豆豆先生の研究室

ぼくの気ままなnostalgic journeyです。

ブーガンヴィル『世界周航記』

2021年04月26日 | 本と雑誌
 
 ルイ・アントワーヌ・ドゥ・ブーガンヴィル『世界周航記』(1771年)から「タヒチ島」に関する部分を読んだ(「17・18世紀大旅行記叢書(2)」岩波書店、1990年)。
 原書の正式な書名は「1766、1767、1768および1769年の国王のフリゲート艦「ラ・ブードゥーズ」と改造輸送船「レトワール」による世界周航記」というらしい。
 ブーガンヴィルはフランスの法服貴族一族の出身で、ダランベールら当代一流の人士から教育を受け、数学の分野で才能を発揮した後、イギリスとのカナダ争奪戦に陸軍士官として従軍するが、敗北後に海軍に転じて、この航海の指揮官となる。

 ディドロ『ブーガンヴィル航海記補遺』や、ダニエル・ゲラン『エロスの革命』にユートピアのように援用されるブーガンヴィルが見聞したとされるタヒチの習俗のうち、どこまでがブーガンヴィル自身が見聞した事実として書き残したものなのかを知りたくて、図書館から借りてきて読んだのである。

 面白い本だった。
 最初に、彼は、世界一周の航海に関して先人たちが残した文献記録を要約、整理し、本航海の周到な準備について記述した後に、いよいよフランス、ナントから2隻の船、400名の乗組員で出航する。正式の書名にあるフリゲート艦ラ・ブードゥーズ号と改造輸送船レトワール号である。

 南アメリカ、太平洋(当時は「南海」と呼ばれていた)、南太平洋諸島をめぐり、バタヴィアからフランス、サン・マロに帰港するのだが、航海の記録、暗礁などの海図、発見した島々の所在などは、オランダなど各国が機密としてきたのだが、彼は航海によって明らかになった事実を調査報告として書き残すという立場を貫く。
 それまでの海図の正確性や誤り、航路の位置の測定法、錨を下ろす地点の情報などから、上陸ないし通過した島嶼の住民の友好性、凶暴性(メラネシア島)など、当時の航海者には必須だが現在のぼくには不要な情報もかなり書かれている。
 ※ ただし訳者山本淳一氏の巻末解説によれば、そうは言いつつもブーガンヴィルはタヒチ島の緯度、経度を不正確に記述するなど、「意図的な隠蔽」の疑いがあると指摘されている。

 さて、ラプラタ川から太平洋に出て、南太平洋の島嶼部の暗礁や浅瀬の航行に苦労した後に、彼はタヒチ島に到着する。

             

 見慣れない船を見つけて、現地人たちが数百隻のカヌーに乗って彼の船に近づいてくる。どうも彼ら現地人は遠来の航海者に出会うのは初めてではないようだ。
 船上でのポトラッチ(贈与合戦)が始まる。船乗りたちが上陸してからも贈与はつづく。現地人たちは、ココヤシ、バナナ、雌鶏、ハト(食用で美味という)、貝殻などを贈り、ブーガンヴィルらは鉄(とくに釘がありがたがられたという)と耳飾りを贈った。

 タヒチの男たちの多くは長身で、均整のとれた体つきをしており、顔だちは西欧風だった。耳に孔をあけて真珠の輪を吊るしている。女性も美しい身体をしていて、腰と尻に青い刺青を施している。
 彼らは男女ともに、全裸に近い状態で布一枚を腰に巻いているだけだったが、遠来の「タイヨ」(友だち)の前で、娘たちはその布さえ脱ぐことを促され、恥らいながら従っていた(193頁~)。
 そして、女性も提供された。招待されたあるフランス人船乗り(料理人)は、現地人の手で全裸にされ、衆人環視の中で現地の娘との性行為を促され、船に逃げ帰って来た。上官には首長の醜い妻が提供されたとある。

 彼らは「愛」をもっとも重視し、たえず快楽の中に生きているーーと彼は書く。
 一夫多妻制がとられていて、妻の数が多いことが富者の唯一の贅沢とされる。子育ては男女が共同で行い、弱い性(女性)に家事や耕作という辛い仕事を押しつけるような因習はタヒチにはない。
 妻は夫に全面的に服従する義務があり、夫の同意のない不貞は「血をもってすすぐ」ことになるが、夫の同意を得ることは簡単で、むしろ夫から不貞を急き立てる。嫉妬は彼らには無縁の感情である。
 結婚が非宗教的な契約なのか、宗教上の聖別を受けるのか、離婚があるのかは不確かだったが、娘たちはまったく遠慮なく心の傾き、感情の掟に従う。行きずりの多数の愛人があったことは、後に彼女が夫を見つける際の妨げにはならない(220‐221頁)。
 --簡単な「タヒチ語語彙集」しかもたなかったブーガンヴィルたちがよくぞこのような委細を聞きだせたものである。この翻訳本では原書には附録についていた「タヒチ語語彙集」が省略されているが、これはぜひ収録してほしかった。ブーガンヴィルがどの程度の語彙によってタヒチ人の習俗を聞き取ったのかは、彼の記述の正確性を判断するうえで必須と思う。

 彼らの道具を使う技能と知力は優れており、黒石でできた石斧だけでカヌーを作り、星だけを頼りに数週間も正確に航海する(224頁)。
 タヒチ人には所有の観念はなく、生活に必要なものは立ち寄った家から取ってくる。航海者たちの物も盗む。ポケットから銃を盗んだりするので、ブーガンヴィルは彼らを「スリ」と呼ぶ。
 同じ島内では敵対関係はないが、他の島とは戦争があり、男は殺し、女は見逃すが時には妻にする例もある。島民の間には不平等があり、首長には島民の生殺与奪の権利がある。重要な決定(ブーガンヴィルらに上陸して設営することを許すか否かなど)は首長と顧問会議で決まる(230頁)。

 ブーガンヴィルらの以前にもイギリス人が来島しているが、彼らは性病を置き土産に残していった。
 そして、ブーガンヴィルは一人のタヒチ人青年(と行っても31歳)をフランスに連れ帰っている。かれはフランス語をほとんど理解できなかったが、オペラを見に行くことを楽しんだという。
 ※ ただしブーガンヴィルは南太平洋の島々のすべてがタヒチ島のような理想郷だったと言っているわけではなく、ペシュレ人の悲惨な生活も紹介して、南太平洋に理想的な「自然状態」を夢想した哲学者たちを批判してもいる(山本解説による)。

 2021年の今読んでも面白いのだから、18世紀のフランス人にも興味深く読めただろう。
 ブーガンヴィルは、何一つ観察したこともないくせに、薄暗い書斎の中で議論にふけってご大層な理論を述べる哲学者を軽蔑しているが(21頁。訳者の注釈によればルソーの『人間不平等起源論』に対する批判だそうだ)、ディドロやフーリエがブーガンヴィル『世界周航記』から影響を受け、タヒチにユートピアを見出そうとしたことは理解できることである。

 2021年4月26日 記


  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

アド街ック天国 豪徳寺

2021年04月24日 | 玉電山下・豪徳寺
 
 テレビ東京の「アド街ック天国」で豪徳寺をやっていた。

 「豪徳寺」というカテゴリーを立てている以上、ふれないわけにはいかない。
 でも正直なところ、「この町、どこなの?」だった。新しくできた店ばかりがやたらに多くて、「豪徳寺」らしさはまったく感じられなかった。
 軽井沢だけでなく、豪徳寺もぼくにとっては「幻の」豪徳寺になってしまった。というより、ぼくにとってはあの一帯は、もともと「豪徳寺」というよりは「山下」だったのだが。

 さて、ぼくは、昭和25年に世田谷区世田谷2丁目、「お不動さん」(お不動山?)のすぐ下、まさに「山下」の、玉電の線路から3軒目の古家で生まれた。
 田所さんというお産婆さんの手で取り上げられ、産声を上げた。近所の子どもの大部分が、生まれる時にはこのお産婆さんのお世話になった。山下の住宅密集地の狭い路地で遊んでいると、黒衣の産婆服をまとい自転車に乗って通りかかった田所さんから、「おお、お前、真っ赤な顔して泣いてたくせに、大きくなったな」などと冷やかされたりした。

 お不動さんの北側の坂道を下った右手に田所産院があり、少し先に斉藤工務店があり、どぶ川を渡るとウワボ(上保)菓子店があった。「紅梅キャラメル」を買いに行った店である。
 数年前の(と書いて心配になったので、ネットで調べると「ちい散歩」は2012年5月に終了していたから、今から十数年前かもしれない)テレビ朝日、地井武男の「ちい散歩」で豪徳寺をやっていたときは上保商店も登場した。
 昨夜の番組では、あのどぶ川は暗渠になっていて「北沢川緑道」などと呼ばれていたが、昭和30年ころのぼくたちは、玉電山下駅の松原寄りにかっかった橋から川岸の土手を降りて、どぶ川の幅30㎝くらいのコンクリの川縁を歩いて、「トミヤ洋品店」の裏手を通って、「上保」裏の橋の下から地上に上ったり、時には逆方向に経堂駅の方向に歩いたりして遊んだ。ささやかな冒険のつもりだった。 
 この川は大雨が降ると溢れて浸水したこともあったが、普段の水かさは大したことはなかった。そのせいか、誰にも叱られたり、注意されたりすることもなかった。
 
 ウワボの正面左手にモロ(茂呂or毛呂)運送店があり、ウワボを右折して豪徳寺駅方面に向かうと、右手にパン屋の「ヤナセ」、「トミヤ洋品店」があり、左手に「トバリ(戸張)玩具店」(当時は駄菓子屋だった)、名前は忘れた文房具屋があり、その横に、お釈迦様の花祭りに行ったお寺に通じる小道があった。幼稚園も付設されていた。

            

 昨夜の「アド街」にでてきた中華そば屋の「代一元」もこの辺りだった。店内に、チャイナドレスを着た美人画のポスターが貼ってあって、小学生だったぼくはその女性に恋をした(ような記憶がある)。
 当時、ぼくの家では夜8時に必ず寝かされていたのだが、ある土曜日にお隣りのお宅にお泊りさせてもらったことがあった。夜の10時近くにラーメンの出前を取ってくれて、隣りの部屋で麻雀をやっていたおじさんたちと一緒に食べたことがあった。こんな夜遅くまで起きていていいだけでなく、ラーメンまで食べさせてくれる家もあるのだと感動した。60年以上たった今でもその夜のことを思い出す。
 たぶん「代一元」のラーメンだったと思う。

 平和不動産という不動産屋もこの辺りの角にあった。ラジオの株式市況で「平和不動産、できず」などといっているのを聞いて、この不動産屋はラジオにも出てくるほど有名なんだと思っていたが、「平和不動産」は敗戦後の日本中のあちこちにあったのだろう。
 その角を曲がると、模型屋があり、少し先が豪徳寺駅の東側(梅ヶ丘駅側)上り階段だった。対面に2階建ての「岡歯科」があり、ガードをくぐって少し行くと、かかりつけだった「加藤医院」があった。

             

 上保前の道に戻って、豪徳寺駅西側(経堂側)上り口に向かうと、平和不動産の向かいの、これまた川沿いに八百屋があり、いつも割烹着姿の元気のよいおばさんがいた。お使いに行ってお金が足りないと「30円足んなかったってお母さんに言っときな」と言って、野菜を渡してくれた。
 豪徳寺界隈は関東大震災で被災した下町の人たちが移り住んでできた町だというから、下町育ちのおばさんだったのだろう。

 八百屋の道を横切ると、当時としてはめずらしい雑居ビルがあって、その隣りが和菓子の「室まち」だった。昨夜の番組で出てきた店で、ぼくが知っているのは「代一元」とこの「室まち」の2軒だけだった。「室まち」の当主は「室町」さんではなかった。
 「室まち」の娘さんがNHKのアナウンサーになったと近所の人が言っていた。その室町アナがNHKを退職後に、軽井沢で和食屋を開いていたことは前に書き込んだ。最近の軽井沢の地図を見ると、国道146号(?)を星野温泉の手前で少し西に入ったところにあったその「室町」も今はもう載っていない。

 「室まち」の向かいに「石川屋肉店」があり、わが家の土曜の昼食はいつもここのコロッケだった。杉浦茂「コロッケ五円の助」の時代で、コロッケはまさに1個5円だった。「コロッケ五円の助」の姿は記憶に定かではないが、ぼくの息子や孫たちが見ていたマンガに出てくる「コロ助」というキャラクターに似ていたように思う。「コロ助」は名前からして、ひょっとすると「コロッケ五円の助」のオマージュなのだろうか。

 「室まち」の並びの、豪徳寺駅西側階段(今は平地になって招き猫などが置いてあるが、昔は10数段の石段があった)の正面が人形焼の「明菓堂」だった。何年か前に行ったときはシャッターが下りていたが、昨夜の番組では建物自体がなくなってしまっていた。 
 明菓堂を右折して玉電山下駅に向かう路地にある中華料理の「満来」も赤堤小学校の同級生の店だった。この路地の左手には「フクヤ洋品店」、帽子屋、書店、そして家具製作所が並んでいて、木工品を削る電動工具の音が響き、木のかおりが路地に漂っていた。

 豪徳寺駅西側(経堂寄り)のガードをくぐって、坂道を宮の坂方面に少し上ると、左手に「上の市場」と呼ばれるマーケットがあった。地面が土間のままのマーケットだった。その一番奥に書店があり、新刊書(といっても「少年」だの「少年画報」だの「野球少年」だが)はここで買った。
 「上の市場」の並びには貸本屋があり、前にも書いた「褐色の弾丸、房錦物語」はここで借りた(と思う)。確か房錦のお父さんは相撲の行司だった。もう1軒のおもちゃ屋も近くにあった。買った当初はいい匂いがするカラフルなビニール・ボールを買った。
 お手伝いさんに連れられて、宮の坂駅近くの神社のお祭りに行って、お神楽を見たこともあった。つまらなくて早く帰りたかった。
 映画「力道山物語」を見たのは松原駅に近い六所神社の境内で、白いスクリーンが秋風に揺れていた。二所ノ関部屋に入門したが稽古が厳しくて(のちの大関)琴ケ浜と一緒に脱走したエピソードがあったのを覚えている。映画の「月光仮面」を見たのは経堂駅南口にあった南風座だった。子ども心にドクロ仮面が不気味だった。

 豪徳寺には生まれてから昭和35年3月まで、ぴったり10年間住んでいたが、「豪徳寺」には一度も行ったことがなかった。いまだに行ったことがない。
 昨夜の「アド街」によると、豪徳寺は彦根藩主の菩提寺だそうで、ぼくの父方の祖母は彦根藩士の娘だったから、縁がなくもなかった。それでも行ってみたいという気持ちは湧かなかった。幼いころの思い出がないからだろう。招き猫も「?」である。

             

 もう一つ、昨夜の「アド街」では取り上げなかったが、豪徳寺には尾崎行雄の旧宅が残っており、2人の女流漫画家がその保存運動をやっていると、以前東京新聞に載っていた。
 きれいな水色のレトロな洋館だが、今豪徳寺で一番旬の話題と言ったらこの「尾崎行雄旧宅」だろう。ぼくも一度見ておきたいと思っているのだが、なんで取り上げなかったのか。テレビなどで取り上げられて、有象無象が押し寄せるのを保存に携わる人たちが嫌ったのだろうか。
 
 尾崎行雄つながりで、今朝のNHKラジオを聴いていたら、ハナミズキが話題になっていた。
 ハナミズキは、大正時代に東京市長だった尾崎行雄がアメリカに桜を贈呈した返礼としてアメリカから贈られた外来種で、学名はアメリカ・ヤマボウシ(山法師?)というそうだ。家内に自慢したら、「そんな話は有名じゃない」と一喝されてしまった。
 ハナミズキは、東京では本当は5月の連休ころに咲く花で、それが4月に咲くのはやはり地球が温暖化しているのだろう。なお、白く咲いているのは「花」ではなく葉っぱ(「ほうよう」と言っていたが「包葉」か?)だそうだ。

 玉電の車両も、芋虫型の原形はとどめているが、ヨーロッパの路面電車みたいに綺麗になってしまって、昨夜の「アド街 豪徳寺」は、ぼくとはほとんど無縁になってしまった別の町の話みたいだった。

 ぼくの山下商店街の思い出は、商店街のスピーカーから流れていた三橋美智也「夕焼けトンビ」(?)や、美空ひばり「花笠道中」、そしてラジオから聞こえてくる竹脇昌作の独特の抑揚の声(ニッポン信販のクーポン ♪ ♪というCMソング)とともにある。
 両親と見に行った「喜びも悲しみも幾年月」で覚えた「おーいら 岬のー 灯台守はー 妻と二人ーでー 沖行く船ーのー 無事をー 祈って 灯をかーざす 灯ーをかざすー」という主題歌を大声で歌いながら山下界隈を練り歩き、町行く人の笑いを誘った。ぼくより1歳年上の東京新聞の解説委員が、小学2年生でこのヒット曲を暗唱したという自慢話を記事に書いていたが、ぼくも今でも歌うことができる。

 最近になって、YOUTUBEでベルト・ケンプフェルトの「真夜中のブルース」をたまたま聴いたところ、あのイントロに続くゆったりとしたトランペットの音色も、ぼくを昭和30年ころの山下商店街にワープさせてくれることに気づいた。あの頃、山下商店街のスピーカーから流れていたのだろう。
 ぼくの海馬は、最近のことはちっとも保存しなくなってしまったが、昔のことにかけてはけっこう健在である。

 2021年4月24日 記


  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

ダニエル・ゲラン『エロスの革命』

2021年04月22日 | 本と雑誌
 
 森本和夫編『婚姻の原理』で紹介された本から、興味がわいたものをいくつか読んでいる。
 最初は、ダニエル・ゲラン『エロスの革命』(太平出版社、1969年)。amazonで送料込みで427円。コンディションは「良い。箱に傷みあり」だったが、小口が汚れていて本文にも食べ物か何かの汚れが何か所もあり、せいぜい「可」だろうと思う。
 原題は「性の自由についてのエッセイ」(フランス語)で、「エロスの革命」は大げさだろう。ただし、著者は全編を通じて一貫して、「性革命」だけでは不十分で、「社会経済的革命」をともなった全面的な人間解放が実現しなければならないと主張しているから、「革命」という言葉を使いたい気持ちは分からなくはない。

 内容の半分は、いわゆる「キンゼイ・レポート」(1953年)とキンゼイの紹介と評価にあてられており、残り半分が、プルードン、フーリエ、シェークスピア、ジイド、ライヒに関する小論によって構成されている。ゲランは、キンゼイに対して厳しい批判を述べているが、何と言われようとも、キンゼイが20世紀の「性革命」の先導者の一人であったことは間違いない。
 後半の主題は「性革命」というよりは同性愛をめぐる各論者自身の苦悩と、同性愛を肯定するための各論者の苦労に焦点があてられている。
 ゲランのフーリエ論は森本編著『婚姻の原理』に抄録されていたものだが、今回全篇を読んでも、フーリエが同性愛を(婉曲に)論じているとは読み取れなかった。鈍いのだろうか。プルードンのフーリエ批判や同性愛批判などは痛々しい。ライヒについては改めて書きたいと思う。

                
 ジイドの『狭き門』は、当時ぼくが購読していた学研の「高1コース」8月夏季特別号(昭和40年)第2付録「読書感想文に役立つ世界日本名作への招待」、および「高2コース」4月進級お祝い号(昭和41年4月1日発行)第3付録「高2生の必読書100選」のいずれにも推薦図書として載っている。「ジャン・クリストフ」や「戦争と平和」などはこの手の読書案内で概要を知って読まずに済ませたが、「狭き門」は読んだ。
 主人公(ジイド自身)の辛気臭い性格と面白みのないストーリーだったことしか記憶にない。それが、「鈍感で狂信的なプロテスタントであった」母親によって厳しく性的禁欲を課されたことも理由の一つとしてジイドに芽生えた同性愛の仄めかしと読むことができるなど、当時は知る由もなかった。当時読んだ文庫本の解説では、そのような作品の背景も触れていたのだろうか。

 上にも書いたように、ゲランの各論者に対する批判は、大体が「性革命は社会革命を伴わなくては、真の人間解放にならない」、「性欲や同性愛に対する抑圧の根底に家父長制的家族があることを論者は見落としている」ということに収れんする。
 この本でぼくが一番「我が意を得たり」と思ったのは、性別の相対性を主張した個所だった。
 ゲランが紹介するヴァイニンガーなる人物の<両性欲>仮説というのに従えば、「いかなる個人も絶対的な男性であるわけではなく、また絶対的に女性であるわけでもない・・・。各男性の中にいく分かの女性があり、各女性の中にいく分かの男性がある。ある個人と他の人との間には無数の中間的な性的な姿勢が見受けられる」という。(48頁)。したがって、異性愛の中には必ず一定割合で同性愛的な要素が含まれていると言いたいようである。
 さらにゲランは、「人間の胎児は最初は無性であり、初期は成長の要素として男性的なものも女性的なものもともに含んでいる。・・・その曖昧さは2か月間続く。ひとたび性的な区別が生まれても、すべての人間は異性の萌芽的な名残り、解剖学的な、ホルモンの、心理的な痕跡をとどめている。・・・それぞれの人間は、ことなった段階ごとに、・・・さまざまの割合で男性的および女性的特徴を持つ雌雄同体動物なのである」と敷衍する(49頁)。

                 
 人間を「雌雄同体動物である」と断定することには同意できないが、ぼくも、基本的に男女の区別は社会的な必要に基づいて、社会の側が決めたものであり、生物学的には男女はカテゴリー(範疇)ではなく、スペクトラム(連続体)であると考えている。基本的に麻生一枝『科学でわかる男と女になるしくみ』(サイエンス・アイ新書、2011年)に依拠しているのだが、ヒトの性別は、性染色体、性決定(Y)遺伝子、外性器、内性器、脳の性中枢の器質、性ホルモンの分泌、養育環境その他さまざまな要素によってきまるのだが、確定的に男女に二分することはできない連続的な状態なのである。
 ーー納得できない人は、試しに“男”を定義してみて下さい、あるいは、“女”を定義してみて下さい。恐らく不可能だと思います。ーー

                  
 金田一京助監修『明解国語辞典』(最近人気の『新明解国語辞典』の旧版だろう)によると、“女”とは「ひとの中で妊娠する(能)力のあるもの」、“男”とは「ひとの内で、妊娠させる力をもつもの」と定義されているそうである(郡司利男『カッパ特製 国語笑字典』光文社カッパブックス、昭和38年、35頁)。郡司氏は、これでは世界の人口の大部分は男でも女でもないことになってしまうと茶化している。
 『広辞苑(第5版)』でも、“男”とは、「人間の性別の一つで、女でない方」とあり、“女”とは「人間の性別の一つで、子を産み得る器官をそなえている方」とある。この定義でも、人間のかなり多くは「男」でも「女」でもないことになってしまうだろう。

 このような生物学における性別のスペクトラム=連続的な性質に適合するように、法の世界でも、人間を強制的に男女のいずれかに画一的に二分するべきではない、すべての人間を男女いずれかに二分しなければ社会が立ち行かないという場面はそれほど多くはないと考える。
 男女の区別は、子どもの成長に応じて段階的に、かつ区別が必要な事項ごとに個別的、相対的に決定すれば足りるだろう。例えば、スポーツの「女子」種目への出場の可否は、対象者のテストステロン(男性ホルモン)産出量によって決定するが、そのことは対象者がスポーツ以外の社会生活において「女」であるか否かとは関係ない。
 神奈川県立高校の入試願書や、日本規格協会の就職用履歴書から「性別欄」が削除されたことが報じられるなど、世の中は少しずつそのような方向に向かっているが、家族法の世界でも、同性婚が採用された暁には、婚姻法、親子法、相続法の領域で当事者を男女のいずれかに振り分ける必要はなくなるであろう。

 この議論に有力な援軍を得たこと、しかも1960年代にすでにそのような見解が示されていたことを知ったことが、本書の最大の収穫であった。

 2021年4月22日 記


  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

初夏の散歩道(2021年4月19日)

2021年04月19日 | 東京を歩く
 
 きょうも、心地よい初夏の陽ざしの中を石神井公園まで散歩してきた。

 目的は、先日うまく撮れなかった石神井公園近くの小公園のハナミズキをきれいに撮ること。
 しょせん高齢者向けの簡単スマホについているカメラなので、うまいもヘッタクリもないのだが、ぼくとしては前回より少しはマシなものを撮りたいという気持ちで歩いてきた。

 まずは、大泉学園駅南口の道路わきのハナミズキ。
 背景に“ゆめりあ・タワー”(確かそんな名前だったと思う)がそびえている。

                                   

 15分ほど歩いて、石神井公園運動場に到着。ぼくの高校生時代は日本銀行の運動場で、バス停は「日銀グランド」だった。ここから乗ってくる日大二高のグレーの制服の女の子を好きになったこともあった。今でもこの辺に住んでいるのだろうか。会っても分からないだろうけど。
 この花は本当に「ハナミズキ」で間違いないのだろうか。「空を押し上げて」いるかどうかは詩人の心を持たないぼくには分からない。

                 

 ついでに、この公園近くのマンション脇の道端に咲いていた白い花。
 ぼくの辞書では、春の道端に咲いている子どもの膝より背丈の小さい花はすべて「タンポポ」ということになっている。タンポポにしては少し背丈が高すぎるようにも思えるけど。
 レイ・ブラッドベリに『タンポポのお酒』という小説があった(確か晶文社のシリーズの1冊)。どんなお酒だろうとは思ったが、読まなかった。

             

 さらに、区画整理で住宅が立ち退いた後のビニールシートで覆われた更地のへりに咲いていた雑草。
 いよいよ名前の分からない草花は、すべて「雑草」といっておけば間違いないだろう。

            

 「どの花も 
  それぞれの 
  思いがあって 
  咲いている」
 というのは、ぼくの大学のゼミの先生が卒業するぼく(たち)に贈ってくれた言葉。大仏次郎の言葉と言われたが、ぼくは少し間違って、上のように記憶している。
 今度はぼく自身が退職する番になって、大学から何か色紙に書いてくれと頼まれたので、下手な毛筆でこの言葉を書いた。ホテルのディナーつきの退職パーティーを開いてくれるというので書いたのだが、コロナで中止になってしまった。

 冒頭の写真は、散歩の最後に立ち寄ったリヴィンOZ大泉の正面入り口と、東映動画スタジオの境に咲いていたピンク色のつつじ。
 きょうは全部白い花でまとめようと思ったのだが、揃わなかった。

   *   *   *

 読書は、ダニエル・ゲラン『エロスの革命』から、プルードン、フーリエ、ライヒに関するものを読んだ。
 世界史の教科書に書いてあるプルードン、フーリエとはまったく違った肖像が浮かび上がってくる。

 2021年4月19日 記

 

  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

東京外環道の工事現場(大泉)

2021年04月18日 | 東京を歩く
 
 散歩の途中に、東京外環道の地下トンネル工事現場を通った。

 放射7号道路の外環道大泉インター入り口の少し東側、大泉インター出口よりは少し西側の十字路を(北園交差点を背にして)右折して、OZ大泉方面に向かうと、ネクスコ東日本がやっている東京外郭環状道路(外環道)の地下トンネル工事現場がある。
 あの、調布で起きた道路陥没事故の原因になった地下道掘削工事の北端に当たる工事現場である。外環道および関越道の大泉インターチェンジと外環道地下トンネルを接合させるあたりだろう。

            

 調布の陥没事故が発覚して以来、大泉での工事も中断しているようで、たまに大泉街道沿いの工事現場(「東映現場」とかなんとか書いてあったと記憶する)を通っても、工事をしている気配はなかった。
 きょうも工事はしていなかったが、陥没事故のために中断しているのか、日曜日だから休んでいるのかは分からない。

            

 比丘尼公園の先にある不用品買取店に用事があって、通りかかったのだが、放射7号道路を右折する道路に出たのは、2年振りくらい、工事が始まってからは初めてである。
 工事前は比丘尼公園の1周600メートルの周回道路を毎晩“ゆるジョギ”で3、4周するのが日課だったのだが、工事が始まってからはこの周回道路が閉鎖されてしまったので、行くことがなくなった。
 久しぶりに通りかかってみると、ずい分工事は進んでいて、土地収用が済んで建物がなくなり、上物が何もない工事現場は、空が大きく開けていた。しかも雨の翌日だったので、ひときわ心地よく青空が広がっていた。

                        

 フェンスから覗くと、深い地底に地下道路らしき道路が作られていて、その脇には、地上に向かう側道になるのだろうか、これまた広い道路ができていた。
 このあたりでは、調布の陥没事故の原因になったような巨大掘削ドリルでトンネルを掘るのではなく、地上から掘り下げて後から埋める工法のようだ。素人なので分からないが。
 地下40メートル以上深いところは土地所有者の許可なしに利用することができるとのことだが、物権法で習った「土地所有権は地上、地下に無限に及ぶ」という原則はいつの間に変更されたのだろうか。地下40メートルのところで何年間にもわたって掘削工事が続けば、地盤沈下、陥没も起こるだろうとは、素人でも想像できることだが。

            

 近くには、まだ昔ながらの農地が残っていて、ビニールハウスで何かを栽培しているようだった。
 ぼくが小学生だった昭和30年代の終わり頃は、大泉にはこういった畑が随所に残っていたのだが。羽仁五郎が失礼にも「練馬は東京のチベット」などと言っていた時代である。

 2021年4月18日 記


  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

昼下がりの散歩(2021年4月16日)

2021年04月16日 | 東京を歩く
 天気予報によると、今日の夕方から雨が降るというので、昼食を済ませてすぐ散歩に出かけた。
 薄日が射したり陰ったりだったが、風はなく、思ったほど寒くはなかった。

 今日は石神井公園から大泉高校の周辺を回るコース。
 桜(そめいよしの?)はほとんど散ってしまった。
 きのう大船渡に住む知人から大船渡では今桜が満開と写メが届いた。東京在住の盛岡出身の別の知人に話すと、「以前は盛岡では連休頃が見ごろだったけど、開花が早くなりました」とのこと。

 きょうの散歩では、白い花を写真に撮ってきた。
 冒頭は白いつつじーーというか、たぶんつつじだと思う。

            

 次は、石神井公園近くの小公園の白い花をつけた木が2本。
 以前家内がこの公園の花を見て、「あれがハナミズキよ」といっていた。一青窈 の「ハナミズキ」が流行っていた頃である。
 奥にある方が花がたくさんあったので、あっちを撮ればよかった。

             

 つづいては、大泉高校の校庭に咲いていた白い花。名前は分からない。
 花を写すと名前を検索するアプリを入れたのだが、道端で検索をかけると何の応答もないままに数分間時間だけが過ぎていく。結局は何の花か応答がないので切ることになる。息子から「通信料稼ぎのアプリではないか」と忠告されたので、アプリは削除して、以後検索はやめた。
 帰宅後、家内が無料アプリで調べたら、「ユキヤナギ」ではないかという。4月開花というし、枝の垂れ方はヤナギのようではある。

            

 現役時代、同僚と一緒に通勤していると、彼は道端の花を見るたびに、「xxがもう咲いている、うちの庭のはまだ咲かないなあ」など、花の名前に詳しかった。
 羨ましくもあったが、名前は分からなくとも、花を愛ずる気持は変わらない。
 きょうは、べッツィー&クリスの「白い色は恋人の色」を(心で)口ずさみながら歩いた。冬の歌だったかもしれないけど。

            

 大泉高校の校庭の八重桜(?)はまだ咲いていた。
 ついでに、赤いつつじも。「アド街ック天国 大泉学園」にも登場したタムラ製作所(村田製作所ではない)の裏手の歩道に咲いていた。

            
      
   *   *   *

 読書ノートは、エマニュエル・トッドの『世界の多様性--家族構造と近代性』を読み出したので、しばらく書けない。表紙カバーの解説と序文を読んだかぎりでは、論旨に納得できないうえに、えらく厚い本なので、読み終えることができるか分からない。数年前に買ったときは60頁で挫折している。

 2021年4月16日 記


  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

レオン・ブルム『結婚について』ほか

2021年04月14日 | 本と雑誌
 
 森本和夫編『婚姻の原理--結婚を超えるための結婚論集』(現代思潮社、1977年改訂版)のつづき(第4部~第5部)。
 上の写真はレオン・ブルム(1872~1950、『新世紀ビジュアル大辞典』学習研究社から)。彼の婚姻論については後述する。 
 
 第4部は、マルクス以降のマルクス主義婚姻論として、トロツキー『家族のなかでのテルミドール』、ライヒ『強制的結婚と性関係の持続』、ホルクハイマー『現代における権威と家族』、マルクーゼ『性のエロスへの変形』、ルフェーブル『日常生活批判1』が抄録される。 マルクーゼはスルーした。小此木啓吾くらいに噛み砕いて書いてくれないとぼくには理解できない。ホルクハイマー、ルフェーブルは読んだものの、ぼくには理解できなかった。

 第4部に収録されたものの中でもっとも印象的だったのはウィルヘルム・ライヒである。ウィキペディアによると、ライヒは13歳の時に母親が家庭教師とベッドに入っているところを目撃し、これを父親に密告したために母親は自殺し、何年か後に父親も自殺するという悲惨な思春期を体験したという。本論の中にもこの体験が反映されているように読める個所が何か所かある。しかもまだ解決されていないようにぼくには思われた。
 この事実を知って、ライヒ『ファシズムの大衆心理』(せりか書房)をパラパラめくってみると、ここにも彼の心の傷跡をうかがうことができるように思う(第2章、第3章など)。ゲラン『エロスの革命』にもライヒを論じた一章があるが、ライヒの伝記とともに読んでみたい。
             
 
 トロツキーは現在から振り返れば、正しく1930年代のソ連の家族政策と家族の実情を告発しており、結果的にはソ連はトロツキーの予言したとおりの結末を迎えたのだが、当時は反革命の名のもとに抹殺されてしまった。ただし家族や結婚は、10月革命が目ざした方向(家庭の廃絶、子どもの共同養育)へではなく、彼らに言わせれば「ブルジョワ」家族の方向に向かっているだろう。

 第5部は、ラッセル『家族と国家』、ブルム『結婚について』、ボーヴォワール『唯物史観の立場』、ゲラン『エロスの革命』から成る。ラッセルは以前に書き込んだし、ゲランも前回フーリエについて書いた際にふれた通り。ボーヴォワールはスルー。

 レオン・ブルム『結婚について』は、ぼくにとっては奇説というしかない。
 ブルムの結婚論は、大熊信行『家庭論』が、ラッセル、リンゼイとともに賛意を表していたので、どのような見解なのか興味があった。ラッセル『結婚と道徳』も当時としては大胆な提案だったが、ブルムも大胆かつ不可思議な提案である。
 ブルムによれば、現在(1930年代)の結婚の骨子は、花嫁は処女たるべしという偏見に基づいて、一人の処女を経験ある一人の男に結び付けることにあるが、このことが結婚における肉体の調和を妨げている、結婚の前提としては未経験の男が、28歳から40歳までの結婚直前の女性(メートレス)によって教育されるのが望ましい、という(~259頁)。
 男にとって都合がよすぎる話ではないか。経験者と未経験者が夫婦になろうが、経験者同士が夫婦になろうが、未経験者同士が夫婦になろうが、落ちつくカップルは落ちつくし、ダメなカップルはダメになるだろう。他人がとやかく言ってどうなるものではないように思うのだが。
 ブルムは人民戦線政府や戦後の臨時政府で首相を務めたフランス社会党の政治家だが、こんな意見を表明する論者が首相になることができるフランスという国も不思議な国である。

 森本編『婚姻の原理』が、ブーガンヴィル『世界周航記』で紹介された(と思われる)タヒチの習俗にユートピアを夢見たディドロ『ブーガンヴィル航海記補遺』から始まって、同じくタヒチに愛の自由を夢見たフーリエを経由して、最後はフーリエを再評価するゲラン『エロスの革命』で結ばれるという構成をとった編者森本氏の意図をどう読めばよいのか。
 ぼくは、マルクス主義家族論、婚姻論の系譜よりも、大航海時代以降にヨーロッパに伝えられたタヒチなど南太平洋の習俗がヨーロッパの思想家に与え続けた影響の強さに印象づけられた。フーリエの嫌った「文明」は植民地時代を通して彼地にも伝播してしまったが、しかしタヒチの習俗もしっかりと一部のヨーロッパ人をとらえて離さなかったようである。

            
 とは言え、森本編『婚姻の原理』のメイン・ストリームは、やはり、モルガン『古代社会』、エンゲルス『家族、私有財産、国家の起源』にあることは間違いない(上の写真は『家族、私有財産、国家の起源』の著者エンゲルスの肖像写真(『新世紀ビジュアル大辞典』学習研究社から)。
 一夫一婦制の婚姻、そして父母による子どもの養育が、エンゲルスの同書出版から170年後の今日でもなお世界各国で基本的に維持されていることの意味を考えるためにも、エンゲルス『家族の起源』は改めて読む必要があると思う。
 彼らが当時の「一夫一婦制」に付随していたと指摘する男の側の売娼や、夫の側の蓄妾の現状、さらにはフーリエらが提唱した(ように読める)多数婚、近親婚、同性婚(フーリエは同性者の「婚姻」までは想定していないようだが)、怨みの的にした嫡出推定法制(妻が婚姻中に産んだ子の父親は妻の夫である)など、今日的な問題についても示唆を与えてくれそうである。ただし、マルクスの家族論ばかりでなく、マルクス本人のあまり評判のよくない私生活を描いた『イェニー・マルクス--「悪魔」を愛した女』も読んでみたい。ルソーの言行不一致は本人が『告白録』で告白しているが。
 ところで、最近の婚姻論で、性愛規範、生殖機能を重視する論者には誰がいるのだろうか。

 2021年4月14日 記

 ※ ぼくが持っている森本和夫編『(改訂)婚姻の原理』(1977年刊)の裏表紙には「吉祥寺、外口書店」のシールが貼ってある。ぼくは1978年に結婚したころ武蔵野市緑町に住んでいた。外口書店は吉祥寺駅北口サンロードに面した古本屋だが、今でもあるのだろうか。

  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

「空想社会主義者」フーリエの結婚観

2021年04月13日 | 本と雑誌
 
 ディドロ「ブーゲンヴィル航海記補遺」に続いて、森本和夫編『婚姻の原理』(現代思潮社、1977年改訂版)に収録(抄録)された婚姻論、家族論を読んでいる。

 第1部は、マルクス、エンゲルスに先行する論者として、ディドロのほかにルソー『人間不平等起源論』が収録されているが、ルソーの結婚論といえば、『エミール』だろう。
 エミールは家庭教師のもとを離れてヨーロッパ各地を遊学した後に、ふたたび家庭教師を訪ねてソフィーとの結婚を報告する。エミールに対する教育の最終章がエミールの結婚であり、しかもエミールは家庭教師に向かって、「自分たちの子どもは自分たちの手で教育する」と宣言する。この終わり方の含意をぼくは考えたが、森本は、ルソーは女たちを所帯に閉じ込めよと説いているというフーリエの言葉を援用して、『エミール』におけるルソーの結婚論はブルジョワ思想の枠を超えていないとして、『エミール』を採用しなかったという。
 「ブルジョワ」家族法の枠内にいるぼくは、ルソーがエミールの結婚と子育て宣言によって『エミール』を結んだことに意義があると思う。家庭教師によるエミール教育の到達点がエミールの自立と結婚であり、自分たちの子どもは自らの手で育てるというエミールの結婚観、子ども観は、現在でも一般的だと思う。

 第2部は、マルクス、エンゲルスおよびマルクス主義者の婚姻論、家族論が収録されている。マルクスの「婚姻論」は『共産党宣言』や『経哲草稿』などの中の短い文章であり、中心はエンゲルス『家族、私有財産、国家の起源』である。森本によって、同書のもっとも中核的部分が抄録されていて、省エネ読書には助かる。
 ベーベル「職業としての結婚」(『婦人論』の一部)は、NHKテレビで放映された「ダウントン・アビー」を思い出させる。経済的に窮乏したイギリス貴族が、領主館(Manor house)を維持するために、持参金は十分あるが爵位がほしいアメリカ人女性と結婚する話だが、ベーベルは、そのような男女を斡旋する業者を「結婚取引所」と揶揄し、そのような男女の結婚を「金銭結婚」と批判する。そして、結婚関係に入ろうという男女の関係がそのような結合にふさわしいものかどうかは、「結合の本来の目的、すなわち自然衝動の満足と種族の生殖による自己の存在の延長には関係のない一切の利害をしりぞけることによってのみ」判定されるという(118頁)。
 「ダウントン・アビー」では、不純な動機で結婚した2人であったが、夫婦の間に愛と信頼関係が芽ばえる経過が描かれていた。結婚における経済的側面、当事者たちの利害打算を無視することはできないだろう。
 
 第3部は、マルクス、エンゲルスに直接影響を与えた論者としてヘーゲル『精神現象学』と『法の哲学』の一部、およびフーリエ「不統一所帯における男の倦怠」『四運動の理論』所収、モルガン『古代社会』の一部が抄録されている。ヘーゲルはぼくには読解不能なのでスルーした。
 モルガン『古代社会』は、「一夫一婦制」の章だけが抄録されているのだが、荒畑寒村訳が意外にも読みやすいのに驚く。「荒畑寒村」という名前から明治時代の擬古文調の翻訳を想像したが、彼はそれほど昔の人ではなかった。まったく古さがなく、現代の文章といっても何ら違和感を感じない。例えば「(古代ギリシアでは)結婚の主要目的が正当な婚姻によって子供を産むこと・・・この結果を保証するために婦人を隔離すること」にあった、など(162頁)。
 下の写真は、青山道夫新訳の岩波文庫版。
              
              
 シャルル・フーリエは「空想的」社会主義者として有名だが、そう呼んだのは科学的マルクス主義を自称するエンゲルス『空想から科学へ』(冒頭の写真は大月書店の国民文庫版)である。
 エンゲルスは、「空想的社会主義者」サン・シモン、フーリエ、オーウェンの3人に共通するのは、「彼らが、そのころ歴史的に生まれていたプロレタリアートの利害の代表者として登場したのではな(く)、啓蒙思想家たちと同様に、まずある特定の階級を解放しようとは思わないで、いきなり全人類を解放しよう思った」点にあるという(寺沢恒信ほか訳、国民文庫59頁)。社会主義革命がプロレタリアートを解放できなかったことが明らかになった現在からみると、エンゲルスとフーリエは人間の解放という同じ出発点に立っている。
 フーリエはユートピア的な愛の世界を構想し、熱心な信奉者しか集まらなかったものの(ゲランは彼らを「ファランステェール主義者」と呼んでいる)、その端緒的な協同体を現実に立ち上げているのだから、ただの「空想家」や「ユートピアン」(夢想家)ではないと思うが、ゲランもフーリエを「ユートピアン」と呼んでいる。全ての人間の解放を夢見た点ではエンゲルスも「夢想家」ではないか。

 「不統一所帯における男の倦怠」では何のことか分かりにくいが、中身を読めば「不和の夫婦における夫の鬱屈」くらいの意味ではないか。             
 フーリエによれば、男が結婚を躊躇する最大の理由は、「父親とは、婚姻が指し示す夫である」――つまり婚姻した妻が生んだ子の父親は妻の夫であるというローマの法諺に由来する法律であるという。「全男性の恐怖の的である」この法律のために夫は、他の男の接近を許したあげく怪しげな子どもをおしつけられないように、妻の傍らで汲々として夫の務めを果たさねばならない(153頁)。両性を不和に追い込んでいるこのような婚姻制度を打破しなければならないとフーリエは煽動する。 

 フーリエはニュートンの万有引力に倣って、人間関係を支配する4つの原理の1つとして「情念引力」なるものを提唱する。フーリエが「性革命」の世界でも先駆者であったことは、第5部に収録されたダニエル・ゲラン『エロスの革命』によって知ることができる。
 ゲランによれば、フーリエは韜晦によって偽装しているが、多夫多妻制を肯定し、サディズム・マゾヒズムを肯定し(ケッセル「昼顔」の先駆者という)、近親相姦を肯定し、同性愛、少年愛をも肯定しているとゲランは解読する(279~80頁、283~5頁)。しかも、フーリエもまた(ディドロと同じく)タヒチに「単純な自然のままの愛の自由」の名残を見ている(277頁)。

 こちらの方面でのフーリエのラディカルさは、マルクスらをはるかに凌いでいる。マルクス『共産党宣言』が唱えた「婦人の共有」(森本書68頁)を打ち消すエンゲルス『共産主義の原理』などの弁明のほうが(森本116頁)はるかに及び腰である。
 ゲラン『エロスの革命』の中の「フーリエ」論が森本が編んだ「婚姻論集」の最終章の最後に置かれた意味をどう考えればよいのだろうか。

 ※ 長くなったので、この項は一応ここまでとして、第4部、第5部については項を改める。

 2021年4月13日 記

           

  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

初夏(?)の散歩道(2021年4月10日)

2021年04月12日 | 東京を歩く
 
 散歩の通り道で見かけた木々と花。残念ながら、名前は分からない。

         

         

 桜(そめいよしの?)は葉桜になってしまったけれど、代わって、八重桜が咲いている。
 写真は2枚とも、都立大泉高校の校庭に咲いていた八重桜。

 きれいな白い花をつけた木や、はなやかな黄色い花が他人さまの家の庭先に咲き誇っていた。名前は分からないけれど、新緑に白い花が映えていた。
 遠慮して写真を撮れなかった花もある。

         

 ぼくは冬の間、葉を落とした欅(ケヤキ)の枯れ枝を眺めるのが好きだけど、新緑の若葉を芽吹かせはじめたケヤキも悪くない。

         

 2021年4月12日 記

 

  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

ディドロ 『ブーガンヴィル航海記補遺』

2021年04月06日 | 本と雑誌
 
 ディドロ『ブーガンヴィル航海記補遺』を読んだ。
 森本和夫編『婚姻の原理--結婚を超えるための結婚論集』(現代思潮社、1977年改訂版)に収録されたもの。出典一覧には、浜田泰佑訳とだけあって、出版元、出版年が明記されていないが(290頁)、岩波文庫版か。
 森本氏が本書を編集した意図は、本書のサブ・タイトルや、彼の『家庭無用論』にも示されていたように、最終的には家族の死滅、国家の死滅を目ざすマルクス主義の立場に至る結婚論の系譜をたどることにある。
            
 ディドロ(1713~84年)は高校の世界史で習った「百科全書」の編纂者として知られる(ディドロ、ダランベールと対で覚えた)フランス革命前の啓蒙思想家である。顔写真を載せたいと思って、息子の世界史教科書や参考書を調べたが出ていない。山川の『詳説世界史研究』に至ってはディドロの名前すら出ていない。
 あれこれ探して、ようやく『新世紀ビジュアル大辞典』(学習研究社)に、彼の銅像の写真が載っているのを見つけた。一辺4センチ足らずの小さな写真のため、拡大したらぼやけてしまった。
          
 ※だったのだが、2023年5月14日に下の写真に差し換えた。

     

 下の写真はディドロ、ダランベールが編纂した百科全書の要約版である岩波文庫の『百科全書』(桑原武夫訳編)。
 世界史の教科書や参考書に書いてある啓蒙思想の紹介には、本書『ブーガンヴィル航海記補遺』を読んでみると、ディドロの紹介としては疑問がわく記述もあるが、柴田三千雄他『新世界史B』(山川出版社)の、啓蒙思想は「ひろい範囲にまたがり、個人差も大きいが、・・・教会や神学の独善を激しく批判し」た、という共通点の指摘は大いに納得できる。
          
 
 さて、ブーガンヴィルというのは18~19世紀に活躍した実在のフランス人である。法律家として出発しながら、後には探検家、航海家となり、アメリカ独立戦争にも従軍し、さらには数学の著書もあるという、フランス革命期の人物である。“ブーゲンビリア”という花は、彼にちなんで命名された植物だそうだ。
 世界を一周した航海家としての彼は、『世界周航記』という本を出版している(邦訳は岩波書店刊)。しかし『ブーガンヴィル航海記補遺』の方は、この航海記に藉口して(?)、ディドロが自らのフランス文明批判を論じたものである(らしい。解説がないので不明だが)。
 ブーガンヴィルの航海に同行したフランス人従軍牧師と、寄港先のタヒチで彼の接待役となったタヒチ人青年オルーとの対話という形をとっているが、実際は著者ディドロが対話形式で革命前フランスの宗教および性道徳を批判した内容となっている。
 
 オルーが語るタヒチ人の習俗が本当に当時のタヒチの習俗を正しく語っているのか、ぼくには判断できない。ブーガンヴィルの『世界周航記』にそのような記述があるのかも、同書を見ていないのでわからない。
 ただ、江守五夫『結婚の起源と歴史』(現代教養文庫)によれば、遠来の異人に対して部族の主人が性的なもてなし(婦女の提供)を行なう習俗は南太平洋の随所に残っていたようで、その性的なもてなしを拒むことは主人を侮辱し、主人に対して敵意を表明したものとして、場合によっては殺されることもあったという(江守157頁)。
 ただし、江守氏の著書には「タヒチ」と明示して、そのような性的供応の習俗があったとは書いてないので、以下はすべてディドロが本書においてタヒチの習俗として紹介したままに記述している。なお[ ]内の見出しは便宜的にぼくがつけたもの。

 [性的なもてなしについて]  従軍牧師の接待役となったタヒチ人オルーには妻と3人の娘があった。最初の夜、オルーは牧師に向かって、「一人寝はつらかろう」と言って、若い末娘を提供する。「私の宗教が、私の職分が・・・」といって固辞する牧師だったが、このもてなしを拒むことは末娘を侮辱することだと説得され、受け入れることになる。
 自分の娘に性的接待をさせることは、うまくいけばオルー一家に子をもたらし、その子たちは労働力となり、場合によっては他部族への奴隷として提供することもできる。したがって、オルーにとって、娘たちを異人に提供することは、やって来たフランス人から税金を取り立てる意味があるという。
 しかも同地にあっては、娘が結婚する際にすでに子持ちであることは、夫から歓迎されこそすれ、結婚の妨げになることはない。夫は喜んで子どもたちの父親になる。妻が結婚の時点で誰かほかの男性の子をはらんでいても構わない。
 最終的に出航するまでの間に、牧師は、オルーの次女、長女、そして最後の夜にはオルーの妻とも一夜を共にし、性関係を結ぶことになる。

 [結婚とは何か]  オルーに言わせれば、生涯一人の相手とだけ契りを結ぶというフランスの結婚は自然の掟に反し、理性に反するものである。
 オルーは、フランス人の夫は本当に結婚の間ほかの女性と関係をもたないのか、フランスの妻は夫以外の男と関係をもたないのか、と牧師に尋ねる。牧師は「残念ながら、実はそのような関係はありふれたことである」と答えざるを得ない(24頁)。
 それでは、タヒチ人にとって結婚とは何かという牧師の問いに、オルーは「都合がよい限り、同じ小屋に住み、同じ寝床で一緒に寝ようという約束だ、都合が悪くなったら別れればよい」と答える。子どもたちはどうするのかという牧師の問いには、子どもは一家の財産であるのと同時に世間の財産でもある、子どもが増えることは部族にとってもよいことである、別れる夫婦双方で協議して分け合うのだ、と答える。
 牧師は、この人たちには嫉妬という感情がないようだ、夫婦愛とか母性愛といった感情はないようだと独り言をいうが、かえって、オルーは、不義の子を捨てなければならないフランスの妻や、妻の産んだ子が本当に自分の子かと猜疑心に苛まれるフランスの夫を憐れむのである(25頁)。

 [近親相姦について]  父と娘が同衾し、母が息子と同衾することを当然とするタヒチ人オルーに向かって近親相姦を批判する牧師に対して、オルーはこう反論する。
 「もし神(このタヒチ人は万物の創造主を「(万物を作る)職人の親方」と呼んでいる)が最初にアダムとイヴを作ったとして、もし2人の間に女の子しか生まれず、しかもイヴが先に死んでしまったら、どうやってアダムは子孫をもうけることができたのか? もしアダムとイヴの間に男の子しか生まれず、しかもアダムが先に死んでしまったとしたら、どうやってイヴは子孫をもうけることができたのか」と問いかけて、近親相姦を当然のことのように言う(32頁)。
 ぼくは聖書には疎いが、創世記には、アダムとイヴの子どもたちはどうやって3代目をもうけたと書いてあるのだろうか。この近親相姦の許容もディドロの見解であろうが、モンテスキュー『法の精神』もそうだったが、フランスの啓蒙思想家の近親相姦への許容的態度は、フランスのどのような文化、思想に由来するのだろうか。2人とも、大航海時代にヨーロッパにもたらされた世界各地の習俗に関する知見から、そのような見解に至ったのかもしれない。

 [自然状態と自然法]  ディドロが、オルーというタヒチ青年の口を通して語るタヒチの習俗と自然の掟は、実はディドロが理想とする自然状態と自然法を描いているようだ。
 ディドロは、本来悪とされるものの他は何も法律や世論によって悪とされることのない、仕事や収穫は共同体でなされ、「所有権」の範囲はきわめて狭く、恋愛の情念は肉体的欲求に還元され、島全体が一つの家族のようであると、タヒチの習俗を要約する(40頁)。そして、くだんの従軍牧師は僧衣を投げ捨てて、残りの生涯をタヒチ人と共に過ごしたいと願ったであろうと想像する(同頁)。
 タヒチ人こそが、文明国民よりも良き立法に近づいて、自然法を守った(42頁)。これに対して、ヨーロッパ人は、相矛盾する自然法と市民法と宗教法に服従させられることで、常にこれら3つの法典にかわるがわる違反せざるを得ない状態にある。もし、永遠の人間関係の上に道徳が樹立されるなら、自然法に従うことによって、他の2つの法律は必要なくなる(41頁)。
 「貞節」(fidelite)とは、律儀な男と律儀な女の我慢くらべの難行苦行であり、「操」(constance)とは、一瞬の陶酔のためにめくらにされている身の程を知らない二人の子供の哀れな虚栄であり、「嫉妬」とは、われわれの間違った習俗の必然の結果である、ということになる(42~43頁)。そして、女性が男性の所有物となったときから、「羞恥」、「慎み」、「行儀」といった架空の美徳(すなわち悪徳)が生じたという(44頁)。
 ヨーロッパ人は両性の間に柵を設け、両性が互いに誘い合って彼らに課せられた法律を犯そうとするのを防止しようとしたが、その柵はかえって彼らの想像を灼熱させ、欲望を刺激する(同頁)。ヨーロッパでは、人間の自然の衝動(=性衝動だろう)に従うことを悪徳とし、自然がわれわれに与えた偉大で、甘美で、無邪気な楽しみを堕落の源泉としてしまった(45頁)。

 [再び結婚について]  もっとも、ディドロは、「結婚」とは一個の雌が雄全体の中から一個の雄に限って許す選り好みである、一個の雄が雌全体の中から一個の雌に限って許す選り好みのことで、期間はともかく継続的な結合を生じさせ、個体を生殖することによって種族を永続させるものだから、結婚は自然なことだとも言う(42頁)。
 この「選り好み」の手段が“galanterie”であるという。訳者は「いんぎん」(慇懃)という訳語を当てているが、辞書で調べると、“galanterie”には「①(女性に対する)慇懃さ、親切。丁重;色好み」とあり、「③[古語]色事、情事→aventure.」といった訳語があてられている。「いんぎん」ではないだろうが(もっともぼくは「慇懃」の正確な語義を知らない)、どれが適訳なのか。そもそも、この語に対応する日本語があるのか。

 他方で、「汝の妻以外の女を知るべからず、汝の妹の夫となるべからず」という禁制を奇怪なものだというところを見ると(46頁)、ディドロは、結婚として、生殖を目的とした男女間の単婚を想定しているが、終身ではなく期間の定めのある有期の、しかも配偶者以外の異性との交渉(「文明国」の用語で言えば姦通、不貞)を許容し、近親者同士の結婚も認めるという、緩やかな条件の結婚制度を想定しているようだ。
 男性の専制は女性を所有権の対象とし、習俗と慣例は婚姻関係に条件を負わせすぎ、市民法は婚姻を無限の形式的手続きに従属させ、子どもの出生は国家の富の増大をもたらすはずなのに実際には家庭の貧困の増大を招いている(46頁)。
 われわれは自然や幸福から何と遠いところにいるのだろう、とディドロは嘆く。 

 ディドロがタヒチの習俗に仮託して語った上記のような自然法、結婚観を、編者の森本氏も家庭無用論、家族の廃絶への系譜の出発点と考え、このオムニバス形式の『婚姻の原理』という結婚論集の筆頭に置いたのであろう。
 ブーガンヴィルのタヒチに関する知見から前近代ヨーロッパの家族、婚姻を批判したディドロの態度は、モルガン『古代社会』で得た知見から家族の死滅を説くエンゲルスを思わせ、あるいは、台湾原住民の習俗に依拠して明治民法の改正を提案した岡松参太郎を思わせるものがある。

 ※ ただし、訳者浜田泰佑氏の解説に引用されたアンリ・ルフェーブルによれば、ディドロはタヒチの性道徳と対比してヨーロッパの(カトリックの)性道徳を批判し、「自然に帰るか? 法律に従うか?」と問いかけ、「不条理な法律を攻撃するのだ」と言いながら、最終的には「さしあたっては(悪法でも)法律に従うのだ」とあいまいな結論に終わっていると批判されている(岩波文庫159頁)。

 2021年4月6日 記


  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

「軽井沢」を名乗るな ! ?

2021年04月02日 | 軽井沢・千ヶ滝
 
 3月31日の朝、「羽鳥慎一のモーニング・ショー」で、軽井沢ネタをやっていた。その内容に驚いた。
 軽井沢町の町長が記者会見を開いて、周辺の安中市、長野原町、嬬恋村、御代田町、佐久市などに対して、その地の観光施設、不動産や商品に「軽井沢」という名をつけないでほしいと要望したというのである。

 軽井沢町側の言い分では、これらの地域にあるペンションなどの施設が「軽井沢」を名乗ることで、誤解した観光客が「タクシー代が1万円以上かかった」などというクレームを町役場に言ってくるので迷惑しているということのようだ。移住ブームで軽井沢の地価が上昇していることとも関係があるらしい(お前たちは軽井沢移住ブームに便乗するな、ということか)。
    

 たしかに、軽井沢駅からタクシーで行ったら1万円はするような、鬼押し出しのさらに北にある施設で「軽井沢」を名乗っているところはある。
 しかし、テレビでもコメンテーターが言っていたように、昔から「北軽井沢」は行政上は軽井沢町ではないが(群馬県!長野原町)、北軽井沢を名乗り、独自の文化をもっていたし(法政大学村)、かつての草軽電鉄の駅名だって「北軽井沢」駅だった。軽井沢の北側にあるのだから北軽井沢でいいだろう。下の写真は「カルメン、故郷に帰る」に出てくる北軽井沢駅。
             

 これが駄目だとしたら、東横線沿線を「城南」地区と呼ぶこともできなくなってしまう。江戸城の南側ではあるが、江戸城内ではない。将軍が鷹狩りをするただの田舎だった場所である。

 番組の中でコメンテーターも言っていたが、詐欺的な「軽井沢」の表示でだまされたと思う人は、当該施設や不動産屋に対してクレームをつけるべきで、軽井沢町の問題ではないと思う。町にクレームが来たら、「そんなことはあなたが利用した施設、業者、あるいは国民生活センターに言って下さい」と答えれば済む話ではないか。
 同じくコメンテーターが(NGトークで)言っていたように、「東京」ディズニーランドが千葉県の浦安にあったから怪しからんといって、東京都にクレームをつけるようなものである。
    

 それにしても、どうして軽井沢の一部の(多数か?)住人たちはこうも狭量なのか。軽井沢の西側の地区が「西軽井沢」と自称するなら、むしろ軽井沢が道標になったことを誇ればよいではないか。さすがに、安中、佐久市となると、どうかとは思うけれど。

 柳田國男によれば、もともと「軽井沢」は碓氷峠あたりの地名だった。「かろふ」(=背負う)「さわ」というのが語源で、馬にひかせて運んできた荷物を、人間が背負って渡らなければならないほどに急峻な峠を流れる沢という意味だと何かの本に書いてあった。
 だとすると、碓氷峠の沢側ではなく頂の側にある旧軽井沢だって僭称といえば僭称である。厳密に地理的にいえば、「軽井沢」と称することが許されるのは、せいぜい熊ノ平か見晴台までだろう。現在の軽井沢駅だって、以前の草軽電鉄では「新軽井沢」駅と称していた。
 前にも書いたが、旧軽井沢の住人の中には、中軽井沢が「軽井沢」を称することさえ不愉快に感じている人がいるらしい。
 今回の軽井沢町長の記者会見の真意は那辺にあったのだろうか。
      

 そもそも、現在の「軽井沢」にどれほどのブランド力があるか、ぼくには疑問である。
 ショッピング・モールや大衆的なゴルフ場を訪れる人たちにとって、現在の軽井沢は、コストコのある入間や三郷程度の記号性しかないのではないか。かつてはあったかもしれない「軽井沢」のブランド価値は、この20~30年間で費消されつくしてしまったように思われる。
 ぼくは、三浦展に着想を得て、現在の軽井沢という地域の性格を、東京の「第三郊外」と考えている(『郊外はこれからどうなる?』中公新書クラレによれば、田園調布、成城学園、吉祥寺が「第一郊外」、多摩ニュータウンが「第二郊外」とされる)。ツルヤの食品売り場を行きかう中高年夫婦を眺めるたびにそう思う(ぼくも当事者の一人である)。
 軽井沢町は、長野原町や御代田町にいちゃもんをつける時間があったら、軽井沢の「多摩ニュータウン化」をどのように防ぐかを考えた方がよいのではないか。

 すでに何度も書き込んだけれど、ぼくにとっての「軽井沢」は、とっくの昔に「幻の軽井沢」となってしまっていて、現在の俗化して高齢化した軽井沢は「ぼくの軽井沢」ではない。
 しかも、ぼくにとっての「軽井沢」は、むしろ「千ヶ滝」の思い出であって、旧軽族が中軽井沢を「軽井沢」と呼ぶなというなら、あえて「軽井沢」と呼ばなくても構わない。
 ただ、ぼくがはじめて千ヶ滝を訪れた昭和31年には、下車した信越本線の最寄駅は「沓掛」駅と名乗っていたのだが、その翌年には「中軽井沢」駅に改称されてしまったし、行政上の地番は初めから軽井沢町長倉だし、郵便局がつけたハウスナンバーも軽井沢町千ヶ滝だったので、「軽井沢」と言い習わしてきただけである。
               

 ぼくの思い出の中にある「軽井沢」は「千ヶ滝文化村」の周辺の木々や山道や山荘であり、そこを行き来していた人々の姿である。
 こけもも山荘、培風館山本山荘(上の写真)、東京女学館軽井沢寮、観翠楼、グリーン・ホテルなどの建物の佇まい、そして、テラスでタイプライターを打っていたドナルド・キーンさん、散歩する中村草田男さん、与謝野馨さん、波多野勤子さん、叔父叔母、従弟、祖父母たち、「小松さん」や「島村さん」の娘さん・・・。
 西武プロパティの広報誌が「千ヶ滝通信」と銘うっているのを、ぼくは見識だと思っている。

 ただ、正直に言えば、同時にぼくは千ヶ滝にあった「軽井沢スケートセンター」にも、「西武百貨店軽井沢店」にも多くの思い出があり、今でも懐かしく思っている。考えてみれば、これらの施設は、ひょっとするとぼくが忌み嫌う、その後の軽井沢の俗化の出発点になってしまったかもしれない。
 いずれにしても、変わらないのは浅間山だけである。「カルメン、故郷に帰る」で浅間山に向かって「変わらないのは浅間山だけである」と吟じた中学校長(笠智衆、下の写真の中央)の気持ちがよく分かる。
              

 
 2021年3月31日 記


  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

“ ふな与 ” 閉店!(2021年3月31日)

2021年04月01日 | あれこれ
 
 大泉学園の、鰻の“ ふな与 ”さんが昨日3月31日で店じまいしてしまった。

             

 この町の古い住人なら、“ ふな与 ”が大泉学園で随一の食べ処であることに異論はないだろう。その“ ふな与 ”が閉店してしまうというのだ。
 息子さんも継いで、蒲焼を焼いていたから、よもや閉店などあろうはずもない、大泉の“ ふな与 ”は不滅だと勝手に思い込んでいたので、閉店の記事に接してびっくりした。

             

 毎日新聞3月1日付の「還暦記者鈴木琢磨の、ああコロナブルー」という連載欄に、「うなぎ屋の煙が目にしみる」と題して、“ ふな与 ”の閉店が記事になっていた。 
 どうも、前に書き込んだ大泉学園の古書店<ポラン書房>の閉店とつながっているらしい。
 この記事を書いた鈴木記者が、閉店する<ポラン書房>を取材した折に、“ ふな与 ”のご主人が「先を越されてしまったか・・・」と呟いたのを耳にしたのが、 “ ふな与 ”閉店の記事のきっかけだそうだ。
 うちは以前から東京新聞しか取ってないので知らなかったのだが、家内の知り合いが教えてくれた。
 慌てて記事が載った翌日、3月2日の昼前に出かけたが満席だったので、近所を小一時間散歩して1時過ぎになってようやく鰻にありついた。後日改めて、家内および、まずは長男夫婦と、その後でもう一回、二男夫婦と食べに行った。

             

 亡くなった父は小食で、食の趣味はまったくなかったが、鰻だけは大好物で、時おり“ ふな与 ”さんへ出かけたり、出前を取ったりしていた。大泉でお客さんをもてなして恥ずかしくない店はここくらいしかない。生前元気な父と最後に出かけたのも“ ふな与 ”さんだった。
 父が亡くなってからは、せいぜい年に2、3回といったところで、コロナ禍の去年は、持ち帰りを1回頼んだだけだったが、申し訳ないことをした。

            

 “ ふな与 ”のご主人、竹島善一氏は、毎日新聞の記事にもあるように、写真が玄人はだしで、写真集も数冊出版している。とくに会津を撮った写真が多いが(『会津・農の風景』新泉社、『谿声山色--奥会津に見る正法眼蔵の世界』奥会津書房など)、世界中を旅していて、文革時代(だったか)の人民中国から、内戦前のアフガニスタン、ヨーロッパ最西端のイギリスの島(名前は忘れた)まで旅行したと伺ったことがある。
 アフガニスタンの人々を撮った写真集もある。カメラの向うの子どもや老人たちの穏やかな表情が印象的である。本当のイスラム社会の穏やかさを見ることができる。

          

 従来は、ひるは11時半の開店、よるは午後5時の開店だったが、記事が出て以降は、開店時間の前から店の前に行列ができ、開店時間と同時に、並んでいた客だけで品切れとなってしまい、「本日は売り切れました」の貼り札が貼られ、暖簾がかかることもなくなってしまった。列の後ろの方に並んだ人は入れなかったこともあった
 最後のときは、午後4時に偵察に行ったらすでに先客が一人並んでいたので、ぼくも慌てて列に並び、5時に入店してようやく鰻重にありつけた。
 
                         

 上の写真は、そこまで混雑する前に撮った“ ふな与 ”の暖簾。新聞記事には片岡千恵蔵から贈られた暖簾のエピソードが紹介されていたが、その暖簾ではなさそうだった。
 「暖簾をおろす」というというのは、店じまいの紋切り型の表現だが、今回は実感がある。
 
            

 上の写真は、店じまいしてしまった後の4月のある日の“ふな与”さんの佇まい。

 2021年4月1日 記


  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする