豆豆先生の研究室

ぼくの気ままなnostalgic journeyです。

冬の散歩道(2024年1月24日)

2024年01月25日 | 東京を歩く
 
 毎日のルーティーンとなっている午後の散歩。

 きょうの東京は、寒気が流れ込んでこの冬一番の寒さということだったが、思ったほどの寒さではない。それよりも、すみわたった冬の青空がきれいだった。
 上の写真は午後3時ころの大泉学園駅近くの写真だが、残念ながらぼくのスマホでは、あの冬の青空の透明感は表現できなかった。でも、とにかくきれいだった。
 
 数日前に、もう少し遅い時間帯、午後4時すぎに歩いたときは、北の方向の空に浮かんだ雲が夕日を反射してうっすらと茜色(ばら色?)に染まっていて、これもきれいだった。
 正月の冬空に浮かぶ雲を眺めていると、「バラ色の雲と 思い出を抱いて ~♪」という曲と、「雲は流れる~ 北国の町へ~♪」という歌い出しの2曲が思い浮かぶ。正確な曲名ははっきり覚えていないが、おそらく「バラ色の雲」と「北国の二人」で、「バラ色~」はヴィレッジ・シンガーズ、「北国の二人」はブルー・コメッツだったはずだが・・・。どちらも似た曲想、曲調だった。

 1970年前後の思い出である。なぜかこの2曲と、正月の元旦に環八を走る車から眺めた冬の空を思い出す。1970年ころに環状8号線ができていたかどうかは記憶にないが、谷原から世田谷・上野毛に向かう道路とその上空の思い出である。

 2024年1月24日 記

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エドモンド・カーン『法と人生』

2024年01月22日 | 本と雑誌
 
 エドモンド・カーン/西村克彦訳『法と人生--裁判官の胸のうち』(法政大学出版局、1957年)を読んだ(原題は “The Moral Decision -- Right and Wrong in the Light of American Law”)。
 人が生れてから死ぬまでの人生を時系列に追って、折々の法律問題を考えるという、ぼくの「法学入門」の参考にするために買った古本だった。
 本書では、「人の始期」から「人の終期」までの間は「取引行為」が中心になっていて財産法入門の色合いも強いが、家庭生活をめぐる家族法の問題も含まれており、各節の冒頭で具体的な裁判例をまず提示してから、関係する法的な論点を解説するという記述のスタイルは参考になった。
 著者は20年間の裁判官経験を経て、執筆当時はニューヨーク大学ロースクールの教授という。

 「人の始期」の第1節は、いわゆる「カルネアデスの舟板」のケースである(U.S. v Holmes,26 Fd. Cas.36(1842)。
 リバプールからフィラデルフィアに向かった帆船が氷山と衝突して難破した。水夫と乗客を合わせて40名近くが1艘の長艇(定員は20名だった)で脱出したが海水が浸入して沈み始めたため、航海士の命令でホームズらの水夫が14名の乗客を船から投げ出した。残った乗客らは翌日通りかかった船に全員救出されたが、ホームズは裁判にかけられた(罪名は書いてない)。
 裁判官は陪審に対して、このような場合は必要最小限の水夫を除いてまず水夫を船外に投げ出すべきであり、次には船客の中から「くじ引き」によって犠牲者を選ぶべきであったと説示したという。陪審員はホームズを有罪としたが、情状酌量で9か月の懲役が言い渡されたという。
 著者は、くじ引きによる決定も、余命(の長短)による決定にも否定的だが、ぼくはそのいずれかで決定するしかないと思った。少なくとも、「すべての生命はそれ自体で尊いものである」といった命題では、沈没しかかった船内での最大多数の幸福は実現できない。こんな場合には功利主義のほうが全員が平等に死ぬよりはマシではないかと思うのだが。
 結論はともかく、「法と人生」問題の最初のテーマとしては難しすぎるだろう。このような場面の起こりにくいことを思えば、日常生活における「ありふれた」事件から法律問題を考えるという本書「法と人生」には不要なテーマとも思う。もし起こりうるとしたら、災害時のトリアージの場面だろう。

 「人の始期」につづく「男女の関係」と題する章の第1節は「恋愛の秘密を侵されない権利」である。最初に提示される判例は、男女の婚姻外の性関係が摘発された事件である(Ruby v. State,107P 2nd 813,1940)。
 成人の男女間の合意による性関係に警察や裁判所などの公的機関が介入することは「プライバシーの権利」の侵害として許されないという原則は、後に連邦最高裁判決によって確立する(グリズウォルド事件判決、1965年)が、本件はそれ以前に起きた事件にもかかわらず、「プライバシーの権利」を拡張する論理によらないで、グリズウォルド判決と同趣旨の結論に到達している。
 被告は黒人男性で(著者は「ネグロ」と書いている)、相手の女性が白人だったため、根にもった(?)黒人警官(!)によって密会の場に踏み込まれて逮捕された。第1審では有罪とされたが、オクラホマの控訴裁判所は、個人の住居内で秘密に行なわれた「姦淫」を処罰する法律はないとして被告を無罪とした。

 第2節は「結婚の成立する理由」と訳してあるが、わが国の家族法では「婚姻の成立要件」のことだろう。「婚姻の取消」に関する事件を取り上げる。
 無一文の男が事業を始めるために、資産家だと称する女の財産を目当てにその女と婚姻(の儀式)を済ませたところ、実際には女には資産などないことが分かったので、婚姻の取消を請求したという事件である。第1審は請求を棄却したが、控訴審は4対3で請求を認容した(S v S,260 N.Y. 477, 184 N.E. 60(1933))。
 ぼくにとっては、この節が一番面白くてためになった。

 著者によれば、20世紀初頭のアメリカ法を支配したのは、聖書に示されたユダヤ法とローマ法に由来する考え方だったが、婚姻法だけはいずれの影響も受けなかった(1950年ころのアメリカ諸州では原則として離婚が禁止されていた)。これら古代法は婚姻制度や家庭生活を支持し、姦通を処罰したが、両法とも離婚によって結婚生活を解消することを認めていた。
 キリストの離婚観のうちパリサイの田舎を代表したシャマイ派は窮屈で弾力性に乏しい離婚観を示したが、ユダヤ法の多数派はパリサイの都会のヒレル派の寛大な離婚観を採った。ローマ法も、常に夫婦双方に離婚の自由を認めており、少なくとも帝政初期には「偕老同穴」式の結婚はむしろ異例だったという(125~6頁)。したがって、離婚禁止を免れる便法としての「婚姻の取消」などは主張する必要もなかったのである。
 驚いたことに、著者によれば、ローマ法のもとでは(違法とされた)近親婚でさえも「婚姻取消」を求める民事訴訟ではなく、近親相姦として刑事事件によって処断されたという。近親婚も含めた違法な婚姻の救済方法は「婚姻の取消」ではなく、離婚だったという(126頁)。文脈は異なるが、結論的にはぼくの考えと同じであり、もっと早くに知っていたら原稿に書き加えられたのにと、残念である。ただし、ここで紹介されたローマ法の記述がはたして正しいのかどうかは不明である。現役だったらローマ法専攻の同僚に質問できたのだが、彼もすでに定年退職してしまった。

 著者によれば、19世紀後半から20世紀半ばまでの英米の婚姻制度を支配したのは、ローマ法ではなく、ヴィクトリア時代の思潮だった。著者はその特徴を「清教徒主義(ピューリタニズム)」と「重商主義(マーカンティリズム)」の2つだという。
 ピューリタニズムは離婚を禁止し、その影響力が強いニューヨーク州などの裁判所は離婚自由化に抵抗したが、これに対抗して、「婚姻取消」によって壊れてしまった婚姻から夫婦を解放する圧力が強まった。重商主義によれば、当事者は熟慮の上で婚姻すべきであって(「危険は買主が負担する」)、たとえ婚姻締結時に欺罔があったとしても、それが婚姻の本質的要素に関わる欺罔だった場合以外は当該婚姻は取消すことはできない。婚姻の「本質的要素」とは心身の健全、婚姻に必要な性交、生殖の能力のみである(127~8頁)。
 
 ぼくは、西欧社会が離婚を禁止するようになったのは、古代ローマでキリスト教が普及して、その「婚姻非解消主義」--神が合わせたもうたものは、神のみが死によって分つことができるーーが採用されたからであると聞いていたが(誰かから聞いたのか、何かで読んだのかは今では記憶にないが)、本書によれば、1950年代までの英米の離婚禁止は、ヴィクトリア朝時代のピューリタニズムに起源があるというのだ。
 この離婚禁止法を回避し、破綻してしまった婚姻から夫婦を解放するためには、(唯一の離婚事由とされていた)姦通を当事者が通謀してでっち上げて離婚判決を得るか、相手の属性(資産、家柄、性格、生殖能力など)に関して錯誤があったとでっち上げて婚姻取消の判決を得るしかなかった。夫婦にとって、「姦通」をでっち上げるよりも、「欺罔による錯誤」をでっち上げて「婚姻取消」を申し立てる方が、良心の呵責は小さかったので、何千という婚姻取消判決が集積されることになったという。
 
 著者は配偶者権侵害訴訟(わが国でいう不貞慰謝料請求訴訟だろう。アメリカでは「怒りを鎮める訴訟 “Heart-balm suits”」と呼ばれているそうだ)に批判的で、離婚は協議・調停によって解決すべきであり、当時いくつかの州で認められるようになった離婚要件としての「性格不調和」を「調停不可能」と読みかえて、調停不調の場合には離婚を認めるべきという考えを示している(~151頁)。
 翻訳してくれたことは有難いが、訳文は分かりにくい個所があった。

 2024年1月22日 記

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笠置シズ子を見かけた 昭和の世田谷

2024年01月21日 | 玉電山下・豪徳寺
 
 NHKテレビ、朝の連続ドラマで笠置シズ子をモデルにしたドラマが放映されている。ぼくは子どもの頃に、一度だけ笠置シズ子ご本人を見たことがある。

 赤堤小学校3年か4年の頃、同級生3人と一緒に、そのうちの一人のお兄さん(松沢中学校か早稲田高等学院の生徒だったと思う)に連れられて、駒沢球場(現在の駒沢公園の一角にあった)に野球を見に行った。
 玉電山下から小田急線豪徳寺駅のガード下をくぐって、宮の坂に向かって玉電(東急世田谷線)の線路沿いをテクテク歩き、上町あたりから玉電の線路を外れて南に向かったのだろう。
 その道すがらの住宅街に、広い庭を家庭菜園にした民家があって、その菜園でしゃがんで土いじりをしている普通のおばさんがいた。友だちのお兄さんが、「あれは笠置シズ子だ!」と言った。笠置シズ子という名前は知っていたが、どんな人かは知らなかった。
 大した興味もなかったが、70歳を過ぎた今でも覚えているのだから何がしかの印象は残したのだろう。しゃがんでいるおばさんの姿が写真的映像で脳裏に残っている。ただし、それが本当に笠置シズ子だったのか、「笠置シズ子」風のおばさんだったのかは分からない。「笠置シズ子だ!」といったお兄さんは茶目っ気のある人だったから小学生の弟たちをおちょくったのかもしれない。昭和33、4年頃に、彼女が世田谷の駒沢公園近くに住んでいたとしたら、おそらくご本人だろう。

    

 駒沢球場は東映フライヤーズの本拠地で、外野席の子供料金は50円だった。コロッケが1個5円、紅梅キャラメルも1箱5円の時代だから安くはない。
 その日は、東映と近鉄パールスの試合をレフト側外野席に座って見た。目の前に東映のレフトかセンターを守っていたラドラの背番号44を見た記憶がある。これも写真的な記憶である。近鉄のバッテリーは、投手がミケンズ、捕手がボトラだった(と思う)。外国人同士のバッテリーなど、その後いただろうか。

    

 手元に雑誌「日の丸」昭和37年5月号付録(集英社)の「野球の手帳」というのが残っている(上の写真)。これを見ると、ラドラ、ミケンズは載っているが、ボトラは載っていない。ぼくが駒沢球場に行ったのは昭和33年か34年だから、ボトラはその後アメリカに帰ってしまったのだろう。
 昭和36年には東映の監督は水原茂で、パリーグ2位だったらしい(優勝は南海ホークス)。それまでの東映は万年5位(最下位はいつも近鉄)だったが、監督が代わって一気に強くなったのだろう。
 写真入りで紹介されている選手は、尾崎行雄(「憲政の神様」ではないほう)、土橋正幸、山本八郎、張本勲、毒島(ぶすじま)章一の5人。監督紹介欄には住所が載っているが(大田区田園調布xのxx)、尾崎、土橋らは世田谷区新町の合宿となっている。土橋は日本橋高校卒の江戸っ子だったが、山本八、張本、尾崎は浪商出身だった。
 ラドラは外国人選手としてはあまり大きくはなかった記憶があるが、「野球の手帳」で調べると、身長は1m77cmとある。張本が1m80cmとあるからそれほど小さかったわけではなかったらしい。出身校はフレスノ州立大とある。カリフォルニア州立大学フレスノ校だろう。色が浅黒くてヒスパニック系かラテン系の印象がある。

 実はもう一人、家庭菜園を営む女優を見たことがある。望月優子である。ぼくが中学生だった頃、中央線の西荻窪駅から少し荻窪方面に行ったところに彼女の家はあった。   
                 
 青梅街道の荻窪警察署前から南に5分ほどまっすぐに下り坂を歩くと中央線の線路にぶつかる。昭和37年当時の中央線は地上(地面)を走っていて踏切があったが、その踏切の手前右側に彼女の家があった。
 笠置シズ子と同様、庭の一角が家庭菜園になっていて、そこで彼女が土仕事をしていたのを通りがかりに見かけたことがあった。
 彼女はテレビのドラマ番組などに時おり出演していたが、小津を見るようになってからは「小早川家の秋」で、笠智衆と夫婦役で出ているのを見た。火葬場の煙突から登る煙を見上げて、「人間なんて虚しい」式の台詞を吐いていたと思う。あまり好きな場面ではない。
 どういう経緯かしらないが、わが家には望月の「おかあさん」というLPレコードがある(上の写真)。聞いたこともないが、何が収録されているのだろうか?

 なお、冒頭の写真はもらい物のクッキー。真ん中に今年の干支である龍の(落とし子の)形をしたクッキーが入っていた。

 2024年1月20日 記 

 ※当時の山下(ないし豪徳寺)には田端義夫も住んでいた。家から赤堤小学校に向かう通学路の途中にあった(松原と宮の坂を結ぶ道路と交差する十字路に面していた)。棕櫚だか椰子だかの木が庭に植えられた、当時としては豪邸だった。
 通学路には、「えいらい・じゅうめい」(放送作家だったらしい。表札の表記は平がなだった)や、内藤博文(巨人、後に千葉茂らと一緒に近鉄に移籍した内野手)、山内和弘(大毎オリオンズの背番号8)の家もあった。
(2024年1月21日 追記)

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NHKラジオ深夜便「風になる」(小手拉大手)

2024年01月19日 | あれこれ
 
 夕べ(1月19日の午前3時すぎ)、NHKラジオ深夜便から、懐かしい曲が流れてきた。
 数年前(といっても調べたら2016年の11月だった)に、台湾に旅行した帰りの台北、松山空港のロビーで、何かのCMの撮影をやっていた。
 空港ビルに入っている土産物売り場のおねえさん、おにいさん、それにおじさん、おばさんたち10数人が一列に並んで、何かを手に持ってフラダンスのような仕草で踊りながら行進するのである。観光客が物珍しげに眺める真ん中を、大して恥じらう風もなく2、3度撮り直しをしていた。

   

 その時に流れていた曲がなぜか強く印象に残っているのである。その曲は息子が台湾で買ってきたCDにも入っていたのだが、名前は知らなかった。今朝早朝に久しぶりにその曲がラジオから流れるのを聞いて、今度こそ名前を知りたくなった。
 曲の途中から聞いたので曲名は分からなかったが、午前4時前にそのコーナーが終わるときに「スタジオ・ジブリの主題歌・挿入歌特集でした」とアナウンサーが言っていたので、起きてから google で「スタジオ・ジブリの主題歌・挿入歌」を検索したが、分からなかった。そこで、「スタジオ・ジブリ 歌 台湾」で検索すると、(スポンサーを除いた)一番最初に、この曲の youtube のページが出てきた!
 梁静茹(しずかにゆでる?)という歌手が歌う「小手拉大手」という曲で、つじあやの「風になる」のカバーらしい。梁静茹というのはシンガポール出身の台湾で活躍する歌手だそうだ。
 「猫の恩返し」という映画の主題歌と紹介があった。何度も書いたけれど、ぼくは「火垂るの墓」以外のアニメにはまったく関心がない。とうぜん「猫の恩返し」という映画も知らない。しかし、この曲はいい。すごくいい。この曲を聞くと、2016年の、たった一度だけの台湾旅行のあれやこれやを思い出す。ただし歌詞の内容はまったく分からない。唯一「加油!」(チャーヨン)と言っているのだけは聞き取れるから、応援歌なのだろう。
 ※「小手拉大手」というのは、直訳すれば小さい手が大きな手を引っぱって(拉致の拉!)という意味で、「子どもに手をひかれて」くらいの意味だという。それで、あの松山空港のCM撮影のニュアンスも分かってきた。老若男女が一列になってそれぞれ手を引かれて台湾(台北)観光に繰り出す、というコンセプトだったのではないだろうか?

   

 台北から基隆(キールン)を経由して、「千と千尋の神隠し」の舞台となった九份(きゅうふん)に行くマイクロバスのツアーに参加した。基隆ちかくの海岸沿いには断崖がせまり、激しい波が打ち寄せていた(冒頭の写真)。
 みやげ物売り場の並ぶ九份の坂道は雨の中、日本人観光客でごった返していた。週末の清水寺に向かう九条坂なみだった。ほとんど屋根がないので傘をさしたまま歩かなければならず、土産物を物色する元気も出なかった(上と下の写真)。
 11月の雨の日だったにもかかわらず生暖かく、亜熱帯であることを実感した。
   
      

 「地球の歩き方」を片手に地下鉄の一日乗車券(suicaのようなカード)を買って歩きまわった台北の街並み、二人乗りのバイクの洪水、意外に小さかった白菜が飾ってあった故宮博物院、忠烈碑の前を通った時のタクシー運転手とのやりとり、中正記念堂(?)の衛兵交代式、101タワー、“ジベタリアン“ が沢山座り込んで本を読んでいた誠品書店、途中の乗り換えが不安だったが無事行き着くことができた新北市の輔仁大学、あまり美味しくなかった寧夏夜市の牡蠣オムレツの匂いまで思い浮かぶ。
 そんな光景を思い出させてくれる「風になる」というか「小手拉大手」なのである。

 2024年1月19日 記

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竜崎喜助『生の法律学』、佐藤隆夫『人の一生と法律』

2024年01月16日 | 本と雑誌
 
 竜崎喜助『生の法律学(改訂版)』(尚学社、2002年、初版は1995年)、および佐藤隆夫『人の一生と法律(第3版)』(勁草書房、1999年、初版は1980年)を読んだ。

 ぼくはヒトの発生、成長から死亡に至るまでの時系列で、各時期にかかわる法律問題を取り上げるという内容の法学入門を構想してきた。そのうち、男と女の登場、受精卵の生成から妊娠、そして出産(出生)、子どもの権利条約に示された子どもの法的地位(親を知り養育される権利、名前を得る権利、適切な医療を受ける権利など)、そして少年非行に対する保護処分までを対象とした授業をしたことはあったが、誕生から死亡までを通して扱う授業は、現役時代には結局できなかった。
 テレビドラマの「ベン・ケーシー」は「男、女、誕生、死亡、そして無限」というナレーションから始まったが、法律では「男」とは何か?「女」とは何か?「誕生」とは何か?「死亡」とは何か?だけでも結構話すことは多い。「無限」はないが。
 一般の法学入門では、「誕生」と「死亡」の間の「人生」ないし「社会生活」にかかわる法律問題を概観する入門書がほとんどだが、ぼくはその部分はほぼスルーして(中抜き)、生まれるまでと死亡前後にこだわった。財産法が苦手だったのがおもな理由だが、それだけで半期15回の授業は十分につぶれたのである。

 こういった授業の参考になったのが、竜崎さんや佐藤さんの本だった。
 竜崎さんの本(初版)は1年生向けの「法学の基礎」という科目の教科書に使ったこともあった。同書が出版される以前に、1年生の入門科目で横川和夫「荒廃のカルテ」(共同通信社、その後新潮文庫に収録された)を講読に使ったことがあったが、竜崎さんも「少年非行」の章で同書を取り上げていたので共感したのだった。
 竜崎さんに同書を授業で使用した感想を出版社経由でお送りしたところ、お返事をいただいた。改訂版は竜崎さんか出版社から贈呈されたものだったらしく、裏表紙にそのお手紙が挟んであった。ネットで調べると、97歳でご健在のようである。

          

 佐藤さんの本書も参考にした本の1冊であった。
 表題はまさにぼくが試みた方向と一致するが、内容的はかなり多岐にわたっており、1年生の入門科目で取り上げるには難しすぎるテーマが多かった。むしろ、憲法、民法、刑法などの法学科目を一応履修した後に各科目の連関を、生殖医療、臓器移植などの現代的な課題を通じて復習する場合にふさわしい本だろう。
 佐藤さんは中川善之助さんのお弟子さんだから、家族に関するテーマも多い。氏や子の命名、胎児の法的地位、父の確定 特別養子、離婚の増加と共同親権、遺骨の所有権、死後の財産整理など・・・。
 「親権解体論」という項目もあった。ぼくは、民法が子の養育を「親権」すなわち親の権利(義務)と構成していることに疑問を持っており、本来は養育を請求する子ども権利システムとして規定すべきだと考えているので、久しぶりに再読して大いに期待したのだったが、残念ながら最近では多くの論者が唱える「親の義務論」と大差なかった。「解体」というから大々的なブチ壊しを期待したのだが。
  
 ただし、家族法を出発点とされた点では、同じく家族法から出発するぼくにも参考になった。ぼくも「家族」を縦糸にして、上の書いたように、男・女の定義から、受精卵の法的地位、生殖医療による妊娠、母子保健法による妊娠の保護、胎児治療の患者としての胎児(権利主体)などを経て、ようやく従来の入門書の始まりである「胎児の法的地位」に到達する予定だった。しかも胎児は、出産を前提とする妊娠継続の場合と、妊娠中絶における場合とでは検討事項を異にするので、「胎児」の法的地位一般を論ずることには無理があると考えている。
 なお佐藤さんにも編集者時代にお会いしたことがあったが、ネットによれば2007年に亡くなっておられるようだ。

 これらの本も断捨離のための読書だったが、著者から頂いたものでお手紙まで挟まっている本は捨てにくい。佐藤さんの本も出版社から贈呈された本だったようで、これまた捨てにくい。

 2024年1月16日 記

 ※なお、この他にも、植木哲『人の一生と医療紛争』(青林書院、2010年)という本もあった。生殖医療、周産期医療、成人医療という項目もあるが、基本的には「人の一生」よりは「医療紛争」に重点が置かれた内容だった。
        
        
 エドモンド・カーン/西村克彦訳『法と人生--裁判官の胸のうち』(法政大学出版会、昭和32年=1952年)というのもある。書名を見て古本を買ったのだが、内容の多くは法と道徳、とくに裁判手続における道徳の役割にさかれている。買ったまま放置してあったが、今回眺めてみると、「アメリカ実体法における道徳の手引き」という章に、「人の始期」「男女の関係」・・・「人の終期」という見出しの節があり、特に「人の始期」の節には「子供であるという権利」や「道徳の運用としての家族」という小見出しがあり、「男女の関係」の節には、結婚と離婚を論じる前提として「恋愛の秘密を侵されない権利」という小見出しの小節があった。少なくともここだけは読んでおこうと思う。

 さらに、ロン・L・フラー/藤倉皓一郎訳『法と人間生活』(日本ブリタニカ、1968年)という本も持っていたのだが、見つからない。誰かにあげてしまったのだろうか・・・。表紙の装丁は記憶にあるが、内容の記憶はない。

 2024年1月17日 追記

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ぼくの新春歌会始

2024年01月07日 | あれこれ
 
 ぼくだけの新春歌会始(?)。あるいは、ぼくの「一人十首」。

 数日前のNHKテレビ「漫画家イエナガ」の短歌講義を聞いたばかりのところ、今朝の早朝(1月7日午前2時半すぎ)NHKラジオ深夜便の「フォスター特集」を聞いていたら、下の第1首が浮かび、その後相ついで歌(?)が沸々と湧いてきた。
 すべて1963~4年ころの中学校時代の思い出だが、そのまま眠って朝になったら忘れてしまいそうだったので、起き出して午前4時近くまでかけて推敲して書き留めた。意外に寒くはなかった。
 そんな訳で、きょうは睡眠不足。

※音楽室の壁に飾ってあった音楽家たちの肖像画の思い出。
 フォスターの 頬杖ついて 物憂げに
 ぼくを見下ろす 音楽室で

※赤人の長歌を暗誦したぼくを「すごい!」と褒めてくれた明田川先生。
 「天地の 分かれし時ゆ ・・・」 暗誦し
 褒められし日を 今も忘れず

※教科書に牧水、茂吉、晶子らの短歌が2首づつ載っていた。
 街をゆき 子供の傍を 通る時
 思い出すのは 木下利玄

※ぼくの読書開眼は中学2年の教科書で読んだ芥川からだった。
 光村の 教科書で読む 芥川
 「魔術」の魔術か 本の虜に

※英語の先生から「君たちはどんな歌を聴いているの」と聞かれ、ジョーン・バエズを歌った。
 「ドナ・ドナ」を 英語で歌って 拍手浴び
 「悲しい歌ね」と 先生は言い

※「アイドルを探せ」のシルビー・バルタンのファンだった頃に。
 バルタンの ポスターくれた 林さん
 「私の方が 可愛いのに」と

※週番として下校確認の校内巡回をした教室で。
 放課後の 教室に一人 岡☆さん
 白いブラウス 夕日に染まり

※下校時刻が来ると校内にアニー・ローリーが流れた
 本当は 「エデンの東」が 好きだけど
 下校時刻は アニー・ローリー

※生徒会で知った「動議」という議事運営の民主主義。生徒会長は3年生の女子だった。
 言い募る ぼくを制して 委員長
 「動議ですか?」と 議事を進行

※203高地、和服の教師もいた時代だった。
 先生を 「ババア」と呼んだ 悪童の
 わが身に老いの 来るを知らでや

※ユーモアのある祖父との思い出。「夕べに風あり 秋立ちぬ」?
「夕有風 立秋」 読んでご覧と 祖父が言い
“You are foolish” と 孫をからかう

 長期記憶は五・七・五のリズムに合うのだろうか。

 2024年1月7日 記
 
 ※一部は仮名とした。本当は実名にして本人に読んでもらいたいのだが。岡☆さん、元気かな?
 ※冒頭の写真は今日の浅間山(追分)。気象庁観測カメラから。

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A Happy New Year ! 2024

2024年01月01日 | あれこれ
 
 2024年、明けましておめでとうごいざいます。
 今年も、東急シルベスター・コンサート(テレビ東京)とともに明けました。
 「豆豆研究室」を開設してから18年目を迎えます。今年も変わりばえのしないこと “Mixture as Before” を書き綴っていきたいと思います。よろしかったら、眺めてやって下さい。

    

 そして昨年、2023年も例年通り、東急シルベスター・コンサートを見ながら過ぎていきました。

 「今夜は誰も眠らせない」と誰かが歌っていたにもかかわらず、1月1日(日)午前0時半頃に眠り、そして、午前5時20分ころに目が覚めた。
 今朝もNHKラジオから、「放送開始100年記念プロジェクト 100人インタビュー」が聞こえてきた。なんと、毒蝮三太夫だった。2024年は毒蝮の声とともに始まった。
 彼は民放(TBS?)の昼の番組でお馴染みだったが、実は子役出身で4、5歳だったかの頃から内幸町のNHKで、生放送に出演していたという。NHKの街頭録音の元祖、藤倉修一や、向島出身の鈴木健二らとも交流があったと言っていた。
 90歳近いはずだが、聞こえてくる声はとてもそんな年齢には思えない元気な声だった。

 次は高嶋秀武だった。
 彼のオールナイト・ニッポンも聞いた。特徴のある喋り方で、わりと面白かった記憶がある。彼も小さい頃からのラジオ少年で、NHKの公開放送などに通い詰めたという。彼はもともとはスポーツ中継専門で採用されたそうで、志村清順(?)アナの思い出話や、彼も藤倉修一の思い出を語っていた。
 高嶋は一時期テレビに出演していたのを見たことがあったが、すぐにテレビには向いていないことを見極めたのだろう、あっという間に消えてしまった。
 80歳すぎの現在も現役で喋っていると言っていたが、彼の声も80過ぎとは思えない元気な声だった。80を過ぎても「喋り」の仕事がある現役というのは羨ましい。

 今朝はこの2人の前に、笑福亭鶴光と東海林のり子も出ていたらしいが、彼らよりは毒蝮のほうが懐かしい。
 
 2024年1月1日 記

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