豆豆先生の研究室

ぼくの気ままなnostalgic journeyです。

昔日の軽井沢旧道

2006年02月28日 | 軽井沢・千ヶ滝
 
 最近では、ショッピング・プラザに客を奪われ気味の軽井沢旧道の、通称“軽井沢銀座”の、思い出の店ベスト・5。

 1. 酒井化学

 ロータリーのほうから順番に行くと、まず酒井化学。
 いまも健在の鳥勝(がんばって!)のとなりだったと思う。文房具や画材を扱う店だった。小学生だったぼくはもっぱら文房具を買いに行った。店内にはノートや鉛筆など文房具のほかに、スケッチブックや、絵の具や、イーゼルなどの画材が所狭しと置いてあった。ペンキなどもあったかもしれない。油彩のテンペラ油の匂いが店内に漂っていた。
 「化学」という名前の由来は不明だが、今となってはかえって洒落ている。祖父は他では手に入らない新聞などを買っていた。

 2. 明治屋

 食料品のあの明治屋である。店の看板は“MEIDIYA”となっていた。
 店内にはテーブルと椅子もあって、ちょっとした飲み物などを注文できた。毎年8月20日過ぎに諏訪神社のお祭りがあるが、明治屋のベンチに座ると、向かいの教会越しに打ち上げ花火を見ることができた。このお祭りが終わると軽井沢の夏も終わり、旧道の人影もめっきり減って寂しくなった。
 明治屋の裏手にはパターゴルフ場もあった。ベビーゴルフと称していたように思う。
 * あとで訂正するように、ここは“MEIDIYA”と表記する明治屋のことと、“MEIJI”と表記する明治牛乳のことが混同している。 

 3. 軽井沢物産館

 落ち着いた土産店だった。ここの看板も何やら英語で書いてあったと思うが、忘れてしまった。“民俗博物館“風の名前だった。
 今もあるけれど、間口は半分くらいになってしまったのではないか。ぼくが軽井沢の絵葉書で一番好きなのは、昔この物産館で買った「落葉松の秋・軽井沢 さとう・きよし木版」というやつで、誰にも出さずに大事にとってある。もう最近の物産館には置いてないようだが。昭和36年だったかの浅間山の噴火のカラー写真(A4判くらいのやつで、一時代の定番ものだった)もここで買った。
 
 4. 三笠書房

 あの“風とともに去りぬ”で当てた「三笠書房」と同じ会社なのか、旧軽井沢の地名の「三笠」にちなんだ書店なのか分からないが、軽井沢の数少ない書店だった。
 洋書もけっこう置いてあり、包帯(?)を巻いたヘルメットをかぶって、半ズボン姿のシュバイツァーかサマセット・モームのような外国人のおじいさんが立ち読みをしたりしていた。雑誌のコーナーにアメリカの犯罪実話雑誌が置いてあって、開いてみたら犯罪現場の死体の写真などが載っていて恐い思いをした。

 5 .小松ストア

 三笠書房のとなりが小松ストアだったと思う。
 木の階段がついた2階建ての洋風の雑貨店である。外国に縁のなかったぼくにとっては、それこそ“アメリカの窓”だった。“オズの魔法使い”の絵のかかれたピーナッツ・バターの壜とか(食べ終わった後は子どもたちのコップがわりになった)、“ローハイド”に出てくるようなハインツの豆の缶とかを、ここではじめて見た。
 やがて紀ノ国屋に客は移り、国道が混むようになると上ノ原のジャスコで済ませ、そして今ではほとんどツルヤで用は足りるようになってしまった。

 * 写真は旧道(旧軽銀座?)の写った古い絵葉書。鳥勝や、1件隣りの酒井化学もまだ健在である。向かいの水野(デザイナーの水野正夫が経営する喫茶店だった)から写したものだろう。
 ここの1階席で、中村真一郎が杖にのせた両手のうえに顎をついて、不機嫌そうに通りを眺めていたのを見たこともある。

 2006年 2月28日

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軽井沢・獅子岩

2006年02月26日 | 軽井沢・千ヶ滝
 
 閣僚の資産公開というのが新聞に載っていた。その中に、与謝野馨大臣(何大臣だったっか?)の資産として、「長野県軽井沢町獅子岩」の不動産というのがあり、久しぶりにあの「獅子岩」を思い出した。

 ぼくが子どものころ毎年夏休みに居候させてもらっていた親戚の別荘は、まさにこの長野県北佐久郡軽井沢町獅子岩にあった。
 軽井沢は不動産登記簿上の地番表示とは別に、郵便局がつけた別荘表示(かつては「ハウスナンバー」と呼ばれていた)がある。郵便局のハウスナンバーのほうが通りがよいので、ふつうは軽井沢町千ヶ滝xxx番で表記しているが、正式には「獅子岩」という地名だった。
 今では廃墟になってしまった西武百貨店千ヶ滝店の道を隔てた東側の一帯である。

 その別荘でプロパンガスを注文したら、燃料店の請求書に「文化村 xx様」と書かれていて、その辺一帯がかつては文化村と呼ばれていたことが分かった。
 確かに文化人の多いところだった。ぼくの記憶にあるだけでも、東大の宮沢俊義教授、中村孝也教授、館龍一郎教授、早稲田の吉村正教授、「少年期」の波多野勤子さん、「明治は遠くなりにけり」の中村草田男さん、社会党議員の帆足計さん、そして与謝野さんの別荘などがあった。

 獅子岩という地名の起こりは、裏手を流れる沢沿いの山中に、獅子に似た形の大きな岩があるからだと叔父から聞いて、あるとき従兄弟たちと探検に出かけた。
 その沢は、鬼押し出しに向かう山道の左手にあったグリーンホテル辺から、星野温泉の方に流れていたが、ぼくたちはその途中から山の斜面に出来たけもの道程度の細い道を登っていった。
 道端には“培風館山荘入口”という立て札などもあった。夏のあいだは緑に覆われていて山荘は見えなかったが、あるとき冬の軽井沢を訪れた際にこのあたりを歩いたら、冬枯れで見晴らしのよくなった山頂にその山荘らしき建物が見えていた。 高校時代に培風館の「精義」か何かを手に取ったら、著者の前書きに「昭和xx年夏 培風館軽井沢山荘にて」と書いてあったので、「ああ、あそこだな」と懐かしかった。
 今もあるのだろうか。

 その培風館山荘の入口を過ぎて少し行ったところに、獅子岩はあった。「ローマの休日」に出てくる、嘘をついた人間の手に噛みつくライオンくらいの岩で、言われてみれば確かに獅子に見えなくもないという程度のものだった。

 中村草田男さんの句にあの頃の軽井沢をうたったものがあるのかどうかは分からないが、波多野勤子さんの「受験期」という新書には、あの頃のあのあたりのことが少しだけ登場する。
 波多野家の三男だか四男の受験のときに、軽井沢の別荘で徹夜で受験勉強する息子のために勤子さんが朝風呂を焚いてやるというシーンである。昭和30年代の初めにはプロパンガスではなく、まだ薪で風呂を焚いている別荘も多かった。ぼくたちも風呂のために「柴刈り」をしたものである。

 もうひとつ思い出したが、その沢沿いの道を登っていくと、グリーンホテルのすぐ下のあたりに、軽井沢独特の白い横長の板に「D.キーン」と書かれた表札の別荘があった。一度、そのテラスでタイプライターを打っているキーン氏らしき人影を見かけたことがあった。

 * 写真は、培風館の山荘と思われる建物。獅子岩に向かうけもの道から見上げた風景。1966年冬に撮影されたものと思う。

 2006年2月26日

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アン・クリスチネ・ハグベリ選手

2006年02月25日 | あれこれ
 
 オリンピックといったら、ぼくにとっては1964年の“東京オリンピック”がすべてであって、それ以外は、ぼくにとっては“オリンピック”ではない。たとえIOCあたりがそれを「オリンピック」と称したとしても、ぼくはそんなものを“オリンピック”とは認めない。トリノにしてもそうで、あんなものはただの夜中の時間つぶしにすぎない。その割には結構見てしまっているのだが。

 その“東京オリンピック”の何を語りたいかといえば、アン・クリスチネ・ハグベリ選手である。
 知る人ぞ知る、彼女はスウェーデンの水泳選手である。東京オリンピックの女子100メートル自由形に出場して決勝まで進んだが、決勝は8人中の7位におわった。競技が終わって、代々木の国立競技場の電光掲示板に結果が発表される。1位から6位までは場内アナウンスで順位と名前、国名、記録が読みあげられるが、7位と8位はアナウンスの音声のないままに、7th A. Hagbery Swe 1.xx.xxという数字とアルファベットの文字だけが電光掲示板に流れた。
 スペルと記録には自信がない。「アサヒグラフ」の東京オリンピック増刊号を見れば分かるのだけれど、ここでは思い出を書いているのであえて調べない。

 当時ぼくは中学3年生だったが、ハグベリ選手は当時の中学生の間ではマイナーながらちょっとした人気者だった。彼女は、オリンピックの前年に東京で開かれたプレ・オリンピックに出場している。その時に「朝日中学生新聞」(か「毎中」)に紹介されたことがあり、ぼくもその新聞で彼女を知ったのである。
 クラスにいつも「朝中」を持ってきて、休み時間にせっせと掲載された模擬問題を解いている級友がいた。その新聞を横からのぞきこんで、ぼくは彼女を発見したのである。そして翌年、彼女はスウェーデンの代表に選ばれて、また東京にやってきた。

 ぼくたちはテレビ画面を通して彼女と再会することになったのであるが、彼女はふたたび今度は「朝日新聞」本紙に登場した。美しい彼女を朝日の記者は放っておかなかったのだろう。試合前にまさにガウンを脱ごうとしている姿の写真つきであった。
 この記事も手もとにあるのだが、見ないで記憶のままに書いておく。「スウェーデンからやって来た水の妖精」という見出しで、彼女の紹介記事が出ているのだが、「将来は建築士になりたい」という彼女の言葉と、「ガウンを脱ぎすてた両肩は意外にたくましかった」という記者の印象の部分が記憶に残っている。

 その後、ぼくはスウェーデンに留学したり転勤するという友人に会うたびに、五番街のマリーじゃないけれど、あっちに行ったらハグベリさんの消息をたずねてほしいと何度も頼んだが、いまだに分からない。去年までウプサラ大学に留学していた友人にも出発前にしっかり頼んでおいたが、やっぱり成果はなかった。
 ぼくたちより少し年上だったから、いまは58か60くらいだろう。1964年10月の朝日新聞で、ちょっと物憂い表情で佇んでいる彼女のままにしておこう。

 * 写真は、朝日新聞1964年10月(日付は不詳)に載ったアン・クリスティネ・ハグベリさん。

 2006/2/25

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懐かしのポップス

2006年02月23日 | テレビ&ポップス

 My Best 5


 ① 懐かしのポップス (1964年)

  1. アンジェリータ
  2. 夢みる想い
  3. アイドルを探せ
  4. 悲しき雨音
  5.ダウンタウン
 
 ② 懐かしのポップス(64年以前)

  1. ジョニー・エンジェル
  2. ヤング・ワールド
  3. トゥ ヤング
  4. ワン ボーイ
  5. タミー

 ③ ビートルズ

  1. ヘイ ジュード
  2. ヒア ゼア & エブリウエア
  3. アンド アイ ラブ ハー
  4. フール オン ザ ヒル
  5. ペニー レイン

 ④ 映画

  1. 赤い風船
  2. 汚れなき悪戯
  3. エデンの東
  4. シベールの日曜日
  5. Once Upon a Time in America

 ⑤ テレビドラマ
 
  1. ララミー牧場
  2. ライフルマン
  3. 幌馬車隊
  4. ボナンザ
  5. 拳銃無宿

 ⑥ ミステリー

  1. 雨の国の王者
  2. 被害者の顔
  3. 笑う警官
  4. 黒衣の花嫁
  5. 失踪当時の服装は

 ⑦ カラオケ

  1. 風
  2. 花嫁
  3. イムジン河
  4. 旅人よ
  5. 怪傑ハリマオ

 * 写真は、ロス・マルチェロス「アンジェリータ」(グローブ/伊ドリウム原盤とある)のジャケット。この曲は、1964年の夏ごろ(だったか)、文化放送のリクエスト番組で(DJは誰だか忘れてしまったが、土井まさるだったかな)、確か金子ディレクター(プロデューサー?)という人がヨーロッパ旅行した時に見つけてきたと言って紹介したのがきっかけで、大ヒットした。
 2、3年前に、懇意の編集者に招待されて青山の“サバティーニ”で食事をしたとき、ギターのデュオがテーブルにやってきたので、この「アンジェリータ」をリクエストしたのだが、「ロス・マルチェロスはスパニッシュだ」と(英語で)いって、歌ってくれなかった。ジャケットの紹介を見ると、彼らはスペイン系だがイタリア人だとある。

 2006年02月23日

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モーム “木の葉のそよぎ”

2006年02月22日 | サマセット・モーム
 
 I found out why the spot had such an unearthly loveliness. Here love had tarried for a moment. ~ It seems to me that the places where men have loved or suffered keep about them always some faint aroma of something that has not wholly died. It is as though they had acquired a spiritual significance which mysteriously affects those who pass. (W.S.Maugham,“Red”)

 1968年、東大に落ちて予備校生となった。駿台予備校の[前文]というのにまで落ちて、四谷にある[前総]というクラスに在籍することになった。四ッ谷駅を降りて新宿通りを丸正の角で左折すると、「シッポまであんこ・・」が謳い文句のたい焼き屋があって、その向かいに校舎があった。

 授業は出たり出なかったりで、迎賓館前の若葉町公園や上智沿いの土手のベンチで小説を読んだりして時間を過ごした。五木寛之の「ソフィアの秋」(最初は「聖者昇天」という題名だった)が載った文春かオール読物の増刊号をわざわざ近くの文春本社まで買いに行ったりもした。 
 あまり真面目な予備校生ではなかったが、奥井潔先生の英語の授業だけは欠かさず出席した。面白かったのはこの1科目だけだった(松山恒見先生の英文解釈もよかった)。
 奥井先生は東洋大学のフランス語の先生という話だったが、駿台では英語を教えておられた。枯れた感じを受けたが、当時はそれほどのお歳ではなかったのだと思う。後にテレビでセンター試験の解説か何かをしておられるのを拝見して、たいへん懐かしかった。

 実は息子たちが通っている武蔵中学高校の英語の先生に奥井先生という方がおられ、奥井潔先生のご子息だという噂を息子たちが聞いてきた。事実なら親子二代にわたり、先生の親子二代から教えを受けたことになる。
 奥井先生のテキストはモームの短編の、そのまた一部を抄録したものだった。残念ながらそのテキストは失くしてしまったので、どんな文章を読んだのか定かでないが、ぼくの記憶のなかでは、モームの達観したような言葉が奥井先生の雰囲気と重なっている。
 ※下の写真は奥井先生の著書「英文読解のナビゲーター」(研究社)。
             

 その後かなりの期間ぼくはモームが好きだった。紺色と草緑色のツートンカラーのカバーがかかった新潮文庫に収録されたものは全部そろえた。
 文庫から落ちたものは、古本屋で新潮社版のモーム全集を見かけたおりに買った。いずれにも入っていないものは英宝社の対訳本や筑摩の文庫などで揃えた。新潮社版の全集は文庫と同じ2色の装丁だが、色褪せたうえに汚れたものが多く、見つけてもあまり嬉しくなかった。話の中身も、文庫から落とされただけあってどれもあまり面白いものではなかった。
 神保町の北沢書店の棚の上のほうに置いてあったハイネマン版の全集をみて、あの紺色と草緑色の装丁の由来を知った。北沢では買わなかったが、あるとき開拓社の隣りの小さな洋古書店(後に確認したところ小川図書でした)の店頭に、ハイネマンの全集がどっと置かれていた。“早稲田大学商学部・某”という印が押してあった。ちょっと興奮したが、モーム熱はすでにかなりさめていたのと、値段がけっこう高かったので、一番好きな“The Trembling of a Leaf”だけ購入した。

 予備校時代に買った新潮文庫の「赤毛」(Red)には随所に傍線が引いてある。18歳の頃はこんなところが好きだったらしい。確かに場所によってはそんな雰囲気を感じるところがある。少なくとも自分が恋をし、悩んだ場所はそうである。
 ハイネマンの115頁、新潮文庫なら87頁にある。

 * 写真は、Heinemannのモーム全集版 “The Trembling of a Leaf” の表紙。本文中の小川図書の店頭で買ったものである。かつて北沢書店の棚の上のほうにあったやつは、黄緑の部分がもっと暗くて青みがかっていて、光沢もあったように思う。
 
 2006年02月22日

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懐かしのスケート場

2006年02月21日 | あれこれ
 
 1. 新宿ミラノ座スケート場
 
 正式な名前は分からないが、新宿ミラノ座の1階か2階にスケート場があった。小学校2、3年生だった昭和32、3年頃ここで生まれてはじめてスケートを滑った。
 新宿駅からの道はまだ舗装されておらず、リンクの手摺り下の排氷溝の隙間から新宿の街並みが眩しくのぞいていた。リンクサイドでラスクを買ってもらった覚えがある。

 2. 代々木スケート場

 1964年の東京オリンピックのときに作られた代々木の(ぼくたちは“原宿”と呼んでいたけれど)国立競技場は冬の間スケート場として公開されていた。アシに多少の自信のあるぼくはナンパ目的でせっせとここや千駄ヶ谷に通った。
 1966年3月27日(日)の日記を見ると、滑走料200円、ラーメン70円、ガム10円、交通費200円と小遣いが記してある。その前の週に行った晴海のリンクは滑走料300円、ラーメン140円となっている。

 3. 軽井沢スケートセンター

 親戚が軽井沢の千ヶ滝に別荘を買った昭和32年からは、毎年夏休みはその別荘に居候させてもらって過ごした。近くのスケートセンターにもたびたび滑りに行った。
 “真夏の夜の夢”という渡辺プロ主催のショーが毎夏開かれ、ザ・ピーナッツやクレイジー・キャッツが出ていた。後にはタイガースが来たこともある。最初の頃は入場無料のうえに、コカコーラまでただでくれた。その頃のコカコーラは薬みたいで、子どもにはとても飲めなかった。

 4. 東神奈川リンク、松原湖

 大学ではアイスホッケー部に入った。弱小チームなのに練習はけっこう厳しく、年間100日近く反町の東神奈川リンクで夜間練習があるうえに、夏は軽井沢、冬は松原湖で合宿があった。
 1年のころは冬合宿の早朝、乾燥室のストーブに火をつけに行くのが辛かった。氷面が荒れた屋外リンクでのスケーティングもきつく、まわりで暢気にワカサギ釣りなどしている人たちが恨めしかった。

 5. 品川スケートリンク
 
 大学2年の冬、ここでの試合中にチェックを受けて転倒し、左足首を骨折してしまった。
 担ぎ込まれた北品川の病院の最上階の個室には“真夜中のリクエスト・コーナー”のDJ土井まさるが入院しており、彼が退院すると今度は“エチケット・ライオン”のCMで人気が出始めていた小林麻美がケガで入ってきた。サインを貰いに行ったが彼女は不在で、彼女のおばあさんがきし麺の出前をご馳走してくれた。

 * 写真は1969年12月の品川スケートリンク。正式な名まえは品川スポーツランドだったようだ。

 2006/2/21

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世田谷の野球選手

2006年02月20日 | 玉電山下・豪徳寺
 
 1. 山内和弘

 子どものころ、わが家の近所に下宿していた。玉電山下から松原方面に向かって最初の踏み切り(川田保育園の北側)を左折したあたり。
 大毎オリオンズの縦縞のユニフォームが物干しに干してあったように記憶する。 

 2. 内藤博文

 ぼくが通っていた赤堤小学校の少し手前に彼の表札のかかった家があった。千葉茂が近鉄の監督になったときに、加倉井、十時らと一緒に近鉄に移籍してしまった。
 別所、大友が衰えはじめ、藤田が出てくる時期である。安原、義原、木戸、国松、小松、馬場なんて投手たちがいた。

 3. ラドラ

 友達と玉電沿いをテクテク歩いて駒沢球場に出かけた。外野席に入ると、目の前に背番号44をつけて東映フライヤーズのセンターを守るラドラがいた。
 土橋、毒島、西園寺、山本(八)の時代。子どもの外野の入場料は50円だった。

 4. ミケンズ、ボトラ

 その東映を相手にパ・リーグの万年最下位争いをしていた近鉄パールズにはなんと外国人バッテリー、ミケンズ投手、ボトラ捕手がいた。南海にサディナなんて投手もいたけど、「ベースボールマガジン」に載ったサディナの奥さんの写真を見て“セクシーだな”なんて思った記憶があるから、時代はちょっとあとだろう。 

 5. 村田?(国鉄)

 はじめて後楽園球場に巨人戦を見に行ったとき、巨人相手に勝利投手になった新人が村田だった。
 当時の国鉄スワローズには金田、谷田、飯田、箱田、町田などなど“田”のつく選手がやたら多かった。 

 * 写真は、はじめてのユニフォーム姿(1958年、世田谷区豪徳寺のわが家の庭で)

 2006年02月20日

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豪徳寺商店街

2006年02月19日 | 玉電山下・豪徳寺
 
 1. 石川屋

 肉屋さんだが、買ったのはもっぱらコロッケ。勉強机の引き出しのようなところから衣のついたコロッケを取り出して揚げていた。“今日もコロッケ、明日もコロッケ”ではないが、土曜日の昼ごはんはいつも石川屋のコロッケ。ソースをつけたコロッケ2、3個で食パンを半斤は食べた。
「コロッケ5円の助」という漫画があったくらいだから、たぶん1個5円だったのではないだろうか。

 2.ヤナセ

 といってもベンツを売っているわけではない。パン屋さんである。朝早くに通りかかると店先で、バケツに入れた小麦粉(?)をこねてパンを作っているのを見かけた。
 近所になぜかいつも小金を持っている友だちがいて、コッペパンとジャムを買ってぼくたちにも振るまってくれたりした。

 3. ウワボ

 “上保”と書くことを後になって知った。くだんの“紅梅キャラメル”をせっせと買ったお菓子屋さんである。お目当てのカードだけ残して、キャラメルのほうはウワボの裏のどぶ川にかかった橋の上から投げ捨ててしまった。
 ガムか何かを店の屋根の上で天日干しして作っていた。なんでも自家製の時代だったのだ。

 4. 上の市場

 と呼ばれている市場が、豪徳寺駅前から宮の坂方面に少し登ったところにあった。うす暗くて、下は土間だった。一番奥に本屋さんがあって、「少年」とか「少年ブック」「冒険王」などを買うときはここで買っていた。
 自転車で配達に来る貸し本屋もあって、「野球少年」はそこで借りた。1か月遅れだと少し割安だった。「野球少年」といいながら、時々お相撲さんの写真なども載っていた。「褐色の弾丸 房錦」という貸本漫画が妙に印象に残っている。「褐色」の意味が分からなかったので。

 5. ** 洋品店

 玉電山下駅から豪徳寺駅に向かう狭い路地に面して、間口半間ほどの小さな洋品店があった。野球帽はここで買った。赤堤小学校の生徒目当てなのだろうか、はじめから“A”のイニシャルが入った野球帽もあった。
 商店街の福引で、この店のハンカチが当たったことがある。実は今でもそのハンカチをもっている。当時は手を洗ったり、拭いたりなんかしなかったらしく、けっこうきれいなままである。

 2006年02月19日

* 写真は、「週刊読売」1975年10月18日号。特別企画は「20代の諸君! オレ達にも すでにして回想(なつめろ)があるのだ!」となっている。ぼくたち団塊の世代は、いつの時代にもマスコミや商売のターゲットとされており、すでに25歳のときに、そう遠くもない過去をすでに回想させられているのである。
 このコラムのなかで書いていることも、ひょっとしたら原体験ではなく、これらの活字などによって一度呼び覚まされた記憶なのかもしれない。(2006年9月2日追記)

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タイムマシンのつくり方

2006年02月18日 | 玉電山下・豪徳寺
 
 1. タイム マシンのつくり方 (広瀬正)

 ぼくが生まれ育った小田急線豪徳寺駅と梅が丘駅のまん中あたりにタイムマシンがあったことをこの本で知った。ひょっとすると、ぼくは根津山で遊んでいるうちいつの間にかこれに乗り込んでしまったのかもしれない。

 2. 失踪当時の服装は (ヒラリー・ウォー)

 ぼくが生まれた1950年3月20日が描かれている(恐らく)唯一の小説。他にもこの日付が出てくる小説はあるのだろうか。ぼくは出会ったことがない。

 3. ティファニーで朝食を (トルーマン・カポーティー)

 小説ではないけれど、ジョージ・ペパードはぼくのオシャレの先生だった。大人になったら、タイプライターで原稿を書く小説家になりたいと思った。キーボードでこんなものを書くのも“夢”のうちだろうか。

 4. さようなら“紅梅キャラメル”

 紅梅キャラメルもわが家の近く、豪徳寺駅から北上して赤堤通りを横切ってしばらく行った左手にあった。せっせと野球カードを集めては景品と交換に行った。布製のキャッチャー・ミットを貰ったこともある。

 5. ぼくの日本自動車史 (徳大寺有恒)

 忘れかけていたわが家のモータリゼーションの歴史を甦らせてくれた本。ダットサン1000とかコロナでなく、わが家で選ばれた“スバル1000”がどんなクルマだったのか、知ることができた。ぼくが乗ってるカローラはけなされるけど、徳大寺センセイはどうも憎めない。

 * 写真は、広瀬正「タイムマシンのつくり方」(河出書房、1973年)の表紙。この本に出てくる小田急線梅が丘駅近くにあったタイムマシンにぼくは乗り込んでしまったことになっている。

 2006年02月18日

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