豆豆先生の研究室

ぼくの気ままなnostalgic journeyです。

昭和の軽井沢 グリーンホテル、西武軽井沢店

2011年03月28日 | 軽井沢・千ヶ滝

 最近は全然書き込みができないので、昔の軽井沢の写真を2枚。

 1枚目は、千ケ滝の軽井沢グリーンホテルの写真。
 玄関ホール前の写真は以前アップしたことがあるが、全景がほぼ写っている写真を見つけた。あいにく余計なおばさん連が一緒に写っていたので、その部分はカットした。

 結婚前に女房とここにデートに来たことがある。デザートに丸ごとのリンゴが出て、肉厚のナイフが添えてあったので、どうやって食べるのか悩んだ。どうやって食べたのかは記憶にない。
 今は跡形もなくなってしまった。寂しい限りである。
 1975年の撮影らしい。当時の日本のカラー写真の現像技術はまだまだのようで、赤っぽく変色している。

         

 2枚目は軽井沢西武百貨店の正面。
 正式名称は記憶にない。西武百貨店軽井沢店だったか、西武百貨店千ヶ滝店だったか。いずれにせよ、鬼押し出しに向かう国道の左手に今でも建物だけは残っている。

 軽井沢西武百貨店も以前にアップしたことがあるが、これまた一部分だけだった。今回のは正面(東側)のほぼ全景が映っている。こちらの写真にも余計なおばさんが写っていたのでカットした。
 写真左手の奥に食堂があり、庭のテーブルで食べることもできた。祖父の散歩について行って、そこでスパゲティ・ナポリタンを食べさせてもらったこともある。
  これも1975年らしい。右手、手前から2台目のクルマがわが家のスバル1000である。

 何度も言うけれど、もう軽井沢に残っている軽井沢らしいものは、“カルメン 故郷に帰る”で小学校長の笠智衆が詩吟で呻っていたように、浅間山だけである。1951年の時点で「変わらないのは浅間山だけである」としたら、2011年の今日は、もう何をか言わん、である。

 2011/3/28 記

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黒澤明 “わが青春に悔なし”

2011年03月06日 | 映画
 
 黒澤明監督の戦後第一作である“わが青春に悔なし”(東宝、1946年)を見た。これもDVDで。
 2月28日が期限のタダ券をもらったのに、これはという映画が思いつかなかったので、消極的な選択である。

 京都大学の瀧川事件をモデルにした映画であることは冒頭の字幕にも書いてある通りだが、その後の話の展開は、瀧川事件とゾルゲ事件(尾崎秀実事件)か細川嘉六事件あたりをモデルにして一つに合体させたようなストーリー。

          

 学生時代に見たような記憶もあるが、原節子が、スパイ容疑で検挙され獄死した夫(藤田進)の実家で田んぼを耕すシーンなど、けっこう長いのに、まったく覚えがない。「認知スキーマ」の問題で記憶に残らなかったのか、それともそもそも見ていなかったのか。

 ぼくは、「戦後民主主義の側に立つ学生は、刑法の勉強をするなら瀧川事件の瀧川幸辰『刑法読本』を読まなければならない」と思いこむような単純な法学部の学生だったから、大学に入学した昭和44年か翌年に、『刑法読本』(大畑書店、昭和7年刊)を古本で買って読んだ。
 しかし、印象に残っているのは本の内容ではなくて、この本についていた口絵である。
 なぜか、そこにはチャイナドレスの美人が大きな色紙を開いている姿が写っている。確かにその色紙には「刑罰からの犯人解放は犯罪からの人間解放である」と書いてあるのだが、なんでチャイナドレスの女性でなければならないのか。そもそもこの女性は誰なのか・・・。

             


 敗戦直後には黒澤明がこんなテーマで映画を撮っていたという事実に興味を覚える。何かこのような映画を撮らなければならない事情が黒澤にはあったのだろう。戦前の黒澤映画をまったく知らないぼくには何とも言えないが、GHQの検閲を通ることは間違いない。「わが青春に悔いなし」というのも原節子(が演じた)青春に悔いなしなのか、黒澤自身の青春に悔いなしなのか。
 テーマは「なんで黒澤が」という違和感が残ったが、画面や音楽の強弱などはまさに黒澤映画である。
 瀧川辞任に抗議する学生たちのデモを騎馬警官が蹴散らすあたりは、晩年の“影武者”などを彷彿させる。原節子の演技も、小津安二郎に出てくる原とはまったく違う(ただし、“晩春”の原は今回の黒澤映画に近い)。

 戦争が終わり、農村の婦人運動のリーダーになった原節子が支援者たちのトラックに乗り込んで農村に向かうシーンで映画は終わるが、まさに「映画の終わりが人生の始まり」である。このような女性は、その後どのような戦後史を歩んだのだろうか。
 戦争中は「スパイの妻」として原の一家を虐待していた農民の妻たちが、戦争が終われば媚びたような笑顔で原に挨拶する表情も印象的である。
 
 この映画では、瀧川の弟子でありながら、運動から脱落して検事になる学生が出てくる。母子家庭の出身で、田舎で一人ぐらしをする母親のことを考えて脱落していくのだが、最近騒がれている京大入試カンニング事件の容疑者を思いつつ見てしまった。

 容疑者の自白通りの方法でカンニングが行われていたのだとしたら、こんなカンニングを見逃した京大の試験監督官の監督にも問題があると思う。ちゃんと試験官が教室内を巡回していたら、あんなカンニングは絶対にできないはずである。きちんと巡回していたら、あの受験生があのような「犯罪」を犯すことは未然に防げたはずである。杜撰な試験監督が一人の受験生を「犯罪者」にしてしまったとも言える。「犯罪からの人間解放」以前の話である。
 試験の公平、真面目な受験生のために、カンニングをした受験生は当然制裁を受けるべきである。しかし、それを見逃した当該教室の担当者も処分されなければ不公平であろう。

 2011/3/6 記

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小津安二郎 “彼岸花”

2011年03月03日 | 映画
 
 久しぶりに小津安二郎の映画を見た。こんどもDVDで。

 いつも通りの小津作品であった。

 東京の会社で重役を務める佐分利信は、旧制中学の同窓生(中村伸郎)の娘の結婚式に出席する。佐分利にも同じ年頃ごろの娘(有馬稲子)があり、横浜商工会議所頭取の孫との縁談をまとめたいと思っているが、娘は、自分の人生は自分で決めると言って同じ会社の同僚(佐田啓二)と恋愛中である。

 佐田は広島に転勤を命じられたため、佐分利の会社を突然訪問して「娘さんとの結婚を認めてほしい」と頭を下げる。これを認めない父と喧嘩して家を飛び出した有馬は、佐田に諭されて帰宅する。送って来た佐田を玄関先で一目見た母親(田中絹代)は彼を気にいって、娘の味方をするようになる。
   
 佐分利はいよいよ面白くない。結婚は認めない、結婚式には出ないと言い張る佐分利を、妻の田中絹代や妹の桑野みゆき、父娘の共通の知り合いである山本富士子や中村伸郎らが取り成して、結局佐分利は結婚式にも出席する。

 蒲郡での同窓会の後、佐分利は行きつけの京都の浪速千栄子、山本富士子母子が経営する宿屋に立ち寄るが、ここでも山本の策略に乗せられ(たような顔をして)、広島の娘夫婦に会いに行くことになり、列車に乗り込んだところで映画は終わる。

   

 サマセット・モームの短編集に“Mixture as Before”(1940年)というのがある。Mixture as Before というのは、もともとモームの前作『アー・キン』に対して、批判的な批評家が書評の中で「旧態依然、いつもの寄せ集め」というニュアンスで使ったらしい。しかし、モームはこの言葉が気に入って次回作の題名に使ったのだという(S・モーム/田中西二郎訳『ジゴロとジゴレット――モーム短編集Ⅷ』新潮文庫の解説による)。新潮文庫版では『十二人目の妻』、『人間的要素』に二分割されており、“Mixture as Before”の邦訳は書名になっていないが、訳者の田中西二郎は解説の中で『変わりばえせぬ話』と訳している。

 小津の“彼岸花”も、まさに“Mixture as Before”である。

 中流階級の食卓が出てくる、娘の縁談話が出てくる、結婚式がある、当時のクルマが出てくる、普通のサラリーマンが暮らした安アパートが出てくる、列車も出てくる(湘南電車!)、丸の内のビルが出てくる、会社の事務室が出てくる、廊下が出たくる、東京のバーが出てくる、地方の旅館が出てくる、同窓会がある、笠智衆が出てくる(今回は江川宇礼雄も)、旅館の女中が出てくる(今回は伊久美愛子)。
 
   

 そして、昭和、東京の考現学としても、懐かしいシーンがたくさんある。東京駅丸の内口の赤レンガの屋根や、古い築地の聖路加病院の十字架がカーテン・ショットに使われ、同窓会翌日の笠智衆がたたずむ海辺からは蒲郡ホテル(おそらく)も見えている。

   

   

 そして洗濯ものが風になびく物干し竿のカーテン・ショットもちゃんとある。カラーになっているが。

   

 これを「旧態依然」と見るか、「いつもながら」の小津映画と見るかは、見る人次第だろう。
 ぼく自身は「いつもながらの小津映画」として、埴生の宿などが静かにバックグラウンドで流れる画面を楽しんだ。できれば浪速千栄子、菅原通済は勘弁してほしかったけれど。
       
 * 小津安二郎監督“彼岸花”(昭和33年[1958年]公開)、松竹ホームビデオ。DVDの盤面には“Equinox Flower”というサブタイトルが書いてある。小津生誕百年を記念しての発売だから、当時は海外向けの発売もあったのだろう。

 2011/3/3 記


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