをやって遊んだ。少年時代のサリンジャーもアメリカで屋根ボールをやっていたらしい。エラーしたボールはしょっちゅう道路わきの小さなどぶに落ちた。どぶには灰白色の濁った下水がよどんでいた。藻のような得体のしれないドロッとした物も交じっていたが、ぼくたちは拾いあげたボールをちょっと振って水を切り、濡れた手はズボンにこすっただけで、キャッチボールを再開した。赤痢や日本脳炎などで死ぬ子もいた時代に、よくぞ生き延びたものである。
 夕方になるとそんなぼくたちを一瞥しながら、近所のアパートからMさんという女性が腰をくねらながら出かけていった(「ペーパー・ムーン」のライアン・オニールの彼女!)。水商売の女性だったのだろう。玉の井ではありふれた人だったが、ぼくたちとは別世界の人に思えた。滝田の漫画の女性たちは色っぽくないのが残念。

 二つの空き缶を紐でつないで、両足の親指と人差指の間に挟んで歩く遊びも昭和30年代の世田谷に残っていた。洗い張りを営んでいる家もあった。
 「玄米パンのホーヤ、ホヤ」といいながら売りに来るパン屋もあった。東京オリンピックの昭和39年頃になっても、西荻窪では玄米パン売りの声が授業中の教室に聞こえてくることがあった。ぼくは見たことがないが、この西荻の玄米パン売りは、ロバが牽く車で売りに来ていると近所の子が言っていた。ぼくは玄米パンを食べたことがないが、圓歌は「格別おいしいものではない」と語っている。

 一番驚いたのは、迷路のようだったという玉の井の路地の随所に「ぬけられます」という案内が出ていたが、その案内がある路地は行き止まりだったということ。あれは実は道案内ではなく、お客を袋小路に迷い込ませる娼家や飲み屋の作戦だったという。
 昭和戦前の私娼街の治安はどうだったのだろうかと、荷風や川本を読みながらいつも気になるのだが、飲み逃げと「危険人物」くらいしか滝田少年の思い出には出て来なかった。

 2024年8月31日 記

 ※ 漫画本というのはほとんど読んだことも手にしたこともなかったが、今回借りた滝田の本の傷み方はひどかった。今までに図書館で借りた活字の本でこれほど傷んだ本は見たことがない。漫画本の借り手はよほど本を乱暴に扱うのだろうか。

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この夏の軽井沢・3(8月12日~17日)

2024年08月26日 | 軽井沢・千ヶ滝
 
 8月12日(月) 夕方、芦原伸「草軽電鉄物語」を読む。
 夜、図書館で借りてきたDVD「パブリックーー図書館の奇跡」(2020年、アメリカ)を見る。シンシナティ市立図書館はホームレスの人たちが暖をとる場になっていたが、市長が彼らを締め出して厳寒の屋外に排除しようとしたため、市長に反発したホームレスたちと図書館員が一緒になって戦うといったストーリー。画面からは屋外の厳寒さがあまり感じられなかった。

 8月13日(火) 曇り。午前中、<ツルハ>と<しまむら>に立ち寄ってから、図書館で本とDVDを返却。
 8月14日(水) 12時15分軽井沢駅着の新幹線で息子夫婦と孫2人の一家4人が到着。
 少し早めにプリンス・プラザに車をとめて、駅周辺を歩く。北口の駅と交番との間に、旧軽井沢駅舎が保存してあり、草軽電鉄のカブト虫型機関車(の模型?)も展示してあった。
 
   
   

 8月15日(木) 孫は軽井沢での虫採りを楽しみにしている。トンボが群舞する浅間台公園に出かけるが、放っておけば一日中でも虫取りに興じていそうである。
 この日は終戦記念日。孫とトンボ採りができる平和のありがたさをつくづく感じる。

 8月16日(金) この日息子一家は帰京の予定だったが、台風7号の影響で東京駅の混乱が予想されるというので、1日延期する。
 この日も、浅間台公園で虫採り。午前中はけっこう捕まったが、夕方に出かけたときはトンボはほとんどいなくなっていた。トンボを求めて大日向のレタス畑に出かけてみる。昨年までは一面レタス畑だったが、今年行ってみると一部でモロッコいんげんが栽培されていた。
 トンボは捕まらなかったが、浅間山が夕もやの彼方にうっすらと姿を見せていた(冒頭の写真)。
 ※ テレビ報道によると、昨日から上皇ご夫妻が軽井沢を訪問中で、きょう(24日)は大日向の「キャベツ畑」を訪問したと言っていた。あそこで作っているのはレタスではなくキャベツだったようだ。

   

 8月17日(土) 朝10時00分軽井沢駅発の新幹線で孫たちは帰京の途に。お盆期間の土曜日で軽井沢駅までの国道が渋滞する恐れがあるので、信濃追分駅に送り、しなの鉄道で軽井沢駅に行ってもらうことにする。9時37分信濃追分駅発のしなの鉄道に乗れば、10分で軽井沢駅に着く。
 追分駅には20分ほど早めに着いたが、駅前の小さな原っぱで孫は軽井沢最後の虫捕りをして時間をつぶす。

   
   

 孫たちを見送った後、われわれもゴミを出し、荷物を片づけて東京へ。明日18日には友人の四十九日の法要があるので、東京に戻らなければならない。
 下の写真は、帰り道の車窓からの<ケーヨーD2>。
   

 2024年8月24日 記

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この夏の軽井沢・2(8月7日~11日)

2024年08月22日 | 軽井沢・千ヶ滝
 
 8月7日(水) 午前中に給湯器の修理、15分ほどで完了。一安心。
 <しまむら>で衣類その他を買い、昼すぎ、借宿のガソリンスタンドで給油。

 8月8日(木) 午前中、中軽井沢図書館に行く。
 清永聡「家庭裁判所物語」、片山杜秀「見果てぬ日本」、芦原伸「草軽電鉄物語」の3冊と、高峰秀子主演「放浪記」(成瀬巳喜男監督)のDVDを借りる。
 上の写真は、中軽井沢駅前を出発するコミュニティ・バス。この夏の軽井沢では、黄緑色で小型のこのバスを各所で時おり見かけた。
 下の1枚目は「沓掛テラス」と呼ばれる中軽井沢駅舎。
 2枚目は、図書館の 2階から眺めた中軽井沢駅前の風景。中軽井沢駅前は、閉められたままの土産物店が寂しい。駅舎は立派になり人も集まるようになったが、駅前の風景も、西武(高原)バス案内所、タクシー会社、土産物店(沓掛時次郎饅頭!)などが並ぶ昭和の中軽井沢駅前を再現できないものか。
 3枚目は、駅前広場から眺めた離山。

   
   
   

 8月9日(木)
 清永聡「家庭裁判所物語」を読了。面白かった。

 8月10日(金) 午後、叔母宅のBBQに招かれる。
 夜、帰宅後に「放浪記」(DVD)を見る。高峰の演技はぼくには「?」だった。晩年の芙美子に金を無心する連中がいたとは。

 8月11日(日)
 片山杜秀「見果てぬ日本」を読む。
 夕方、浅間台公園から借宿東交差点まで散歩。
   

 国道18号から 100mほど離れた北側を、国道と並行して「御影用水」という疏水が流れている。
   
   
      

 下の写真は、散歩道から浅間山を眺めた景色。雲に隠れて頂上は見えない。
   
   

 借宿東交差点で国道18号に出て、次の借宿交差点にあるローソンに立ち寄って帰宅する。
 ※ 上の写真は18日に撮影したもの。

 2024年8月22日 記
 

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この夏の軽井沢・1(2024年8月4日~6日)

2024年08月21日 | 軽井沢・千ヶ滝
 
 8月3日(土)から8月17日(土)まで軽井沢に行ってきた。
 前半の1週間は好天に恵まれたが、後半の1週間は天気はいま一つで曇りの時間が多く、雨もよく降った。ただし軽井沢にしては暑い日が多かった。

 8月3日(土)、関越道下りの渋滞が収まった頃を見計らったつもりで午後に出発したのだが、関越道は坂戸西インターを先頭に21キロだったかの渋滞。それでも1時間半ちょっとで上里サービスエリアに到着。上信道はそれほど混んでなくて、1時間ほどで軽井沢に到着。 

 8月4日(日)は、<ツルヤ>と<ケーヨーD2>で食料品、日用品を買い込む。
 上の写真は、8月4日に<ケーヨーD2>の駐車場から眺めた軽井沢消防署の火の見やぐら。本当はその向こうに浅間山が見えるはずなのだが、残念ながら浅間山は雲に隠れていて見えない。今年は、浅間山の全景がはっきり見えることはほとんどなかった。
 下の写真は8月4日に、<ツルハ>の駐車場から眺めた南方の景色。すぐ下(南側)は<しまむら>の駐車場、国道軽井沢バイパスの向うは<ケーヨーD2>で、その更に向こうには、八ヶ岳の連なる峰々がうっすらと見えている。
 この夏は<ケーヨーD2 ><ツルハ><しまむら>にお世話になった。

 12、3年前に息子が衣類を入れたバッグを忘れて軽井沢に来てしまったため、トランクスを売っている店を探したが軽井沢には洋品店というものがほとんど無く、わずかに中軽駅踏切りの近くに学生服の店が1軒あるだけだった(上ノ原の<ジャスコ>には衣料品も置いてあったが、数年で閉店してしまった)。あちこち探し回って、ようやくプリンス・プラザの中にできたコンビニで売っているのを見つけて辛うじて入手することができた。そのことを思い出すと、<しまむら>はとくに有難い。
 これらの店は、いずれも国道やバイパスを通らないで行くことができる。わがB級軽井沢生活には大いに有りがたい存在である。

   

 8月5日(月)は発地(ほっち)にある町の塵芥処理場に粗大ごみを運ぶ。祖父母の代から放置されていたステレオ・セットその他を処分。
 下の写真は、8月5日の散歩の折りに見かけた鬼百合。花は散ってしまっていた。

       

 8月6日には給湯器がつかなくなってまった。施工した地元のガス会社に連絡すると、翌 7日には長野から製造元の修理業者が来てくれた。彼によると、点火プラグが壊れているとのこと。霧の多い軽井沢で一番よく起る故障だという。
 その8月6日の夕方、散歩で見かけたブッドレア。家内は以前にイギリスを旅行した時にブッドレアの花の咲きほこる庭を見て感動して以来、ブッドレアのファンになった。しかし、数年前にはいっぱいの花(?)が咲きほこっていたのに比べると、この夏の軽井沢のブッドレアは元気がない。

   

 夕食は国道18号、借宿交差点近くの<おらんち食堂>に行ってみる。通りかかるたびにいつも混んでいて気になっていた店である。午後 6時前に入ったが、6時半には満席になる。B級グルメの水準店といったら失礼だろうか。衣が少なくさっぱり揚がった揚げ物がいい。
 下の写真は、<おらんち食堂>のテーブル席から眺めたバイパスと浅間山。

       

 夜、川本三郎「荷風と東京ーー『断腸亭日乗』私注」(都市出版)を読む。

 2024年8月21日 記

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芦原伸「草軽電鉄物語」ーー緑陰の読書(その3)

2024年08月19日 | 本と雑誌
 
 芦原伸「草軽電鉄物語――高原の記憶から」(信濃毎日新聞社、2023年)を読んだ。
 昭和35年だったかに営業廃止になってしまった草軽電鉄の廃線跡を、新軽井沢駅から草津温泉駅まで歩いて辿る紀行である。
 かつて芦原の書いた「西部劇映画事典」(NHK生活新書、書名、出版社名とも不確か)を読んだことがあった。子どもの頃からの映画好きで映画館に通って西部劇映画を見てきたという著者のこの本は面白かった。この本を道しるべにして、西部劇映画のDVDを何十本も見た。
 なんで今度は「草軽電鉄」なのかと思ったら、著者は鉄道雑誌の編集長も務めた紀行作家だった。著者は名古屋出身だが、母親が毎夏、軽井沢の女子大寮で開かれる同窓会に出席していて(日本女子大の三泉寮だろうか?)、草軽電車の思い出話も語っていたので、以前から関心があったところ、定年後に嬬恋に別荘を建てて移り住んだのをきっかけに草軽電鉄廃線の旅を始めたのだという。

 著者は、草軽電鉄の路線に沿って、新軽井沢駅から、旧軽井沢、三笠、鶴溜、小瀬温泉、長日向、国境平、二度上、栗平、北軽井沢(旧・地蔵川)、嬬恋、上州三原、谷所、草津温泉までを、各駅にまつわるエピソードや思い出話などを挟みながら踏破する。
 例えば、軽井沢のエピソードでは、軽井沢を避暑地として「発見」したのは宣教師のA・ショーと言われているが、実は彼より以前に英国外交官のアーネスト・サトウが「日本旅行日記2」(1882年。平凡社、東洋文庫)で軽井沢を紹介しており、ショーはサトウの紹介を見て軽井沢を訪れたことが紹介されている(38頁)。
 
 草軽電鉄は、草津温泉に向かう湯治客を運ぶことと、木材や薪炭(硫黄も運搬したらしい)の運搬を目的として大正4年(1915年)に営業を開始した。当初は信越線の沓掛駅(長倉。現在の中軽井沢駅)と草津温泉を結ぶ計画だったが、軽井沢の有力者が軽井沢の別荘開発を約束したため、軽井沢を起点とすることになったという。
 ちなみに「草軽電鉄」とは「草津」と「軽井沢」を結ぶ電車の略称だと思っていたが、実は「草津軽便」鉄道の略称だという(22頁)。知らなかった。
 起点の新軽井沢駅の駅舎は、信越線(現在のJR長野新幹線)軽井沢駅北口のロータリーの北側にあったという。軽井沢駅ホーム(北側)の立食い蕎麦を食べた記憶はあるが、草軽電鉄の駅舎はまったく見た記憶がない。

 2つ目の旧軽井沢駅は、現在の旧軽井沢ロータリーの東側にあり、廃線後は洋菓子のヴィクトリアの店舗になったあたりにあった。この駅にカブト虫型の機関車が停っている姿は記憶にある。ぼくの記憶では、新軽井沢-上州三原間が廃止になる昭和35年の直前には、現在のいわゆる旧軽銀座の入り口のあたりに踏切があった。しかし本書に載っている昭和30年の旧軽ロータリー付近の踏切の写真を見ると、あまりにも寂しい風景で、ぼくの記憶とは一致しない(48頁)。昭和30年代末の旧軽井沢(旧道ロータリー)の記憶と混戦しているのだろうか。
 ※ 下の写真は、現在の軽井沢駅北口に保存されている草軽電鉄のカブト虫型機関車。

   

 三笠駅から線路は蛇行して(かつ逆行して)鶴溜駅に向かう。
 お盆などで国道18号が混雑する時は、千ヶ滝から星野温泉の裏手を通って鶴溜から旧軽井沢に行くことがあったが、鶴溜を通るたびに、何で草津温泉に向かう草軽電車が鶴溜に向かうのか不思議だった。本書によれば、一つは三笠から小瀬温泉への上り坂が急だったために蛇行せざるを得なかったのだが、もう一つは起点を沓掛駅から新軽井沢に変更したことへの配慮もあったようだ(55頁)。鶴溜から沓掛までは2・6キロ、徒歩で40分近くかかったが、当時の人たちはこのくらいの歩きは平気だったようだ。星野から軽井沢に向かうにも草軽電車は便利だった。
 小瀬温泉は、軽井沢在住作家の小説の中で不倫カップルの密会の場所として登場するのを読んだことがあるが、今では宿屋は一軒しかないという。雰囲気のある宿のようだ。白糸有料道路の土煙の舞う道すがらに「小瀬温泉」という看板を目にするが、宿はこの道から歩いて20分近く奥まったところにあるらしい。

 長日向駅などは駅舎の跡形もまったくなくなっていて、案内人の説明がなければ見過ごしてしまう状態だったという。長日向には霧積温泉に向かう道と国境平に向かう道の分岐点があるという(90頁)。
 森村誠一「人間の証明」では、碓氷峠(見晴台)を下ったところに霧積温泉があるように書いてあったが、方向音痴のぼくには長日向と霧積温泉と碓氷峠の位置関係は分からない。
 伊藤博文が霧積温泉で明治憲法を起草したというエピソードも紹介されるが、明治憲法を実際に起草したのは金子堅太郎で、しかも場所は横須賀の夏島(当時は島だったが、その後埋め立てれれて地続きになり日産自動車のテストコースになった)のはずである。
 鼻曲山(はなまがりやま)も長日向から行くらしい(89頁)。

 北軽井沢駅は、以前は近くを流れる川の名前から地蔵川駅と称していた。
 ここが発展したのは、法政大学がこの地を理想郷とすべく、大正9年に80万坪という広大な敷地を購入して「法政大学村」として、安倍能成、野上弥生子、津田左右吉、岸田國士らが別荘を建て、後には岩波茂雄も住み、大江健三郎も住んだという。
 彼らは、午前中は他家を訪問しない、午後10時以降の会合・宴会は控えるなどの規律を設け、道路を舗装しないことなどを協定したという。北軽井沢駅の駅舎は法政大学が草軽電鉄に寄付した建物で、その壁面には「H」字形の意匠が凝らされているが、この「H」は法政を象徴する「H」だそうだ(146~8頁)。亡父が昭和30年代前半に、草軽電車で北軽井沢に田辺元を訪ねたことが、わが家の人間が草軽電車に乗った唯一のエピソードである。
 わが家では、軽井沢では電話も引かず、テレビも置かず、午前中と夕食後は勉強するものと決まっていて、父や祖父に付き合って学生だったぼくも机に向かわなければならなかった(机に向かって本を読んでいれば何も言われなかったのだが)。父や祖父が在軽の友人を気楽に訪ねたりすることもなかった。そもそもわが家と軽井沢の関係は、叔父が学生時代に友人と追分の学生村で一夏を過ごし、夏の追分を気に入ったのがきっかけで始まった。その後叔父は千ヶ滝の文化村に別荘を購入し、ぼくも夏休みにはそこに居候させてもらい、何年か後にわが家でも千ヶ滝の分譲地を買って別荘を建てた。そんなわが家の軽井沢での生活の根っこには、「法政村」に暮らした人たちの精神が受け継がれていたのかもしれない。 

 北軽井沢から先は、吾妻(あがつま)、小代(こよ)、嬬恋、上州三原、東三原、湯窪、万座温泉口、草津前口、谷所(やと)、終点の草津温泉と続くのだが、本の返却期日が迫ってしまったので、省略する。
 嬬恋は満蒙開拓団の帰住者が開拓した村である。満州の海倫から帰住した群馬県人が開拓した地域は現在でも「ハイロン」という地名だそうだ(166頁)。
 医師で作家の南木佳士は昭和26年、三原の出身で、父親は草軽電車の運転士だった。その後東京の保谷市に移ったという。草軽電鉄の廃線後、草軽鉄道関係者は系列の東急電鉄に移籍したというから(187頁)、彼の父親も東京に移住したのだろうか。彼の芥川賞受賞作「ダイヤモンドダスト」には嬬恋村の風景が出てくるという(207~8頁)。加賀乙彦の「永遠の都」という小説にも嬬恋が登場するという(217頁)。いつか読んでみよう

 草軽電車は、新軽井沢-草津温泉間55・5キロを3時間以上かけて走った。時速17キロ程度だった。
 新軽井沢-上州三原間が廃線となった昭和35年当時、大卒初任給は1万800円、かけそば35円、コーヒー60円、ロードショー映画館入場料180円、肉屋のコロッケ1個5円だった(「コロッケ五円の助」!)。当時の草軽電車の1区間は10円、新軽井沢から草津までの全区間が210円だったという(130頁)。
 草軽電鉄の廃業は、モータリゼーションの影響だけではなく、国鉄長野原線の開業の影響もあったらしい(197頁)。

 著者は、帰り道は草軽バスで軽井沢に戻っている。軽井沢駅前では、草津温泉の旅館の送迎バスを時折見かけるが、路線バスもあるようだ。 
 巻末には、草軽電鉄の全路線の地図、略年表が付いている。

2024年8月13日 記

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片山杜秀「見果てぬ日本」ーー緑陰の読書(その2)

2024年08月19日 | 本と雑誌
 
 軽井沢図書館で、川本三郎の本を探したけれど見つからなかった。その代わりと言っては何だが、作者名「か」の欄の本棚に並んでいた片山杜秀「見果てぬ日本」(新潮社、2015年)を借りてきた。
 「司馬遼太郎・小津安二郎・小松左京の挑戦」というサブタイトル通り、日本の過去、現在、未来への視角を、この3人の著作の中から探ろうとする思索の書。
 著者は、1984年の学生時代に講義で知ったパウル・ティリッヒというワイマール・ドイツのキリスト教思想家が「社会主義的決断」で示した<過去=根源、現在=自律、未来=決断>とする図式に想を得て、日本の過去、現在、未来という3つの時代の価値付けを考える。その際に依拠したのが、歴史小説家司馬、日常生活を描いた映画監督小津、未来日本を構想したSF作家小松である。3人とも、日中・太平洋戦争の敗北を契機に日本の過去、現在、未来を構想したのであるが、第3章の小津だけを読んで、小松、司馬は斜め読みですませた。

 片山は、黒澤明と対比して小津を検討する。ともにアメリカ映画から影響を受けながら、黒澤はアメリカ流の大作を志向したのに対して、小津は戦中・戦後のわが国の窮状、映画会社の資金力の無さからそのような方向を断念して、身の丈に合った日常生活を映画の舞台に設定する。小津は自身の目ざす映画を「雲をつかむような、棒杭を抱いているような感じの」映画と表現したという(284頁)。
 小津の「現在」には、大きな事件や登場人物の感情の起伏はない。それは小津の戦争体験に基づいているという。
 日本の兵士と支那の兵士の間に力量の差はなく互角に戦っているが、日本の兵士は「最後の五分」の力で差がつく」と小津は語っているらしい(303頁)。兵士も生活者も日常的に常に全力で生きているわけではない、それではいざというときに疲れ果てて力を発揮できない。だから小津映画で描かれる日常生活は、「最後の五分」のための余力を残した生活風景であり、そのような映画に必須の俳優が「ヌーボー」とした笠智衆だったという。
 典型例として、「父ありき」のラストで、亡父(笠)の遺骨を任地の秋田に持ち帰る息子の佐野周二が遺骨を網棚に置いたシーンが批判されたことに対する小津の反論がある(297頁)。このシーンで、佐野が遺骨を膝の上に乗せて夜通し秋田まで行くことは、押しつけがましくてインチキ臭い。息子の孝行の念は、遺骨を膝の上に置くか網棚にあげるかに関わりなく観客に伝わればよいと小津は考える(298頁)。
 合格した旧制中学校で寄宿舎に入って以来、旧制高校、帝大、そして就職した秋田の鉱山学校と、父とは別居生活を余儀なくされてきた息子が、「東京に出てお父さんと一緒に暮らしたい」と申し出たのに対して、息子の願いを拒絶し秋田での教師生活をつづけなければならないと諭した父親(笠)に対する息子(佐野)の思いは、観客の1人であるぼくには十分に伝わった。網棚の上にあろうと、佐野はこの時はじめて父親と一緒になれたのである。
 上田の中学校の寄宿舎に入れられた時から何十年も経過した後の、束の間の一緒の時間だった。上田と東京、秋田と東京の距離に比べれば、網棚と座席との距離など無いに等しい。

 ちなみに、小津と対比された黒澤の戦後第1作が「姿三四郎」ではなく、「達磨寺のドイツ人」という映画で、浅間山の大噴火に歓喜の声をあげる日本に滞在するドイツ人が主役だったという(291頁)。松島、宮島、天橋立を日本三景とするような日本観に反発して、火山に象徴される爆発的エネルギーに、日本の未来を見ようとした映画らしい。
 黒澤の映画に浅間山が登場していたとは知らなかった。ただし1940年頃に構想されたこの映画は実際に製作されることはなく、脚本だけが残っているという。

 2024年8月11日 記 

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清永聡「家庭裁判所物語」ーー 緑陰の読書(その1)

2024年08月19日 | 本と雑誌
 
 清永聡「家庭裁判所物語」(日本評論社、2018年)を図書館で借りてきて読んだ。面白かった。
 著者はNHKの解説委員で、司法記者クラブ等に所属した経験を持つ。戦後の家庭裁判所誕生から、2011年の東日本大震災時の仙台家庭裁判所(秋武憲一所長)の活動に至るまでを概観した物語である。家裁の創設から初期の運営に携わった方々の書き残した文献(例えば、五鬼上堅磐の当時の日記)や聞き書き、取材当時まだ健在だった当事者や、内藤頼博、宇田川潤四郎、三淵嘉子氏らの遺族への聞き書きを交えて要領よくまとめられていた。

 登場人物の何人かは私もお目にかかったことがあり、私なりの印象をもっていたが、著書や論文を通してお名前しか知らなかった方々の肉声というか、生身の人物像も知ることができた。
 お会いしたことがある人としては、法曹では内藤頼博さん、竹内壽平さん、佐藤藤佐さん(25、30、43頁)、森田宗一さんなど、学者では中川善之助さん、平野龍一さん、平場安治さん、宮澤浩一さん、松尾浩也さん、田宮裕さん、澤登俊雄さんなどが登場した。家庭裁判所でも家事部よりは少年部に関わる方が多い。
 著書や論文でしか存じ上げない方としては、宇田川潤四郎、三淵嘉子、栗原平八郎、秋武憲一らの諸氏の人柄にふれることができた。
 かつて私が編集部に所属した雑誌では、毎年の年末号でその年に刊行された著書・論文の講評を掲載したが、ある年、柏木千秋氏(名大教授)の刑法だったか刑訴法だったかの体系書を評者が「教科書」として紹介したところ、柏木さんが大変怒っていると澤登さん(國學院大学教授)経由でクレームが来た。澤登さんと柏木氏の接点を知らなかったので、なんで澤登さんから?と訝しく思ったが、本書で彼らの接点を知ることができた(頁数は見つからなくなってしまった)。

 以下は、思いつくままエピソード的に記しておく。
 最高裁の家庭局長(課長?)だった「五鬼上堅磐」という名前(8頁)には思い出がある。おそらく昭和30年代に彼は世田谷の赤堤周辺に住んでいたのではなかったかと思う。通学の道すがらだったか遊びに行った先に「五鬼上」という表札の家があって、何て読むのだろうと級友たちの間で話題になっていた。「ごきじょう」と読むことは後に知ったが、名前を「かきわ」と呼ぶことは本書ではじめて知った。
 内藤頼博さんを、面長、目元涼しく、鼻筋の通った二枚目、身長は175cmという描写は、まさに私がお会いした内藤さんそのものである(25頁)。前にも書いたが、NHK朝の連ドラ「虎に翼」の沢村一樹演ずる久藤何某とは似ても似つかぬ方だった。内藤さんが細野長良(最後の大審院長)と袂を分かつに至った経緯なども初めて知った(142頁)。内藤さんと石田和外最高裁長官との「交友」関係なども意外だったが(202頁)、法曹人にはそのような結びつきもあるのだろう。

 個人的には、裁判官らの自由闊達な議論と交流を封じ込めたいわゆる「司法の危機」問題、最高裁による青法協所属裁判官に対する締め付けに関する著者の筆法の弱さには不満が残った(225頁)。私は家族法の学会で最高裁家庭局付の裁判官の方の発表をお聞きし、その後の懇親会で同席して会話する機会があったが、その方の優秀さと誠実さが印象に残った。ニューシネマ時代の “handsome woman” という言葉がぴったり合う方だった。家裁発足時の精神が今に生き続けていることを信じたいが、その方はのちに地裁判事に転出してしまった。
 東京家裁事務官採用第1号の水越玲子さんという方のインタビューも印象に残った。私の教師時代の(夜間部の)受講生に東京家裁の事務官をしている女性がいたが、真面目で大へんに優秀な学生だった。きっと第1号の水越さんの精神を引き継いだ優秀な事務官でもあっただろう。
 
 小松川女子高生殺害事件をめぐって、世論が加害少年の厳罰化を要求して盛り上がった際に、これを受けた法務省で厳罰化を唱えたのが安倍治夫検事だったというのも知らなかった(156頁)。彼の著書「刑事裁判における均衡と調和」(題名は不確か)を読んだことがあった。私の学生時代の刑事訴訟法学では、弾劾的捜査観か糺問的捜査観か、当事者主義的訴訟か職権主義的訴訟かというの二項対立的な刑事手続き観が隆盛だったが、彼の本はそれでは捉えられない内容だった(ように記憶する)。
 いわゆる東大紛争をめぐって逮捕された活動家の中には126人もの未成年者が含まれており、彼らに対する少年審判事件が東京家裁に大量に係属していたことも本書で初めて知った(186頁)。

 NHK朝の連ドラ「寅に翼」で、なんで明治の女子部に穂積重遠が登場するのか不思議に思っていたが、彼は東大教授と同時に「明治大学女子部委員」という肩書をもっていたらしい(37頁)。私が在籍した大学でも、戦後まもなくの頃には東大教授が本学教授も兼務していたことがあった。
 本書は「寅に翼」の参考文献の一つになったと思われるが、私としてはドラマの「寅に翼」よりもはるかにドラマティックで、興味深い内容だった。
 ※ 5頁、飯森重任は飯守重任の誤り。

 2024年8月9日 記 

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