豆豆先生の研究室

ぼくの気ままなnostalgic journeyです。

永井荷風「摘録・断腸亭日乗」(その3)

2024年06月30日 | 本と雑誌
 
 永井荷風「摘録・断腸亭日乗」(岩波文庫、1987年、磯田光一編)下巻を読みおえた。

 「巻措く能わず」と言いたいところだが、何度か巻を置いて嘆息した。
 ぼくも若い頃だったら、荷風の「傍観者的態度」に我慢できなかっただろう。しかし老境の今になって読むと、昨今の日本や世界の状況に対して、結局自分も日本が再び戦前になりゆく時代の「傍観者」の1人ではないのかという自省、自責の念から嘆息してしまうのである。

 「日乗」になぜ削除、切取の個所がたくさんあるのかは、昭和16年6月15日の日記で分かった。
 荷風が中央公論に寄稿した文章によって、彼が長年にわたって日記をつけていることが世人に分かってしまい、彼が時局について何を記録しているかを探る者が出てくることを懸念し、荷風はある深夜、日記の中の不平憤惻の文字を切り取ったのである(142頁)。「断腸亭日乗」は秘かに書かれた記録ではなく、これ以降はいつ権力者に発覚するかしれない文書になったのだ。
 それにしては、日記の一部を切り取り、削除したその日に、日支戦争は日本軍の張作霖暗殺に始まり、・・・支那の領土を侵略し始めたが、長期戦に窮して聖戦と称する無意味の語を用いだした、南洋進出は無知の軍人ら獰猛の壮士の企てたことで、一般人民の喜ぶところではない云々と書き記している(143頁)。切取、削除した個所にはこれよりもっと踏み込んだ軍部、政権批判が書いてあったのだろう。
 そもそも、新聞を読まず、送呈された雑誌類も読まず、ラジオも聴かなかった荷風はどのようにして、それらの情報を得ていたのか。すべて玉ノ井の娼婦や、浅草、銀座などでの友人や編集者との会話だけから得ていたのだろうか。

 下巻でも、荷風の当時の政治家、軍人、文士らに対する筆鋒は相変わらず厳しい。
 昭和14年1月に東京市長の音頭で「大都会芸術」なるものが提唱された際には、参加した「菊池吉屋佐藤西条らいずれも大の田舎漢にて噴飯の至り」と書く(67頁)。菊池寛、吉屋信子、西条八十だろうが、佐藤は紅緑か春夫か。
 昭和18年5月に、菊池寛が設立した言論報国会が無断で荷風の名前を名簿に載せた際には、「同会々長は余の最も嫌悪する徳富蘇峰なり」、しかし抗議することによってかえって相手に名をなさしむことになるので捨て置くことにするとある(192頁)。

 --などと、上巻と同様に下巻についても印象に残った記述を摘録しようと思ったが、億劫になってきたので、もう止めにする。
 下巻には、昭和12年(1937年)1月から亡くなる前日の昭和34年4月29日までの日記が掲載されている。
 相変わらず軍人、文士らの「田舎漢」批判、出版社や編集者の批判、印税や税金の話題などが多いが、戦後になると女性の話は減ってくる。毎日その日の天候から始まり、散歩の道すがらの風物、病気(「腹痛下痢二回」など)の話題は一貫している。
 この間、軍人の専制政治があり、戦争が激化し、やがて日本の敗色濃厚となり、昭和20年3月の東京大空襲では麻布の自宅「偏奇館」も焼失し、岡山、熱海その他で疎開生活を送る。敗戦後も暫くは従弟宅などで居候生活をした後に、千葉県市川に40坪の住宅を購い、亡くなるまで一人で過ごすことになる。

 戦前には、印税、株の配当などでかなりの収入を得ていたようだが、戦後は預金封鎖、新円切替、財産税導入など(303頁など)があり、経済面で不安を感じたようだ。預金封鎖にあったため、中央公論社嘱託となるという記述もある(294頁)。
 「偏奇館売文覚書」なる備忘も残している(316頁)。戦前には軽蔑していた「売文」業に自分も堕ちいったことを認め、売文で糊口をしのぐ生活を送る(石川淳によれば戦後の荷風の作品に見るべきものはないそうだ)。
 昭和27年には、朝永振一郎、辻善之助、安井曽太郎、梅原龍三郎らとともに文化勲章を受けている。この年、佐々木惣一までもが文化勲章を受けていたことには驚いた。
 「日乗」に記された言動からは、荷風が文化勲章を受けるなど考えられないことだが、毎年50万円の年金を生涯貰えることは、戦後の荷風には経済面で魅力だったのかもしれない。授賞には、当時荷風全集を刊行していた中央公論社の島中雄作の画策、尽力があったと推測される。なお「中央公論高梨」という名前が時おり出てくるが、どこかで見覚えがあると思ったら、中公バックス版「世界の名著」(中公)奥付の発行人が「高梨茂」となっていた。彼だろう。

 昭和29年頃から日記の記述の分量はだんだん少なくなり、昭和34年には「晴。正午浅草。」のような記載がつづいていて、亡くなる前日の4月29日の「祭日。陰。」(陰には「くもり」とルビが振ってある)で「日乗」は終わっている。
 戦後の世相に関する感想では、昭和22年5月3日の、「米人の作りし日本新憲法今日より実施の由。笑うべし」という記述が一番気になった(308頁)。どういう意味で笑うべし、なのだろうか。

 風景についての描写では、森鴎外の墓参のため井の頭線で吉祥寺に向かう場面がよかった。
 鴎外の墓は三鷹の禅林寺にあるらしい。渋谷から井の頭線に乗った荷風は、北沢までの車窓は目黒あたりと変わらないが、高井戸あたりから空気は清涼になり田園森林の眺望が目を喜ばすと印象を語る。荷風には米国の田園らしく見えるところもあったようだ(210頁)。
 荷風が頻繁に歩く下町の風景にはまったく馴染みがないが、井の頭線が出てくるとは。最近久しく井の頭線に乗っていないが、昭和30年代には浜田山、久我山あたりの車窓には田園風景が広がっていて、緩やかな丘の雑木林や小川が見えた。なぜかこの光景の思い出と一緒に、ぼくにはデル・シャノンの「悲しき街角」が聞こえてくる。

 下巻に登場する女性で一番印象に残ったのは、昭和24年6月15日に地下鉄浅草駅のホームで出会った21、2歳の街娼である。荷風が煙草に火をつけるのに難渋していると火を貸してくれ、「永井先生でしょう」と尋ねて、「鳩の町」も読んだという。荷風は煙草の空き箱に100円札を3枚入れて渡す。3日後に偶然再会し再び300円を渡そうとすると、彼女は「何もしないのにそんなにもらっちゃ悪いわよ」と辞退する。
 荷風は、その悪ずれしない可憐さに「そぞろに惻隠の情を催さしむ。不幸なる女の身の上を探聞し小説の種にして稿料を貪らむとするわが心底こそ売春の行為よりもかえって浅間しきなり」と書く(332頁)。荷風老いらくの恋のはじまりかと思ったら、小説のネタ取材が目的だったとは・・・。
 ぼくはこの女性に小津安二郎「風の中の雌鶏」の文谷千代子を思い浮かべた。彼女のような娼婦以外の女性は荷風を読むのだろうか。

 2024年6月30日 記

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永井荷風「摘録・断腸亭日乗」(その2)

2024年06月28日 | 本と雑誌
(承前)
 荷風は、日本の文士・文学者だけでなく、軍人、警官(特高)、政党政治家、さらに一般の日本国民も嫌いだった。
 麹町通りで台湾の生蕃人(ママ)の一行を見かけるが、彼らは警備の日本人巡査よりも温和な顔をしていると書いている(16頁)。関東大震災の折に被服工廠跡で多数の焼死者が出たのは、巡査が粗暴で臨機応変の才覚がなかったことによると批判する(127頁)。 
 大正8年中国で起った排日運動の原因は、わが薩長政府の武断政治の致すところであり、国家主義の弊害がかえって国威を失墜させ邦家を危うくするのであると喝破し、その後の敗戦に至る日本の歩んだ道を暗示している(29頁)。

 昭和11年の日記には、現代日本の禍根は政党の腐敗と軍人の過激思想と国民の自覚なきことの三つであるが、政党、軍人の腐敗も結局は「一般国民の自覚乏しきに起因する」ものであり、しかし「個人の覚醒は将来においても・・・到底望む」ことはできないと悲観する(345頁)。
 満州事変(昭和6年)、5・15事件(同7年)、2・26事件(同11年)などにおける軍人の暴挙だけでなく、戦時下に軍服のまま平然と待合に(客として)出入りするなどといった軍人の非行を指弾する記述は随所にある(233、257、352頁など)。企画院、大蔵省その他の建物が落雷で焼失した際には「天罰痛快々々」と書いている(昭和15年6月21日、下巻93頁)。
 巡査、軍人、政治家から文士まで、荷風はしばしば彼らを「田舎漢」と呼んで軽侮する。
 尾張藩士の末裔にして大学南校からプリンストン大学を経て文部官僚となり、官を辞した後は日本郵船の支店長などを務めた父のもとに小石川で生まれ、幼少期にアメリカ生活を経験し長じてからはアメリカ、フランス留学も経験したモダンな荷風には(しかし親の期待には応えられなかった)、当時日本の政治、軍事を、そして文壇をも牛耳り、東京に蝟集する地方出身者の言動は不愉快ったのだろう。

 荷風が嫌う文士の筆頭は菊池寛である。菊池を「売文業者」と呼び、酒場の美人投票で、お気に入りの女給仕に投票するためにビール150瓶(1瓶1票だった)を買って車で自宅に持ち帰ったなどという噂話を暴露し冷笑する(196頁)。有島の情死報道にも無関心(65頁)、芥川の自死にもそれほどの関心を示していない(148頁)。
 荷風は軽井沢も嫌いなようだ。8月10日の東京は涼しい、高いホテル代を払ってまで軽井沢へ避暑に行く奴の気がしれないと書いているが(何年だったか?)、これも軽井沢を有難がるような文士に対する当てこすりか。もっとも他方では、昭和2年8月に軽井沢の離山で鶯を聞いたことを懐かしむ記述もある(昭和9年8月1日、308頁)。
 夏目漱石の未亡人が漱石の私生活を語った本を出版し(夏目鏡子、松岡譲「夏目漱石の思い出」)、そのなかで漱石は「追従狂」という精神病だったなどと暴露したことを強く批判する(151頁)。「漱石の思い出」はその昔角川文庫版で読んだが、そんな記述があった記憶はない。
 荷風にとって有難いのは、森鴎外と上田敏(132頁ほか。荷風を慶応義塾教授に推挙してくれたらしい)、それと成島柳北だけのようである。成島の日記を筆記する様が随所に出てきた。 

 新聞社、新聞記者、出版業者、賄賂が横行し著作権を無視する教科書出版社(父親が文部官僚だったから実態を知っていたのか)、その社主や編集者たちも嫌いである。
 かつて朝日新聞は荷風のカフェ出入りを中傷しておきながら、にわかに寄稿を依頼してきたことを訝しがる(昭和6年、220頁)。改造社の円本、中央公論社に対しても冷ややな記述があるが、結局は円本の出版でかなりの印税を得たようだし、戦後になって中公から全集まで出すなど、経済面ではしっかり(ちゃっかり)しているようだ。

 この日記の面白いところの一つは、荷風が随所で印税などの金銭勘定を書き残していることである。
 太陽堂が連載寄稿の依頼の際に、前払金として現金500円を突き出した無礼を詰り(90頁)、改造社の全集企画に関しては契約手付金1万5000円が小切手で支払われ、斡旋した邦枝何某にも礼金500円が支払われるとある(145頁)。後には、改造社の円本の印税が巨額に達したることを察知した無産党員から脅迫を受けたりもしている(178頁)。納めた所得税額まで明記してあったが、これは下巻だったか。
 文士の住宅事情の一端もうかがうことができる。
 大正7年のことだが、築地への引越しの際に、築地の新居の家屋代金は2500円(土地代がないということは借地だったのか?)、仲介会社手数料460円(建物価格の約20%とは高くないか!)とある。他方、余丁町の旧自宅の地所と家屋の売却代金が2万3000円、家具什器類の売却代金が1892円などで、差引残金は2万3304円22銭とある(20頁)。お金には恬淡なようでいて、銭単位まで書き残すとはけっこう銭勘定に細かい人である。

 酌婦(という言葉は使ってないが)の前借金の相場も書いてある(昭和11年、356頁)。3年で1000円が相場だが、半年で2、300円という女もあり、寝台その他の造作一切付きで1日3円を家主に支払う例もあるという。
 玉ノ井近くの梅毒病院では入院患者が100人以上あり、入院料は1日1円だったそうだ。民法の授業で前借金契約を無効とする判例を学んだが、あの事案では法外な前借金が無効だったのか、そもそも前借金契約自体が無効だったのか。 

 本書には、伏字(×××)や、「削除」とか「切取」と書かれたところが何か所もあるが、そこには何が書いてあったのか。
 軍人や政治家に対する批判は随所に見られたが、天皇の言動に関する感想はなかったように思う。「摘録」なので編者の磯田氏が摘除したのか、もともと記述がなかったのか。ひょっとしたら、「削除」「切取」や伏字の部分に書いてあったのは天皇に関する記述だったのではないかと推測する。
 満州事変や朝鮮独立運動、大杉栄暗殺、5・15事件、2・26事件、血盟団事件など、世の中の不穏な動きにふれていながら、天皇にまったく無関心だったとは思えない。難波大助の死刑に関して40文字近い伏字があるのも(79頁)、そのような想像をたくましくさせる。
 ただし大正天皇の崩御が近い時期に、新聞紙が天皇の飲食物や排泄物の量などを報ずることは(昭和天皇の時にも日々報道されたが、明治天皇の時も同様だったという)君主に対する詩的妄想の美感を損なうものであり、車夫下女の輩が号外を求めて天子の病状を口にするのは冒瀆の罪の最たるものであると書いている(125頁)。(つづく)

 2024年6月27日 記

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永井荷風「摘録・断腸亭日乗」(その1)

2024年06月26日 | 本と雑誌
 
 永井荷風「摘録 断腸亭日乗(上)」(岩波文庫、1987年)を読んだ。

 「濹東綺譚」の風景は下町ばかりで馴染むことができなかったが、「断腸亭日乗」のほうは、やはり下町の話が多いが、大正7年の余丁町から築地を経て麻布への引っ越しなど、親しみのある地名も出てきた。荷風より10歳ほど年長だったぼくの祖父は(荷風が忌み嫌う)職業軍人だったが、東京では余丁町の官舎に住み、麻布(六本木)、青山の勤務地に通った。亡父は余丁町小学校を卒業している。
 面白い記事が沢山あって、図書館で借りた本なので傍線を引くわけにはいかず、付箋を貼りながら読んだのだが、付箋が数十か所になってしまった。返却する時に剥がすのが大変だ。

 面白かった第一は、荷風の散歩と食べ歩きである。
 散歩はその移動距離にまず驚く。例えば雑司ケ谷墓地から九段坂に至ったりするのだが、全行程を歩いたのだろうか。「歩む」と書いてあるところもあるが(86頁)、書いてない場合でも歩いたのだろうか。歩いて歩けない距離ではないが、2時間やそこらはかかりそうである。地下鉄(道)や乗合バスに乗った時にはそう書いているので、書いてない場合は歩いたのだろうか。それとも、当時は市電の路線が東京中に張りめぐらされていたから市電に乗った場合には当然のこととして書かなかったのか。
 独身だった荷風の昼食、夕食はほとんど外食である。銀座、浅草その他の食べ物屋、飲み屋がたくさん出てくるが、ぼくが名前を知っているのは「金兵衛」と「風月堂」くらいである。「金兵衛」は、現役時代の会議の際に何度か仕出しを配達してきた「金兵衛」と同じだろうか。
 カフェ、待合などがどのような場所なのかぼくには分からないが、玉ノ井が頻繁に出てくる。玉ノ井というのは、植草圭之助「冬の花 悠子」が地下鉄銀座線に乗って脱出した吉原の遊郭のことだろうか。
 ※ 玉の井と吉原はまったく別物というより、天と地、月とすっぽんくらい違う場所だった。吉原は高級な公娼がいる遊郭(廓)で、玉の井は最下級の私娼が棲む路地裏だったらしい(川本三郎「荷風好日」岩波現代文庫82、93頁)。

 荷風は女好きだった。日記にも多くの女性が登場する。
 アメリカ、フランス留学(1904~07年)から帰朝以来、「馴染を重ねたる女」の名前を16名列挙してあるが(342頁、すべて実名のようである)、「馴染を重ねる」というのはどういう関係だったのか。戦前の婚外男女の事情に疎いので、これらの女性と荷風の関係が理解できなかった。妾、芸妓(伎も同じか?)、芸者、女給、私娼(公娼の定義は?)などの肩書のついた女もあるが、区別は分からない。
 しかし、荷風は、「女好きなれど処女を犯したることなくまた道ならぬ恋をなしたる事なし。50年の生涯を顧みて夢見の悪い事一つもなしたることなし」(192頁)と書いている。売春が公認されていた時代だったが、私通姦通はしないというのが荷風の倫理観だったのだろう(安藤昌益「自然真営道」が近親婚には許容的なのに、姦通に対してはきわめて厳しい態度だったことを思い出す)。
 末弟との悪関係から母親の葬儀には参列していないが、毎年の正月元旦には雑司ケ谷墓地に亡父の墓参りに出向いている。

 荷風は、自分は「無妻」でもあり、また「多妻」とも言える、書斎では独身だが、いったん外に出れば一変して「多妻主義者」になると書いている(298頁)。荷風は一度結婚したが、妻と離婚して以降は「妻」を持たなかった。定まった妻を持たず子孫もないので、いつ死んでも気が楽であることは幸せであると書いている(191頁。285頁にも同様の記述あり)。銀座で乱暴狼藉を働く慶応義塾の学生を目撃し、子を持たないわが身の上を嬉しく思ったと書く(287頁)。
 昭和11年1月にわが家に連れて来た女が「わが生涯で閨中の快楽を恣にせし最終の女なるべし」、「色欲消磨し尽せば人の最後は遠からざる」として、同年2月24日に遺書を認めている(346頁)。荷風58歳の時である。
 遺書には、葬式は不要、死体は普通車で火葬場に運び、骨は拾う必要なし、墓石などの建立も不要、全遺産はフランス・アカデミアに寄付する、著作に関する一切は親友(名は削除)に任せる、中央公論社の如き馬鹿々々しき広告を打つ会社から自分の全集を出すことを恥辱に思う(といいつつ戦後になると中公から全集を出している!)、三菱銀行に定期預金が2万5000円あるので、これで自分の全集を印刷して同好の士に配布されたし、などと書いてある(346頁)。
 遺書には、「余は日本の文学者を嫌ふこと蛇蝎の如し」という一項までわざわざ設けている。
(つづく)

 2024年6月26日 記

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「消えゆく草軽電鉄」(東芝レコード)

2024年06月24日 | 軽井沢・千ヶ滝
 
 「消えゆく草軽電鉄」(浜本幸之=発行、企画=河野隆次、監修=加藤いずみ、東芝レコード4RS-374、非売品)というレコードが手元にある。
 そのジャケットには「軽井沢叢書 草軽電鉄五拾年誌・付録」と書いてある。このレコードの発行者は「軽井沢書林・浜本幸之」となっているが、レコード自体は非売品とある。この「草軽電鉄五拾年誌」という本には、レコードの他に実際に使用されていた切符も1枚付属していた。

 レコードのA面は「高原を往く」と題され、発車、上り坂のモーター音、レールのきしみ、ノッチをあげてノックする音、平坦路、ポイント通過、ブレーキ音、停車の音が収録されているらしい。久しく聞いていないが、やたらギーギーとうるさかった記憶がある。(6分33秒)。
 B面は「さみしい山の駅」と題され、ポイント切り替え、列車の到着、機関車の通過、列車交換、ポイント切り替えの音が収録されているらしい(6分25秒)。B面もその昔聞いたはずだが、まったく記憶にない。 
 録音は営業終了間近(昭和37年か)の3月に収録されたとジャケットの解説に書いてある。こんな文章をジャケットから転記していたら、レコードを聞きたくなってきた。

 以前平安堂書店の軽井沢店(国道沿いのマツヤの隣り)で、草軽電車のDVDを売っていたが、1万円近かったので買わなかった。草軽電車の動く姿は、木下恵介監督の「カルメン故郷に帰る」でふんだんに見ることができる。確か500円くらいのDVDだったはずである。
 ※ このレコードについては、昨日(2024年6月23日)の書き込み以前にも書いた。2006年3月3日付の「想い出の草軽電鉄」である。このレコードのジャケットは、一般的なドーナツ盤のジャケットのような正方形ではなく、実際はやや長方形である。 

 2024年6月24日 記

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浜本幸之「草軽電鉄五拾年誌」

2024年06月22日 | 軽井沢・千ヶ滝
 
 浜本幸之「草軽電鉄五拾年誌」(軽井沢書林、昭和48年、発売=軽井沢新聞社)限定500部の105番、定価2500円。
 「消えゆく草軽電鉄」(発行=浜本幸之、東芝レコード4RS-374、非売品)というレコードと、草軽電車の実際に使われていた切符(硬券)が1枚付属していたが、切符は失くしてしまった。

 これは五反田の古書展の目録で見つけて購入した。
 入札日に、「当選しました」と連絡があったので、わざわざ五反田の会場まで取りに行ったら、店員が「連絡の手違いで落選でした」という。きっと抽籤に外れた購入希望者がゴリ押ししたのだろう。頭にきたので、「それなら別の店で購入するので、その差額と交通費を弁償しろ」と言ったところ、応対した店員が裏に引っこんで、しばらく待っていたら出てきて、「あなたにお売りします」という。ふざけた古本屋ではないか。40年以上昔の話だが、今でも思い出すと腹が立つ。
 こんな次第でやっと手に入れた本である。その後、「日本の古本屋」や「アマゾン」でも一切見かけない。レコードともども、相当レアの部類に入る本といえるだろう。

   

 本文53頁の簡単な本だが、和綴じ本で、全文毛筆で手書き(の印刷)のうえ、モノクロの写真も多数掲載されている(上の写真)。
 大正4年の草津軽便鉄道の軽井沢―小瀬温泉間の営業開始から、昭和35年4月の草軽電気鉄道会社の軽井沢ー上州三原間の営業廃止、昭和37年の全線(上州三原ー北軽井沢間)の営業廃止までの約50年間の草津電鉄の歴史が語られる。
 ※ ある年の夏休みに旧軽井沢に行ったら、前年の夏休みには走っていた草軽電車が忽然となくなってしまっていたのは、ぼくが小学校5年生だった昭和35年(1960年)の夏のことだったのだ。
 草軽電鉄ではトンネルを作らない方針だったため、傾斜25度の急勾配に苦労したこと、冬の雪、夏の台風や落雷の苦労、皇族用の特別列車やハンセン病患者用のベッド付き列車のこと(草津にはハンセン病の治療施設があった)、はては当時からいた銅線泥棒との対決など知らなかった話題も多い。

     

 この本も旧友の息子のS君にあげようと思っていたが、ネットで調べると、この「草軽電鉄五拾年誌」は軽井沢図書館にも所蔵されていないらしい。沓掛テラスの中軽井沢図書館なら、見たい時に見に行くことができるから寄贈してもいいという気がしてきた。軽井沢にゆかりの深い本なので、もう暫らくはぼくが閲覧可能なところに置いておきたい。
 「鉄オタ」だというS君には、代わりに「写真集・草軽電鉄の詩ーー懐かしき軽井沢の高原列車」(郷土出版社、改訂版=1995年)で勘弁してもらおう。この本は2冊持っているので。改訂版は間違いなく神田神保町の篠村書店で古本を買ったのだが、新装版が出たので軽井沢の平安堂書店で買った(上の写真)。
 ※ 「草軽電鉄の詩」のことは、2006年12月21日(旧版について)、2008年8月5日、同年9月18日(新装版について)の3回にわたって「豆豆」に書き込んである。

 2024年6月22日 記 
                   

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「写真集 信州の鉄道・その100年」

2024年06月21日 | 本と雑誌
 
 長野鉄道管理局監修「写真集 信州の鉄道・その100年」(1979年、信濃路)。
 発売は農山漁村文化協会とあるが、本体、奥付、函のどこにも定価の表示がない。非売品だったのか? この本もどのような経路で入手したのか、まったく記憶にない。
 ※と書いたが、本の中から日販のスリップが出てきた。「返品期日 53年5月31日 ¥3500」とある。昭和53年(1978年)に3500円で新刊本を買ったようだ。

 明治18年の直江津線(後の信越線)の建設開始時の写真から、昭和45年の野辺山駅に停車するポニー号の写真まで、100余ページにわたって、信州長野の鉄道の歴史をたどる写真が満載されており、付録として、記念切符、駅弁パッケージ(横川の釜めし容器もある)、鉄道ダイヤ、そして長野県内の信越本線・中央本線・大糸線などの全駅の写真、および信州の鉄道の略年譜が掲載されている(下の写真)。
 
   
   

 中には、大正時代の軽井沢のメインストリートの写真など、鉄道以外の風景もある(下の写真)。
 「鉄道唱歌 第4集 北陸編」というのも載っていた。鉄道唱歌に東海道線以外もあったとは知らなかった。
 「これより音にききいたる/碓氷峠のアプト式/歯車つけておりのぼる/仕掛は外にたぐひなし」で始まり、「夏のあつさもわすれゆく/旅のたもとの軽井沢/はや信濃路のしるしとて/見ゆる浅間の夕煙・・・」とつづいて、最後は越後の「田口駅」で終わる(大和田建樹作詞)。
 軽井沢は当時すでに避暑地となっていて、象徴する風景が浅間山の夕霞というのがいい。「田口」駅は小津安二郎の戦前の映画で、早稲田の学生たちがスキーに出かけた場面に出てきた。現在の妙高高原駅だったか・・・。あの映画では軽井沢駅の駅弁も出てきた。

   
    

 敗戦後のアメリカ占領時代に、軽井沢駅改札口に立つアメリカ兵を写した写真もあった(上の写真)。
 加藤周一の「ある晴れた日に」(岩波現代文庫)のなかに、敗戦後に軽井沢に進駐してきたアメリカ憲兵が、接収した万平ホテルや三笠ホテルをベースにして軽井沢や追分で日本の戦争協力者を摘発する場面があった。
 この写真を久しぶりに見て、昭和20年8月15日の草軽鉄道と軽井沢を舞台にした推理小説を書こうと目論んでいた日々を思い出した。トリックは有馬頼義をまねた時間トリックというやつを構想したが、肉づけができずに諦めた。そのときに参考資料にしようと思って買った本の1冊かもしれない。 

 2024年6月21日 記

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佐々木桔梗「探偵小説と鉄道」

2024年06月20日 | 本と雑誌
 
 佐々木桔梗「探偵小説と鉄道ーー「新青年」「探偵小説」63の事件」(プレス・ビブリオマーヌ、1975年冬、限定版570部の545番と奥付に記載がある。定価の記載はない)、扉に水色のインクで手書きされた著者のサインがあり、本文中に、ヨーロッパのどこかと思われる国の鉄道切符(硬券)、シャーロック・ホームズの葉書、蒸気機関車のイラストの入った切手(1/2Fとあるが消印で他の文字は読めない)が挟んであった。アクリル板の透明ケースに収まっている。 
 表紙には、客車2両を引いて転轍機をまわる機関車のイラストがあり(クロフツ「急行列車殺人事件」新青年昭和8年5月号に掲載された横山隆一の挿絵とある)、口絵ページには、探偵小説を飾った古い鉄道列車の挿絵が多数入っていて、本文には、「新青年」と「探偵小説」に掲載された鉄道ミステリー計63作品(数えてないけれど)が紹介してある。
 装丁なども含めて、かなり趣味的な本である。

 どういう経緯で手に入れたのかも覚えていないが、1975年頃ブームになっていた「新青年」などの復刻版を、牧逸馬をきっかけに買った時期があったから、何らかの媒体で知って買ったのだろう。古書店の店頭か古書目録で見つけたのかもしれない。時々眺めに行った神保町の篠村書店には鉄道関係の古本もけっこう置いてあったから、あそこかだったかも知れない。
 現在、「日本の古本屋」で調べると、1500円程度から売られているが、もっと高値をつけている店もある。「限定版」という割には意外に安い価格である。

 この本は断捨離の候補だったが、サラリーマン時代の友人の息子さんがいわゆる「鉄道オタク」で、鉄道関係の本も集めているということなので、他の鉄道関係の本と一緒に彼に差しあげることにした。

 2024年6月20日 記

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サリンジャー「フラニーとズーイ」

2024年06月19日 | 本と雑誌
 
 サリンジャー/鈴木武樹訳「フラニーとズーイ」(角川文庫、1969年)も断念。昔買ってあったので「ナイン・ストーリーズ」につづけて読みだしたのだが、読み進めることはできなかった。

 1969年に野崎孝訳で読んだ「ライ麦畑でつかまえて」(白水社)は、ぼくの人生に影響を与えた10冊の本の中に入るだろう。同じ年に読んだマルタン・デュ・ガール/山内義雄訳「チボー家の人々(全11巻?)」(これも白水社だった)、樺美智子「人知れず微笑まん」(三一新書)も10傑に入るだろう。
 そう言えば、6月15日は樺さんの命日だった。2、3週間前のNHK「映像の世紀」(だったか?)で、60年安保闘争のドキュメントをやっていたが、その中で、樺さんの遺体が無造作に警察かどこかのベンチに布をかけて置かれている(一輪の花が添えられていたが)映像が写っていた。ショックだった。

 「ライ麦畑・・・」は良かったし、最近になって読んだサリンジャー選集(荒地出版社)の「若者たち」と「倒錯の森」に収められた初期の短編集、鈴木の分類に従えば「初期短編物語群」に分類される短編も良かったが、「グラス家物語」ないし「グラッドウォーラー・コーフィールド物語群」といわれるグループに含まれるらしい短編は、どうやらぼくには縁のない話ばかりのように思えてきた。ただし後者の中でも、「フランスの少年兵」「最後の休暇の最後の日」「マディソン街外れのささやかな反乱」など数編はよかった。
 しかし「フラニー」は最初の16頁で限界に達した。野崎訳(新潮文庫)だったらどうだろう・・・、とも思ったが、おそらく駄目だろう。せっかくなので、きょう病院の待ち時間の間に、巻末の武田勝彦解説だけを読んだ。そして、いよいよぼくには縁のない本に思えてきた。この解説は、ぼくのように、サタデー・イブニング・ポストに載るような小説のほうが面白いと思う凡人にとっては役に立ったが、まさにサリンジャーが自著に解説をつけることを拒絶する気持ちがわかるような解説だった。

 「ズーイ」などの作品は、初期の習作時代の作品に比べて、象徴主義、前衛的手法がまさってきているそうだ。ぼくは根が単純なので即物的なストーリーでないと理解できない。彼によれば “Newyorker” 誌は、大学教授などのインテリたちには軽く扱われているが、「都会的センスを求める知的大衆」にとっては「生活のバイブルである」そうだ。サリンジャーの解説で、よくぞ「知的大衆」などという言葉が使えたものである。
 「知的」ではない「大衆」の1人であるぼくにとっては「生活のバイブル」ではないが、ニューヨークの若者の生態を知ることができるところだけは確かに良かった。
 武田の解説で、「フラニー」の中には、マーティーニのオリーブの実は食べるべきか否かという会話が出てくるとあった。オリーブを添えたマーティーニは「ライ麦畑・・・」の中にも出てきた。いかにも美味そうな描写だったので、サラリーマンになってから行きつけのバーで注文したことがあった。不味かった。オリーブの実を食うか否か以前の問題である。何でアメリカ人はこんな不味い酒を有り難がるのか分からなかった。あまりに不味かったので、口直しにバイオレット・フィズを注文した。サントリーの各種カクテルがトリス・バーの棚に並べてあった時代である。

   

 実は、野崎孝訳「大工よ屋根の梁を高く上げよ シーモア序章」(新潮文庫)を1週間ほど前に amazon で注文したのが先日届いた。しかし、これもだめだろう。到着と同時に未読書コーナー行きになってしまった。「1924年ハプワース16日」も持っていないが、どうせ読めないだろうから買わないでおこう。 
 サリンジャーは、1969年の「ライ麦畑・・・」と、2022~4年の「若者たち」と「倒錯の森」(荒地出版社)、そして先週の「ナイン・ストーリーズ」(新潮文庫)で打ち止めにしよう。
 2021年の末頃に、娘の書いた「我が父サリンジャー」と、スラウェンスキー「サリンジャー」を近所の図書館で見つけて読んだときから始まったぼくの「サリンジャー復興」はどうやら終焉を迎えたようだ。

 2024年6月18日 記

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M・J・サンデル「リベラリズムと正義の限界」

2024年06月17日 | 本と雑誌
 
 読書断念シリーズ第2弾!
 本の断捨離がなかなか進まないので、「未読書整理コーナー」を設けることにした。一定期間(1年間くらいか)このコーナーにおかれたまま放置された本は処分する(つもりである)。断捨離の執行猶予のようなものである。
 ルイス・ナイザー「私の法廷生活」に続く第2弾は、マイケル・J・サンデル/菊池理夫訳「リベラリズムと正義の限界(原書第2版)」(勁草書房、2009年)である。
 気になりつづけていたので、1か月ほど前に読み始めたが、残念ながら40頁ほどで挫折した。悪戦苦闘したのだが、時間の無駄と覚ったので、この先を読むのはやめる(諦める)ことにした。

 ローデル「正義論」「公正としての正義」に示されたリベラリズム論への反論の書である。かと言ってコミュニタリアニズムに同意するものでもないらしい。
 黒人の公民権を求めるキング牧師らのデモ行進は表現の自由の行使として認めるが、ホロコーストの生存者が多く住む町の中をネオ・ナチがデモ行進することは(そういう事件があったようだ)認めないという結論は、表現内容に対して中立の立場をとるリベラル派にとっても、コミュニティに優勢な価値にしたがって権利を定義するコミュニタリアンにとっても、原理的に不可能であるとサンデルはいう。
 前者(キング牧師の行進)を肯定し、後者(ネオナチの行進)を否定するという結論(それが常識にかなっている)はどのような原理によって可能か、というのがサンデルの出発点のようである(ⅻ頁)。この結論をリベラル派は支持するだろうが、その正当化はリベラル派がいう「正」「正義」論では不可能であるとサンデルはいう。

 ぼくは、キング牧師らのデモと、人種差別主義者のデモが等値関係にあるとは思えない。キング牧師のデモは整然としてシュプレヒコールすらなしに行われるのに対して(先日NHKテレビ「映像の世紀」でキング牧師の公民権デモ行進の映像を見た)、ネオナチのデモはユダヤ系の多く住む街で行われたという一事をとっただけでもキング牧師らのデモとは違いがある。仮定の事例としても、キング牧師のデモとネオナチのデモを等置して、前者は認め後者は否定する正当な論理は何かと問うこと自体に違和感を覚える。
 どうしても両者を等置したうえで、キング牧師らのデモを正当化し、ネオナチのデモを否定しろというなら、表現内容に踏み込んで、人種間の平等を目ざして黒人への公民権付与を唱えるデモは民主主義国家の理念に合致しているのに対して、人種間の差別や少数人種への憎悪や排除を唱えるデモは民主主義国家の理念に反するからと答えるだろう。こういう結論はコミュニタリアン的態度というのだろうか。
 それならそれでもぼくは構わない。リベラルかコミュニタリアンかが問題の本質とは思わない。

 しかし、法哲学の世界ではそんな簡単に結論づけることはできず、この結論に到達するには1冊の本が必要なようだ。
 法哲学の世界では、「正・正義(right)」対「善(good)」という対立項が根本にあるらしい。「正義」派の代表はカントで、現代におけるその主唱者がロールズらしい。したがって、ロールズの「無知のヴェール」(+無関心の傍観者)を論ずるためには、その前にカントを検討しなければならないらしい。
 しかし、カントも苦手だ。数十年前に天野貞祐訳「純粋理性批判」(講談社学術文庫、1979年。全5巻だったか?、いつの間にか手元からなくなってしまった)を買ったが、1巻の10ページも読まずに断念した。ぼくには縁のない本だった。
 学生の頃ゼミの飲み会で夜遅くなり、その一人を湘南電車の下り終電で平塚まで送って行ったところ、彼女のお父さんが泊っていきなさいと言ってくれたので、彼女の家に泊めてもらったことがあった。彼女の部屋の本棚に、カントの「純粋理性批判」(岩波文庫だった)が並んでいたので、手に取って見ると、最初の10数頁のところにしおりが挟んであって、その後は読んだ気配がなかった。カントに挑戦はしたものの、読み通すことはできなかった彼女をますます好きになった(またしても・・・)。

 それから50年が経って、今回はサンデルに挫折した。
 「正義の限界」に到達するはるか手前で、ぼく自身の「能力の限界」が来てしまった。
 20年前に、川本隆史「現代倫理学の冒険」(創文社、1995年、手元の本は2003年5刷)を読んで、納得した記憶がある。内容はほとんど忘れてしまったが、リベラリズムはあの本(の記憶)で良しとしよう。 

 2024年6月17日 記

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ルイス・ナイザー「私の法廷生活」

2024年06月15日 | 本と雑誌
 
 ルイス・ナイザー/安部剛・河合伸一訳「私の法廷生活--弁護士の回想」(弘文堂、1964年)を読み始めたのは数週間前のこと。しかし第1章を読んだところでしばらく放置したままになっていたが、結局これ以上読み続けるのは断念することにした。

 第1章は名誉棄損事件、第2章は離婚事件を取りあげていて、テーマ自体に興味はあるのだが、残念ながら今のぼくにとってその内容は面白くなかった。臨場感というか、ダイナミックさがないのである。登場人物も知らない者が多い。自分が担当した裁判の訴訟記録か何かを読みかえしながら、書いているような印象を受けた。
 弁護側の証拠調べ手続に向けての証拠の収集、証人との打ち合わせなどの公判準備や、反対尋問の手法など、法廷技術に興味のある人なら参考になるだろうが、過去の裁判事件を興味本位で知りたいぼくにとっては期待外れだった。
 訳者は二人とも、アメリカ留学経験を持つ法律実務家だが、新刑事訴訟法を英米流に運用することを目ざして翻訳したのではないか。“Law and Tactics” なんてケースブック(全5巻だった)が出るくらい、英米では法廷技術をマスターすることが重要らしいから、本書のような有名弁護士による法廷の思い出話、自慢話も後輩弁護士たちに有用なのだろう。

 なぜか、この本の原書(といってもペーパーバック版)も持っていた(下の写真の左側)。
 Louis Nizer, “My Life in Court” (Pyramid Books, 1963)95¢ とある。東京泰文社のラベルが貼ってあった。懐かしい神保町の古書店である。今もあるのだろうか。もちろん読んでいない。その表紙の宣伝文句には「175万部を売り上げた」とある。

   

 ナイザーの本と一緒に、P. Packer et al. “The Massie Case--The Most Notorious Rape Case of the Century” (Bantam Books, 1966)というのも出てきた(上の右側)。同じく東京泰文社のラベルが貼ってあった。いずれもかなり汚れているが、1980年代まではアメリカ兵(?)が残していったような洋書がけっこう神田の古本屋にも並んでいた。
 “Massie Case” は1931年に(!)ハワイで起きた殺人事件である。海軍少尉の妻が、5人の原地人によって強姦されたと夫に訴えた。夫の少尉はそのうちの1人を拉致したうえで殺害したとして、妻の母親とともに起訴された。母親はセオドア・ローズヴェルトの親戚という社交界の名士であり、有名な弁護士クラレンス・ダロウ(C. Darrow)が2万5000ドルの報酬で弁護人となったこともあり、全米に一大センセーションを巻き起こした事件だったらしい。1963年にヒロイン(?)の Massie 夫人が薬物中毒で亡くなったのを機に執筆されたようだ。
 実際に強姦があったのかも争点となったようだが、なぜこのような事件をダロウが受任したのかも興味が湧く。表紙によれば、ダロウは被告らの弁護によって「ハワイの白人優越主義者たちの英雄になった」とある(ということは被告側が勝訴したのだろう)。著者は当時のハワイにおける白人優越主義をテーマにしているようで、「強姦と殺人と人種的偏見とが、楽園の島ハワイを暴力の噴火山に変えてしまった」という表紙の惹句に魅かれて4、50年前に買ったのだろうが、今となってはもう読む気力はない。
 これも永遠の未読書の1冊になるだろう。

 2024年6月15日 記

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サリンジャー「ナイン・ストーリーズ」

2024年06月13日 | 本と雑誌
 
 J・D・サリンジャー/野崎孝訳「ナイン・ストーリーズ」(新潮文庫、1974年)から、「小舟のほとりで」「エズミに捧ぐ--愛と汚辱のうちに」「ド・ドーミエ・スミスの青の時代」「テディ」を読んだ。
 「ナイン・ストーリーズ」(1953年)は、それまでに発表した29編の短編の中から9編をサリンジャー自身が選んで、発表年代順に並べた唯一の短編集である(野崎解説による)。
 
 「ライ麦畑でつかまえて」に捉えられていた頃は、本書の冒頭の「バナナフィッシュに最良の日」とか「コネティカットのひょこひょこおじさん」などといった題名自体に強い拒否反応があって、読まないままでいた。それが50年の時を経て、昨年来から荒地出版社の「サリンジャー選集」に収録された短編を読んで以来、今度は「ライ麦畑・・・」とはまったく異質の「アメリカ戦後作家」としてのサリンジャーが気に入ってしまった。
 K・スラウェンスキーによる伝記「サリンジャーーー生涯91年の真実」(田中啓史訳、晶文社、2013年)を読んで、(1960~70年代には謎だった)サリンジャーの生涯に照らして彼の短編を読むことができるようになった。それによると、「ナイン・ストーリーズ」に発表年順に収められた9編の短編は、「小舟のほとりで」までの絶望期から、それ以降の間で変化を来たしているという(383頁)。20代の頃に読んだのは絶望期の作品で、今回読んだのは変化後(恢復期?)のものだったようだ。

 なお「ナイン・ストーリーズ」のうち、「バナナフィッシュ・・・」と「コネティカットの・・・」は、2年ほど前のぼくに訪れたサリンジャー再評価(ルネッサンス)時代に読んだのだが、やはり好きになれなかった。しかし、その折に「コネティカット・・・」が映画化されていたことを知った。
 映画「愚かなり我が心」(“My Foolish Heart”)である。この映画の脚色に懲りて(怒って)、サリンジャーはその後一切の映画化(や登場人物のイラスト)を拒絶したという。エリア・カザンによる「ライ麦畑・・・」の映画化など、見たかった気持ちもあるが、「理由なき反抗」と同工異曲のような映画になってしまったかもしれない。ニューヨーカーのホールデンをジェームス・ディーンが演じるわけにもいかないだろうし。この映画のテーマソングは良かった。

 今回読んだ中では「エズミに捧ぐ」が一番良かった。
 イギリス人少女エズミと主人公(サリンジャー?)との独特の会話は、おそらく上品なクイーンズ・イングリッシュとアメリカ英語で交されているのだろうけど、清水義範の「永遠のジャック&ベティ」を思い出した。7歳の少女があんな言葉を発するだろうかとは思うが、女の子の言語能力は恐ろしいばかりだから、あり得ないことではない。それよりも、ストーリーの展開と結末がよかった。やっぱりサリンジャーの短編小説はいいと思った。
 ノルマンディ上陸作戦の準備のために滞在したイギリス、デボンシャー州が舞台だが、サリンジャーは、ほんとうにエズミのような少女に出会ったのだろうか。なお、“Esme”(e はアクサンテギュつき)はエズメではないのか(他の訳ではエズメになっている)。江角マキコの面影がちらついた。

 「ド・ドーミエ・スミスの青の時代」は読める。
 例によって、喫煙シーンの頻出には参ったが、ストーリーは面白い。モントリオールに通信制の絵画学校があったとは(本当にあったのか?)。 
 「テディ」は苦手。
 戦争後遺症(PTSD)に悩む戦後のサリンジャーは、(スラウェンスキー「サリンジャー」だったかによれば)新興宗教や飲尿にまで依存したということだったが、「テディ」は未消化というか、その実体験が小説にまで昇華されていない印象。エズミの会話は素直に聞くことができたのだが、テディの饒舌は受け容れがたかった。年をとったせいか・・・。

 「小舟のほとりで」も良かったのだが、「良かった」では済まされない衝撃作。
 とくに結末のライオネル少年の言葉に衝撃を受けた。冒頭の黒人と思われるメイド同士の会話が(あの会話は野崎の翻訳文法に従えば黒人同士の会話だろう)、あのような結末の伏線だったとは。しかも、それを子どもっぽい「凧」との混同で韜晦するあたりに、かえってライオネルの心の傷の深さを感じた。
 荒地出版社の「サリンジャー選集(3) 倒錯の森」の解説(大竹勝)によれば、「小舟のほとりで」はサリンジャーがユダヤ人問題を扱った唯一の小説だという(165頁)。主人公がユダヤ系であることはいくつかの作品の背景でも描かれているが、たしかに「小舟のほとりで」のように直截に扱った作品はなかったかもしれない。
 ライオネルのくり返される「家出」の話題を煩わしく思いながら読んでいたのだが、それだけにその「家出」の理由が分かった時は衝撃だった。

 2024年6月13日 記

 ※ 気になったので、未読だった「対エスキモー戦争の前夜」、「笑い男」、「愛らしき口もと目は緑」も義務的に読んだ。
 「対エスキモー・・・」はつまらなかったが、1940年代のニューヨークの中流階級の若者の生態の一端を伺うことはできた。「笑い男」はよかった。1920年代末のニューヨークを舞台にした野球少年たちと若い監督(ニューヨーク大学法科の学生)の交流の物語である。ストーリー展開のテンポがいい。サリンジャーのテンポなのか、野崎孝の訳文のテンポなのかは分からないが、おそらく野崎の訳文のテンポがサリンジャーの英文をよく表しているのだろう。ジャイアンツが当時は「ニューヨーク・ジャイアンツ」だったことを知った。「ブルックリン・ドジャース」だったことは知っていたが、ぼくが物心ついた頃にはもう「サンフランシスコ・ジャイアンツ」だった。「愛らしき口もと・・・」もダメだった。
 以下に各編の初出年と初出誌を書いておく。スラウェンスキー「サリンジャー」の年譜による。
 「バナナフィッシュにうってつけの日」ニューヨーカー1948年1月31日号
 「コネティカットのひょこひょこおじさん」同誌3月20日号
 「対エスキモー戦争の前夜」同誌6月5日号
 「笑い男」同誌1949年3月19日号
 「小舟のほとりで」ハーパーズ誌4月号
 「エズミに捧ぐ」ニューヨーカー誌1950年4月8日号(O・ヘンリー賞受賞)
 「愛らしき口もと目は緑」同誌1951年7月14日号
 ※「ライ麦畑でつかまえて」刊行1951年7月16日リトルブラウン
 「ド・ドーミエ・スミスの青の時代」ワールド・レビュー誌(イギリス)1952年5月号
 「テディ」ニューヨーカー誌1953年1月31日号 
 サリンジャー公認の短編集は本書だけだというが、サリンジャーの初期の短編小説(未公認の短編集「若者たち」や「倒錯の森」に収録されている)の中には「ナイン・ストーリーズ」に収録されたものより良いものがいくつもあると思う。本書の取捨の基準は何だったのか。

 2024年6月13日 追記

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ユージン・コスマン楽団「アニー・ローリー」

2024年06月12日 | あれこれ
 
 ユージン・コスマン楽団「別れの曲/アニー・ローリー」(コロンビア・レコード、1956年10月)を買った。
 断捨離のなか、これ以上本やレコードは買わないと決めたものの、Yahoo オークションに300円(+送料140円)で出ているのを見て、どうしても欲しくなり、クリックしてしまった。

 実は、つい最近になって、ネット情報で「ユージン・コスマン」というのは古関裕而の別名であることを知ったのである。
 古関裕而は、ぼくの人生とともにある作曲家である。
 ぼくの人生の最初の絶頂期が訪れた1964年、その10月10日(土)午後1時。前日まで降り続いた雨はその日の朝には奇跡のように上がって、晴れわたった青空のもとで、東京オリンピックの開会式が始まった。その入場行進曲が古関の「オリンピック行進曲」だった。
 あの青空、国立競技場の周囲にはためく万国旗、その旗がポールに当たる音、マラソンゲートから入場してくる選手団の色鮮やかなユニフォーム、そして古関裕而作曲(指揮も彼だったのでは?)のオリンピック行進曲。

 10月10日は土曜日だったが、当時は公立中学校では土曜日は登校日だった。ぼくたちの4時間目は体育の授業で、校庭の砂場で走り高跳びの測定をやっていた。4時間目が終わると、みんなすっ飛んで家に帰った。
 その頃、ぼくの中学校では、下校時刻になると校内各所のスピーカーから「アニ・ーローリー」が流れてきた。土曜日の下校時刻にも流れたと思うが、あの日はそんな時間まで学校に残っているものは1人もいなかっただろう。
 「アニー・ローリー」はYouTube で聴くことができるが、最初に出てくるNHK交響楽団による演奏は優雅すぎて、ぼくの思い出とは違っている。夕暮れ時の下高井戸商店街に流れる「アニー・ローリー」のほうがぼくの思い出に近いのだが、「ユージン・コスマン楽団」の「アニー・ローリー」が一番ぼくの記憶の中の「下校時刻のアニー・ローリー」に近いと感じていた。

 それが実は古関裕而の編曲、演奏だと知って合点がいった。ぼくが1964年前後の月曜から金曜の午後3時半か4時だったかに聞いていたのは、まさにこの古関の「アニー・ローリー」に違いない!
 ということで、「アニー・ローリー」を検索したところ、Yahoo オークションで何種類かのレコードが出ていた。一番安かったのは250円+送料180円のだったが、いかんせんジャケットが汚れていた。しかも1964年10月プレス(発売?)だったので、ぼくが1962年から1964年10月頃に学校で聴いた版(盤)ではない。
 そこで、2番目に安くて、1956年10月発売と書いてあったこのレコードを買ったのである。ジャケットは映画「哀愁」の一シーンで、左がヴィヴィアン・リー、右がロバート・テイラーという。A 面の「別れのワルツ」(蛍の光)はこの映画の挿入曲だったらしい。。

 ぼくは東京オリンピックの1964年(昭和39年)の夏に、リバイバル上映された「エデンの東」を見て以来、ヴィクター・ヤング楽団の「エデンの東」が気に入ってしまい、生徒会で下校時刻に流す音楽を「エデンの東」に代えることを提案したほどだった(圧倒的少数で否決されてしまったが、数票の賛同者がいた)。
 しかし中学を卒業した後になってからは、「アニー・ローリー」を聞くとぼくは必ず1964年頃の西荻窪の中学校の欅林の夕暮れ時を思い起こすようになった。やっぱり下校時刻には古関裕而の「アニー・ローリー」がよく似合う。
 週番で、下校時刻に教室内に残っている生徒に下校を促すために各教室を巡回していると、1年下のクラスで何度か一人だけで教室に残っている女の子がいた。今にして思うと、ぼくが回ってくるのを待っていたのではないかとも思うけれど(自惚れ?)、当時は恥ずかしさで声をかける勇気もなく、事務的に「下校時刻を過ぎたので、下校して下さい」としか言えなかった。

 これが、ぼくの「アニー・ローリー」にまつわる悲恋(!)である。彼女も73歳になっているはずだが、どこでどうしているのだろうか。実名を書きたい衝動に駆られるが、彼女に迷惑だろう。ユージン・コスマン楽団の「アニー・ローリー」を聞きながら思い出にとどめておこう。

 2024年6月12日 記

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虎に翼(その8)--戦後民法改正と内藤頼博

2024年06月07日 | テレビ&ポップス
 
 NHK朝の連ドラ「虎に翼」の舞台は戦後となり、未亡人となった主人公が司法省の事務官に採用され、民法家族法の改正作業に参加する展開となっている。
 このドラマの展開は、実際の戦後民法改正作業の史実をどのくらい反映しているのだろうか。

 戦後の民法(家族法)改正経過に関する最も一般的な解説書は、我妻栄編「戦後における民法改正の経過」(日本評論社、1956年、1988年復刊)だろう。実はこの本の復刊を提案したのはぼくである。最近では各出版社で復刊リクエストとかオンデマンド復刊が盛んだが、まだそのような機運がなかった1980年代に、ぼくは、日本評論社の本では、本書のほかにも我妻栄「事務管理・不当利得・不法行為」とアダム・スミス/水田洋訳「グラスゴウ大学講義」の復刊を提案した。古本屋では、我妻編「経過」が2、3万円、スミスなどは4万円以上の値がつけられていることを古書目録を示して提案したところ、採用されて復刊が実現した。復刊された本はいずれも完売したばかりか、復刊が重版になったこともあったはずである。他にも青林書院の中川善之助「新訂・親族法」の復刊も希望したが、こちらはいまだに実現しない。
 この我妻編「改正」によって、ドラマに登場する人物のモデルと思しき人物を探索してみよう。

 時代が戦後になってドラマに新たに登場した人物のうち、お殿様の末裔にしてアメリカ帰りのエリート裁判官(司法官僚)で、民法改正に参画した人物(沢村一樹演ずる久藤何某)といえば、モデルは内藤頼博さんだろう。内藤さんは、現在の新宿御苑を含む内藤新宿一帯を領有した内藤家の末裔だという話だった。
 ぼくは編集者時代にお目にかかったことがあるが、面長で中高の整った顔立ち、髪をきちんと分けて、穏やかな表情と物腰はいかにも家柄の良い老紳士という印象だった。沢村演ずる久藤某とは似ても似つかぬ方だったが、内藤さんにはあのような一面があったのだろうか。それとも、内藤さん以外に、あのようなアメリカ帰りでチャラくて気障な司法官僚のモデルが他に誰かいたのだろうか。

    

 我妻編「経過」を見ると、司法法制審議会(昭和21年)の幹事のなかに内藤頼博の名前が見える(209頁、上の写真)。肩書きは「司法事務官」となっている。和田嘉子(寅子のモデル)も同じ司法事務官だが、和田(後に三淵)は審議会メンバーの中に名前はない。それどころか、100名近い委員と幹事の中で、女性はわずかに衆議院議員3名(武田キヨ、村島喜代、榊原千代)と一般人2名(村岡花子、河崎なつ)の計5名が委員に名を連ねているだけで、その他の裁判官、司法官僚、検事、弁護士、学者はすべて男である。昭和21、2年頃というのはそんな時代だったのだ。

       

 審議会で、頑迷に家族制度の存続を主張する老人が登場するが、あれはおそらく牧野英一だろう。法制審議会の委員名簿を見ると、学者の欄には宮澤俊義、我妻栄、中川善之助、兼子一ら10名ほどが並んでいるが、牧野の名前はなく、貴族院・衆議院議員グループと弁護士グループの間に、唐突に牧野(東大名誉教授)と草野豹一郎(中大教授)の2人だけが挟まっている(「経過」208頁)。彼はどういう経緯から、どういう資格で法制審議会の委員になったのだろうか。
 彼は同じ主張を何度も蒸し返し、敗戦も新憲法の制定も彼にはまるで何の影響も与えなかったようである。我妻、中川らがよくぞ牧野の繰り言につきあったと、その忍耐に感心する。新しい家族法の制定という目的一点を目ざして自重したのだろう。ただし、そのような守旧派は牧野1人だけでなく、審議会委員の何人かも牧野と同趣旨の発言をしている(牧野らの発言は「経過」276頁以下や、「臨時法制調査会総会議事速記録」などを参照。上の写真)。
 ドラマでは、穂高教授(穂積重遠)が牧野らに対抗して改正案の原案を支持しているが、実際には穂積は民法改正作業に加わっていない。弟子の中川、我妻らが主導したのだが、ドラマに中川、我妻らしき人物は登場しなかった(と思う)。
       
   

 6月6日の放送では、民主団体の代表(全員女性だった)が司法省に対して家族法改正に対する要望書を提出し、受け取る側だった寅子も賛同者になるというシーンがあった。
 我妻編「経過」343頁以下にその記録が残っている。この団体は「家族法民主化期成同盟」といい、封建的家族制度を廃止し、民主的家族法の成立を目ざすことを目的とした団体で、進行中の民法改正案にはなお不十分な点が多いとして、具体的な修正案を提案している。
 神近市子、平林たい子、山川菊栄、大濱英子、村岡花子らの著名人、川島武宜、野村平爾、立石芳枝(明大教授!)、田辺繁子らの学者、弁護士とともに、「司法事務官」の肩書で和田嘉子(後の三淵嘉子)の名前が署名人の最末尾にみられる(上の写真)。和田が最末尾なのは、五十音順なのか(和田の前は渡辺である)、上記のような経緯の故かは分からない(おそらく後者だろう)。
 司法事務官として起草作業の裏方を務めながら、このような要望書に署名できたのは、さすが戦後初期の法曹界の開放的な雰囲気を反映しているのだろう。現在では考えられないことである。あるいは「寅子」の個性かも知れない。

 いずれにしても、朝の連ドラの数回分で戦後の民法(家族法)改正を扱うのは無理だろう。もしやるなら、かつてNHKテレビ「土曜ドラマ」で放映されたジェームズ・三木脚本の「憲法はまだか(第1部・象徴天皇)、第2部(戦争放棄)」(各90分)くらいの分量は必要だろう。

 2024年6月6日 記

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サリンジャーとノルマンディー上陸

2024年06月05日 | テレビ&ポップス
 
 6月6日は “D - Day”、1944年のこの日に、第2次大戦末期に連合国側のヨーロッパ戦線における勝利を決定づけたノルマンディー上陸作戦が開始された記念日である。

 1、2週間前の(もっと前かも)NHKテレビ「映像の世紀」で、ノルマンディー上陸作戦のドキュメントをやっていた。その番組では、この作戦にアメリカ兵として参加した作家サリンジャーのことが紹介されていたと思うが、数日前に放送されたNHKのテレビ番組の中でも、サリンジャー「ライ麦畑でつかまえて」へのノルマンディー作戦参加体験の影響が話題になっていた。
 数日前に見た番組を「映像の世紀」と勘違いしたため、NHKのHPからなかなかこの番組を見つけることができなかったが、「映像の世紀バタフライエフェクト」のほうは「史上最大の作戦ノルマンディー上陸」(4月15日放送)で、数日前に見たのは、「完全なる問題作――善と悪の深遠なる世界」という別の番組で、第1回が「キャッチャー・イン・ザ・ライ」(初回は3月21日放送)の再放送だったことが判明した(下の写真)。
 ※ あの小説(“The Catcher in the Rye”)は、ぼくにとっては1969年に読んだ「ライ麦畑でつかまえて」(野崎孝訳、白水社)であって、「キャッチャー・イン・ザ・ライ」などでは決してないので、以下では「ライ麦畑・・・」と略記する。

   

 「完全なる問題作」は、なぜ「ライ麦畑・・・」がアメリカで禁書の対象とされたかをテーマにしていて、ノルマンディー作戦参加体験はメインテーマではなかった。
 ぼくはまったく知らなかったが、この番組によると、アメリカでは、「ライ麦畑・・・」の性表現や卑語が青少年に悪影響を与えるとして、全米図書協会の禁書目録に載せられ(そんなリストがあったとは!)、閲覧が禁止されてきたという。テロップによると、2009年になってようやく禁書目録の上位から姿を消したということだったから、いまだに禁書目録の下位にリストアップされているのだろう。
 番組では、禁書の理由の背景としてソ連など共産圏諸国との冷戦の影響も指摘していたが、マッカーシーの赤狩り時代のアメリカでは、「ライ麦畑・・・」程度の「反体制」でも危険視されたのだ。アメリカはいまだに学校で進化論を教えることを禁止している地方があるくらいだから、「ライ麦畑・・・」の禁書も驚くに値しないのかもしれないが、それでも驚いた。今の中国と似たようなものではないか。

 しかしそれよりも、この番組では、戦後サリンジャーが隠遁生活を送ったニューハンプシャー州コーニッシュの風景や、サリンジャーの住居と思われる瀟洒な建物が開けた小高い丘の上に建っている映像を見ることができたのが大収穫であり、驚きだった。プライバシーに配慮してか、番組では彼の家だと明示していなかったが、前後関係からしておそらく彼の住居だろうと思った(息子らが建て替えた可能性はあるが)。
 サリンジャー作品や、娘が書いた「我が父サリンジャー」(新潮社)に登場するコーニッシュや彼らの住居を、ぼくは、もっと木々の生い茂った森林の奥地で、建物ももっと素朴で質素なものかと思っていたが、どうして、さすがはアメリカ有数のベストセラー作家の住居と思わせる立派な建物だった。
 あれが彼の旧居だとしたら、作家サリンジャーに言わせれば、まさに “phony” (インチキ)じゃないかと思うが、彼の私生活がけっこう “phony” だったことは娘が書いた伝記でも語られていたから(作品の中では毛嫌いしていた寄宿学校(プレップスクール)に自分の子どもたちを入学させたり、ニューヨークでの宿泊はいつもプラザホテルだったりなど)、今さら驚きはしない。

      

 もう一つの驚きは、映像の中に、アメリカで発売された “The Catcher in the Rye” の表紙が写っていたのだが、そこに、主人公ホールデンらしき人物を描いたイラストが入っていたことである。
 サリンジャーは、自分の本の表紙や本文中に登場人物のイラストを入れることを一切禁止し、エリア・カザンやスピルバーグによる映画化の申し出も拒否したと何かに書いてあったので、このイラストの入った表紙にも驚いた。フィリップ・マーロウものにでも出てきそうなトレンチコートを来て中折れ帽をかぶった男が横を向いて立っているイラストだった(ように思う)。
 ぼくの持っている「ライ麦・・・」(野崎孝訳)の表紙は、白水社「新しい世界の文学」シリーズの統一された装丁だし、“Catcher ・・・” (Penguin Modern Classics,1969!)の表紙の味気ないことといったら悲しくなるくらいである(上の写真)。

       

 ぼくにとって垂涎の本の1冊に、サリンガー/橋本福夫訳「危険な年齢」(ダヴィッド社、1952年)がある。この本は、橋本による「ライ麦・・・」の本邦初訳であるというだけでなく、表紙にホールデンのイラストが入っていることでも貴重である。
 橋本訳「危険な年齢」の表紙は、片岡義男「僕が出会った三人のホールデン」というエッセイの中に写真が入っているので見ることができる(講談社HP「現代ビジネス」2017年4月30日。上の写真)。片岡はこの本を持っているそうで(羨ましい!)、彼によると、橋本訳の他にも、ホールデンのイラストが入っているものとして、Signet Book のペーパーバックがあるという。先日の番組でぼくが一瞬見たイラストはこの本の表紙だろうか(その服装はぼくの記憶とは違っているが)。さらに彼によれば、イギリスで出版されたハードカバー版の表紙にもホールデンのイラストがあるという。
 ※ 橋本が “Catcher ・・・” に「危険な年齢」という邦題をつけたのは、戦後間もない時期(アプレ・ゲール)の日本の時流におもねったもののように考えていたが、赤狩り勢力によって「禁書」とされたことを考えると「危険」というのは本質をついた題名だったのかもしれない。同書の帯の宣伝文句も挑戦的だし、Signet 版の表紙もかなり扇情的なものだったようだ。

 サリンジャーの戦後の作品の背後に彼自身の戦争体験があることは、短編集(「サリンジャー短編集Ⅰ(若者たち)、Ⅱ(倒錯の森)」荒地出版社)を読めば明らかだが、「ライ麦畑・・・」にまで及んでいるとはぼくは思わなかった。
 「ライ麦畑・・・」のテーマは、あの時代(出版されたのは1951年だが、ぼくが読んだのは1969年だった)の若者たちの多くが、社会の既成勢力(政府、企業、大学などのエスタブリッシュメント)の胡散臭さ(“phony”)に対して抱いた反感と、それらに対するホールデン流の異議申立てへの共感だったと、ぼくは思う。 
 なお、「フランスの少年兵」などを読んだ限りでは、サリンジャーにとっては、ノルマンディー上陸作戦よりもその後の旧ドイツ占領地帯への反攻の際の困難な体験のほうが強く影響したように思う。

 ついでに、蛇足を。
 2週間ほど前のBSテレビ(たしか451chの wowow )で、「オペーレーション・ミンスミート」(挽き肉作戦!)という映画をやっていた(コリン・ファース主演)。
 シチリア島上陸作戦の際に、連合国側のスパイたちが、連合軍はギリシャから上陸する計画であるという偽情報をナチス側に流し、ヒトラーがまんまと罠にかかってギリシャに兵力を集めたため、連合軍側は大きな被害なくシチリア島上陸(1943年7月)に成功したという実話に基づいた映画だという。

 2024年6月6日 記

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クラウン・コーラとミッション・コーラ

2024年06月01日 | あれこれ
 
 「豆豆先生の研究室」2007年2月27日の投稿で、「不二家 “トプシー”」という題名で、ボブ・マグラスが歌った「不二家トプシー」のCMソングと、ヴィレッジ・シンガーズが歌ったコカ・コーラのCMソングの思い出を書いた。
 1週間ほど前、この「不二家 “トプシー”」の項の閲覧数がなぜか急に増えた日があった。誰がどんな理由(経緯)で見てくれたのか分からないが、「トプシー」の書込みには気になっていることがあったので、この際補遺を書いておくことにした。
 ちなみに、不二家トプシーのCMソングは、ソノシートが出ていたらしく、Google で検索すると、ボブ・マグラスの甘い歌声を Youtube で聴くことができる。ぼくが書き込んだ歌詞は記憶で書いたものだったが、ほぼ正確だった。ヴィレッジ・シンガースのコカ・コーラのCMソングに関する情報は、今のところ発見できていない。

 補遺(というか訂正)は、不二家「トプシー」ではなく、森永の「クラウン・コーラ」に関するものである。
 ぼくは昭和30年代から40年代にかけて、「森永からクラウン・コーラというのが出ていた」と書いた。しかしこれは誤りで、「クラウン・コーラ」は寿屋(今のサントリー)から出たものだった。
 「クラウン・コーラ」は、正式には「ロイヤル・クラウン・コーラ」といい、1905年創業のアメリカ・ジョージア州の会社が出したコーラで、コカコーラ、ペプシコーラに次いで、第3位の売上げを誇る商品だった。英語では “Royal Crown Cola” と書き、“RC” と略称されたそうだが、ぼくの記憶では、わが国では「クラウン・コーラ」と呼ばれていた。
 クラウン・コーラは、日本では1962年に寿屋から発売されたが(1960年という記述も見られる)、業界1、2位のコカコーラ、ペプシコーラに大きく水をあけられたため、1974年に撤退したという。
 ということで、「クラウン・コーラが森永の発売」というのは誤りだった。トレードマークが森永とよく似た王冠(クラウン)形だったうえに、森永のチョコレートに「ハイクラウン」なんていうのがあったので、初めから誤解していたか、誤って記憶したらしい(負け惜しみ)。

 ネット情報によると、日本のコーラには苦難の歴史があったようだ。
 日本の文献における「コーラ」に関する記述は、大正3年(1914年)の高村光太郎「道程」のなかに「コカコオラ」が登場したのが初めてらしい。当時は庶民には縁のないハイカラな飲み物だった。大正8年には、あの明治屋 “MEIDI-YA” がコカコーラを輸入したそうだ。
 しかしアメリカとの戦争中は「敵性物資」として当然輸入などできなかっただろう。敗戦後の昭和20年になっても輸入申請が却下されている。外貨流出防止と国産飲み物(温州みかんジュースなど)保護のためだったという。
 昭和31年(1956年)に、在留外国人(ほとんどは米国人だろう)および外国人向けホテルやゴルフ場などでのみ販売が許されるようになり、昭和36年(1961年)にはコーラの輸入が完全に自由化され、コカコーラとペプシコーラの2社のコーラが輸入されるようになったという。昭和37年に中学生になったぼくが記憶しているのだから、クラウン・コーラもこの頃から輸入されるようになったのだろう。 

 「ミッション・コーラ」のほうは、驚くなかれ、国産のコーラだった! コカコーラなどの輸入に先駆けて昭和28年(1953年)に販売が開始されたという。
 わが国でコーラ飲料の生産が始まったのは、戦後の昭和27年(1952年)のウイン・コーラからで、ついで1953年にミッション・コーラが販売されはじめたという。
 ぼくはウィン・コーラというのはまったく記憶にないが、ミッション・コーラはなぜか記憶に残っている。ぼくが中学生だった1962~65年頃にはまだ販売されていたのだろうか。ひょっとしたら、いま現在でも、沖縄では販売されているのかもしれない。というのも、沖縄の洋品店で「ミッション・コーラ」(“Mission Cola”)というロゴとコーラ瓶のイラストの入ったTシャツを販売している店があるのをweb上で発見した。沖縄を旅行することがあったら訪ねてみたい。

 ぼくは、昭和30年代前半に軽井沢スケートセンターで開催された渡辺プロ主催の「真夏の夜の夢」というショーの第1回目で、来場者に無料で配布されたコーラを飲んだ(実は飲めなくて吐き出した)のが、コーラにまつわる最初の思い出なのだが、あの時飲んだのはコカコーラだったのかペプシコーラだったのか、ひょっとしてクラウンコーラかミッションコーラだったのか、分からない。
 もしあの「真夏の夜の夢」が始まったのが、コーラ輸入が自由化される1961年より以前だったとしても、渡辺プロは進駐軍に深く食い込んでいたから、コーラの入手は可能だったかもしれない。ぼくの記憶では、とても日本人好みの味つけにはなっていなかったから、アメリカ産のコカコーラかペプシコーラだったのではないかと思う(クラウンコーラだった可能性も?)。それくらいに、当時の日本の子どもにとっては苦くて不味い飲み物だった。
 
 2024年6月1日 記

 ※ 以上の記述は「日本清涼飲料検査協会」のHPその他によったところが多い。本文にふさわしいコーラ関連の写真を探したが、なかなか適当なものが見当たらなかった。ようやく10年前にイギリスを旅行した際に、オックスフォードのパブ “QUOD” で飲んだコーラの瓶が写っている写真を1枚見つけた。ブランド名ははっきりと読み取ることができないが、コカコーラやペプシコーラではなさそうである。イギリスにも地元産のコーラがあったのだろう。

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