豆豆先生の研究室

ぼくの気ままなnostalgic journeyです。

プリウス(PRIUS)に試乗!

2009年09月21日 | クルマ&ミニカー
 
 9月18日(金) 車検の待ち時間に、カローラ店でトヨタ・プリウスに試乗した。

 プリウスに乗るのも、ハイブリッド車に乗るのも初体験。ただの時間つぶしのつもりだったのだが、ちょっとプリウスにはまってしまった。
 
 意外の第一は、フット・ブレーキだったこと。
 ぼくは基本的に目に見えないものは信じない。長い渋滞や踏切待ちでも、サイド・ブレーキなら目で見える。しかしフット・ブレーキでは踏んだのか解除したのか分からない。
 そもそもこいつは、左足で踏むのか、右足で踏むのかさえ分からない。運転中は左足はどこにおいて置けばいいのだろう。

 意外の第二は、ギアシフト・ノブが、「D」レンジや「R」レンジに入れると、すぐにもとの位置に戻ってしまうこと。
 これも、「D」なら「D」にちゃんと入っていることが目で見えるランクスのほうがぼくには安心である。

 意外の第三は、「P」ボタン。
 わが家に到着して、駐車スペースに縦列駐車でとめた。後方視界は悪そうな印象だったが、意外と気にならなかった。他人様の、それも乗り慣れない3ナンバーのクルマなので緊張したが、さすがに入れなれているせいか、一発で収まった。
 止まったところで、どのくらいの収まり具合か確かめるために、降りてみようとしたら、営業さんが慌てて「P」ボタンを押した。こいつを押さないとパーキングにはならないのだった。
 
 意外の第四は、これが最も印象的だったが、発進、そして走行する時の独特の走行感覚。
 モーターファン別冊『新型プリウスのすべて』では、「“電気感”が全体を覆うのが新型だが」、「実際の走行では、“電気感”が、これまで以上に凄い」、「普通に走っても常に濃厚な“電気感”を伴う」などと、“電気感”という表現が頻出するが、この“電気感”を体感した。
 とにかく従来のガソリン・エンジンとはまったく別物であった。

 当日は、カローラ店からわが家まで10分くらい走ったが、結構渋滞していたので、せぜい40km/h程度しか出せなかった。ひょっとすると、この間すべてがモーターによる走行だったのかもしれない。
 ブレーキを踏んでアイドリングが停止したことも、再びアクセルを踏んで再発進した時も、まったく何も意識しない。
 静かに、ゆったりと発進し、そして流れるように走っていく。まさに近未来的な感覚だった。

 カローラ(ランクス)が20世紀最後のクルマなら、プリウスは21世紀最初のクルマかもしれない。
 わが家のクルマの原点はスバル360だったので、ぼくのクルマ人生最後のクルマもスバルにしようと思っていたのだが、プリウスもいいな、という気持ちになってしまった。

 ただし、図体は少し大きすぎる。前にも書いたように、『ベストカー』の9月26日号によると、来年1月に発売されるホンダのCR-Zに対抗して、トヨタはプリウスのクーペを出すという。同誌によれば、車高は1350mm、全長は4260mm程度になるらしい。
 300万円超という値段と、2ドアは辛いけれど、プリウス・クーペのコンパクトさに期待しよう。 

 車検上がりのランクスには何の不満もないのだが、今でも時おり、あの“電気感”が蘇ってくる。

 * 写真は、トヨタ・プリウス。試乗したのはダークブルーだったが。

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きょうの軽井沢(2009年9月16日)

2009年09月21日 | 軽井沢・千ヶ滝
 
 9月12日(土)から、きょう16日(水)まで、軽井沢に行ってきた。

 夏休みも終わりに近づいた9月初旬に頼まれた原稿を、一気に仕上げるための、山篭りである。
 締め切りは10月末日だったが、原稿を抱えて新学期を迎えたくないので、新学期前に書いてしまうことにした。

 到着した12日は雨。南軽井沢の交差点を左折したところの気温表示では14℃しかなかった。
 この5日間は、ほとんどいつもセーターを着てすごした。夜は毛布がないと寒いくらいだった。

 自炊なので、朝食後3時間、昼食後3時間、夕食後2時間を執筆に当てることにした。
 夕食後の執筆が終わったら、ゼミ生に勧められて飲み始めた芋焼酎“黒霧島”を飲みながらDVDを観て、風呂に入って寝る。
 テレビもなく、ラジオで甲子園の中継があるわけでもないので、仕事ははかどり、15日の昼すぎには書き上げた。

 やることもないので、昼食は追分そば茶屋で天ぷら蕎麦を食べる。帰り道にガソリンスタンドに寄って給油と洗車。
 満タン法で計算すると、16.9km/Lだった。山中湖、軽井沢と、高速が多かったにしても、最近のベスト・レコードである。

 * 写真は、きょうの帰り道に横川のSAから写した妙義山。かつては、眺めるたびに奇妙な形をした山だと思ったが、今では何の感慨もない、ただの風景である。
 カメラの電池が切れてしまったので、今回はこの1枚だけ。
 2009/9/16

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軽井沢町カレンダー2007年

2009年09月21日 | 軽井沢・千ヶ滝
 
 今日もネタなしのために、わが家の壁に貼ってある軽井沢町のカレンダーをアップ。去年もらったものもあと2か月弱を残すのみ。 
 昔は9月になって中軽井沢駅に行くと、夏の間軽井沢のあちこちに貼られていたのと同じ“そよかぜ号”の大きなポスターなども貰うことができた。
 軽井沢で貰うことができなかったポスターは、中軽駅前の桐万薬局のショー・ウィンドウに飾ってあった小林麻美のポスターだけかな?

2007/2/4

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“雨の欲情”

2009年09月21日 | 映画
 
 軽井沢到着初日のDVDは、ジョーン・クロフォード主演“雨の欲情”。
 
 9月12日(土)の夜は軽井沢も結構激しい雨。モームの熱帯の雨とは違うけれど、晴れた日に観るよりは、内容に似つかわしい天気であった。

 “雨の欲情”は、言うまでもなくサマセット・モームの「雨」の映画化である。

 南洋航路の船が、疫病の流行のためにパゴパゴで2週間の足止めを食う。この島にはホテルがないため、乗客たちは商人の家に間借りすることになる。
 その中に、語り手であるモームを思わせる医師夫婦、謹厳かつ敬虔(そうな)宣教師夫婦と、そしてハワイで売春婦だった女サディー(ジョーン・クロフォード)が居合わせる。

 降り続く雨の中、サディーは船乗りや、軍人を部屋に招き入れる。これを苦々しく思った宣教師は、総督に依頼して女をハワイに強制送還させようとする。
 女は、シドニーへ行き、そこで人生をやり直そうとしていた。そのため、ハワイへの送還に抵抗するが、宣教師に折伏されて、最後には悔い改めて、ハワイで刑に服することを決意する。
 ところが、送還される前夜、激しい雨の中、宣教師は欲情に負けて、女に関係を迫る。

 翌朝、雨も上がった浜辺に、宣教師の自殺した遺体が流れ着く。
 悔い改め、刑に服する覚悟だった女は、再び自堕落になり、「男なんてみんな同じ、豚だ!」と叫ぶ。

 モームはこの映画を嫌っていたと何かで読んだ気がするが、ストーリーは、ほぼ原作を忠実になぞっている。
 東京に戻ってから、改めて原作を読んでみると、雨の描写などは映画のほうが雰囲気が出ているような気がする。
 でも、どっちにしろ、宣教師が元売春婦と関係を持ったのは、雨のせいではないだろう。
 夫の自殺を知った宣教師の妻の悟りきったような態度からすると、この宣教師がこんなことをしたのは、これが初めてではなかったのかもしれない。


 このDVDには、水野晴郎さんの現地レポートや、TV放映時の解説などと一緒に、グロリア・スワンソン主演の無声映画時代の“港の女”のハイライト版も収められている。
 
 “港の女”も同じモームの「雨」の映画化である。ストーリーも、“雨の欲情”と同じく、ほぼ原作に忠実である。
 ぼくの個人的な趣味としては、ジョーン・クロフォードよりはグロリア・スワンソンのほうが美しい。しかし、美しい分だけサディーのあばずれさが出ていない。“港の女”のほうの宣教師は、無声映画なので仕方ないらしいが、表情の演技が凄すぎて、関係を迫る前の目つきなどはただの色情狂である。

 キネマ旬報の『アメリカ映画作品全集』によると、モームの「雨」は、戦後もう一度、“雨に濡れた欲情”として映画化されたらしい。
 1953年作で、リタ・ヘイワーズ主演だが、“雨の欲情”には到底及ばない作品と書いてある。

 * 写真は、ルイス・マイルストン監督“雨の欲情”(1932年、アメリカ。原題は“Rain”)のケース(KEEP版“水野晴郎コレクション”)。 

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風立ちぬ--新聞に現われた軽井沢・2

2009年09月08日 | 軽井沢・千ヶ滝
 
 今年の夏、新聞に現われたもう1つの軽井沢は、松田聖子の「風立ちぬ」。

 朝日新聞9月5日付、“be on Saturday”e1面の記事。

 “うた(song)の旅--長野・軽井沢”というコーナー。
「普通のアイドルに決別--松田聖子《風立ちぬ》」と題された今週の記事は、松田聖子「風立ちぬ」の裏話から始まる。

 1981年8月、信濃町のスタジオで松本隆作詞、大滝詠一作曲のこの曲を渡された松田聖子は、最初この曲を歌うことに難色を示したという。
 CBSソニーの担当ディレクターは、アイドルから脱皮させるために、意図的にこの曲を与えたのだという。
 
 「信濃町のスタジオ」。懐かしい…。
 1981年当時、ぼくはまだ信濃町(正確には須賀町)にある出版社で編集者をしていた。
 毎朝通勤で降り立つ信濃町駅のホームから北側を見上げると、カルピスの創業者の豪邸や、赤レンガ色のソニーのスタジオが聳えていた。
 松田聖子も四谷四丁目にあったサン・ミュージックの所属だったから、ずいぶん地理的にはぼくの近くにいたのだ。

 桜田淳子ほどではないが、松田聖子も嫌いではなかった。
 映画『野菊の墓』も中学生の姪と一緒に見に行った。
 「風立ちぬ」も好きな曲だったが、こんな歴史があったとは知らなかった。朝日新聞の記者はどこからこんなエピソードを見つけてくるのだろうか?

 この記事で一番驚いたのは、作詞した松本隆の語るこの曲誕生のいきさつである。
 なんと、彼は、中学校の修学旅行で(!)、万平ホテルから離山通りを星野温泉に向かったのだそうだが、その万平ホテルのカフェテラスをイメージして作ったのだという。
 そんな修学旅行をするのは、いったいどこの中学校なんだろうか。

 いずれにせよ、この記事にも、あの万平ホテル(旧館?)の食堂のテラスの写真が飾られている。制服姿の清楚な女の子が椅子を片づけている姿が見える。
 一昨年の暮れに母を連れて、当時はまだ東急ハーベストクラブで使うことができた万平ホテルに泊まったときも、朝食に行くと、あのテラス席のテーブルに、独り座って物思いにふけっている女性がいた。

 あのあたりは、今頃は、まさしく「いまは~秋 ♪」だろう。

 * 写真は、「普通のアイドルに決別--松田聖子《風立ちぬ》」(朝日新聞2009年9月5日付 e1面)。
 ちなみに、ネットで調べたら、松本隆の出た中学は慶応中等部だった。なるほど…。

 2009/9/8

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三笠ホテル--新聞に現われた軽井沢・1

2009年09月06日 | 軽井沢・千ヶ滝
 
 今年の夏、軽井沢に関する新聞記事を二度見かけた。

 1つ目は、毎日新聞8月19日付、全国版19面“文化”欄の、“権力の館を歩く--長野・軽井沢町別荘地”と題した記事。

 筆者は御厨貴東大教授。記事のあとがきによると、専門は日本政治史・建築と政治とある。
 「政治と建築」なんていう専門領域があり、御厨氏がそれを専門にしているとはまったく知らなかった。

 確かに、かつて読んだ長谷川堯の『建築の現在』とか『神殿か獄舎か』には建築物と政治の関係は描かれていた。しかし、それはあくまで建築家の目から見た建築物の政治性であって、「政治と建築」というほどのものではなかった。
 例えば、最高裁判所の新庁舎のコンペティションの際の条件が、最高点の海抜を国会議事堂と同じにすることだったと紹介されていた。
 三権分立の理念が、立法府と司法府の建物の高さが同じであることを要求すると、最高裁のお役人は考えたのだろう。 

 さて、「政治と建築」の学問としての可能性はさておいて、この御厨氏のエッセイは、軽井沢の歴史というか過去を語るものとして面白かった。

 敗色濃い第二次大戦の末期に、近衛文麿、東郷茂徳、伊東治正(巳代治の孫)らが、軽井沢で繰り広げた終戦工作を素描する。
 確かに建物を中心に描いている。
 近衛の別荘のある通称“近衛レーン”の突き当たりに伊東巳代治の別荘“翠雨荘”があり、近衛の山荘との間に東郷の別荘がある。さらに、一本隣りの“鳩山通り”には鳩山一郎の別荘もある。
 特高や憲兵が目を光らせる中、彼らは庭越しに各自の別荘を行き来して、和平工作を密議した。

 さらに、三笠通りを少し行った先の三笠ホテルには外務省の軽井沢出張所が開設され、通りを挟んだ向いにはスイス公使館が疎開していた。

 いずれにしても、ここ軽井沢で交わされた密議は、下界では実現することなく、日本は原爆を投下されてようやく降伏することになる。
 御厨氏は、これを「霧に消えた和平交渉」と表現する。近衛レーンのあたり、旧軽井沢はまさに霧の名所である。
 近衛や東郷たちが霧に隠れて、庭先から相手宅を訪問するというのは、いかにもありそうな話である。
 このエッセイは、敗戦前後の軽井沢を素描するだけでなく、旧軽井沢の霧を描いたエッセイともいえる。

 かつて読んだ、水村美苗『本格小説』に致命的に欠けていた戦争中の旧軽井沢の一側面を知ることができる読み物である。

 * 写真は、御厨貴「権力の館を歩く--長野・軽井沢別荘地(戦中編)」(毎日新聞2009年8月19日付)

 2009/9/6

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“フィラデルフィア物語”

2009年09月03日 | 映画

 合宿2日目の8月31日(月)、夜。

 ゼミの学生たちは、ひそかに(といっても半公然と)飲み会をやっている。
 ぼくは、学生たちの酒の飲み方と騒ぎ方が嫌いなので、付き合わない。

 夕食後、9時過ぎに部屋に戻って、入浴後は、DVDを見る。

 持ってきたのは、ケーリー・グラント他“フィラデルフィア物語”、サム・ペキンパー監督“荒野のガンマン”、ヘンリー・フォンダ“牛泥棒”の3本。
 西部劇を見る気分にならなかったので、“フィラデルフィア物語”を見ることにした。

 解説の水野晴郎が「ソフィスティケイテッド・コメディ」と言うので、“ティファニーで朝食を”のようなお洒落なストーリーを期待していたのだが、見事に裏切られた。

 キャサリン・ヘップバーンをめぐって、ケーリー・グラントとジェームス・スチュアートが競い合うのだが、キャサリン・ヘップバーンにまったく魅力がないのである。

 エラの出た頬、きつい目つき、骨ばった体つき。性格も悪い。
 こんな女と離婚しておきながら、ヨリを戻そうというケーリー・グラントの気も知れなければ、こんな女に恋をするジェームス・スチュアートの気も知れない。
 台詞もあまり洒落ていない。
 30分で嫌になり、1時間でやめて寝ることにした。

 程よい“ナイト・キャップ”になったらしく、朝7時55分まで爆睡してしまった。
 朝食は8時から。
 常々、学生たちに「何時まで飲もうと勝手だが、朝食の時間にはちゃんと顔を出せ!」と言っている手前、自分が遅刻するわけにはいかない。
 きわどいところで間に合った。

 * 写真は、“フィラデルフィア物語”(1940年)、“水野晴郎のDVDで観る世界名作映画”(Keep)のケースカバー。

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山中湖の白鳥・2

2009年09月02日 | あれこれ

 山中湖の白鳥。
 前のものではよく見えないので、アップしたものを…。

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山中湖の白鳥

2009年09月02日 | あれこれ

 もう一枚、台風の雨が降りしきる中、山中湖の湖面を泳いでいた白鳥(たぶん)の写真をアップしておく。

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山中湖、ゼミ合宿

2009年09月01日 | あれこれ

 今年も恒例の、山中湖ゼミ合宿に行ってきた。

 総選挙の投票が行われた8月30日(日曜日)、正午に吉祥寺、三鷹で学生を拾って出発。
 調布ICから中央高速に乗り、大月からは東富士自動車道経由で、山中湖出口へ。

 「渋滞予測」では12時台で、国立府中から相模湖まで15kmの渋滞、所要時間1時間15分となっていたので覚悟して出かけた。
 しかし、雨が降っていたのと選挙のせいか、渋滞はまったくなく、談合坂SAで30分近く食事の時間を取ったのに、2時すぎには山中湖に到着。約120kmのところを2時間弱で到着。

 翌8月31日(月)は朝から雨。時折り結構激しく降る。
 午後5時半までに雨が上がれば、屋外の庭でバーベキューの予定だったので、どうなることかと心配したが、5時頃には雨は上がり、夕陽すら差しはじめ、富士山も頂上まで姿を現してくれた。

 * 写真は、8月31日(月)の夕方、山中湖から望んだ富士山の夕景色。

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