豆豆先生の研究室

ぼくの気ままなnostalgic journeyです。

「アイリッシュ短編集 1、3」(創元推理文庫)

2024年05月30日 | 本と雑誌
 
 ウィリアム・アイリッシュ「さらばニューヨーク」(晶文社)を読んでから、この本に収録された短編は、その昔に読んだ「アイリッシュ短編集」に収録された短編と重複しているのではないかと疑念が生じ、持っている「アイリッシュ短編集・1」(宇野利泰訳、創元推理文庫、1972年)と、「同・3」(村上博基訳、同文庫、1973年)を開いてみた。
 「アイリッシュ短編集・1」、「同・3」の収録作品には、「さらばニューヨーク」に収録された短編との重複は1つもなかった。

 「アイリッシュ短編集・1」は、 “After-dinner Story -- and Other Stories” という短編集の邦訳で(アメリカでそういう書名の短編集が出ていたのかは分からないが、創元推理文庫版の表紙と扉にはそう書いてある)、巻末に厚木淳による詳しい解説がついている。
 厚木によれば、1940年代の推理小説は、アイリッシュ=サスペンス派、チャンドラー=ハードボイルド派、アンブラー=エスピオナージュ派が鼎立した時代だったという。アイリッシュは純粋な推理小説ではなく、ホレーショ・ウォルポールらゴシック・ロマンの影響を受けた作家であるという評論家があったらしいが、これに対して厚木は、たしかにその傾向はあるがアイリッシュはゴシックロマンの手法を現代推理小説に導入した作家であると反論している。
 さらに、長編、短編ともに成功した作家として、フレデリック・ブラウンとアイリッシュをあげ、ウィットとユーモアではブラウンがまさり、サスペンスではアイリッシュがまさると評している。残念ながら、ぼくは、アンブラーとブラウンは1つも読んだことがない。
 ※ 息子が学生時代の英文学史の講義で、ウォルポール「オルトラン城」についての報告を割り当てられ、文献探しを手伝ったことがあった。当時はウォルポールの何たるかを知らなかったので、なんでこんなマイナーな作家を割り当てられたのかと訝しく不満に思ったのだが、歴史に残る大作家だったのだ。しかもわが愛したアイリッシュに影響を与えた作家だったとは。

 「短編集・1」の目次には各短編に対するぼくの採点が記してあった(教師根性?)。
 「晩餐会後の物語」78点、「遺贈」65点、「階下で待ってて」60点、「金髪ごろし」68点、「射的の名手」採点なし(読んでないか?)、「三文作家」97点、丸印つき、「盛装した死体」70点、「ヨシワラ殺人事件」採点なし。
 けっこう厳しい採点だが、おそらく「黒いカーテン」「幻の女」「黒衣の花嫁」などの長編で好きになったアイリッシュに対する期待値が高かったのだろう。なお、厚木の解説には、収録作品の原題は載っているが初出の年度が書いていないので、アイリッシュの成長過程を知ることはできない。
 最終ページに「1976・8・24(火)夕刻、軽井沢旧道 三芳屋にて購入。1976・8・29(日)平年より5℃低い」と書き込みがあった。24日に買って、29日に読み終えたのだろう。

   

 「アイリッシュ短編集・3」は “Somebody on the Phone -- and Other Stories” というのの邦訳のようで、「裏窓」(“It Had to Be Murder” 後に “Rear Window” と改題、1942年初出)ほか、9編が収録されている。
 こちらには、各短編の採点は書いてないが、表紙と扉頁の間に映画の新聞広告が挟んであった(上の写真。日付けは不明だが、映画の公開日からして1984年1月下旬ころだろう)。「1983年10月ロス、ニューヨークで巻き起こったヒッチコック・ブームはロンドンをも巻き込み、いよいよ日本に上陸する」という惹句がついているが、そんなブームがあったのか!
 ヒチコックのサスペンス映画3本の連続上演の予告だが(映画館の名前も懐かしい)、「裏窓」がアイリッシュ原作作品の映画化なので挟んだのだろう。3作ともジェームス・ステュアートが主演で、共演女優は「裏窓」がグレース・ケリー、「知りすぎていた男」がドリス・デイ、「めまい」がキム・ノヴァクである。そう言えば、「さらばニューヨーク」に収録された短編のどれかにドリス・デイの名前が出ていたと思う。
 「短編集・3」には解説はないが、巻末に、各編の原題名(改題名)、初出誌名、初出年度が載っている。「裏窓」だけが1942年の発表で、それ以外はすべて1935~39年の作品である。

 なお、「アイリッシュ短編集・2」は持っていない。
 ※ 創元推理文庫からは「アイリッシュ短編集」が全部で6巻刊行されたらしい。後の方の巻には「さらばニューヨーク」なども収録されているから、稲葉明雄訳「さらばニューヨーク」(晶文社)収録作品との重複もあるのだろう。

 2024年5月30日 記

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W・アイリッシュ「さらばニューヨーク」

2024年05月29日 | 本と雑誌
 
 ウィリアム・アイリッシュ/稲葉明雄訳「さらばニューヨーク」(晶文社、1976年)を読んだ。

 アイリッシュを読むのは何年ぶりだろうか。最後に読んでから20年以上は経っているはずである。
 先日、ふとこの本が目にとまって、何気なく読み始めたのである。懐かしいアイリッシュ節(?)を味わうことができた。
 ※宇野利泰訳「アイリッシュ短編集・1」(創元推理文庫)巻末の解説を見たら、解説者の厚木淳が、アイリッシュを評して「強烈なサスペンスと少々美文調の文体によるアイリッシュ節ともいうべき特異な持ち味」と書いているのを発見した。「アイリッシュ節」には強調の傍点が振ってある。

 何気ない日常のようでいてどこか不穏な雰囲気の漂う冒頭部分(スティーヴン・キング風?)、心理的に(時には物理的にも)スリリングな展開の中間部分、そして意表をつくアイロニカルな結末部分というアイリッシュの公式に従った短編が8話収められている。
 巻頭の「セントルイス・ブルース」は一番良かった。この歌を口ずさむ殺人犯の息子と、息子を庇う盲目の母との交情。稲葉解説によって、アイリッシュと母親の関係を知ったうえで読むとよいかも。
 「靴」は、ドライザー「アメリカの悲劇」のような趣向(どちらが先か?)で、中間部分は悪くはなかったが、結末が微妙。最後はないほうがよかった。
 「抜け穴」は、アイリッシュとしては失敗作の部類だろう。「ぎろちん」も、いまいち。舞台がフランスというのも破調を来たしている。死刑執行吏が執行日に死亡した場合には死刑囚は特赦によって解放されるという慣習は本当のことだろうか。ギロチンの刃の部分は執行吏が自宅においてあって執行の日に自分で刑場に持参するというのも本当なのか。「ワイルド・ビル・ヒカップ」は、そもそも題名の意味が何だったかも忘れてしまったほどの駄作。
 「青いリボン」はまずまず。一度は引退したボクサーが再起を期した試合で終盤まで劣勢にあるのだが、観客の中に「青いリボン」の女性を見た(ような気がして)一気に逆転勝利する。しかし、その女性が本当にそこにいたのかどうかは分からない、「幻の女」だった・・・。「青いリボン」が何かは冒頭で語られる。
 そして、本書の題名にも選ばれた「さらば、ニューヨーク」。アイリッシュの水準作といえようか。ストーリーは明かさないでおくが、ニューヨークのダウンタウン風景、街角の新聞売り、地下鉄の切符売り場、改札口の入り方などの細部が描かれていて、一時代前のニューヨークを知る人にはたまらなく懐かしいだろう。

 巻末の稲葉解説によると、アイリッシュこと本名コーネル・ウールリッチは、1903年ニューヨーク生まれ。コロンビア大学卒業直後に病いを得たが、恢復期に書いた小説が雑誌に掲載され、原稿料をもらったのを契機に職業作家の道に進んだ。1940年の「黒衣の花嫁」でブレイクし、1942年の「幻の女」、1944年の「暁の死線」とヒット作を連発したが(江戸川乱歩はこの3作をアイリッシュの代表作と見た)、実は1920、30年代から習作をパルプ・マガジンに数多く発表していたという。
 アイリッシュは、生涯独身で、ロマンスの話題すらなく、(シングルマザーだった)母と一緒にホテル住まいをしており、亡くなった際にもわずかな知人しか葬儀に参列しなかったという。稲葉によれば、友人の作家がアイリッシュの母は死ぬまでアイリッシュの首を絞め続けたと非難したという。1957年にその母が83歳で亡くなり、アイリッシュは1968年に64歳で亡くなっている。
 病気がちで寂しい人生だったと思っていたが、実際には作品が多数映画化されるなどしたため巨万の富を残しており、その遺産を若手作家の育成目的のためにコロンビア大学に寄付したという。このエピソードを知って、少し救われた気になった。

 2024年5月29日 記

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ヨークシャー連続殺人事件(ミステリー・チャンネル)

2024年05月25日 | テレビ&ポップス
 
 BSテレビのミステリー・チャンネル(560ch)で、「ヨークシャーの切り裂き魔事件--刑事たちの終わらぬ苦悶」というのをやっている。
 1980年代に、イギリスのヨークシャー州(県?)で実際に起った連続女性殺害事件(このヨークシャー連続殺人事件の犯人はその手口が19世紀ロンドンで起きた「切裂きジャック」に似ていたことから「ヨークシャー・リッパ―」と呼ばれた)をモデルにしたドラマである。実際の事件では、初動捜査の失敗が犯人逮捕の遅れにつながり、捜査本部の首脳陣と現場の刑事たちの見解の対立が真犯人に接近することを妨げたのだが、ドラマでも警察内部における捜査方針をめぐる首脳陣と刑事の対立を軸に描かれていた。

 先日古い蔵書を眺めていたら、ドナルド・ランベロー「十人の切裂きジャック」(草思社)に、実際のヨークシャー・リッパ―の関連記事が挟んであった(上の写真)。
 当時の新聞記事のスクラップから、事件を追ってみると以下のようになる。
 1975年10月30日~ イギリス、ヨークシャー県リーズで第1例から第6例までの連続女性殺人事件が発生(1977年9月17日付毎日新聞による)。
 1977年 9月17日(土)毎日新聞 リーズでまた女性殺人事件が発生。
 1980年11月20日(木)朝日新聞 リーズで13人目の被害者発見。
 1981年 1月 5日(月) 朝日新聞(以下同) ヨークシャー県シェフィールドの所謂「赤線地帯」で容疑者(匿名)を逮捕。
 〃 年 1月 6日 容疑者は、ヨークシャー県ブラッドフォード在住のトラック運転手ピーター・サトクリフ(35歳)と報道。
 〃 年 1月 9日 1月5日の法廷(罪状認否か大陪審か?)は騒然とした、容疑者は3年前数回にわたって当局の事情聴取を受けていたと報道。
 〃 年 4月30日 ロンドン中央刑事裁判所(オールド・ベーリー)で、サトクリフ被告に対する初公判。裁判の中立を守るため、英国犯罪捜査法に基づいて事件はロンドン中央刑事裁判所(ボーラム裁判官)に移送。被告は13件の殺人と7件の殺人未遂を認めた。
 〃 年 5月23日 サトクリフ被告(この記事では34歳となっている)に終身刑(30年間仮出獄禁止の条件付き)の判決。
 
 スクラップはここまでである。
 2011年5月22日で判決から30年が経過しているが、仮出獄禁止の条件が解除された(であろう)サトクリフ被告(受刑者)はその後どうなったのだろうか。
 ※ ネットで調べたら、サトクリフは、2020年11月にコロナで死亡していた! 74歳だった。

   

 犯人逮捕の現場となったシェフィールドは、もともとは羊を放牧するような農村だったという。サマセット・モーム「大佐の奥方」の舞台である。その後は炭鉱業で栄え、やがて鉄鋼業の町になるが、石炭、鉄の衰退とともに町も寂れていった。この頃の歴史は、映画「フル・モンティ」の冒頭でユーモラスに描かれている。
 2014年に旅行した時は、シェフィールド駅近くにタタ・スティールの社屋が建っていたが、現在では鉄鋼の町というよりは大学町になっていた。たしか大学が3つか4つあったはずである。町はずれには巨大ショッピング・モールもあったが、市街地から向かうトラムの沿線はシベリア横断鉄道を思わせるような白樺の林だった。シベリア横断鉄道に乗ったことはないが。
 30年前にそんな事件の逮捕現場になっていたとは、旅行当時はまったく知らなかった。シェフィールドに「赤線地帯」があることも知らなかった。夕べの番組ではその現場のロケシーンもあったが、あれは実際のシェフィールドの現場で撮影したのだろうか(下の写真はシェフィールドの中心街の街並み。2014年3月撮影。事件現場とは関係ない)。

   

 昨夜はBSの番組の最終回だったが、職務質問したシェフィールドの警官が容疑者を偽装ナンバー・プレートの窃盗容疑で逮捕、勾留したにもかかわらず、連絡を受けたリーズの捜査本部は、容疑者にニューカッスル訛りがないことを理由に釈放を命じた。しかし疑念を持ったシェフィールドの警官が釈放せずに、再び現場に戻って逮捕現場の周辺を捜索したところ、容疑者が立小便をした付近で凶器のハンマーと肉切包丁を発見し、事件は一気に解決に向かう。
 捜査本部の首脳陣は、犯人と称する人物からの電話を真犯人からの電話と決めつけ、その電話の主にニューカッスル訛りがあったことに固執したために(後に偽電話の犯人は捕まっている)、捜査の方向を誤らせたばかりか、逮捕した真犯人まで危うく取り逃がすところだったのだ。
 容疑者のサトクリフは、(ニューカッスル訛りがなかったこともあり)逮捕までに9回も捜査線上に浮かびながら逮捕を免れていたという。
 驚いたことに、番組の最後に、当時の捜査本部長の実際の画像が出てきて、この男はその後捜査の回顧録を出版して4万ポンドだったかの印税を得たとキャプションが流れた。番組を見た者にとっては、ニューカッスル訛りにこだわって捜査を遅延させ、犯人逮捕の遅れによって救えたはずの被害者を出した張本人である男がよくもぬけぬけとそんな本を出版できたものだとあきれるしかない。
 番組のサブタイトルである「刑事たちの終わらぬ苦悶」というのは、そのような無能な上層部によって捜査を攪乱された現場の刑事たちの「苦悶」であり、その苦悶は犯人が逮捕されても終わることがなかったという意味なのだろう。

 2024年5月25日 記  
 

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ぼくの探偵小説遍歴・その7(補遺)

2024年05月23日 | 本と雑誌
 
 ぼくの探偵小説遍歴(その1~6)の落穂ひろい。探偵小説が並んでいる本棚の写真を中心に。

 ぼくにとって最初の探偵小説は、岩波少年文庫で読んだ E・ケストナー/小松太郎訳「エミールと探偵たち」だった(上の写真)。
 つづいて、同じく岩波少年文庫の A・リンドグレーン/尾崎義訳「名探偵カッレくん」のシリーズ(といっても3冊)。
   

 中学校の図書館で見つけた、あかね書房「少年少女世界推理文学全集」の W・アイリッシュ/福島正実訳「恐怖の黒いカーテン」は、扉に挟んであった黒いパラフィン紙とともに思い出に残っている。あかね書房版は持っていないが、創元推理文庫版は持っている。アイリッシュ/亀山龍樹訳「黒衣の花嫁」(文研出版、1977年)、同/稲葉明雄訳「さらばニューヨーク」(晶文社、1976年)という単行本も見つかった。1976~7年頃は、まだアイリッシュに関心があったのだ。
   

 旺文社の「中学時代3年生」か、学研の「高校コース1年生」の付録についていた「赤毛のレッドメインズ」の要約版を読んだのをきっかけに、E・フィルポッツ「赤毛のレッドメイン家」(創元推理文庫)を読んだ。高1の時の担任の先生が、読んだ本の感想を書いた「読書ノート」を毎週提出させていたが、スタインベックなどの他に、「赤毛の~」の感想文を書いた記憶がある。中身は忘れた。
 この頃から文庫本で探偵小説を読むようになったと思う。
 ドイル、クリスティー、クイーン「Yの悲劇」、カー「火刑法廷」、ダイン「僧正殺人事件」、ノックス「陸橋殺人事件」などから、ガードナー「ペリー・メイスン」、チャンドラー、カトリーヌ・アルレー、セバスチャン・ジャプリゾなども読んだようだが、2冊以上読む気になった作家はあまりなかった。「本格」とか「謎解き」といったジャンルは好きになれなかった。

 ぼくは中学、高校の通学のバスの中ではいつも文庫本を読んでいた。毎日片道30分、往復で1時間である。揺れるバスの中で、よくそんな読書ができたと思う。サラリーマンになって以降も、出歩くときはいつも鞄の中に本を持って出かけた。一度中央線に乗っていた時に停電か人身事故で、国分寺・小金井間で1時間以上車内に閉じ込められたことがあった。たまたまその時は本を持っていなかったので、活字の禁断症状が出た。
 文春文庫か新潮文庫がビル・プロンジーニとコリン・ウィルコックスを派手に宣伝していたので、「容疑者は雨に消える」とか「依頼人は三度襲われる」といった題名につられて読んだが(「失踪当時の服装は」や「事件当夜は雨」といった題名が好きだったので)、ちっとも面白くなかった。これを契機に探偵小説から足が遠のいた。

   
   

 探偵小説を読み始めた最初のうちは創元推理文庫が多かったが、そのうちに早川書房の「ハヤカワ・ポケット・ミステリ」(HPM)で、87分署シリーズや、ファン・デル・ベルク警部(「雨の国の王者」)、ギデオン警部などを読むようになった。シムノンやボワロ = ナルスジャックも HPM で何冊か読んだ。新書版サイズで、勝呂忠装丁の表紙の本を持ち歩くことがお洒落だと思っていた。
 角川書店や早川書房の単行本も何冊も買ったが、定年退職後にかなり断捨離してしまった。ジョゼフ・ウォンボー・村上博基訳「オニオン・フィールド」(早川書房、1975年)と、フレデリック・フォーサイス/篠原慎訳「オデッサ・ファイル」(角川書店、1975年)だけが残っていた。何か捨てがたい気持があったのか・・・。

   
        

 角川書店から出ていたマイ・シューバル、ペール・ヴァ―ルー夫妻の「マルティン・ベック警部シリーズ」は文庫本と単行本で10冊すべて読んだ。第6作の「サボイ・ホテルの殺人」には「1976・4・30 am 0:40 Good !」と書き込みがあり、第9作の「警官殺し」には「1979・3・25(日)pm 6:25 冗漫」と書き込みがあった。 ちょうど飽きが来た頃に、ほどよくシリーズも終わったようだ。
   
   

 河出書房から長島良三の企画で「メグレ警部」シリーズが出た時は、最初の20冊はすべて読んだ。それが全24巻になり、全30巻になり、最後は全50巻になったのだろうか。フランス人(ベルギー人?)なのにワインを飲まずにビールを飲み、サンドイッチを食べて、パイプをくゆらすメグレは好きな探偵だし、事件の描き方もよいが、30冊、50冊も読むほどではない。
   

 犯罪実話もの、クライム・ノベルは、いまだに興味が続いている。
 オカルトものも含めて、コリン・ウィルソンにはまっていた時期もあった。ウィルソンのテレパシー実在説を信じて、吉祥寺の東急通りで、数メートル先を歩いていた成蹊の女子高生の後ろ姿に向かって念力を送ったところ、彼女が振り向いたことがあった。信ずれば通ずる。
 切り裂きジャックもの(?)については前にも書いたが、ドナルド・ランベロー/宮祐二訳「十人の切裂きジャック」(草思社、1980年)という本も出てきた。この本の中に、通称「ヨークシャー・リッパ―」という1970年代にイギリス、ヨークシャー州で13人の女性を殺した連続殺人犯に関する新聞記事が何枚か挟んであった。犯人はリーズ近辺で犯行を繰り返し、最後は何とシェフィールドで逮捕されたのだった。
 現在、BSテレビ 560ch のミステリー・チャンネルで、この実在の事件をモデルにした「ヨークシャー連続殺人事件」を放映している。

   
 
 小津安二郎や西部劇などの映画でも、その他何でも解説本を読まないと身につかないというか、海馬の中の収まるべき場所に収まらない習性がぼくにはある。探偵小説についても、江戸川乱歩「幻影城」や松本清張、有馬頼義らの探偵(推理)小説論を何冊も読んだ。
 以下はその一部だが、シャーロキアン、リッパロロジスト(?)を目ざすほどにのめり込む気質は持ち合わせていなかった。

   
   

 昨日からは、懐かしさもあってアイリッシュの「さらばニューヨーク」を読んでいる。
 結局1960~70年頃から今日まで、数十年にわたって興味が持続したのは、メグレ警部などの警察ものと、ヨークシャー・リッパ―などの犯罪実話もの(クライム・ノベル)だけだった。
 最近は探偵小説だけでなく小説も読んでみたいという気になる作品が見当たらず、ほとんど読まなくなってしまった。「事実は小説より奇なり」で、小説やドラマの「作り物」ぽさがそらぞらしくて、テレビ番組も「映像の世紀」などのドキュメントや、ニュースばかり見ている。
 わずかにテレビドラマでは、ミステリー・チャンネル(BS 560ch)などで放送している「フロスト」「モース」「ダルグリッシュ」「ルイス」「ジョージ・ジェントリー」「ヴェラ」などなど、警察ものばかり見ている。ほとんどすべて見てしまったので、いよいよ最近は見るものがなくなりつつある。

 2024年5月23日 記   
 

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軽井沢に行ってきた(2024年5月18〜19日)

2024年05月20日 | 軽井沢・千ヶ滝
 
 5月18日(土)も快晴、気温は昨日と同じ23℃で、気持ちがよい。

 午前中から旧軽井沢に出かける。いつも通り、水車の道沿いの神宮寺に駐車。
 昭和30年代の終わり頃に、毎年夏休みをこの寺の宿坊で過ごす友人に亡父が会いに行っていた懐かしい寺である。2、3年前に読んだ堀辰雄や川端康成「高原」にも、この寺に隣接する藤屋旅館が登場していたので、それからは、堀や川端の姿も懐かしさの中に加わった。
 本堂は新しくなったようでかつての面影はないが、境内の樹齢400年という枝垂れ桜や木立がかつてを思い出させてくれる。堀も川端もこれらの木々を眺めたのだろう。堀が友人にあてた葉書にはここの桜のことが書いてあった。駐車料金はお布施のつもりである。

   

 つるや旅館の手前の路地を入ったところにある「デリカテッセン」の向かいにある花屋さんの店先を借りて、万平ホテルのアップルパイを販売しているという記事を読んだので行って見たが、連休中だけの臨時営業だったようで、花屋さんは閉まっていた。
 上の写真は、その「デリカテッセン」。創業1980年(?)と壁面に書いてあったので、1960年代の旧軽井沢にあった「デリカテッセン」とは別の店なのだろう。現在の店名が “Delicatessen” という英語なのに対して、昔あったデリカテッセンの看板はドイツ語の “Delikatessen” で、店も本通りに面していたように思う。それにしても、まったく関係がないのか聞いてみたい気がしている。

 旧軽井沢通り(本通り)をそぞろ歩いたが、旧道もかつての賑わいはなく、「貸店舗」の掲示が貼ってある空き店舗も目立つ。物産館は建物もなくなってしまい、大城レース店の旧店舗はシートがかかって改装中だった。三笠会館はどの辺にあったのかすら分からなくなってしまった。
 正午を過ぎたので、浅野屋で昼食をとることにした。
 満席だったが、幸い一組が席を立ったので、ほどなく席につくことができた。ランチのメニューは3つのみ、サービスも若い男性1人だけで、注文、食器の片づけはセルフサービスになっていた。三笠会館は最後までブラック・スーツの年配の男性2人でサービスをしていたが、結局軽井沢から撤退してしまった。浅野屋のような形ででも持続してくれたほうがよかったのに。
 ぼくは、信州産鶏のトマト煮込み、野菜添えを注文。パンは食べ放題だが、われわれの胃ではおかわりは無理だった。ドリンクがついて2180円は、昨今の値上げの時代にあってはリーズナブルだろう。
   
   

 観光会館に立ち寄って、今年の軽井沢のカレンダーとポスターをゲット。冒頭の写真は観光会館の正面。かつては郵便局の建物だった。ここの館内は夏でもひんやりしていて涼しい。

 神宮寺を出て、鹿島の森、雲場の池、六本辻、離山を経由して(スコルピオーネの跡地は何とか温泉になっていた!)、中軽井沢駅前から国道146号に右折して、かつての西武百貨店軽井沢店の手前のスケートセンター、テニスコート跡地を曲って、セゾン美術館、立教女学院キャンプ場を通って帰宅。
 そう言えば、軽井沢新聞5月号に、千ヶ滝温泉ホテル跡地など約22ヘクタールを、西武と野村不動産が大規模開発するという記事が載っていた。2029年の完成を目ざすというが、開発の中味は未定とのこと。どうなるのか心配だが、リゾートマンションなどが建たないといいのだが・・・。
 できればスケート場を作ってほしい。赤坂サカスや、日比谷シティのスケートリンク程度でもいいのだが。それと、西武百貨店軽井沢店も昭和の姿のままに再建を願う。
 記事の見出しには「千ヶ滝温泉ホテル跡地」と書いてあり、ぼくも学生時代に千ヶ滝温泉ホテルにアイスホッケーの合宿で泊ったことはあるが、あの辺りは「軽井沢スケートセンター跡地」と言うべき場所ではないか。

 夕方から散歩に出かける。
 浅間山の夕景がきれいだったので、浅間台公園から大日向神社にむかって坂道を上る。途中で、ISAC(軽井沢インターナショナル・スクール?)の生徒らしい2人組の女の子と、1人歩きの男の子に出会う。ともに外国人のようだったが、女の子たちは「こんにちわ」と声をかけてくれ、男の子は軽く会釈をしてくれた。

   
   

 翌5月19日(日)、午前9時過ぎに東京に向けて出発。渋滞を避けるために、たいていは土曜か日曜の午前中に軽井沢を出発して帰宅することにしている。
 発地(ほっち)市場に立ち寄って野菜を眺めるが、家内の話では東京とほとんど値段は変わらないという。ブロッコリーなどは東京よりも高いという。そのせいか、土曜日の午前というのに人影は少なかった。

 風越公園の交差点を右折して、碓氷軽井沢インターに向かう途中の道沿いに(地図には「女街道」と書いてあるのと「下仁田街道」と書いてあるのがあった)、「モミの木」という洋菓子店があることを知った(下の写真)。
 軽井沢の不動産屋が出しているパンフレットに紹介が載っていて、ここのオーナーは元は東京のヴィクトリアで修業し、夏は旧軽井沢の店舗に勤務していたとあった。軽井沢のヴィクトリアは、あの、「レイホホ レイホホ レ イッ ホ~ ♪」とヨーデルを流しながら千ヶ滝を販売車がまわっていた懐かしい洋菓子店である。

     
 
 ご夫婦でやっているようで、ご主人も厨房(?)から出てきて、しばし昔話に花が咲いた。ヴィクトリアから独立した後は高崎で洋菓子店をやっておられ、最近高崎の店は息子さんに任せて、軽井沢で開店されたとのこと。
 旧軽井沢の旧道入口手前、草軽電鉄の旧軽井沢駅前にあったヴィクトリアのこと、千ヶ滝の西武百貨店にも出店していたこと(そういわれてみると確かに西武の中にもあったのを思い出した)、西武百貨店の入口近くには島津貴子さんプロデュースのPISAのコーナーがあったこと、高崎観音の川向かいの小高い丘の上にあったドライブインや、安中でヤナセがやっていたピラミッド型のドライブインなど、しばし共通の思い出話で盛り上がった。
 ヴィクトリア時代からの定番だというバナナのパイと、イチゴのタルトを買って帰る。値段もリーズナブルで、美味しかった。

 途中横川の荻野やに立ち寄って、孫の好物の力餅も買って帰ったのだった。

 2024年5月20日 記

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軽井沢に行ってきた(2024年5月17日~)

2024年05月19日 | 軽井沢・千ヶ滝
 
 5月17日(金)、天気が良かったので、軽井沢までドライブに行ってきた。

 午前9時半頃に東京を出発。関越道を行く。
 途中の本庄児玉だったかで、工事渋滞しているところに、さらに追越し車線で追突事故が発生したため混雑していたが、それ以外はスムースに進み、上里での休憩を挟んで12時すぎに軽井沢に到着。
 車窓の左側にはまだ雪を頂いた富士山が見え、妙義山、恩賀高岩、浅間山も、きれいな山影が青空に映えていた。新緑の候から初夏にむかう木々の葉の緑が、まぶしく輝いている。

 軽井沢の気温は、軽井沢バイパス、南軽井沢交差点の標識の表示では23℃。
 窓を開けて走ると、爽やかな風が吹きわたっていた。町はそれほどの混雑ではない。人々は連休疲れで、あまり出歩いていない時期なのかもしれない。
 軽井沢に到着後は、ツルヤで食材を買い出ししてから山荘へ。まずはすべての窓を全開にして風を入れ、置きっぱなしの布団やタオル類を虫干しにして、昼食に出かける。
 いつも通り、「追分そば茶家」へ行ったが、「臨時休業」の看板が・・・。木曜日が定休日のはずだが、仕方ないので、中軽井沢駅前の「かぎもとや」に入り、天ざるを(下の写真)。
 「かぎもとや」は壁一面に貼ってある吉川英治その他の有名人の写真の入った色紙が名物だったが、今回は気がつかなかった。撤去したのだろうか。

 当日の軽井沢の空気感が表れているかどうか分からないが、17、18日の風景写真を何枚か。
 最初は、しなの鉄道の中軽井沢駅舎につづく沓掛テラスの図書館2階から眺めた浅間山。窓側の席はすべて占拠されていたので、いい位置から撮影できなかった。
   

 次は、翌日(18日)に図書館2階のほぼ同じ位置から撮った浅間山と、中軽井沢駅前の通り。
   
   

      

 さらに、軽井沢消防署の隣りのしまむらの駐車場から眺めた18日の浅間山を2枚。
 山頂ちかくの向って少し左側に小さな白い斑点が見えた。どうしてそこにだけ雪が残っているのか。
   
   
 いつもは、長野県国道事務所「鳥井原」の定点カメラの画像で眺めるしかない風景である。

 2024年5月19日 記 

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三宅正太郎「法律 女の一生」

2024年05月15日 | 本と雑誌
 
 三宅正太郎「法律 女の一生」(中央公論社、昭和9年、婦人公論11月号付録)を読んだ。

 「日本の弁護士」の海野普吉のページを撮影するために、ページを押さえておくだけの目的で書棚から引っぱり出してきたのだが、読んでみると面白いことも書いてあったので、ほぼ全ページを読んでしまった。
 女性の一生の人生行路(ライフ・ステージ)にしたがって、各ステージで遭遇するであろう法律問題を取り上げるという形式を期待したが、残念ながらそうではなく、多少は女性の立場に配慮しながら、法と裁判を概説した法律入門書といったほうがふさわしい。婦人公論編集部と三宅は、女性だからといって特別な法律入門があるわけではなく、女性であっても明治憲法、明治民法下の法律問題について基礎知識を持っていてほしいと思ったのだろう。
 全体は11章からなっている。「結婚と離婚」「親と子」「借地借家人の法律」「証書と証券」「遺言と相続」「戸籍・寄留」「検挙の手続」「刑事裁判」「損害賠償」「保証と抵当」「法律の将来」および(民法を主とした法令集)からなる。「借地借家」と「証書、証券」はスルー。
 なお、「婦人公論の読者方へ」と題した穂積重遠の前書きがついている。私生子保護のために、当時は認められていなかった死後認知の立法の必要などを説いている(死後認知は戦争遺児(胎児)救済のため昭和17年に立法化された)。

 「結婚と離婚」では、婚姻の成立要件、婚姻の法的効果、離婚の要件などが簡単に紹介される。イトコ婚の例として鳩山一郎氏の令嬢と鳩山秀夫氏の令息の結婚が紹介されている。当時そんなことがあったのだ。いわゆる「男子(夫)の貞操義務」を認めた判例の紹介もあるが、当該事案で損害賠償を命じられたのは夫ではなく、不倫相手の女性だった。
 「親と子」では、法的親子関係の種別を概説した後に、私生子(婚外子)問題を検討する。三宅は、私生子の保護をいう一方で、ドイツ1919年憲法の「婚姻は家族生活及び民族の保持並びに増殖の基礎なるを以って憲法の特別の保護を受く」を援用して、婚姻の保護との調整の必要を指摘する。その調整策として、三宅は、婚姻家庭の主婦の処置、すなわち、妻が夫の過ちを許して、夫がその私生子を認知することを認めるか否かに委ねることを提案する。
 私生子を妊娠した女性(西荻窪のカフェ女給とある)が将来を悲観して、(杉並区)上荻窪730番先の中央線踏切で(神明中学校のすぐ近くではないか!)自殺した事件の記事を紹介しておきながら(38頁)、ずいぶん微温湯的な提案ではないか。
 「春の驟雨」という洋画の紹介もある。私生子(娘)を産んが女性がその娘を養育院に奪われ、旅路の果てに命を落として天に召されるが、天国からわが子を見守り、救いの手を差し伸べる。娘が悪い男にだまされそうなまさにその瞬間に、雨を降らせて娘を危機から守るというのだが、その雨が「春の驟雨」だそうだ。映画「ゴースト」のようなストーリーである。

 「戸籍・寄留」は、居住の自由によって戸籍(本籍)と現住所が異なる人間が増えたことによる不便を回避するために、大正3年に制定された寄留法の届出励行を促す。現在では住民票を移すことによって解決される問題である。ぼくも先祖の戸籍を見ながら、寄留地と紐づけされていたら先祖が実際に生活していた土地に近づくことができるのに、と思った。
 戸籍の名の変更に関しては、「山本権兵衛」にあやかって「権兵衛」と命名された子は迷惑をこうむるだろうとある。昭和初期でも「権兵衛」は古めかしい名前だったのだ。シーメンス事件にかかわったのは山本だったか・・・。戦後にも、「角栄」と命名された「田中角栄」くんが、ロッキード事件後に名の変更を申し立てて認められた審判例があった。

 「女の一生」と銘うっているのだから、「検挙、刑事裁判」では女性独自の犯罪を取りあげればよいのにと思ったが、紹介されたのはすべて男の事件である。
 「焼鳥食い逃げ事件」などは悲惨である。親戚に貸した1000円を回収してそれを元手に仕事を始めようと上京した兄弟が、貸した金を返してもらうことができないまま生活に困窮し、目黒区上目黒7丁目の目黒川にかかる東山橋近くの露店の焼鳥店で焼き鳥40串、代金80銭を食い逃げし、追手に捕まった兄は、懐中に用意してあった短刀で自刃したという事件である。不憫に思った警察は弟は訓戒のみで放免したという。
 家族制度の時代に、こんな非情な「親戚」もいたのだ。春になると桜の花見で賑わうあの目黒川の東山橋(あの橋だろうか?)近くで、昭和の初めにこんな悲しい事件があったとは!

 「損害賠償」のうち、義務(債務)不履行による損害賠償の例として、婚姻予約不履行(当時は「貞操蹂躙の訴え」と言われていたらしい)が取り上げられる。
 大正4年の大審院判決までは、婚姻予約の不履行は一切法律上の保護を受けられなかったが、同年の判例変更によって不当な婚約破棄に対して損害賠償の請求ができるようになった。婚約不履行事件153件中、男性が訴えた事件は11件、女性が訴えた事件は142件、うち、同棲前の女性からの訴えが1件、同棲後の女性からの訴えが141件である。
 「婚姻予約不履行」といいながら、実際には同棲開始以後(婚姻届出前)の内縁関係ないし足入れ婚(試し婚)的な関係を不当に破棄された女性からの訴えが圧倒的に多いことが分かる。純粋な婚約(同棲前の婚約関係)の不当破棄の事案は実際にはもっとあったと思うが、「疵物」視されることを恐れて提訴を躊躇する女性も多かっただろう。
 賠償額は、同棲前の女性が原告の場合は、100円以下が1件、100円台が3件、200円台が10件、300円台が23件、同棲後の女性の場合は、500円台が43件、1000円台が19件、1500円台が7件、2000円台が5件、3000円台が2件となっている(166頁)。当時の物価に比べて高額だったように見える。訴えられた男は金持ちが多かったのだろう。「無い袖は振れぬ」だから、貧しい男を訴えても仕方ない。

 不法行為による損害賠償としては自動車事故を取り上げる。
 昭和3年(1928年)当時、わが国の自動車保有台数は約7万台のところ、同年の自動車事故件数は2万7000件、死者617人、負傷者1万9500人とある。自動車3台につき1台以上が事故を起しており、3・5台につき1件の負傷事故を起こしている。驚くべき高い数字ではないか。ちなみに、鉄道事故は8008件、死者2602人、負傷者3119人とある。
  
 「保証」では、保証人になるくらいなら現金を渡して(その人間と)縁を切れと書いて、絶対に保証人になってはいけない、保証は怖いということを諭している。
 最終章の「法律の将来」において、三宅は、明治維新以来わが国はヨーロッパの法律を模倣して、法文至上主義、概念法学の道を歩んできたが、大正デモクラシーの風潮のもとヨーロッパの自由法思想を受け入れ自由主義的法律学が広まったが(借地借家法、調停制度、陪審制、社会法、判例研究など)、最近はそれへの反動から国家主義的ないし唯心論的な議論が起こっている。
 「わが国の法律学はこれまでの自由主義的な明朗さを持ちつづけると同時に、・・・日本の社会のいいところを更に輝かすべき方向に進むべきものと考えております」と結ばれる。東京地方裁判所所長の言葉として、これ以上を期待するのは望蜀の嘆というべきか。

 きょうのNHK大相撲中継で、昭和生まれの幕内力士は3人しかいないと言っていた。昭和も遠くなったのだ。三宅の本書によって、昭和戦前期の日本社会の一端を「法律と裁判」という偏光鏡で眺めた気分になった。

 2024年5月15日 記

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虎に翼(その7)ーー河合栄治郎事件と海野普吉

2024年05月13日 | テレビ&ポップス
 
 そろそろやめようと思いつつ、ついつい今朝もNHK朝の連ドラ「虎に翼」を見てしまった。

 高等文官試験司法科に合格した三淵が、なぜか雲野(「うんの」?)法律事務所で修習をしていた。三淵が実際に海野普吉弁護士の事務所で修習したのかは知らないが、今朝の放送で雲野弁護士が受任した「落合信太郎」(だったか?)の出版法違反事件は、おそらく河合栄治郎事件と思われる。
 番組の中で、出版法違反事件の対象とされた著書として雲野の机の上に積まれていた本が「社会政策概論」とか「マルキシズム研究」などだったが(よく見ていなかったので書名は怪しい)、河合が東大経済学部の社会政策講座の教授であり、出版法違反の対象とされた著書が「社会政策原理」その他だったことに符合する。
 この河合の事件の弁護人となったのが海野普吉弁護士である(潮見俊隆編著「日本の弁護士」日本評論社、1972年、上と下の写真)。

     

 海野弁護士は、戦前の治安維持法違反事件や出版法違反事件で多くのマルキスト系の被告を弁護しているが(その多くは検察側がでっち上げた事件であった)、政府や検察の弾圧が自由主義者にも及ぶようになると、河合や津田左右吉の出版法違反事件も弁護している(潮見「海野普吉」同書から。上の写真)。なお、潮見は「普吉」に「ふきち」とルビを振っているが、「しんきち」が正しい呼び名ではないか。少なくとも命名した「普吉」の父親は「しんきち」のつもりだったようだが・・・。
 河合の事件は一審の東京地裁では無罪判決を勝ち取っている。無罪を言い渡した裁判官が石坂修一(裁判長)、兼平慶之助、三淵乾太郎だった。三淵乾太郎は戦後初代の最高裁長官になる三淵忠彦の息子で、のちに三淵嘉子の夫となる人物である。ドラマではどう描くのだろうか。

 なお、河合事件は第2審の東京高裁で逆転有罪となり、大審院で上告棄却となり有罪が確定した(昭和18年6月25日)。この事件の大審院の裁判長は三宅正太郎で、潮見によれば、三宅は進歩的司法官をもって任じながら立身出世の傾向が強かったので、敗訴するのではないかという海野の予想(不安)が的中したという(潮見「海野普吉」同書331頁)。
 三宅正太郎がそういう人物評を受ける裁判官であるとは知らなかった。上の写真の左下に表紙がちょっとだけ写っているのは、三宅正太郎「法律 女の一生」(中央公論社、昭和9年)である。三宅の同名のラジオ講座を活字化したものだそうで、穂積重遠が前書で推薦の文章を書いている。ここでも「虎に翼」の穂高教授(穂積)がかかわる。なお、三宅の肩書は東京地方裁判所長となっている。

 そろそろ「虎に翼」はやめようと思いつつ、こんな風に現実の事件が脚色されて登場するとなると、戦後の最高裁長官として「裁判の独立」を唱えながら、自身は砂川事件に際してアメリカ大使らと秘かに密談していたことが、最近になってアメリカ側の公文書公開によって暴露されてしまった田中耕太郎や(布川玲子・新原昭治編著「砂川事件と田中最高裁長官ーー米解禁文書が明らかにした日本の司法」日本評論社、2013年)、いわゆる「司法の危機」時代の石田和外などをどう描くのか、かれらと猪爪寅子はどうかかわるのかを見ておきたい気持ちもわいてくる。
 三淵長官の頃は「憲法の番人」と期待された最高裁判所が、やがて「政府の番犬」とまで蔑まれるようになっていく時代を、NHKはどこまで描くことができるのだろうか。

 2024年5月11日 記

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サマセット・モーム/行方昭夫訳注「赤毛」

2024年05月10日 | サマセット・モーム
 
 サマセット・モーム “Red” (「赤毛」)を読み終えた。
 行方昭夫「英文精読術 RED」(DHC、2015年)で、精読した。この本の正式な書名は、奥付によれば「東大名誉教授と名作モームの『赤毛』を読む 英文精読術」というらしい。表紙の中央部分「英文精読術」の下には「Red  William Somerset Maugham 」と大書してあるが、これは副題でもないらしい。
 モームの小説の「精読」というのは、ぼくには苦痛だった。モームの小説は、英語の勉強としてではなく、小説として読むのがふさわしい。英語で読む場合も、分からない単語や文意を読み取れない文章があっても、本筋を把握するのに影響しないかぎり飛ばして、モームの筆の流れに従って読むほうがいい。
 ぼくは、モームの書いたものの大部分は翻訳で読み、一部は retold 版か abridged 版で読んだ。行方先生が「英文快読術」(岩波現代文庫)か何かで、要約版でもよいから多読せよと奨めていたので。
 “Cosmopolitans”(Easy Readers、Revised edition となっている)、“Cakes and Ale”( Macmillan Modern Stories to Remember 、Retold edition とある)、“Of Human Bondage”(金星堂、Abridged edition とある)の3作は要約版で読んだ。“Cakes and Ale” の要約版は、所々端折っただけでほぼ原文のままだったので歯が立たなかった。「幸福な夫婦・凧」は英宝社の対訳本(中野好夫、小川和夫訳)で読んだらしい。

            

 英文解釈のテキストとして読むと、解説に煩わされて話の流れを切られてしまうのである。
 行方の解説によって「なるほど」と気づかされることも少なくなかったのだが、「ここには being が省略されてます」といった解説がなくても、モームの文意をとることができる場合も少なくない。
 役に立った解説は、何度か出てくる “ecstacy” という語の性的なニュアンスを説明してくれたことと、同じく何度か出てくる “fancy” のニュアンスを説明してくれたことである。“ecstacy” は「恍惚」という訳語しか知らず、 “fancy” に至っては動詞があることさえ知らなかった。ファンシーは「空想」と “fancy” してたのだった。 現地人に対するイギリス人であるモームの偏見なども行方の指摘によって気づかされた。
 この解説その他によって、恋愛の性的な側面が「赤毛」のテーマの一つであることに気づかされた。
 
 行方解説の影響もあってか(縦組み33頁、行方昭夫「モームの謎」岩波現代文庫75頁以下など)、ぼくは「Red」は同性愛の視点から書かれた小説と読んだ。ジッドの「狭き門」が若き日のジッド自身の同性愛を描いた小説だというのであれば(ゲラン「エロスの革命」)、「Red」にもその資格はあるように思う。
 南洋の孤島に流れ着いた若い白人青年 Red の身体や容貌を、ギリシャ神話の若者のように描写するモームの目線と筆致は、まさに男性が美しい男性を見つめる視線ではないか。そして最初のうちは美しい少女として描かれる南洋の少女と白人青年の恋愛だが、その後の展開からはモームの女性に対するシニカルな視線が感じられる。ストーリーの結末も、まさに男女間の恋愛の不毛さを皮肉に語っている。
 
 ※以下、モーム「赤毛」の結末=ネタバレがあります。要注意!

 若かりし頃、同じ南洋の美少女を愛した二人の男が、数十年の時を経て出会って、一方はそれと気づかずに過去を語るという設定は、ストーリー・テラーとしてのモームの面目躍如である。途中で、「いい加減にスウェーデン人も気がつけよ」、「Red も口を挟めよ」と言いたくなることもあることはあったが・・・。
 「Red」を読むのは今回で数回目だが、久しぶりだったので、最初のうちは結末を忘れていた。しかし、モームが冒頭に登場させる老船長の容姿をこれでもかとばかりに醜く描写するのを読んでいるうちに、結末をおぼろげに思い出した。さらに、行方先生が「初対面なのに以前に会ったような気がしたのはどうしてでしょうか?」などという注釈を入れるので(54頁)、完全に思い出してしまった。
 この注釈のために、結末の「落ち」を重視した(と中野好夫「雨・赤毛」新潮文庫の解説がいう)モーム短編を読む楽しみは減殺してしまった。結末の予想は、モーム自身が本文の中で仄めかした伏線(72、78、119頁など)にとどめるべきではなかったか。

 英文読解術のテキストとしては、モームなら小説ではなく、「作家の手帳」や「要約すると」のようなエッセイのほうがふさわしいのではないか。
 ぼくとしては、英語学者の知見で読解してみせてほしい本は、モームではなく、むしろ、ホッブズの「リヴァイアサン」(とくにその第1部や、ホッブズ「法の原理」の第1部など)である。政治思想史家による翻訳は出ていて、それなりに理解できるのだが(前者は角田安正訳、光文社古典新訳文庫、後者は高野清弘訳、ちくま学芸文庫)、英語学者が英語の力でどこまで読解できるのか、どのように訳出するのかを知りたいと思う。
 モーム自身が、ホッブズの「リヴァイアサン」を、「個性を持った、ぶっきらぼうな、率直なジョンブル気質」があらわれた魅力的な文章であり、「文章を研究するものは、なによりもまず研究すべきイギリス語を書いている」と激賞しているのだから(中村能三訳「要約すると」新潮文庫227~8頁)、ぜひともそのホッブズの「イギリス語」を解釈してほしいものである。

 2024年5月10日 記

 追記 今朝病院の待ち時間に、「英文精読術 Red」の解説を読んだ。
 行方氏によると、彼は大学1年で読んだときはレッドとサリーの恋物語として読んだが、その後、この小説の主人公は語り手のスウェーデン人ニールソンだと思うようになったという(縦組み23頁以下)。
 たしかにぼくも予備校時代に読んだときは、かつて誰かが恋をした場所には、その残り香(霊気)が漂っているものだという文章(この本では96頁)がもっとも印象に残ったが(豆豆研究室2006年2月22日「木の葉のそよぎ」)、今回はこの個所にはそれほどの感興を覚えなかった。
 そうかといって、老残がモームが描くほど醜いものとも思わない。老いた(といっても40歳代ではないか)サリーのことを、太って、肌は以前よりも褐色になり、髪も白くなったなどと表現するモームの筆は悪意に満ちている。“grey” を「真っ白」などと訳してあったが、せめて「グレー」のままでいいではないか。
 そしてサリーとニールソンとの結婚の現状を「慣習と便宜だけで結びついた同棲」と書くのだが(217頁)、たとえモーム本人の結婚生活がそのようなものだったとしても、作中の夫婦までそのように描かなくてもよいだろうに、と思った。あえてニールソンをそのような嫌みな男と読んでほしかったのだろうか。彼をスウェーデン人に設定したことには、何かモームの意図があったのだろうか。
 ※2024年5月11日 追記

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京マチ子からの葉書(昭和24年2月25日)

2024年05月07日 | 映画
 
 2、3日前のNHKラジオ深夜便だったか、その後の早朝の番組だったかで、誰か映画評論家が、黒澤明「羅生門」のことを話していた。
 途中からだったこともあり、詳しくは覚えていないが、当時東宝が労働争議で映画が撮れなかったので、黒澤は永田雅一に誘われて大映で「羅生門」(1950年)を撮ったと言っていた。これに続いて京が出演した「雨月物語」「地獄門」(1953年)が相ついでベネチア、カンヌ映画祭やアメリカのアカデミー賞を受賞したため、京マチ子は一気に国際女優となり、日本でもスターになったという。
 黒澤は「羅生門」を原節子で撮りたかったが叶わなかったので、京マチ子で撮ることになったのだという。同年に木下恵介の「カルメン故郷に帰る」も公開されたが(1951年)、高峰秀子と京マチ子はともに1925年生まれだと言っていた(ネットでは1924年、大正13年となっている。大正13年生まれの亡母が高峰と同い年といっていたから1924年が正しいだろう)。ちなみに、マーロン・ブランドとマルチェロ・マストロヤンニも同じ1925年生まれだと言っていた。
 
 などという話を半分夢うつつで聴いてから(聞き間違いがあったらお許しください)、きょうの昼間、古い蔵書を何気なく開いてみたところ、中に京マチ子から祖父にあてた葉書が挟んであった。こういうことは偶然なのか、誰か(神?)の作為によるものなのか・・・。
 といっても、意味深長な内容ではなく、彼女が松竹歌劇団を退団し、大映京都に入社することになった旨が印刷された宣伝の挨拶状である。ただし、宛て名と宛て先は万年筆で手書きである。日付けは2月25日とだけ書いてあるが、切手の消印は「24.3.1」となっているから、昭和24年(1949年)だろう。切手は清水寺の舞台を描いた薄紅色の粗末な印刷の2円切手である。
 表面はレビュー姿の京で、「レビュウの女王 京マチ子 大映入社」「第1回出演映画 『最後に笑う男』」という宣伝文が入っている(上の写真)。
 祖父が何かに応募でもしたのか、ファンクラブにでも入っていたのか。ぼくも桜田淳子から来た葉書を1枚持っているが、この祖父にしてこの孫あり、である。

 なお、この本の中には、京マチ子からの葉書に他に、その頃祖父が住んでいた仙台の映画館のパンフが2枚挟んであった。
 1枚は、日乃出映画劇場の「舞踏会の手帖」のパンフである。「ギャラ・プレヴュ GALA PREVUE (拡張会館・豪華なご披露 8月3日 1日限り)」という青い判が押してある4つ折りのパンフである(下の写真)。「ギャラ・プレビュ」とか「拡張会館」とはどういう意味か。1日だけ上映したということなのか。1937年制作というが、日本公開は何年だったのだろうか。
 映画好きだった祖父は、当時母が通っていた宮城第一高女では生徒が映画館に入ることを禁止していたのに、「親がついていれば大丈夫だ」と言って、心配する娘(私の母)を平気で映画に連れて行ったという。
 「舞踏会の手帖」は、結婚生活20年の後に夫に先立たれた妻が、16歳の時に舞踏会で出会った10人の男たちを、当時の「手帖」を頼りに訪ね歩くという筋立てらしい。ぼくも、60年近く前の中学、高校生だった頃に出会った女性たちを訪ねて歩く映画を作ってみたい。

   

 もう1枚は、仙台日活館のビラである(下の写真)。
 こちらには、当時の旧制中学受験を描いたらしい「試験地獄」、ゲーリー・クーパー主演「砲煙と薔薇」、ジームス・ギャグニ―主演「シスコ・キッド」などの宣伝が載っている。「試験地獄」は1936年公開らしいから、「舞踏会の手帖」もその頃のものだろう。

       

 1936、7年というと大昔のようだが、ぼくが生まれるわずか12、3年前である。この13年の間に女学生だった母は学校を終え、結婚しぼくを産んだ。一方、祖父が亡くなって今年8月でちょうど40年になる。自分が生まれる12、3年前のことは大昔のように思えるが、祖父が亡くなってからの40年はあっという間に過ぎていったような気がする。
 歴史の遠近法はどのようにして形づくられるのだろうか。

 2024年5月7日 記

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虎に翼(その6)ーー帝人事件と今村力三郎

2024年05月02日 | テレビ&ポップス
 
 NHK朝の連ドラ「虎に翼」のモデル探し記事はネット上にいくつもアップされていて、けっこう詳細な記事もあるので、ここではそれらに載っていないことを書いておく。ひょっとしたらどこかに書いてあるかもしれないけれど・・・。

 ここ数日の番組では、主人公寅子の父親(銀行員)が贈賄事件で逮捕、起訴された事件が進行中で、番組内では「共亜事件」とか言っているが、これは「帝人事件」だろう。ここまでは多くの記事に書いてある。
 帝人事件は、1934年(昭和9年)に起きた疑獄事件である。
 台湾銀行の保有する帝人(帝国人絹会社)株を、帝人社長、財界人、大蔵官僚、政治家らが共謀して不当な安価で取得したとして関係する16名が背任、贈収賄罪などに問われた。
 実際には、斎藤実内閣を打倒しようともくろんだ一部の検事らがでっち上げた冤罪事件だったことが後の裁判で判明するのだが、長期の拘留や拷問によって得た「自白」をほぼ唯一の証拠として16名が起訴された。
 背景には、鈴木商店(名前は「商店」だが、当時の大手総合商社だった)の倒産によって多額の負債を負った台湾銀行が、政府から多額の融資を受けていながら、保有する帝人株を政治家らに安価で売却するなどしたことは許し難いという一部の国民感情があったようだ(実際には株の売却はなく、帝人の株券は一貫して銀行の金庫に保管されていたことが後に判明する)。このような怪情報を流して煽ったのは(福沢諭吉が創刊した)時事新報だった。これを利用して、腐敗政治を糺すなどと思い上がった検察官僚がでっち上げたのが帝人事件だった。番組でもその趣旨が語られていた。

 帝人事件に三淵嘉子の父親は関わっていない。
 父親が帝人事件の被告とされたのを契機に弁護士になることを決意したことで有名なのは大野正男弁護士(後に最高裁判事)である。大蔵官僚だった彼の父(大野龍太)は帝人事件で逮捕、起訴された1人だった。大野はこの経験から人権を擁護する弁護士を志すことになったという。
 「虎に翼」は、おそらく大野のエピソードを借用したのだろう。ドラマの中で、三淵の父親らを弁護する弁護士の事務所が「雲野法律事務所」となっているが、これも実在の海野普吉(うんの・しんきち)弁護士をもじったものだろう。というのも、東大を卒業して弁護士になった大野さんが最初に所属した弁護士事務所が海野が主宰する弁護士事務所だったのである。

 なお、海野弁護士のことを「晋吉」と表記してあるのをしばしば目にするが、海野は「しんきち」と呼ばれているが、表記は「普吉」である。父親が「晋」と「普」を間違えて出生届をしたというエピソードを海野さんご自身から聞いたという人から又聞きしたことがある。
 ちなみに海野が弁護士として頭角をあらわした初期の事件に、大正9年の「岡本家相続事件」というのがあるそうだ。廃嫡された家督相続人の直系卑属には代襲相続権がないという当時の大審院判例を海野が弁護人となってひっくり返した(判例変更させた)のであるが、彼は旧判例に反対していた穂積重遠(穂高教授!)と中川善之助(穂積の一番弟子だが、大正9年といえば中川はまだ大学を出たばかりではないか!)に意見書を書いてもらうなどして勝訴したという。なお、この事件の相手側弁護人は仁井田益太郎だったという(潮見俊隆編著「日本の弁護士」日本評論社、1972年、315頁)。
 ここでも、ドラマに登場する穂積や仁井田(書名だけの登場だが)とのつながりがなくもない。

 政、財、官界の中枢に検察幹部が絡んだ帝人事件の性格からして、海野は帝人事件には関わらなかったと思うし、穂積も直接は関わっていないだろう。もちろん弁護人として法廷に立つことなどなかった。帝人事件の弁護人として有名なのは今村力三郎である。
 ※ 上記の帝人事件の紹介、および以下の記述は、今村力三郎『法廷五十年』(専修大学出版局、1993年)所収の今村「帝人事件弁論抄」などによる。
 今村は専修学校出身の代言人(後に弁護士)で、戦後には専修大学の総長として(後に司法大臣、法務府総裁となる)鈴木義男とともに専修大学の復興に尽力した弁護士だが、幸徳秋水の大逆事件をはじめ、戦前の多くの有名な刑事事件で被告人の弁護を担当しており、帝人事件でも弁護人として無罪判決を勝ち取ることに貢献した。
 
 帝人事件における今村の弁論は、思い上がった検事の「正義感」を糾弾するだけでなく、長期拘留や拷問などによって「自白」を強要するという人権蹂躙の捜査手法の批判、それによって得られた「自白」の信用性の批判、そして証拠に基づかない検察側主張の批判に向けられる。検察側の証拠を弾劾することによって検察側の主張を反駁するという、刑事弁護の王道をゆく弁論と立証である(「法廷五十年」185頁~)。
 彼の弁論もあって、1937年(昭和12年)東京地裁は、被告人16名全員を無罪とする判決を下し、検察側が控訴を断念したため、一審無罪判決が確定した。

 帝人事件に見られるような検察側の横暴は「検察ファッショ」と呼ばれ、その黒幕は平沼騏一郎とされている。きょう5月2日(木)の放送では、東京地裁の階段で担当判事とすれ違った際に、若い担当判事を威嚇する和服の老人が登場したが、担当検事を従えていたところを見ると平沼をモデルにした人物のようである。
 なお、この担当検事を演じる役者は、名前は忘れたがかつてはコメディアンだったように思う。居丈高で傲慢な検事の役をうまく演じている。判事役の俳優よりも上手だと思う。
 ※ ネットで調べると、かつてうっちゃんナンチャンの番組で「ドーバー海峡横断部」としてドーバー海峡を泳ぎ渡ったメンバーの一人、堀部圭亮という役者だった。お笑いタレントのように思っていたが、その後脇役俳優として活動していたようだ。

 実は、多磨霊園の今村の墓所の隣りに平沼の墓所がある。戦後戦犯として獄死した平沼は、獄中で幸徳秋水事件における検察の行為を懺悔したというが(「法廷五十年」315頁)、隣り合う2人の墓所の前に立つと不思議な感懐を覚える。どのような経緯で隣り合うことになったのだろうか。
 今村は昭和26年時点で、最近は「宣伝の時代に入り、弁護士は弁護商になった」と嘆いたというが(同313頁)、昨今のテレビに登場する「コメンテイター」と称する弁護士を見たら、さぞかし嘆かれることであろう。

 2024年5月2日 記

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