わが家のマイカーがスバル1000になったのは、1967年か68年(昭和なら42年か43年)のことである。
はじめて中古のスバル360を買ったのが1962、3年のことで、1965年には新車のスバル360に買い替えているから、ずいぶんせっせと買い替えていたことになる。スバル1000の発売は1966年5月ということであるから、スバル360に買い替えて1年程度しか経っていない時期だったのに、富士スバルの営業のNさんが新発売されたスバル1000をせっせと奨めたのではないだろうか。
スバル1000は徳大寺氏の「ぼくの日本自動車史」や、「1960年代のクルマたち・国産車編」(モーターマガジン社、2006年)などを見ると、歴史的な名車だったようだが、それほど車に関心のなかったわが家では、そのようなことを知ったうえで選ばれたとは思えない。
スバル360でも、家族4人で何とか軽井沢に出かけることは出来たのだが、スバル1000が納車されたときの印象は強いものだった。
とにかく“広い”。そして“静か”なのである。そのエンジン音は、スバル360の音に慣れていた者にとっては信じられないくらい静かだった。ドアの開閉音(閉まり音)もようやく自動車らしくなった。スバル360のドア閉め音は、今の電子レンジのドアを強く閉めたときのような音で、正直、近所に響くのがちょっと恥ずかしかったものである。
しかし、何といってもその室内の広さは、スバル360から乗りかえた者にとって驚異的であった。
徳大寺氏の本にも、「ぼくは初めてこのクルマに乗って、何よりも足元が広いのに驚かされた。リアシートもゆったりと2人が乗れる。室内の広さについてはサニーもカローラも遠く及ばない」とその印象を書いている(231頁)。
実はスバル1000はスバル360と比べて広かっただけでなく、当時のサニーやカローラと比べてもはるかに広かったようである。
さらにFFのためにフロアがフラットだったことも印象的である。
母親がしきりに妹(私の叔母)の乗っていたクラウンよりもセンター・トンネルの出っぱりがない分スバル1000のほうが広々としていて、乗り降りしやすいと自慢していたことを思い出す。これも、あながち負け惜しみではなかったのかもしれない。
「60年代のクルマたち」でも、まず第一にこのクルマのパッケージングを褒めたうえで、さらにフロアがフラットなことによる室内の広さが特筆されている(99頁)。ちょうどフラットフロアの(先代の)シビックの室内が、ほぼ同じ大きさのランクスやティーダに比べて広く感じられたようなものであろう。
はじめてスバル1000に乗ったときに感じた、室内の広さへの満足感は、その後の私の車のサイズに対する価値観を決定づけた。
スバル1000のサイズは、3900×1480×1390だが、現在でも私は、家族4人が移動するための車にとってこのサイズ以上の広さが必要だとはまったく思えないのである。
安全性のためにどれだけのサイズの増加が必要なのかは分からないが、最近のように、コンパクト・カーまでもが次々に5ナンバー・サイズを越えて大きくなっていくことが私にはまったく理解できない。
徳大寺氏のクルマ評価のなかに、この大きさは日本の道路事情にふさわしいとか大きすぎる、欠点をあげれば図体が大きくなりすぎたことであるといった文章がしばしば出てくるが、いつも私はこれに同感しながら読んでいる。
かつて徳大寺氏が高く評価したシャレード、ジェミニ、ミラージュなどの、あの程よい大きさ(小ささ)はなぜ失われてしまったのだろうか。
車の買い替えを検討すると、燃費、性能、アフターケアなどの点で結局は日本車に落ち着いてしまうのだが、サイズの点で、なぜ日本車は、VWポロ、プジョー206、シトロエンC3、ルノー・ルーテシアのようなサイズを追求しないのか、不思議でならない。
ひょっとすると、「隣りの車が小さく見えます」というあのキャッチ・コピーに踊らされた愚かな消費者のまま、日本の車ユーザーがちっとも進歩しないことが原因なのかもしれない。
恐竜もアメリカ車も突然大きくなったのではない。少しずつ大きくなった挙句に滅んでいったのではなかったのか。
* 写真のスバル1000は、1967年か8年夏の旧軽井沢ロータリーの町営駐車場で。現在の竹風堂の裏手あたりだろうか。当時の駐車場は屋外だった。
2006年 8月29日