豆豆先生の研究室

ぼくの気ままなnostalgic journeyです。

スバル1000

2006年08月29日 | 軽井沢・千ヶ滝
 
 わが家のマイカーがスバル1000になったのは、1967年か68年(昭和なら42年か43年)のことである。
 はじめて中古のスバル360を買ったのが1962、3年のことで、1965年には新車のスバル360に買い替えているから、ずいぶんせっせと買い替えていたことになる。スバル1000の発売は1966年5月ということであるから、スバル360に買い替えて1年程度しか経っていない時期だったのに、富士スバルの営業のNさんが新発売されたスバル1000をせっせと奨めたのではないだろうか。

 スバル1000は徳大寺氏の「ぼくの日本自動車史」や、「1960年代のクルマたち・国産車編」(モーターマガジン社、2006年)などを見ると、歴史的な名車だったようだが、それほど車に関心のなかったわが家では、そのようなことを知ったうえで選ばれたとは思えない。

 スバル360でも、家族4人で何とか軽井沢に出かけることは出来たのだが、スバル1000が納車されたときの印象は強いものだった。
 とにかく“広い”。そして“静か”なのである。そのエンジン音は、スバル360の音に慣れていた者にとっては信じられないくらい静かだった。ドアの開閉音(閉まり音)もようやく自動車らしくなった。スバル360のドア閉め音は、今の電子レンジのドアを強く閉めたときのような音で、正直、近所に響くのがちょっと恥ずかしかったものである。

 しかし、何といってもその室内の広さは、スバル360から乗りかえた者にとって驚異的であった。
 徳大寺氏の本にも、「ぼくは初めてこのクルマに乗って、何よりも足元が広いのに驚かされた。リアシートもゆったりと2人が乗れる。室内の広さについてはサニーもカローラも遠く及ばない」とその印象を書いている(231頁)。
 実はスバル1000はスバル360と比べて広かっただけでなく、当時のサニーやカローラと比べてもはるかに広かったようである。

 さらにFFのためにフロアがフラットだったことも印象的である。
 母親がしきりに妹(私の叔母)の乗っていたクラウンよりもセンター・トンネルの出っぱりがない分スバル1000のほうが広々としていて、乗り降りしやすいと自慢していたことを思い出す。これも、あながち負け惜しみではなかったのかもしれない。
 「60年代のクルマたち」でも、まず第一にこのクルマのパッケージングを褒めたうえで、さらにフロアがフラットなことによる室内の広さが特筆されている(99頁)。ちょうどフラットフロアの(先代の)シビックの室内が、ほぼ同じ大きさのランクスやティーダに比べて広く感じられたようなものであろう。

 はじめてスバル1000に乗ったときに感じた、室内の広さへの満足感は、その後の私の車のサイズに対する価値観を決定づけた。
 スバル1000のサイズは、3900×1480×1390だが、現在でも私は、家族4人が移動するための車にとってこのサイズ以上の広さが必要だとはまったく思えないのである。
 安全性のためにどれだけのサイズの増加が必要なのかは分からないが、最近のように、コンパクト・カーまでもが次々に5ナンバー・サイズを越えて大きくなっていくことが私にはまったく理解できない。

 徳大寺氏のクルマ評価のなかに、この大きさは日本の道路事情にふさわしいとか大きすぎる、欠点をあげれば図体が大きくなりすぎたことであるといった文章がしばしば出てくるが、いつも私はこれに同感しながら読んでいる。
 かつて徳大寺氏が高く評価したシャレード、ジェミニ、ミラージュなどの、あの程よい大きさ(小ささ)はなぜ失われてしまったのだろうか。
 車の買い替えを検討すると、燃費、性能、アフターケアなどの点で結局は日本車に落ち着いてしまうのだが、サイズの点で、なぜ日本車は、VWポロ、プジョー206、シトロエンC3、ルノー・ルーテシアのようなサイズを追求しないのか、不思議でならない。
 
 ひょっとすると、「隣りの車が小さく見えます」というあのキャッチ・コピーに踊らされた愚かな消費者のまま、日本の車ユーザーがちっとも進歩しないことが原因なのかもしれない。
 恐竜もアメリカ車も突然大きくなったのではない。少しずつ大きくなった挙句に滅んでいったのではなかったのか。

* 写真のスバル1000は、1967年か8年夏の旧軽井沢ロータリーの町営駐車場で。現在の竹風堂の裏手あたりだろうか。当時の駐車場は屋外だった。

  2006年 8月29日

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スバル360

2006年08月29日 | クルマ&ミニカー
 
 わが家のモータリゼーションの歴史は、昭和37年か38年に購入したスバル360に始まる。
 ちなみに、その前史として、昭和30年代の始め頃から叔父の家のクラウンで浅間牧場だの志賀高原だのに連れて行ってもらったことも含めると、わが家では「いつかクラウン」ではなく、「始まりはクラウン」だった。
 
 この年、威勢のよかった母親がまずスバル360の中古車を購入してきた。それから近所の教習所の貸しコースで練習し、小金井の運転試験場で軽免許を取得したのである。当時の軽免許の実地試験には確か三菱ミニカが使われていたが、試験場近くの教習所でミニカを貸し出しており、ミニカには試験直前に1回乗っただけだった。
 
 それまでは軽井沢へ行くのは、信越線の急行で3時間以上かけて行くか、池袋発で千ヶ滝の西武百貨店前まで行く西武バスを使っていたが、この年以降は、軽井沢へ行くのもこのスバル360に乗ってであった。
 今から思うと、よくぞあんな小さな車に4人も乗って、延々と(当時は関越道などもちろんなかったから)、国道18号を板橋、大宮、高崎などの渋滞にまき込まれながら、これまた3、4時間かけて行ったものである。
 
 しかし、後になって私の愛読書である徳大寺先生の「ぼくの日本自動車史」(草思社、1993年)を読むと、スバル360は今日の言葉でいうところの「パッケージング」に優れた車であったらしい。ドアの内側をへこませるなどの工夫がなされていて室内スペースを目一杯とってあったという。しかも忘れていたが、ドアが前開きだったので(!)乗り降りも楽だったという。

 そして、泣かせることに、徳大寺氏は「その気になれば、少々つらいとはいえ、大人4人を乗せてぼくの得意の日光ぐらいは充分いけただろう」とまで書いている(156頁)。
 どうも徳大寺氏ご自身はスバル360に4人を乗せて日光には行っていないようだが、わが家では、まさに家族4人を乗せて、毎年得意の軽井沢に出かけていたのである。途中で立ち寄るドライブインも、熊谷の五家宝屋、高崎観音の向かい岸の高台にある喫茶店か安中のピーコック・ヤナセ、そして横川のおぎの屋と決まっていた。
 それから碓氷峠の200いくつだったかのカーブに差しかかり、そしてついに、軽井沢駅の東側の“日本の近代遺産”風の雰囲気の国鉄の車両修理工場(?)が見えてくるのであった。

 いつだったか、NHKの「プロジェクトX」でスバル360誕生物語をやっていた。スタジオに実車が持ち込まれていたが、室内は「少々つらい」程度で、ぎゅうぎゅう詰めというわけではなかったし、箱根の山をちゃんと登る当時のビデオも放映されていた。
 ぼくは、車はたんなる移動の道具であると思っており、車を趣味の対象とは考えていない。それでも、ぼくが徳大寺氏のクルマ評論が好きなのは、同時代を生きてきた1人として、「確かにそうだった」と実感できる文章にしばしば出会うからである。上のスバル360評などがまさにその1つである。

 とはいっても、スバル360にはやはり限界があって、叔父の一家のクラウンと一緒に軽井沢から志賀高原を目ざした際には、途中の三原か長野原の坂道をローに落としても登ることができず、最初は子どもたちを降ろしてしばらく登ってみたが、先行き不安ということで結局断念したりしたこともある。
 ドアの開閉音なども安っぽかった。衝突安全性などは、もらい事故がなかったからよかったようなものである。

 スバル360は、1958年(昭和33年)の発売というから、わが家では4、5年落ちの初代の中古車を買ったものと思う。クリーム色と濃茶のツートンカラーだった。ついで数年後に、同じく360の新車に乗り換えた。今度は水色と濃紺のツートンカラーだった。
 いずれも、水道道路の豊多摩高校の近くにあった富士スバルという販売店で購入した。初代360以来、ここの営業のNさんのセールス・トークにのって、わが家では、スバル360、スバル1000、スバル1100、スバルFF-1、レオーネと乗り継ぐことになる。そういえば、途中で家内がレックスコンビに乗っていたこともあった。

 * 写真はわが家のはじめてのマイカー、“スバル360”。

  2006年 8月29日

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2泊3日の軽井沢案内(最終日)

2006年08月22日 | 軽井沢・千ヶ滝
 
 8月15日(火)、もう最終日です。
 
 明け方までは結構激しく屋根をたたく雨音が聞こえていたのですが、6時すぎには雨もあがり、朝食前に義姉は近所の別荘見物をしながら、落葉松林の中を散策に出かけました。
 最近建った別荘のなかには、“シャーロック・ホームズ”に出てくるイギリス郊外の豪邸とまでは言いませんが、“ダルグリッシュ警部”シリーズに出てくるくらいの広大な敷地に建つ豪邸もあります。建物の主はいったいどんな生業の人なのだろうかと不思議です。

 きょう午後には出発しなければならないので、遠出はできません。地域としては南軽井沢方面へ出かけることにしました。
 正田邸、田中角栄邸跡などのあるあたりを車窓から眺めながら、塩沢湖へ行きました。9時前にすでに開門していた“絵本の森美術館”というところの駐車場に車を止めて、9時に“タリアセン”に入りました。高校生の頃、この湖の畔(というより中の島のようなところ)で従弟たちとテントで一泊したことがあるのですが、今ではそれがどの辺だったのか分かりません。

 まずは、“ペイネ美術館”。「今さらペイネでも・・」という気持ちもなくはなかったのですが、入ってみれば、何か久しぶりに懐かしいものに出会ったような気持ちになりました。
 お土産に、展示されているペイネの作品のなかでおそらく唯一シトロエン2CVが描かれている絵葉書を1枚だけ買って帰りました。実は私は“シトロエン2CV”グッズを収集しているのです。といっても、自分ではほとんど集めることはなく、フランス映画の翻訳の仕事をしている妹がフランスに行くたびに買ってきてくれる2CVのキーホルダーやタンタンの腕時計、絵葉書、ミニカーなどをためているだけですが。

 順路に従って、次に“深沢紅子美術館”に行きます。入り口からの道には“シャガールの道”という名前がついていました。私が事故で廃車にしてしまった旧車のポロの色は、「シャガール・ブルー」でした。というわけで、「シャガール」は苦手です。
 深沢さんという絵描きさんは失礼ながらまったく知らなかったのですが、作品のなかに、“岩波少年文庫”のバーネット(ガーネットかも?)「秘密の花園」の挿絵もありました。これは妹のお気に入りの本の1冊だったように思います。

 ぼくも小中学校時代には“岩波少年文庫”シリーズの愛読者でした。ケストナーの「エミールと探偵たち」、リンドグレーンの「名探偵カッレ君」「カッレ君の冒険」、セレリヤー「銀のナイフ」などずいぶんたくさん読みました。
 一番好きだったのは、ドラ・ド・ヨングという人の書いた「嵐の前」「嵐のあと」という第2次大戦前後のオランダを描いた本です。オランダ少女の駐留してきたアメリカ兵への淡い想いが印象に残っています。スケートのシーンも登場します(表紙の挿絵もオランダのスケートをしている子どもたちの風景です)。かつて「岩波文化人」という言葉が(揶揄的に)言われたことがありましたが、ぼくは自分は「岩波少年文庫人」だったと自負しています。

 ところで、深沢美術館の建物は、屋根の立派な梁がむき出しになった総2階建ての洋風建築ですが、これは軽井沢の郵便局を移設したものということです。
 そうすると、旧道にある観光会館とはどういう関係になるのでしょうか。軽井沢には、旧道のほかにも、中軽井沢駅前の国道18号線沿いや、国道146号を登ったグリーンホテルの少し手前にも郵便局がありました。でも、国道146号沿いの郵便局は小さな尖がり屋根の建物でしたし、中軽の郵便局も深沢美術館とは違っていたように記憶します。また謎が1つ増えてしまいました。

 そして、最後に、軽井沢高原文庫にまわり、「遠藤周作」展を眺め、堀辰雄や野上弥生子の旧別荘(あれが「鬼女山房」なのでしょうか)を見て回りました。堀の旧宅を引き継いだのが深沢紅子だったそうです。
 遠藤周作展は、せっかく軽井沢でやるのですから、「さらば、夏の光よ」や「薔薇の館」など、軽井沢物を中心にして欲しいところでした。
 
 向かいの「一房の葡萄」という喫茶店で杏ジュースを飲んで帰宅しました。ここは有島武郎が情死した浄月庵を移築したものだそうですが、どの部屋で縊死したのか気になってしまいました。テラスをわたる風がさわやかなのに、向かいの道路のガードレールが景色をぶち壊してしまっています。

 昼食は“追分そば茶屋”でと思っていたのですが、義姉が家で食べたほうが落ち着くというので、追分に今年出来たばかりの浅野屋でパンを買って帰ることにしました。
 やがて出発の時間が近づきました。今度も国道18号や146号の渋滞を避けるために、信濃追分駅から乗車してもらうことにしました。追分駅前もいつもでは考えられないことですが、駐車スペースがまったくなく、義姉たちには駅前で降りてもらってから郵便局に止めさせてもらいました。軽井沢限定の80円切手を買いましたので、お許しください。
 2時少し前の軽井沢行きしなの鉄道で義姉は出発しました。

 こうして私たちの、お盆の真っ最中の2泊3日の軽井沢紀行が終わりました。夜8時すぎに義姉から無事に帰宅した旨の電話がありました。翌日のメールには「夢のような3日間でした」とありました。お盆のなかの忙しない旅だったのですが、多忙な日々を送る義姉にはよい息抜きになったようです。

 * 写真は、ペイネ美術館の土産コーナーで見つけた絵葉書。背景にシトロエン2CVの衝突(!)が描かれている。

  2006年 8月22日

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2泊3日の軽井沢案内(2日目)

2006年08月21日 | 軽井沢・千ヶ滝
 
 8月14日も朝から晴れました。
 
 お盆の軽井沢は(観光地はどこも同じでしょうが)先手必勝です。8時前には朝食を済ませて、鬼押し出しへ向かいました。鬼押し出しは軽井沢を訪れた人なら誰でも1回は訪れるところです。2度行きたいとは誰も思わない場所ですが、私は、初めての訪問者を連れて何十回行ったか数え切れません。

 国道146号はまだまだすいていました。途中、グリーンホテル跡地で車を止めて、このコラムにupするための写真を撮ろうと思っていたのですが、草が生い茂り、かつて見晴台があった場所にはトウモロコシ売りのトラックなどが止めてあって、目を背けたい風景だったので通過しました。
 有料道路の途中から左手に眺める浅間山は、浅間山が最もきれいに見える場所のひとつだと思いますが、あいにく中腹から上は雲がかかっていて、ふもとしか見ることができませんでした。それでもどこかで車を止めて写真を撮ろうと思っていると、いつの間にか信号が設置されて、右折したところにパーキングエリアが出来ていました。

 トイレ休憩と思って、女性陣だけ降ろして車内で待っていたのですが、いつまでたっても戻ってこないので見に行くと、店内で買い物の最中でした。ちょうど地元の生産者が取れ立ての野菜を持ち込んだので、見つくろっていたと言います。
 お百姓さんが「本当に生でも食べられるよ」と言っていたというトウモロコシは、帰宅後にゆでて食べてみると、甘みがあって「これなら本当に生でも食べられるかも知れないな」と思いました。こんなことで時間をつぶしたおかげで、いつの間にか雲が切れて、浅間山の山頂を拝むことが出来ました。

 鬼押し出しは、いちおう山頂の神社(かつ上野寛永寺別院となっていました)まで往復し、今度は白糸の滝に向かいました。かつて草軽鉄道の線路が敷かれていた道路です。白糸の滝には10時すぎに到着したのですが、すでに駐車スペースもなかったので、残念ながら通過して、三笠方面に下りました。

 旧軽のロータリーも通過して、軽井沢駅で国道18号に入り、ショッピング・プラザに向かうことにしました。
 新軽井沢の交差点はすでにかなりの混雑になっていましたが、それでも軽井沢駅方面からの左折は信号1、2回待ちで通過できました。中軽方面から右折しようとする車は、1回の信号で1、2台しか右折できず、かなり渋滞していました。
 しなの鉄道をくぐるトンネルを抜けると、ほとんどの車がショッピング・プラザのイースト方向に左折しようとするのですが、すでにイーストの駐車場入り口あたりで入車制限が始まっているらしく、トンネルを登ったT字路が大渋滞になっていました。私は女房と義姉だけ降ろして家に帰るつもりだったので、すいているウエスト方向に向かい、ウエストの駐車場入り口で2人を下ろし、南軽井沢交差点を右折して家に戻りました。この辺まで来ると、道はガラガラと言っていいくらいでした。

 家に戻って、東京ではめったに聞かないクラシックのCDなどを聴きながら本を読んで過ごしました。
 夕方4時近くになって女房から電話がかかり、しなの鉄道の信濃追分駅に迎えに来て欲しいというので出かけました。国道18号は下りは渋滞が始まっていましたが、追分の裏道と浅間サンラインを通れば何とかなると思い、2人を拾ってから御代田のメルシャン美術館に行くことにしました。

 予想通り、サンラインはすいていて20分ほどで到着しました。
 美術館は5時まででしたが、芝生と白樺の林を歩き、土産店をながめました。私は、毎年ゼミの卒業生が卒業式の後で記念品をプレゼントしてくれるので、いつも気持ちだけのお返しをしているのですが、メルシャン美術館の土産店で、モネの日傘の女のコースターをみつけて卒業予定者の数である20個買いました。ちょうど今年は講義レジュメの表紙を、このモネの絵にしていたのです。いい記念品になるだろうなと自賛しています。

 帰りに今度は小諸のツルヤに寄って帰りました。夕食は軽井沢駅で女房が買ってきた釜飯で済ませました。夕食後、軽井沢周辺全域のマップで今日一日の行程を確認した義姉は、「ずいぶんあちこち行けたね」と満足していました。当初はガイドブックを見て、浅間牧場にも行きたいといっていたのですが、これは次回にお預けとなりました。
 こうして軽井沢第2日が終わりました。

 * 写真はモネの日傘の女(モネの妻と息子だそうです)

  2006年 8月21日

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2泊3日の軽井沢案内(1日目)

2006年08月21日 | 軽井沢・千ヶ滝
 
 軽井沢をはじめて訪れ、2、3日だけ滞在する人にはどこをどういう順番で案内したらいいでしょうか。
 今回も入念に計画を立てたのですが、なにぶんお盆休みの最中に軽井沢の街中や観光地を歩き回った経験がなく、混雑、渋滞についての知識も少ないので悩みました。午後になると鬼押し出し方面からの下りで国道146号線が混むこと、旧軽やショッピング・プラザは午前中からとんでもない混雑になるだろうことくらいは予想できますが。

 8月13日(日)午後1時すぎに義姉は軽井沢駅に到着しました。
 軽井沢駅周辺や国道18号の混雑を予想して、義姉にはしなの鉄道に乗り継いで中軽井沢駅まで来てもらいました。普段なら家から15分もあれば中軽駅には行けるのですが、国道の混雑が予想されるので、私たちは1時間前に千ヶ滝の家を出発して、中軽駅でスタンバイすることにしました。
 しかし、意外にも国道18号も146号もすいており、列車が到着する30分以上前に駅に着いてしまいました。幸運なことに、駅に最も近い、あの浅間山の壁画の真ん前の白樺の木立の脇のスペースに1台分だけスペースが空いていたので、そこに駐車することができました。その後、次第に送迎の車が増えてきましたが、みんな駐車スペースがなくて右往左往していました。
 しなの鉄道で到着した義姉の荷物をクルマに置いてから、まずは“かぎもと屋”で天ざる蕎麦を食べました。できれば“追分そば茶屋”に行きたかったのですが、この日はお盆休みということでした。“かぎもと屋”も一度は行って、あの吉川英治や石原裕次郎、細川首相だののサイン入り写真を眺めておくのもいいかと思いました。壁に掛けられたこの店を訪れた著名人の写真、色紙や、蕎麦の値段の変遷表は、昭和の中軽井沢駅前を思い起こさせてくれます。

 それから、中軽の駅前に置いてあった車に戻って、“ツルヤ”に向かいました。ツルヤは、11日午前中の土砂降りのときとは違って、駐車場は混んではいたものの、店舗の出入り口からそう遠くない場所を確保できました。到着早々でしたが、ここでブルーベリーのシロップ漬けや、花豆などお土産物をまとめて買ってしまいました。それと梱包用の段ボール箱もゲットして、家に戻りました。
 せっかくなので、上ノ原を右折して田崎美術館などのある通りを回って帰りました。あの通りには、“ロイヤル・プリンス通り”などという名前がついているようです。胡散臭い名前ですが、確かに、私が高校生の頃、千ヶ滝プリンスホテルの向かいの酒屋さんの前をバイクで通りかかったとき、やけに警官がたくさん出ているなと思って、ふと見ると目の前をまだ小さかった礼宮が歩いていたことがあります。

 家について、テラスでコーヒーを飲みながら一休みして、落ち着いたところで、“セゾン美術館”に行きました。この夏の展示は「聖と俗」と銘うっていましたが、私たちも義姉も興味が湧かないテーマなので、あの広々とした庭を散策することにしました。隣地との境界にずらりと並べられたペットボトルが興ざめですが、せせらぎの音を聞きながら夕暮れの一歩手前の時間のあの庭を歩くと、そこには軽井沢の香りと涼気が漂っていました。

 日が落ちてから、旧軽に行くことにしました。なるべく混雑を避けるために、三井の森の中を通り、町役場で一度国道18号に出て、鰻弁慶のところで国道をそれて六本辻のほうに回りました。鶴溜経由で旧軽に出られるらしいのですが、道が分かりません。子どものころ、あのあたりは熊が出るから行ってはいけないと言われていたので、地理勘がないのです。
 旧軽のロータリーあたりも混んでいましたが、さすがにこの時間になると、町営駐車場も1階に空きスペースがいくつもありました。物産館をのぞいてから、“サン・モトヤマ”に入って、義姉は、それほど高くはないTシャツなどを何枚か買い物していました。
 
 帰り道に、千ヶ滝温泉に立ち寄りました。塩壺、星野のいずれにするか迷ったのですが、義姉の地元近くには有名な温泉地もあり、温泉は別に珍しくもないというので、一番クルマが止めやすいスケートセンターにしたのです。
 女房と義姉が温泉に浸かっている間に私はスケートを滑ろうと思い、東京から持参したホッケー靴をもってインドア・リンクに行ってみたのですが、何とスケートセンターの営業は4時半だか5時半だかに終わってしまっていました。ちょっと早すぎないですか。リンクをのぞいて見ると、信州大学のアイスホッケー部が練習中でした。

 2日目の8月14日、3日目の8月15日のことは、書き改めます。こうして1日目は終わりました。

 * 写真は中軽井沢駅を出発するしなの鉄道

(2006年8月21日)

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“Delikatessen”の謎

2006年08月17日 | 軽井沢・千ヶ滝
 
 今までは店頭などに置いてある軽井沢案内のパンフレット類にはあまり興味がなかったのだが、このコラムを書くための材料になるかもしれないと思い、今回はあれこれと集めて帰った。そして、また謎が1つ生まれた。
 それは「デリカテッセン」にまつわるものである。

 かつて、軽井沢の旧道に、今も残る鳥勝や物産館ばかりでなく、明治牛乳、明治屋、小松ストアー、三笠書房などが軒を連ね、白い包帯を巻いたヘルメット姿の外人さんたちが歩きまわっていた頃の話。その中の1軒に、ソーセージ屋の“DELIKATESSEN”もあった。
 店頭にはドイツ語で店名の書かれた白い横長の看板が掲げられていたが、これを見て、祖父が中学生くらいだった私に、「どういう意味か分かるか?」と聞いた。
 「英語じゃないんじゃない?」と私は抗弁したのだが、「これくらいは分かるだろう」と言うので、しかたなく、「“delikat”は“delicate”だろうから、“微妙な”“essen”て、なんだろう・・」と答えると、祖父は、「“delicate”ではなくて、“delicious”で、“essen”は“eat”だよ」と教えてくれた。
 今思い起こして独英辞典を引いてみると、“delikat”にあたる英語は“delightful”となっているし、“delikat”には“delicate”の意味もあるばかりでなく(ただしdelicateは「微妙」だけでなく、「美味しい」という意味もあった)、“Delikatesse”には“珍味”という訳語ものっている。
 “微妙な食べ物”でもあながち誤りではなかったのかもしれないと今にして思うが、その祖父も他界しすでに20年以上経つ。
 祖父は1930年代にベルリンに留学しているが、不勉強な孫を少し鍛えようと思ったのだろう。

 基本的には勉強熱心で真面目な学者だったが、ひょうきんな所もあって、同じく中学生だった私をつかまえて、「Xで始まる単語を10個言えたら、何でもお前の欲しいものを買ってやる」と言ってきたことがある。
 欲しいものは山ほどあったのだが、残念ながら、Xで始まる単語はX’masくらいしか思い出せなかった。
 傍で聞いていた叔母が、「そんな役に立たないこと言っていないで、もっと役に立つことを教えてあげなさいよ。だいたいお父さんはXで始まる言葉を10個も言えるの?」と叱ったところ、祖父は、「“X ray”だの“Xenophon”だの、いくらでもあるよ」と答えていたが、このほかに2、3のギリシャ人の名前を言っただけで、10個は挙げられなかった。
 確かに何の役にも立たない質問ですが、40年以上経った今でも忘れられない懐かしい問題である。
 
 ところで、“Delikatessen”の“謎”はこれだけではない。
 実は今回、旧道のどこかの店先に置いてあった「旧軽井沢マップ」(旧軽井沢ひびき会発行)というのをもち帰ったのだが、これを見ると、旧道の表通りから少し入ったところに、“軽井沢デリカテッセン”という店がある。
 しかも地図の下欄に載っている同店の広告には、“ KARUIZAWA DELICA TESSEN since 1980”と書いてある(*写真を参照)。
 問題の文字は“Delika”ではなく“Delica”、しかも“since 1980”というのも理解に苦しむところだ。かつて、1964、5年頃その店先で祖父と会話を交わしたあの「DELIKATESSEN」と、現在の、このマップに広告の出ている「KARUIZAWA DELICATESSEN」は、どのような関係なのだろうか。

 PS これまた平安堂で買った「軽井沢ものがたり」(新潮社、1998年刊行)の中に、大正末期の軽井沢駅から旧軽井沢に向かう道の写真が載っているのを見つけた(57頁)。こんな風景を大正10年頃に祖父が見たのかと思うと感慨深いものがある。

  2006/8/17

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“軽井沢の肖像”

2006年08月16日 | 軽井沢・千ヶ滝
 
 お盆の真っただ中の8月11日から16日まで、軽井沢に行ってきた。
 Uターンラッシュを避けるために、今朝5時30分に千が滝を出発。軽井沢から碓氷峠を下ったあたりまでは(といっても上信自動車道だが)霧の中を、その後は時おり前を行く車のテールランプすら霞むほどの土砂降りの雨の中を今しがた帰宅した。

 普段の夏は、人ごみと車の渋滞の凄まじさを敬遠して、お盆の最中は旧軽やショッピングプラザはおろか、国道18号やバイパスにすら出ることなく家でじっとしているのだが、今年の夏は関西に住む歯科医の義姉がこの期間しか休みが取れないというので、がんばってお盆の軽井沢を経験することにした。
 8月12日は、事前にショッピングプラザの下見。
 とにかく先手必勝!ということで、9時30分にはウエストの駐車場に入ることにした。まだ駐車スペースには余裕があったが、この時間でもすでに晴山通りの路上駐車スペースは満杯。
 11時30分ころ、雷が鳴りはじめ、にわかに雲行きが怪しくなったので、あわててクルマに戻り傘を取って戻るのと同時くらいに大粒の雨が降り出したので、退散。この頃には、すでにウエストの駐車場は満車で、私たちの車が出るのを待っている車が何台もあった。
 立ち寄ったツルヤの駐車場も満杯で、店舗入り口から一番遠いバイパス沿いにしか空きがなく、仕方ないので車中で雨宿りをした。15分くらい経ってようやく小降りになったので、店内へ。前回の8月初旬の爺むささとはうって変わって、若い層も含めた家族連れなどでごった返していた。
 写真はそのとき、ツルヤを出て、中軽井沢駅西の踏切に向かう道すがら撮ったもの。踏切を渡った国道との交差点が渋滞していて、一寸刻みだったので、車の中からでも撮影することができた。

 その後12日から15日までの出来事は改めて書くことにするが(“2泊3日の軽井沢案内”)、女房と義姉が買い物やドライブをしている間、私は家に戻って読書(といっても勉強の本)とDVD三昧で時間を過ごした。

 もともと軽井沢は祖父や叔父の時代から勉強するために行くので、最初の頃はテレビも電話もない生活だった。
 大学を卒業するまでは、少なくとも午前中は勉強しなければならず、したがって私は夏の午前中の軽井沢というものをほとんど知らない。
 母親や叔母たちが午前中から旧軽の紀ノ国屋などに買い物に出かけるのを恨めしく思って過ごしていた。
 食事時に古いラジオでニュースを聞くだけだったので、その日下界で起こったことは、翌朝信濃毎日新聞が配達されるまでは何も知ることができなかった。
 後にテレビは置くようになり、最初の頃はNHKの長野か上田の電波が届いていたのだが、昭和39年に家の境界に沿って植えた落葉松が、当初は人の背丈ほどだったのに、いつの間にか見上げるほどの高さとなり鬱蒼と家を覆うようになってからは、何も映らなくなってしまった。
 軽井沢では、わが家のテレビ受像機はビデオやDVDを見る道具にすぎない。

 今回持って行ったのはお気に入りの、もう何回も観ている豆豆先生もの。“Mr. Bean”である。
 あのシリーズには台詞はほとんど必要ないので、英語が苦手のぼくには助かる。
 何作か観ているうちに、豆豆先生の愛車のミニには何種類かあることを発見した。あの旧ミニは、正面はミラジーノに、側面はエッセに似ている。ダイハツが、もっと旧ミニのコピーのような軽自動車を作ってくれたら、ぜひ買い替えて豆豆先生になった気分で乗り回したい。
 ただし、クルマ雑誌によると、Mr. Bean ならぬローワン・アトキンソンご本人の愛車は何とアストン・マーチンだそうだ。
 
 もう1本は、従弟が貸してくれた「ジェニーの肖像」という古い映画。1948年作、1951年日本公開とある。
 売れない絵描きのジョセフ・コットンが、NYのセントラルパークのあのスケート場(出会いがスケート場というのも泣かせる!)で、幻想の少女ジェニファ・ジョーンズと出会って恋に落ち、彼女の肖像を描きあげ、これが評価されて画壇にデビューするといったストーリー。
 最後まで彼女が実在する女性なのか、絵描きの幻想の中だけで生きているのか、観客には分からない。ジェニーが登場するシーンでは、ドビッシーの“亜麻色の髪の乙女”が流れるのだが、ディミトリー・ティオムキンの、場面ごとの編曲がなかなかいい。

 ちょうどぼくにとって、このコラムの中で書き綴っている軽井沢が、現にある軽井沢なのか、私の思い出の中だけのものなのかが分からないのと同じである。
 どちらかといえば、思い出の中の軽井沢のほうがぼくにとっては真実であって、現実の軽井沢は幻影なのだが。そういう意味で、このコラムも“軽井沢の肖像”ということができるかも知れない。

 2006/8/16

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千ヶ滝の思い出

2006年08月09日 | 軽井沢・千ヶ滝
 
 このブログを書き始めたきっかけの1つは、新聞で見た与謝野馨大臣の資産公開の中に、かつてご近所だった与謝野さんの別荘と思われる「軽井沢町長倉獅子岩」所在の不動産が載っていたことだった。
 久しぶりに目にした「獅子岩」の文字に、小学校時代の軽井沢千ヶ滝の裏山での冒険を思い出したのである。

 これまでこのコラムに書き込んできたあれこれの思い出は、ぼくにとっては“軽井沢”の思い出なのだが、先般買った「軽井沢の法則」なる本--何とも後味の悪い本だった--を見ると、“旧軽井沢”在住者のなかには、中軽井沢や北軽井沢に対する敵意のようなものをもつ人がいることを知ったた。
 
 確かに、ぼくがはじめて軽井沢に行ったころは、信越線の駅は「沓掛」だったのだから、追分の人たちが、軽井沢ではなく“追分”であることを誇るように、沓掛の人たちも“沓掛”のままで通せばよかったように思う。
 しかし、沓掛駅はすでに昭和35年だったかには中軽井沢駅に改称され、行政上も北佐久郡軽井沢町長倉、郵便も軽井沢町千ヶ滝となったのだから、ぼくにとってあの町はやはり「軽井沢」なのである。
 勉強を終えて、午後になるとしょっちゅう遊びに行ったのは「軽井沢スケートセンター」だし、一時帰京する祖父を見送りに行ったのは「中軽井沢駅」であって、沓掛駅ではない。
 同じ車両に壺井栄、繁治夫妻が乗っているのを見かけたこともあった。車窓越しにぼくと祖父が談笑しているのを、和服姿で穏やかに微笑みながら見ておられた。 就職してから、夏の週末を軽井沢で過ごし、月曜の朝一番の特急で東京に戻るために送ってもらったのも「中軽井沢駅」だった。遠藤周作、芥川比呂志、時の日銀総裁(宇佐美氏だったか森永氏だったか名前は忘れてしまった)と同乗したこともあった。

 それらの思い出は、すべて、あの浅間山の壁画のある「中軽井沢駅」とともにある。
 駅の正面には西武バス(かつては軽井沢高原バスと称していた)の観光案内所があって、そのひんやりした屋内でよく時間をつぶした。“沓掛”は、せいぜい中軽井沢駅前の土産物屋で売られていた“沓掛饅頭”だったか、“時次郎饅頭”くらいしか思い出にない。だから、あれこれの思い出を“沓掛”の思い出とは考えられないのである。
 
 しかし、旧軽族が旧軽以外を「軽井沢」と呼ばれたくないのならば(もっとも「法則」には田崎美術館やセゾン美術館、それどころかペイネ美術館などまでもが「軽井沢」の情報として載っているのだから、あの人たちの地域としての「軽井沢」へのこだわりがどれほどのものかは疑問だが)、ぼくは別に「軽井沢」にはこだわらない。
 所詮、ぼくの心の中の本当の“軽井沢”はとっくの昔に消えてしまっているのだから。
 ぼくの思い出は“中軽井沢”の思い出、“千ヶ滝”の思い出というのでもいいような気がする。ときどき草軽鉄道や、旧道、南軽井沢方面にも遠征することがあるが、思い出の中心はやっぱり“千ヶ滝”周辺である。

 その千ヶ滝の由来である千ヶ滝(鬼押し出しに向かう道をかつての観翠楼の手前辺りで左折してしばらく山の中に入ったところにあった)に行ったときの写真をアップする。
 1957年夏のものである。この後突然軽井沢名物の激しい夕立となり、みんなで走ってスケートセンターの温泉に駆け込んだ。
 
  2006/8/9

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軽井沢・幻の湖 5・野反湖

2006年08月05日 | 軽井沢・千ヶ滝
 
 “軽井沢 幻の湖物語” (その5)

 野反湖

 「軽井沢の湖」とはいえないが、番外編で、1966年にドライブに行った野反湖の写真をアップする。

 東京電力(中部電力ではなかったように記憶しているのだが…)の作った、これも人造の貯水湖だった。
 野反湖も、現在でもあるのかどうかは不明だが、「思い出の」という意味で、一応「幻の」ままにしておこう。

 照月湖や野尻湖にも行ったのだが、残念ながら写真は残っていない。 

 2006/8/5 
 
 追記(2021年1月28日) 
 これまでこの欄は「田沢湖」という題名で、登場する湖も「田沢湖」と書いてあったが、すべて「野反湖」の誤りだった。「野反湖」は軽井沢から草津温泉を過ぎて、さらに同じくらい北に行ったところにある湖である。
 なにゆえ「野反湖」を(あんなに有名な)「田沢湖」と誤って記憶していたのか、まったく分からない。「野尻湖」ほど有名でなかったので、記憶に定着しそこなったのだろうか。しかし、若い頃に出かけたのは間違いなく「野反湖」であり、写真も「野反湖」の堤防である。さらに、本文の中部電力ではなく東京電力の施設だったという記憶もまさに「野反湖」のものである。
 ただし、「野反湖」は人造湖ではなく自然の、それもかなり大きな湖で、しかも現存しているらしい。

 追記2(2021年3月20日)
 今日の夜のテレビ番組で、タクシーで嬬恋から新潟へ向かう番組をやっていた。その途中で、群馬県の嬬恋から長野県に入るあたりで、田代湖という湖の近くを通過していた。軽井沢からの方向と距離は野反湖と同じくらいで、やはりダムのための貯水湖のようだった。
 ぼくが最初に「田沢湖」と間違った湖は「野反湖」ではなく、「田代湖」ではなかったかという疑問が湧いてきた。

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軽井沢・幻の湖 4・スケートセンター屋外リンク

2006年08月05日 | 軽井沢・千ヶ滝
 
 “軽井沢 幻の湖物語”(その4)

 スケートセンター屋外リンク(1966年冬) 
 
 “軽井沢、幻の湖”2のボート池は冬になると、400メートルの屋外リンクになった。ここでは後に(昭和38年)世界スピード選手権大会も開かれた。優勝したソ連の選手の彫像が国旗掲揚台の跡地(ボート池の南西の辺り)に立っており、その容貌が祖父に似ているとよく祖父をからかったりした。
 今も残っているのだろうか。

 スケート人気とともに、今の千ヶ滝温泉の辺りに屋根つきのパイピングリンクも作られたが(小林本の187頁によると1周333m×幅10mだったらしい)、これも今はない。現在のパターゴルフ場の辺りにあったインドアのアイスホッケーリンクもなくなってしまった。

 大学ではアイスホッケー部に入った。
 軽井沢スケートセンターで夏合宿をしたときに、氷上員のアルバイトをしていた軽井沢高校アイスホッケー部のOBが試合を申し込んできたので、軽井沢高校と練習試合をしたことがある。
 弱小チームと甘く見たらしく、軽井沢高校の連中は防具もつけずに、全員がジャージ姿で試合にやって来た。10対7で防具をつけたわれわれが負けた。
 
 合宿の初日には国土計画だったか西武鉄道だったかの岩本主将が試合を申し込んできた。とても適わないどころか、怪我をしては大変だと丁重に辞退したのだが、後になってから、一生の思い出に対戦しておけばよかったとみんなで後悔した。

  2006/8/5

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軽井沢・幻の湖 3・塩沢湖

2006年08月04日 | 軽井沢・千ヶ滝
 
 “軽井沢 幻の湖物語”(その3)

  塩沢湖でのテニス風景。

 編集者時代、会社にテニスで、佐賀県代表でインターハイに出場した経験者がいて、社内でテニス熱が高まった。

 毎年夏には塩沢湖の民宿で合宿をした。

 国鉄の“軽井沢 そよかぜ日帰りパック”などとともに、塩沢湖のテニス民宿も、軽井沢俗化の元凶の1つかもしれない。

★2006/8/4

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軽井沢・幻の湖 2・スケートセンター、ボート池

2006年08月03日 | 軽井沢・千ヶ滝
 
 “軽井沢 幻の湖”物語(その2) 

 軽井沢スケートセンターのボート池(1963年)。

 写真でボートが浮かんでいるのは、現在の屋外ホッケーリンク(夏は何になっているのだろうか?)の辺り。

 写真の右手が獅子林やスケートセンターホテルになった建物、写真左奥の方向に、世界スピード選手権の国旗掲揚台や優勝者の彫像があった。
 奥の方に浅間山が見えていた。

★2006・8・3

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大正10年の軽井沢駅前

2006年08月03日 | 軽井沢・千ヶ滝
 
 旧道では活字に出会うことができなかったのだが、帰り道に国道沿いの平安堂軽井沢店に寄って、軽井沢関係の本を数冊買って帰ったた。
 このコラムを書くために。そして、またしてもこれまでのコラムのいくつかの誤りと、新しい知識を得ることができた。

 例えば、グリーンホテルを「ライト設計の」と書いたのだが、正しくは「ライト風の三層建築」ということのようだ。しかも、ぼくの記憶にある昭和40年前後のグリーンホテルは建て替えられた2代目の建物だそうだ。
 そのグリーンホテルの裏には戦後までスケート場があったということである。そうと知っていれば一度滑っておきたかったな、と残念な思いがする。

 ところで、わが家の軽井沢にまつわる最も古いエピソードは、祖父の軽井沢でのお見合いの話である。
 大正10年に大学を卒業した祖父は、上田での講演の帰りに、恩師の吉野作造から軽井沢に立ち寄るように言われ、軽井沢駅で吉野先生と会ったという。
 何の用かと思ったら、先生は祖父に結婚相手を紹介した。しかし、その頃祖父はすでに祖母と交際していたので、結局この話は実現しなかった。もし、その女性との話がまとまっていたら、孫の私は今頃旧軽井沢の別荘のオーナーになれていたかも知れない。
 ただし現在のぼくとはまったく別の人格だろう。

 そのときの思い出話として、祖父は、「当時は軽井沢駅前は一面の草原で、今の旧道までが一望できた」と言っていた。
 いくら大昔といっても、少し大げさでないかと思っていたのだが、今回買った本のなかに、かつては軽井沢駅から離山下にある大隈重信の別荘が見えるほど木立の背丈は低かったという記述を見つた。
 大隈の別荘がどれほど大きいものだったのか分からないが、離山のふもとが見えるくらいなら、軽井沢駅から旧中仙道の街並みが見えてもおかしくはないだろう。

 上の2つの事実は、小林收さんの「避暑地軽井沢」(櫟、平成11年)という本で知った。

 なお、定点観測しているツルヤの駐車場からの浅間山の写真を添付したかったのだが、あいにく滞在した3日とも、雲や靄がかかっていて浅間山の姿を見ることはできなかった。 

 * 写真は、大正10年の軽井沢駅前の風景。桐山秀樹ほか「軽井沢ものがたり」(新潮社、1998年)57頁から。 
  
 2006年 8月 3日

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追分学生村から千ヶ滝文化村へ

2006年08月03日 | 軽井沢・千ヶ滝
 
 ぼくが昭和30年代に居候していた叔父の別荘は千ヶ滝(獅子岩)にあった。

 叔父は学生時代の夏休みには毎年、旧制高校以来の親友と一緒に追分(正確には借宿)の宿を借りて勉強していたという。
 戦争が激しくなる数年前のことである。
 そのときに、将来自分で働くようになったら軽井沢に別荘をもとうと決意したそうだ。
 小林收さんの「避暑地・軽井沢」によると、大正末ころから追分には勉強するための学生が避暑に訪れるようになり、“追分学生村”などと呼ばれていたらしい。追分学生村で勉強した学生は高文試験に合格するなどという風説もあったという。

 その後、大学教師になった叔父が、この夢を実現させたのは昭和31年のことだった。
 学生時代に知り合って以来交流のあった追分のMさんの斡旋で、千ヶ滝のいわゆる“文化村”で売りに出ていた別荘を購入したのである。
 それから数年後の昭和35年に、私の親が千ヶ滝の西区に土地を購入したときの国土の販売価格が坪5000円だったから、当時は大学教師の給料でも千ヶ滝なら何とかなったようだ。
 ちなみに、当時の千ヶ滝西区は1区画300坪を単位として売り出していた。だから、今でも西区は碁盤の目のような区画になっている。沢沿いの大区画の別荘を除いては。

 小林さんの本によると、この千ヶ滝中区の別荘地は堤康次郎が大正8年に販売を始めたもので、当初は100坪の土地に11坪の家がついて800円、大正11年になると100坪の土地に12坪の洋館がついて2000円だったという。
 ほかの本を見ると、当時銀座三愛の土地が坪1000円となっているから、銀座の土地1、2坪分の値段で千ヶ滝に別荘がもてたようだ。
 最初の頃は売れ行きが芳しくなかったため、100坪の土地を抽選で無償提供したりしたらしい。そのなかに、叔父の近くにおられた中村孝也教授の名前も見られる。
 この辺りは旧軽井沢とは違って庶民的な価格だったため、教師や文化人が多かったので、“文化村”と呼ばれるようになった。
 前にも書いたが、昭和32、3年頃、ここの請求書には「文化村××様」と書いてあった記憶がある。

 「軽井沢の法則」なる本を読んでみると、この本の著者も含めて、古くから旧軽井沢に別荘をもっていた人たちの、追分や中軽井沢を“軽井沢”と呼ぶことに対する敵愾心が行間からにじみ出ている。
 でも、小林さんの本を読むと、軽井沢を発見した宣教師たちの生活信条、星野温泉の経営者に送った経営訓に見られる内村鑑三の教え、さらには、戦後浅間山一帯をアメリカ軍の演習地化することに反対した人たち(矢内原忠雄東大総長も登場する。もしそんなことになっていたら今頃軽井沢は自衛隊の駐屯地だろう)の軽井沢への思いは、旧軽よりも、追分学生村や、千ヶ滝文化村、あるいは北軽の法政村などにこそ息づいているように私には思われる。
 それだけが軽井沢だなどというつもりはないが。

 * 写真は1966年冬の千ヶ滝文化村風景。まさに100坪に10数坪(多少建増しされて広くなっていたかも)の質素な、しかし雰囲気のある別荘でした。 
                               
  2006年 8月 3日

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軽井沢・幻の湖 1・レマン湖

2006年08月02日 | 軽井沢・千ヶ滝
 
 “軽井沢 幻の湖”物語(その1)

 レイク・ニュータウン レマン湖(!)

 先日買って帰った小林收さんの「避暑地・軽井沢」に触発されて、古いアルバムを懐かしく眺めた。
 その中から、今では幻となってしまった軽井沢の湖の思い出を何回か書いてみたい。なお、添付した写真は、私以外の登場人物は肖像権の許諾を得ていないので、ぼかしてある。

 1 南軽井沢湖(1958年) 

 現在の軽井沢ショッピングプラザから碓氷軽井沢ICに向かう道路(晴山通り。ぼくはあの道を“プリンス通り”とは呼びたくない)の東側にあった。
 ある年突然堰が切れて消滅してしまったという話を聞いていたが、小林さんの本から、それが昭和34年(1959年)8月14日に軽井沢を襲った台風7号による堤防決壊によって消滅したことを知った。
 この写真はその前年に撮ったものと思われる。同書には「一つのスケート場が消えることになった」と書いてあるので(188頁)、同湖は、冬の間は自然のスケートリンクになっていたようだ。当時は信越線の車窓からも、田んぼを凍らせただけのスケートリンクがいくつも見えた。

 2 スケートセンターのボート池(1963年)

 ぼくが軽井沢に行くようになったのは昭和32年のことである。
 当時よく午後の散歩に出かけたスケートセンターはそれよりずっと以前からあったものと思っていたが、なんと直前の昭和31年にできたばかりだったことを、これも小林さんの本から知った(186頁)。
 安っぽいスピーカーからハワイアンが流れるこの池で、従弟たちとボートに乗って浅間山を眺めたものだった。前に書いた“真夏の夜の夢”という渡辺プロのショーもこの池のボート乗り場に作られたステージで行なわれていた。最初の頃はザ・ピーナッツやクレイジー・キャッツ、後にはタイガース(阪神ではないほうの)、ハイファイセットなども来た。
 これも、いつしか埋め立てられてテニスコートになり、今ではそれもなくなってしまったようだ。

  3 レマン湖(1963年)  
 
 と書くのも恥ずかしいが、レイクニュータウンに作られた人造湖はそう名づけられていた。
 小林さんの本によれば昭和37年に作られたというから(199頁)、できた翌年の写真である。
 この人造湖の脇の三笠会館(東京会館かも…)で、いやに気取ったカレーライスを食べた思い出がある。ボーイが銀蓋つきのお盆に盛った米を、テーブルで客の指示するだけ皿に盛るのである。
 近年あちこちにできたテーマパーク風のぞっとしない雰囲気のうえに、最初の頃は無料だったように記憶しているが、やがてゲートができて入場料をとるようになったので、以後数十年間まったく足を踏み入れたことはない。
 したがって“レマン湖”が今でもあるのかどうか定かでない。もし現存しているのだとしたら、「昔日の」レマン湖ということにしておこう。

 4 塩沢湖(1974年)  

 こちらは少なくとも数年前に軽井沢高原文庫に行ったときには存在していたので、「幻の」ではなく、「昔日の」である。
 1965年の夏に撮った写真があって、植えたばかりの植栽以外何もない当時の塩沢湖の雰囲気がよく出ているのだが、かなりピンボケのため、ここでは後に職場のテニス合宿に行ったときの塩沢周辺のテニスコートの写真を載せておく。
 近所にグレン・ミラーやベニー・グッドマンが好きな親父さんの経営する喫茶店があり、映画“スティング”に挿入されていたので聴き知っていた「イン・ザ・ムード」の曲名を言い当てると、それまで不機嫌だった親父さんが急にご機嫌になった。

 * 写真は1枚ずつしかアップできないようなので、3 レマン湖(1963年)だけ。 

 2006/8/2

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