豆豆先生の研究室

ぼくの気ままなnostalgic journeyです。

笠置シズ子を見かけた 昭和の世田谷

2024年01月21日 | 玉電山下・豪徳寺
 
 NHKテレビ、朝の連続ドラマで笠置シズ子をモデルにしたドラマが放映されている。ぼくは子どもの頃に、一度だけ笠置シズ子ご本人を見たことがある。

 赤堤小学校3年か4年の頃、同級生3人と一緒に、そのうちの一人のお兄さん(松沢中学校か早稲田高等学院の生徒だったと思う)に連れられて、駒沢球場(現在の駒沢公園の一角にあった)に野球を見に行った。
 玉電山下から小田急線豪徳寺駅のガード下をくぐって、宮の坂に向かって玉電(東急世田谷線)の線路沿いをテクテク歩き、上町あたりから玉電の線路を外れて南に向かったのだろう。
 その道すがらの住宅街に、広い庭を家庭菜園にした民家があって、その菜園でしゃがんで土いじりをしている普通のおばさんがいた。友だちのお兄さんが、「あれは笠置シズ子だ!」と言った。笠置シズ子という名前は知っていたが、どんな人かは知らなかった。
 大した興味もなかったが、70歳を過ぎた今でも覚えているのだから何がしかの印象は残したのだろう。しゃがんでいるおばさんの姿が写真的映像で脳裏に残っている。ただし、それが本当に笠置シズ子だったのか、「笠置シズ子」風のおばさんだったのかは分からない。「笠置シズ子だ!」といったお兄さんは茶目っ気のある人だったから小学生の弟たちをおちょくったのかもしれない。昭和33、4年頃に、彼女が世田谷の駒沢公園近くに住んでいたとしたら、おそらくご本人だろう。

    

 駒沢球場は東映フライヤーズの本拠地で、外野席の子供料金は50円だった。コロッケが1個5円、紅梅キャラメルも1箱5円の時代だから安くはない。
 その日は、東映と近鉄パールスの試合をレフト側外野席に座って見た。目の前に東映のレフトかセンターを守っていたラドラの背番号44を見た記憶がある。これも写真的な記憶である。近鉄のバッテリーは、投手がミケンズ、捕手がボトラだった(と思う)。外国人同士のバッテリーなど、その後いただろうか。

    

 手元に雑誌「日の丸」昭和37年5月号付録(集英社)の「野球の手帳」というのが残っている(上の写真)。これを見ると、ラドラ、ミケンズは載っているが、ボトラは載っていない。ぼくが駒沢球場に行ったのは昭和33年か34年だから、ボトラはその後アメリカに帰ってしまったのだろう。
 昭和36年には東映の監督は水原茂で、パリーグ2位だったらしい(優勝は南海ホークス)。それまでの東映は万年5位(最下位はいつも近鉄)だったが、監督が代わって一気に強くなったのだろう。
 写真入りで紹介されている選手は、尾崎行雄(「憲政の神様」ではないほう)、土橋正幸、山本八郎、張本勲、毒島(ぶすじま)章一の5人。監督紹介欄には住所が載っているが(大田区田園調布xのxx)、尾崎、土橋らは世田谷区新町の合宿となっている。土橋は日本橋高校卒の江戸っ子だったが、山本八、張本、尾崎は浪商出身だった。
 ラドラは外国人選手としてはあまり大きくはなかった記憶があるが、「野球の手帳」で調べると、身長は1m77cmとある。張本が1m80cmとあるからそれほど小さかったわけではなかったらしい。出身校はフレスノ州立大とある。カリフォルニア州立大学フレスノ校だろう。色が浅黒くてヒスパニック系かラテン系の印象がある。

 実はもう一人、家庭菜園を営む女優を見たことがある。望月優子である。ぼくが中学生だった頃、中央線の西荻窪駅から少し荻窪方面に行ったところに彼女の家はあった。   
                 
 青梅街道の荻窪警察署前から南に5分ほどまっすぐに下り坂を歩くと中央線の線路にぶつかる。昭和37年当時の中央線は地上(地面)を走っていて踏切があったが、その踏切の手前右側に彼女の家があった。
 笠置シズ子と同様、庭の一角が家庭菜園になっていて、そこで彼女が土仕事をしていたのを通りがかりに見かけたことがあった。
 彼女はテレビのドラマ番組などに時おり出演していたが、小津を見るようになってからは「小早川家の秋」で、笠智衆と夫婦役で出ているのを見た。火葬場の煙突から登る煙を見上げて、「人間なんて虚しい」式の台詞を吐いていたと思う。あまり好きな場面ではない。
 どういう経緯かしらないが、わが家には望月の「おかあさん」というLPレコードがある(上の写真)。聞いたこともないが、何が収録されているのだろうか?

 なお、冒頭の写真はもらい物のクッキー。真ん中に今年の干支である龍の(落とし子の)形をしたクッキーが入っていた。

 2024年1月20日 記 

 ※当時の山下(ないし豪徳寺)には田端義夫も住んでいた。家から赤堤小学校に向かう通学路の途中にあった(松原と宮の坂を結ぶ道路と交差する十字路に面していた)。棕櫚だか椰子だかの木が庭に植えられた、当時としては豪邸だった。
 通学路には、「えいらい・じゅうめい」(放送作家だったらしい。表札の表記は平がなだった)や、内藤博文(巨人、後に千葉茂らと一緒に近鉄に移籍した内野手)、山内和弘(大毎オリオンズの背番号8)の家もあった。
(2024年1月21日 追記)

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アド街ック天国 豪徳寺

2021年04月24日 | 玉電山下・豪徳寺
 
 テレビ東京の「アド街ック天国」で豪徳寺をやっていた。

 「豪徳寺」というカテゴリーを立てている以上、ふれないわけにはいかない。
 でも正直なところ、「この町、どこなの?」だった。新しくできた店ばかりがやたらに多くて、「豪徳寺」らしさはまったく感じられなかった。
 軽井沢だけでなく、豪徳寺もぼくにとっては「幻の」豪徳寺になってしまった。というより、ぼくにとってはあの一帯は、もともと「豪徳寺」というよりは「山下」だったのだが。

 さて、ぼくは、昭和25年に世田谷区世田谷2丁目、「お不動さん」(お不動山?)のすぐ下、まさに「山下」の、玉電の線路から3軒目の古家で生まれた。
 田所さんというお産婆さんの手で取り上げられ、産声を上げた。近所の子どもの大部分が、生まれる時にはこのお産婆さんのお世話になった。山下の住宅密集地の狭い路地で遊んでいると、黒衣の産婆服をまとい自転車に乗って通りかかった田所さんから、「おお、お前、真っ赤な顔して泣いてたくせに、大きくなったな」などと冷やかされたりした。

 お不動さんの北側の坂道を下った右手に田所産院があり、少し先に斉藤工務店があり、どぶ川を渡るとウワボ(上保)菓子店があった。「紅梅キャラメル」を買いに行った店である。
 数年前の(と書いて心配になったので、ネットで調べると「ちい散歩」は2012年5月に終了していたから、今から十数年前かもしれない)テレビ朝日、地井武男の「ちい散歩」で豪徳寺をやっていたときは上保商店も登場した。
 昨夜の番組では、あのどぶ川は暗渠になっていて「北沢川緑道」などと呼ばれていたが、昭和30年ころのぼくたちは、玉電山下駅の松原寄りにかっかった橋から川岸の土手を降りて、どぶ川の幅30㎝くらいのコンクリの川縁を歩いて、「トミヤ洋品店」の裏手を通って、「上保」裏の橋の下から地上に上ったり、時には逆方向に経堂駅の方向に歩いたりして遊んだ。ささやかな冒険のつもりだった。 
 この川は大雨が降ると溢れて浸水したこともあったが、普段の水かさは大したことはなかった。そのせいか、誰にも叱られたり、注意されたりすることもなかった。
 
 ウワボの正面左手にモロ(茂呂or毛呂)運送店があり、ウワボを右折して豪徳寺駅方面に向かうと、右手にパン屋の「ヤナセ」、「トミヤ洋品店」があり、左手に「トバリ(戸張)玩具店」(当時は駄菓子屋だった)、名前は忘れた文房具屋があり、その横に、お釈迦様の花祭りに行ったお寺に通じる小道があった。幼稚園も付設されていた。

            

 昨夜の「アド街」にでてきた中華そば屋の「代一元」もこの辺りだった。店内に、チャイナドレスを着た美人画のポスターが貼ってあって、小学生だったぼくはその女性に恋をした(ような記憶がある)。
 当時、ぼくの家では夜8時に必ず寝かされていたのだが、ある土曜日にお隣りのお宅にお泊りさせてもらったことがあった。夜の10時近くにラーメンの出前を取ってくれて、隣りの部屋で麻雀をやっていたおじさんたちと一緒に食べたことがあった。こんな夜遅くまで起きていていいだけでなく、ラーメンまで食べさせてくれる家もあるのだと感動した。60年以上たった今でもその夜のことを思い出す。
 たぶん「代一元」のラーメンだったと思う。

 平和不動産という不動産屋もこの辺りの角にあった。ラジオの株式市況で「平和不動産、できず」などといっているのを聞いて、この不動産屋はラジオにも出てくるほど有名なんだと思っていたが、「平和不動産」は敗戦後の日本中のあちこちにあったのだろう。
 その角を曲がると、模型屋があり、少し先が豪徳寺駅の東側(梅ヶ丘駅側)上り階段だった。対面に2階建ての「岡歯科」があり、ガードをくぐって少し行くと、かかりつけだった「加藤医院」があった。

             

 上保前の道に戻って、豪徳寺駅西側(経堂側)上り口に向かうと、平和不動産の向かいの、これまた川沿いに八百屋があり、いつも割烹着姿の元気のよいおばさんがいた。お使いに行ってお金が足りないと「30円足んなかったってお母さんに言っときな」と言って、野菜を渡してくれた。
 豪徳寺界隈は関東大震災で被災した下町の人たちが移り住んでできた町だというから、下町育ちのおばさんだったのだろう。

 八百屋の道を横切ると、当時としてはめずらしい雑居ビルがあって、その隣りが和菓子の「室まち」だった。昨夜の番組で出てきた店で、ぼくが知っているのは「代一元」とこの「室まち」の2軒だけだった。「室まち」の当主は「室町」さんではなかった。
 「室まち」の娘さんがNHKのアナウンサーになったと近所の人が言っていた。その室町アナがNHKを退職後に、軽井沢で和食屋を開いていたことは前に書き込んだ。最近の軽井沢の地図を見ると、国道146号(?)を星野温泉の手前で少し西に入ったところにあったその「室町」も今はもう載っていない。

 「室まち」の向かいに「石川屋肉店」があり、わが家の土曜の昼食はいつもここのコロッケだった。杉浦茂「コロッケ五円の助」の時代で、コロッケはまさに1個5円だった。「コロッケ五円の助」の姿は記憶に定かではないが、ぼくの息子や孫たちが見ていたマンガに出てくる「コロ助」というキャラクターに似ていたように思う。「コロ助」は名前からして、ひょっとすると「コロッケ五円の助」のオマージュなのだろうか。

 「室まち」の並びの、豪徳寺駅西側階段(今は平地になって招き猫などが置いてあるが、昔は10数段の石段があった)の正面が人形焼の「明菓堂」だった。何年か前に行ったときはシャッターが下りていたが、昨夜の番組では建物自体がなくなってしまっていた。 
 明菓堂を右折して玉電山下駅に向かう路地にある中華料理の「満来」も赤堤小学校の同級生の店だった。この路地の左手には「フクヤ洋品店」、帽子屋、書店、そして家具製作所が並んでいて、木工品を削る電動工具の音が響き、木のかおりが路地に漂っていた。

 豪徳寺駅西側(経堂寄り)のガードをくぐって、坂道を宮の坂方面に少し上ると、左手に「上の市場」と呼ばれるマーケットがあった。地面が土間のままのマーケットだった。その一番奥に書店があり、新刊書(といっても「少年」だの「少年画報」だの「野球少年」だが)はここで買った。
 「上の市場」の並びには貸本屋があり、前にも書いた「褐色の弾丸、房錦物語」はここで借りた(と思う)。確か房錦のお父さんは相撲の行司だった。もう1軒のおもちゃ屋も近くにあった。買った当初はいい匂いがするカラフルなビニール・ボールを買った。
 お手伝いさんに連れられて、宮の坂駅近くの神社のお祭りに行って、お神楽を見たこともあった。つまらなくて早く帰りたかった。
 映画「力道山物語」を見たのは松原駅に近い六所神社の境内で、白いスクリーンが秋風に揺れていた。二所ノ関部屋に入門したが稽古が厳しくて(のちの大関)琴ケ浜と一緒に脱走したエピソードがあったのを覚えている。映画の「月光仮面」を見たのは経堂駅南口にあった南風座だった。子ども心にドクロ仮面が不気味だった。

 豪徳寺には生まれてから昭和35年3月まで、ぴったり10年間住んでいたが、「豪徳寺」には一度も行ったことがなかった。いまだに行ったことがない。
 昨夜の「アド街」によると、豪徳寺は彦根藩主の菩提寺だそうで、ぼくの父方の祖母は彦根藩士の娘だったから、縁がなくもなかった。それでも行ってみたいという気持ちは湧かなかった。幼いころの思い出がないからだろう。招き猫も「?」である。

             

 もう一つ、昨夜の「アド街」では取り上げなかったが、豪徳寺には尾崎行雄の旧宅が残っており、2人の女流漫画家がその保存運動をやっていると、以前東京新聞に載っていた。
 きれいな水色のレトロな洋館だが、今豪徳寺で一番旬の話題と言ったらこの「尾崎行雄旧宅」だろう。ぼくも一度見ておきたいと思っているのだが、なんで取り上げなかったのか。テレビなどで取り上げられて、有象無象が押し寄せるのを保存に携わる人たちが嫌ったのだろうか。
 
 尾崎行雄つながりで、今朝のNHKラジオを聴いていたら、ハナミズキが話題になっていた。
 ハナミズキは、大正時代に東京市長だった尾崎行雄がアメリカに桜を贈呈した返礼としてアメリカから贈られた外来種で、学名はアメリカ・ヤマボウシ(山法師?)というそうだ。家内に自慢したら、「そんな話は有名じゃない」と一喝されてしまった。
 ハナミズキは、東京では本当は5月の連休ころに咲く花で、それが4月に咲くのはやはり地球が温暖化しているのだろう。なお、白く咲いているのは「花」ではなく葉っぱ(「ほうよう」と言っていたが「包葉」か?)だそうだ。

 玉電の車両も、芋虫型の原形はとどめているが、ヨーロッパの路面電車みたいに綺麗になってしまって、昨夜の「アド街 豪徳寺」は、ぼくとはほとんど無縁になってしまった別の町の話みたいだった。

 ぼくの山下商店街の思い出は、商店街のスピーカーから流れていた三橋美智也「夕焼けトンビ」(?)や、美空ひばり「花笠道中」、そしてラジオから聞こえてくる竹脇昌作の独特の抑揚の声(ニッポン信販のクーポン ♪ ♪というCMソング)とともにある。
 両親と見に行った「喜びも悲しみも幾年月」で覚えた「おーいら 岬のー 灯台守はー 妻と二人ーでー 沖行く船ーのー 無事をー 祈って 灯をかーざす 灯ーをかざすー」という主題歌を大声で歌いながら山下界隈を練り歩き、町行く人の笑いを誘った。ぼくより1歳年上の東京新聞の解説委員が、小学2年生でこのヒット曲を暗唱したという自慢話を記事に書いていたが、ぼくも今でも歌うことができる。

 最近になって、YOUTUBEでベルト・ケンプフェルトの「真夜中のブルース」をたまたま聴いたところ、あのイントロに続くゆったりとしたトランペットの音色も、ぼくを昭和30年ころの山下商店街にワープさせてくれることに気づいた。あの頃、山下商店街のスピーカーから流れていたのだろう。
 ぼくの海馬は、最近のことはちっとも保存しなくなってしまったが、昔のことにかけてはけっこう健在である。

 2021年4月24日 記


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まだまだ続く豪徳寺 -3 わが生家の跡

2010年07月18日 | 玉電山下・豪徳寺
 
 ぼくの子どものころは、豪徳寺近辺は小さな民家が立ち並ぶ庶民的な住宅街だったが、今では、もちろん民家もあるけれど、基本的に学生用のアパート街になってしまった。

 かく言う私の生家の跡にもワンルームくらいの2階建てのアパートが軒を接するように2軒立っている。
 隣りの家も裏の家も同じような状況で、もはやどの辺がわが家の敷地の境界だったのかも分からない。

 わが家の近所の寿司屋で、同級生の子がいたFさんの寿司屋はなくなっていたが、Fという表札の家は残っていた。
 当時、このFさんが所有するアパートに、Mさんという今でいうなら「お水」系らしい女性が住んでいた。夕方になると、Mさんは派手な衣装と化粧でアパートの門口に現れ、ぼくたちが遊んでいるわきを抜けて豪徳寺駅の方へしなしなと歩いていった。
 その手の人が持つ四角い化粧バッグを腕に提げて、漫画の“ベティーちゃん”が大人になったような人だった。

 当時ぼくは巨人の宮本敏雄選手が好きで、自分のユニフォームの背番号にも40番をつけていた。そのせいもあって(?)、ぼくはMさんが通りかかるといつも緊張した。そして、その緊張を一緒に遊んでいる友達に気取られないように取り繕わなければならなかった。
 実は一緒に遊んでいた友達もみんな、彼女のことを相当意識していたのだった。

 ぼくがトリュフォーかフェリーニだったら、ぼくの自伝的な映画に絶対にMさんを登場させるだろう。
 演ずる女優さんは誰がいいだろうか。“ペーパー・ムーン”で、ライアン・オニールが引っかけた女を演じていた女優さんのような感じなのだが。

 いつの間にか50年が過ぎて、ぼくは当時のMさんよりも、おそらく2倍以上の年になった。

 2010/7/9 撮影

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まだまだ続く豪徳寺 -2 人形焼の明菓堂

2010年07月18日 | 玉電山下・豪徳寺
 
 この店は、昭和30年代の人ならずとも知られた豪徳寺の有名店だろう。

 豪徳寺駅の(北口?)改札を出ると、真ん前にあって店先から玉子とメリケン粉(?)が混ざって焼ける匂いがプーンと漂っていた。
 人形の形は大福様とか恵比寿様とかいった古典的なものだった(と思う)。

 店内でも食べることができ、店にはいつもおばあさんがいたような気がする。
 店内の匂いが記憶に残っている店では、この人形焼の他にも、コロッケを揚げる匂いが漂っていた石川屋、“蔵王屋豆腐店”(この店も同級生の家だった)、名前は忘れてしまったが牛乳屋などが思い浮かぶ。
 牛乳屋は子どもの背丈くらいの高さまで壁に白いタイルが貼ってあり、大きな銀色の冷蔵庫が置かれていて、注文すると分厚くて重そうな扉を開けて、なかから牛乳を取り出した。アイスクリームも売っていた。「匂い」というより、ひんやりとした冷気が印象に残っている。

 小津安二郎の映画の中には、こんな昭和30年代の商店街の佇まいが描かれたシーンはないだろうか。彼の映画には、撮影当時は何でもないような風景だが、今となっては「よくぞ映像に残しておいてくれた!」といったシーンがたびたび登場する。 

 話は戻って、明菓堂だが、先日歩いた時はシャッターが閉っていて、並びのモス・バーガーで喋った豪徳寺在住の友人の話では、最近は営業をしていないらしい。
 マクドナルドやモス・バーガーなどにお客を食われてしまったのだろうか・・・。

 2010/7/9 撮影

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まだまだ続く豪徳寺 -1

2010年07月18日 | 玉電山下・豪徳寺

 せっかく雨の中で写真をたくさん撮ってきたので、豪徳寺ネタをもう少し。

 豪徳寺商店街そぞろ歩きのつづきは、おもちゃ屋の“とばり”。
 ここは、くだんの友人が店主に尋ねたところ、昭和33年だか34年だかに開店したという。

 ぼくが豪徳寺に住んでいたのが昭和35年までだから、時期はあっている。
 そして、ぼくの記憶でもあの辺りにおもちゃ屋がった。先日通りかかった時は、エポック社などのブランド物が店頭に置いてあった。

 当時(昭和30年代)は、正月にお年玉をもらうと、その店か通称「うえの市場」近くの玩具屋で小出信宏社や任天堂の玩具やゲームを買った。
 しかし、日常的に買ったのは、三角ベースをやるためのゴムまりくらいだった。いずれにしても、かつてはもっと駄菓子屋風のジャンクな(?)店だったように思う。
 
 前に書き込んだ西鉄ライオンズの稲尾和久投手がボタ山の前で投球練習しているブロマイドは、この店の籤であてたはずである。
 古新聞を20センチ角くらいに切って三方を(二方だったかも)糊で閉じた手製の袋の中に野球選手のブロマイドが1枚づつ入っているのが、数十枚束ねてビニール紐で柱の鉤からぶら下がっていた。
 店の人にお金を払ってから、目星をつけたやつをビリッと紐からちぎって取るのである。

 中味を覗こうと思えばまったく不可能ではなかったが、覗かないのがルールだった。お気に入りの選手が出てくれば喜び、しょうもないのが出た時はがっかりする。
 そのこと自体も楽しみだったのだろう。

 そんな店があったのだが、それが今も残る“とばり”さんなのだろうか。ちなみに、玉電の線路方向に少し歩いたところに「戸張」という表札の家もあったように思うが、記憶違いだろうか。

 2010/7/9 撮影

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久しぶりの豪徳寺-14 “室まち”

2010年07月12日 | 玉電山下・豪徳寺
 上保菓子店から豪徳寺駅の方へ戻る右手にある和菓子屋さん。

 そこの娘さん(といってもぼくより年上だと思う)が、NHKのアナウンサーになったと聞いた。ひところ室町アナウンサーという人が確かに画面に出ていた。

 そして軽井沢の食べ物ガイドブックを見ると、星野温泉近くにある“室町” という日本料理屋が、同名の元NHKアナウンサーの経営だと紹介されている。

 ぼくの記憶と風の噂が間違いでなければ、これらは同じ人物ではないかと思うのだが。

 2010/7/9 

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久しぶりの豪徳寺-13 “上保商店”

2010年07月12日 | 玉電山下・豪徳寺
 
 お不動さんから東に向かうと、かつてはドブ川が流れていて、そこにかかる橋を渡ると、右手が“ウワボ菓子店”だった。

 紅梅キャラメルをせっせと買いに行った店である。お目当ては中に入っている野球カードで、キャラメルの方は裏のドブ川に捨ててしまうこともあった。
 その紅梅キャラメルの本社兼工場はウワボの前の道を東松原方面に10分弱歩いたところにあった。
 何度か景品の交換に行ったことがある。

 いまでは“豪徳寺煎餅 上保商店”という看板が掛っている。

 2010/7/9

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久しぶりの豪徳寺-12 “お地蔵さん”

2010年07月12日 | 玉電山下・豪徳寺

 そのお不動さんの境内の東のはずれに立っているお地蔵さん。

 近所でも有名ないたずら坊主が、このお地蔵さんによじ登ったのはいいが、お地蔵さんもろとも倒れて下敷きになり、大怪我をするという事件があった。
 ぼくより2、3歳年上の子だった。いたずらっ子ではあったが、年下の子をいじめるような子ではなかった。

 美空ひばりの“花笠道中”や、三橋美智也の“夕焼け空が真っ赤っか ♪”なんて唄が町に流れていた頃である。(ぼくは映画“三丁目の夕日”の失敗の一つは、当時街に流れていた唄をBGMにかけなかったことだと思っている。)

 あの子と一緒にひっくり返った当時のままのお地蔵さんなのだろうか・・・。

 2010/7/9

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久しぶりの豪徳寺-11 “お不動さん”

2010年07月12日 | 玉電山下・豪徳寺

 わが家のすぐ近くにあったお不動さんの参道(?)。
 昔はこんなに木が茂っていなかったように思う。

 奥の階段の下あたりで缶けりや長馬(ながうま)などをして遊んだ。

 長馬など結構危険な遊びだった。前の奴の股ぐらに頭を突っ込んで馬になり、敵が助走をつけてその馬に跳び乗るのである。特定の馬(もちろん人間)に集中的に跳び乗ったりもした。もちろんそいつはたまらずに潰れるのだが、「ブッ潰れ!!」などと騒いで、攻撃が続く。
 敵が全員飛び乗ってもつぶれなければ、先頭の一人だけ立っているやつが、敵の最後に飛び乗ったやつとじゃんけんをして、勝てば攻守交代となる。
 今だったら、PTAが禁止するだろう。

 お不動さんの東南の崖の下には戦争中の防空壕が残っていて、これもぼくたちの格好の遊び場になっていた。

 今でもこの辺の子どもたちはお不動さんで遊んでいるのだろうか。

 2010/7/9

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久しぶりの豪徳寺-10 “石川屋”

2010年07月11日 | 玉電山下・豪徳寺

 今回久しぶりに豪徳寺を訪ねた目的の一つは、石川屋の写真を撮ることだった。

 石川屋は肉屋だが、ぼくの昭和30年代の思い出の中では石川屋はコロッケ屋である。当時の土曜日の昼食は決まって石川屋のコロッケと食パンだった。
 勉強机のような机の引き出しから衣のついたコロッケを取り出して揚げていたのだが、勉強机と食べ物というのがミスマッチで印象に残っている。
 杉浦茂の“コロッケ五円の助”の時代である。

 石川屋が閉店したという情報は今も豪徳寺に住んでいる友人から聞いてはいたが、“ちい散歩”で石川屋の店頭で焼き鳥を売っている風景が写っていたので、まだ大丈夫かと思っていたが、おととい行ってみると靴屋になっていた。

 石川屋の右側の精肉売り場、柱にかかった大きな温度計、左手のコロッケ売り場の思い出は、ぼくの記憶の中だけのものになってしまった。

 2010/7/9

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久しぶりの豪徳寺-9 “満来”

2010年07月11日 | 玉電山下・豪徳寺
 
 玉電山下駅前路地商店街の、豪徳寺駅側の出口近くにあるラーメン店が、“満来”。

 今でも一番安いラーメンが驚くなかれ200円だという。

 この店は、店内に店主のボーリングの表彰状が飾ってあって、その点でも近所では有名らしい。古くから豪徳寺に住んでいる友人も、ボーリングには無縁の人だが、知っていた。

 その表彰状に書いてある名字から、ぼくの赤堤小学校の同級生の親戚が経営している店であることを、おととい一緒に飲んだ同僚が聞き出してくれた。
 おとといも飲んでから立ち寄ろうと思っていたのだが、ついつい話が弾み、10時半ころ飲み屋を出た時にはすでに店じまいしていた。

 * 玉電山下駅前路地商店街を豪徳寺駅側から眺めたところ。右側手前に“満来”がある。

 2010/7/9

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久しぶりの豪徳寺-8 “大武工業”

2010年07月11日 | 玉電山下・豪徳寺

 前に書いた玉電山下駅の真ん前にある大武工業。看板には「応接セット・喫茶椅子張り替え」と書いてある。

 昭和30年代には、山下駅前には、電動カンナの唸り音と一緒に、木工品の匂いが辺りに漂っていたことも思い出した。

 

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久しぶりの豪徳寺-7 “洋品店 フクヤ”

2010年07月11日 | 玉電山下・豪徳寺

 玉電山下駅前路地商店街(ぼくの勝手な命名だけど)に並ぶ昔のままのお店、2軒目は洋品店“フクヤ”さん。

 こちらは屋号がしっかりと写真に写っている。洋品店が“フクヤ”(服屋)というのはきわめて分かりやすい。もっとも“福屋”さんかもしれないが。

 昭和30年代の豪徳寺商店街の洋品店といえば、最初に思い浮かぶのは、赤堤小学校の同級生の経営していた“トミヤ”だが、この山下駅前路地商店街の洋品店も忘れられない思い出がある。
 商店街の福引で、この洋品店の50円券が当たったことがあり、その商品券でハンカチをもらったというか、交換した。

 何十年も過ぎたある時、たんすの隅に眠っていたそのハンカチをみつけて、それ以来、今でもぼくの勉強机の引き出しにしまって保存してある。
 小学校時代は、ズボンのポケットに突っ込んではいたけれど、手なんか洗ったことがなかったらしく、新品同様とまではいかないが、50年以上昔のものとは思えないくらいのきれいな状態である。

 などと書いていたら、もうひとつ商店街の福引の景品で「鯨尺」(今時の人には分からないだろう)が当たったことを思い出した。今でいう30センチの竹製物差しを少し長くしたような物だった(50センチくらいか)。
 これも、この洋品店で交換したような記憶があるが、鯨尺などというものは洋品店で売られていたのかどうか、ちょっと自信がない。

 老夫婦が店番をしていたけれど、あの店が続いているのだとしたら次の次の世代になっているのではないだろうか。

 2010/7/9

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久しぶりの豪徳寺-6 “山下駅前の帽子屋”

2010年07月11日 | 玉電山下・豪徳寺
 
 ふたたび玉電山下駅前の路地に戻って、昭和30年代から残っているお店をいくつか・・・。

 1つめは帽子屋さん。
 
 山下の駅を松原寄りから出て豪徳寺駅方面に向かう昔ながらの細い路地には、当時から変わらない店がいくつも残っている。
 
 最初が改札を出てすぐ右手にある木工所。建物は変わったみたいだが、一昨日も健在だった。
 大武工業所というらしい。
 昔は電動カンナや電動ノコギリの音がぶんぶん唸って、ベッドか何かを作っていたが、今回はひっそりとしていた。

 同じく右手に、それこそ間口一軒の小さな店が3軒並んでいる。
 最初が帽子屋、つぎが洋品店、つぎが本屋である。

 まずはその帽子屋。屋号は確認し忘れた。
 赤堤小学校のころ、この店で野球帽を買った。前にも書いたが、最初からアルファベットの“A”のイニシャルが入った白の野球帽だった。
 赤堤の“A”だったのか、アルファベットの最初の“A”だったのかは分からない。

 あの野球帽子がどこからで見つかったら、ぼくの“Field of Dreams”になるのだけれど。

 おととい店頭を覗くと野球帽は見当たらず、中年向けの帽子が多かった。ぼくと一緒に店も年老いたのだろう。

 2010/7/9 

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久しぶりの豪徳寺-5 “河田保育園”

2010年07月11日 | 玉電山下・豪徳寺
 
 豪徳寺ネタの5発目は河田保育園。

 玉電山下駅から松原方面に向かって最初の踏切の西側にある。

 ぼくが近所に住んでいた昭和30年代の初めには「河田母子寮」と呼ばれていた。

 河田母子寮にまつわる唯一の思い出は、その校庭で行われた映画の撮影を見に行ったことである。 夕暮れから夜にかけて行われた撮影では、フランキー堺が雨の中を傘をさして走りぬけるシーンが撮影されていた。
 雨など降っていなかったのだが、ADがシャワーのホースのようなもので雨を降らせていたのが印象的だった。

 一昨日飲んだ同僚は映画にも詳しく、昭和30年代初めのフランキー堺なら、昭和33年封切りの“私は貝になりたい”ではないか、と言う。
 いつか確認することにしよう。河田母子寮のシーンが写っているかどうか。

 ちなみに、この河田母子寮の北西の道路を挟んだ斜め裏に大毎オリオンズの山内和弘選手の家があった。

 * 河田保育園前の踏切を通過する玉電の車両。さっきのとは色違いの緑色だった。こちらのほうが玉電らしさがある。 

 2010/7/9 

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