豆豆先生の研究室

ぼくの気ままなnostalgic journeyです。

草軽電鉄の思い出 『草軽 のどかな日々』

2010年10月28日 | 軽井沢・千ヶ滝
 
 宮田道一『草軽 のどかな日々』(ネコ・パブリッシング、2003年)という本をアマゾンで見つけたので、さっそく買った。

 すでに廃線になって久しい草軽電鉄の車両と沿線風景を集めた56頁の薄い写真集だが、懐かしい往時の草軽電車をしのぶことができた。
 何度もこのコラムで書いたことだが、ぼくは残念なことに、草軽電車に乗ったことがない。わずかに旧軽井沢駅(今の“旧軽銀座”の入口あたり)に停まっているのを見た記憶が残っているだけである。
 最後まであのように風変りな形をした電気機関車に牽引されていたらしいが、あの電気機関車(カブト虫と呼ばれていたらしい)を見た記憶はない。
 下の写真は、現在の旧軽井沢ロータリー脇の旧軽井沢駅舎跡に建つ草軽電鉄「旧軽井沢駅」の標識風の道案内板。
     

 最近になって草軽電車の復活運動などもあるらしいが、もはや手遅れだろう。先日NHKの“世界の街歩き”(?)でヨーロッパのどこかの街を歩いていたが、その街では路面電車は廃止になってしまったが、いつか復活する日のために線路は撤去しないで残してあると紹介していた。
 昭和34、5年頃の軽井沢には、そのような展望をもつことができた人はいなかったのだ。ときどき心の中に思い浮かべるしかない。

 夏休みに軽井沢で見た木下恵介監督の“カルメン故郷に帰る”は、軽井沢が舞台の映画だった。
 草軽電車に乗って主人公のカルメン(高峰秀子)が北軽井沢駅に降り立つシーンで始まり、再び彼女が北軽井沢駅から草軽電車に乗って軽井沢を去っていくシーンで終わる。
 冒頭には、彼女が乗った草軽電車の電気機関車のボンネット(?)の上にゴザを敷いて、旅館の主人と番頭が話しているシーンがある。走行中の電車である。こんなことが草軽電車ではできたのだろう。
        

 小学校長の笠智衆たちが北軽井沢駅のプラットフォームで出迎えるシーンも、のんびりした雰囲気が伝わってきて、当時がしのばれる。
        

 映画の中の草軽電車は3両編成で、電気機関車、客車が1両、そして最後に無蓋車が連結されていた。
 先頭は「デキ12号」という電気機関車。通称「カブト虫」と呼ばれていたらしい。映画の冒頭のシーンでは、ボンネットの方が進行方向を向いていて、その上に人が座っていた。     
        

  続いて客車。北軽井沢駅に到着した電車から高峰秀子が降り立つシーンだが、客車の窓から物珍しそうに映画の撮影風景を眺める乗客たちの表情が印象的である。      
        

 最後が無蓋車。本当は荷物べも運ぶのだろうが、映画のラストシーンでは、高峰秀子と相方が乗って、沿線の人たちに投げキッスを連発していた。
        

 関心のない人にとっては有難みのない古びた写真に過ぎないだろうが、ぼくにとっては万感胸に迫る(ちょっと大げさ)写真である。ぼくの記憶では客車はもっと短かったように思う。昭和34、5年頃は無蓋車は連結されていなかったのではないだろうか。

 ちなみに“カルメン故郷に帰る”の舞台は北軽井沢という設定になっているが、撮影は中軽井沢でしたのではないだろうか。佐野周二がオルガンを弾き、佐田啓二がフォークダンスを踊っている校庭は、背後に写っている浅間山の形からすると、中軽井沢(当時は沓掛)で撮影したのではないかと思う。国道18号から眺める浅間山のかたちに見える。 
        

 左側の小さい山が石尊山なら、軽井沢中学校か東部小学校あたりのような気がするが、あれが小浅間山だと、やっぱり浅間牧場か北軽井沢なのだろうか・・・。
 笠智衆が浅間山に向かって詩吟をうなるシーンがあったが、この浅間山はまさしく北軽井沢側からの眺めである。
        

 * 文中の写真は“カルメン故郷に帰る”から。

 2010/10/28

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小津安二郎 “落第はしたけれど”、“青春の夢いまいづこ”

2010年10月24日 | 映画
 
 小津の戦前のサイレント時代の作品を2本見た。
 最初が“落第はしたけれど”(1930年)、次が“青春の夢いまいづこ”(1932年)で、どちらも早稲田大学(と思しき大学)を舞台にした大学もの。

 “落第はしたけれど”は、同じ下宿で共同生活をしてきた学生たちのうち、3人は卒業できたのに、他の連中に勉強を教えていた斎藤達雄だけが落第してしまう。しかし卒業することができた3人も就職難のために就職できず、逆に留年した斎藤の方が、恋人の田中絹代に励まされながら元気にもう1年大学生活を満喫している、といった話。
 ストーリーに起伏がないし、試験のカンニングの方法も月並みなために、退屈する。
 サイレント映画とはこうも静かなものなのか・・・。フィルムの保存状態が悪いうえに、旧漢字・旧かな遣いの字幕が読みにくくて何度も巻き戻さなければならなかった。

                         

 “青春の夢いまいづこ”も同じく大学生4人組(江川宇礼雄、斎藤達雄、笠智衆、伊集院光[似の肥った男])の話。 中小企業の社長のボンボンである江川宇礼雄は急死したオヤジの後を継ぐために大学を中退する。残りの3人は何とか卒業にこぎつけるが、これまた就職難のために結局江川の会社に全員拾われる。江川は大学前のベーカリーの娘(田中絹代)にプロポーズするが、すでに娘は4人組の一人、斎藤達雄のプロポーズを承諾してしまっていた。
 貧しい母親(飯田蝶子、この人はこの時何歳なのか!)を助けるために必死で猛勉するのだが、頭が悪く成績は振るわず、性格も暗い斎藤を自分の明るさで支えてやりたいと田中は言う。ところが、江川に借りがある斎藤は田中をあきらめようとする。
 恋人さえ友人に譲ろうとする斎藤に対して江川は激怒して平手打ちを喰らわせる。

 “青春の夢いまいづこ”にはストーリーもあり、“落第はしたけれど”よりはだいぶ良かった。“落第は ~ ”の斎藤と“青春の ~ ”の斎藤の役が違いすぎるので、やや戸惑うが。斎藤に大学生役は無理なのではないか。あるいは、昭和初期にはああいうロートル大学生もいたのだろうか。
 “青春 ~ ”のラストシーン、新婚旅行の列車の窓から手を振る二人を、会社の窓から旧友たちが手を振って見送るシーンは、“早春”だか“秋刀魚の味”だったかにもあった。やっぱり小津は「豆腐屋」である。

 * 写真は、“落第はしたけれど”、“青春の夢いまいづこ”(松竹ホームビデオ・小津安二郎大全集)のケース。

 2010/10/24

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小津安二郎 “東京の宿”

2010年10月21日 | 映画
 
 大学の視聴覚センターの棚に、“小津安二郎大全集”というVHSビデオのシリーズ(松竹ホームビデオ)が並んでいるのを先日見つけ、まずは“大学は出たけれど”と“生れてはみたけれど”の2本を見た。

 「禁帯出」のレッテルが貼ってあるので、暇な時に学内で見なければならないのだが、昨日、会議と会議の空き時間に立ち寄って何か見ることにした。
 空き時間は90分しかないので、上映時間で選ばなければならない。
 前回とのつながりで、“ ~ はしたけれど”シリーズの“落第はしたけれど”(64分)にしようかと思ったが、一本も見たことのない「喜八もの」の“東京の宿”(1935年、84分)を見ることにした。スチール写真でしか知らない岡田嘉子という女優も見たかったので。

 小津にとって現存する最後のサイレント作品らしい。映画の方式のことはよく分からないが、「サウンド版」と書いてあるものもある。セリフは全部タイトルで表示されるが、音楽は音声で流れる方式のことだろうか。
 職を失った坂本武が二人の幼い息子を連れて職探しをつづける。父親はどこの工場でも門前払いを食らい、収入はない。一家は、息子たちが野犬を捕まえては市役所からもらう1匹につき40銭の手当で暮らし、夜は「萬盛館」という雑魚寝の宿で夜露をしのいでいる。

 同じような境遇にある母娘(母が岡田嘉子)と知り合い、親子ともども親しくなるが、岡田の娘が疫痢になり、入院代を払うために岡田は酌婦となる。それを知った坂本は旧知の飯田蝶子に借金を申し込むが断られ、思いあまって盗みを働いてしまう。
 警官(笠智衆)に追われて飯田の家に逃げ込んだ喜八は、息子たちのことを飯田に頼んで自首する。
 最後のタイトルが、「これによって、一人の魂が救われた」となっている。
 当時の酌婦というのがどのような仕事をする職業だったのか知らないが、おそらく売春だったのだろう。岡田にそのようなことをさせないために、喜八は窃盗さえ犯す。それを小津は「(おそらく岡田の)魂が救済された」のだという。

 ここに描かれたような庶民の生活が、戦後の小津作品に登場するのは“長屋紳士録”だけで、それ以降小津はこういう世界からは離れてしまう。しかし、この作品にも、後の小津作品との共通性はたくさん見られる。
 売春を嫌悪するのは“風の中の牝雞”の文谷千代子に対する説教にも見られるし、実子のいない飯田蝶子が他人の子を引き取らされるのは“長屋紳士録”の中にもあった。「子どものいないあんたには、子を持った親の気持ちは分からない」という飯田蝶子に対して惨すぎるセリフまで“長屋紳士録”と同じである。
 小津の作品にしばしば登場するゴミ箱と物干しの「カーテンショット」も何度か出てきた。“早春”では、池辺良の家の向かいのかみさん杉村春子が、ゴミ収集が来ないから区役所に文句を言わなきゃ、というシーンもある。 
 昭和考古学の貴重な資料である、というより昭和25年生まれのぼくには、とても懐かしい風景である。昭和30年代のゴミ箱はこれより少し進化した形になっていたが・・・。

             

             

 * 写真は、小津安二郎監督“東京の宿”(松竹ホームビデオ)のケース。

 2010/10/21

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小津安二郎“戸田家の兄妹”--文谷千代子ほか

2010年10月18日 | 映画
 
 小津安二郎の映画の中で、ぼくが見そめた女優さんの話。

 “晩春”の月岡夢路、“秋日和”の岡田茉莉子、“秋刀魚の味”の岩下志麻、古くは“東京の宿”の岡田嘉子なども綺麗なのだが(ただし岡田嘉子はスチール写真でしか見たことがない)、10数本見た小津作品の中でぼくが一番気に入った女優は、どうも文谷千代子というらしい。

 最初の出会いは“戸田家の兄妹”(1941年製作)である。
 この中で、戸田家の長女(吉川満子)の女中役を演じていて、2、3シーンでちょっとだけ登場する質素な着物姿の女優が好きになった。生意気なこの家の息子に邪険に扱われても、ただ「はい」と答えるだけの従順な娘である。
 配役では「女中きぬ・河野敏子、たけ・文谷千代子、かね・岡本エイ子、しげ・出雲八重子」とだけあって、どの家の女中がどれなのか分からなかった。

 その後に見た“東京暮色”(1957年)に出てくる鰻屋の女中も、横顔しか見えなかったがこの女優のような気がした。しかし『小津安二郎を読む――古きものの新しい復権』(フィルムアート社)で調べると、「うなぎ屋の少女・伊久美愛子」と書いてあり、別人だった。確かに年代的にも合わない。

 ところが、この間の日曜に“父ありき”(1942年)を再び見ていたら、東京に出てきた笠智衆の家の女中を演じているのがこの女優のような気がした。また『小津安二郎を読む』で調べてみると、「堀川(笠智衆の役名)の女中・文谷千代子」とある。
 写真は、笠智衆の具合が悪いことを、たまたま兵役検査のために上京中だった息子の佐野周二に伝えに来たシーンである。

               

 これで、“戸田家の兄妹”に出てくる4人の女中役の女優と一致する「文谷千代子」というのがぼくのお気に入りの女優だと、ようやく確認できた。井上和男編『小津安二郎全集・下巻』に収録された“戸田家の兄妹”の脚本でも、長女宅(赤坂の浅井邸となっている)の台詞に「たけ」とあるので、たけ=文谷千代子で間違いなさそうである(同書636頁)。

 こうして、ぼくは自分が好きな人の名前を知ることができたのだが、彼女は“戸田家の兄妹”や“父ありき”では2、3シーンにちょっと出てくるだけで、コマ送りで確認しようとしてもあまりはっきりとは映っていない。しかし「文谷千代子」なら、“風の中の牝雞”にたっぷり登場する。
 主人公の佐野周二が、敗戦後に生活苦から妻が売春をした宿に女を買いに行くと、呼ばれてやって来た若い売春婦を演じているのが文谷千代子である。売春宿の窓辺に立って隣の小学校から聞こえてくる「夏は来ぬ」の歌声を聞いていたり、昼休みに荒川(?)の土手で弁当のおにぎりを食べていたりする。

               

 “風の中の牝雞”ではコマ送りなどしなくてもゆっくり眺めることができるのだが、どちらかというと、ぼくは戦争前の女中時代のぽっちゃりとした、おでこの彼女のほうが好きである。

 何かの本(もちろん最近読んだ「小津もの」)のどれかに、“風の中の牝雞”の文谷千代子は、後に誰か映画監督と結婚したと書いてあった。
 ネットで調べるとその通りで、小林正樹監督の奥さんだった。しかも驚いたことに小林正樹は田中絹代の親戚(従兄の子)だという。ということは、文谷千代子は田中絹代と姻戚関係にあることになる。“風の中の牝雞”の田中絹代という女優もぼくは好きである。
 台詞の喋り方がいい。溝口健二監督の“雨月物語”でも、幽霊になってからまで田中絹代の台詞の喋り方は良かった。

 * 写真は、“戸田家の兄妹”の文谷千代子。もちろん中央、奥の女性。

 2010/10/18

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『国鉄スワローズ』

2010年10月14日 | 本と雑誌
 
 先週末の朝日新聞の書評欄に載っていた堤哲『国鉄スワローズ 1950-1964』(交通新聞社新書、2010年)を読んだ。

 書評が載ったその日に近所の本屋に行ったが店頭に見当たらず、翌日の月曜、出勤の途中に西武百貨店のリブロに立ち寄ったら、書評で取り上げられた本を集めたコーナーに1冊だけ残っていた。
 あまり期待もしていなかったのだが、巻末に「国鉄スワローズ」の全戦績が、年月日、相手チーム、点数、勝利投手として掲載されていたので、買ってきた。
 そこで、大変に懐かしい事実を確認することができた。

 ぼくは子どもの頃は巨人ファンだったのだが、巨人・国鉄戦を後楽園球場に見に行ったことがあった。当日券は売り切れていたため、比較的裕福だった母親がダフ屋から券を買ってくれて観戦することになった。
 それだけでも結構不愉快な気持ちだったのだが、さらに巨人の試合内容が悪く、国鉄の新人投手村田を打ち崩せず巨人が負けてしまったのである。
 相当悔しかったのだろう、その後今日に至るまで「巨人に勝った国鉄の村田」の名前を忘れることができないでいる。

 そして今回、この『国鉄スワローズ 1950-1964』巻末の国鉄スワローズ全戦績で確認すると、新人の村田が後楽園の巨人戦で勝利したのは、1958年(昭和33年)6月15日のことで(ダブルヘッダーの第2戦)、6対3で勝利投手になっている。
 ぼくのこの記憶は52年前のこの試合だったことが確認できた。村田(元一)はその前年の1957年に明治高校から入団しており、入団の年には登板していないが、1958年の新人ではなかったようだ。
 
 もう1つ、ぼくの子どもの頃、わが家の数軒先に「宇佐美」さんという家があり、友達の間ではこの家が国鉄のコーチの家だと知られていた。
 物干しに背番号34のユニフォームが干してあるのを見た、などと吹聴する友達もいた(ぼくは見たことがない)。当時はコーチが選手のユニフォームまで洗濯していたのだろうか?
 いずれにせよ、この「宇佐美」も横浜高商出身でノンプロの国鉄を経由して、1950年のスワローズ球団発足時に捕手として入団し、1952年から1963年までコーチとして在籍していたことが分かった。

 わが家が現在の住所に引っ越してきたのが、1960年だから宇佐美コーチのスワローズ最後の3、4年はご近所さんだったらしい。
 
 その他にも、ぼくと国鉄との因縁をいくつか発見した。
 たとえば、国鉄スワローズが最初の本拠地にしたのは、今はなき「武蔵野グリーンパーク球場」だが、跡地は現在は武蔵野中央公園になっているという。この球場には中央線の武蔵境駅から引き込み線まで敷設されたという。
 ぼくは1978年に結婚した頃、武蔵野市緑町のアパートを借りていたが、道を挟んだ向かい側は広大な国鉄職員の官舎だった。当時の会社の同僚に、親父さんが旧国鉄マンで小さい頃にこの緑町の官舎に住んでいたという人がいて、彼によれば、当時は引き込み線があったという話を聞いたことがあった。
 しかし、彼からグリーンパーク球場のことは聞かなかったように思う。

 さらに戦後史上の重大事件である、三鷹事件、松川事件、桜木町事件、洞爺丸事件、三河島事件などなどが、すべて国鉄スワローズの運営に影響を及ぼしていたことなども知った。
 考えてみれば、今年は国鉄スワローズの創設60年だが、三鷹事件60年でもある。

 ぼくが生まれた年、三鷹事件などが起きた1950年に生まれた国鉄スワローズはまさに「戦後」に生まれた野球チームであり、1964年(東京オリンピックの年)、「戦後」が終わりかけた年に、戦後とともに消滅したのだった。

 2010/10/14


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井上和男編 『小津安二郎全集』

2010年10月11日 | 映画
 
 井上和男編『小津安二郎全集』(新書館)を買ってしまった。

 「小津の映画を全部見てもいないのに、脚本を読んでどうするのだ」とも思ったが、“若人の夢”から始まって、“女房紛失”、“会社員生活”、“肉体美”、“結婚学入門”など、今日ではフィルムが残っていない作品のせめて脚本だけでも読んでみたいので買ってしまった。
 日本映画の草創期に一体どんな学園ものが撮られていたのか、また、家庭もの、サラリーマンものも一体どんなものなのか、映像で見られないのは残念だけど、活字で読んでみることにした。

 もともと、ぼくは本が好きで、野球でも映画でも関連する本を読まないと自分の脳みその中の落ち着くべき場所に落ち着かないところがある。
 映画に関しても、若い頃には佐藤忠男の『映画と人間形成』(評論社)や『映画の読み方』(ジャコメッティ出版)を読み、30代には川本三郎を読み、「キネマ旬報」の『アメリカ映画作品全集』(ヨーロッパも日本も)を読み、芳賀書店の『アメリカ映画史』だの「監督シリーズ」も読んだ。
 50代になって再び映画(ただしDVD)を見るようになったのも、芦原伸の『西部劇を読む事典』(NHK生活人新書)を読んだのがきっかけだった。そして、60歳になったこの夏からは、せっせと小津安二郎関係の本を読んでいる。

 思い返すと、ぼくの映画本の読書歴は結構古く、昭和30年代にさかのぼる。当時、アルス児童文庫というシリーズがあったのだが、父親がその中の1冊を執筆していたので、わが家にはこのシリーズが全巻そろっていた。
 その中に『映画の話』という1巻があって、それを読んだ記憶がある。今は手元にないが、ネットで調べてみると飯島正執筆のようである。他のことは何も覚えていないが、この本はビットリオ・デシーカの“自転車泥棒”のストーリーに従って、スチール写真がたくさん掲載してあった。おそらく子供向けに「映画の見方」を解説していたのではないかと思う。
 
 ということで、小津も映画だけでなく本を読まないと気が済まないのだが、『小津安二郎全集』は、まず別冊を読んだ。40頁弱の小冊子には、編者の井上和男と佐藤忠男、川本三郎の鼎談、井上による「私的小津論(ひと・しごと)」という小津論の2本が掲載されている。
 両方とも面白かった。多くの納得のいくことと、いくつかの納得できない記述に出会ったが、いずれにしても、井上や佐藤の小津の映画や人物に対する愛情が行間にあふれていて、読んでいて気持ちがいい。いくつか小津に関する本は読んだが、深いところで小津に対して距離のある著者の書いたものは、映画論としては立派なのかもしれないが良い読後感は得られない。

 井上は、小津の助監督だった塚本芳夫の葬儀までを切り盛りしたことから小津の寵愛(?)を得ることになったというが、塚本が急死してご両親が上京するあたりは感動的である。書いてあることには同感するところと、同感できないところがあったが、小津に対する尊敬と相互の愛情が感じられて気持ちがいい。
 “風の中の雌雞”を評価し、“東京暮色”の有馬稲子や“秋刀魚の味”の岩下志麻をほめるあたりは同感し、“東京暮色”の主人公は笠智衆だとする小津自身の発言に(佐藤を引用して)反論するところなどは同意できない。ぼくは笠智衆に引きずられすぎる嫌いがあるのだが、あの映画ではずっと笠智衆が気になってしまった。同じ“東京暮色”のラストシーンを激賞するところも違う。妹(有馬)があんなことになって姉(原節子)が上野駅に来るわけはないだろう。あのホームでの明大生たちの応援歌もいかにもレコードを流しているみたいで耳ざわりだった。
 “小早川家の秋”のラスト近くで、笠智衆と望月優子の農民夫婦が川で野菜を洗いながら、火葬場の煙突から出る煙を眺めて語るシーンも、ぼくは余計なものに思えた。まさに「砂利を噛まされた」思いである。

 しかし、“秋刀魚の味”について、中学校教師(東野英治郎)を軽侮し、かつては憧れだったその娘(杉村春子)の変貌に失望しつつ、実は、当の元生徒たち(笠智衆、中村伸郎、北竜二ら)自身にも老いが忍び寄っているという指摘もなるほどと思った。年をとって見ないとこの辺は分からないだろう。
 そして、“秋刀魚の味”が遺作では小津が気の毒だ、という野田の言葉に対する異議も頷ける。できれば“大根と人参”も見たかったが、“秋刀魚の味”で映画人生を閉じたことでも、十分に余韻は残る。

 不帰となった入院生活の際に、退院の時のことを心配して痩せた体型に合うように背広を注文した話、野球でアキレス腱を断絶させた時に背負った小津に比べて、棺桶があまりに軽くて泣いたところなどがいい。
 香典を回収に来た松竹の経理部長を追い返したために、城戸四郎から婉曲に解雇を言い渡され、その場で松竹をやめてしまうのも潔い。

 * 井上和男編『小津安二郎全集』(新書館、2003年)の箱。

 2010/10/10 きょうは46年前のきょう、東京オリンピックの開会式があった。土曜日で、東京は雲ひとつない晴天だった。

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FIAT 500 AZZURRA

2010年10月08日 | クルマ&ミニカー
 
 ホンダでフィットのハイブリッドを見たあとで、斜め向かいのフィアット青山に立ち寄った。
 何年か前のクリスマスの頃に、サンタクロース姿のルパン3世のデコレーションで飾られていた建物である。

 本当は、FIAT PUNTO EVOの鼻先がどんな具合なのか実物を見たいと思ったのだが、残念ながら青山のフィアット・ショールームには“FIAT 500”しか展示してなかった。
 “500 AZZURRA”--チンクエチェント アッズーラ--という日本限定カラーだという。ショールームのカクテル・ライトに照らされて、とても奇麗な色だった。日本車にはちょっとない色である。
 運転席にも座ってみたが、雑誌などの写真で見る500のインパネは、ちょっとデザインが遊びすぎのうえ色使いも落ち着かない印象だったのだが、意外と実物はPOPすぎるというほどではなかった。意外と背が高く室内も思ったより広く感じた(後席には座らなかったが)。
 
 このクルマも悪くはないなあ、という気になった。フィットのほうが性能はいいだろうけれど、そのうちに、きっと街中にあふれてしまうだろうから。
 応対のお嬢さんも明るくて好印象だった。

 * 写真は、青山のFIATに展示された“FIAT 500 AZZURRA”。ショールームの角いっぱいまで下がって撮ったのだが、リアが収まらなかった。
 下の写真は正面から。天井の照明がフロントガラスに映り込んで妙なデザインになってしまった。

 2010/10/8

                    

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ホンダ FIT ハイブリッド その2

2010年10月08日 | クルマ&ミニカー
 
 今度は、ビル内に展示されたフィット・ハイブリッド(FIT HYBRID)。

 フレッシュライム・メタリック色というらしい。

 発売当日とあって、展示場は人でごった返していた。いつもは比較的閑散としているのだが。外のパール・ホワイトのフィットも、ひっきりなしに人がリア・ドアを開け閉めしたりしていて、ゆっくりシートの感触や後方視界を確かめるゆとりはなかった。
 発売初日などに行くべきではなかった。

 一応、後姿もアップしておく。

             
 
 2010/10/8

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ホンダ FIT ハイブリッド (FIT HV)

2010年10月08日 | クルマ&ミニカー
 
 10月8日(金) 講義は午前中で終了。昼休みに修士論文作成中の院生の質問に30分ほど付き合った後、午後4時半からの進学説明会まで4時間時間があいたので、青山一丁目のホンダ本社に、きょう発売のFIT HV(フィット・ハイブリッド)を眺めに行ってきた。
 
 メトロ半蔵門線の青山一丁目駅で降りて地上に出ると、ホンダ・ビル前の路上に展示されたパール・ホワイトのフィット・ハイブリッドが目に飛び込んでくる。
 次の瞬間、目を疑った。フロント・ガラスに飾られたホワイト・ボードに、驚くなかれ、“2,100,000円”と価格が表示されているではないか。クルマ雑誌やネット上の予測では150万円程度と書いてあったのに。こんな値付けでは、やがて出るトヨタのヴィッツ・ハイブリッドはおろか、プリウスにも勝てないではないか、と思ってよく見ると、これは“プレミアム・ナビ・エディション”という最上級モデルの値段で、一番安い“フィット・ハイブリッド”は159万円だった。

 一応運転席に座ってみた。これまでのモデルとどこが変わったのか、分からなかったが、いつも通りのフィットの新車の香りがしていた。

 * 写真は、そのホンダ本社(ホンダ青山ビル)前に展示された“ホンダ フィット・ハイブリッド ナビ・プレミアム・セレクション”のパール・ホワイト。
 フロント・ガラスのボードに定価2,100,000円とあったので、一瞬驚いてしまった。

                  

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佐藤忠男『完本・小津安二郎の芸術』

2010年10月05日 | 映画
 
 佐藤忠男『完本・小津安二郎の芸術』(朝日文庫)、全653頁をようやく読み終わった。
 余計な脱線も何か所かあったが、圧倒的にすごかった。
 鉄道講習所に学ぶ17歳の映画好きの青年が、新潟でひたすら映画館に通って観客とともに小津安二郎の映画を見つづけてきて、さらに映画雑誌の編集者になってからは過去の作品を見る機会を得て、書き上げた大作である。

 一番印象的だったのは、小津の映画のユーモアについての記述で、佐藤は、具体的なシーンを特定して「ここで観客が笑う」と書いている。ぼくのように、一人でDVDを見ている人間には分からないことである。
 「映画というものは、映画館でみんなで見ていたのだな」と当然のことを改めて発見した。
 ただし、普通の勤労青年なら映画の向こうに「夢」を見てしまいそうだが、佐藤忠男は映画のスクリーンにしっかり「映画」を見ている。毎回映画を見るたびに「映画ノート」をとっていたらしく、自身の「映画ノート」からの引用もある。
 
 「視線の交叉」などといった難しいことは理解できなかったが、小津は家庭主義者だから家庭映画を撮ったのではなく、構図の安定性という様式を守るためには家庭映画しか撮ることができなかったという指摘は面白い(90頁)。
 ぼくはそれだけではなく、やはり小津には「家族」を撮らなければならない内的な必然性があったと思う。佐藤も何か所かで指摘しているように、妻の不貞を宥恕しようと思いつつ、それができない夫というテーマは繰り返し登場するし、「麦秋」、「晩春」、「東京物語」などが、構図のための映画とはとても思えないのである。
 ぼくの一番好きな「父ありき」なども、これが戦時中の国威発揚映画にはまったく見えない。むしろ、よくこんな映画が検閲を通ったものだと感心する。

 作品の内容について、佐藤は小津映画に見られる「甘え」をしばしば指摘する(318頁以下など)。執筆当時は土居健郎の「甘えの構造」が全盛の時代だったのだろう。
 厳しい父とは離れて生活し、やさしい母に生涯守られつづけたという小津の成育歴に照応させながら、小津作品のなかの「甘え」を指摘されると、確かにその通りと思わされるのだが、ぼくは10数本見ていて、「甘え」を感じたことはなかった。
 小津自身が言うほど「輪廻」も感じなかったが。

 本書にも、「風の中の牝雞」のなかで、田中絹代が階段から転げ落ちるあのシーンについての記述がある。
 多くの批評家たちから酷評を受けた「風の中の牝雞」をただ一人(?)、いち早く評価したのが佐藤忠男だったらしい。その点では、あの作品を好きなぼくとしてもうれしいのだが、佐藤によれば、残念ながらあのシーンは田中絹代ではなく「アクロバットの吹き替えの女」を使って撮影されたという(403頁)。

                   
         
 小津がシンガポールでイギリス軍から接収した「風と共に去りぬ」の、ビビアン・リーが階段を転げ落ちるシーンをスタントマンを使わないで自ら転げ落ちていることを確認して感動したというエピソードから、田中絹代自身が転げ落ちていると信じていたのだが。 
 もう一度あのシーンをコマ落としで確認したが、言われてみると落ちてくる女は田中絹代よりは丸顔に見える。必死の形相なのではっきりとは分からないが、そう書いてあるのだから、田中ではないのだろう。
 ただし、小津は、編集の際にあのシーンを15回も見直したという。やっぱり、小津にとって不貞はなぜか重要なテーマだったのだろう。尊敬する志賀直哉の「暗夜行路」を映画化したかったというだけの理由とは思えない。

 もう、この本で、小津安二郎「論」は打ち止めにしていいだろう。浜野保樹「小津安二郎」が高橋治「絢爛たる影絵」の盗用かどうかなどは吹っ飛んでしまう。
 ずっと映画青年として小津映画を見つづけてきた佐藤には、たまたま1作だけ助監督を務めた者や、メディア論の一端として小津映画を取り上げた者にはない説得力があった。

 * 佐藤忠男『完本・小津安二郎の芸術』(朝日文庫、2000年)。

 2010/10/5

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