大毎オリオンズの山内和弘選手が、2月2日に亡くなった(朝日新聞2月6日朝刊)。
この記事や、今朝の“サンデー・モーニング”などによると、山内は「打撃の職人」、「内角打ちの名人」、「名コーチ、教え魔」など、彼の様々な側面が語られている。
しかし、ぼくにとっての“山内”は、“豪徳寺”ネタのひとつである。
昭和30年代のはじめ、ぼくは世田谷区豪徳寺(当時は世田谷区世田谷)に住んでいたのだが、わが家のすぐ近く、直線距離にしたら100メートルも離れていないところに“大毎の山内”も住んでいた。
玉電(今でいう東急世田谷線)の玉電山下駅から松原に向かって最初の踏切を渡った、すぐ右側に「山内」の表札のかかった家があり、近所の子どもたちの間では、これが大毎の山内の家だと知られていた。
実際に、この家の庭先に背番号8のついた縦じまのユニフォームが干してあるのを見たこともある。ご本人を見たことはないのだが。
今では選手のユニフォームなどは球団が洗濯するらしいが、当時は選手が自分で洗っていたのだろう。
ちなみに、その後、引っ越した練馬でも、すぐ近くに国鉄スワローズの宇佐美コーチの家があり、ここの物干しにもスワローズの選手のユニフォームが干してあるのを見たことがある。
昭和30年代はじめの大毎オリオンズは、“ミサイル打線”と呼ばれていて(朝日にはそう書いてあるが、ぼくは“ダイナマイト打線”と記憶している)、山内の他にも、葛城、荒川博(王選手の一本足打法の生みの親)、榎本喜八など、錚々たる顔ぶれの打撃陣が揃っていた。
その割には投手が振るわず、荒巻淳くらいしか記憶にない。だから、山内も、「世紀のトレード」などといわれて、阪神の小山正明とトレードされたのだろう。
山内は亡くなってしまったけれど、ぼくが亡くなるまで、“豪徳寺の、大毎の山内”はぼくのなかで生きつづけるだろう。
* 写真は、けさの“サンデー・モーニング”から、山内の背番号8をつけた姿。残念ながら、引退後の写真である。現役時代のフィルムはなぜか縦じまのユニフォームではなかった。やっぱり山内は“縦じまの8”でなければ、彼らしくない。