豆豆先生の研究室

ぼくの気ままなnostalgic journeyです。

小津安二郎 “秋日和”と“秋刀魚の味”

2010年09月23日 | 映画
 
 高橋治の『絢爛たる影絵』(文春文庫)によると、“秋日和”(1960年)、“小早川家の秋”(1961年)、“秋刀魚の味”(1962年)を、小津の「秋三部作」というらしい。
 この2、3日の間に相ついで3作とも見たのだが、すでに、どれがどれだか分からなくなりかけている。

 “秋日和”は、定番の“縁談”もの。
 中年になった大学時代の同級生3人(中村伸郎、佐分利信、北竜二)が、亡くなった同級生の遺児(司葉子)を佐分利の部下(佐田啓二)に嫁がせようとするのだが、安アパートに一人残されてしまう母(原節子)を心配して、司はなかなか決断しない。そこで、例によって3人は一計をめぐらし、まずは妻を亡くした大学教授の北竜二と原節子を再婚させ、そのうえで娘の司を結婚させることにする。結局、北はただの当て馬で終わるのだが、紆余曲折の後に晴れて司と佐田は結ばれることになり、娘を嫁がせた原は一人アパートに戻り、床にすわって壁を見つめる。
 “晩春”で娘を嫁がせた笠智衆の謀計と同じ話である。笠智衆は原の義兄で、榛名湖畔で宿屋を経営している。“晩春”では原が嫁ぐ前に笠と二人で京都の宿に泊まるが、“秋日和”では原と司がこの榛名湖の宿に泊まる。原のセリフは、亡夫(映画には姿は出てこない)を小津安二郎自身と見立てて、小津が原に言ってほしいセリフを書いたと思ってみると納得できるところがある。あれこれの予備知識があって見たほうが面白い。
 中村伸郎も毎回妙な役ばかり演ずるが、今回も印象的だった。場末の寿司屋の娘で、司の会社の同僚役を演じる岡田茉莉子もいい。
 
 “小早川家の秋”は見ないほうが良かった。
 ぼくは関西弁に強いアレルギーがある。中村雁治郎の演技も、小津の意思が通じなかったらしく、まったく「小津調」を外れている。森繁久弥も同じ。東宝映画なので仕方がないのか。
 大手企業に押されて凋落気味の大阪の造り酒屋が舞台。大旦那(中村)は商売そっちのけで競輪と再会したかつての妾(浪速千栄子)にうつつを抜かしている。いちど心筋梗塞で倒れるが回復して、また競輪の帰りに京都の妾の家に立ち寄り、そこで亡くなる。亡くなった長男の嫁(原節子)の再婚話と、末娘(司葉子)の縁談が同時進行するが、取ってつけた程度。“晩春”や“秋刀魚の味”のような奥行きはない。大旦那の死にも“東京物語”の感動はない。
 小津は自らを豆腐屋にたとえたというが、まさに「一丁上がり(イッチョ、アリー!)」といった印象。“風の中の牝雞”や“東京暮色”を失敗作というなら、ぼくには“小早川家”のほうが数十倍失敗に思えるのだが。
 ただし、浪速を小津の愛人だったという小田原の芸者に見立て、大旦那を小津自身と見れば、これまた小津のメッセージと読むこともできる。

 “秋刀魚の味”は小津の最後の作品。
 妻を亡くした笠智衆の娘(岩下志麻)を縁づかせる話。父親(笠智衆)の学校時代の同級生(中村伸郎)が岩下に縁談をもってくる。岩下は、妻を亡くして生活万般を自分に頼っている父親を案じて、結婚を躊躇する。
 ある晩、笠や中村が同窓会を開き、恩師(東野英治郎)を招く。恩師も早くに妻を亡くし、退職後はラーメン屋で生計を立てているが、店も生活も娘(杉村春子)に頼りきっている。学校時代には生徒たちの憧れだった杉村も、今では生活に疲れて老境に入りつつある。その姿を見て、笠は絶対に娘を嫁がせようと決意する。
 今回は“晩春”のような策略はないが、笠は、家の近所の海軍バー(?)のマダム(岸田今日子)の横顔に亡妻の面影を感じて淡い恋心を抱いている。(いいなあ、こういうの。)そして、娘を嫁がせた夜、中村たちと別れた笠は一人でこのバーに立ち寄り、ウイスキーを一杯ひっかけて家路につく。
 カメラは“晩春”と同じくさっきまで高島田の岩下が座っていた椅子を映し、岩下のいなくなった廊下、部屋を映し、最後に食卓の椅子に一人すわる笠の後ろ姿を映して終わる。
 
 小津の映画の終わりである。

 * “秋刀魚の味”のラストシーン。松竹ホームビデオのDVDから。

 2010/9/23 (秋分の日、雨)

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小津安二郎 “大学は出たけれど”

2010年09月21日 | 映画
 
 講義と会議の間に2時間ちょっと(小津の語法でいえば「ちょいと」)時間があいたので、図書館で小津の映画を見ることにした。
 いくらDVDのコーナーを探しても見つからないので、カウンターに聞きに行くと、VHSのビデオだった。

 時間から逆算すると、90分1本と、40分1本程度の長さでなければならない。
 あれこれ計算をして、“大学は出たけれど”と“生れてはみたけれど”にした。“大学~”は他の映画の予告編も入れて30分弱、“生まれて~”は94分で、ちょうど間尺が合う。

 “大学は出たけれど”は1929年(昭和4年)の作品で、小津の監督として第10作目に当たる。
 「昭和恐慌」の真っただ中に発表された作品で、「大学は出たけれど」という当時の就職難を象徴する言葉はこの映画の題名から世間に広まったらしい。今なら、流行語大賞に選ばれただろう。
 「就職活動」などという言葉もすでに使われていた。

 内容は大したことはない。
 大学は出たけれど、不況のために就職できない大学卒業生(高田稔)のもとを、田舎から母親が嫁さん候補(田中絹代)まで連れて上京してきてしまう。田舎には就職が決まったなどと嘘をついていたのである。
 仕方なく高田は昼間は公園で時間をつぶして、仕事をしている振りをする。やがて母親は田舎に帰るが、花嫁(田中)には嘘がばれてしまう。妻は夫を助けようと、内緒でカフェの女給の仕事を始めるが、店でばったり夫と出くわしてしまう。
 妻にこんな仕事はさせられないと、夫はかつて門前払いを食った会社に再び出かけて行って、受付でもいいから雇ってくれと懇願する・・・。

 といったストーリー。
 職のない息子のもとに田舎から母親がやって来るというのは“一人息子”を思わせ、田中絹代が女給に身をやつして、というのは“風の中の牝雞”を思わせる。
 就職試験を受けに行く会社の風景は、最晩年の“秋日和”や“秋刀魚の味”の佐分利信や笠智衆の勤める会社に至るまでの、つまり高度成長以前の昭和の「会社」の雰囲気が漂っている。ぼくが昭和40年代に就職した小さな出版社もあんなものだった。
 小津は同じような作品を作りつづけたというのは、戦前からその通りであった。

 それにしてもサイレントというのはまどろっこしい。
 不況の真っただ中の昭和4年に公開されたこの映画の興行収益はどうだったのだろうか。
       

 もう1本の“生れては見たけれど”(1932年)は、ぼくは嫌いだ。
 スラップ・スティックものだが、ぼくはこのジャンルは嫌いだ。
 早送りで(VHSの早送りは滅茶速くて、字幕がよく読めなかった)30分ほどで済ませてしまう。
 子どもに向かっては「勉強して、偉くなれ、偉くなれ」と言っている父親が、会社ではうだつが上がらず、上司にへいこらしているの姿を子どもたちが見て、人生に絶望するという話(だろうと思う。早送りのため字幕をきちんと読めなかったので)。
 唯一の取り柄は、昭和初期の東京郊外(多摩川縁?)の新興住宅地の風景を知ることができた点。

 * 松竹ホームビデオ、“小津安二郎大全集・大学は出たけれど”のケース。下の写真は“生れてはみたけれど”(VHS)のケース。

 2010/9/21

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浜野保樹 『小津安二郎』

2010年09月18日 | 本と雑誌
 
 小津安二郎“早春”を見た。

 ぼくには、“東京暮色”の有馬稲子の演技と、“早春”の岸恵子の演技との違いは分からなかった。どちらも等しく、ぼくの嫌いなタイプの女を、それぞれ、それらしく演じていた。高橋治がいうように、岸が原節子に代わりうる女優だったのに対して、有馬が大根というのは(玄人の世界では)一般的な評価なのだろうか。

 ところで、今日、amazonで注文しておいた浜野保樹『小津安二郎』(岩波新書)が届いた。徳島の古本屋だったため4、5日待たされた。値段は1円!! 送料は250倍の250円。さっそく読んだ。

 貴田庄『監督小津安二郎 40のQ&A』(朝日文庫)によると、浜野の本は、高橋治から自著『絢爛たる影絵』の盗用であると指摘されて絶版になったらしい(貴田・266頁)。確かに、高橋の本に書いてあるのと同じエピソードは何か所も出てくるが、ぼくには、それらのエピソードが高橋の創見ないしは独自取材の結果なのか、それとも、これまでの小津研究の成果として映画評論界の共有財産なのか判断できない。
 ただ、両書だけを読み比べた限りでは、ぼくには盗作とか盗用とは思えなかった。

 両者は、モチーフも違えば、構成も違う。小津を見る視角も違えば、自説のために援用するエピソードも違う。
 高橋の本は、小津を描きつつ、実は高橋自身を語っているところが結構ある。高橋に興味がない読者にとっては読まされていて煩わしいところがある。岸恵子、有馬稲子に対する評価にしても高橋の評価にすぎない。
 これに対して、浜野の本には浜野は出てこない(後書きにどうでもいいような浜野の家族の話があるくらいだ)。谷崎潤一郎『文章読本』、志賀直哉『暗夜行路』の影響の指摘、「小市民映画」という基軸からの評価などは高橋にはなかった。
 岩波新書は学術書ではないから引用にいちいち注は付いていない。高橋以外の誰かがすでに指摘したことなのかは分からない。そのうち、これもamazonで買った佐藤忠男『完本・小津安二郎の芸術』(朝日文庫、絶版)を読んで確認しておこう。

 浜野の本には、松竹ヌーベルバーグの連中が若いころはさんざん小津をこきおろしておきながら、年をとったら「やっぱり小津はすごかった」式のことを言い出すようになったことを揶揄するところがある(115頁)。
 ぼくは高橋治という人が「ヌーベルバーグ」だったかどうかは知らないが、その辺がカチンと来たのではないか。
 それとも、浜野の本が、“戸田家の兄妹”は小津自身の家庭における母と兄嫁との確執が背景にあり、戸田家の佐分利信(次男)の斎藤達雄(長男)らに対する怒りは、小津自身の長男やその嫁に対する怒りだなどと書いてあることが、小津家に遠慮がある高橋の怒りを買ったのだろうか。
 高橋の本は、この本は誰も傷つけないといって取材している。そして有馬稲子以外は傷つけていない。
 
 ちなみに、両書には共通点もある。それは、両書ともに“風の中の牝雞”を“風の中の牝鶏”と誤記していることである。
 ぼくは“風の中の牝雞”に言及するたびに、IMEパッドの≪手書き入力≫を呼び出して、「雞」の文字をマウスでなぞるのに閉口しているのだが、お二人とも平然と「牝鶏」で済ませている。これでもいいのなら、「めすどり」と入力すればいいので、ぼくも助かるのだが。

 盗用か偶然の一致かでいえば、前の書き込みで、ぼくは、高橋治『幻のシンガポール』を読んで、“風の中の牝雞”で田中絹代が階段から突き落とされるシーンは、“風と共に去りぬ”のビビアン・リーが階段から突き落とされるシーンからヒントを得たのではないかと思ったと書いた。
 ところが、浜野がまったく同じ指摘をしていることを発見した(76頁)。題名の中の「風」の共通性の指摘まで同じである。盗用だと言われたら、反論は難しい。
 ただし、ぼくは階段から転げ落ちてきたのが田中絹代本人であるらしいことを、DVDをコマ落としで見直して「発見」したつもりである(田中絹代のズロース!)。
 小津も“去りぬ”のフィルムを調べて、ビビアン・リー「ご本尊」が落ちてきたことに感嘆していたという。そうであれば、“牝雞”で田中絹代ご本人を転がり落とす演出もありうるだろう、というのは、ぼくの「オリジナル」な考察である。

 それよりも奇異なのが、高橋の『絢爛たる影絵』が最近になって岩波現代文庫から再刊になったことである。かつて盗用騒ぎになって自社の岩波新書が絶版になったというのに、その因縁の本(しかももともとは因縁浅からぬ文春文庫の本)を岩波書店が再刊するというのは、一体どういう背景があったのだろうか。
 気になったので、書店で立ち読みしたが、高橋のきわめて短く、かつ大した内容のない文庫版あとがきが加わったほかは(サイデンステッカーの解説まで)文春文庫と同じだったので、買わないでおいた。
 
いずれにしても、門外漢のぼくにとっては、高橋治『絢爛たる影絵』も、浜野保樹『小津安二郎』も、それぞれに面白かった。

 * 浜野保樹『小津安二郎』(岩波新書、1993年)

 2010/9/17

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小津安二郎 “東京暮色”

2010年09月16日 | 映画
 
 箱根から帰って、まずは、11月の学会の予稿レジュメを書きあげ、送信した。きょう(9月15日)が締め切り、ぎりぎりで滑り込む。
 一仕事終えて、夕方から近所のTSUTAYAで借りてきた小津安二郎の“東京暮色”を見る。
 水曜日はDVDの旧作が1本200円なので3本借りたのだが、カウンターで「金曜からは1本60円(!)というサービスが始まる」というチラシを渡された。さらに、DVD2本無料券までついてきた。
 これを使わない手はない。来週から後期の授業が始まるが、来週は“小津ウィーク”になってしまいそうだ。

 さて“東京暮色”だが、小津の「夏三部作」(“晩春”“麦秋”“東京物語”)は夏休み中に全部見たので、これらと「秋三部作」(“秋日和”“小早川家の秋”“秋刀魚の味”)との間に撮られた“早春”(1956年)、“東京暮色”(1957年)、“彼岸花”(1958年)などを見ることにしたのである。
 時代順から行けば、“早春”なのだが、季節はずれなのと、高橋治が岸恵子をやけに高く評価しているので“早春”は後にとっておくことにして、“東京暮色”から行くことにした。

 戦時中、夫(笠智衆)が満州に出張している間に、内地に残された妻(山田五十鈴)が、子どもを棄てて夫の部下と駆け落ちしてしまう。
 残された夫と二人娘(原節子、有馬稲子)一家の戦後の物語である。
 銀行勤めの夫は一生懸命に子供を育て上げるが、嫁に行った長女(原)は夫(信欽三)とうまくいかず、幼な子を連れて実家に戻っている。二女(有馬)は戦後のアプレ・ゲ―ル世代の無責任な大学生に恋をして子を身ごもるが、男に捨てられ中絶せざるをえなくなる。

 高橋治の『絢爛たる影絵』では、次女役の有馬稲子の演技が拙いと繰り返し批判していたので、有馬が画面に出てくるたびに、気になって仕方がなかった。
 上手いとは思わないが、交際相手の大学生(田浦正巳)や、その他アプレ・ゲ―ル世代を演じる役者たちも、みんな負けず劣らず下手だったと思う。もっといえば、“東京物語”の大坂志郎にしたって、一日がかりで1シーンを撮り直しし続けたというわりには、出来上がった演技はそれほどのものではなかった。“お茶漬の味”の鶴田浩二もひどかった。

 そもそも、“東京暮色”の有馬の役は全体の中でそれほど重要なものではないので、あんなものでよかったのではないか。アプレ女の軽薄さは出ていた。
 欲を言えば、表面的には父親に反発しながらも、もう少し父の愛情に応えたい、本当は父に甘えたかったのだという演技をしていれば、最後に残された父の孤独はもっと深く感じられたと思う。
 そういう演技ができないのだったら、小津の側でそういう場面を作ってやればよかったではないか。ただし、小津は「説明」を極端に嫌ったというから、そんなシーンは考えられないのかも知れない。

 高橋治の本では、“東京暮色”の頃、小津は原節子に代わる主役級の女優を求めていたという。そこまでの女優としては有馬はとても無理だろう。
 有馬稲子はただのアプレ女にしか描かれていなかったが、笠智衆と原節子と山田五十鈴だけでも、“東京暮色”は十分である。

 途中、笠と妹の杉村春子が鰻屋で昼食をとる場面がある。
 この鰻屋の女中が、わが憧れの“戸田家の兄妹”に出てきた長女(吉川満子)の家の女中役の女優(氏名不詳)ではないかと思ったのだが、配役には「伊久美愛子」とある。
 しゃべり方(「はい」と言うだけだが)がそっくりである。芸名を変えた可能性もあるが、コマ落としで見ると、ちょっと違うようだ。

               

 ラスト近く、山田が新しい男と上野駅で夜汽車の座席に着くと、何両か向こうの見送り人の間から明治大学の応援歌“Oh! 明治”の合唱が始まる。明大生必見の映画である。

 * レンタルDVDのため、ケースの写真がないので、“東京暮色”のタイトルバック。

  2010/9/15

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高橋治 『幻のシンガポール』

2010年09月15日 | 本と雑誌
 
 ゼミの学生たちと夏合宿(?)で箱根に行って来た。12日(日)までは今年の猛暑が箱根にまで及んでおり、きのう14日からは一転して、霧が立ちのぼり夜半に大雨も降った今朝の箱根は肌寒いくらいだった。

 箱根湯本に向かう小田急線ロマンスカーで、高橋治の『幻のシンガポール』(文春文庫)を読んだ。
 戦争宣伝映画の製作を大本営から命じられ、撮影のためにシンガポールに滞在する小津安二郎を描いた小説である。
 先日読んだ文春文庫版の『絢爛たる影絵』の巻末に併載されたものである。本体(「絢爛たる影絵」)のほうは「小説」といえるか怪しいものだったが、こちら(『幻のシンガポール』)のほうは高橋が自ら体験していないだけ小説らしくなっている。
 どこまでが史実で、どこからが脚色なのか分からないけれど、「大本営」からの命令であることを盾に、現地の南方軍を煙に巻いて撮影をサボタージュするあたりは痛快である。

 この小説の冒頭に箱根が出てくる。シンガポールの心地よい「風」を描写するために。
小津はシンガポールで最高級のキャセイ・ホテルの一室に滞在するのだが、自室の窓辺に風鈴を吊るしている。
 その風鈴がシンガポールの風に揺られて音を鳴らすと、小津は、この風は、二等車で箱根に行って、ハイヤーで芦の湯の『きのくにや』という宿の3階の一番高い部屋をとって、ひと風呂浴びた後に涼んでいるときに吹いてくる風のようだと形容するのである(327頁)。
 箱根湯本駅から(ハイヤーではなく)箱根登山バスに乗って元箱根方面に向かうと、芦の湯バス停を過ぎるあたりの車窓から、まさにその『きのくにや』の野立ての看板が見えた。
 小津安二郎もこのあたりを歩き、このあたりの空気を吸ったのだろう。蒲田とも大船とも鎌倉とも無縁の場所で育ち生きてきたので、小津とのわずかな(唯一の)接点を通過した思いがした。

 もう一つ、この小説を読んでいて思い当ったことの一つは、“風の中の牝雞”の、田中絹代が階段から突き落とされるシーンについてである(こだわるけれど・・・)。
 シンガポール滞在中の小津は、イギリス軍から接収した物資の中に大量のアメリカ、イギリス映画フィルムを見つけて せっせと上映する。そのうちの1本、“風と共に去りぬ”に、主人公のビビアン・リーが階段から転げ落ちるシーンがある。
 小津はフィルムを丹念に調べて、スタントマンを使わないでビビアン・リー本人が転げ落ちていることを知って、感嘆する(377頁)。
 ジョン・フォード、ウィリアム・ワイラーらの日本未公開作品から多くを学んだ小津は、「これで戦後数年間はどうにかなるな」と述懐している。

 この部分を読んで、ぼくは、「“風の中の牝雞”で田中絹代が転げ落ちるシーンのもとはこれだな!」と思った。ぼくもあのシーンをコマ落としで何度も観たが、確かに田中絹代が必死の形相で転げ落ちてくる。
 ひょっとしたら、“風の中の~”というタイトルすら、“風と共に~”から来ているのではないだろうか。

 シンガポール、キャセイ・ホテルの風鈴を鳴らす風、“風と共に去りぬ”の風、そして“風の中の牝雞”の風、そしてきょうの肌寒いくらいの箱根の風・・・。みんな、どこかで繫っているのだろう。

 * きょうの箱根、芦の湯“きのくにや”の看板。箱根登山バスの車窓から。

 2010/9/15

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霧の軽井沢

2010年09月09日 | 軽井沢・千ヶ滝
 
 そして、今日の朝、朝食を済ませ、家の片づけを済ませてから、東京に帰ることになった。
 
 昨日は台風の影響で、夜半は大雨、日中も雨が降ったり止んだりの一日だった。今朝の軽井沢も最初は曇って、霧のような雨が降っていたが、9時近くには薄日も差してきた。

 例によって、帰りがけに、中軽井沢駅近くの佐久農協販売所に立ち寄る。
 女房から「シナノ・レッド」(というリンゴ)があったら買ってきてと言われていたのだが、もう出荷されていなかった。
 定番のトウモロコシ(「味来」という品種、成田成子さん生産)、モロッコいんげんなどを買う。モロッコいんげんは遠山よね子さんの生産。
 実は、わが家がこの佐久農協に「はまった」のは、数年前にたまたま立ち寄って買ったトウモロコシがめちゃくちゃ美味しかったからなのだが、その時のトウモロコシの生産者が、まさに遠山よね子さんだった。“遠山よね子”は、わが家では軽井沢を代表する「ブランド」なのである。
 遠山さんは、どんな人なのだろうか。意外と若かったりして。若いころの坪内美子(似)ということにしておこうか。

 今回の成田さん生産の味来もおいしかった。

 72ゴルフ場を過ぎて、碓氷軽井沢ICに向かう下り坂の中ごろから、にわかに霧が濃くなった。
 まったく視界がなくなるわけではないが、100メートルはない。幸いこんな午前中から東京に帰る下り(東京への「上り」)のクルマはなかったが、坂を登ってくるクルマが危ないので、50キロくらいでゆっくり走った。
 上信自動車道に入ると、もう霧はなく、下界も今日は覚悟していたほど暑くはなく、助かった。

 * 今日の午前中の軽井沢の霧にけむる木立ち。

 2010/9/9

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高橋治 『絢爛たる影絵 小津安二郎』

2010年09月09日 | 本と雑誌
 
 勉強目的で出かけた軽井沢のはずだったが、実は“カルメン 故郷に帰る”のDVDだけでなく、高橋治“絢爛たる影絵 小津安二郎”(文春文庫)も持っていったのである。
 万が一(?)、仕事に行き詰ったときの気分転換に、と思って。

 先日、小津の作品をDVDで見ている頃に、ふと近所の古本屋に久しぶりに立ち寄ったら、文庫の棚にこの本があった。262円、表紙に印刷された定価のちょうど半額だった。
 相当日に焼けていて、古本臭もしていたのだが、買ってしまった。
 今月の17日だかに岩波現代文庫で出る、定価は1300円くらいという広告が出ているが、貴田庄の本ではあまり好意的に引用してなかったので、大した本ではないだろう、1300円の本が262円なら、という気持ちだった。 

 ところが、軽井沢2日目の夜12時近くになって、寝る前にちょっとページを開いてみたら、引き込まれてやめられなくなってしまった。
 共感したからではない。違和感からである。
 昨日見て、何がいいのか分からなかった木下恵介“カルメン 故郷に帰る”を小津は高く評価し、試写会の後の酒席で「いい映画を見た後は酒がうまい」と言ったという。監督会でも、小津はいつも木下を隣りに座らせた。
 単純なぼくとしては、“二十四の瞳”なら分かるけれど、なんで“カルメン~”を見た後で酒がうまいのか。軽井沢が舞台で、草軽電車が出てこなかったら見ない映画である。

 高橋は東大を出て松竹に助監督として入社して、たまたま代役で“東京物語”の末席の助監督を務めたらしい。
 この本は、実際に高橋が交流した小津の姿と、小津の周辺の人物への取材からできている。でも、小津を語りながら、実際には高橋自身を語っているようにも読める。直木賞候補になったらしいが、小説らしくはない。

 だけど、やめられなくなってしまった。
 映画批評というのはああいう風にやるものなのか。ぼくがこの“豆豆研究室”に書いているものなど、あまりに表面的すぎて、われながら笑ってしまうような代物である。
 “東京物語”の原節子は「もう一人寝はできなくなりかけている女」だし、“晩春”の原節子はエレクトラ・コンプレックスを抱えた娘である。笠智衆との京都旅行の際の部屋に飾られた「壺」さえ性的な隠喩らしい。
 
 ぼくは東京に帰ってから、思わず“晩春”を見直してしまった。
 確かに、父親、笠を見すえる原の眼差しは怖いものがあった。問題の「壺」も言われてみればそう見えなくもない。でも、どちらかといえば男の象徴に見えてしまった。
 そんなことより、京都の清水寺(?)のシーンに、あの“一人息子”、“戸田家の兄妹”の坪内美子が出ていたことを発見したことのほうが嬉しかった。所詮は縁なき衆生なのだ。

 小津の「不貞」へのこだわりの指摘、“戸田家の兄妹”を境に、小津がノースター主義から豪華絢爛スター主義に“転向”したという指摘などは同感である。
 前にも書いたが、“風の中の牝雞”で佐野周二が田中絹代を階段から突き落とすシーンの凄まじさは、少なくともぼくが見た9本の小津作品の中では他にない衝撃だった。ただし、「不貞」にこだわるのには、小津の実生活において何かの事件があったのかについては、高橋も示唆を与えてはくれない。
 ぼくとしては、「転向」前の小津の映画のほうが好きだし、“晩春”“麦秋”“東京物語”など(「夏三部作」というそうだ)も、この本に書いてあるような深読みではなく、映像とストーリーを表面的、画面通りに見ているだけで十分である。
 作っている人たちは一生懸命なのかもしれないけれど、ぼくにとっては映画は娯楽であり、小津の映画には、懐かしいぼくの昭和と東京を追体験する媒体になってくれる映像やセリフの二つ三つ(五つ六つか)があれば、それでいいのである。

 でも、この本のおかげで、小津の同じ作品を繰り返し見る楽しみを得ることができた。

* 高橋治『絢爛たる影絵 小津安二郎』(文春文庫)。

 2010/9/9

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“カルメン 故郷に帰る”

2010年09月09日 | 映画
 
 本当は夕食後も“お勉強”の予定だったのだが、そして息子に模範を示さなければならなかったのだが、初日の夜は、木下恵介監督の“カルメン 故郷に帰る”のDVDを見てしまった。
 はじめから、見るつもりで持って来たのだが・・・。

 何といっても、“カルメン 故郷に帰る”は軽井沢が舞台である。どうせ見るなら軽井沢にいるときに見たい。しかも、この映画には懐かしの草軽電車が登場する。
 以前に買った“写真集 草軽電鉄の詩”(郷土出版社)に、「銀幕に登場する草軽電鉄」というコーナーがある(同書50頁以下)。
 そこには、“マダムと女房”(昭和6年)、“彼女はいやと言いました”(同8年)、“月はとっても青いから”(同32年)、“山鳩”(同34年)などと並んで、“カルメン 故郷に帰る”(同25年――と書いてあるが26年)も、草軽電鉄が登場する映画として紹介されていた。
 “カルメン ~”のDVDはアマゾンに中古品が安く出ていた(500円くらいだった)ので、買っておいたのである。

 なんとも不可思議な映画だった。
 ストーリーは、幼い頃に牛に蹴られたために頭が少しおかくなった娘(高峰秀子)が都会でストリッパーになり、仲間の女(小林トシ子)を連れて故郷の北軽井沢に帰ってきてから、再び東京に戻って行くまでのドタバタ劇を描いただけである。
 その冒頭シーンで、草軽電車が北軽井沢駅に到着し、あの客車から高峰秀子たちが降りてくるシーンがある。その後、草軽電車は一切登場しないが、ラストシーンで、再び北軽井沢駅を発車する草軽電車で高峰たちが去っていく。

 日本初の「総天然色」映画だそうだが、不自然なまでに鮮やかな浅間高原を背景に、高峰秀子たちが腿も露わにストリップの練習に踊りまくる。
 小学校の校庭では運動会の練習が行われ、体操着姿の教師(佐田啓二)がオルガンを引き、本番では盲目の元音楽教師(佐野周二)が作曲し自らオルガンで弾く暗いフォークダンス曲が流れる。
 村民たちは地元で初めて開かれるストリップ・ショーに興奮し、小学校の校長(笠智衆)がこの騒動を顰蹙する。
  
 笠智衆が演ずる校長が、「変わらないのは浅間山だけである」というセリフを吐くシーンがあった。まったく同感である。昭和30年代と比べても、軽井沢はあまりに変わってしまった。変わらないのは浅間山だけである。
 撮影された昭和25年の秋の光を浴びる浅間山と、その裾野に広がる浅間高原の風景だけが印象に残った。

 * “カルメン 故郷に帰る”(木下恵介監督、1951年。COSMO CONTENTS刊、“日本名作映画集60”)のケース。
 きのう平安堂書店に行ったら、「草軽鉄道」とかいうDVDが9800円(確か)で売られていた。草軽電車は懐かしいが、9800円はちょっと痛い。どの程度昭和30年代の旧軽井沢駅周辺の映像が写っているかによるのだが・・・。

 2010/9/9

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“かぎもとや” と “追分そば茶家”

2010年09月09日 | 軽井沢・千ヶ滝
 
 毎日、午前中は親子ともども勉強。
 昼食は外で食べ、夕食は自炊、夜はまた“お勉強”ということにした。

 9月7日は昼から中軽井沢駅に出かける。
 軽井沢の家には電話もネットの接続もない。ぼくは数日間でも、軽井沢滞在中はネットに煩わされない時間を確保したいが、息子はメールをチェックする必要があるという。
 軽井沢では、軽井沢駅、中軽井沢駅、町役場、軽井沢図書館など数カ所で、無料でインターネット接続のサービスが受けられる。

 そのため、中軽井沢駅の待合室に出かけた。
 この懐かしい駅舎もやがて取り壊されて、二階建てのビルになるという。先日、追分の古書店“追分コロニー”で聞いたところでは、駅舎の2階は図書館になるという。
 どうせなら駅名も“沓掛”に戻したらどうだろう。追分は軽井沢と差異化することで、かえって特色ある町になったように思うのだが、沓掛には追分ほどの独自色はないかもしれない。

 昼食は駅前の“かぎもとや”で天ざるを食べる。
 玄関をはいった左手に「十二月十二日」と書いた札が貼ってあった。12月12日は小津安二郎の誕生日にして、命日(還暦の誕生日に亡くなったという)である。
 帰りがけに店の人に聞くと、下から逆さに読むと「火に遠く・・・(後ははっきり聞きとれなかった)」とかで、火災除けのお呪いだそうだ。

 翌8日の昼食は、今度は追分の“追分そば茶家”で、天ぷらそば。
 この日は台風の影響で朝から雨が降り、寒かったので、温かい蕎麦にする。追分そば茶屋は、確かかぎもとやから分かれた店だったと記憶するが、どちらもおいしい。
 天ぷらはそば茶家がちょっと上、そばはかぎもとやがちょっと上、といった感じである。たいした食通でもないので、よくは分からないけど・・・。胡散臭い健康食品の宣伝ではないが、「あくまで個人の感想です」。

* 国道18号を中軽井沢から追分方面に向かう途中、借宿東の信号待ちの車窓から眺めた9月8日の浅間山。

 2010/9/8

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軽井沢プリンス・ショッピングプラザ

2010年09月09日 | 軽井沢・千ヶ滝
 
 9月6日(月)から、きょ99日(木)まで、おそらくこの夏最後の軽井沢に行ってきた。

 今回は上の息子と二人旅。
 あわてて出発したため、息子は衣類一式を入れたバッグを車に積み込むのを忘れてしまった。そのため、まずは軽井沢プリンス・ショッピングプラザに行って、衣類を買い込む。
 ちょうど3時から4時まで、アディダスで全品20%オフのタイムセールをやっていたので、ここでポロシャツ2枚とソックスを3足買う。

 ブリーフを売っているところがなくて困ったが、イーストの一番奥、ロイヤル・ベネトンの向かい側のコンビニ(こんなところにコンビニがあったっけ?)で、2枚パック735円で売っていた。
 軽井沢でブリーフを買うなんて、店員さんには、「ウンコかおしっこ漏らしたのかな・・・」とでも思われたのではないだろうか。

 今回のぼくの仕事は、今年上半期に公刊された家族法の判例20件を読んで、要約すること。昨年のこの時期にも、同じ仕事を抱えて軽井沢にやって来た。毎年、後期の授業が始まる前の年中行事になった。
 例年だと、半期で約30~50件弱の判例があるが、今回は少なめ。相変わらず、子の監護処分に関する事件が多い。親の離婚に巻き込まれた子どもたちの長期的予後が思いやられる。

 * 軽井沢プリンス・ショッピングプラザのイーストとウエストの間の芝生から眺めた軽井沢の秋空。ミサイルのような、イカのような形の雲が浮かんでいた。

 2010/9/7

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小津安二郎 “お茶漬の味”

2010年09月01日 | 映画
 
 3本セットで999円を3セット買ってきた小津安二郎の映画のDVDも残り1本になった。

 最後に残ったのは“お茶漬の味”。
 1952年、ぼくが2歳の年に作られた作品である。
 何で最後まで残ったかと言うと、木暮実千代が主役だったからである。木暮実千代ご本人にはとくに好悪の感情を持っていないのだが、木暮実千代と小津映画というのが、ぼくにはしっくりこないのである。

 しかし、もう9月。そろそろ後期の講義の準備や学会報告の予稿の執筆などをしなくてはならないので、8月中に形をつけてしまおうということで、ゆうべ見ることにした。

 恐れていた通り、佐分利信の女房を演ずる木暮の役回りは見ていて愉快ではなかった。大磯に住む金持ちの外務官僚の娘である木暮が、信州の田舎出身の技術屋、佐分利と見合い結婚するのだが、育ちの違いから二人の関係はうまくいかない。
 夫が急きょウルグアイに出張になるのだが、電報が行き違って、須磨に遊びに行った妻は見送りにも来ない。ところが、佐分利の乗った飛行機はエンジン不良で羽田に引き返し、夫はその夜遅く家に戻ってくる。

 そして有名な(?)夜中に夫婦がお茶漬けを食べるシーンになる・・・。

 しかし、こんなエピソードで仲直りできる程度の不仲ではなかったように描かれていた。木暮の高慢ぶりも不快だが、佐分利の態度もあいまいで、今なら離婚話になってもおかしくない。お茶漬け一杯で済む話ではなかったのではないか。
 小津は結婚しなかったから・・・と言いたくなる。

 戦後の風俗らしく、パチンコ屋、競輪、プロ野球が出てくるが、ぼくはパチンコや競輪が大嫌いである。何で小津はこんなものを描いたのだろう。これが朝鮮戦争特需で浮かれる当時の日本の姿だったのだろうか。
 そこにはもう“長屋紳士録”や“風の中の牝雞”の戦後はなくなっている。ぼくにはこっちの2本のほうがはるかに良かった。

 パチンコ屋は今とは違って台が10台くらいしかない個人営業である。そのパチンコ屋の主人が笠智衆で、女房役の望月優子がちょこっと出ていた。望月優子はぼくが通った西荻窪の神明中学校の近くの中央線の線路沿いに住んでいた。家と線路の間に菜園があって、そこで野菜を作る望月優子を見かけたこともあった。(駒沢球場の近くには笠置シズ子の家があり、彼女も家庭菜園で野菜を作っているのを見かけたことがある。)
 
 その他、佐分利が甥の鶴田浩二と待ち合わせるバーの女給役で北原三枝が出ていたし、雑誌『少年』の表紙でおなじみだった設楽幸嗣なども子役で出ていた。

 お茶漬けを食べるシーン以降は蛇足だと思ったが(115分と小津にしては結構長い)、最後に鶴田浩二と津島恵子が迎賓館の前の舗道をデートで歩くシーンが出てきたので許してやることにする。
 あのあたりは四谷の予備校時代に授業をさぼって歩き回った(当時の言葉でいえば「彷徨した」)懐かしい場所なので。
 
 何か他の物を見ないと、秋を迎えられそうもない。

 * 小津安二郎“お茶漬の味”(1952年。日本名作映画集23[Cosmo Contents])のケース。

 2010/9/1

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