豆豆先生の研究室

ぼくの気ままなnostalgic journeyです。

デビー・クロケット

2007年03月31日 | テレビ&ポップス
 
 デビー・クロケット

 生まれは西部の山奥で
 緑の山を駆けめぐり
 3つの時に熊退治
 森の王者として育つ
 デビー デビー クロケット
 西部の快男児 ♪

 子どものころにやっていたテレビ番組の主題歌である。Googleで“デビー・クロケット”“Davy Crockett”を検索すると、あるわ、あるわ、いろんなことがわかってしまう。ぼくの記憶は上に書いたテーマ・ソングの歌詞だけである。これは、Googleで調べたなかには出てこなかったと思う。金曜日の夜8時から、プロレスと一週間交代で放映されていた“ディズニー・ランド”という番組があったのだが、そのなかで放送されたものの1つだったようだ。
 そして、ジョン・ウエインの“アラモ”の主人公がデビー・クロケットだったのだ。テキサスの領有のために、メキシコと争って敗死したアメリカ側の守備隊長がデビー・クロケットで、この映画の導入部では彼の生い立ちが描かれているという。「西部の山奥」という彼の出身地はテネシー州(バーボン!)で、終焉の地はもちろんテキサス州アラモ砦。
 ぼくが“ディズニー・ランド”で見たデビー・クロケットは、典型的なアメリカ魂をもった英雄、テレビを見ている現代の子どもたちの理想のお父さん像みたいだったが、どうもアメリカ国内の、とくにハイブロウの間では、デビー・クロケットというのは、かなりカリカチュアライズされて揶揄的に引用される存在だったらしい(H.N.スミス『ヴァージンランド』、研究社、1971年、101,114,125頁など)。何かの本で、猟銃を杖のようにして右手でもって直立不動のデビー・クロケットの写真を見たような気がするが(ビリー・ザ・キッドかも)・・。
 同書302頁によると、デビー・クロケットの伝説は、「あらいぐま狩り、喧嘩、ウィスキーに関するほら話の蓄積のなかからつくり出された」という。歌詞を思い出したときに、いくら逞しい男でも、3歳で熊退治など可能だろうか? 6つの時か、7つの時の記憶違いではないかと思ったのだが、退治した「熊」が「あらいぐま」なら、そして「ほら話の蓄積」なら、3歳でもありうるかと思う。
 ちなみに、この歌、日本では小坂一也と弘田三枝子のバージョンがあるらしい。小坂一也はもともとカントリー&ウエスタンで、“ライフルマン”の主題歌なんかも歌っていたから考えられるが、弘田三枝子は意外だった。しかし、彼女ももともと“元気印”の女の子だったから(アスパラでやりぬこう!)、ありかもしれない。NHKの“みんなの歌”でもやったらしい。
 いずれにしろ、“くま狩り”は往年のアメリカ西部の若者にとって伝統的な通過儀礼だったのだろう。セオドア・ルーズベルトによって、それが“テディ・ベア”に取ってかわられるまでは。

(写真は、昭和を回想した懐メロ本のひとつ、小野耕世編『60年代のカタログ』[主婦と生活社、1975年]の表紙。ちょっと見たかぎりではデビー・クロケットは登場しないが、ジョン・ウエインのところで“アラモ”['60年]が「浪曲調の全滅物語」(確かに!)として紹介されている。)

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吉田たかよし・プラス

2007年03月30日 | テレビ&ポップス

 けさは7時30分起床。ようやく平常に。ただし風邪気味(きのう医者に行ったら気管支炎との見立てで薬が出た。)のため、朝食をとって薬をのんでからまたベッドに逆戻り。
 ラジオをつけると、文化放送で“吉田たかよし・プラス”というのをやっていた。きょうが最終回だった。実は、吉田君はぼくが前任校に勤務していたころ、そこの医学部の学生だった。ぼくの講義にも出ていたが、当時からユニークで目立つ学生だった。とにかく、灘高→東大→通産官僚→NHKアナウンサー→医学部(→医師)→国会議員秘書(→議員立候補)と異色の経歴である。
 放送では、“アナウンサー・ドクター 吉田たかよし”と紹介されていたが、本当のところ、彼の本分が何で、彼が何を目指しているのか、ぼくには分からないが、きょうの放送を聞いていて、彼の声がいいことは間違いない。もっとも、声のよさだけに甘んじている彼ではないだろう。次は何を目ざすだろうか。
 この数日、睡眠のリズムがめちゃくちゃで、いろんな時間にラジオを聴いた。ライブドアによるニッポン放送乗っ取り騒ぎのときに、誰かが「堀江には放送文化がわかっていない」と言っていたが、たしかにラジオは文化である。
 
 そういえば、きょうの吉田くんの番組のなかの、武田鉄矢のコーナーで、内田樹の「下流志向」が紹介されていた。内田によると、堀江は手にしたいと思ったもののうち、お金以外は手にすることができなかったけれど、彼が欲しがったプロ野球球団、テレビ局、宇宙飛行士、女性タレント、国会議員などは、すべて小学生が欲しがるものである、そして、彼をありがたがるニートたちは、結局額に汗せずして金を稼ぐということしか考えていないという。
 きょうも一生懸命就職活動に歩きまわっているうちのゼミ生なんかは、違うんだけどなあ・・。


(写真は、全然記事と無関係だけど、“汚れなき悪戯”のサントラ盤“マルセリーノの歌”のジャケット。主役のパブリート・カルボは何年か前に、若くして亡くなった。朝日新聞に死亡記事が出た。“広場の天使”という映画にもモク拾いのお爺さんの孫役で出ていた。)

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今朝は“岬めぐり”から

2007年03月29日 | テレビ&ポップス
 またまた今朝は5時30分に目が覚める。昨日、おとといに比べれはば、今朝などはましなほうか。ラジオをつけると、山本コータローとウイーク・エンドの“岬めぐり”が流れているではないか。“朝はニッポン、一番乗り”という番組だった。この時間はもう深夜放送ではなくて、朝の番組なのだ。
 昨日の“四月になれば彼女は”、一昨日の“エデンの東”と、民放の深夜放送にも結構“団塊”世代のかけらのぼくが聴ける曲も流れているのだ。NHKの“深夜便”だけでないのは助かる。あんな退屈な番組しかないとなると、老後の眠れない夜が心配だったので。 
 
 “岬めぐり”というと、若いころ友人のクルマでドライブに行った伊豆の西海岸の大瀬崎を思い出す。海辺に寝そべって、友だちと語っていると、ぼくたちのわきをパール・ホワイトのワンピースの水着のきれいな女性が、4、5歳の女の子を連れて通り過ぎていった。ちょっといわくありげな親子連れに思えた。しばらくしてふと見上げると、大瀬館という海に面した古い旅館の二階の一室の軒先に、さっきの彼女が身につけていたパール・ホワイトの水着が、なんと裏返しにして干されていた。夜中に散歩に出て、大瀬館の前を通ると、昼間はぼくたちが寝そべっていた海辺まで潮が満ちて、旅館のすぐ近くまで波が打ち寄せていた。
 どうして、こういうことは30年以上たっても覚えているのだろうか。ゼミ生の名前なんか、しょっちゅう間違えるのに。

(写真は、“岬めぐり”のレコード・ジャケットでもあればいいのだけれど、ないので、“平凡パンチDeluxe”別冊付録[発行年不詳]の“フォーク・ソング専科--オール楽譜つきヒット30曲集”の表紙。ただし、“岬めぐり”は収録されていない。)

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今朝も深夜(?)放送

2007年03月28日 | テレビ&ポップス
 今朝も5時前に目が覚めてしまった。睡眠障害・・。
 ラジオをつけると、今朝はニッポン放送から高嶋秀武の声が聴こえてきた。彼はぼくが深夜放送から卒業するころにデビューしたばかりの駆け出しのパーソナリティーだった。その後一時テレビにも出ていたけれど、やがて消えた。高嶋の担当の曜日かと思っていたら、5時近くなって、「アンコウのオールナイトニッポンを最後までお聴きくださって有難う」という斉藤安弘の声が聴こえた。最近の深夜放送は一人のパーソナリティーで引っ張るのではなく、細切れの分業になっているようだ。そして、5時が迫ると、これまた懐かしい昔のままのエンディング・テーマが流れてきた。
 5時からは森永卓郎の番組だった。一曲目にかかったのは、サイモンとガーファンクルの“4月になれば彼女は”だった。そして「今朝の朝刊から」というコーナーで、光華寮事件をめぐる最高裁判決と、植木等さん死去の記事を紹介していた。植木等というと、アイデアルの傘のCMを思い出す。“何である? 愛である!”というだけなのだが、このセリフのあとで彼はヘッとシニカルに笑うのである。このセリフは、われわれにはやっぱりちょっと恥ずかしい。

 先日の卒業式後の最後のゼミのコンパのときに、一人の卒業生(女の子)から「先生、“愛”って何ですか?」と聞かれた。
 とっさに、スヌーピーの言葉を思い出した。“愛するって、お互いに見つめあうことではなく、ふたりで同じ方向を見つめること” スヌーピー(かチャーリー・ブラウン)が犬小屋の前に座っていて、犬小屋の屋根にのったウッド・ストックと一緒に同じ方向を見つめている絵だった。
 彼と彼女がお互いに見つめあう時期もあるだろう、そして子どもが生まれるとふたりで一緒に子どもを見つめて時間が流れる、やがて子どもは成長して親から離れていく、残された二人は今度は何を見つめて生きていくのだろうか・・。って話したら、その子が泣いていた。どんな思いで、そんな質問をしたのだろう。
 春は人を感傷的にさせる季節のようだ。

(写真は、卒業式でゼミ生から贈られた花束、色紙とブルーの軸のウォーターマンの万年筆。軸の色に合わせてフロリダ・ブルー(なんでフランス製のインクが“フロリダ”なのだろう)のインクを買ってきて、久しぶりに万年筆を使っている。) 

 

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2007年の深夜放送

2007年03月27日 | テレビ&ポップス
 3月26日(月)、ようやく原稿1本仕上げて郵送。疲れたので早めに寝たら、年寄りの悲しさで、午前2時過ぎに目が覚めてしまって、眠れない。仕方がないのでラジオをつけたら、民放にしては意外に穏やかな語り口の女性の深夜放送をやっていた。しばらく聴いていると、小泉今日子だった。
 話題は昔と同じで、他の女と付き合っているのが発覚したので別れた男から、「君がいなくなってはじめて本当に大事な人が誰だかわかった」といって復縁を求められているという女性リスナーからの相談だった。「浮気する男は一生浮気するから、別れたほうがいい」と小泉今日子が答えていた。
 ダイヤルを回すと、なんと“エデンの東”が流れている! そして“五番街のマリー”もかかった。文化放送の水瀬あやこの何とかいう番組だった。こんな懐かしい曲が流れる深夜放送がまだあったのだ。3時が近かったので、ついでに確認しておこうと起きていると、3時の時報とともにあの懐かしい口笛が流れ始めた。日野自動車の“走れ!歌謡曲”もしっかりと続いていた。パーソナリティの女性の最終回らしかった。今朝文化放送のHPで調べると、井上由美子&鈴木純子となっていた。どちらがやめるのだったか・・。きっと、ぼくの馬場こずえ、滝良子のように、夕べ(今朝?)の放送を30年、40年後まで覚えているリスナーもいるのだろう。

(写真はぴったりのものもないので、ぼくが中学生のときに買った“エデンの東”が入ったソノシート。)

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My Happy Birthday!

2007年03月20日 | あれこれ
 

 きょうはぼくの誕生日です。1950年3月20日の生まれです。

 誕生日にちなんだ写真は、ぼくが1歳で、はじめて雑誌に登場したときのものです。
 母親の日本女子大時代の同級生が“主婦之友”の編集者をしており(後には編集長)、カメラマンを連れてわが家にやって来て、ぼくをモデルに写真を撮ったりしていたようです。母親のほうは、同じく日本女子大時代の寮のルームメイトだった日系アメリカ人で、戦争中サンフランシスコに帰国した人から船便で送ってもらった“House Keeping”などの雑誌を参考にして、記事を書いて小遣い稼ぎにしていたそうです。
 ここにアップした記事は、今から見れば何のことはない、ビニールで作ったオムツ・カバーのすすめと、その型紙が載っているだけです。でも、記事を読むと、1951年当時のオムツ・カバーは驚くなかれゴム製だったようです。

(写真は、“主婦之友”1951年8月号から。)

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1968年の深夜放送

2007年03月14日 | テレビ&ポップス
 
 ぼくが中学高校時代によく聴いていたラジオは、ほとんどが音楽番組だった。中学生になった最初のころ(1963、4年)は、“ユア・ヒット・パレード”、“9500万人のリクエスト”、“S盤アワー”などである。当時は、“ビルボード”や“キャッシュ・ボックス”のランキングの変動を把握していないと、クラスの話題についていけないので、せっせと聴いたのである。コニー・フランシスやヘレン・シャピロの時代である。
 “ユア・ヒット・パレード”は東京田辺の提供で、「あのシーンをもう一度」というコーナーがあった。リスナーからの映画の思い出話の投書を読んでから、サントラ盤で主題歌が流れるという趣向である。「鉄道員」なんて映画はこのコーナーで知ったと思う。「エデンの東」が1年以上にわたってリクエストのベスト・ワンを続けたというエピソードも、この番組ではなかったかと思う。
 その他にも、欧米のヒット曲を知ることができた番組に、文化放送で夜8時頃に放送されていた土井まさるの番組があった。番組名は忘れたが、時おり金子プロデューサーという人が登場して、最新情報を紹介していた。ロス・マルチェロスの“アンジェリータ”などは金子プロデューサーの紹介がきっかけで大ヒットした曲である。数年前に、青山のサバティーニで弾き語りの二人組にこの曲をリクエストしたら、「あれはスペインの曲だから」といって断られてしまった。家に帰ってからレコードのジャケットで確認すると、彼らはスペイン系のイタリア人となっていたのだが。
 土井まさるは、手塚レンタカー(後に栄進予備校)提供!“真夜中のリクエスト・コーナー”という夜中の12時すぎの番組もやっていた。深夜放送はTBS“パック・イン・ミュージック”、文化放送“セイ・ヤング”、ニッポン放送“オールナイト・ニッポン”があった(今でもやっているのかどうかは、全然聴いていないので分からない)。土曜日の夕方には高崎節がDJのラジオ関東(NHKだったかも・・)の番組もあった。番組名は忘れてしまったが、ビリー・ボーンの“真珠貝の唄”がテーマ曲だった。
 ぼくがよく聴いたのは、土井まさるのほかに、野沢那智・白石冬美、落合恵子、今仁哲夫あたりだが、大学時代になると、局アナではなく、歌手などがパーソナリティーを務めるようになった。「神田川」などは、発売前に南こうせつが自分の番組(+山田パンダ)でかけたデモ・テープではじめて聴いた。
 マイナーなパーソナリティーでは、滝良子と馬場こずえというのがぼくのお気に入りだった。どの局だったか、いつの時代だったかもはっきり覚えていないのだが、夜中の3時から始まる第2部だったと思う。彼女たちの写真が載っていたはずだと思って、先日物置から“深夜放送ファン”1970年12月号(自由国民社)というのを引っ張り出してきて探したが、残念ながら見つからなかった。
 ちなみに、現在ぼくがごひいきのアナは、石本沙織と曽根純恵(スカパー258ch)、かつてはNHKの森田美由紀である。どうでもいいことだけど・・。もう一つ、ちなみに、ぼくが大学1年のときにアイスホッケーで足を骨折し、入院した北品川総合病院の最上階の特等室には土井まさるが入院していた。やがて彼が退院すると、入れ違いに小林麻美がその部屋に入ってきたことは以前に書いた。


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玉電100歳

2007年03月12日 | 玉電山下・豪徳寺
 3月6日の朝日新聞夕刊に“玉電100歳”という記事が載っていた。あの玉電がこの3月6日で創業100年を迎えたそうだ。
 前にも書いたように、ぼくは昭和25年に世田谷の豪徳寺で生まれた。小田急線なら豪徳寺だが、本当に生まれた家は豪徳寺駅よりも玉電の“玉電山下”駅に若干近い。山下から松原に向かって最初の踏み切りのすぐ近くの進行方向右側である。線路から畑をはさんで2軒目だったので、電車が通るたびにガタゴトという振動が伝わってきた。
 玉電の線路わきに生える野蒜を摘んできて、上級生が玉子でとじて韓国料理の“チヂミ”のようなものを食べさせてくれたこともある。畑から線路に忍び込んで、1円玉(時には奮発して5円玉)を電車に轢かせてペンダントのようなものを作って遊んだこともあった(鉄道往来危険罪?)。
 朝日新聞にも掲載されている「いもむし電車」と呼ばれていたらしい(ぼくはそんな風に呼んだ覚えはまったくないのだが・・)黄緑とクリーム色のツートン・カラー(かつての日産の“フィガロ”を想像してくれればよい)、流線型の2両編成の電車がデビューしたころである。高台の小田急線の線路には、“オルゴール電車”という、「オルゴール」とは名ばかりで、雑音をまき散らすだけの箱根行きの特急も走っていた。
 かつて編集者時代に、駒澤大学を取材したことがあった。東急田園都市線の新駅設置をめぐって、駒澤大学と東急だったか、許認可権をもっていた運輸省か東京都だったかの間で裁判があったころのことだ。必要があって調べたところでは、玉電は、もともと多摩川の川岸で採取した砂利を皇居前広場(当時は宮城前広場だろうが)に敷きつめるための運搬用に敷設されたものだと何かに書いてあった。いまの二子多摩川から渋谷を経由して、後の都電の並木橋方向に右折して、天現橋や古川橋などを経由して、和田濠まで延びていたという。渋谷で山手線をどうやって渡ったのか?山手線[省線?]など、まだなかったのかもしれない。
 朝日の記事にはこれとは違った由来が記されている。どちらが正しいのか、ぼくには分からない。
 それはともかくとして、ぼくの小学生時代の玉電の思い出としては、“赤電”というのがあった。あまり上品とはいいかねる、くすんだ赤い色(エンジ色に近い)に塗られた電車で、上町か松蔭神社あたりで人身事故を起こした直後を目撃したことがある。線路わきにムシロをかけらた被害者の遺体があって、そのムシロに血がにじんでいた。恐かったので思わず目をそむけた。“スタンド・バイ・ミー”の世界である。オルゴール電車はしばらく続いた後になくなったが、赤電はほどなく廃止になった。
 恐い話ばかりではなく、三軒茶屋の駅で、かわいい女の子を見そめた思い出もある。正月に三軒茶屋の親戚を訪ねた帰り道のことである。三軒茶屋駅の山下に向かって右側に、駅に面して比較的大きな本屋さんがあった。お年玉で何か本を買おうと立ち寄ったのだと思うが、立ち読みしていると、少し年長の女の子が近寄ってきて、ぼくのそばで本を読み始めた。何かの拍子に彼女の吐息がぼくにかかった。白いハーフコートを着た賢そうな女の子だった。それだけのことなのだが、50年近くたった今でも、その子の甘酸っぱい吐息の記憶が残っている。
 ぼくにとって、春の香りは、近所を散歩しているときに道ぞいの家の庭先から漂ってくる沈丁花の香りではなく、50年前の三軒茶屋駅の本屋の彼女の吐息なのである。

(写真は、朝日新聞2007年3月6日付“街 メガロポリス”欄の記事より)

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広瀬正“マイナス・ゼロ”集英社文庫版

2007年03月12日 | 玉電山下・豪徳寺
 
 豪徳寺ネタのついでに、梅が丘の近く(根津山)にあったタイム・マシンのことをもう1つ。
 
 先日、古本屋の店先で広瀬正“マイナス・ゼロ”を100円均一で買ったら、ほどなくして、以前からもっていた集英社文庫版の“マイナス・ゼロ”が見つかった。こんなものである。
 この文庫本は、正式には“広瀬正・小説全集・1 マイナス・ゼロ”と表紙に書いてある。奥付は、昭和57年2月25日 第1刷となっていて、1982.4.17(土)了というぼくの書き込みがあった。
 
 2007/3/13

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思い出のCMソング 第3弾

2007年03月11日 | 玉電山下・豪徳寺
 
 明星即席ラーメン

 雨が降ってる 日曜日
 坊や 泥んこ どうしたの
 向こうの角で ころんだの
 どうして そんなに急いだの?
 明星即席ラーメン
 パパと一緒に食べたいの ♪

 なんてCMソングが流れていた時期があった。雨の日曜日の朝にちなんで・・・。


 (写真は、僕たちの世代を早々と“懐メロ”世代に仕立てた雑誌のひとつである“ビックリハウス”1975年7号(パルコ出版)。「テレビ世代Ⅰ世」というサブタイトルがついている。

  2007/3/11

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サマセット・モーム “劇場”

2007年03月10日 | サマセット・モーム
 きょう(3月9日)昼前に、友人から送られた著書の礼状を投函し、ぼくが最近出した本を返礼に郵送するため、郵便局に出かけた。気持ちのよい天気だったので、人通りの少ない道を散歩して、先日広瀬正の“マイナス・ゼロ”がぼくを呼んでいた古本屋に立ち寄った。そして、久しぶりにモームに出会った。
 文庫本の棚を眺めるときは、いつも条件反射のように黄緑色と群青色のツートンカラーに目が行くのだが、きょうもモームの本のほうからこっちの目に飛び込んできた。新潮文庫のモームにしては厚い本だなと思って、手にとると“劇場”だった。新潮文庫の“劇場”をぼくは持っているのだが、平成6年刊の“新潮文庫の復刊”シリーズの1冊のため、装丁が他のモームとは違う。本棚に並べてあるのだが、不調和が気になっていたところだった。
 奥付を見ると、平成18年12月20日22刷改版とある。つい最近ではないか、何で今ころ?と思ったが、なかに帯がはさんであって、「映画化原作 2007年新春、Bunkamuraル・シネマ他、全国順次ロードショー “華麗なる恋の舞台で”」とある。映画化の便乗だったのかと合点が行った。そういわれてみれば、表紙にもなにやら、“ティファニーで朝食を”のヘップバーンのようなドレスの女が描かれている。なかの版組みも改版されてすっきりしている。どうせ同じ1960年の龍口直太郎訳なのに、ずい分読みやすそうな感じである。
 モームの中でそれほど好きな小説ではないけれど、映画がDVDになったら借りてみようかと思う。文庫本のほうは315円だったので買って帰ることにした。

(写真は、きょう見つけたモームの“劇場”と、10数年前に買った同じくモームの“劇場”。ともに新潮文庫版)
 

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桜田淳子、アンコール

2007年03月09日 | テレビ&ポップス
 桜田淳子ものは前回でやめようと思ったのだが、前回の写真は表情が固くて(それも当時の彼女らしいといえば言えるのだけれども・・)、なんか最終回にはしたくなくなってきた。
 そこで、もう1回、週刊誌の観音開き(?)のグラビアで、なにか物憂げな表情を漂わせている桜田淳子をアップして終わりにしようと思う。当時ぼくの部屋の壁に貼ってあった記憶がよみがえってきた。角には画鋲のあとが付いていて、折り目は今にも破けそうである。
 1970年代の何年かわからないけれど、9月1日が月曜日の年である。「九月の淳子」と銘うってあって、篠山紀信撮影とある。

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桜田淳子のバドミントン

2007年03月07日 | テレビ&ポップス
 桜田淳子のバドミントン姿。どこかの芸能誌(当時はまだ「月刊明星」「月刊平凡」もあった)に載った、映画“スプーン一杯の幸せ”のスチールだろう。
 今回で桜田淳子シリーズは打ち止めにします。
 桜田淳子効果(?)で、このところアクセス数が激増している。これまでは、1日10件からせいぜい50件だったアクセスが、桜田淳子ものをアップするようになってからは連日250件をこえている。
 1970年代の桜田淳子なんて(失礼)、ぼくだけの“My Memory”かと思っていたら、意外に根強い人気があったのだと改めて感心した。どんな“芸能”活動を再開するのか、楽しみにしておこう。

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桜田淳子のここが魅力

2007年03月06日 | テレビ&ポップス
 桜田淳子の“ここが魅力”という企画もの。出典は不明。
 おそらく彼女の唇なんだと思うけど。

 きょう、通勤の途中で武蔵野市役所前を通るとき、鶯が鳴いていた。両側の桜並木も、つぼみが芽吹きはじめたせいか、うっすらと桜色に感じられた。そして、陽気は間違いなく春そのものだった。クルマのメーターで見ると外気温はまだ17℃だけれど。
 このまま行けば、今月20日の卒業式には千鳥が淵の桜は満開を迎え、4月の入学式は、桜も散ってそぼ降る雨の中となってしまいそう・・。

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桜田淳子、週刊朝日にも登場

2007年03月05日 | テレビ&ポップス
 
 今回は一般誌の「週刊朝日」1975年3月21日号。
 振り返ってみると、1975年の春先は、ほとんど毎週、どこかの週刊誌の表紙に彼女が登場していたことになる。
 もうそろそろ、桜田淳子ネタも卒業の時期かな・・。

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