テレビ東京の「アド街ック天国」で豪徳寺をやっていた。
「豪徳寺」というカテゴリーを立てている以上、ふれないわけにはいかない。
でも正直なところ、「この町、どこなの?」だった。新しくできた店ばかりがやたらに多くて、「豪徳寺」らしさはまったく感じられなかった。
軽井沢だけでなく、豪徳寺もぼくにとっては「幻の」豪徳寺になってしまった。というより、ぼくにとってはあの一帯は、もともと「豪徳寺」というよりは「山下」だったのだが。
さて、ぼくは、昭和25年に世田谷区世田谷2丁目、「お不動さん」(お不動山?)のすぐ下、まさに「山下」の、玉電の線路から3軒目の古家で生まれた。
田所さんというお産婆さんの手で取り上げられ、産声を上げた。近所の子どもの大部分が、生まれる時にはこのお産婆さんのお世話になった。山下の住宅密集地の狭い路地で遊んでいると、黒衣の産婆服をまとい自転車に乗って通りかかった田所さんから、「おお、お前、真っ赤な顔して泣いてたくせに、大きくなったな」などと冷やかされたりした。
お不動さんの北側の坂道を下った右手に田所産院があり、少し先に斉藤工務店があり、どぶ川を渡るとウワボ(上保)菓子店があった。「紅梅キャラメル」を買いに行った店である。
数年前の(と書いて心配になったので、ネットで調べると「ちい散歩」は2012年5月に終了していたから、今から十数年前かもしれない)テレビ朝日、地井武男の「ちい散歩」で豪徳寺をやっていたときは上保商店も登場した。
昨夜の番組では、あのどぶ川は暗渠になっていて「北沢川緑道」などと呼ばれていたが、昭和30年ころのぼくたちは、玉電山下駅の松原寄りにかっかった橋から川岸の土手を降りて、どぶ川の幅30㎝くらいのコンクリの川縁を歩いて、「トミヤ洋品店」の裏手を通って、「上保」裏の橋の下から地上に上ったり、時には逆方向に経堂駅の方向に歩いたりして遊んだ。ささやかな冒険のつもりだった。
この川は大雨が降ると溢れて浸水したこともあったが、普段の水かさは大したことはなかった。そのせいか、誰にも叱られたり、注意されたりすることもなかった。
ウワボの正面左手にモロ(茂呂or毛呂)運送店があり、ウワボを右折して豪徳寺駅方面に向かうと、右手にパン屋の「ヤナセ」、「トミヤ洋品店」があり、左手に「トバリ(戸張)玩具店」(当時は駄菓子屋だった)、名前は忘れた文房具屋があり、その横に、お釈迦様の花祭りに行ったお寺に通じる小道があった。幼稚園も付設されていた。
昨夜の「アド街」にでてきた中華そば屋の「代一元」もこの辺りだった。店内に、チャイナドレスを着た美人画のポスターが貼ってあって、小学生だったぼくはその女性に恋をした(ような記憶がある)。
当時、ぼくの家では夜8時に必ず寝かされていたのだが、ある土曜日にお隣りのお宅にお泊りさせてもらったことがあった。夜の10時近くにラーメンの出前を取ってくれて、隣りの部屋で麻雀をやっていたおじさんたちと一緒に食べたことがあった。こんな夜遅くまで起きていていいだけでなく、ラーメンまで食べさせてくれる家もあるのだと感動した。60年以上たった今でもその夜のことを思い出す。
たぶん「代一元」のラーメンだったと思う。
平和不動産という不動産屋もこの辺りの角にあった。ラジオの株式市況で「平和不動産、できず」などといっているのを聞いて、この不動産屋はラジオにも出てくるほど有名なんだと思っていたが、「平和不動産」は敗戦後の日本中のあちこちにあったのだろう。
その角を曲がると、模型屋があり、少し先が豪徳寺駅の東側(梅ヶ丘駅側)上り階段だった。対面に2階建ての「岡歯科」があり、ガードをくぐって少し行くと、かかりつけだった「加藤医院」があった。
上保前の道に戻って、豪徳寺駅西側(経堂側)上り口に向かうと、平和不動産の向かいの、これまた川沿いに八百屋があり、いつも割烹着姿の元気のよいおばさんがいた。お使いに行ってお金が足りないと「30円足んなかったってお母さんに言っときな」と言って、野菜を渡してくれた。
豪徳寺界隈は関東大震災で被災した下町の人たちが移り住んでできた町だというから、下町育ちのおばさんだったのだろう。
八百屋の道を横切ると、当時としてはめずらしい雑居ビルがあって、その隣りが和菓子の「室まち」だった。昨夜の番組で出てきた店で、ぼくが知っているのは「代一元」とこの「室まち」の2軒だけだった。「室まち」の当主は「室町」さんではなかった。
「室まち」の娘さんがNHKのアナウンサーになったと近所の人が言っていた。その室町アナがNHKを退職後に、軽井沢で和食屋を開いていたことは前に書き込んだ。最近の軽井沢の地図を見ると、国道146号(?)を星野温泉の手前で少し西に入ったところにあったその「室町」も今はもう載っていない。
「室まち」の向かいに「石川屋肉店」があり、わが家の土曜の昼食はいつもここのコロッケだった。杉浦茂「コロッケ五円の助」の時代で、コロッケはまさに1個5円だった。「コロッケ五円の助」の姿は記憶に定かではないが、ぼくの息子や孫たちが見ていたマンガに出てくる「コロ助」というキャラクターに似ていたように思う。「コロ助」は名前からして、ひょっとすると「コロッケ五円の助」のオマージュなのだろうか。
「室まち」の並びの、豪徳寺駅西側階段(今は平地になって招き猫などが置いてあるが、昔は10数段の石段があった)の正面が人形焼の「明菓堂」だった。何年か前に行ったときはシャッターが下りていたが、昨夜の番組では建物自体がなくなってしまっていた。
明菓堂を右折して玉電山下駅に向かう路地にある中華料理の「満来」も赤堤小学校の同級生の店だった。この路地の左手には「フクヤ洋品店」、帽子屋、書店、そして家具製作所が並んでいて、木工品を削る電動工具の音が響き、木のかおりが路地に漂っていた。
豪徳寺駅西側(経堂寄り)のガードをくぐって、坂道を宮の坂方面に少し上ると、左手に「上の市場」と呼ばれるマーケットがあった。地面が土間のままのマーケットだった。その一番奥に書店があり、新刊書(といっても「少年」だの「少年画報」だの「野球少年」だが)はここで買った。
「上の市場」の並びには貸本屋があり、前にも書いた「褐色の弾丸、房錦物語」はここで借りた(と思う)。確か房錦のお父さんは相撲の行司だった。もう1軒のおもちゃ屋も近くにあった。買った当初はいい匂いがするカラフルなビニール・ボールを買った。
お手伝いさんに連れられて、宮の坂駅近くの神社のお祭りに行って、お神楽を見たこともあった。つまらなくて早く帰りたかった。
映画「力道山物語」を見たのは松原駅に近い六所神社の境内で、白いスクリーンが秋風に揺れていた。二所ノ関部屋に入門したが稽古が厳しくて(のちの大関)琴ケ浜と一緒に脱走したエピソードがあったのを覚えている。映画の「月光仮面」を見たのは経堂駅南口にあった南風座だった。子ども心にドクロ仮面が不気味だった。
豪徳寺には生まれてから昭和35年3月まで、ぴったり10年間住んでいたが、「豪徳寺」には一度も行ったことがなかった。いまだに行ったことがない。
昨夜の「アド街」によると、豪徳寺は彦根藩主の菩提寺だそうで、ぼくの父方の祖母は彦根藩士の娘だったから、縁がなくもなかった。それでも行ってみたいという気持ちは湧かなかった。幼いころの思い出がないからだろう。招き猫も「?」である。
もう一つ、昨夜の「アド街」では取り上げなかったが、豪徳寺には尾崎行雄の旧宅が残っており、2人の女流漫画家がその保存運動をやっていると、以前東京新聞に載っていた。
きれいな水色のレトロな洋館だが、今豪徳寺で一番旬の話題と言ったらこの「尾崎行雄旧宅」だろう。ぼくも一度見ておきたいと思っているのだが、なんで取り上げなかったのか。テレビなどで取り上げられて、有象無象が押し寄せるのを保存に携わる人たちが嫌ったのだろうか。
尾崎行雄つながりで、今朝のNHKラジオを聴いていたら、ハナミズキが話題になっていた。
ハナミズキは、大正時代に東京市長だった尾崎行雄がアメリカに桜を贈呈した返礼としてアメリカから贈られた外来種で、学名はアメリカ・ヤマボウシ(山法師?)というそうだ。家内に自慢したら、「そんな話は有名じゃない」と一喝されてしまった。
ハナミズキは、東京では本当は5月の連休ころに咲く花で、それが4月に咲くのはやはり地球が温暖化しているのだろう。なお、白く咲いているのは「花」ではなく葉っぱ(「ほうよう」と言っていたが「包葉」か?)だそうだ。
玉電の車両も、芋虫型の原形はとどめているが、ヨーロッパの路面電車みたいに綺麗になってしまって、昨夜の「アド街 豪徳寺」は、ぼくとはほとんど無縁になってしまった別の町の話みたいだった。
ぼくの山下商店街の思い出は、商店街のスピーカーから流れていた三橋美智也「夕焼けトンビ」(?)や、美空ひばり「花笠道中」、そしてラジオから聞こえてくる竹脇昌作の独特の抑揚の声(ニッポン信販のクーポン ♪ ♪というCMソング)とともにある。
両親と見に行った「喜びも悲しみも幾年月」で覚えた「おーいら 岬のー 灯台守はー 妻と二人ーでー 沖行く船ーのー 無事をー 祈って 灯をかーざす 灯ーをかざすー」という主題歌を大声で歌いながら山下界隈を練り歩き、町行く人の笑いを誘った。ぼくより1歳年上の東京新聞の解説委員が、小学2年生でこのヒット曲を暗唱したという自慢話を記事に書いていたが、ぼくも今でも歌うことができる。
最近になって、YOUTUBEでベルト・ケンプフェルトの「真夜中のブルース」をたまたま聴いたところ、あのイントロに続くゆったりとしたトランペットの音色も、ぼくを昭和30年ころの山下商店街にワープさせてくれることに気づいた。あの頃、山下商店街のスピーカーから流れていたのだろう。
ぼくの海馬は、最近のことはちっとも保存しなくなってしまったが、昔のことにかけてはけっこう健在である。
2021年4月24日 記